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アメコミ読者としてのアイデンティティ・クライシスを迎えました

 ここしばらくの間、アメコミに関して私としては大変に悪い意味でショッキングな事態がいくつも立て続けに発生し、アメコミ読者としてのアイデンティティ・クライシスを迎えました。
 具体的には、それは以下のようなことです。


 ①『シークレット・エンパイア』終盤から『レガシー』にかけての展開


 ②『ダークナイツ:メタル』における、グラント・モリスン担当期のバットマン設定の復活


 ③ブライアン・マイケル・ベンディス、DCコミックス移籍


 ………………もうダメだ………………
 現在、心が折れそうな状態に陥っている私が直面している最大の問題は、もちろん、「『ドゥームズデイ・クロック』1号と映画『ジャスティスリーグ』の、どちらに先に触れるべきか」ということなのであります。
 『ドゥームズデイ・クロック』を1号読むだけでもある程度は必ず救われるであろうことは確信している一方で、映画『ジャスティスリーグ』に関しては、私は全く信用していません。……つまり、「『ドゥームズデイ・クロック』で一息つく → 覚悟を決めてから映画『ジャスティスリーグ』に向かう」というルートをたどるべきなのか、それとも、「映画『ジャスティスリーグ』を見て、とりあえず色々なものを飲み込む → 最後の最後に『ドゥームズデイ・クロック』を読む」というルートをたどるべきなのか。
 これはまさに、死活問題です。前者のルートだと、最後の反動がデカかった場合、もう二度と立ち直れない可能性すらあるような気すらします。一方で、後者の場合、『ドゥームズデイ・クロック』にたどり着く以前に、映画の方がラストストローになりかねない気が……
 それにしても、この夏から秋にかけて、アメコミ業界においていったい何が起きたというのでしょうか。


 ①『シークレット・エンパイア』終盤から『レガシー』にかけての展開


 最後まで完結してから振り返ってみたとき、『シークレット・エンパイア』が全体として非常に優れた作品であったことは疑いようがありません。
 しかし……私としては……『シークレット・エンパイア』の終盤が展開している間に、既にイヴェント終了後の『レガシー』の展開が予告されていたことによって、そちらの方で狼狽し続けることによって、『シークレット・エンパイア』の本筋の方が全然頭に入ってこない状態になっていました。
 『シークレット・エンパイア』の終了直後に発表されるワンショット『レガシー』によって、マーヴル・ユニヴァースの設定はいったん整理され、マーヴル・コミックスの歴史的な遺産を重視する体制になり、新たなタイトルやクリエイターも順次発表されていく……その新たな姿が明らかになりつつある中で、私としては、どうしても気になるところがあったのです。
 ……………………え? あれ? Dマンどこ?
 ……………………え? あれ? Dマンどこ?
 ……………………え? あれ? Dマンどこ?
 ……………………え? あれ? Dマンは?
 ……………………Dマンは? Dマンどうなったの?
 ……………………Dマンどこ~~~~~~!?
 Dマンが……Dマンが……行方不明……


 マーク・グルーエンウォルド担当期の「キャプテン・アメリカ」ではかなり重要なサポートキャラクターでありながらも、その後二十年以上に渡ってほとんどまともな扱いを受けず、ニック・スペンサーによって恐ろしく久し振りに名誉が回復されたDマン。……そんなDマンが、『レガシー』以降の展開においては不可解極まりないと言うしかない行方不明の状態にあるわけですが、そもそも『シークレット・エンパイア』においては何をしていたのでしょうか。
 「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌の23号で語られていたのは、驚くべき事実です。ハイドラによって封鎖されてしまったニューヨーク……そこからアヴェンジャーズが状況を打開するために脱出しようとするものの、打つ手がない……そんな中、かつて地下のゼロタウンの守護者であったDマンこそが! 脱出ルートを密かに把握していたのであります!
 つまり、『シークレット・エンパイア』における大事件が解決したのは、Dマンの尽力あったればこそなのです。いやもちろん、多くの人々がそれぞれに役割を果たしたことは事実ではあるのですが、Dマンがいなければアヴェンジャーズはニューヨーク脱出すら果たせなかったわけなので、その時点で詰んでたわけです。つまり、Dマンこそが必要不可欠な役割を果たしたのです。
 さらに言うと、22号の時点でも、サムとともに打倒ハイドラの闘いにDマンが身を投じたことははっきりと語られています。……にもかかわらず、そのDマンは行方不明となっており、『レガシー』における仕切り直しの後も、現状すらわからない……。
 私としては、『レガシー』において、登場人物のセリフのみで明らかになったこととして、「UCWFが月面上でランバージャック・デスマッチを開催している」というものがあったので、Dマンがそこにいることに一縷の望みをかけているというのが現状です。
 しかし、それならそれで、「遂に本格的にプロレス復帰を果たしたデモリション・ダンフィ、古巣のUCWFに満を持して登場しました!」と、1コマだけでも挿入することが、なぜできないのでしょうか。


 マーヴルの『レガシー』が、『DCユニヴァース:リバース』の後追いであることがあまりにも明らかです。もちろん、新たな展開を築くための独立したワンショットとしての両作の出来具合は全く比較にもなりませんが、それ以前の問題として、『レガシー』という展開自体が、商売上の必要性を超えて真剣に検討されたものではないことは、Dマンの一件を見るだけでも、既に明らかなのです。
 『DCユニヴァース:リバース』を仕掛けたジェフ・ジョンズは、いったい何を考えてこの作品を世に送り出したのでしょうか。以下にリンクするのは、このコミックの発表直前にComic Book Resourcesに出たジェフ・ジョンズのインタヴューです。


   https://www.cbr.com/exclusive-geoff-johns-details-rebirth-plan-seeks-to-restore-legacy-to-dc-universe/


 アメコミ業界に関わる全ての人間が……いや! もっと広く、キャラクタービジネスに少しでも関わる全ての人間が熟読玩味するべき内容だと思いますので、特に重要だと思える部分を少し多めに引用しつつ、翻訳してみます。


The "DC Universe: Rebirth #1" is an 80-page one-shot I'm writing which is re-laying the groundwork for DC's for the future while celebrating the past and present. It's not about throwing anything away. It's quite the opposite.
 私がライティングしている『DCユニヴァース:リバース』は80ページのワンショットだが、DCの未来のためにその土台を敷き直すものだ……過去と現在を祝福しつつね。これは、いかなるものをも捨て去ることを意味しない。むしろ、その正反対なんだ。



I've been a fan for years - I have over 60,000 comics and 99 percent of them are DC Comics. I really see this as an opportunity, and like I've said before, take all the characters and thematics that we love - from the past and the present - and build a story that brought them all together, revealed new secrets and truths and mysteries, and moved it all ahead. Again, as someone who absolutely loves the DC Universe, to me it's maybe lost some things. Not only characters, but more intangibles. Some essence to what makes the "DC Universe" unique and brilliant and unpredictable. And every single character matters - from Batman to Cassandra Cain to John Stewart to Saturn Girl to Blue Beetle to Lois Lane - everyone is someone's favorite. And in comics, anything's possible.
 私は、長年に渡ってファンだった――6万冊以上のコミックスを所有しているけれど、その内の99パーセントはDCコミックスだ。私は本当にこれはいい機会だと考えているよ、以前も述べたように、我々が愛した全てのキャラクターと主題を取り上げてーー過去のものも現在のものも――その全てを集合させるストーリーを構築し、新たな秘密や真実や謎を明らかにし、その全てを前進させる。DCユニヴァースを無条件に愛する者として言うと、おそらく、何かが失われていた。単にキャラクターのことだけではない、もっと実体のないもののことだ。「DCユニヴァース」を、ユニークで輝かしく予測のできないものにする、なんらかの本質。そして、個々のキャラクターの全てが重要だ――それこそバットマンから、カサンドラ・ケインやジョン・ステュワートやサターンガールやブルービートルやロイス・レインまで――全てのキャラクターが、誰かしらにとってのお気に入りだ。コミックスの中では、いかなることも可能なんだ。



So although I won't spoil the story of "DC Universe: Rebirth", I will say it's a mystery that explores what I think is perhaps the central element that's gotten lost: legacy.
 だから、『DCユニヴァース:リバース』のストーリーをネタバレすることはできないけれども、こうは言える……ここで探求される謎とは、私の考えでは、おそらくは、失われたものの中でもその中心にある要素だ。「レガシー」だよ。



