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日本映画史における伊丹十三の評価を確定することの困難さについて

 蓮實重彦の映画批評は、原理的に、そもそも分析の対象として俎上に乗せることすらできないものをはらんでいる。……しかし、私の知る限り、このことを指摘した論者は今のところ存在しない。
 蓮實重彦の映画批評が原理的に内在させるとある欠陥が特に言及されることもせずにきたことには、蓮實の映画批評と文芸批評とを相互に参照する読者が極めて少ないことに原因があるように、私には思える。なるほど、蓮實の映画批評と文芸批評とはそれぞれが多大な影響力を持つに至ったが、映画批評を読む者は文芸批評家としての蓮實を知らず、文芸批評を読む者は映画批評家としての蓮實を知らず、結果としてその全体像はほとんど知られない(しかし、蓮實の全体像を総括するようなことを迂闊に口にするような者自体は非常に多い)ということがまかり通ってきたように思えるのだ。
 文芸批評家としての蓮實重彦の主著から文学史に関する態度を取りだしてきたとき、一つの明確なことがある。……それはすなわち、蓮實重彦という人物には、ある一時期以降の日本映画史を論じることが本質的に不可能である、ということだ。


 蓮實自身が、『「ボヴァリー夫人」論』と並んで自身の主著と見なす書物として、『凡庸な芸術家の肖像』がある。蓮實自身の述懐によれば『「ボヴァリー夫人」論』を準備する過程での副産物として生まれてきたというこの書物は、『ボヴァリー夫人』の作者たるギュスターヴ・フローベールではなく、その才能を欠く友人としてのみ文学史に記憶されてきたマクシム・デュ・カンの人物像を中心に据えたものになっている。
 『凡庸な芸術家の肖像』において蓮實がフローベールよりもデュ・カンの方をこそ中心的に論じるのは、なにもデュ・カンの才能が過小評価されているからではない。見過ごされて埋もれてきた隠れた才能を発掘するなどということに蓮實の取り組む問題があるのではなく、むしろ、相対的に才能を持つ作家を記憶しそうではない作家を忘却することによって成立する文学史という制度そのものをこそ問題にしているのである。
 フローベールとデュ・カンとの間には、明確な才能な優劣がある。そのこと自体は覆しようもないことなのだが、しかし、両者が同時代的に共有した社会的な時代背景は、明確に両者が共有するものである。才能の落差のみに注目して才能あふれる作家のみを称揚することによって見落とされることになるのが、フランスの第二帝政期の状況であるということなのだろう。……そして、蓮實は、第二帝政期に成立した諸々の文化・制度の類は、本質的に現代に至るまで地続きのものだと見なしてもいる。
 フローベールを称揚しデュ・カンを忘れる、ときにデュ・カンを思い起こすことがあっても侮蔑と罵倒の言葉のみを投げかけるような言説のあり方について、蓮實は次のように書いている。


マクシムの記念すべき写真集を手にしたとき、だから彼は、「写真家が勲章をもらうご時世ですから」と皮肉まじりに慨嘆するばかりだ。そして、後生の文学史的な言説の多くのものも、このギュスターヴの慨嘆に同調しながら、マクシムの浅薄さ、名誉欲、功利主義的傾向を嘲笑するのが普通である。事実、マクシムはいかなる文学的な業績も残さなかったではないかと彼らは宣言する。だが、二十世紀のわれわれに必要とされるのは、いわゆる傑作と傑作の頂点を結びあわせながら、それにはさまれた谷間に棲息する無数の失敗者たちをときに応じて無視したり、再評価したりすることではなく、彼らがともに同じ一つの文化的な環境を生きつつあった事実を確認した上で、その環境が性質も才能も異るだろうあまたの存在どもをどんなふうに分節化していったか、またその分節化がいかなる物語として語りつがれることになったかを見きわめることにある。「歴史」とは、この物語の説話論的な磁力を身をもって生き、その分節化作用がどこまで波及し、かつまたどの点以上には波及しえないかを物語自身に語らせようとするもっぱら説話論的な体験なのだ。(『凡庸な芸術家の肖像』、講談社文芸文庫版、上巻p182)


 相対的な才能の優位を持つ者のみを特権かし称揚する言説によって取りこぼされた「無数の失敗者たち」は、単に評価されないのみならず、特権的な才能の持ち主の周囲を巡る物語を語る際には、その語りにとって都合のよいように実態をゆがめられさえする。……そのようなことについて、蓮實は次のようにも書いている。


 おそらく人は、ここでマクシムの功利主義的な人格を語りたい誘惑をおぼえるかもしれない。写真によって「知」の領域拡大に貢献し、同時にそのことで自分の地位を特権化したいと目論む功利主義者マクシム。すでに、ボードレールが彼に捧げた詩篇「旅」に触れつつそうした点を指摘しておいたように、マクシムの側にある種の有効性信仰があったことは間違いのない事実である。それが詩集『現代の歌』の主旋律をかたちづくっていたことも見たとおりだし、また、そんな心的傾向が誇張されて解釈され、後生のマクシム像が必要以上にゆがめられてしまったことも事実である。エジプトの砂漠に無心の視線を注ぐギュスターヴのかたわらに、小心翼々たる写真家マクシムを配し、名誉欲ともまったく無縁ではなかろうその有効性信仰を醜悪なものと断ずるというのが、伝統的なマクシムの肖像なのである。実務的な能力にたけ、何でも計画ずくでやってのけるが、そのぬけめのなさにみあったぶんだけ作家としての繊細さを欠き、結局は何一つ文学史に残る作品を書きえなかったと誰もが思っているマクシム。勘定高く写真機など持ち歩いたりせず、もっぱら視線に徹しきった同行者ギュスターヴは、この中近東旅行を想像力の実験室として生き、帰国後に、文学史に残る傑作小説の執筆にとりかかろうとしている。だが、マクシムが持ち帰ったものはといえば、一冊の写真のアルバムだけではないか。(同、上巻p177~178)


 マクシム・デュ・カンに文学的な才能などというものがない、ましてやフローベールに勝ることなどありえないというのは、単に当たり前の事実である。しかし、フローベールを特権化する言説によって実態以上におとしめられたほどまでに、積極的に悪いものであったというわけでもない。
 ……しかし、ならば、文学的な才能がないこと自体は明らかなデュ・カンはなぜそれでもなお文学に携わることを続けたのか。そのことについては、蓮實は次のように書く。


詩人として生まれたわけでもなければ小説的才能に恵まれてもいないのに文学を愛することを教えこまれてしまった人間が、いくつかの不毛な試みののちにその才能の欠如に気づき、にもかかわらず書くことを放棄しきれなかったことの悲劇が、いま、マクシムによって演じられ始めているのである。その歴史的な悲惨さがわれわれを感動させる。(同、下巻p29、ルビは省略)


何も書くことができなくなったとき、さらに書き続けるために残された唯一の途は、何も書きえないというそのことじたいを書くことでしかないだろう。そうでなければ、黙る以外にない。にもかかわらず人に黙ることを選ばせず書くことへと向かわせるとき、文学はあからさまに政治的となる。文学にとどまらず、あらゆる言説は、というべきかもしれないが、その事実を、われわれは百年かかってもいまだに体得しえずにいる。誰も、凡庸なマクシムを笑う自由など持ってはいない。実際、これまでマクシムを嘲笑してきた連中は、等しく彼と同程度に凡庸な人間ばかりである。(同、下巻p30)


