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アメリカン・ドリームを再発見する――「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の到達点(上)

 現在の「キャプテン・アメリカ」誌は「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」と「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の二誌が同時進行で展開しているが、両誌のライターを兼任するのがニック・スペンサー。このニック・スペンサーの仕事はキャプテン・アメリカの歴史にもアメリカン・コミックスの歴史にも残る偉業になりつつあると私は評価しているのだが――一方で、そもそもの就任当初から、ニック・スペンサーのライティングは、普段コミックを読まない層をも巻き込んで大バッシングを浴び続けてきている。それは要するに、「アメリカ人ができれば目を逸らしたい、醜悪なアメリカの現実」を生々しくさらけ出してしまっているからなのではないかと考えている。
 醜悪なアメリカの現実を作中に盛り込みつつアメリカの理念との対立を描くということ自体は、「キャプテン・アメリカ」誌において何十年も前から展開され続けてきたことではあるのだけれど、「別にふだんキャプテン・アメリカのコミックを読んでいるわけではないけれど、キャプテン・アメリカのあるべき姿については何かしら注文をつけたい層」というのがなぜか一定数いて、そういう人々によってニック・スペンサーがボロクソに叩かれ続けているわけだ。
 ニック・スペンサーのライティングによる「キャプテン・アメリカ」は、非読者すらをも含めた多くの層からの攻撃を誘発させずにはいない。そして、それは、このコミックが、最も危険で過激な意味で、現実社会で我々を取り巻く政治性の中枢に踏み込んだものであるからだと思うのだ。……それは、一言で言えば、「政治的な正しさ」の限界を突き抜けたその先にまで赴くことである。
 例えば、これと対照的なものを挙げるならば、近年のディズニーの長篇アニメ作品と比較すれば状況が整理されると思う。……ディズニーのアニメは、多くの場合、まったくもって一分の隙もないまでに、政治的に正しい。そこでは、差別的とみなされる言説は用意周到に排除され、そのコードが厳密に遵守された上で、その枠内で高度なストーリーテリングが展開される。……脚本面での技術的な達成の職人的な評価という意味では、手放しで誉めるしかないようなものが量産される体制が整えられていることが明らかなのだ。そして、作品の全体像が完成してみれば、政治的正しさによって保証された、アメリカの理念のあるべき姿が明確に表現された理想郷がそこにある……。
 しかし、今や、政治的正しさのコードがその全体に張り巡らされ巧妙に統御されたフィクションから周到に排除され、そもそも存在すらしないことになっているものが何であるのかは明らかなのだ。……もちろん、「ドナルド・トランプ的なもの」である。
 有り体に言ってしまえば、ドナルド・トランプ的なものを支持してしまうことは、その人物の弱さと愚かさをさらけ出すことでしかない。しかし、現実には、その種の単にどうしようもない弱さや愚かさが満ちている。単に醜悪な差別意識を大声でがなり立てたい。余所者を排除したい。自分の正当性を無条件に肯定されたい……それらは、あまりにも卑小で平凡な、ちっぽけな悪である。
 そして、どこまでも醜く浅ましいだけで、どこにでもあるゆえにうんざりさせるような平凡な悪は、フィクションには取り込みづらい。政治的に正しい作品の内部で「悪」を司るのは、誰もがそれを「悪」であるのだと認識できる、わかりやすい巨悪でなければならない。……しかし、だからこそ、そのようにして仮構された空間の内部で表現された理想としてのアメリカの理念は、現実のアメリカからはかけ離れたものともなる。アメリカのインテリ層からは単に馬鹿にされていただけの「ドナルド・トランプ的なもの」の浮上は世界的に衝撃をもたらしたが、そのような潮流がドナルド・トランプという固有名と明確に結びつけられるのにも先駆けて、ニック・スペンサーは既にして闘争を開始していたのである。
 どこまでも醜く浅ましく、騒々しい罵詈雑言に満たされた場所としてのアメリカを直視するーーそれも、単に露悪的な現実の告発としててではなく、いまだそこに存在するはずのアメリカン・ドリームを見出すために。このあまりにも無謀な正面突破を敢行してみせた「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」という作品に対しては、正当な評価を下さなければ礼に欠くだろう。……すなわち、これこそが、真に偉大な境地に達したアメリカン・コミックスであるのだ、と。


