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バザンを読むゴダール

 アンドレ・バザンの映画批評はわかりにくい。しばしば、バザンの議論の論旨は不明瞭であり、分析の俎上に乗せる映画を綺麗に裁断するような爽快感はなく、むしろ、バザンが対象とどのように接しているのかすら把握しにくいようなことすら少なくない。
 その一方で、例えば『映画とは何か』の冒頭に収録された、バザンの代表的な評論の一つである「写真映像の存在論」は、人口に膾炙している要約によると、極めて素朴なリアリズムを肯定するものであるとされている。写真および映画が多くの芸術と異なるのは、現実に存在する事物からの転写を含むという、存在論的な側面を持つからなのであり、このような議論から、編集を排除し長回しで撮影されたシークェンス・ショットを重視するというバザンの美学的立場も導かれる、ということになっている。
 ……しかし、バザンが論じているのがそれほど単純なことに過ぎないのであれば、なぜ「写真映像の存在論」は、あれほどまでに論旨が不明瞭でわかりづらい文章でつづられているのか。あの評論は、書きようによってはもっとクリアに書けた――言い換えれば、それは単に、バザンの論理的な文章能力の欠如によるというのだろうか。
 ……実は、最近、アンドレ・バザンに関する邦語文献がいろいろと充実してきたということもあり、たまたままとめて読み込んでいたのだけれども、そこでわかったのは、私はバザンのリアリズムの議論に関して、根本的に誤読していたということなのであった。映画研究者による最近の議論なども含めてチェックしてみると、バザンの議論を単純化した議論の粗雑さを批判する論者もいる――しかしその一方で、それが定説となっているわけでもなく、過度に単純化されたままの従来の解釈もそのまま流通しているようだ。私自身、バザンの文章そのものを読み込んだ結論としてではなく、なんとなく流通している常識に引っ張られて、バザンの議論の複雑さをよくわかっていなかったのだ。


 「写真映像の存在論」において、確かにバザンは、現実に存在した事物の痕跡が転写されるがゆえに写真および映画は肯定されるという、非常に素朴な意味でのリアリズムを展開している。しかし、それと同時に、その単純な論旨には回収できず、一見すると議論の道筋から逸れているようにすら思える部分が、少なくとも二つある。
 まず一つは、バザンが「真のリアリズム」と「疑似リアリズム」とを区別し、前者のことを「世界の具体的な意味、真の意味を表現したいという欲求」と定義していることだ(なお、この点に関しては、三浦哲哉がバザンを論じた「二つのリアリズムと三つの自動性」(「現代思想」2016年1月号所収)において詳細に論じられている)。……つまり、バザンは、「疑似リアリズム」とは区別される「真のリアリズム」とは何かを端的に述べるのに際して、現実の世界の存在論的なありかたなど、微塵も語ってはいないということだ。
 もう一つは、この評論の結語である。現実の世界の痕跡によって成立する映画の存在論的なあり方を論じながら、その最後の最後に至って、バザンは、それまでの論旨には全く登場しなかった、以下のような言葉を付け加える。


 他方、映画はひとつの言語でもある。(「写真映像の存在論」、野崎歓訳、『映画とは何か』岩波文庫版所収、上巻p21)


 この言い回し自体は、マルローを参照したものであるらしいのだがーーとはいえ、まさにこのような文章をわざわざ結末において付け加えてしまうことが、バザンの議論のわかりにくさの本質であるように、私には思えるのだ。
 なるほど、映画を構成する映像とは、現実世界の痕跡が写し取られた、リアリズムの成果である。しかしその一方で、ほとんど全ての映画は複数のショットがつなぎ合わされて関連づけられて構築されている以上、個々のショットが言語として機能する、複数の記号によって織り成される構造体でもある。……そうである以上、映画の存在論的な側面だけを論じる立場を提出したところで、あらゆる映画のあらゆる側面を汲み尽くすことなどできるはずもないわけだ。
 そして、そのようなとき……アンドレ・バザンという批評家は、自分の議論によっては捕捉しきることのできなかったこと、自分の限界ゆえに明らかにすることのできなかった、映画の側には本来宿っているはずの可能性を、まったく無防備なまでにごろりと投げ出してさらけ出してしまう。
 したがって、バザンの議論は完結しない。そこにはっきりと可視化されている議論の混乱は、映画の複雑さに追いつけない自身の未熟さを包み隠さずに投げ出しているものである。……ならば、バザンが単なる存在論的な問題には回収しえない「真のリアリズム」なるものを提示しなければならなかった理由も、そこにあるのだろう。つまり、「写真映像の存在論」の議論は、あくまでも映画の一つの側面を論じたものでしかない以上、「真のリアリズム」は、バザンの議論をごく一部として含み込む、さらに上位の概念として提示されているのだ。