I have a Writer's Room here at DC, usually we're breaking film or TV. So editors come in, writers come in, we sit down, we talk about "Rebirth." What it means, what our goals are, how to build up and forward instead of tear down. I have a whole wall that's a whiteboard, and an extensive comic library, and we talk about story, about what we love about the characters. Take "Birds of Prey" - we talk about why we first loved the Birds of prey; why we love Dinah, Barbara and Helena. The runs we loved. The characters then and now. It begins with that. And then where it all goes next. It can't be doing the same old thing. Or re-telling another story. It's got to be new. "Blackest Night" was new when we had the dead rise. So what can we build on in this case? What story can only the Birds of Prey tell? And I think there's a great one coming up.
 ここDCには、ライター用の部屋があり、我々がたいていは映画やTVの 打ち合わせをしている。すると、編集者やライターが入ってくるから、座って「リバース」のことについて話をすることになる。その意味について、我々の目標について、ぶちこわすのではなく構築し前に進めるための方法について。壁は全面がホワイトボードになっていたり、大規模なコミックのライブラリーになっていたりする、そこで我々はストーリーやキャラクターの愛する部分なんかについて話をする。例えば「バーズ・オヴ・プレイ」を取り上げて――最初に「バーズ・オヴ・プレイ」を好きになったのはなぜだったのかを話す。なぜ我々はダイナとバーバラとヘレナを愛したのか。我々が愛したランを。当時と今のキャラクターを。そうやって始まるんだ。そうして、話は次へと進む。かつてと全く同じことをするなんてありえないからね。異なるストーリーを語り直す。新しくなければならない。『ブラッケストナイト』は、死者の復活のさせ方として新しかったよね。じゃあ、この場合には、我々は何を作り上げることができるだろう? 「バーズ・オヴ・プレイ」だけが語ることのできるストーリーはなんだろう? 私の考えでは、優れたものがやってくるはずだよ。



I know people have been talking about, "They're going to make the comics like the TV shows or the films!" Why would we do that? These aren't licensed comics. That's boring. We already have TV and the films. And those are great. But comics are their own thing. We talked about "Green Arrow" with the writer; all we talked about were comics. We talked about "Longbow Hunters," Neal Adams' work, all the great "Green Arrow" runs that have happened - there have been a lot of them. If there's something interesting that we see in film or TV that we want to nod to or bring over, we do it, but it's really much more focused on the comic books.
 みんなが言い続けているのは知ってるよ、「コミックスをTV番組や映画のように変えてくるつもりだぞ!」とね。どうして我々がそんなことをするだろうか? 版権を取ったコミックスじゃないんだ。そんなことはつまらない。TVや映画なら、既にあるじゃないか。それはそれで優れたものだ。しかし、コミックスは独自のものだ。我々は「グリーンアロー」についてライターと話すが、話すのはコミックスのことについてだけだ。我々は『ロングボウ・ハンターズ』について、ニール・アダムズの仕事について、「グリーンアロー」のかつて生まれた偉大なランの全てについて話すーー優れた作品がたくさんあるからね。もし映画やTVの中に興味深いものがあって参照したり持ってきたりしたいものを見つけたら、それはやるよ、しかし、本当に焦点を置いているのはあくまでもコミック・ブックに対してだ。



 うう……ジェフ……
 ジェフ・ジョンズがライティングからは撤退していた「リバース」展開においても総じてストーリーのクオリティが高かったことには、こういう事情もあったのだと思われます。
 それにしても、この時点で既にジェフ・ジョンズは「レガシー」という言葉を発していたわけですが、彼の言う「レガシー」とマーヴルの現状における「レガシー」とが同じ言葉であるとは、とても思えません。
 あらゆるキャラクターが重要なのです! そう、Dマンも重要! あらゆるキャラクターが誰かのお気に入り! そう、Dマンも多くのキャップファンのお気に入りなのです!
 Dマンは、果たしてこれからどうなるのか……そのことを考えるにつけ、考えに入れなければならないのは、マーヴルの今後の人事配置でしょう。
 ニック・スペンサーが降板後の「キャプテン・アメリカ」のライターがマーク・ウェイドであることには、私としては微妙にいやな感じを受けました。……だって、「マーク・ウェイドがライティングする『キャプテン・アメリカ』」ってことは、要するに、「きちんとバックナンバーを読み込んでいるキャップファンは絶対に批判しない人事」っつーことですもん。……いやいや、このことの意味がわかる水準の読者なら、そもそもニック・スペンサーをバッシングなんかしてませんて……
 ぱっと見たところ、「レガシー」の体制にはニック・スペンサーが担当するレギュラータイトルがなかったもんで、「遂に干されたか? こうなったら、もうDCきちゃう? グリーンアローやろうよグリーンアロー! あのタイトルならどれだけ物議かもしてもOKですぞ!」などと思っていたら、まさかあんなことになるとは……
 それはともかく、ニック・スペンサーの今後に関する噂として、ダン・スロットの後任で「アメイジング・スパイダーマン」のライターに就任するだろうと言われています。……なんだ、むしろ好待遇じゃん……と思ったのですが、ちょっと待てよと。冷静に考えてみると、この人事、実は酷くないですか? ……だってですよ、ダン・スロットが降板して直後に「アメイジング・スパイダーマン」を引き継いだライターなんて、何をやろうと絶対に叩かれるに決まってるポジションじゃないですか。それこそ、「スタン・リー、スパイダーマンのレギュラーシリーズのライターとしてウン十年ぶりに奇跡の大復活!」くらいのことがない限り、間違いなくバッシングされるわけですよ。……つまりこれは、「どうせバッシングされることがわかってるんだったら、ニック・スペンサーにしとけばよくない?」ってことなんじゃないすか?
 しかし……ニック・スペンサーには、この仕事を十分に生かしてもらうほかないわけです。……そう、スパイダーマンの転機と言えば? ……スパイダーマンにとっての重要な転機はと問われれば、「もちろんプロレスでしょ」と即答するタイプの人間が、この世の中には一定数存在するのです。……もちろん、その中でも最も偉大な存在は、サム・ライミです。スパイダーマンの最初の映画化にあたって、原作においてピーターが最初に腕試しをしたプロレスラー、クラッシャー・ホーガンとの死闘を忠実に拾いつつ、大幅に拡大し、クラッシャー・ホーガンの役所にはランディ・サベージをキャスティングするというすばらしすぎる実写化を果たした偉大なる人物、それこそがサム・ライミです。
 そうです……謎の行方不明を遂げたDマンが復活するには、もはやニック・スペンサーに託すしかありません! Dマンは実はクラッシャー・ホーガンの弟子だった的な設定を今から作り上げて、なんとか「アメイジング・スパイダーマン」誌の常連キャラにぶっこむことはできないですかね!?


 ②『ダークナイツ:メタル』における、グラント・モリスン担当期のバットマン設定の復活


 ……マジでやめてくれ……
 もちろん、別アースに特殊な設定のバットマンがいるぶんには構わないんですけど、基準となるアース(今はアース0)での本物に対しては、やってはいかんことがあるはずなのですよ。モリスンバットマンの、私としては絶対にやってはいかんと思える設定としては、


 ・クライム・アレイにおいて、トマス・ウェインは射殺されてなかったかもよ? それどころか、この事件は巨大な陰謀の一部に過ぎず、黒幕はトマス自身だったのかも?
 ・実はバットマンは、本人も周囲も認識していなかっただけで、スーパーパワーを持ってたのかもよ?