 ……以上のような議論を現在の視点から改めて検討してみると、ここでの蓮實は、明確に嘘をついている。蓮實は、デュ・カンのごとき人物の「歴史的な悲惨さ」に「感動させ」られてなどいはしない。むしろ蓮實は、「誰も」持ってはいないはずの、「凡庸なマクシムを笑う自由」を存分に行使してすらいる。ただし、「百年かかってもいまだに体得しえずにいる」という言葉に自分自身を含める限りにおいて、「彼と同程度に凡庸な人間」の範疇に蓮實自身をも含むのだというのならば、蓮實の言明は適切なものであるのだと言える。
 そのことは、蓮實による文学史という制度への取り組みを、日本の映画史へと適用してみることで明らかになる。


 映画史を検討する際に一つの重要な転換点となるのが、撮影所システムが崩壊する時点である。
 資本主義的な商品として映画が定期的かつ大量生産されることが可能になるためには、映画会社が撮影所を保持することが重要となる。そして、撮影所の内部でコンスタントに映画が製作され続けるためには、様々な役割を担う撮影スタッフのそれぞれが、自分の役割に求められるプロフェッショナルとしての高度な技術を持ち寄ることもまた必要になる。
 しかし、それは逆に言えば、撮影なり音響なり美術なり演技なり脚本なりに関わるそれぞれのスタッフが、自分の役割を越えることまで深く考える必要もなく、映画の成立や自分の職分を自明視することができ、映画の製作そのものの困難な状況に投げ出されることもない、ということでもある。
 とりわけハリウッドにおいて撮影所システムが確立したことによって映画の内容にも影響が及び、映画が物語をつづるに際しての古典的な文法が確立することにもなった。……そして、時を経て撮影所システムが崩壊することになると、当然ながらそのことは映画の内容にも変容をもたらすことになったのだった(このあたりの事情については、もちろん蓮實自身も、『ハリウッド映画史講義』において詳細に論じている)。
 映画を大量生産し大量消費されることが可能になった場所であれば、ハリウッドでなくとも撮影所システムは成立してきたし、その崩壊に関する事情には多かれ少なかれ共通点がある。もちろん日本の事情もまた例外ではないのだが、しかし、日本の撮影所システムの崩壊に関しては、ポルノ映画ややくざ映画によってなんとかその崩壊を先送りにしてきたという事情がある。
 TVの台頭などによって映画を定期的に大量消費する需要が激減する中で、性や暴力を売り物にすることによって産業の延命をはかるということ自体は、それなりにわかりやすい話ではあるだろう。製作者の側からしても、ポルノ映画なりやくざ映画なりに求められる扇情性を保っていれば、それ以外の内容についてはある程度の自由を保障される体制を進んで受け入れる人々も一定数存在していたわけだ。
 そして、そのような撮影所システムの延命措置すら崩壊したさらにその後で映画業界に足を踏み入れることになったのが、例えば黒沢清なのであった。……ならば、黒沢は、どのようにして映画を製作してきたのか……自身の映画批評などをまとめた著作『映像のカリスマ』の「読者への挑戦」と題された序文において、黒沢は次のように書いている。


 さて、学生時代から始まり、十数年の歳月を経て書き溜められた短い物語の数々が、ここにこうして一同に並べられた。語彙の貧しさと見聞の浅薄さはいかんともしがたい。あからさまな矛盾が大手を振ってのし歩いている。にもかかわらず……ここからが重要だ……物語は作者の思いなどはるかに越えたところで、時としてとんでもない芸当を演じてみせる。一読し終わって、私は心底慄然となった。とりとめもなく書き綴られてきたこのいい加減な物語の中に、それらすべてを貫いて見え隠れする恐るべき陰謀と、それを周到に企てた真犯人の存在とが、忽然と浮かび上がってきたのだ。こんなことがあるだろうか。私自身、知らず知らずその真犯人に操られ、世紀の陰謀に加担させられていたのだろうか。しかし、間違いなく文章のはしばしにその痕跡が書き込まれているのである。(『映像のカリスマ 増補改訂版』、p3)


 この「真犯人」なるものが何者なのかについては、後に、黒沢自身が種明かしをしている。蓮實重彦との対談において、真犯人は蓮實重彦であるのだと黒沢自身が述べているのだ(その対談は、蓮實の対談集『映画に目が眩んで 口語篇』に所収)。
 ……もちろん、ここでの黒沢の自己認識は決定的に正しい。黒沢清という映画作家は、自分がどのような立場で日本の映画史に関わっているのかを、明晰に自覚している。……しかし、黒沢はそこに問題があるとは考えてはいないようであり、私にはこの態度はほとんど居直りのごときものとして感じられるのだ。
 撮影所システムが崩壊した後の状況に置いては、映画を製作することを自明視することなどできない。だからこそ、世界中で多くの映画作家が、そもそも映画を製作しようとすることそのものの時点から始まる苦闘を強いられてきたわけだ。しかし、少なくとも、映画を製作するにあたって、映画が存在することそれ自体は決して疑わずにすむ方法なら存在する。……それは、例えば、「蓮實重彦の影響を受けたシネフィルになること」である。
 TVのようなメディアも存在しない時代に、日常生活の中で定期的に映画を消費する観客に商品を届けたのが撮影所システムであるならば、シネフィルとは、その時期の観客とは全く異なるあり方をする観客になっている。膨大な量の映画を消費し続けることによって、映画の消費に関して選ばれた存在だとまで自任しうる一握りの観客が、最低限の価値判断を共有する趣味の共同体を形成する。そのような趣味の共同体の内部にいれば、映画の存在意義を根本的に疑うことなどは起こらず、(ほとんどフィクションとして)映画の自明性は固定されることになるだろう。


