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西部劇は解体しうるのか――ロバート・クーヴァー『ゴーストタウン』

 ロバート・クーヴァーの『ゴーストタウン』を邦訳で読んだのだが、なんとも微妙な気持ちになってしまった。……率直に言って、この小説は、クーヴァーの小説としては相当にダメなものである。ただ、私ががっかりしてしまったのは単にそれだけが理由ではなく、この小説に関して適切な紹介がなされているように思えなかったということもある。
 おそらくは、この小説に関して解説やら書評やらの類を書いている人々が、ここで題材となっている西部劇に関して全くの無知であるらしいことも、その大きな要因の一つとなっているのであろう。『ゴーストタウン』という小説の、西部劇というジャンルの参照の仕方は決定的にダメである。……一方、この小説よりしばらく後にクーヴァーが書いた『ノワール』は、フィルム・ノワールというジャンルの参照の仕方という点で、『ゴーストタウン』の時点より大幅に優れたものになりえている。
 ところが、日本語の翻訳紹介ということだと、後年の『ノワール』の方が先に出てしまった。つまり、ロバート・クーヴァーという小説家にしかるべき敬意を表し、そのキャリアを丹念に追うようなタイプの読者にしてみれば、予備知識なしで読めば当然のこととして失望してしまうようなものなのである。……ところが、『ゴーストタウン』は『ノワール』での達成に比べれば相当に見劣りするものでしかないというような評価・検討の類は、特に見られないのである。
 とはいえ、私がロバート・クーヴァーという作家にとって「ダメなもの」として見なしてしまうような水準そのものは、通常の小説との比較で考えると相当に高い(例えば、クーヴァーの代表作である『ユニヴァーサル野球協会』は、同じく野球を題材として取り上げたアメリカのポストモダン文学であるフィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』などと比べてみても、明確に上回る作品であると評価している)。また、そもそもアメリカのポストモダン文学と言えばトマス・ピンチョン以外の作家は重要作・代表作ですら邦訳・紹介されていないものがごろごろあることを思えば、クーヴァーの邦訳された小説が一冊増えるだけでも、貴重なことであるとは言える。
 ただ、『ゴーストタウン』と西部劇との関係を評する解説・書評の類が(私が目にした限りでは)ことごとく的外れで、なおかつ西部劇への無知が隠されていないようなものばかりであることを思うと、とりあえず作品を広めるために戦略的に弱点を隠蔽しているのではなく、単に問題の所在にすら気づいていないのではないかと思えてしまうのだ。
 例えば、『ゴーストタウン』という小説が、オーソドックスな西部劇が綺麗事の物語の背後に隠しがちな性と暴力を過激に描いたことを持って「西部劇のパロディ・解体」と見なしている人々がいるようなのだけれども、ペキンパーの西部劇を見たことがないのだろうか……(というか、へたをするとペキンパーの名前すら知らないのかもしれない)。
 あるいは、ジョン・フォードのような古典的・正統的な西部劇の巨匠でさえ、そのキャリアの後半になると、『リバティ・バランスを射った男』のような、西部劇というジャンルそのものへのメタ的視線、その定型が隠蔽しがちなものの背後の事情までをも内包した自己言及的な西部劇を監督しているのだけれども、「西部劇のパロディ・解体」などという者は、このあたりの事情まできちんとふまえてものを言っているのだろうか。
 そして、それ以前のそもそもの話として、「西部劇」とは、すなわち映画を表すジャンルというわけではない。西部劇は、小説としてもコミックとしても、あるいはTVドラマとしても、無数の作品が生産されてきている。また、開拓時代のアメリカ西部(と言うか、厳密に言うと、西武に限らずとも開拓途上の状態の無法地帯)を舞台にしたジャンルが「西部劇」であるため、このジャンルに属するフィクションが、明確な物語の定型を共通して持つわけでは、実はない。保安官やらインディアンやらカウボーイやら流れ者のギャンブラーやらは確かに西部劇に頻出する記号であるが、必要不可欠な構成要素というわけでもない。保安官の登場しない西部劇など、いくらでも存在する。
 多くの媒体にまたがって長年に渡って量産されてきたジャンルが西部劇である以上、そこに頻出するありがちな物語がジャンル内で自己言及的に相対化され、パロディ化され、解体され、ありがちな定型が隠蔽し抑圧した裏側が暴露されるようなことも、ジャンルの内部で既にさんざん繰り返されてきたことだ(余談になるが、アメリカの娯楽の分野では、小説なのか映画なのかという媒体の問題よりも、西部劇なのか犯罪者なのか恋愛ものなのかという内容での分類の方が、ジャンルの区分の境界として大きい意義を持っているように、最近思えてきた。これは、日本とは根本的に感覚が違うところなのではないかと。文化的に高い価値を認められると、コミックがあっさりとgraphic novelなどと呼ばれてしまうことにも、そのあたりの事情があるように思われる。……しかし、これはしょっちゅう思うことなんだけれども、日本でアメリカ文学の研究してる人の大半って、アメリカの文化的背景、大衆娯楽の状況とかにはほんとに興味ないよね……西部小説なんかにしても、かなり早い段階でアメリカ文学の本流からは外れたものの、二十世紀にも娯楽ものとしては大量生産されてきたんだけれども……)。
 つまり、もし本当に、そのような巨大なジャンルとしての西部劇の総体を「神話」とみなしそれを解体するのであれば、それこそ『ユニヴァーサル野球境界』以上の巨大な小説でなければ到底なしうることなどできるはずもないのである。
 ……では、『ゴーストタウン』という、長篇としては小ぶりの小説が西部劇を参照しつつなしていることとは、いったいなんなのか。