 まず、前者のトマス関連のものに関しては、ジェフ・ジョンズが『フラッシュポイント』で無効化したんだと私としては解釈しています。……まあ、そう解釈しなかったとしても、この設定と『フラッシュポイント』の根本とは両立不可能なものですから、それだったら、まあほとんどの読者は『フラッシュポイント』の方を取るでしょうしねえ。
 後者のスーパーパワー云々に関してなんですが……これに関しては、モリスン以降特に誰も触れないままにほとぼりが冷めてきたかと思ってたんですが、ここにきて、スコット・スナイダーが『ダークナイツ:メタル』で全面的に採用してきたもんで、正直ドン引き状態です。
 アース0の本物バットマンの設定をいじったら、過去の出来事の解釈もまた、それに合わせて全部変わってしまうことになるわけです。それを考えたら、この設定は、絶対にデメリットの方が大きいですよ。
 考えてもみてください。……例えば、かつてマーヴルとのクロスオーヴァーでハルクをキック一発でKOしたのも、「実はスーパーパワー持ってたから」ですまされちゃうんですよ!? ダメでしょうそれは。
 「バットマン、実はメタヒューマン!」……アーカムで暴動が起きますよ。……それにあれですよ、グリーンランタン方面からは、「自分は常人なのにがんばってるアピールをさんざんやっといて、今さら実はパワー持ってましたかよ」などと、スーパーパワー持ちであることがなぜかいじられるネタにされるわけですよ。
 というか、そもそもあれですよ、「スーパーパワーを備えている存在が暴走したときの脅威に備えるために、常人の自分が対策を立てておく」とかいって独断でヤバい情報とか収集しまくった挙げ句何度もその情報盗まれて危機を引き起こしてきたことも、「スーパーパワーを備えた存在の暴走による脅威って、まさにバットマンがやってることじゃん」ということになってしまうわけですよ!
 そんなわけで、今年のイヴェント『ダークナイツ:メタル』には全くもってのれないわけですが、関連タイトルは結構楽しんで読んではいます。特に、ダークマルチヴァースから来た七人の悪のバットマン軍団のそれぞれの来歴が語られてみると、実はつい最近までふつうのバットマンだった存在がほとんどで、一線を越えてしまったときに、バリーもろともスピードフォースを吸収してみたり、アルフレッドが惨殺されたことにブチキレて無数に増殖するアルフレッド型殺戮マシーンを作ってみたり、戦争の神アレスのかぶとを装着して乱心してみたり……と、振る舞い的には正直それほど違和感のない悪のブルース・ウェイン軍団が増殖して、やはり宇宙の最大の脅威はブルース・ウェインであったのだという確信が強まることになります。
 ふつうのバットマンになることがなかったブルース・ウェインの場合も、クライムアレイで両親が殺害された瞬間に、恐れるものが何もなくなったゆえにグリーンランタンに選ばれたものの、幼いながらもその内面に抱え込んだ空虚な闇と強大な意志の力とで、パワーリングにセットされていたシステム上の制約を破壊してハッキングし、通常のグリーンランタンにはありえないパワーを引き出し、文句を言ってきたガーディアンズとコァの面々を壊滅させる……という、『エメラルド・トゥワイライト』と同等かそれ以上の惨状を一瞬で引き起こしているのでした。
 今までもブルースがパワーリングを用いたことは何度かありましたが、こんなにヤバいことだったとは……しかし、この話が面白いのもブルースが常人であるからこそなので、頼むから、スーパーパワー持ちだったという設定はやめるんだ!
 今のDCで『ドゥームズデイ・クロック』に向けて進行中なのは、「重要キャラクターを成立させている根本の設定をいったん崩す」ということですけれども、これに関しては、そことつながっているわけではないように思えるんですよねえ……


 ③ブライアン・マイケル・ベンディス、DCコミックス移籍


 …………ベンディスいらん…………
 …………ベンディスいらん…………
 …………ベンディス、いらん…………
 …………ベンディス……いらん…………


 マーヴルにはスーパーマンのパロディキャラって結構何人もいますけれども、その中の一人であるセントリーにベンディスがしたことってアレなわけですよ。あるいは、『シヴィル・ウォーⅡ』の主要キャラに起きたようなことが、アース0の本物スーパーマンに起きるようなら、DCユニヴァース崩壊ですよ。とにかく、ベンディスにスーパーマンだけは触れさせてはいけない!(……それでもどうしてもと言うなら、スーパーボーイ・プライムさんだけなら預けても可)
 ……正直なところ、「今のベンディス」にはマジでDCに来てもらいたくないんですが……私自身が改めて気づいたのが、ここ十年ほどに渡って、「DCユニヴァースの中心にいるのがジェフ・ジョンズで、マーヴル・ユニヴァースの中心にいるのがベンディスである」ということが、自分がDCファンである上での非常に安心していられる構図だったのだなあ、ということでした。
 ……しかし、ならば、最近はこの構図はほぼそのままにDCの優位が固定していたわけですが、じゃあなぜDCみずからこの構図をぶっこわすようなことをするんでしょうか。のみならず、この移籍に関しては、マーヴルのメリットこそが一番大きいようにも思えます。
 いろいろ考えてみたんですが、私としては、DCコミックスが本当に熟慮した結果である可能性と、ほんとになんも考えてない可能性との両方があると思うに至りました。そして、そのどちらが正解なのかは、今後のDCによるベンディスの扱いを見ればわかると思います。
 改めて冷静に考えてみれば、ブライアン・マイケル・ベンディスというライターの優れた仕事だけを拾っていけば、アメコミの歴史に残る重要な足跡を既に残してきていることは当然のことです。しかし、最近のベンディスが醜態をさらしすぎたことによって、読者が過去に遡る気すら失せるようなことが起きているのではないでしょうか(かく言う私も、ベンディス初期の傑作『パワーズ』は途中までしか読んでいなかったのですが、続きを読む気が完全になくなっていたのでした……)。
 なぜベンディスが質の低い仕事を連発するようになったのか? と言えば、これはもう明らかに、マーヴルによる仕事の振り方が悪かったわけです。DCの側では、ベンディスよりキャリアが浅いジェフ・ジョンズがイヴェントを回す体制を確立し、さらに一線を退いた現在では、さらにキャリアが浅いスコット・スナイダーやトム・キングやジョシュア・ウィリアムスンだけでも巨大イヴェントを回していける体制が確立しているわけです。
 一方のマーヴルでは、既にかなりのキャリアを持つベンディスが依然として巨大イヴェントの中心で、数多くの関連タイトルと内容を折衝させつつタイトなスケジュールで進めなければいけないような、体力勝負の部分もある仕事を破綻させ、度重なるスケジュールの遅延が起きていたりもしました。
 単純に言って、このキャリア・この年齢の人がやること自体がおかしいような仕事を、ベンディスはしていたわけです。……一方、例えば、あんまり注目されてないと思いますけど、実は今、ウォーレン・エリスがDCで仕事をしています。ワイルドストームの再構築を粛々と進めているんですが(一通りまとまってから読むつもりなので、内容は私はまだ全然知らないです)、DCユニヴァースの本筋にはほぼ絡むことないような状態になっています。
 ウォーレン・エリスぐらいのキャリアのライターになると、そういう扱いが適切なんじゃないでしょうか。多くのタイトルが絡んで細かくスケジュールと内容を調整しつつ進むクロスオーヴァーからは距離を置き、作家性を自由に発揮してよくて、遅延しても周囲に悪影響はないような独自のタイトルを、せいぜい月に2、3本程度のペースでのんびりと進める、大御所のみに許されたポジション。
 ベンディスも、そういう扱いにしたなら駄作を連発するようなこともなくなり、質の高い仕事も増えてくるんじゃないでしょうか。だから、ヴァーティゴでクリエイターオウンドのオリジナル作品を手がけたり、ワイルドストームが再構築されたならストームウォッチやウェットワークスなんかをやるんなら全然アリなんじゃないかと。
 今のベンディスは自分のキャリアを自分で汚しているだけなので、そういうポジションの人へとDCが移行させるのならば、誰にとっても喜ばしい、業界全体ことを考えた移籍劇だったのだろうということになります。……逆に、トム・キングやジョシュア・ウィリアムスンが本来やるであろう仕事がベンディスに振られるようになるならば、これは本格的にヤバいですね……。
 しかし……ベンディスが、DC移籍にあたって資料として再読し始めたという単行本の山を公開した写真を見ると……大量のスーパーマンが……さらには、グリーンランタンやリージョンなど、どう考えてもベンディスが手がけてはダメなタイトルが……
 ベンディス……殺る気マンマンじゃねえか……








隠喩としての糞便――廣瀬純『シネマの大義』を読む

 廣瀬純の映画論集『シネマの大義』を読んだ。廣瀬の映画に関する単著としては『シネキャピタル』以来のものとなる(『蜂起とともに愛がはじまる』も映画に関する議論が中心の著作ではあるが)『シネマの大義』は、様々な機会に様々な媒体で書かれた小論、講演の記録、座談会などが一冊にまとめられたものになっている。
 その意味では、構成としては非常に雑多なものになっている著作ではあるのだが、冒頭に収録された廣瀬自身のインタヴュー「早すぎる、遅すぎる 映画批評は何をなすべきか」において、この著作全体を貫いて廣瀬自身が取っている立場が明確に宣言されている。それは例えば、次のようなものだ。