 ……などと、まずはニック・スペンサーによる現行の「キャプテン・アメリカ」誌への評価を書いてみたのだが、とりあえず、細部がどのようになっているのかを見るために、現状がどのように展開されてきたのかを整理してみたい。
 もともと、ニック・スペンサーがライターに就任して「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」が創刊された時点では、スティーヴ・ロジャースはキャプテン・アメリカの座から退いていた。とあるヴィランとの戦闘の渦中で超人血清の効果を打ち消された結果、本来の年齢ならそうなっていたであろうはずの老人になってしまったのだ。
 この事件を受けてサムがキャプテン・アメリカの座を継承したのだったが……それからしばらくして改めてシリーズを仕切り直した「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の創刊号は、二十世紀FOXなどの一般のメディアに取り上げられて、大バッシングを受けることになる。というのも、サム・ウィルスンは(個人ではなくあくまでもキャプテン・アメリカとして)特定の政治的問題についても立場をはっきりさせることを表明した結果、不法移民を攻撃する人々との戦闘を展開したからだ。
 実は、そもそも作中では、サムはアメリカ中から大バッシングを受け賛否両論が激しく分かれることが描き出されていたのだが、まさにその通りの状況が現実のアメリカにおいても実現し、フィクションの内部と外部が切れ目なくつながるという、奇妙な構図が成立することになったのだった。
 フィクションの内部のこととしては、その後の展開として、『アヴェンジャーズ:スタンドオフ』が勃発。ざっくり言うと、コズミック・キューブの現実改変能力を利用して収監されたヴィランを洗脳し、平凡な一般市民であると思わせて郊外の平和な街で暮らさせる……という、S.H.I.E.L.D.でマリア・ヒルが密かに進めていた策が破綻。洗脳が解けたヴィランたちが一斉に暴動を起こすという事件だ。
 この事件の渦中で、バッキーやリックやサムのような歴代のスティーヴの協力者たちが事態の収拾を図って奔走する中、コズミック・キューブの力によってスティーヴは若返り、元の姿を取り戻すことになるのであった。
 スティーヴは、シールドはサムに預けたまま、自身もキャプテン・アメリカとして復帰。結果として、キャプテン・アメリカが二人いる状態となり、「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」誌も創刊されることとなった。
 ……で、この「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の創刊号で、スティーヴが実は以前からハイドラのスパイであったことが発覚し、大騒ぎになってまたもや大バッシングが吹き荒れたわけだが……改めて『スタンドオフ』にさかのぼって読み返してみると、実は、その件の伏線はきちんと敷かれていたことがわかる。
 『スタンドオフ』で登場したコズミック・キューブというのは、正確に言うと、コズミック・キューブのかけらが「幼女の姿をして人格を持った存在」であったのだけれど、実は、コズミック・キューブとして長時間をともに過ごしたレッドスカルになついており、現実改変能力によってスティーヴを本来の姿に復活させる過程で、スティーヴの過去そのものを、レッドスカルによって都合のよいものに変えていたのであった(……念のために書いておくと、この経緯はストーリー全体の中でその伏線も含めてきちんと辻褄が合うように書かれているので、行き当たりばったりに展開を途中で変更しているようなことはありえない)。
 かくして、表向きは元通りのキャプテン・アメリカの姿でありながら、実は、そもそもの最初からハイドラのスパイであったことになったスティーヴの姿が、「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」誌において描かれることになるのであった……。


 ……おおよそ以上のような感じで、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」と「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の両誌のライティングをニック・スペンサーが兼任する体制はいまだ継続しているが、継続してバッシングを受け続けてきた上に、とりわけ「サム・ウィルスン」の方は、売り上げ面でも順調に降下を続けている。
 もちろん、永年に渡ってキャプテン・アメリカであったスティーヴの知名度こそが、そのような状況を招いているのであろう……だが、両誌をきちんと読み比べてみる限り、あくまでもメインのストーリーが展開されているのは「サム・ウィルスン」の方であり、「スティーヴ・ロジャース」の方こそがサブにすぎないように私には思えるのだ(……まあ、そもそもの最初からハイドラのスパイであることになったスティーヴのストーリーも、それはそれで面白くはあるんですが。なんというか……スティーヴって、もともと戦略家としての高い能力を持つことになってたとはいえ、一本気で直情怪行の人でもあったから、頭脳面ではそこまでめだってはいなかった。しかし、ハイドラのスパイとして、手段・方法を選ばず各方面で知略を用いて暗躍し始めた結果、もはやバットマン並みの脅威になってますな……)。
 コズミック・キューブによって現実が改変され(という設定自体はあまり流布しなかったのだろうが)スティーヴがハイドラのスパイであったことが明らかになった結果、キャプテン・アメリカの本質が損なわれたと感じた人々は、このコミックへの大バッシングへと走った。……しかし、むしろ、キャプテン・アメリカの本質をいったん解体するというまさにそのことこそが、ニック・スペンサーが語ろうとしているストーリーの骨子なのである。
 ……それは、一言で言ってしまえば……現在のアメリカ合衆国とは、スティーヴ・ロジャースがキャプテン・アメリカであるのに値するものではないということだ。
 現在のアメリカ合衆国の現状は、あまりにも醜悪すぎる……その現実を冷徹に描き出そうとするとき、アメリカの建国以来の理念を強固に信じている人物を、醜く浅ましい現実と格闘する視点に据えることができるだろうか。
 あるいは、そのことは、こう言い換えることもできるーースティーヴ・ロジャースという男は、アメリカン・ドリームを再発見することは決してできない、なぜならば、彼の内からそれが根本的に失われることは絶対にありえないからだ、と。
 だからこそ、「キャプテン・アメリカ」というコミックを通してアメリカを語るために必要なのは、アメリカの理念について確信を持つことができず、醜い現実との間に板挟みになり、揺れ動き続ける人物であるのだ。スティーヴ・ロジャースの内部からキャプテン・アメリカとしての人格が失われてしまった状況だからこそ、サム・ウィルスンが、キャプテン・アメリカとは何であるのかを再発見しなければならないということだ。
 かくして、サム・ウィルスンの冒険は、アメリカの暗部をひたすら直視し続ける悪夢となる。不法移民の排撃者・レイシストと戦いコミック外からすらも叩かれたサムは、しかし、アメリカの闇の奥へ奥へと突き進む。サムは時にはウォール街に喧嘩を売り、また時には(ちょうど現実のアメリカで起きた事件をダイレクトに参照した)警官による差別も絡んだ暴行事件へと対処を迫られる。あるいは、『シヴィル・ウォーⅡ』のタイインとして、本編で勃発した事件の一因となったローディの死を、あくまでも「黒人ヒーローの死」ととらえ、ローディの葬儀を通して黒人ヒーローコミュニティの内部の有様を描き出すところなども、圧倒的にすばらしい(……まあ、これについては、本編の方がアレだということもありますが……)。
 ……そして、これらのエピソードは、現実を参照しているがゆえに「リアル」であるのでは、必ずしもない。これら全てのストーリーを、ニック・スペンサーは、頑固なまでに徹底して、マーク・グルーエンウォルドがライティングを担当していた時期の「キャプテン・アメリカ」からのサンプリングのみによって構築していくのである。