 『ゴーストタウン』という小説が始まるのは、開拓時代のアメリカの西部とおぼしき場所で、無人の荒野を独りで行く男が、町を訪れるところである。……ただ、それが正確にいつの時点のことであるのかも、作中でどの程度の時間が経過しているのかも、はっきりとしたことはわからない。むしろ、作中での時間の扱いが通常のものではないことをはっきりさせるためにこそ、冒頭近くに次のような記述がある。


そして谷から出てみると、彼は何もない大平原の真っ只中にいた。そこは何も起きたことがないように見えるが、同時にすべてがすでに終わってしまった――始まる前に終わってしまったようにも見える場所だった。そこにありながら、そこにない空間。恐ろしいと同時にありふれた、とてつもなく大きな虚空。この馬が歩く地面は、これだけの広がりがあるのに紙のように薄く、何もないところに広がっているかのようだ。彼はここで世界の終わりを迎えるつもりはないが、世界の終わりが来るような気がしなくもない。(『ゴーストタウン』、上岡伸雄・馬籠清子・訳、p5~6)


 「彼」と呼ばれる男がとある町を訪れるところから物語は始まるのだが、しかし、その町を男が訪れるのが初めてのことであるのかどうかすら、はっきりとはわからない。


 その死者が彼に取り憑いているように思える。乾いた風に目がついていて、彼の背後から囁きかけている。空中に目があるというこの感覚がときどきとても強くなり、彼は鞍の上で体をひねって視線を後ろに向けずにいられなくなる。そしてある日、そのように後ろを向いたとき、反対側の地平線に町があることに気づく。彼が向かっていた町の鏡像のように見える町。まるで彼は一つの町を旅立ち、また同じ町に向かっているかのようだ。(同、p7~8)


 そして、その町がどのような場所であるのかと言えば、いかにも本物らしくない、作り物めいた場所であることが隠されもせず、はっきりと明言されることになる。


通り過ぎていくのは質素な町。人気がなくて静まり返り、砂漠そのものからできた町のようだ。今にも倒れそうな、ハリボテの正面外観だけの木造家屋が数軒並び、荒涼とした砂漠に街路のような雰囲気を作り出している。(同、p8)


 ……つまり、ここまでを整理してみると、直線的な時間の流れが存在せず、全てが終わったと同時に何も始まっていないとも言える無時間的・非歴史的な空間の内部で、一人の男が作り物めいたいかにも偽物のような町に向かっているのだが、その訪問は初めてではなく、何度も何度も繰り返されたものであり、空間的にも時間的にも物語は循環していることが示唆されている。
 それのみならず、「彼」と呼ばれる人物については、次のような記述もある。