 あるとき、蓮實重彦は、「黒沢清の『カリスマ』または植物的な暴力について」という短い文章を書いたことがある(『映画狂人、神出鬼没』所収)。黒沢清の『カリスマ』を論じた短文に関してむしろ私が呆れたのは、蓮實門下の映画研究者が、蓮實の文章のキレのなさ、その弛緩したありさまに驚いたことを表明している文章を別のところで読んだときのことだった。
 この文章における蓮實重彦は、黒沢清の映画の特徴として「およそ時間の厚みを欠いたぶっきらぼうな空間」というものを挙げ、『カリスマ』の空間的な特徴とそれにまつわる演出面の問題ばかりを集中的に取り上げている。……これはもちろん、「黒沢清の映画を、時間性とそれに関わる脚本の面で論じたら救いようがない」ということでもある。
 なるほど、『カリスマ』における黒沢の演出は、黒沢の多くの作品におけるのと同じく、非常に優れたものであることは疑いようがない。しかし一方で、日本を代表する映画監督が、日本の戦後史を総括するような脚本を自ら執筆するに際して、似たような題材を先行して扱った日本文学に関しては全く無知であるとともに無頓着であることを露呈してしまっているのである。
 有り体に言ってしまえば、『カリスマ』の脚本を書いた時点での黒沢が『万延元年のフットボール』も『地の果て 至上の時』も読んでいなかったことは明らかだし、読んでいないからこそ、それらの作品と類似しつつもはるかに下回ったテーマを扱った脚本を、およそ幼稚な水準で展開していることは明らかだ。
 極めて高度な演出と幼稚な脚本とがアンバランスに同居する作品に対する蓮實の歯切れの悪い態度は、「擁護」と言うよりは、むしろ「保護」と言う方が適切なものなのではなかろうか。おそらく蓮實は、そのようなチグハグさの責任の一端が自分にあることなど、百も承知なのだろう。
 「シネフィルであること」という保護膜によって、黒沢清を始めとする多くの(演出家としての才能を欠いているわけではない)映画作家が、映画の自明性を全く疑わずにそのキャリアを築くことができた。黒沢を含め、彼らの多くが性や暴力を搾取し利用する映画に携わることでそのキャリアを始めたことは、偶然ではない。たとえ表面上で語られていることがポルノややくざであろうとも、映画の演出の価値は、それらの単純な内容とは別の面に見いだすことができるからである。
 もちろん、「シネフィルであること」によって撮影所システム崩壊後の状況を生き延びたのは、彼らが最初ではない。ヌーヴェルヴァーグこそが、初めてシネフィルになった人々である。しかし彼らは、いつまでもその立場に固執することはなかった……やがて、彼らの共同体は解体された。その後のゴダールにせよ、あるいは、それとはまた異なるギリシャの状況でのアンゲロプロスにせよ、映画の自明性を前提することなどできず、映画以外の様々な芸術なり文学なり思想なり哲学なり歴史なりを不断に学び続けることによって、かろうじて映画の継続的な製作を可能にしてきたわけだ。
 そのような厳しさ、困難な状況を回避する保護膜を後進のために形成しつつも、自分がしていることが何であるのかを明らかにすることもなく、演出とは別の側面で露呈してしまう無惨な有様をも、密かに保護し隠蔽を計ってきたこと……これは、映画批評家としての蓮實重彦の罪の一つであるだろう。
 蓮實重彦の映画批評は、「撮影所システム崩壊後の日本映画史」を分析の対象とすることは、原理的にできない。……私がそのように考えるのは、「蓮實重彦の映画批評」それ自体が、(少なくとも作り手の側の水準で)「撮影所システム崩壊後の日本映画史」に多大な影響を及ぼす要素の一つとなってしまっているからだ。
 しかし、蓮實が日本映画史との関連の中で犯したさらに大きな罪は、別のところにある。そして、そこで犯された罪があったということ自体が、依然として認識すらされていないように私には思えるのだ。


 撮影所システム崩壊後の日本映画は、ポルノ映画ややくざ映画によって性や暴力を利用し収奪することで、なんとか継続的な製作体制を延命させてきた。
 そのような状況下の日本映画で、性や暴力の収奪に荷担せず、なおかつ商業的にペイすることによって定期的な映画製作を自覚的に継続させることに成功したという、極めて例外的な映画作家が、私の知る限りただ一人だけ存在する。
 このようなことは、完成した映画作品の内容を云々するのとはまた別の水準で、日本映画史の映画製作体制の変遷を確認する上で非常に重要なことである。にもかかわらず、その映画作家は、日本映画史上での重要な存在としての意義を与えることすら不当に看過されてきた。
 なぜそのようなことが起きたのかと言えば、ここには、明確な理由がある。……その映画作家は、シネフィルたちの趣味の共同体の総帥から、実質的な破門宣告を受け放逐された存在であったのだ。


 映画製作の側に携わる人間として蓮實重彦の映画批評の多大な影響を受けたことを公言した初期の人物に、伊丹十三がいる。しかし、すでに著名な俳優であった伊丹が監督業に進出した最初の作品『お葬式』の試写において、感想を尋ねられた蓮實は「最低です」とだけ述べ、以後両者の交流は完全に途絶えたようだ。
 伊丹十三が、例えば、直接的な関わりを持つことになった後進の黒沢清と比較して、映画作家としての演出能力が完全に劣っていることは、否定しようのない事実である。……とはいえ、私の知る限り、伊丹の映画作品は必要以上に貶められ続けてきている。
 蓮實重彦が「具体的に論じるまでもなく全否定する」という身振りを見せたことを模倣してのことだろうか、多くの日本のシネフィルは、伊丹の映画を口を極めて罵ってきた。……しかし、私がこれまで見聞してきた限りでは、伊丹の映画のどのような部分の演出がどうまずいのかを具体的に指摘したようなものは皆無なのであった。つまり、伊丹十三の映画とは、「分析するまでもなく全否定してよいもの」として、少なくともシネフィルの共同体の中ではしばしば扱われてきたのである。
 だが、私自身の評価としては……少なくとも、映画製作の体制が本格的に崩壊し技術者が離散しつつあるような日本映画が続々ととんでもない代物を生産し続けた後の時点から改めて伊丹の映画を見返してみると、「真面目にちゃんと撮ってるなあ」「少なくとも映画を映画として撮ろうとしてるなあ」という感慨を抱くようなものにはなりえている。……これは、言い換えれば、優れた映画作家の高度な演出には及ぶべくもないものの、「積極的に悪いもの」として全否定されるまでのものとは到底思えないということだ。
 蓮實重彦という個人が、伊丹十三の映画に醜悪な印象を受けたであろうということは想像できる。自身の映画批評の熱心な読者であることを公言している人物の演出を実際に見てみれば、自分の映画批評を理解していない部分、誤読している部分、浅薄に取り違えてしまっている部分はいくらでも見つかるだろう。
 それは、まぎれもなくグロテスクな体験のはずである。しかし同時に、作品の客観的な評価とは関係のない、あくまでも蓮實個人の主観的な体験にすぎないことでもある。
 そういう意味では、伊丹十三と蓮實重彦との絶縁の瞬間こそが、撮影所システム崩壊後の日本映画史の一つの重要な転換点であったのだ。最初の監督作品の段階で、シネフィルの共同体の保護膜の内に入ることを拒絶された伊丹は、何ものにも頼らずに映画製作を継続しうる体制の模索に向かった。一方の蓮實は、この時点の段階で、その後の日本映画史を客観的に論じうる立場を自ら放棄したのだ。……そして、伊丹十三の日本映画史上の功績を適切に評価できない歪んだ磁場は、依然として呪いのように残存してしまっているのである。