 ここにあるニック・スペンサーのあまりにも強烈な姿勢は、創刊号の時点でFOXニュースからぶつけられた非難に対する、はっきりとした答えにもなっているだろう。……FOXニュースで、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」を批判的に取り上げたその最後のまとめの言葉として、一人のコメンテーターが「コミックで政治を語るべきではない」と述べたのだ。
 これは、日本でもしばしば耳にするクリシェであるだろう。……しかし、冷静に考えてみれば明らかなことだが、たとえ純然たるフィクションであろうとも何らかの形で現実社会の文化・習慣・言語などを反映しなければ成立しない以上、政治性を完全に排除することなどできるはずがないのである。……つまり、「フィクションに政治を持ち込むな」と主張する人間は、「自分にとって都合のいい政治性」「自分にとって自然に感じられる政治性」は無意識の内に免除して、「自分にとって都合の悪い政治性」の存在そのものを排除しようとしているわけだ。
 「フィクションに政治を持ち込むな」というのは、それ自体があまりにも政治的な、現状追認をなすイデオロギーである。そして、ニック・スペンサーがとるのは、これとは正反対の態度だ。……すなわち、自分が子供の頃から読み込んできたコミックをサンプリングし、読み直し、語り直すということ自体が、そのまま同時に、現実の政治を語ることでもあるということだ。「コミックを読むこと」が現実社会の中で起きている一つの行為であるならば、それもまた一つの政治なのである。


 ……とはいえ、現実のアメリカの暗部を取り込めば取り込むほど、サムの置かれる立場は、ひたすら絶望的なものになっていくことにもなる。
 サム・ウィルスンの破滅をもくろんで暗躍することになる勢力が非常に狡猾なのは、サムの殺害は決して企んでいないということだ。サムを殺害することとは、サムを殉教者にすることである、死者としてのキャプテン・アメリカ=サム・ウィルスンは、誰もが安心して信じることのできる対象に変わってしまう。キャプテン・アメリカの破滅とは、生きながらにしてその名誉が地に落とされることなのだ。


 --so let those forces tear him apart. Let them expose themselves for what they are and show the lies all of this "freedom" is built on.
 ならば、それらの勢力の狭間で、彼を引き裂かれるがままにすればよい。連中が自分の正体を自らさらけ出すがままにし、この「自由」なるものが依って立つ嘘をも、自ら示させればよい。



 They'll break Captain America--
 連中は、キャプテン・アメリカを打ち砕くだろう――



 --and the country will break with him.
 ――そのとき、この国もまた、彼とともに打ち砕かれるのだ。




 ……自らがキャプテン・アメリカであることに確信を持てない人物を、生きながらにして失墜させること。個人としてのサム・ウィルスンではなく、「キャプテン・アメリカ」というイメージの方をこそ抹殺することが、アメリカ合衆国への真の打撃となる……。
 サム・ウィルスンの、アメリカの闇を見据える旅には、出口などないように思えるーーしかし、そんな渦中で突如として現れたのが、あの奇跡的な15号なのであった。


               (続く)









フランク・ミラーの『ダークナイト3:マスター・レイス』とアラン・ムーアの『プロヴィデンス』が、このタイミングで未完結であることについて

 最近のアメリカの情勢はと言うと、事前に全く予測できなかったほどの激動の渦中にある今日この頃ですが……ふと、そんなアメリカにおいて現在進行形でのコミック業界の状況と照らし合わせてみて、その符号にちょっと驚いてしまったことがあるのでした。

 と、言うのも……フランク・ミラーが『ダークナイト』シリーズの完結編とするという『ザ・マスター・レイス』、それにアラン・ムーアの長篇コミックとしては最終作になるらしい『プロヴィデンス』……この両作が、ともにそろって、刊行ペースが延び延びになっていた結果、現時点で未完結なのです。

 両作ともに、完結は来年前半が予告されてはいるのですが……この人たちのこれまでの仕事を考えるにつけ、間違いなく、アメリカの現状を踏まえて作品内容を変えてくるのではないかと思われます。

 ……やっぱりこの人たちは、何らかの宿命の元に生まれているのではないかと思えてくるのですが……もともと、80年代にアメリカン・コミックスの世界を刷新した二大巨頭たるこの二人は、同時代の政治的状況を堂々と作中に盛り込んでいた人々なのでありました。

 そして、フランク・ミラーの場合で言うと、『ダークナイト・リターンズ』の続編『ダークナイト・ストライクス・アゲイン』は、刊行中に2001年の同時多発テロが勃発していたわけです。そして、第三作となる『マスター・レイス』が、よりによって、今年のこのタイミングとは……。

 『マスター・レイス』の既に出版された部分を読む限りで言うと、まあ大方の予想通りというか、「『DK2』以上『DKR』未満」というところに収まっている感じがします。……しかし、作品としてのトータルの出来映え以上のこととして、これを読み進めながら私が感じていたのは、そのあからさまなまでの生々しさであるのでした。