あるとき彼は誰かを埋めなければならなかった。記憶によれば兄弟みたいな男。ただ、彼が掘った穴に横たわる死者は本当のところ死んでおらず、やみくもに動き続け、土を蹴ってどけようとしていた。実は、体をねじったりもがいたりしていたのは彼自身で、彼がやみくもに蹴っていたのだった。埋葬のための穴に横になり、土が顔にかかっていた。しかし、再びそれは彼でなくなり、そこにいる男は突如として穴から這い出るそうとして、空気に掴みかかるかのように腕を振っていた。(同、p5)


 つまり、「彼」という言葉が誰を指しているのかも、実は明確ではない。埋葬するものと埋葬されるものとの間で主観が交代しているのかもしれず、死者と生者との間の境界も明確ではない。
 そのことを踏まえると、タイトルが『ゴーストタウン』とされていることも、これと関係があるように思えてくる。実は作中では、「ゴーストタウン」と呼べる場所がはっきりとした形で登場するわけではない。つまり、一見すると生者たちが住んでいる普通の町と思える場所が、実はその実態は死者たちのゴーストタウンであることが示唆されているわけだ。
 始まりも終わりもない循環する時間の内部で、「彼」と呼ばれる人物の人格の境界も明確ではないからこそ、西部劇を構成するありがちなパーツだけが、物語に奉仕する本来の機能を失い、純然たる記号としてのみ働いて、単線的な時間が流れない迷宮的な作品世界を構築する――ということが、この小説では起きている。


 では、それの何がダメなのか。以前私は、クーヴァーの『ノワール』を評して「この『ノワール』という作品は、「テクストそのものが既存の記号の集積のみで構成されている」というようなポストモダン文学にありがちなスタイルを踏襲した上で、そこからさらにひとひねりを加えて言語そのものの原理的な検討・分析にまで到達している」と書いたのだが、それを踏まえて言えば、『ゴーストタウン』は単にありがちなポストモダン文学なのであって、そこにクーヴァーなりのひとひねりが加えられているようなこともないのである。
 まず、作品を構成するパーツが西部劇の記号であることを除いてしまえば、作品のなりたちそのものはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』に酷似しているのだが、『ペドロ・パラモ』より後続でありながら、あの小説よりはるかに単純な構造しか『ゴーストタウン』は備えてはいない。
 では、『ゴーストタウン』の独自性たる、西部劇的な記号を本来の文脈から引き剥がして無時間的な作品世界に投入するということは、どうなのだろうか。……私は、そのような試みはフィルム・ノワールを題材としてはうまく機能しても、西部劇ではうまくいかないと思う。
 そもそもの前提として、「フィルム・ノワール」とは、漠然とした雰囲気なり画面のスタイルなりに共通する傾向を持つ一群の作品をまとめて呼ぶ呼称に過ぎず、明確なジャンルとしての境界を持たない。だから、その雰囲気・スタイルだけを抽出し、無時間的な作品世界を構成するということは、もともと備えている傾向と合致している。
 一方、西部劇とは、要するにアメリカの時代劇である。西部劇は巨大な広がりを持つジャンルであるが、時代劇である以上、歴史性を抜き取ることなどできない。例えば銃器を精密に描写するなら、それだけで、時代・場所がある程度特定されてくることもありうるし、南軍もしくは北軍の兵士(もしくはそうであった過去)が登場するなら、政治性を抜き取ることもできない。
 だから、『ゴーストタウン』という小説がなしているのは、西部劇の定型に対するパロディ・解体ではない。むしろ、ここで起きている事態は全くの逆である。西部劇のありがちな要素を切り出してきて断片的に組み合わせ、クーヴァー独自の無時間的な作品世界の構成要素とする、そのことにあたって、個々のパーツが本来備えていたはずの歴史性・政治性はばっさりと捨象されている。つまり、西部劇の隠された真実、その本来の実態なるものは、『ゴーストタウン』の閉じて独立した作品世界によって、むしろ隠蔽されているのである(……そう考えてみると、これって、イタロ・カルヴィーノの完全にダメな部分と同じですな……)。
 ただし、『ゴーストタウン』と類似するテーマを扱った『ノワール』になると、そのような問題はかなり解決し、技術的にも大幅の進歩が見られる。……のだが、作品が成立する根本的な前提は共有するのだから、本質的な部分ではない小手先の技術が洗練されただけであるとも言える。
 ロバート・クーヴァーの、以上のような問題は、最近邦訳が復刊されたマイケル・オンダーチェの『ビリー・ザ・キッド全仕事』においても、(単に西部を扱っているという内容面での類似のみならず)共通している部分があると私は考えている。……そこで、もう少しこのあたりのことを検討するため、クーヴァーが『ゴーストタウン』以前に書き、これも最近邦訳が出た『ようこそ、映画館へ』についても、改めて考えてみたい。