 よくよく考えてみれば、映画ほど数多くの要素から構成されている芸術もない以上、ただ一本の映画についてすら、その内容を完全に言語によって分析することは、事実上不可能である。撮影の問題があり、それに際して照明や音響の問題があり、俳優の演技があり、そのベースに脚本があり、最終的に編集の問題がある。言語によって、それも限られた分量で対象を分析するなら、その映画のごく一部にしか触れ分析することはできない。
 したがって、ある一本の映画を前にして、わかりやすい整理された評価を下す者、対象を心地よいまでに裁断しきってみせる者、即座に飲み込める断言を下す者……これらは、全て、対象となる映画のごく一部にしか触れることができていない上に、そのこと自体を隠蔽する言説であるだろう。
 一本の映画を前にしたときのバザンの批評は、むしろ、己の無能さをこそさらけ出す。そして、言語による批評では汲み尽くすことのできない映画そのものの豊穣さをこそ、逆説的に指し示す……(そんな風にバザンの批評を読むようになってみると、彼が、ほとんど野生児のごとき暴れ者にすぎなかったフランソワ・トリュフォーの保護者になりえたのは、その批評家としての本質と不可分に結びついていたように思えてくるのだ)。
 既に自我が硬直しきっている、もしくは、自我を語ることにしか興味を持たない者による批評は、対象から、自分が語りたい部分しか見出さず、残りを捨象するだろう。一方、バザンの批評は、己の限界ゆえに語りきれない残余をごくあっさりとさらけ出しつつも、対象を語る言説の精度を上げるために、絶え間なく自我を変容させ、自らの議論を不断に修正し続けるーーこれこそが、しなやかにして強靱な知性であると言うべきなのだろう。


 改めて、バザンの批評をそのようなものとしてとらえてみれば……バザンの議論を、編集を排除した長回しのショットを肯定するものとしてとらえるなどというのは、あまりにも粗雑にバザンを矮小化したものに過ぎないと痛感される。
 なるほど、バザンは、長く持続し多くのアクションを存在論的に統合したショットを肯定する。また、一つのアクションを構成するショットを分割するような編集を否定しもする。そして、そのような大ざっぱな構図に基づいた短評を実際に書くこともしている。
 しかし、バザンが「ある特定の状況における特定のショットの分割の否定」をなすことは、映画全般におけるショットの分割と操作・編集一般を否定することでは、全くない。実際、以上のようなことをふまえれば、バザンによる次のような言葉は、むしろ非常に明快なものとなるはずである。


 作品の美学的洗練と、現実を描くだけでよしとするリアリズムの生々しさや即効性といったものを対立させる考え方には注意しなくてはならない。芸術において「リアリズム」とは何よりもまず深く「美学的」であるということを改めて思い出させたところに、イタリア映画の大きな功績があるといえよう。(「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、谷本道昭訳、『映画とは何か』所収、下巻p91~92)


それゆえ私たちは、より多くの現実をスクリーンに現出させようとするあらゆるシステム、あらゆる技法を「リアリズム的」と呼びたい。当然のことながら、「現実」は量として捉えるべきものではない。同じ出来事、同じ対象について、さまざまに異なる表現が可能である。それぞれの表現は事物の性質のいずれかを捨て、いずれかを拾い上げるものであり、私たちは拾い上げられた性質をもとにスクリーンに映された事物を理解する。(同、下巻p95)


 このように、すべての芸術の中でもっともリアリズム的な芸術である映画でさえ、他の芸術と同じ宿命にある。映画は現実全体を捉えることはできず、現実はどこからか必ず映画から逃れていくのだ。技術的な進歩は、それが的確に用いられた場合、現実を捉える網の目を狭めることができるかもしれない。だが、複数の現実のうちいずれかを、多かれ少なかれ選択しなくてはならないことに変わりはない。(同、下巻p99)