 というのも、作品の冒頭あたりから既に、そもそもこの作品の刊行が予告された時点では勃発していなかったアメリカの現実でのとある事件がストーリー展開に大きく結びついて語られているのです。……つまり、出版を予告してから実際の出版までの間に、現実社会の情勢に照らし合わせて作品内容が書き換えられていたことが明らかなわけです。

 もともと私自身は『ダークナイト・リターンズ』は90年代になってから、「既に評価の定まった古典」として読んだもんで、そこに描かれている「80年代のアメリカ」の姿をも含めて、あくまでも回想する視点でのみ接していました。一方、『ダークナイト・ストライクス・アゲイン』は、現実世界が反映されているとは言え、作品世界そのものはシュールなまでにぐちゃぐちゃなので、そのリンクは実感しづらい……そういう意味では、今回の『マスター・レイス』を同時進行で読み進めることで初めて、「同時代のアメリカとダイレクトに向き合うことこそ、フランク・ミラーの『ダークナイト』なのだ」と実感できたという部分があります。

 そもそも共和党の大統領候補になる以前から、ドナルド・トランプもバリバリ作中に登場してましたし……最近のミラーの政治的スタンスからすると意外であるゆえに非常に印象的であったこととして、トランプは明確にバットマンの「敵」として描かれています。ブライアン・アザレロやアンディ・キューバートなどの優秀なスタッフが脇を固めて制作しているために作品としてのまとまりはかなりキッチリ保たれているのではありますが、それでもなお同時代性と取っ組み合って混沌としていくその先にあるものは、なんなのか。……まあこれに関しては、『ダークナイト・リターンズ』を越えることはまずありえないとは思いますが、その行く末を見守りたい次第であります。





 一方で、アラン・ムーアはと言うと……これはもう、はっきり書いといた方がいいでしょう。現在進行中の『プロヴィデンス』は、未完結の段階とはいえ、ムーアの過去の仕事と比べてその価値を測定しようとするのは根本的に間違っていると思われます。既に現段階で、『ウォッチメン』も『フロム・ヘル』も完全に過去のものになったと言えるでしょう。『プロヴィデンス』こそが、アラン・ムーアの最高傑作です。少し前に、ムーアがこれでコミックを引退するというニュースが流れましたが、私には意外でも何でもありませんでした。……だって、そもそもコミックという媒体でこれ以上のことをやるのは、もうどう考えても無理ですもん。コミックそのものの限界点ですよ、これ。そういう意味では、この作品は人類全体のコミック史上最高傑作でしょうし、当分の間は塗り替えられることはないでしょう。

 ……とはいえ、コミックという媒体そのものの特徴を限界点まで酷使するような作品である以上、誰にでも気軽に読み解けるようなものでは全くありません。各号が参照しているラヴクラフトのそれぞれの小説を読んだ上で、丹念に両者の異同を照らし合わせることを前提としなければそもそも読めないですし。ラヴクラフトが既に一度小説として言葉で語ったことを改めてコミックで表現し直すことによって生まれる視差が、ラヴクラフトの小説に対する読み直し・再検討になっている……言い換えれば、コミックという媒体でありながら、先行作品に対する批評・研究の類になっています。

 例えば、ラヴクラフトが自作の中で登場させた「カバラの歴史についてパンフレットを書いた人物」に言及する際には、アラン・ムーア自身がそのパンフレットを復元して実際に書いてみて参考資料として作中に挿入し、ヨーロッパ文化史の中でのカバラの歴史とラヴクラフトの小説との相関関係が探られることにもなる……などというような目も眩むことが、全篇に渡って展開されているわけです。そんな、恐ろしく精密に構築された作品によって、欧米の文学史の、従来の通説とは異なる根本的な書き換えが検討されるわけですが(例えば、ラヴクラフトの先行者としてユイスマンスの位置づけが検討されることにより、ユイスマンスのオカルト方面への傾倒がそのキャリアの上でむしろ必要不可欠であったことがきれいに説明できてしまえたりする)、この方向性自体は、近年の文学研究の動向とも一致している……というか、ムーアはこういうことをだいぶ前からやっていたので、ムーアの方こそが世界の文学研究に先駆けていたことになります。

 そして、ラヴクラフトの文学史上の位置づけが検討されることが、そのまま、ヨーロッパの文化史の全体像へのヴィジョンとなり、いかにしてそこからアメリカが分岐されたのかが追求される……ということは、現時点で完結していない『プロヴィデンス』という作品が、激震に見舞われつつある「アメリカの現実」との対峙を避けるようなことはないのではないかと思われるのです。





 80年代におけるアラン・ムーアの登場以降、アメリカン・コミックスの世界において、ライティングの質が劇的に向上したのは確かなことです。……結果として、もはや現在のこの業界では、「巧みなストーリー手リングの技術を持っている」こと自体は、とりたてて珍しいことでもなくなりました。

 そして、特に今年のトレンドとして感じられたのは……単に自分が考えたフィクションを閉じた世界の中で完璧に構築しきることではなく、自分が考えたとおりには語りきることができない現実世界に、ストーリーテリングの技術を駆使してなんとか取っ組み合うということなのでした。……と言っても、これは何も、単に時事的なネタを盛り込んだストーリーテリングを展開するということではなくて、ストーリーを展開するのと同時進行で起きている現実の状況を常に参照しつつ、その状況の変化に合わせてストーリーへのフィードバックを同時進行でやり続けるという、言ってみればインプロヴィゼーションのごときストーリーテリングが、一つの重要な潮流となっているということです。