ポストトゥルースの時代と向き合うことによって、ニック・スペンサーは現代において最も重要なクリエイターの一人となった

 一応念のために改めて書いておくと、私は、ニック・スペンサーという人に関しては、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」のライターに就任したのを一読した瞬間から絶賛してきた。……のだけれども、その後も新しい仕事に接するたびに評価を上方に修正し続けており、とりわけ「シヴィル・ウォーⅡ:オウス」を読んだ今となっては……2000年代のアメコミ業界を代表するライターがジェフ・ジョンズだったのだとすると、2010年代を代表するライターはニック・スペンサーでもはや確定、とまで思うようになった。
 しかし、いざこの二人を並べてみると非常に興味深いのは、両者の存在感はちょうど入れ替わるような形で業界を覆っていることである。……改めて振り返ってみると感慨深いのは、「DCユニヴァース:リバース」のわずか一撃で、業界の勢力図が一挙に塗り替えられてしまったことだ。あのコミックを一読したときには単にその内容のよさにひきつけられただけだったのだが(実際、あれがフラッシュ史上のオールタイムベストであることには、私は一切の異論を認めません)、あれから現在に至るまでのアメリカのヒーローコミックは、完全にあの一本を中心にして動いてしまっている。
 とはいえ、当のジェフ・ジョンズ自身はと言えば、あの一本を最後に現場から撤退し、今のところコミックのライティングは全く手がけていない。……一方、マーヴルがDCにかぶせて発売した「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の創刊号は、徹底したしたバッシングにあい、ライターのニック・スペンサーは凄まじい汚名をかぶることになった。
 ほんの数年前には、業界のシェアで言うとマーヴルはDCの二倍近くまでを占めつつあったのだが、今やトントン……と言っても、マーヴルの場合はオリジナルコンテンツではないスターウォーズ関連のものを含めたものであるため(そして今のマーヴルでは、スターウォーズ関連以外のコミックは全く売れていない)、それを除いてしまったら大惨敗である。
 そのような、近年におけるDCの復権とマーヴルの凋落とは、「DCユニヴァース:リバース」と「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」が同時に発売されたという出来事に、あまりにも鮮やかに象徴されてしまっている。そして、その中心にあるのは、ジェフ・ジョンズとニック・スペンサーとの入れ替わりであるだろう。
 ジェフ・ジョンズが退場しながらもその影響が広く浸透したままである業界において、ニック・スペンサーが一身に体現してしまっていること……それは、「ポストトゥルース」のアメリカを生きる、ということであるだろう。