 映画批評が一本の映画の全てを語ることができないのと同じく、映画が現実の総体を捕捉することはできない。……そして、だからこそ、映画が現実と対峙するとき、選択しうる方法は無数にあるゆえに、「複数の現実」があるのだと、バザンは述べている。
 だから、ネオレアリズモに見られるように、「写真映像の存在論」におけるリアリズムの議論がそのまま実現したような映画をバザンは高く評価する一方で、それとは異なるあり方をしたリアリズムが存在することをも、同時に認められる。だからこそ、バザンは、例えば次のように書くことにもなるわけだ。


以前に私は、現代映画のリアリズムのいくつかの側面を検討し、『ファルビーク』と『市民ケーン』にリアリズムの手法の両極を見るに至った。つまり、『ファルビーク』は被写体のリアリティ、そして『市民ケーン』は表象の仕組みのリアリティをわがものにしているのである。『ファルビーク』ではすべてが真実であるのに対して、『市民ケーン』ではすべてがスタジオで再構成されている。(「『揺れる大地』」、『映画とは何か』所収、下巻p130)


 ごく通常の意味での映画のリアリズムが「被写体のリアリティ」と言われる一方で、必ずしも現実の被写体が転写されているわけではない、むしろ編集の論理が重要であるオースン・ウェルズの『市民ケーン』は、「表象の仕組みのリアリティ」と表現されている。
 このことは、非常に重要である。なぜならば、バザンによるリアリズムの問題が単に素朴な現実からの転写に過ぎないという解釈を前提にすると、(バザンが高く評価する)『市民ケーン』が現実からの転写ではないトリック撮影を含むということが、バザンの理論の致命的欠陥であるかのような批判が出てくるからだ。しかし、既に見たように、そのような批判は、単にバザンの議論を矮小化している者の誤読に過ぎない(最近のことでも、『映画とは何か』の新訳の訳者の一人である野崎歓の『アンドレ・バザン 映画を信じた男』を一読してみると、バザンのリアリズムの問題を単純化して捉えた上で、ロッセリーニをはじめとするネオレアリズムの方の議論ばかりが追われていたので、本当にがっくりきた……)。
 では、バザンがウェルズに即して言う「表象の仕組みのリアリティ」とは、ネオレアリズモなども含まれるであろう「被写体のリアリティ」と、いったい何が異なるのか。


 短いジャーナリスティックな時評ではなく、単著としてオースン・ウェルズを論じた論考の中で、バザンは、「表象の仕組みのリアリティ」の実態を詳細に書き記している。
 それを読む限り、バザンの言う「リアリズム」とは、「モノとしての現実の世界が存在し、それを前提として、それを転写した表象としての記号の世界が存在する」というような、単純な図式に基づいてはいない。例えば、次のような記述を見てみよう。


 実生活で何らかのアクションに関わっているとき、私の注意力は、みずからの投企に導かれて、同様にある種の潜在的なデクパージュを行う。それによって、対象は確かに、私にとってそれが持つ面のうちのいくつかを失ってしまい、記号ないし道具となる。とはいえ、アクションはつねになされる最中にあり、対象はいつでも自由に、私をその物体としての現実性に立ち戻らせ(たとえば、ガラス製であれば、手に怪我を負わせるというように)、まさにそのことによって、予定されていたアクションに変更を加えることができる。私自身も、いかなる瞬間にも、そのアクションをもう望まなくなってもいいし、あるいは道具箱のようには見えなくなった現実それ自体によって、アクションから気をそらされることがあってもいいのである。
 ところが、古典的なデクパージュは、私たち自身と対象の間に相互的に存在するこの種の自由をすっかり取り除いてしまう。それは自由なデクパージュに代わって、アクションとの関連におけるショットの論理が私たちの自由を完全に麻痺させるような、強制されたデクパージュをもたらすのだ。私たちの自由は、それがもはや行使されえなくなる以上、もはや感じ取ることができなくなる。
 『ケーン』と『アンバーソン家』における奥行きの深い画面の組織的な使用は、もしウェルズがそこから古典的なデクパージュの改良しか引き出していなければ、なるほど月並みな面白味を持つ程度だろうが、ウェルズはそうではない別の使い方をしているのだ。(『オーソン・ウェルズ』、堀潤之訳、p81~82、ルビと傍点は省略)