従来のマルクス主義的映画批評は、一本の作品あるいはひとりの監督におけるブルジョワ的世界表象を告発するということに存するものでした。これに対して私自身の関心は、むしろ、作品内における映像のブルジョワ的あるいは資本主義的組織化それ自体にあり、そのような組織化は、ケン・ローチやコスタ=ガヴラス、新藤兼人などといった、世界表象の次元では社会主義あるいは共産主義的傾向をもつ監督たちの映画にも見られるものです。
 小津安二郎は同時代のマルクス主義批評家たちから、プチブルの生活ばかりを描く反動的監督だとして批判されていました。しかし、映像の組織化という観点から言えば、小津映画はブルジョワ反動映画ではまったくありません。小津は、ドラマ的あるいはメタファー的剰余価値生産に映像たちを従事させない。(『シネマの大義』、p15、ルビは省略)



 表層批評が、従来のマルクス主義的批評とともに葬ってしまったマルクス主義を、表層批評のそのただなかにおいて復活させなければなりません。私が試みてきた新たなマルクス主義的映画批評は、この意味では、マルクス主義的表層批評と呼び得るものです。多少乱暴な物言いが許されるなら、要するに、佐藤忠男さんに蓮實重彦さんのオカマを掘らせ、奇形の非摘出子をこしらえさせるということです。あるいは、より精確には、蓮實さん本人のうちに潜在しているマルクス主義者に表層批評家としての蓮實さんのオカマを掘らせると言うべきかもしれません(本書163頁「山中貞雄ーー革命の慎み」では部分的にこれを試みています)。私のいうマルクス主義的表層批評は、この意味で、蓮實主義の一形態にほかなりません。(同、p17~18、傍点は省略)


 ……マルクス主義的表層批評! さすがにこの発想は凄いと思えるし、そこで目指される方向性自体には、私としては全面的に同意したい。
 蓮實重彦の映画批評の後続への影響という点では、もちろん、功罪の両面があるだろう。しかし、じゃあ先行者としての蓮實を批判する側がどうなのかというと、てんで箸にも棒にも引っかからないようなものしかないというのが実状であろう。
 特にタチが悪いのは、「蓮實の映画批評は映画の外部の現実社会の政治情勢などを全て排除した!」などという完全な嘘をとにかく大声で喧伝することであろう(もっとも、これについては、なかなか入手しづらかった『ハリウッド映画史講義』が文庫化されるということで、今後は一瞬でバレる嘘ということになるのだろうが)。あるいは、最近ネット上で見かけたひっくり返ったのが、「蓮實の表層批評は画面に映っているものだけを論じるため、映画の製作現場からは疎外されている」という主旨の評言であった。
 ……う~ん……とりあえず、このような評言でわかるのは、言ってる人も真に受けてる人も蓮實の映画批評はほとんど読んでいないということだ。「画面に何が映っているのか」を正確に記述することを試みれば、必然的に、撮影や照明やセットの問題にまで行き当たらざるをえない(光がなければ画面には何も映らない)。そして、日本の映画批評家で、監督や脚本家などといった名前がよく表に出がちな人々以外の製作スタッフのことをあれだけ調べ上げ、話を聞きまくるという人は、どう考えても蓮實しかいないのだが……。『映画狂人のあの人に会いたい』に収録されたジョセフ・ロージーのインタヴューにおいて、ロージーの複雑なキャリアにおける様々な国の様々な映画スタッフとの関わり合いを恐ろしく細かいところまで掘り下げながら話を聞きまくった結果、ロージー本人を驚き呆れさせたことを知らないのだろうか!? ……いや、知らないんだろうけどさ……
 「表層批評」という意味では、テマティスム方面での蓮實の主著である『監督 小津安二郎』においてすら、わざわざキャメラマンの厚田雄春のインタヴューを付録として収録しているくらいなんだけど……いったい、何をもって、「製作現場から疎外されている」ということになるんだろうか?
 さらに言うと、「画面に映っているものしか論じない」という姿勢が「製作現場からの疎外」を意味するものだと信じて疑わない人々は、そもそもの大前提として、スタッフロールは作品の一部ではないということにしてしまっているわけだね。蓮實自身はと言うと、むしろ「撮影スタッフの名前を細かく確認しろ」と言う側の人なんだけど……。結局、このあたりのテキトーな言説を平然と述べたり真に受けたりしてしまう人々は、ろくに映画を見ているわけでもなければ、蓮實の映画批評を細かく読んでいるわけでもない、にもかかわらず、蓮實の映画批評の全体像を総括するようなことは言いたがる、とみなすほかないということになる。
 ……などというように、蓮實の映画批評に問題があるのかどうかという検討に入る以前に、「批判者の方こそが論外である」ということがあまりにも多すぎるため、蓮實自身の問題点にきちんと到達できるような議論がほぼ存在しないのである。そういう意味では、蓮實の議論を批判的に継承しつつその問題系を組み替えることをもくろむ廣瀬の批評は非常に野心的なものである……のだが、全体を通読しそこでなされている議論を検討した結論として、私としては、廣瀬の言う「マルクス主義的表層批評」は、廣瀬自身の議論に内在する欠陥の一つによって、本来目指された形で実現しえなかったという評価を下さざるをえないのだ。
 そして、廣瀬の批評に内在する問題点がいったん明らかになってみると、既に引用した廣瀬自身の言葉の内部にすら、既にして明確な兆候が表れてしまっていることも明らかなのだ。……では、その問題点とは何なのか。


 『シネキャピタル』における廣瀬の根本的な発想は、ふつうの映像を組み合わせることによって「特別な映像」を産みだそうとする商業映画の基本的なあり方が、資本主義の剰余価値生産と正確に重なるということであった。
 そして、そのことに対する検討が改めて「マルクス主義的表層批評」という言葉によって表されたとき、以上のような原理に既にして自覚的でありつつ映画を製作している特権的な存在としてストローブ=ユイレが名指されるのは、極めて当然のことであるだろう。
 そして、そのようなストローブ=ユイレがメタファーについて批判的な言葉を述べる言葉を検討しつつ、廣瀬は次のように述べている。


ここで何よりも興味深いのは、ストローブ=ユイレがメタファーを「近代的な発明品」だとした上で、メタファーの君臨の下での人間の感受性の縮減、無能化にまで至る人間の脱野生化を「産業文明のもたらした帰結」だと看做している点です。要するに、ストローブ=ユイレにとってはメタファーもまた優れて近代資本主義に関わる問題だということです。
 実際、ストローブ=ユイレの語彙において、「メタファー」と「剰余価値」とは厳密に同義語となっています。たとえば、また別の或るインタヴューで、質問者が「とりわけ演劇などにおいては、多種多様なアイディアや情報を膨大に蓄積していくことによって、あたかも新たな価値が生産されているように観客に信じ込ませようとする作品が散見される」というような発言をしたときに、ストローブ=ユイレは「そんなものは剰余価値に過ぎない、そんなものは市場経済芸術だ」としてこれを一蹴しています。彼らにとって、映像や音声のメタフォリックな使用とは、映像や音声に労働を強要してそこから剰余価値を引き出そうとする資本主義的振舞いにほかならないのです。(同、p68、傍点は省略)



 ストローブ=ユイレにとって、メタファー(隠喩)と剰余価値とは、「厳密に同義語」である。……このような廣瀬の評言に、私としては完全に同意する。確かに、ストローブ=ユイレの立場は、そのようなものとしてしかありえない。……一方、廣瀬の問題とは、隠喩と剰余価値とが「厳密に同義語」とまで言いながら、同じ議論が異なる文脈で出てきた際に、平然とこの原則から逸脱してしまうという点にある。
 何が問題なのだろうか。……ある二つの言葉が「厳密に同義語である」ということは、言い換えれば、その二つの言葉の間では、比喩によってどちらかがどちらかを譬える関係は成立しえないということだ。隠喩に関する問題が「まるで剰余価値の問題のようである」ことがなければ、剰余価値に関する問題が「まるで隠喩の問題である」ようなこともありえない、それこそが、「厳密に同義語である」ということだ。
 一見すると、些細な言葉の選択の違いに見えるかもしれない。……しかし、実のところ、ここにこそ、廣瀬の議論の核心がある。隠喩が全く異なる文脈の言葉を結びつけることによって剰余価値を生み出してしまうという事態をよりわかりやすいものとして説明するために、隠喩という言葉自体が隠喩によって他の文脈と結びつけられてしまうという逆説。廣瀬が落ち込んでいるのは、そのような錯綜した事態である。
 隠喩と剰余価値とが「厳密に同義語」であるという原理から全く逸脱しない強度を備えるのがストローブ=ユイレの映画であるのならば、廣瀬の映画批評の問題は、同じ原理を提示しながらも、密かにその「厳密」さを放棄し、隠喩に依存する文脈を呼び込んでしまうことにあるのだと言える。