 ニック・スペンサーという人がどのような状況に置かれているのが改めて明確になったのが、『シークレット・エンパイア』をめぐるバッシングだろう。この騒動で明らかになったのは、そもそもニック・スペンサーをバッシングしている人々は、実際に自分が叩いている対象の作品を読んでいるわけではなく、それどころか、もはやそれを隠す気すらないということだ。
 この件で叩かれていたことが何だったのかというと、ニック・スペンサーがライターを努める『シークレット・エンパイア』の5号のヴァリアント・カヴァーに登場するマグニートーがナチっぽい衣装を身に纏っている、ということである。
 改めて念を押しておかなければならないのは、ニック・スペンサーがバッシングされ誹謗中傷を受けた原因となる根拠は、ただそれだけのことでしかない、ということだ。9号までが予定されている『シークレット・エンパイア』は、騒動の時点でまだ全く刊行すらされておらず、予告されている表紙がどのような意味であるのかすらわからず、確認することすらできない時点での騒動だったのである。
 そもそもの話として、アメコミ業界でコステュームなどのデザインを手がけるのは基本的にアーティストの仕事であり、ライターがどの程度まで注文を出して要望を伝えているのかは、個々のケースのそれぞれを関係者に確認を取らなければ、はっきりとしたことはわからない。さらに言うと、本来の表紙ではないヴァリアント・カヴァーにおいては、そのためだけに起用されるアーティストに任された自由裁量の部分が大きく、結果として、コミック本編と全く関係のないようなものが描かれることもたびたびある。
 そして、いまだ刊行がスタートしてすらいないコミックの後半に関することだから、作り手の側がそこに至るまでのストーリー展開を説明することもできない……という状況にあったわけだ。つまり、あの騒動でニック・スペンサーを叩いていたのは、この程度のことすらわからない人々だったのである。この人々は、読んでもいないものを叩いているのだから、大前提として、読者ではないということになる。
 それ以上に問題なのが、この人々は、自分が読者ではないことをもはや隠そうとすらしていないということだ。その時点では誰も読むことができず、ゆえに当然のこととしてその批判が正当なものなのか誰にも検証することすら不可能な状況でも、叩いていいことになったらどれだけ叩いてもいい。
 だいたい、ニック・スペンサーは「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」のライターに就任以来、ほぼ毎号に渡って過去の「キャプテン・アメリカ」へのオマージュを盛り込み続けてきたのにそれすらわからずに叩いている人々は、現行シリーズもバックナンバーも、ともにろくに読んでいないわけだ。
 ……一方、当のニック・スペンサーはと言えば、現代におけるまさにそのような状況そのものを、自作の内に取り込んでいるのだ。


 さて、巨大クロスオーヴァー『シヴィル・ウォーⅡ』のエピローグたる「オウス」のほとんどは、スティーヴ・ロジャースの独白と回想で構成されている。そして、これが非常に興味深いのは、ここでのスティーヴの言葉が、『シヴィル・ウォーⅡ』本編でのキャロル・ダンヴァースとの衝突の果てに昏睡状態となったトニー・スタークに向けて語られているということだ。
 もともと、最初の『シヴィル・ウォー』の終結直後、スティーヴは暗殺された。その遺体を前にしたトニーが、政治的軋轢の中で押し隠してきた内面を「告白」する……という場面があったのだが、今回の「オウス」は、ちょうどその構図を反転させたものになっているわけだ。
 過去を回想しつつ、これから起きる出来事について、スティーヴはトニーに「誓い」の言葉を述べる。……一方、改めてS.H.I.E.L.D.長官に任命されることになったスティーヴの、公的な「宣誓」の言葉が語られてもいる。
 そういう意味では、この「オウス」には二重の意味があるように見えるのだが……実際のところ、このタイトルに込められた多義性は、それだけではないように思えるのである。ここで語られているのは、ライターとしてのニック・スペンサーが読者に向けて語りかける「誓い」であるとも取れるのではなかろうか。
 「オウス」においてスティーヴが回想するのは、『シヴィル・ウォーⅡ』のことだけではない。最初の『シヴィル・ウォー』以降は特にマーヴルの巨大イヴェントで内輪もめが非常に多くなっていることや、「どちらの側に君は立つのか?」などと読者に語りかけてきたこと……そして、スクラル人がヒーローたちに偽装して多数地球に潜入していた『シークレット・インヴェイジョン』でも「誰を君は信用するのか?」などと煽ってきたこと、それらを踏まえると、スティーヴの発言は、極めて過激なものであるのだ。