 バザンが記述しているのは、極めて入り組んだ事態だ。……そもそも、映画がその対象とするような題材、ある人間によるなんらかのアクションがなされる際、そのアクションが完遂されるためには、当の人間が周囲を記号として認識し、記号として操作する能力を持っていることが前提となる。……しかし、記号として機能する物体には、モノとしての実態があるのだから、記号としての機能を失って単なるモノに戻るようなことも、いつでも起こりうる。
 つまり、映画が映画として存在するために参照する「現実」とは、既にしてモノの世界と記号の世界とが複雑に入り組んだ世界であることを、バザンは明言しているわけだ。
 バザンが否定するのは、素朴な意味でのリアリズムが失われるからではない。そうではなく、モノの世界と記号の世界とが入り組んだ複雑きわまりない実態を持つ場所としての「現実」、そのような現実を、硬直し慣習化された基本的スタイルによってのみ表現し、映画を見る者の自由を奪うこと――言い換えれば、「世界の具体的な意味、真の意味を表現したいという欲求」が見失われるからこそ、否定するわけだ。


 奥行きの深い画面は、こうしたアクションの美学に先立つ技法面での条件だったということが、いまやよく見て取れる。奥行きの深い画面だけが、このように有効な仕方で、現実を私たちの精神に重くのしかからせることができたのだ。『市民ケーン』の劇的なデクパージュは、この技法面でのデクパージュによって仕上げられなければならなかった。ちょうど調査員たちがケーンの人生の意味を見出すには至らないのと同じように、観客自身もまた、デクパージュによってパズルに向き合わされるべきなのだ。(同、p83~84)


 バザンのリアリズムとは、モノの世界が現実にそこに存在することを確認するための存在論ではないむしろそれは、観客がいかにして一本の映画と向き合うべきなのかを検討する、認識論としてある。
 だからこそ、バザンは、ウェルズによる編集という行為を否定しているのではないわけだ。むしろ、編集においてすら、「リアリズム」は存在しうることを、バザン自身が示唆している。


 この手短な検討において、確かに私はごく限られた事例しか取り上げなかったかもしれない。映画全体が以上のような原則に従って組み立てられているわけではないし、たいていの場合、きわめて特徴的な断片のただ中でも、オーソン・ウェルズはカメラによるシーンの古典的な分析に頼ることをためらわない――とはいえ、見たところ伝統的な提示の手法への回帰が、映画の全体的なスタイルをいささかも損なわないのはなぜなのか、そしてウェルズがすばやいモンタージュを用いるとき、彼がその部分にまで、固定ショットにおける「リアリズム的」な技法の要諦を通用させるに至っているのではないか、ということはさらに検討しなければならないだろう。(「『市民ケーン』の技法」、堀潤之訳、『オーソン・ウェルズ』所収、p144)


 アンドレ・バザンのリアリズム論は、単に素朴な現実信仰、長回しの称揚などではない。むしろそれは、実体を持つモノと抽象的な記号とが不可分にからみついてしか存在できない現実世界をいかに捕捉するのかという、複雑に練り上げられた議論であるのだと言える。
 長回しが肯定されるのは、それが、多様にして複雑な現実のある一つの側面をよく捉えるからに過ぎない――そして、バザンの議論を敷衍して考えれば、例えば、言語記号をそのまま画面に映すことすら、場合によっては「リアリズム」として機能しうる。
 バザンのリアリズム論を、そのような巨大な射程を持つものとしてとらえたときーーまさにそのようにして映画によって現実に迫る者、バザンの議論の最も複雑にして困難な部分をも実作によって継承しえている映画作家が、たった一人だけ存在していることが明らかになる。……もちろん、ジャン=リュック・ゴダールがその人である。


 そもそも、アンドレ・バザンが創刊に携わった「カイエ・デュ・シネマ」において批評家として活動していた若き日のゴダールは、ヌーヴェル・バーグの中にあっても、それほどバザンの影響を受けた方ではなかっただろう。
 実際、「カイエ」に発表した「古典的デクパージュの擁護と顕揚」という評論について、後年のゴダールは、編集の重要性を強調することが、バザンへ論戦をしかける行為であったかのように述懐している。……とはいえ、ゴダールの長篇デビュー作『勝手にしやがれ』の時点では、長回しが非常に重視されているし、そのような傾向は、少なくとも『軽蔑』のあたりまでは続いていたであろう。
 そのため、私の以前の印象としては、「なんだかんだ言いながらもバザンの長回し重視の影響下にあったゴダールは、やがてバザンの影響下から完全に脱し、過激な編集の人となった」と、漠然と捉えていたのだった。……しかし、バザンの批評を詳細に読み返してみた今となっては、それは完全に誤りであったことがわかる。ゴダールの変貌とは、むしろ、バザンの議論の深化の過程であるとすら言えるのではなかろうか。
 もちろん、ゴダール自身のキャリアが進む過程で、バザンの映画批評が直接的な影響を及ぼし続けたなどということは、疑わしい。しかし、バザンの議論が、ゴダールが特異な変容を遂げたその後でもなお、その作品を捉え、肯定することもできうるような射程を持っていたことは、確実なのである。……そして、バザンが没してはるかのち、1985年に至って、当のゴダールは、次のように述べていたのであった。