 そんな状況で、改めてフランク・ミラーとアラン・ムーアの両名の存在感が出てきてしまったのは非常に興味深いところではありますが、今の業界の現場で活躍する人々の中からも、こういう傾向に則った上での優れた仕事は出てきています(……もちろん、ことアラン・ムーアの場合には、現実社会の状況を反映しつつも、同時にフィクションとしての完成度も完全無欠なまでの精密さを誇るということが、そもそも『ウォッチメン』の時点で成し遂げられていたわけではありますが)。

 その最も顕著な例が、ジェフ・ジョンズによる「DCユニヴァース:リバース」でしょう。あの作品は、現実世界に対するあからさまな言及を含む一方で、ストーリー自体は完結せず、伏線とおぼしきものも回収されず投げっぱなしのままになっています。つまりあれは、現実世界の反応を見た上で、それを取り込んだ上で続きを語ることがあらかじめ折り込み済みの企画であるように思えるわけです。

 まあもちろん「DCユニヴァース:リバース」自体は今年のアメコミ業界全体の看板のようなものなわけですが……一方で、現時点であまり注目されていなさそうであるにもかかわらず、既に、間違いなくアメリカン・コミックスの歴史に残る偉業が成し遂げられつつあるのです。ニック・スペンサーによる「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」です。ニック・スペンサーのライティングによるキャプテン・アメリカというと、初っぱなから(非読者の早とちりによる)大バッシングを受けた「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の方こそが、良くも悪くも注目を受けているのだと思いますが……はっきり言って、現行のキャプテン・アメリカ関連の中心は、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌の方にこそあるのです。

 もともと、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌の方も、大バッシングとともにスタートしました。もちろん、マーヴルによるこの企画自体は、「黒人ヒーローによるキャプテン・アメリカの継承」という、ポリティカル・コレクトネスへの配慮から出発したものだったでしょう……しかし、ニック・スペンサーは、現実世界でそのような立場に置かれた人間が受けるであろう反応をそのまま作中に盛り込みます。そして、サム・ウィルスンに、現在のアメリカが抱える社会問題に、革新的な立場から堂々と政治的発言をさせます……このことによって、極めて生々しい内容を持つことになったコミックが、アメリカの保守層からの大変なバッシングに晒されることになったのでした。

 では、その後の「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の展開がどうなったのかというと……ニック・スペンサーが萎縮するようなことは全くなく、ふつうであればなるべく語るのを避けるであろうようなこと、余りに根深い問題であるゆえにできれば自分のスタンスを明らかにしたくない人が多数であるようなことへとばかり、ガンガン突入し続けているのです。

 そして、アメリカの暗部、その闇をあくまで直視し続けることによってそこを突き抜け、それでもなおアメリカをアメリカたらしめている、その根っこの部分になんとかギリギリ残っているアメリカン・ドリームの再発見にまで到達することになったのです。……これは、例えばアメリカ文学においても、ごく一握りの作品しか到達しうることのない境地です。

 そういう意味では、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」は、

既に『グリーンランタン/グリーンアロー』を越えています。売り上げ不振による路線変更を強いられて、そのシリーズの語るべきことを最後まで語りきれなかったからだとはいえ、『グリーンランタン/グリーンアロー』は、単にアメリカの闇を描くことだけしかできなかったわけですから。

 正直なところ、個人的には、もうアメリカン・コミックスについて現状を整理したりその都度の自分の考えをいちいち書き留めておくようなことはしないでいいかなとも思っていたのですが……「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」という作品こそが、どれほどのバックラッシュの中でも、自分の言いたいことを徹底して貫く人間だけがたどり着ける場所を改めて示してくれたという思いがしています。そして、まさにこのような作品があるからこそ、アメリカン・コミックスは読むに値するのだということも。

 ……ということですので、次のエントリでは、改めて、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」について書いてみたいと思います。















「消去」することの多義性について――トーマス・ベルンハルト『消去』

 しばしば、トーマス・ベルンハルトの作家活動の集大成とも呼ばれる長篇小説『消去』は、全体として、「電報」と「遺書」の二章よりなっている。
 各章には全く改行が存在せず全体としてひとかたまりのパラグラフをなしており、また、「電報」は主人公が両親と兄の死を知らせる電報を受け取ること、「遺書」はその葬儀のために故郷であるヴォルフスエックを訪れること……というように、現在時の出来事として語られるのは、ごく短期間のわずかなことでしかない。全体として、主人公の親族及び故郷に関する軋轢と憎悪の感情が過去の回想とともに奔流のごとく饒舌に語られることにより、この長大な小説を構成している。
 『消去』の語りは、主人公であるムーラウの視点にほぼ完全に寄り添っている……しかし、ムーラウの発する「私」という一人称は地の文そのものではなく、ムーラウの発話はあくまでも小説の話者によって引用されたものであることがたびたび示される。小説の本文そのものを統御している話者は、まず間違いなく、さらに後年のムーラウ自身であることだ。にもかかわらず、話者としてのムーラウと主人公としてのムーラウの間には、厳密に断層が引かれることにによって、作品全体の語りが構成されているわけだ。
 また、特に「電報」においては、ムーラウが家庭教師として教えているガンベッティが、多くの発話の呼びかけられる対象であることが示されていることも重要である。
 そんな特徴を持つ『消去』の本文は、例えば次のように書かれている。