 I don't know when you all started to really lose touch--when you forgot who you were supposed to be fighting for--but you did.
 君たちの誰もが、いつの時点で本当に目的を見失い始めたのか――誰のために戦うことになっているのかを忘れてしまったのか――それは私にはわからない。しかし、実際に君たちがそうなってしまったことは確かだ。



 And before you knew it, all your biggest battles were with each other.
 そして、君たちがそのことに気づく以前から、君たちの大きな闘いは全て、自分たち同士の間でなされるものになってしまっていた。



 Now, you'd tell me that's not fair. That you and Danvers were both arguing about how to make the world safer--that your motives were pure.
 そう言うのはフェアではないと君なら言うかもしれない。君とダンヴァースは、双方とも、世界をよりよくするために言い争っていたのだと――その動機はピュアなものだったのだと。



 You'd say that because it's the lie you've been telling yourself the entire time.
 君がそう言うのだとすれば、その理由は、それこそが君が自分自身にずっと言い聞かせ続けてきた嘘だからだ。



 I guess you can't really be blamed, though, can you? The system you live in is so corrupt from top to bottom it couldn't help but infect you.
 だが、私が思うに、君が責められねばならないいわれなど本当はないだろう? 君がその内部にいるシステムが上から下まであまりにも腐敗しているゆえに、汚染されるほかなかったのだ、と。



 But while you were busy fighting amongst yourselves? You missed something.
 だが、君たちは内紛に勤しむ間に、見失ってしまったことがあるのだ。



 People--the nameless, faceless people you appointed yourselves the guardians of--they decided they'd had enough. They wanted to feel safe and protected, and they finally realized you don't actually have the strength to get them there.
 人々――名前がなく、顔もない人々、君たちが、自分たちはその守護者になることにした人々――彼らは、もう十分だと決めてしまったのだ。彼らは、安全であり守られていると感じたかった、そして遂にわかったのは、君たちはそれを与えるだけの強さなどというものは実際には持っていないということなのだ。



 They started to demand something better.
 彼らは、よりよきものを要求し始めた。



 ……スティーヴ、手厳しすぎる……。
 コズミック・キューブの力による現実改変によってハイドラのスパイであったことになってからのスティーヴは、知能の全てを陰謀に注いで暗躍してきたので、「こ、これは、バットマン並みの脅威だ……」などと思ってきたけれど、口の悪さもその域に達していますなあ。単に罵詈雑言を投げつけるのではなく、相手の弱点を極めて冷静に分析した上で、痛いところばかりをネチネチネチネチネチネチネチネチ突き続ける上に、正論のゴリ押しだから言われた側も反論しづらいところなどもバットマンっぽいです。
 でもまあ、これ言ったのがスティーヴだと「な、なんてこと言うの~っ? こんなん言われたら、トニーの心折れちゃうよーっ!」などと思いますが、同じようなことをブルースが言ってても、単に通常営業の範疇ですな……。
 いずれにせよ、スティーヴのダメ出しは、まだまだ続く。


 It's too late for all of you.
 もはや君たち全員は手遅れだ。



 Somewhere over the national mall while you and Danvers were beating the hell out of each other, the verdict came in. The people made their decision, and you lost.
 ナショナル・モールの上空で君とダンヴァースが互いに殴り合っていた間に、評決は下っていたのだ。人々は決断を下し、君たちは負けた。



 And I'm glad. Do you remember when the Skrulls infiltrated everything, and everyone went around asking "Who do you trust?"
 私はうれしいよ。覚えているかい? スクラル人があらゆるところに潜入し、誰もが「君は誰を信じるんだ?」などと尋ね続けていた時のことを。



 Well, now you have your answer--they don't trust any of you. They want something else entirely. Who can blame them?
 今や、答えは出たようだなだ――人々は、君たちの誰一人をも信じない。彼らは、何か完全に異なるものを求めている。いったい誰が彼らを責めることができよう?