ぼくは彼とはほとんどつきあいがなかった。話しあう機会は滅多になかった。というのも、かなり早くに死んでしまったからだ。いま彼のテクストを読み直してみてわかるんだが、ぼくは彼と話しあうことができたはずだ。(「人生を出発点とする芸術」、奥村昭夫訳、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』所収、p7~8)










法月綸太郎『挑戦者たち』のその後

 少し前に、このブログで法月綸太郎『挑戦者たち』の解決編を勝手に書いてみたことがあったが、その後、そのことをふまえて改めて読み返してみると、色々と思うところがあった。
 まあ、もともとの解決編にいちいち書かなかったことでも、気づいていた細かい小ネタならちょこちょこあった。例えば、「絶対領域」の入り口たる63章が鏡文字による挑戦状で、参考文献にはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』が挙げられている……これは、アリスが鏡を通り抜けて異世界へ入っていったことになぞらえているのであろう(また、その後考えるようになったこととして、高山宏がアリス論においてキャロルの創造する閉じた世界を「外の時間の流れを一時とめてくれる」ものであると評したことも参照されているのかなあ、とも思うようになった)。
 そのような小ネタもいちいち挙げていくと結構あるのだが、それ以上の問題として、私が書いた解決編が、そもそも作者としては、「そのようなことを書く読者もいる」ということまで織り込み済みなのではないかと思えるようになってきたのだ。
 解決編における私の推理では、作者である法月綸太郎本人が作中に登場し介入している、ということになるのだが……その前提だと、作中では、作者は「狩瓶以太郎」と名乗っていることになる。
 そして、この「狩瓶以太郎」なる人物は、86章において、何者かによって殺害されたことになっている。また、20章および91章を見ると、謎を出す者は、謎を解かれたときに、解いた者によって殺害されることが示唆されてもいる。
 と、いうことをふまえてから、改めて解決編を読み返してみると……あれ? ……真犯人、おれじゃん。
 私自身は、『挑戦者たち』という小説の中で密かに仕掛けられていた謎を解く過程で、そこで同時に語られてもいたストーリーの方にも決着をつけたつもりではあったのだが……よくよく考えてみると、「読者によって謎が解かれるということが、同時に、読者による作者殺害が成就することである」というところまで、実は計算されていたのではないか、と。
 『挑戦者たち』という小説は、クリスティの『そして誰もいなくなった』の語りの構造を踏襲して構成されていると推測していたことは既に述べたのだが……単に「踏襲した」というよりも、むしろ、その構造の過激さをより押し進め徹底した、ということであるのかもしれない。つまり、『挑戦者たち』とは、謎を提示する作者が、全く同時に、作中で殺害される被害者でもある、ということだ。そして、「読者=犯人」による「作者=被害者」への干渉とは、もちろん「謎を解くこと」であるのだが、同時に、「謎を解くこと」が必然的に「作者を殺害すること」でもある。
 したがって、作者本人が仕組んだのが作者殺害事件である以上、殺害の現場そのものは、作者自身が語ることはできない。よって、作者が事件全体の語りを遂行するためにできることは、自分が語り終えた小説の外部に自分以外の者が結末を付け加えるように仕向ける、ということしかないだろう。
 そう、考えてみると、「読者参加型のロジック小説」(19章)が登場し、時には読者の方から作者に挑戦しさえする(34章)ことなどを作中に散りばめていたのは、『挑戦者たち』の外部に作者ならぬ読者が解決編を書き加えること自体を教唆していたのではないか、とすら思えてくるのだ。実際、私は解決編の内部で謎解きのみならずストーリーも付け加えたのだが……実際に謎を解いてみると、付け加えられるストーリーには選択の余地がなく、一本道でしかありえない。つまり、私が考えて書いたと言うよりは、作品の構造によって必然的にそうなるように書かされていたのに過ぎないのである。
 つまり、「読者による作者殺害事件」こそが『挑戦者たち』が仕組んだことであるのならば、読者が作者を殺害するように仕向けたのは、他ならぬ作者なのである。……つまり、真相を特定しようとすると作品世界からはみ出しかねない「操り」の問題が、作者と読者との間で循環するように、周到に構築されているということだ。
 ……などということを考えていると、ふつうなら「考え過ぎじゃないか?」という、ほとんど陰謀論的な状態だと思うのだが……なんせ作者が法月綸太郎だから、このくらいのことは普通に考えているのだろうなあ、と。
 うーむ……この『挑戦者たち』って、法月綸太郎のミステリに関するほとんどパラノイア的なまでの執着が他人にも感染するように仕向けられた、呪いの書なんじゃなかろうか……?