 改めて、『凡庸な芸術家の肖像』における、蓮實の文学史に関する態度を確認してみよう。


たとえば『現代の歌』の「序文」を書き綴るマクシムは、そうした反=制度的な存在の一人である。少なくとも彼には、文学がもはや才能の問題ではなく、制度的な現象だという点を見極めうる程度には、聡明だったのである。いま、彼の青春の挫折感とともに始まった仮装と失望の時代の構造に注ぐべき視野をそなえているマクシムには、その体系と機能とを記述することが可能だし、そうした環境のもとで演ずべき文学好きの人間の役割がどんなものかをも心得ている。ところがギュスターヴは、そんなことなど想像だにしていない。しかし、それは彼がマクシムよりも聡明さにおいて劣っているからではない。彼は、いま進行しつつある世界の変容に対して、絶対的に誤った視野しか持ちえない。つまり、彼は愚鈍さそのものなのだ。ちょっと軌道を修正すれば相対的な聡明さの域に達するといった知識の欠如とは違った愚かさの中に彼は暮しているのであり、より豊富な知識による教育の試みは決って失敗するしかないだろう。そのかたわらで聡明な身振りを演じてみても、何ら有効な効果を期待しえないはずだ。つまり、いかなる方法も、いかなる実践ももっぱら無効であるしかないような存在こそが愚鈍さなのである。そして、マクシムの聡明さの限界とは、そうした徹底した愚鈍さが世界に存在しうることだけはどうしても理解しえなかった点に存している。目の前に、ギュスターヴと呼ばれる典型的な愚鈍さを見ていながら、その絶対的な現象を相対的な視点でしか捉えることができなかったのである。
 もっとも、その事実をもって、マクシムを非難するのは正しくない。徹底した愚鈍さを前にした場合、われわれは誰だってマクシムのように行動するだろう。三十歳にもなっているんだから、もういい加減にその程度のことは解ってもらわなければ困る。私自身もまた、そうつぶやいてギュスターヴからそっと顔をそむけてしまうに違いない。(同、上巻p228~229)



 ……言うまでもなく、「われわれは誰だってマクシムのように行動するだろう」と述べる蓮實は、嘘をついている。蓮實自身が日本映画の文脈でしたことは、「ギュスターヴからそっと顔をそむけてしまう」などということとは、まさに正反対のことだ。蓮實は、相対的に優れた才能を持つ作家を擁護するために不都合な部分を隠蔽し、なおかつ、聡明であるがゆえの凡庸さに収まる作家を侮蔑し、その評価が必要以上に歪められることに、(自ら手を下しまではしないものの)荷担してきたのである。
 蓮實重彦がしていることとは、デュ・カンへの悪罵を拡大しフローベールの才能を特権化することによって既存の文学史の制度を固定する凡庸な文学史家のなす凡庸な行為と、正確に同一のことなのである。


 公平を期して付言するならば、黒沢清自身は、プロデューサーとしての伊丹十三のあり方についてしばしば注意を促しつつ、伊丹の作品そのものについても正確に評価しなければならないことをこれまで何度も強調してきている。
 それからまた、もともとこの文章は、廣瀬純が『シネマの大義』で提起した「マルクス主義的表層批評」という概念の実態を探ろうとする過程での考えをまとめたものだ。
 しかし、映画史の条件となる製作体制に対する唯物論的視点を導入することによって明らかになるのは、映画を継続的に製作するということが、優秀な商品の完成によって初めて可能となるという、当たり前の事実だ。
 例えば伊丹十三という映画作家は、映画史的な状況に対する自覚を前提にして製作を続けていたわけだが、それはもちろん、資本主義を補完するということでもある。その点に関しては、商品としては相対的に劣りながら作品としては相対的に優れている黒沢清も同様である。あるいは、清順闘争には協力した蓮實重彦も、鈴木清順が映画を満足に製作できさえすれば文句がないことをも公言していたことなども、同様の状況であろう。
 にもかかわらず、作品の画面に映っているものだけを取りだして「マルクス主義的である」「反資本主義的である」と本当に言うことができるのか、私には疑わしく思える。「作品」の観点と「商品」の観点とは、そうたやすく別問題として切り離せない、入り組んだ問題なのではないだろうか。






映画『ジャスティスリーグ』を見たら、とりあえずスーパーマンは完全無欠の本物だった

 映画『ジャスティスリーグ』を見てきました。とりあえず、感想を一言で言ってしまうと、「DCコミックスのファンとして怒るようなところは特になく、とりわけスーパーマンの描写は完璧なものだったのだが、一本の映画として全体を通して見ると特に面白いわけでもない」ということになるでしょうか。
 もともと、この映画に関して、『マン・オヴ・スティール』と『バットマンVSスーパーマン』に続いてザック・スナイダーが監督を務めていたのが途中から離脱し、ジョス・ウィードンが仕事を引き継いで作品を完成させたということは既に色々なところで報じられていました。……そして、完成させた映画を見た結果として思ったのは、「ザック・スナイダーの離脱後にジョス・ウィードンやジェフ・ジョンズなんかが作り直したところはほとんどスーパーマン関連のところだけに限られてて、作品の大半はザック・スナイダーが作った素材をそのまま使ってるのでは?」ということでした。
 これは、言い換えてみれば、DCコミックスの読者がブチキレるような原作の使い方が全部削られていることを除けば、ザック・スナイダーの映画としての根本はあんまり変化してないのでは、ということです(逆に、DCファンがブチキレる描写を必ず盛り込んできてこそのザック・スナイダーによるDC映画なのだとも言えるのかもしれませんが……)。そういう意味では、終盤で製作現場から離脱してもクレジット上ではあくまでもザック・スナイダーの監督になっているということは、明確な理由があることのように私には思えました。


 さて、今回の映画『ジャスティスリーグ』、DCコミックスの擁する有名ヒーローたちが一致団結してチームを作り巨悪を打倒するまでを描いているわけですが、いかんせん、これまでワーナーが製作してきたDC映画を事前にかなり見ていないと話の設定がよくわからないような複雑な部分が多く、お祭り的に気軽にこの映画から見ていけるようなものになってはいないと思います。
 ……で、それぞれが全く異なる世界観の元で活躍するキャラクターたちを統合する過程で、それぞれの世界観がごちゃごちゃに融合してごった煮状態になり、話の前提についていくのにすらかなり骨が折れ、にもかかわらず、かなりの労力を割いて複雑な設定を全て飲み込んで話についていったところで、いざ全てが終わってみると、全体として大したことが語られていたわけでもなかった……という、DCコミックスの巨大クロスオーヴァーが全体的にダメだったときの感じが、『バットマンVSスーパーマン』に続いてこの映画でも実現されてしまっているのでした(……とはいえ、こういう失敗は、DCのみならずマーヴルもよくやってはいますが)。
 私自身は、そういう虚無感・虚脱感を「悪い意味でのDCらしさ」として楽しむこともできるのですが、別にそれを人に勧めようとは思わないのであります。
 たしかに、ザック・スナイダーがこれまで手がけてきた『マン・オヴ・スティール』や『バットマンVSスーパーマン』に比べると、この『ジャスティスリーグ』ははっきりと「明るい映画」になりえています。しかし、これはザック・スナイダーの降板によって事後的に根本的に作り替えられた結果ではなく、もともとそういう製作方針だったということのようです。
 現にと言うか、例えばフラッシュことバリー・アレンなんかは非常にコミカルな役割を与えられてはいますが、そういう類の描写の中には、コミックへのオマージュと思えるようなものは特にないのです。……これはまあ、要するに、今回のリーグにグリーンランタン枠がないもんだから、アホの子ポジションのしわ寄せがバリーに行っていると言うだけのことなんだと思います。
 つまり、全体としては、『ジャスティスリーグ』の「明るさ」なるものは、ザック・スナイダーがそうやれと言われてしぶしぶ方針転換したらこれくらいのものになるんだろうな~と思えるほどのものでしかありませんでした。……しかし、ことスーパーマンの描写に関しては、とてつもなくコミックに忠実に、すさまじい水準で達成されているのでした。