 You call yourselves "heroes" while you waste most of your time infighting and settling petty grudges.
 君たちは自分のことを「ヒーロー」と呼ぶ、ほとんどの時間を、内輪もめとけちな遺恨の決着に費やしておきながらね。



 You call yourselves leaders while you jockey around for authority and pecking rights, trying to make yourselves look good--
 君たちは自分のことを指導者と呼ぶ、権威や序列を得るために策を弄し、自分たちの見栄えを良くしようとしておきながらね――



 --while the truth is you've completely divorced yourself from the people you claim to protect. You have no understanding of what they want or need from from you anymore.
 ――一方、真実はと言えば、君は自分自身を、自分が守ると主張したはずの人々から完全に切り離してしまったのだ。彼らが君に何を求め何を必要としているのか、もはや君は全くわかっていない。



 And I know what you would say to that--that for all your mistakes, you've saved the world countless times over. But look around you--
 わかっているよ、それには、君ならこう言うだろうなー―多くの間違いがあったとしても、この世界を数え切れないほど何度も繰り返し救ってきたじゃないか、と。だが、周りを見て欲しい――



 --does this world look saved?
 ――この世界が、救われているように見えるかい?



 People are afraid, yes, everyone keeps saying this--and it's been true for a very long time. But now--
 人々は恐れている、ああ、誰もがそう言い続けてきたね――そして、それは長い間に渡って、真実だった。だが、今や――



 --now, they're angry.
 ――今や、人々は怒っているのだ。



 「この世界が、救われているように見えるかい?」と言ったときのスティーヴの、人を馬鹿にし蔑みきった表情と仕草は腹立たしすぎることこの上ないので、一見の価値があります。
 ……まあ、それはともかく、ここでスティーヴが語っている手厳しい言葉は、惨憺たる評判だった『シヴィル・ウォーⅡ』に対して不満を述べた読者の言葉と重なり合う部分が多々あるものであるわけだ。
 とはいえ、マーヴルの巨大イヴェントのありがちなストーリーは、『シヴィル・ウォーⅡ』以前から似たようなものではあった。『シヴィル・ウォーⅡ』の場合は製作スケジュールの酷い遅延なども相まって不満が高まったわけだが……何年も前から似たようなことをやってきたはずなのに、マーヴルのヒーローものが売り上げまで含めて急速に落ち込んだことには、マーヴルの外部にも要因があるはずである。
 「オウス」で述べられる言葉が、現実の読者へ向けた「誓い」でもある、三重の意味を持つのならば……仮にこれが正しければ、ここでスティーヴが語っている、人々がマーヴル・ヒーローにソッポを向けて求め始めてしまった'something better'あるいは'something else entirely'なるものも、現実世界に実際に存在している、具体的な何かであることになる。
 そう、「オウス」という言葉に、読者へと向けたニック・スペンサー自身の「誓い」という意味があるのであれば……ここにあるのは、「DCユニヴァース:リバース」に対する、事実上の敗北宣言なのである。
 ユニヴァース全体の中枢にある大規模なクロスオーヴァーを中心に見ると、マーヴルがヒーローたちの陰惨な内ゲバを描き続け、DCが王道ヒーローを正面から堂々と描ききろうとするような傾向は、だいぶ以前から続いてきた。にもかかわらず、マーヴルの方が売り上げ面では大幅にリードしていたのが……やはり、水面下では読者の不満は募っていたのだろう。『シークレット・ウォーズ』と『シヴィル・ウォーⅡ』が連続してこけたこともあり、一方で「DCユニヴァース:リバース」がアメコミヒーローの過去の遺産を全肯定しつつ、王道ヒーローを正面から直球で描きつつ、なおかつ人間の精神のポジティヴな面を何のてらいもなくうたいあげて大成功したとき、実は危ういところにあった均衡は、一挙に崩れてしまった。
 「オウス」の後半で明らかになるのは、近年のマーヴル・ユニヴァースで起きた事件を批判的に回想するスティーヴの言葉が、これから始まる『シークレット・エンパイア』につながっていることである……ということは、だ。このコミックが、ライターとしてのニック・スペンサー自身にとっての「誓い」でもあるならば、自身がこれから語ってみせる『シークレット・エンパイア』は、手厳しく全否定された近年のマーヴルのクロスオーヴァーとは全く違ったものにする、ということなのではなかろうか。