 廣瀬純の『シネマの大義』は、既に述べたように映画に関する雑多な内容を含む論集であるのだが、その中でも、複数の論考をまたいで一貫し、特権的な扱いを受け、書物全体に共通する文脈をもたらす言葉がある。
 それがどのようなものであるのかを、いくつかの引用を並べて確認してみよう。


現代の映画監督たちが総じて問う共通の問題があるとすれば、それはクソ(あるいは”クソ的なもの”)をめぐる問題だろう。ここでいう「現代」とは、とりあえず、ゴダール以降、あるいはアルトマン以降といった意味だが、クソをめぐる問いそれ自体が映画の現代を規定していると逆に捉えるならば、そこにはゴダール/アルトマンよりも早い時期から映画を撮り始めた者も当然含まれることになる。たとえば増村保造がその典型だ。
 クソを問う現代監督は、そのやり方によって二つの人種に大別される。第一の人種は、クソ的なものが出現する瞬間を作品の向かうべき終着点に位置づける作家たちから構成される。彼らにとって、クソの出現は、ほとんど恩寵のそれともみなすべき特権的な瞬間であり、スクリーン上でのクソのそうした公現こそが、退屈で凡庸なこの曇った世界のただなかに絶対的な輝きを――たとえ一瞬のこととは言え――取り戻させるものとしてある。或る時期からこの新種の頂点に君臨してきたのがデイヴィッド・リンチにほかならない。
 他方、第二の人種にとって、クソは目指すべき目標、誇らしい戦利品といったものではもはやない。むしろ正反対に、クソはすべての物語の出発点に存するもの、あるいは逆に言えば、すべての物語はクソからはじまらなければならないものだとされる。彼らにとって、世界とは、何よりもまず、隅々までクソに満ちた場として与えられているのであり、クソの横溢としてのこの世界を描き出すことなしには、信じるに足るようないかなえう映画作品もあり得ない。この人種を体現する監督として、たとえば侯孝賢、あるいはホン・サンスの名が挙げられよう。(同、p193~194)



この作品に登場する「レザボア・ドッグズ」と名付けられた集団は、ありがちな誤解とは反対に、生まれついてのクソたちからなる不浄な犬の群れなどではない。確かに、生来のクソに違いないと我々に確信させるに足る面構えの人物もそこに混ざってはいるが、この集団を構成する者たちのうちの大半はクソではなく、むしろ、クソを演じてみせようと試みる者たちなのであり、また、その試みに失敗し、クソに到達することの困難さで画面を満たすことになる者たちなのだ。
『レザボア・ドッグス』において、見るからにクソな面構えのエドウォード・バンカー(幼少の頃からの輝かしい犯罪歴で有名な小説家)によって演じられる登場人物ミスター・ブルーが物語の開始早々、画面から消え去り、その後、二度と画面に姿を見せることがないのは、したがって、ただたんに彼の小説家としての仕事が多忙を極め、それ以上、撮影に参加している暇がなかったからというだけのことではない。なによりもまず、クソでない者たちがクソを演じることでクソになろうと試みる(そしてその不可能性を突き付けられる)というこの作品の主たる流れのなかに、バンカーのような生粋のクソ野郎が身を落ち着ける場など残されているはずもないからなのだ。触っても手の汚れようのないような小さな玉のようなウンチを出すのがやっとといった風情の者たちが、でかいクソをぶりぶりと出すような厚かましき汚らわしさを獲得したいと望み、懸命にそれを演じようとすればするほど、演じること自体がそれとして際立ち、終着点としてのクソが無限遠の彼方に遠ざかっていく――これが『レザボア・ドッグス』の物語だとすれば、でかいクソをすることが誰の目にも疑い得ないクソ野郎のバンカー/ミスター・ブルーについて語るべきことなどあるはずもないだろう。無味無臭・無味乾燥の、ウンチの何すら値しないウンチを出すのがやっとの者たちに混じってナチュラル・ボーン・シットの彼が登場するのは、彼らのために不可能なモデルを提供するため、あるいは、彼らとそのモデルとのあいだの無限大の隔たりを誰の目にも明らかなかたちで示すためなのであり、また、それ以外の理由などひとつもないからこそ、彼はオープニング・タイトルとともに画面から完全に姿を消してしまうのである。(同、p195~196)



 しかし増村は、世界がクソに満ち溢れたところだというこの事実を諦念とともに告発するために『赤い天使』を撮ったわけではない。そうではなく、クソに埋め尽くされたこの絶望的な世界のただなかに「それでもなお」という一語とおもに何らかの希望を見出し得るとすれば、それはいったいいかにして可能なのかという問いに我々を巻き込むために撮ったのだ。(同、p213)


 もちろん世界はクソまみれだ、しかし/だからこそ、我々は希望を失ってはならないし、希望を失わずにいられる――クソ映画は我々にそう告げている。(同、p215)


 今回の作品でゴダールは「糞の平等」のようなものを唱え実践しようとしている。(中略)「排便する存在」としての平等という新たなテーマの出現が、これまでずっと続けてきたことをゴダールに断念させたわけだ。(同、p542)


 ……以上のように読まれるとおり、『シネマの大義』を構成する多くの議論の内部では、糞便を指示する言葉こそが特権的なものとして至るところに登場し、共通する一つの文脈を作り上げている。
 おそらくはフーコーの「汚辱に塗れた人々の生」が参照されているのではないかとも思うのだが、直接の言及はないし、『シネマの大義』はあくまでも独立した議論の文脈を形成しているので、仮に発想元がそれだったのだとしても、とりあえずそのことは措いて構わないだろう。
 最も細心の注意を払って検討されなければならないのは、廣瀬が糞便を指す言葉を用いる際に、それが隠喩として用いられているのか否かということだ。廣瀬の言う「クソ」「ウンチ」「シット」「糞」が、糞便そのものを指し示すのではなく隠喩としての機能を担っているのであれば、廣瀬が宣言する「マルクス主義的表層批評」は、あえなく破綻することになる。
 例えば、仮に、ある時にある文脈である人物が「ワーナーはクソだ」と述べたとしよう。この際、ここで用いられている「クソ」が隠喩である可能性は高いが、だからといって、それが確定的であるわけではない。
 仮にその人物が、現代社会のごく平均的な思考からは著しく逸脱し、「ワーナーと呼ばれる大手映画会社の実体は糞便そのものである」と確信し、そのような文脈で文字通りの言葉を発しているのに過ぎないのかもしれない。……あるいは、その人物は、「クソ」という言葉の定義を拡大し、ワーナーと呼ばれる大手映画会社がその定義からして内包されるような概念として「クソ」という言葉を発しているのかもしれない。
 これらの場合、ここでの「クソ」は隠喩ではない。言い換えれば、文脈から外して一文だけを切り出して検討した場合、隠喩が隠喩であると確定することができないことは往々にしてある。……一方、例えば「ワーナーのやってることってのは、クソみたいなもんだ」という言葉が発せられたとしよう。譬える項と譬えられる項とが明示されている以上、これは、明確に直喩である。この場合、この発話の意味は一義的なものとして固定することになる。
 では、この両者を連結し、「ワーナーはクソだ。ワーナーのやってることってのは、クソみたいなもんなんだ」と述べられたとしよう。この二文が連結し、共通の文脈に置かれた場合には、後者が直喩であることが確定した時点で、前者に含まれる「クソ」という言葉が隠喩であったことが、遡及的に確定することになる。つまり、いったん隠喩が述べられてから、改めて意味を確定するために直喩で語り直された発話だったということが明らかになるわけだ。
 以上のことをふまえた上で、廣瀬による糞便に関する記述をいくつか引用した中でも最初のものの、冒頭部分を改めて確認してみよう。……ここでの廣瀬は、ひとたび「クソ」と呼んだことを、改めて「あるいは”クソ的なもの”」と呼び変えている。
 「クソ」と「クソ的なもの」が並列に並べられることが可能になるのは、ふつうに考えれば、この両者のいずれもが糞便そのものを指し示しているのではなく、それぞれが隠喩と直喩、あくまでも比喩として用いられているからということになる。
 ……しかし、『シネマの大義』という著作には、「クソ」と「クソ的なもの」との並列可能性について、さらに細かい議論をしている部分も含まれる。その部分も、さらに検討してみよう。