 映画『ジャスティスリーグ』の全体としての作りの緩さ、盛り込まれた諸々の設定が錯綜しっぱなしでひたすら混沌とした有様は、『バットマンVSスーパーマン』から少しテイストを変えてみただけ、というもののように思えます。……しかし、DCコミックスの読者として言わせてもらいますと、スーパーマンの描写に関してだけは、この映画の他の部分との間にはっきりとした断絶があるようにしか思えないのです。
 これはつまり、ザック・スナイダーが降板した後でジェフ・ジョンズやジョス・ウィードンが自分たちにできる限られた範疇の内でやったことは、「とにかくスーパーマンの描写のみに全振りして全身全霊を尽くす」ということだったのではないでしょうか。
 ……いや本当に、この映画、スーパーマンの描写だけは神業です。おそらく、もともとスーパーマンの出番はそれほど多くなかったような感じですから、これに関してだけは、ザック・スナイダーのやったことはほとんど痕跡が残っていない感じなのではないでしょうか。例えば、作品の終盤、『バットマンVSスーパーマン』での死からの復活なったスーパーマンが、ジャスティスリーグが展開中の最終決戦に途中から合流する場面。スーパーマンは明確に役割を振られるのですが、一般市民が巻き込まれていることを確認するやいなや、自分の役割はとりあえず無視して、即座に救出にすっ飛んでいきます。
 これは、ザック・スナイダーが決して描くことがなかったことです。一方で、ジョス・ウィードンはこのような場面を繰り返し描いてきたのですから、付け加えられている場面があるのだとすれば、ここだということになるのでしょう(そういう意味では……中盤で、人質を取った敵との闘いの渦中で、リーグの主力が人質を無視して先頭に突入する場面があってアレッとなったのですが、ヒーロー活動の経験がほとんどなく何をしたらいいのかわからないフラッシュに対してバットマンが「一人でいいから救え」と諭すという場面。あれなんかも、追加撮影によって場面の意味を変えたところということなのではないかと思いました。また、冒頭近くでワンダーウーマンがテロリストから一般市民を救出する場面なんかも、単独映画での成功を受けてのものということになるのでしょうか)。
 スーパーマンとフラッシュの二人だけが画面に映ると、その瞬間、空気はシルヴァーエイジのものになる……そのことが実現できただけでも、ジャスティスリーグを実写化する意味はとりあえずあったのだとは思えます。しかし、この映画で私が最も心を打たれたピークは、一番最初の短い場面であるのでした。
 子供のインタヴューを注意深く聞き、言葉を選んで真剣に答えるスーパーマンの姿……まあ、この場面の脚本を書いているのは、間違いなくジェフ・ジョンズでしょう。そして、脚本以前の問題として、ヘンリー・カヴィル、ちゃんとスーパーマンできるんじゃ~ん! ということに驚きました。これはやっぱり、今までヘンリー・カヴィルがスーパーマンを演じてきたときは、演出する側が悪かったということになってしまうでしょう。
 大して予算もかかっていないであろうごく短い場面に、「DCコミックスとは、これなんだよ」という強い意志がこめられているように思えました。少なくとも私にとっては、それ以降の全ての場面を合わせたよりも、冒頭の場面の方が重いです。
 しかし……長期間を割いて散々な労力を払った結果、完全に自分のやりたいことを実現できているのが、あのごく短い部分だけなのだとしたら……ジェフ・ジョンズ、やっぱもうコミックの現場に戻った方がいいよ、という感想も否めないのではありました。







アメコミ読者としてのアイデンティティ・クライシスを迎えました

 ここしばらくの間、アメコミに関して私としては大変に悪い意味でショッキングな事態がいくつも立て続けに発生し、アメコミ読者としてのアイデンティティ・クライシスを迎えました。
 具体的には、それは以下のようなことです。


 ①『シークレット・エンパイア』終盤から『レガシー』にかけての展開


 ②『ダークナイツ:メタル』における、グラント・モリスン担当期のバットマン設定の復活


 ③ブライアン・マイケル・ベンディス、DCコミックス移籍


 ………………もうダメだ………………
 現在、心が折れそうな状態に陥っている私が直面している最大の問題は、もちろん、「『ドゥームズデイ・クロック』1号と映画『ジャスティスリーグ』の、どちらに先に触れるべきか」ということなのであります。
 『ドゥームズデイ・クロック』を1号読むだけでもある程度は必ず救われるであろうことは確信している一方で、映画『ジャスティスリーグ』に関しては、私は全く信用していません。……つまり、「『ドゥームズデイ・クロック』で一息つく → 覚悟を決めてから映画『ジャスティスリーグ』に向かう」というルートをたどるべきなのか、それとも、「映画『ジャスティスリーグ』を見て、とりあえず色々なものを飲み込む → 最後の最後に『ドゥームズデイ・クロック』を読む」というルートをたどるべきなのか。
 これはまさに、死活問題です。前者のルートだと、最後の反動がデカかった場合、もう二度と立ち直れない可能性すらあるような気すらします。一方で、後者の場合、『ドゥームズデイ・クロック』にたどり着く以前に、映画の方がラストストローになりかねない気が……
 それにしても、この夏から秋にかけて、アメコミ業界においていったい何が起きたというのでしょうか。


 ①『シークレット・エンパイア』終盤から『レガシー』にかけての展開


 最後まで完結してから振り返ってみたとき、『シークレット・エンパイア』が全体として非常に優れた作品であったことは疑いようがありません。
 しかし……私としては……『シークレット・エンパイア』の終盤が展開している間に、既にイヴェント終了後の『レガシー』の展開が予告されていたことによって、そちらの方で狼狽し続けることによって、『シークレット・エンパイア』の本筋の方が全然頭に入ってこない状態になっていました。
 『シークレット・エンパイア』の終了直後に発表されるワンショット『レガシー』によって、マーヴル・ユニヴァースの設定はいったん整理され、マーヴル・コミックスの歴史的な遺産を重視する体制になり、新たなタイトルやクリエイターも順次発表されていく……その新たな姿が明らかになりつつある中で、私としては、どうしても気になるところがあったのです。
 ……………………え? あれ? Dマンどこ?
 ……………………え? あれ? Dマンどこ?
 ……………………え? あれ? Dマンどこ?
 ……………………え? あれ? Dマンは?
 ……………………Dマンは? Dマンどうなったの?
 ……………………Dマンどこ~~~~~~!?
 Dマンが……Dマンが……行方不明……