政府は日々私の大事なものを飲み込んでは破壊するとてつもない破砕機を動かしている。故郷の町は見る影もない、と私は言った。故郷の風景は広範囲にわたって、みすぼらしいものにされてしまった。もっとも美しい地域が、新しい野蛮人の金銭欲と権力欲の犠牲になった。美しい巨木が立っていたところでも、その木が切り倒され、壮大な古い建物が立っていたところでは、その建物は取り壊され、素晴らしい小川が谷に流れ込んでいたところでは、その小川がずたずたにされる。いったいどうして、すべての美しいものが踏み躙られてしまうのか。そしていっさいは、社会主義の美名のもと、想像しうるかぎりもっとも下劣な偽善のもとに行なわれているのだ。少しでも文化の匂いのするものはいかがわしいもの扱いをされ、問い詰められやがて消去されるのだ。消去する者が、殺戮する者が仕事にかかっている。私たちが相手にしているのは、消去する者にして殺戮する者であり、彼らは至るところで殺戮の仕事を遂行している。消去する者と殺戮する者は、町を殺して、消去し、風景を殺して、消去する。彼らは、国家の至るところにある何千、何十万という役所の中にでっぷり太った尻をおろしており、消去することと殺戮することしか頭になく、ノイジードラーゼーとボーデンゼーの間にあるすべてをどうやったら完全に消去し、殺戮しつくせるかということしか考えていない。(『消去』、池田信雄訳、旧版・上巻p80)


 「消去」とは、ムーラウが憎悪し嫌悪する者どもが、ムーラウが愛し思い入れを持つ対象に対して行なうことのようである。しかしそれと同時に、『消去』という題名の書物を書く計画を立てているムーラウは、ガンベッティに次のように語りもする。


スケッチだけでは十分ではないのだ、と私はガンベッティに言った。私の頭に最終的に残っている唯一のものは、と私はガンベッティに言った、「消去」というタイトルだ。というのも私の報告は、そこに描写されたものを消去するために書かれるからだ。私がヴォルフスエックという名で理解しているすべて、ヴォルフスエックであるすべて、ガンベッティ君、私の言っていることが分かるかね、本当にそして実際にすべてを消去するために書くのだ。この報告の後には、ヴォルフスエックであるものすべてが消去されていなければならない。私の報告は消去以外の何ものでもないのだ、と私はガンベッティに言った。私の報告はヴォルフスエックをあっさり消去する。私は十一時までポポロ広場にガンベッティといっしょに座っていた、と私は机の上の写真を眺めながら思った。私たちはみなヴォルフスエックを引き擦っている。そして自らの救済のためにそれを消去したい、書くことによって滅ぼしたい否定したいという意志をもっている。しかし、私たちがその消去のための力を持ち合わせないときがほとんどなのだ。(同、上巻p144)


私はこの報告を「消去」と名づけるつもりだ、と私はガンベッティに言った。それは私がこの報告の中ですべてを消去するつもりだからだ。私が書き留めることはすべて消去される。私の家族全員がこの中で消去され、彼らの時間もこの中で消去される。ヴォルフスエックは私の報告の中で、私のやり方で消去されるのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p145)


 ……以上いくつかの引用を照らし合わせてみる限り、もちろん、ムーラウの発言は非常に混乱したものだ。ムーラウは故郷を破壊する者を憎悪しているのか、それとも、故郷そのものを憎悪しているのか。「消去」という行為自体は、肯定されるべきものなのか、それとも否定されるべきものなのか。それは意志的に望まれ選択された行為なのか、それとも、致し方なしに選択された行為なのか。さらには、「政府による消去」と「書くことによる消去」とは、果たして同じものなのか。
 もちろん、このような記述の混乱は、一人の人間が持ちうるその内面の矛盾し混沌とした有様をそのまま散文の形に移したことによって生じている者だ。そして、そこにある混乱、正反対であるはずにもかかわらず実際には入り交じり明確な境界も見極め難い愛憎……それら全てを克明に認識し記述した上で、それでもなおその抹消を望むからこそ、「消去」という行為が選ばれることになるのだろう。
 ムーラウは、自らの言う「消去」について、ガンベッティに次のように語っている。


私が彼に、どうやったら私の言う意味で世界を変えることができるかを話すと、ガンベッティの注意と熱狂はどんどん大きくなった。それにはまず世界を全面的かつ過激に「破壊」し、無に至らしめるまでに「否定」し、それから自分に耐えられると思える仕方で再生させること、一言で言えば、完全な新世界として再生させることだ。それがどのようなかたちで起こるかは言えないが、再生されるのはまず完全に否定することが必要だということは分かっている。というのも、世界の完全な否定なしに世界の刷新はありえないからだ。(同、上巻p151)


もちろん、私たちがそう考えれば、すべての古いものは私たちに敵対するようになる。つまり私たちはすべてを敵に回すことになるのだ、ガンベッティ君、と私は彼に言った。だからと言って、古いものを私たちの望む新しいものに取り換えるために滅ぼそうという私たちの考えが妨げられるようなことになってはならない。すべてを放棄するのだ、と私はガンベッティに言った。すべてに反発し最終的にはすべてを消去するのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p154)


 ……なるほど、いざ『消去』の全篇を読み終えてみると、その結末部分でムーラウがなしたとある行為は、確かに、ヴォルフスエックに対する「消去」とも言える行為であるようにみえる。だがそれは、既に引用した部分で言われているような「世界の完全な否定」からはあまりにもかけ離れている。
 ムーラウが述べる「消去」と、実際になす「消去」の間には、巨大な懸隔があるーーだが、それ以上に、ここにはより本質的な問題がある。……もし世界の完全な絶滅、その消去を願っているのであれば、なぜムーラウは、自分の考えを詳細にガンベッティに語り伝え、自身の言葉を残そうとする必要があるのか。ガンベッティという人物はと言えば、そもそもがムーラウの教え子なのであり、ムーラウが自身の後継者として育てたがっている節すらある。
 全世界の完全な消滅を願う人間が、自身の後継者の育成に励む……これは、あまりにもあからさまな矛盾ではないか?