 ……まあ、そんなことを考えるにつけ、いったい自分が書いているのか書かされているのかすらわからなくなっていたところなのではありましたが……一方で、やはり私がたどり着いたのは真の正解であったのだと確信できることもあったのです……
 それはもちろん、プレミアム挑戦状の正解者プレゼントに関することなのですが……正解者には法月綸太郎自身がサイン色紙を書いてくれるということなので、この機会は、自分の推理に最後の確認をするチャンスにできるぞ、と考えました。
 そこで私は、正解を書いて応募したハガキに、自分が真の正解に到達したことを示しつつ、とある文言を色紙に書き添えてもらうことをリクエストしてみました。私が「真の正解者」であるならば、おそらくこのリクエストには応えてもらえであろう、と考えたのです。
 なんというか、法月綸太郎本人にその文言を直接書かせることに成功した私は、やはり、真の勝者であると言えるのではないでしょうか。……私の手元に届いたサイン色紙は、以下のようなものになっていたのです。






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 法月先生、ありがとうございましたー! ……それにしても……やはり、あなたは……









アメリカン・ドリームを再発見する――「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の到達点(下)

 ……というわけで、前回の続き。「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」は、アメリカの現実社会の情勢を執拗に描きつつその暗部を徹底して見据えていたのだが、その果てに、あの超絶的にすばらしい15号に到達したのだった(2016年の個人的なベスト・シングルイシューは、「DCユニヴァース:リバース」さえなければ、間違いなくこの15号だったのだが……)。
 もともと、15号の予告されていたカヴァーアートを見てみると、Dマンの、それも、プロレス会場にいる勇姿……そして、そこに添えられた説明はと言えば、「君たち読者が望んだからこそ、この号は実現したのだ!(……えーと、まあ、君たちと言ってもその内のほんのごく一部かもしれないが……)」などと書かれていた。
 ニック・スペンサーと言えば、ネタキャラ扱いされて失墜したDマンの名誉を完全に回復するという、キャプテン・アメリカ史上不滅の偉業を成し遂げたライターである。その後のDマンの活躍を見ていても……例えば、敵によって追いつめられ窮地に陥ったかに見えたサムが「もうおれへの救援はないかと思ったか?」とか言い、そこでいざページをめくってみると、見開きブチ抜きで救出に駆けつけるDマン! ……などという、全世界で三億五千万人はくだらないとも言われるDマンファン歓喜の、とんでもなくすばらしいストーリーが展開されているのであった。
 そんなDマンが、ついにプロレスの世界に舞い戻る――まあ、そうは言っても、メインのストーリーラインからは外れた番外編のようなものなのだろうと思ってはいたのだが……あにはからんや、これが、思いっきりこのタイトルの本筋に絡んだ話になっているのであった。