 マーク・グルーエンウォルド担当期の「キャプテン・アメリカ」ではかなり重要なサポートキャラクターでありながらも、その後二十年以上に渡ってほとんどまともな扱いを受けず、ニック・スペンサーによって恐ろしく久し振りに名誉が回復されたDマン。……そんなDマンが、『レガシー』以降の展開においては不可解極まりないと言うしかない行方不明の状態にあるわけですが、そもそも『シークレット・エンパイア』においては何をしていたのでしょうか。
 「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌の23号で語られていたのは、驚くべき事実です。ハイドラによって封鎖されてしまったニューヨーク……そこからアヴェンジャーズが状況を打開するために脱出しようとするものの、打つ手がない……そんな中、かつて地下のゼロタウンの守護者であったDマンこそが! 脱出ルートを密かに把握していたのであります!
 つまり、『シークレット・エンパイア』における大事件が解決したのは、Dマンの尽力あったればこそなのです。いやもちろん、多くの人々がそれぞれに役割を果たしたことは事実ではあるのですが、Dマンがいなければアヴェンジャーズはニューヨーク脱出すら果たせなかったわけなので、その時点で詰んでたわけです。つまり、Dマンこそが必要不可欠な役割を果たしたのです。
 さらに言うと、22号の時点でも、サムとともに打倒ハイドラの闘いにDマンが身を投じたことははっきりと語られています。……にもかかわらず、そのDマンは行方不明となっており、『レガシー』における仕切り直しの後も、現状すらわからない……。
 私としては、『レガシー』において、登場人物のセリフのみで明らかになったこととして、「UCWFが月面上でランバージャック・デスマッチを開催している」というものがあったので、Dマンがそこにいることに一縷の望みをかけているというのが現状です。
 しかし、それならそれで、「遂に本格的にプロレス復帰を果たしたデモリション・ダンフィ、古巣のUCWFに満を持して登場しました!」と、1コマだけでも挿入することが、なぜできないのでしょうか。


 マーヴルの『レガシー』が、『DCユニヴァース:リバース』の後追いであることがあまりにも明らかです。もちろん、新たな展開を築くための独立したワンショットとしての両作の出来具合は全く比較にもなりませんが、それ以前の問題として、『レガシー』という展開自体が、商売上の必要性を超えて真剣に検討されたものではないことは、Dマンの一件を見るだけでも、既に明らかなのです。
 『DCユニヴァース:リバース』を仕掛けたジェフ・ジョンズは、いったい何を考えてこの作品を世に送り出したのでしょうか。以下にリンクするのは、このコミックの発表直前にComic Book Resourcesに出たジェフ・ジョンズのインタヴューです。


   https://www.cbr.com/exclusive-geoff-johns-details-rebirth-plan-seeks-to-restore-legacy-to-dc-universe/


 アメコミ業界に関わる全ての人間が……いや! もっと広く、キャラクタービジネスに少しでも関わる全ての人間が熟読玩味するべき内容だと思いますので、特に重要だと思える部分を少し多めに引用しつつ、翻訳してみます。


The "DC Universe: Rebirth #1" is an 80-page one-shot I'm writing which is re-laying the groundwork for DC's for the future while celebrating the past and present. It's not about throwing anything away. It's quite the opposite.
 私がライティングしている『DCユニヴァース:リバース』は80ページのワンショットだが、DCの未来のためにその土台を敷き直すものだ……過去と現在を祝福しつつね。これは、いかなるものをも捨て去ることを意味しない。むしろ、その正反対なんだ。



I've been a fan for years - I have over 60,000 comics and 99 percent of them are DC Comics. I really see this as an opportunity, and like I've said before, take all the characters and thematics that we love - from the past and the present - and build a story that brought them all together, revealed new secrets and truths and mysteries, and moved it all ahead. Again, as someone who absolutely loves the DC Universe, to me it's maybe lost some things. Not only characters, but more intangibles. Some essence to what makes the "DC Universe" unique and brilliant and unpredictable. And every single character matters - from Batman to Cassandra Cain to John Stewart to Saturn Girl to Blue Beetle to Lois Lane - everyone is someone's favorite. And in comics, anything's possible.
 私は、長年に渡ってファンだった――6万冊以上のコミックスを所有しているけれど、その内の99パーセントはDCコミックスだ。私は本当にこれはいい機会だと考えているよ、以前も述べたように、我々が愛した全てのキャラクターと主題を取り上げてーー過去のものも現在のものも――その全てを集合させるストーリーを構築し、新たな秘密や真実や謎を明らかにし、その全てを前進させる。DCユニヴァースを無条件に愛する者として言うと、おそらく、何かが失われていた。単にキャラクターのことだけではない、もっと実体のないもののことだ。「DCユニヴァース」を、ユニークで輝かしく予測のできないものにする、なんらかの本質。そして、個々のキャラクターの全てが重要だ――それこそバットマンから、カサンドラ・ケインやジョン・ステュワートやサターンガールやブルービートルやロイス・レインまで――全てのキャラクターが、誰かしらにとってのお気に入りだ。コミックスの中では、いかなることも可能なんだ。



So although I won't spoil the story of "DC Universe: Rebirth", I will say it's a mystery that explores what I think is perhaps the central element that's gotten lost: legacy.
 だから、『DCユニヴァース:リバース』のストーリーをネタバレすることはできないけれども、こうは言える……ここで探求される謎とは、私の考えでは、おそらくは、失われたものの中でもその中心にある要素だ。「レガシー」だよ。



I have a Writer's Room here at DC, usually we're breaking film or TV. So editors come in, writers come in, we sit down, we talk about "Rebirth." What it means, what our goals are, how to build up and forward instead of tear down. I have a whole wall that's a whiteboard, and an extensive comic library, and we talk about story, about what we love about the characters. Take "Birds of Prey" - we talk about why we first loved the Birds of prey; why we love Dinah, Barbara and Helena. The runs we loved. The characters then and now. It begins with that. And then where it all goes next. It can't be doing the same old thing. Or re-telling another story. It's got to be new. "Blackest Night" was new when we had the dead rise. So what can we build on in this case? What story can only the Birds of Prey tell? And I think there's a great one coming up.
 ここDCには、ライター用の部屋があり、我々がたいていは映画やTVの 打ち合わせをしている。すると、編集者やライターが入ってくるから、座って「リバース」のことについて話をすることになる。その意味について、我々の目標について、ぶちこわすのではなく構築し前に進めるための方法について。壁は全面がホワイトボードになっていたり、大規模なコミックのライブラリーになっていたりする、そこで我々はストーリーやキャラクターの愛する部分なんかについて話をする。例えば「バーズ・オヴ・プレイ」を取り上げて――最初に「バーズ・オヴ・プレイ」を好きになったのはなぜだったのかを話す。なぜ我々はダイナとバーバラとヘレナを愛したのか。我々が愛したランを。当時と今のキャラクターを。そうやって始まるんだ。そうして、話は次へと進む。かつてと全く同じことをするなんてありえないからね。異なるストーリーを語り直す。新しくなければならない。『ブラッケストナイト』は、死者の復活のさせ方として新しかったよね。じゃあ、この場合には、我々は何を作り上げることができるだろう? 「バーズ・オヴ・プレイ」だけが語ることのできるストーリーはなんだろう? 私の考えでは、優れたものがやってくるはずだよ。