 とはいえ、『消去』でひたすら繰り広げられるムーラウの饒舌な言葉は、自身の言葉に潜む矛盾や自己欺瞞についてすら、なんら隠すことなく語ってみせる。……そこには、例えば、次のような言葉が見られるのだ。


私たちが憎むのはもっぱら私たちが間違ったことをしているときであり、間違ったことをしているからだ。母はいやな人間だ、妹たちもそうだが、そのうえに愚鈍だ、父は軟弱だ、兄は哀れな道化だ、全員が愚か者だ、絶えずこう考え(そして口にすること!)が、私の習慣になってしまった。この習慣は、私にとって、基本的には卑劣極まりないものだが、武器にはなり、その武器でともかくも良心の呵責だけは静めなければならなかった。家族の者たちも、私が彼らにしたように、私をけなし、私を晒しものにし、私を性悪に仕立てればいいのだ、実際、私はいつのまにか彼らを性悪にしてしまったのだが、と私はガンベッティに言った。私たち人間は簡単にそしてすぐに、憎んだり、非難したりすることに慣れてしまう。自分の憎しみと非難に、そのとき、ほんのわずかでも正当性があるのかと問うこともしない。(同、上巻p74)


私たちはみな悪魔的本性の持ち主だが、その正体は写真コレクションのような、どうでもいいくだらないものの中に現れる。私たちの下劣さ、卑しさ、厚かましさが、そういうくだらないものによって証明されるのだ。なにもかも私たちの弱さに原因がある。というのも私たちは誠実であるなら、自分より弱いと見たがっている相手より実際はずっと弱く、自分よりおかしいと見たがっている相手よりずっとおかしく、滑稽で、無節操な存在だということを認めざるをえないからである。「私たち」こそ、無節操で、おかしくて、滑稽で、異常な存在であって、ガンベッティ君、相手のほうがそうではないのだ。自分の家の者たちのほかでもないこういう写真だけを保存し、しかもそれをいつでも見ることのできる机の引き出しにし舞うことで、私は自分の卑劣、破廉恥、無節操を証明している。(同、p181)


私たちは時々こんなふうに誇張をはじめるが、と私はだいぶ後でガンベッティに言った、そうなると誇張こそ唯一筋の通った事実に見えてきて、本来の事実はもう全然目に入らず、際限なく繰り返される誇張しか目にとまらなくなる。誇張への熱狂的信奉はいつでも私を癒してくれた、と私はガンベッティに言った。私がこの誇張への熱狂的信奉を誇張の技法に変えてしまったとしたら、それが、私を私の惨めな状況と精神的倦怠から救い出す唯一の方法だったからだ、と私はガンベッティに言った。私は自分こそ私の知るもっとも偉大な誇張芸術家だと言い切れるところまで、誇張の技法を磨き上げた。私は私以外に私のような人間を知らない。いまだかつて誇張の技法をここまで極めた者はいない、と私はガンベッティに言った。そしてそれに続けて、もしいきなり誰かに、私の正体は何なのだと聞かれたら、それに対して、私の知るかぎりもっとも偉大な誇張芸術家だと答えるしかないだろう、と言った。(同、下巻p444~445)


 実は、『消去』の作中において、以上のような矛盾した態度にとらわれているのは、ムーラウだけではない。ムーラウと親交のある詩人・マリアもまた、次に引くような態度を見せているのだ。


マリアは私に、「本当はウィーンに戻りたいの」と言ったとしても、その直後の、時には、二、三分も経たないうちに、反対のことを言う。同じくらい確信をこめて「実を言うとウィーンには戻りたくない」と言うのだ、実はローマに残りたい、ローマで死んでもいいくらいに思ってるわ、と。マリアはよく、ローマで死にたいと言った、と私は考えた。マリアはその知性ゆえに、ローマにいること、実際にはウィーンを愛していながらローマにいることを余儀なくされている、と私は考えた。しかしマリアは、住む家の手配をしてくれ、実際、ウィーンの重要な扉をすべて開いてくれたウィーンの知り合い全員にけんつくを食わしてから、二、三週間もすると、ぞろまた、今度こそ最終的に「故郷」であるウィーンに戻るつもりだ、と言いはじめ、それを聞くと私はいつも面と向かって笑うことで話を中断せずにいられなくなるのだ。というのもマリアの口から出る「故郷」という言葉は、私の口から出たのと同じくらいグロテスクに響いたからだ。(中略)ローマ人であろうとしながら同時にウィーン人であるマリアは、こういう危険な感情と精神状態をばねにあの偉大な詩を書くのだ、と私は考えた。(同、p172~173)


 ……なるほど、ここでのマリアのように平然と矛盾した態度を取ってしまうこと自体は、誰しも多かれ少なかれ犯してしまうことではあるだろう。そして、ムーラウは、そのような矛盾・自己欺瞞、人間の混乱した本質を直視することが、ある種の文学的達成をもたらすと考えているようである。
 そして、『消去』に書き込まれた散文、そこに人間の愚かさや欺瞞が混沌としたままに活写されているのに接すると、確かに高度な文学的達成があるのも事実である。……しかし、『消去』の全体を改めて確認した上で、私はこう述べなければならない。……ムーラウの言う「消去」とは、言語そのものの水準においては決してなされていないのだ、と。