 さて、15号の冒頭で語られるのは、チャリティのための興業で、Dマンことデニス・ダンフィがプロレス復帰を果たすことになった顛末である……そして、その舞台となるのは……そう、プロレスの殿堂、MSG!
 サムの周辺の一行もこの試合を観戦に赴くことになるのだが……ただ一人、いつもと様子が異なる人物がいるのだ。サムがキャプテン・アメリカになってから後、新たにファルコンとなったホアキン・トレスである。……正直なところ、それまでの時点ではそれほどはっきりとしたキャラが立っているようにも見えなかったホアキンであったのだが、いざみんなでプロレスを見に行くとなると、ものすごいテンションで早口でまくし立て始め、「おれはWWEも新日本プロレスもROHもルチャ・アンダーグラウンドも見てる! しかし、今日は! 今日の試合だけは特別なのだ!」などと、別に聞かれてもいないうんちくを盛り込みつつ、デモリション・ダンフィがいかに特別なレスラーであるのかを声高に誉め称え、周囲にどん引きされつつ「お前、そんな奴だったのかよ」的に困惑されるのであった……(わかる、わかるぞ、この感じ……我が身を振り返ってみても覚えがありすぎて、全く、身につまされるものがありますなあ……とはいえ、ホアキンよ、これだけは言っておきたい。君は年代的にECWは直接見てないんだろうが、たかだかそのあたりの団体名を挙げた程度で「ハードコア」とか言うのはやめてもらおうか……アメリカン・プロレスの文脈においては、それは、我らECWファンの言葉なのだよ……)
 かくして、バトルスター(ジョン・ウォーカーがキャプテン・アメリカであった頃のバッキーでもあった)との因縁の一戦に臨むDマン。しかし、まさに試合の進行中に、会場内で密かに犯罪が発生していることを察知すると、Dマンとバトルスターは協力して犯罪者たちと戦い始める……
 まあ、それ自体はありがちな展開ではあるのだが、特筆すべきなのは、エンジェル・アンズエタのアートであろう。犯罪者たちとの文字通りの場外乱闘の渦中で繰り出される椅子攻撃が完全に「プロレスの椅子攻撃」のフォームで描かれていることには感動するし、その他の一つ一つのプロレス技の人体の描写もいちいち的確なのだ。


 以上のようなストーリーを展開されていく15号を私が絶賛するのは、なにも、いくらなんでもこの私と趣味が同じすぎるニック・スペンサーのプロレス愛が全篇で炸裂しているからだけではない。……いや、もちろん、ホアキンがプロレスについて「およそ人類によって創造された中でも、最も偉大なスポーツ・イヴェント」などと述べる言葉に全身全霊を込めて全力で同意するのにも吝かではないし、プロレスこそはアメリカ文化の根源にからみつき、深く掘り下げればアメリカの中枢にたどり着く、深遠なる究極のジャンルであると私も思うのだが、しかし、何も、この15号は、どうしてもプロレスを取り上げなければ成立しなかったというわけではない。
 この15号において、最も明らかな形で表れていること……それは、ニック・スペンサーは、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の創刊号以来、自分の好きなものだけを好きなように思うがままに語るという、ほとんど幼児的なまでの己の衝動に徹底して忠実であり続けたということだ。
 そして、そのようなことは、自分が好きなことをいっても叩かれないような、安全地帯を確保した上でなされるのではない。現在のアメリカを直視して、その醜悪な部分を、自分の目に映るがままに、醜悪なままに描き出すこと。批判すべきと思えることには、容赦なく批判すること。無防備な言論ゆえに罵詈雑言を浴びせかけられようとも、そんなことに屈せず己の立場を貫くこと。誰にどう思われようが、社会的な体裁がどうであろうが、自分が好きなものに対してどこまでも忠実であること。……つまり、一言で言えば、徹底して自由であること。
 それこそは、アメリカ文学の中でもごく一握りの偉大な作品だけが到達しうる境地なのだ。脱走した黒人奴隷の処遇を巡って自分の感情と社会倫理が対立したときのハックルベリ・フィンの態度……あるいは、アメリカ文学の他の言葉で言うなら、悲しみと虚無の間では、常に悲しみを選ぶということ。
 アメリカの暗部をなんら飾りたてることもせずに見つめ率直に語ることは、アメリカを否定することではない。そんな旅をくぐり抜けた後だからこそ……15号の小さな事件が解決した後で、興業が再開された会場内を見渡したとき、サムは次のように思うに至ったのだ。


 But then, looking around, it hits me--
 だがそのとき、周囲を見渡して、思い浮かんだことがある――



 --everyone here is doing the same thing. People of all races, different backgrounds--
 ここにいる誰もが、同じことをしている。あらゆる人種の、異なる背景を持つ人々が――



 --coming together to celebrate something they love.
 ――ともに集まり、自分の愛するものを祝福している。



 Forgetting about all the bad in the world--
 この世界の悪いことを全て忘れ――



 --and just focusing on what makes them happy for once.
 ――そしてただ、自分を幸せにしてくれるものだけに集中する。



 With everything I've been through lately, it's just what I needed to see--
 最近くぐり抜けてきたあらゆることを考えれば、おれが目にすべきものは、ただこれだけだったんだ――



 --and I'm not the only one.
 ――そう、おれは独りじゃない。



 Now I know. Tomorrow, we'll be back to the same old problems.
 もうわかってる。明日になれば、おれたちはまた、古くからの同じ問題に戻るだろう。