I know people have been talking about, "They're going to make the comics like the TV shows or the films!" Why would we do that? These aren't licensed comics. That's boring. We already have TV and the films. And those are great. But comics are their own thing. We talked about "Green Arrow" with the writer; all we talked about were comics. We talked about "Longbow Hunters," Neal Adams' work, all the great "Green Arrow" runs that have happened - there have been a lot of them. If there's something interesting that we see in film or TV that we want to nod to or bring over, we do it, but it's really much more focused on the comic books.
 みんなが言い続けているのは知ってるよ、「コミックスをTV番組や映画のように変えてくるつもりだぞ!」とね。どうして我々がそんなことをするだろうか? 版権を取ったコミックスじゃないんだ。そんなことはつまらない。TVや映画なら、既にあるじゃないか。それはそれで優れたものだ。しかし、コミックスは独自のものだ。我々は「グリーンアロー」についてライターと話すが、話すのはコミックスのことについてだけだ。我々は『ロングボウ・ハンターズ』について、ニール・アダムズの仕事について、「グリーンアロー」のかつて生まれた偉大なランの全てについて話すーー優れた作品がたくさんあるからね。もし映画やTVの中に興味深いものがあって参照したり持ってきたりしたいものを見つけたら、それはやるよ、しかし、本当に焦点を置いているのはあくまでもコミック・ブックに対してだ。



 うう……ジェフ……
 ジェフ・ジョンズがライティングからは撤退していた「リバース」展開においても総じてストーリーのクオリティが高かったことには、こういう事情もあったのだと思われます。
 それにしても、この時点で既にジェフ・ジョンズは「レガシー」という言葉を発していたわけですが、彼の言う「レガシー」とマーヴルの現状における「レガシー」とが同じ言葉であるとは、とても思えません。
 あらゆるキャラクターが重要なのです! そう、Dマンも重要! あらゆるキャラクターが誰かのお気に入り! そう、Dマンも多くのキャップファンのお気に入りなのです!
 Dマンは、果たしてこれからどうなるのか……そのことを考えるにつけ、考えに入れなければならないのは、マーヴルの今後の人事配置でしょう。
 ニック・スペンサーが降板後の「キャプテン・アメリカ」のライターがマーク・ウェイドであることには、私としては微妙にいやな感じを受けました。……だって、「マーク・ウェイドがライティングする『キャプテン・アメリカ』」ってことは、要するに、「きちんとバックナンバーを読み込んでいるキャップファンは絶対に批判しない人事」っつーことですもん。……いやいや、このことの意味がわかる水準の読者なら、そもそもニック・スペンサーをバッシングなんかしてませんて……
 ぱっと見たところ、「レガシー」の体制にはニック・スペンサーが担当するレギュラータイトルがなかったもんで、「遂に干されたか? こうなったら、もうDCきちゃう? グリーンアローやろうよグリーンアロー! あのタイトルならどれだけ物議かもしてもOKですぞ!」などと思っていたら、まさかあんなことになるとは……
 それはともかく、ニック・スペンサーの今後に関する噂として、ダン・スロットの後任で「アメイジング・スパイダーマン」のライターに就任するだろうと言われています。……なんだ、むしろ好待遇じゃん……と思ったのですが、ちょっと待てよと。冷静に考えてみると、この人事、実は酷くないですか? ……だってですよ、ダン・スロットが降板して直後に「アメイジング・スパイダーマン」を引き継いだライターなんて、何をやろうと絶対に叩かれるに決まってるポジションじゃないですか。それこそ、「スタン・リー、スパイダーマンのレギュラーシリーズのライターとしてウン十年ぶりに奇跡の大復活!」くらいのことがない限り、間違いなくバッシングされるわけですよ。……つまりこれは、「どうせバッシングされることがわかってるんだったら、ニック・スペンサーにしとけばよくない?」ってことなんじゃないすか?
 しかし……ニック・スペンサーには、この仕事を十分に生かしてもらうほかないわけです。……そう、スパイダーマンの転機と言えば? ……スパイダーマンにとっての重要な転機はと問われれば、「もちろんプロレスでしょ」と即答するタイプの人間が、この世の中には一定数存在するのです。……もちろん、その中でも最も偉大な存在は、サム・ライミです。スパイダーマンの最初の映画化にあたって、原作においてピーターが最初に腕試しをしたプロレスラー、クラッシャー・ホーガンとの死闘を忠実に拾いつつ、大幅に拡大し、クラッシャー・ホーガンの役所にはランディ・サベージをキャスティングするというすばらしすぎる実写化を果たした偉大なる人物、それこそがサム・ライミです。
 そうです……謎の行方不明を遂げたDマンが復活するには、もはやニック・スペンサーに託すしかありません! Dマンは実はクラッシャー・ホーガンの弟子だった的な設定を今から作り上げて、なんとか「アメイジング・スパイダーマン」誌の常連キャラにぶっこむことはできないですかね!?


 ②『ダークナイツ:メタル』における、グラント・モリスン担当期のバットマン設定の復活


 ……マジでやめてくれ……
 もちろん、別アースに特殊な設定のバットマンがいるぶんには構わないんですけど、基準となるアース(今はアース0)での本物に対しては、やってはいかんことがあるはずなのですよ。モリスンバットマンの、私としては絶対にやってはいかんと思える設定としては、


 ・クライム・アレイにおいて、トマス・ウェインは射殺されてなかったかもよ? それどころか、この事件は巨大な陰謀の一部に過ぎず、黒幕はトマス自身だったのかも?
 ・実はバットマンは、本人も周囲も認識していなかっただけで、スーパーパワーを持ってたのかもよ?