 『サウダーヂ』を論じる小論の中で、廣瀬は、「さわれるクソ」と「さわれないクソ」との区別を持ち出している。それは、例えば以下のような記述だ。


『サウダーヂ』(二〇一一)はクソに塗れている。クソとそうでないものとがあるのではなく、すべてはクソであり、「さわれるクソか、さわれないクソか」でしかない。上映時間一六七分のあいだスクリーンを隅々までクソで埋め尽くし続けるというその徹底ぶりが『サウダーヂ』に特異な強度を与えている。フィルムそれ自体が一本のクソなのだ。(同、p221)


 重要なのは、しかしながら、そのように寄せ集められたこれらの「問題」それ自体を「クソ」だと取り違えないようにするということだ。「問題」はそのどれもが確かに「クソのようなもの」ではあるだろう。しかし「クソのようなもの」であることは「クソ」であることとは必ずしも一致しない。(同、p222)

「問題」そのものがクソなのではない。そこで生活しているわけでもなく、そこをきちんと訪れたことすらない者あちが新聞やテレビなどの報道から得た知識に基づいていい加減に想像しているだけに過ぎないはずの「問題」、すなわち、「日本の地方都市の現状」という抽象的な括りで十把一絡げに頭のなかだけででっち上げられたたんなる想像の産物に過ぎないそうした「問題」が、そっくりそのまま寸分違わぬかたちで実際に生きられてしまっているという恐るべき現実、これこそがクソなのだ。その多くが実際に甲府で生活をしているとされる人々によって演じられる『サウダーヂ』の登場人物たちの生きる日常が、甲府のことなど何ひとつ具体的に知らない者たちの頭でっかちな想像を微塵たりとも超えないということ、これこそがクソなのであり、要するにクソとはステレオタイプ、紋切り型、クリシェのことであり、クリシェでしかない生のことなのだ。(同、p223)


 ここでは、「クリシェでしかない生」こそが「さわれないクソ」であるのだということが、明確に述べられている。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」の両者を含む上位の概念が廣瀬の言う意味での「クソ」であるのならば、ここには比喩の働く余地はないということになる。
 しかし、廣瀬は、「さわれるクソ」と「さわれないクソ」の両者がいかなる関係性をもって同一の概念に内包されることができるのか、いかなる議論も展開してはいない。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」とは、それぞれが単に無関係に存在しながら、同一の言葉によってのみ関連づけられている。……ここにあるのは、隠喩の機能そのものである。
 さらに言うと、この小論の冒頭で、廣瀬は「フィルムそれ自体が一本のクソなのだ」と断定してしまっている。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」のどちらかによって全編が満たされているという意味で述べるのであれば、「さわれないクソ」に関する部分をも含めて「一本のクソ」と述べることはできない、それは「さわれない」のだから。言い換えれば、「さわれるクソ」のことしか指示できないはずの「一本」という表現が、「さわれないクソ」をも含んで指示してしまっている。つまり、「さわれるクソ」という「クソ」全体の一部に過ぎないはずの概念が、「クソ」全体を包含するものとして当然のこととして扱われている。
 以上のように検討してみれば、やはり、「さわれるクソ」、通常の意味での糞便そのものが、糞便そのものとは無関係な文脈に連結しより大きな文脈を形成するために、隠喩としての機能を担わされてしまっていることは、『シネマの大義』という著作の内部で起きていることとして間違いのないことなのである。


 なぜ私は、映画を論じる文脈での隠喩の使用のされ方を細かく論じているのだろうか。……それは、比喩形象の類は、「映画において用いられている状況」と「映画を論じる言語において用いられている状況」とのそれぞれで、全く異なるあり方をするからだ。
 極めて当然の事実として、映画の画面に糞便が映り込んでいる際に、その映像が糞便以外のなにものかを指し示すことはない。それは圧倒的に、糞便そのものをどこまでも表象している。もちろん、「糞便が映っている
映像」が前後の文脈と合わせた結果他の何物かをも同時に指示することはありえるが、しかし、糞便そのものの形象が失われることはありえない。
 一方、言葉として発せられた糞便は、あくまでも隠喩としてのみ用いられたにすぎない糞便と、そこだけで見れば全く区別が付かない。したがって、この言語を操作する者は、糞便そのものの表象と隠喩としての糞便とを意図的に混同し、新たな文脈を形成することすら可能である。
 ということは、である。ある映画に関して「映像そのもの」ではなく、「映像をいったん言語に移し替えたもの」を議論の素材とするならば、映像そのものに即していた限りでは到底出てこないような突飛な文脈を構成することが可能となる。
 ……だからこそ、そのような意味での隠喩の機能が存分に駆使されてしまっている『シネマの大義』という著作は、私としては、マルクス主義からも表層批評からも後退してしまっているという判断を下さざるをえないのだ。


 繰り返すが、隠喩であるかどうかが一見すると不確定な表現が実際には隠喩として機能しているという事態は、『シネマの大義』という著作においては、極めて致命的なことであると言えると思う。
 例えば、この論集でなされる議論の理論的な中枢であると見なせる「フーコー/イーストウッド」「プラトン/レヴィナス/ゴダール/小津」あたりの小論では、その根本的な発想として、哲学者による著作をあくまでも映画と見なし、哲学書の展開自体に切り返しショットやクロースアップなどの映画の技法が含まれることになっている。
 つまり、廣瀬は哲学書をあくまでも映画としてとらえているわけだが、例えば「フーコーのカメラ」という記述がなされる際、それが文字通りの意味で廣瀬が信じていることなのか、それともあくまで隠喩としてのみ用いられているのかは、その部分だけでは確定できない。それぞれの論考自体は、この不確定性が貫かれているのである。
 しかし、『シネマの大義』という書物全体で見ると、その終わり近くに収録されたロラン・バルトに関する講演記録で、ドミニク・パイーニから話を引き継ぎつつ、廣瀬は次のように述べてしまう。


映画を直接的には論じていないようなテクストのなかにもストップ・モーションやクロースアップといった映画的手法を読み込んでみせるパイーニさんの映画批評家としてのその曲芸的な身振りを私自身もそっくりそのまま真似て、しかし、パイーニさんが引き出してきたのとは異なる答えを、いわば、パイーニさんの答えに対する切り返し、あるいは、アンチテーゼとして呈示した上で、私の後に発表されるバルト研究者の桑田光平さんにそのジンテーゼ、パイーニさんと私とを同時に捉えるロング・ショットを期待してみたい。今日はそのように思っています。(同、p468~469、ルビと傍点は省略)


 バルトが文字通りの意味で映画を撮影しているわけではないと自らが見なしていることを、廣瀬は自ら認めてしまっている。バルトが用いているのはあくまでも「映画的手法」であり、廣瀬自身が行なっているのは、「いわば」「切り返し」なのであって、「切り返し」そのものではない。
 直接聴衆を目の前にして発せられた言葉であるからだろうか、ここでの廣瀬は、文脈を明らかにし、それが比喩であることを隠さず、意味も固定する直喩を選択している。……ならば、この著作全体が一つの文脈に置かれるならば、フーコーやカントやレヴィナスが文字通りの意味で映画を撮影したと信じているのではなく、あくまでも隠喩としてのみ述べられていたことになってしまう。
 ……以上のことを確認した上で、この著作の冒頭に立ち戻ろう。小津映画とマルクス主義映画批評との関係を述べた廣瀬は、「ドラマ的あるいはメタファー的剰余価値生産」と述べていたのだった。
 当然のことであるが、「メタファー」と「剰余価値生産」とが「厳密に同義語」であると信じている者は、両者の間に「的」という言葉を挟むことはありえない。ここでの「メタファー」はあくまでも「剰余価値生産」を指示することに奉仕する直喩なのであり、「メタファー」と「剰余価値生産」が同等であると信じられてはいないことが、この笹井ながらも決定的な表現によって自ずから明らかになってしまっているのだ。