 『消去』という小説の作中における「消去」という言葉は、様々な水準での様々な意味を同時に担わされているものである。政府による開発・環境破壊の類も「消去」であり、ムーラウが法律上の権利を持ってヴォルフスエックに対してなす行為も「消去」である。
 そして、「世界の完全な否定」に向けて「書く」こともまた、「消去」であるとされる……だがこれは、具体的にはいかなることなのか。書くことこそが「消去」であるのだと述べるムーラウは、しかし、実際に行う行為として「消去」を実践するとき、言葉とはほぼ無関係な水準にある、行動の人となる。一方、ムーラウが実際に発する言葉のほとんどは、自らの教え子に語りかけ、自分自身の後継者を育成するという、世界を絶滅させ抹消するなどということとはおよそ対極の水準にあるものだ。
 ムーラウは、言葉を発し書く人としての己を最も重要視している一方で、実際に言葉を操る水準においては、なんら「消去」を実行していない。もっと言えば、言語そのものの水準で「消去」がなされるのであれば、語られる対象ではなく、語るための言葉そのものもまた消滅に向かわなければならないはずなのであるが、そのような契機は『消去』という作品には微塵もない。
 つまり、ムーラウの散文は、人間が抱え込む愚かさや矛盾や自己欺瞞、そこにある混沌とした有様を直視し散文に写すことに成功してはいるのだが、そこでの検討が、言語そのものの水準での自己言及的な領域にまで到達することは決してない。
 ……だからこそ、言葉を発する人間としてのムーラウはあらゆる対象の消去を望むと言いながらも、自身の言葉を受け取る存在としてのガンベッティの消滅を望むどころか、そこにガンベッティが不動の存在としてあり続けることを疑うようなそぶりすら見られない。つまり、「語り手としてのムーラウ」と「聞き手としてのガンベッティ」という、作品そのものを構成するフレームは、作品によって自己言及的に反省される対象から無条件に除外されているのである。だからこそ、ムーラウからガンベッティに対して投げかけられた言葉は何ら「消去」されることなどなく、どこまでも饒舌に繁殖し、膨大な量の言葉を内包する長篇小説自体は、安定した語りの構造を備えて自足することになるわけだ。
 ムーラウの言葉はなにものも「消去」しないし、それ自体が「消去」されることもない。それこそが、『消去』という小説が抱え込んだ最大の自己欺瞞なのである。


 ……以上のようなことを別の側面から考えるならば、そこにあるのは、小説を構成する言葉のあり方と、言葉が発せられる元々の起源にある人間の身体とが切り結ぶ関係性との問題であるだろう。
 言葉だけを見るならば意味的に矛盾・混乱し、時制の面でも辻褄が合わない……それでもなおそんな言葉の群を一つの作品として構成することができるのは、そもそも矛盾・混乱した言葉が、一人の人間の身体という独立したフレームの内側にも平然と共存しているからだ。
 つまり、トーマス・ベルンハルトという小説家は、小説の言葉のあり方が、その言葉を発することになった身体との関係によって規定されるというところにまで、文学的達成を遂げたのである。しかし、そこにある身体というフレームそのものには検討がなされなかったがゆえに、作中に書かれている否定的・破滅的な意味とは裏腹に、長大な作品を平然と書き続けることのできる小説家でありえたわけだ。
 例えば、『消去』におけるガンベッティは、ほとんど、ムーラウに呼びかけられムーラウに教えられる対象としてしか存在していない。……だが、ガンベッティがムーラウの言葉を批判的に検討し、時に師の教えを受け入れず時に反論していたら、どうなっていただろう? ……もちろん、『消去』という小説は今ある形では存在しえなかった、言い換えれば、言葉を発する人としてのムーラウの身体が変容する契機があったはずだということだ。


 とはいえ、トーマス・ベルンハルトの達成は――ベルンハルトの小説の、ここまで述べてきたような側面での先行者たるルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネとともに――二十世紀の文学理論によっては補足不可能な領域にまで到達したものだったと言える。言葉の表層にあるレトリックが、身体を通した人間の認識と不可分に結びついていることに改めて着目したのは認知言語学であり、これは従来のテクスト論とは根本的に相容れない方向性であるからだ(ついでに言えば、テクスト論は人工知能によって置き換え可能となる可能性があるが、認知能力と結びついたレトリック分析は、完全に人間同様の強い人工知能を搭載したロボットが完成しない限り不可能だろう。そういう意味では、二十一世紀の文学理論はレトリック分析の方向性で発達することはまず間違いないと私は考えているのだが……そうなると、詳細にヴィーコを読み込むところから始めなければならない……ということは、とりあえず二十一世紀も、ジョイスの覇権は生存確定ということにもなるのであった……)。
 しかし……ベルンハルトの言う「消去」が、本当に「書くこと」、言葉そのものの水準にまで向けられていたら、どうなっていたのだろうか? 
言い換えれば、言葉が担ってしまう否定性までもが突き詰められ、言葉と身体の結びつさえもが解体され、言葉の自壊や身体の変容が実演される水準にまで、文学的追求がなされていたならば?
 私が、ベルンハルトの高度な達成を理解しながらも最終的には否定しなければならないのは、ベルンハルトに既に先行する中に、そこまで到達した人々がいたことを知っているからだ。……もちろん、それは、サミュエル・ベケットでありアントナン・アルトーであるのであった。








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