 We'll be at each other's throats all over again. But for now--
 おれたちは再び、互いにいがみ合うだろう。だが、今だけは――



 --we get to be what always wanted to be.
 ――おれたちは、いつだって自分がなりたいと望んできたものになれる。



 We get to be friends and allies again.
 おれたちは、再び仲間になることができる。



 ……例えばプロレス会場にひとたび赴きさえすればーーたとえそれがその場限りのつかの間の夢にすぎないものであろうともーーアメリカン・ドリームは、既にその場に存在している。
 だからこそ、15号を最後まで読み終えたとき、アメリカのあらゆる暗部をくぐり抜けたその後でなお、サム・ウィルスンは、自分はアメリカン・ヒーローであり続けることができるし、またそう望み続けることができるのだと、確信するに至ったのだ。


 ……などということを、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」を読みながら考えていたのだが、まさにこの文章を書いている途中に、メリル・ストリープによるドナルド・トランプ批判のスピーチが話題になっていた。
 私がその内容に接して思ったのは、やはりアメリカのインテリ層は基本的にダメである……ということだった。メリル・ストリープは、ハリウッドの多様性を称揚しつつ、それが失われたときにアメリカに残されるのは、アメフトやMMAのような「芸術ではない」ものだけなのだという。
 メリル・ストリープの言う文脈からすれば、プロレスもまた「芸術ではない」ものにくくられるのだろう。そして実際、WWEと親密な関係を持つトランプがそのショーアップされた演出を自身の政治活動に流用してきたことは事実であるし、様々なところで指摘されてもいる。
 だが、だからといって、なぜ「ドナルド・トランプ的なもの」と「プロレス的なもの」がイコールで結びつけられる必要があるのか。トランプが利用しているようなプロレス流の演出は、80年代以降のアメリカのプロレス業界の産業構造の変化の中で、利潤を拡大し企業としての最適化を計るために追求されてきたものでしかないわけだ(その興業内容での象徴的存在こそが、(トランプも参加したことのある)「レッスルマニア」なのであり、このイメージこそが、現在のアメリカン・プロレスの最大公約数的なイメージになっているのだろうが……例えば、80年代以降の業界の変質の中で、プロレスのもともとの本質が失われていくこと抵抗した人々もいたわけで……巨大な資本もなければ、優れた身体能力なり技術なりを持つ選手を集めることもできない、持たざる者たちによる反逆の狼煙こそがECWという団体だったのであり、めいめいがなけなしの持ち物とプロレスへの情熱だけを持ち寄り、言いたいことを言い、やりたいことをやり、誰もが自由に振る舞う、いつかその時間が終わるとも思えぬままに、アメリカの場末で乱痴気騒ぎが果てしもなく繰り広げられ続けたのであった……)。
 つまり、人々が安易にトランプと結びつけて語りたがる「プロレス的なもの」とは、プロレスと言ってもせいぜいがここ三十年程度の潮流にすぎず、そんなものはプロレスの本質でも何でもないのだ。トランプはプロレスのごく一部をかすめ取っているだけなのにもかかわらず、あたかもそれがプロレスというジャンルそのものであるかのように語る言説は、あまりにも粗雑なのだ。
 そして、アメフトやMMAをごく大ざっぱにひとくくりにして「芸術ではない」と断じてしまうメリル・ストリープの粗雑さは、これと同種のものであるだろう。……そもそも、メリル・ストリープが称揚する「ハリウッドの多様性」なるものがどこからきたのかと言えば、初期の映画産業が非常に社会的地位が低いゆえに、貧しい移民でも容易に職を得ることができたということにある。
 低俗なものだと蔑視されるがゆえに誰でも参入でき、ゆえに多様性が担保され、アメリカの大衆娯楽の基盤を形成する――そのような源流を持つという意味では、アメリカの映画とプロレスとコミックとは、同質のものなのだ。
 「ドナルド・トランプ的なもの」と「プロレス的なもの」とを同じカテゴリーに放り込んで、ひとくくりにして拒絶すること……それこそが、アメリカにおいては既に敗北し破綻したことであるのが、なぜわからないのか。必要なのは、トランプに簒奪されたかに見える「プロレス的なもの」の本質をえぐり出し、トランプの手から取り戻すことであろう。
 そして、ニック・スペンサーが「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」において展開しているのは、まさにそのようなことであるのだ。











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