 廣瀬純の『シネマの大義』を読み込みつつ私が考えたのは、以上のようなことであるのだが……廣瀬自身が掲げる「マルクス主義的表層批評」からこの書物の記述方法が乖離することによって生じた結果は、黒沢清の評価に表れているように私には思えた。
 蓮實重彦の映画批評を批判的に読み替える作業を貫徹するならば、結果としてその評価が最も大きく変動するのが、黒沢清であろう。しかし、廣瀬による黒沢清の評価は、むしろ蓮實による従来の評価とそれほど変わるものではない。
 廣瀬は、マルクス主義的表層批評の観点からして、黒沢清はゴダールと並ぶほどの特権的映画監督であるとする。私には、これは受け入れ難い評価だ。……むしろ、表層批評にマルクス主義の観点も入ることで、黒沢清の見え方は根本的に変わる……と言うか、蓮實重曾孫と黒沢清との影響関係のその間隙で、無視してもよいことになっていたはずのとある固有名が、全く異なる意味を持つものとして再浮上することになるはずなのである。
 ……とはいえ、これは、『シネマの大義』の読解とは直接的な関係がないことではあるので、改めて別の記事に書くことにしよう。









映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(下)

 既に述べたように、映画『ワンダーウーマン』は、ワンダーウーマンという(アメリカでは)非常に有名なキャラクターに関して全く何も知らない観客にとっては、おのずと見え方が変わってくるような作品である。とりわけ、「両腕のブレスレットで銃弾を弾く」というアクションは、そのことを最大の見せ場としてアクション演出が構成されているため、予備知識による印象の差が特に大きく出てしまうような部分となっている。
 このことについて、非常にがっかりしてしまったことがある。『ワンダーウーマン』の日本公開に合わせて、日本の色々な漫画家がワンダーウーマンのイラストを描くというキャンペーンがあったのだが……その中で、「ワンダーウーマンが、ブレスレットと剣で銃弾を弾いている」、というものがあったのだ……。
 ……いや、だから……まあ、これに関して、仕事を振られた漫画家には、別に罪はないだろう。しかし、企画が立てられ、漫画家に仕事を振り、たぶん下書きが仕上げられてから、カラーリングが施されて完成し、一般に向けて公表される……という過程で、「いやこれはおかしいですよ」と一言言える人は、ただの一人もいなかったんだろうか……。


 例えばの話なんだけれども、日本の非常に有名な漫画である『ドラえもん』を、ドラえもんの存在が全くの未知である外国に紹介しようということになったとして、「戦後日本の社会状況においてこの漫画が登場した背景は……」とか、「この作品を生むに至った作者の人となりは……」などということから、まず紹介を始めるという必要はありますかね?
 いやもちろんそういう話が出てきてもいいんだけれども、まずは、「ドラえもんの四次元ポケットやひみつ道具がどういうもので、それを巡ってストーリーの見せ場はどのように作られるか」とか、「作中での主要なキャラクターはこんな関係を持っている」……などといったところから始めて、作品をごくふつうに受容できる下地がまず作られてから後の話ですよね、どう考えても。
 ところが、日本のマスメディア上とかで『ワンダーウーマン』が紹介されるのを見ていると、とりあえず私の見た範囲だと、政治的状況やら時代背景やらの話しかされておらず、ブレスレットに関するアクションについて触れられているのなんて見たことなかったんですよねえ、アメコミに関して識者であることになっている人々の発言で……。
 まあ私自身はワンダーウーマンに関してはそれほど詳しくない方のキャラクターなもんで、真偽を細かく判定することはできないんですが……しかし、これがキャプテン・アメリカなんかだと、キャプテン・アメリカをアメリカの政治や社会と結びつけて語りたがる人々がさも読んだかのような振りをしてついている嘘の数々は、全部ばれてますぞ。
 そういうことから考えると、「ワンダーウーマンの政治性や拝啓知識に関しては饒舌に語るが、ブレスレットのアクションについてすらほぼ触れないというような人は、そもそもコミックなど読んでいない紹介者なのではないか」という疑いを、当然のこととして持ってしまうわけです。


 とはいえ、じゃあコミックそのものの紹介がいいのかというと、そんなこともないのだった。
 映画『ワンダーウーマン』の公開にタイミングを合わせて邦訳が出版されたのが、現行のDCコミックスの「リバース」展開になってからの最初の単行本『ワンダーウーマン:ライズ』であったことには本当にがっかりし、「特に何も考えないで、機械的に出してるだけなんだろうな~」と思えてしまうようなことだった。
 DCコミックスの「リバース」展開で、とりあえず新規読者がそこから入っていけるように、ほぼ全てのタイトルが新規まきなおしとなったことは事実。……しかし、これが「ワンダーウーマン」の場合、「今までワンダーウーマンのオリジンは何度も語られ直されてその都度少しずつ設定に変化が見られたが、そこにはまやかしがあったのではないか」というところから始まったのだった。
 ……で、そこから、ワンダーウーマンが秘密を探る現在時の話と、改めて出生の状況が語られる回想編とが交互に語られるというのが、それ以降の「ワンダーウーマン」の展開だった。……が、この交互に時間軸を行ったりきたりするのをとりあえず単行本にまとめるときにはやめて、現在編をまとめて単行本の一巻『ライズ』、過去編をまとめて二巻の『イヤー・ワン』として出版された。
 しかし、日本の場合、「あまりにも有名であるがその出生は何度も異なる形で語り直されてきたワンダーウーマン」という話の大前提が共有されていない。だから、その状態で読者がいきなり『ライズ』を読んでもぴんとくることはないだろう。……一方、『イヤー・ワン』の方はと言えば、非常にオーソドックスな形でワンダーウーマンのオリジンを語っており、全く何の予備知識もいらず、ダイアナがブレスレットで銃弾を弾くことになる経緯も語られており、なおかつ映画とも登場キャラクターがかぶっている……ということで、どこからどう考えても、映画公開に合わせて出すにはこれしかないというドンピシャのものなのである! ……が、いまだに邦訳が出てはいないわけだ……。
 だいたい、当のDCコミックスがフリーコミックブックデイなんかで配布していたのは『イヤー・ワン』の方の第一話だったりしたくらいなんだから、「日本の状況はこうこうなのでこうしたいです」という企画を立てれば、単行本の順番を変えるくらいの許可は下りると思うんだが……。そして、それ以前の問題として、『ライズ』と『トゥルース』は完全にひとまとまりの作品なので、『ライズ』だけで先に出版しても、あまりにも中途半端なところでぶつ切りになってしまっている感じが否めない。しかし、これをひとまとまりのものとして続けて読めば、グレッグ・ルッカのライティングもさえ渡り、とんでもなくすばらしい逸品に仕上がっているのである。
 これだけすばらしい作品を、可能な限り適切な状態で刊行しようとする意志は、はたらなかったんだろうか?


 ……などという風に見ていくと、この作品をどのように受容したらよいのかということについて、どこを見渡しても熱意のようなものは見あたらず、結果として、作品をきちんと理解しようとする機運も全く盛り上がらなかったのが『ワンダーウーマン』という映画だったのだと思う。
 このことに関しては、この映画とフェミニズムの関連性をめぐることでも全く同じ状況であったと思う。……なるほど、いざ蓋を開けてみると、この映画はダイレクトにフェミニズム的な指向が含まれるようなものではなかった。
 そのことに関して「やった! フェミニズム臭くない!」などと喜ぶのはもちろん最悪の反応だが、一方で、フェミニズムの観点から「たいしたことない」などとあっさり断じてしまうような評価も、複数の場所で目にした。
 そのようなことについて私が思ったのは、「フェミニスト批評ってのはそんなに甘いものなのかね?」ということである。……だいたい、ハリウッド映画は世界中に向けて売り出される商品なのだから、表向きの大まかな内容はあっさりと咀嚼できるように製作されているのが当たり前である。
 これはフェミニスト批評に限った話ではないが、一見すると単純な内容しか持たない大量消費のための商品としてのフィクションを、実際には存在している詳細な意味内容を分析し時には社会的な文化背景との関連性を浮き彫りにしたりするようなことまでするために、高度な批評理論なんかが存在したりするわけだ。
 単純な商品の表向きの単純な内容をとりあえず咀嚼しただけで、単純な鑑賞以上の分析を試みるわけでもなければ、文化背景をていねいに調べる気もない……にもかかわらず、単純な内容の評価以上の、なんか知的っぽい言説を口にしてみたい。これでは、単に怠惰なだけだと言われてもしかたがないだろう。