 まず、前者のトマス関連のものに関しては、ジェフ・ジョンズが『フラッシュポイント』で無効化したんだと私としては解釈しています。……まあ、そう解釈しなかったとしても、この設定と『フラッシュポイント』の根本とは両立不可能なものですから、それだったら、まあほとんどの読者は『フラッシュポイント』の方を取るでしょうしねえ。
 後者のスーパーパワー云々に関してなんですが……これに関しては、モリスン以降特に誰も触れないままにほとぼりが冷めてきたかと思ってたんですが、ここにきて、スコット・スナイダーが『ダークナイツ:メタル』で全面的に採用してきたもんで、正直ドン引き状態です。
 アース0の本物バットマンの設定をいじったら、過去の出来事の解釈もまた、それに合わせて全部変わってしまうことになるわけです。それを考えたら、この設定は、絶対にデメリットの方が大きいですよ。
 考えてもみてください。……例えば、かつてマーヴルとのクロスオーヴァーでハルクをキック一発でKOしたのも、「実はスーパーパワー持ってたから」ですまされちゃうんですよ!? ダメでしょうそれは。
 「バットマン、実はメタヒューマン!」……アーカムで暴動が起きますよ。……それにあれですよ、グリーンランタン方面からは、「自分は常人なのにがんばってるアピールをさんざんやっといて、今さら実はパワー持ってましたかよ」などと、スーパーパワー持ちであることがなぜかいじられるネタにされるわけですよ。
 というか、そもそもあれですよ、「スーパーパワーを備えている存在が暴走したときの脅威に備えるために、常人の自分が対策を立てておく」とかいって独断でヤバい情報とか収集しまくった挙げ句何度もその情報盗まれて危機を引き起こしてきたことも、「スーパーパワーを備えた存在の暴走による脅威って、まさにバットマンがやってることじゃん」ということになってしまうわけですよ!
 そんなわけで、今年のイヴェント『ダークナイツ:メタル』には全くもってのれないわけですが、関連タイトルは結構楽しんで読んではいます。特に、ダークマルチヴァースから来た七人の悪のバットマン軍団のそれぞれの来歴が語られてみると、実はつい最近までふつうのバットマンだった存在がほとんどで、一線を越えてしまったときに、バリーもろともスピードフォースを吸収してみたり、アルフレッドが惨殺されたことにブチキレて無数に増殖するアルフレッド型殺戮マシーンを作ってみたり、戦争の神アレスのかぶとを装着して乱心してみたり……と、振る舞い的には正直それほど違和感のない悪のブルース・ウェイン軍団が増殖して、やはり宇宙の最大の脅威はブルース・ウェインであったのだという確信が強まることになります。
 ふつうのバットマンになることがなかったブルース・ウェインの場合も、クライムアレイで両親が殺害された瞬間に、恐れるものが何もなくなったゆえにグリーンランタンに選ばれたものの、幼いながらもその内面に抱え込んだ空虚な闇と強大な意志の力とで、パワーリングにセットされていたシステム上の制約を破壊してハッキングし、通常のグリーンランタンにはありえないパワーを引き出し、文句を言ってきたガーディアンズとコァの面々を壊滅させる……という、『エメラルド・トゥワイライト』と同等かそれ以上の惨状を一瞬で引き起こしているのでした。
 今までもブルースがパワーリングを用いたことは何度かありましたが、こんなにヤバいことだったとは……しかし、この話が面白いのもブルースが常人であるからこそなので、頼むから、スーパーパワー持ちだったという設定はやめるんだ!
 今のDCで『ドゥームズデイ・クロック』に向けて進行中なのは、「重要キャラクターを成立させている根本の設定をいったん崩す」ということですけれども、これに関しては、そことつながっているわけではないように思えるんですよねえ……


 ③ブライアン・マイケル・ベンディス、DCコミックス移籍


 …………ベンディスいらん…………
 …………ベンディスいらん…………
 …………ベンディス、いらん…………
 …………ベンディス……いらん…………


 マーヴルにはスーパーマンのパロディキャラって結構何人もいますけれども、その中の一人であるセントリーにベンディスがしたことってアレなわけですよ。あるいは、『シヴィル・ウォーⅡ』の主要キャラに起きたようなことが、アース0の本物スーパーマンに起きるようなら、DCユニヴァース崩壊ですよ。とにかく、ベンディスにスーパーマンだけは触れさせてはいけない!(……それでもどうしてもと言うなら、スーパーボーイ・プライムさんだけなら預けても可)
 ……正直なところ、「今のベンディス」にはマジでDCに来てもらいたくないんですが……私自身が改めて気づいたのが、ここ十年ほどに渡って、「DCユニヴァースの中心にいるのがジェフ・ジョンズで、マーヴル・ユニヴァースの中心にいるのがベンディスである」ということが、自分がDCファンである上での非常に安心していられる構図だったのだなあ、ということでした。
 ……しかし、ならば、最近はこの構図はほぼそのままにDCの優位が固定していたわけですが、じゃあなぜDCみずからこの構図をぶっこわすようなことをするんでしょうか。のみならず、この移籍に関しては、マーヴルのメリットこそが一番大きいようにも思えます。
 いろいろ考えてみたんですが、私としては、DCコミックスが本当に熟慮した結果である可能性と、ほんとになんも考えてない可能性との両方があると思うに至りました。そして、そのどちらが正解なのかは、今後のDCによるベンディスの扱いを見ればわかると思います。
 改めて冷静に考えてみれば、ブライアン・マイケル・ベンディスというライターの優れた仕事だけを拾っていけば、アメコミの歴史に残る重要な足跡を既に残してきていることは当然のことです。しかし、最近のベンディスが醜態をさらしすぎたことによって、読者が過去に遡る気すら失せるようなことが起きているのではないでしょうか(かく言う私も、ベンディス初期の傑作『パワーズ』は途中までしか読んでいなかったのですが、続きを読む気が完全になくなっていたのでした……)。
 なぜベンディスが質の低い仕事を連発するようになったのか? と言えば、これはもう明らかに、マーヴルによる仕事の振り方が悪かったわけです。DCの側では、ベンディスよりキャリアが浅いジェフ・ジョンズがイヴェントを回す体制を確立し、さらに一線を退いた現在では、さらにキャリアが浅いスコット・スナイダーやトム・キングやジョシュア・ウィリアムスンだけでも巨大イヴェントを回していける体制が確立しているわけです。
 一方のマーヴルでは、既にかなりのキャリアを持つベンディスが依然として巨大イヴェントの中心で、数多くの関連タイトルと内容を折衝させつつタイトなスケジュールで進めなければいけないような、体力勝負の部分もある仕事を破綻させ、度重なるスケジュールの遅延が起きていたりもしました。
 単純に言って、このキャリア・この年齢の人がやること自体がおかしいような仕事を、ベンディスはしていたわけです。……一方、例えば、あんまり注目されてないと思いますけど、実は今、ウォーレン・エリスがDCで仕事をしています。ワイルドストームの再構築を粛々と進めているんですが(一通りまとまってから読むつもりなので、内容は私はまだ全然知らないです)、DCユニヴァースの本筋にはほぼ絡むことないような状態になっています。
 ウォーレン・エリスぐらいのキャリアのライターになると、そういう扱いが適切なんじゃないでしょうか。多くのタイトルが絡んで細かくスケジュールと内容を調整しつつ進むクロスオーヴァーからは距離を置き、作家性を自由に発揮してよくて、遅延しても周囲に悪影響はないような独自のタイトルを、せいぜい月に2、3本程度のペースでのんびりと進める、大御所のみに許されたポジション。
 ベンディスも、そういう扱いにしたなら駄作を連発するようなこともなくなり、質の高い仕事も増えてくるんじゃないでしょうか。だから、ヴァーティゴでクリエイターオウンドのオリジナル作品を手がけたり、ワイルドストームが再構築されたならストームウォッチやウェットワークスなんかをやるんなら全然アリなんじゃないかと。
 今のベンディスは自分のキャリアを自分で汚しているだけなので、そういうポジションの人へとDCが移行させるのならば、誰にとっても喜ばしい、業界全体ことを考えた移籍劇だったのだろうということになります。……逆に、トム・キングやジョシュア・ウィリアムスンが本来やるであろう仕事がベンディスに振られるようになるならば、これは本格的にヤバいですね……。
 しかし……ベンディスが、DC移籍にあたって資料として再読し始めたという単行本の山を公開した写真を見ると……大量のスーパーマンが……さらには、グリーンランタンやリージョンなど、どう考えてもベンディスが手がけてはダメなタイトルが……
 ベンディス……殺る気マンマンじゃねえか……








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Howard Hoax

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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