 ワンダーウーマンという有名なキャラクターには、フェミニズムと関わり合うという意味合いが不可分に結びついて存在し続けてきた。にもかかわらず、始めてこのキャラクターが単独で実写映画化された『ワンダーウーマン』の作中では、直接的なフェミニズムの主張はほとんど存在しなかった。
 ……ならば、「それはなぜなのか」という問いを立て、それに答えるために背景を調査したり分析を展開したりすることを経た後で初めて、その内容に関する評価を下すことができるだろう。
 はっきりとここで述べておかなければならないのは、二十年ほど前までのアメリカのコミック・ブック業界においては、性差別が自覚的に意識されることすらないまでに内面化されていたということだ(……これはまあ、要するに、今の日本と大して変わらないということでもある)。コミックの内容に対する自己検閲のシステムであるコミックス・コードが有名無実化していった80年代以降の状況で、性と暴力に対する直接的な描写が氾濫したが、そこにあったのは、主要な読者層であるヘテロの若い男性の欲望に無批判に奉仕するものであったわけだ。
 それ以降、現在に至るまでのアメリカのコミック・ブック業界は、そのような無自覚なセクシズムに対する批判を受け入れ続け、業界の性質を絶えず変え続けてきた。スーパーヒーローものに偏重していた内容に関しても、様々な内容が取り上げられる方向に進み、女性の描写が若い男性の性的な視線から消費されるためだけに存在するようなことは、ほぼなくなっていった。
 ここ二十年ということなら、例えばジム・リーは、トップクラスのアーティストとしての地位を保ち続けている。そして、ジム・リーのアートの変遷を確かめてみれば、作風そのものにはそれほど大きな変化は見られないものの、女性の人体の描き方は根本的に変わってきていることは、一目瞭然なのだ。
 もちろん、現実社会の水準でなら、アメリカにも性差別はまだまだ残っているのだろう。コミック・ブック業界でも、読者の側からのバックラッシュは絶えず存在する。しかし、少なくともフィクションの製作現場の水準でなら、作り手たちの間で性差別をなくすことが当たり前のこととして内面化されてきてもいる。
 そういう意味では、現在のコミック・ブック業界を代表する男性が音頭をとって製作し、女性監督の仕事をサポートして完成した『ワンダーウーマン』に直接的なフェミニズムの主張がなかったことは、むしろ、「ようやくここまできたか」と思えるような、喜ばしい事態なのだ。それはつまり、ワンダーウーマンがフェミニズムの意味ばかりを担うことからはとりあえず解放され、個人的な問題を抱えたただの一人の女性として描くこともできるようになったということだからだ。
 ……だから、こういう状況についての「やった、フェミニズム臭くない!」という反応も、「フェミニズムの観点からは全然たいしたことない」という反応も、双方ともに私としては悪い冗談の類としか思えない。これは単に、日本の文化状況がアメリカから二十年以上の差を付けられて、周回遅れになっていることに完全に無自覚な者によってのみ発せられる言葉なのだろう。


 映画『ワンダーウーマン』の作中では、第一次大戦中の欧米での女性に対する不当な扱いが描かれる場面もあるが、厳しい告発が向けられるわけではない。私の考えでは、これはあくまでも「昔はこんなにおかしいこともまかり通ることもあったんだね」という回想としてのみ存在しているのだと思う。
 もしお望みであれば、ワンダーウーマンというキャラクターの担ったフェミニズム的な意味を、社会的な文脈のメタ的な視線まで織り込んで制作されたコミックも存在する。……正確には、ワンダーウーマンそのものではなくワンダーウーマンのパロディキャラを主人公とした『アストロシティ:ヴィクトリー』である。
 このコミックでは、フェミニズムを強く主張し、女性に希望を与えるために闘う女性ヒーローが、社会のあらゆる方向から徹底して罵詈雑言を浴びせられ続け、女性だけが共同生活を営むキャンプが「狂信的なカルト集団の巣窟」などとバッシングを受け、それでも戦い続ける様が描かれている。つまり、ワンダーウーマンというキャラクターの作中で描かれた内容のみならず、社会的に担ったメタ的な文脈をもふまえてストーリーが構築されているわけだ。
 このようなコミックの脚本を、カート・ビュシークという一人の男性が書くことができたということが、既に記念碑的なことであると言えると思うのだが……そうだとしても、これが可能になったのは、コミック・ブック業界のセクシズムをめぐる血みどろの闘争が既に過去のものとなり、過ぎ去ったこととして回想する余裕もできたからこそ成立しえた作品だと思う。
 ……まあ、日本の文化状況にふさわしいのは、映画の『ワンダーウーマン』じゃなくて、こっちのコミックの方だとは思うが……。


 念のために書いておくと、映画『ワンダーウーマン』がフェミニズムの観点から見て反動的な後退だという批判があっても全くかまわないのである、その批判が正当な手続きを踏んでいるのであれば。
 例えば、ワンダーウーマンの両腕のブレスレットについて、アクション面での意味ばかり私は書いてきたけれど、一方で、「文字通りの意味で男が女を縛り付けていた時代の名残り」という意味付けも与えられてきた。また、ワンダーウーマンの故郷のパラダイス島にしても、基本的には、「男の暴力から逃れてきた女たちにとっての楽園」という含意があった。……だから、同じ内容に関するコミックと映画での描かれ方の落差を比較して、「映画の方が後退している」という批判だって当然成立しうるわけだよね、私が読んだ中では存在しなかったけれども。
 一方、あくまでも独立した映画としてのみ『ワンダーウーマン』を評価するため、作中に描かれていることだけを内在的に取り上げるという立場も当然成立する。……しかし、その場合には当然のこととして、この映画の外部でワンダーウーマンというキャラクターが幅広く持ってきた文化的・社会的な意味には、いっさい言及してはならないということになる。
 これまたフェミニスト批評に限ったことではないわけだけれども……映画をあくまでも独立した映画としてのみ見て、作品外部の文化背景やなんやかやに関してはいっさい調べる気も分析する気もないけれども、影響力の大きな有名なキャラクターなので、独立した映画をとりあえずは見たという知識のみに基づいてその外部の大きな分化や社会の文脈について語りまくるということを、スーパーマンやキャプテン・アメリカなんかを取り上げて平然とやっている人々って、掃いて捨てるほどいるよね。
 ……そういう意味では、これはやっぱり、フェミニズムうんぬんの話ではない、はるかにそれ以前の問題だ。批評や研究のめんどうな作業をする気はさらさらない人々が、なんとなく知的っぽい感じに自己満足できる、文化的・社会的に大きな文脈を切ったつもりになれるような批評もどきをやりたがるのは全くくだらん、ということでしかない。
 やっぱり、問題なのは、単純に物事を断言できないような状況の複雑さ、めんどうな作業を進めなければ理解などできないようなあいまいさにとどまることのできる人間がほとんどいない、ということなのだろう。映画『ワンダーウーマン』の主演のガル・ガドットとイスラエルの関係についても、怒り出す人が出てくるのはまあ当たり前のことではあるわけだ。……もちろん多くの日本人にとってはパレスチナ問題など身近ではなく、それほどの知識があるわけでもなく、当事者の感覚など持ち合わせてはいないのだが、しかし、自分にとっては縁遠い問題についての他人の怒りを「それとこれとは話が別」というように、さも理性的であるかのような分別をふりまわすのはおかしい。これは、客観的なのではなくて、他人事であるのにすぎない。
 このことを日本に置き換えたら、どんな話なのだろうか。……例えば、黒澤明の『七人の侍』を現代でリメイクするとして、強者に虐げられる村人たちを救うために立ち上がった七人の侍を演じるのが……石原慎太郎! 百田尚樹! 高須克弥! 長谷川豊! ……などというメンツだったとして、果たして我々は冷静でいられるのか。
 まあ、この場合は純粋に映画としても酷いことになりそうだけれど、「それはそれ、これはこれ」「作品としての評価と俳優への個人的評価とは別の話」という言葉を発するのには、本当はそれなりに覚悟がいることはわかると思う。……そして、パレスチナ問題に関する当事者感覚というものは、たぶんこんな例よりもさらに生々しいものであるはずなわけだ。映画というジャンルで、身体性をまるまる備えて作品に写り込む俳優の個人的な属性と役柄とを完全に区別してとらえるのは難しい。……そして、そのような難しさや曖昧さをあっさりと無視して簡単な結論に飛びつくのは、「理性」や「客観性」や「分別」などではなく、粗雑にして無神経な愚かさでしかない。


 ……まあ、こういうような状況を見るにつけ、ワンダーウーマンというキャラクターは日本になど相応しくない……と思うのだったが、しかし、ダイアナはといえば、スティーヴとともに、問題はdeserveではなくbelieveなのだと言っていたのであった。










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