 仮にこれが正しければ、こういう人材に大きな仕事を任せるマーヴルもまだ死んではいないと思えるのだが……遂に始まった『シークレット・エンパイア』の冒頭あたりを一読した限り、やはりこれは傑作になりそうな予感がするのである。
 ストーリーの発端となるのは、世界各地で巨大な危機が同時に勃発する非常事態だ。その混乱状態の中で、S.H.I.E.L.D.長官であるスティーヴ・ロジャースが、危機回避のために、アメリカの軍隊および法執行機関の全権を掌握する。だが、スティーヴの指揮下によって全ての危機が解決され平和が回復されたかに見えたまさにその時、各地で一斉に放棄したハイドラによって、アメリカの主要な拠点が一挙に制圧されてしまう……。
 こんな風に始まる序盤の展開は非常に面白く、是非このテンションを持続していってもらいたいのだけれども、一方で、徐々に明らかにされつつある現状のスティーヴの設定は、非常に興味深いのみならず、アメリカの現状とリンクする部分もあるように思える。
 実は、「シヴィル・ウォーⅡ:オウス」の時点で、スティーヴは、自分がコズミック・キューブの影響下にあることを自覚していることが示唆されていた。読者が知る、これまでマーヴル・ユニヴァースで描かれてきたスティーヴ・ロジャースがなしてきたことの記憶を全て保持しつつ、その人格を「彼」と呼んで、自分とは別の存在と見なしていたのだ。
 『シークレット・エンパイア』の冒頭で明らかにされたのが、これにまつわる事情だ。……コズミック・キューブによって改変された歴史においては、もともと、コズミック・キューブを開発し兵器として利用したのは、連合国側の方だった。第二次大戦の敗色が濃厚であった連合国が、コズミック・キューブによって歴史を改変した結果としてできたのが現在の世界である……つまり、スティーヴは、コズミック・キューブによって人格を記憶ごと変えられたのではなく、改変前の世界の本来の記憶を取り戻したのである(……と、少なくともスティーヴ本人は信じている)。
 この設定が非常に興味深いのは、前提として確固たる正史の世界があり、そこから外れる記憶が洗脳によって捏造されているのではないと言うことだ。真実の歴史と偽の歴史の境界が絶対的に確定されているのではなく、マーヴル・ユニヴァースのこれまでの歴史とハイドラの隠された歴史のどちらが「真実」であるのかを確定する証拠は今のところ存在しない、つまり、その違いは相対的なものに過ぎない。
 要するに、現状の設定とは、アメリカとハイドラとが、互いの覇権を争う過程で、コズミック・キューブの力によって歴史そのものを書き換えあっている、というものなのである。そして、その中心点にある存在こそが、スティーヴ・ロジャースに他ならないわけだ。
 つまり、ここでは、明確な「真実」がどこかに存在し、それを基準として真偽が確定できるという世界観そのものが解体されていることになる。そしてこれは、「ポストトゥルース」と呼ばれる現在の世界をそのまま反映したものであるだろう……(ついでに言うと、先ごろ完結したアラン・ムーアの大作『プロヴィデンス』も、想像力こそが現実を規定する、それどころか、現実そのものを構成し時に書き換えすらすることを描き出していたわけで、同時代的なテーマを共有しているのだと言えよう)。
 改めて考えてみると、マーヴル・ユニヴァースがマーヴル・ユニヴァースとして確固たる同一性を保ち続ける条件、そのアイデンティティを、どれだけ時代や状況が変わろうとも確定させるものは、ただ一つしかない。「スティーヴ・ロジャースの信念」がそれである。
 そういう意味では、マーヴル・ユニヴァースをポストトゥルースの世界に投げ込むためには、それを取り除いてしまうことは、むしろ必要不可欠なことであったことになる。そんなことを考えるにつけ、『シークレット・エンパイア』の今後の展開には改めて注目しなければならないと思うのであった。











推理小説の存在意義について――高山宏『殺す・集める・読む』

 高山宏の『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』が復刊されていたので、読んでみた。この書物は、高山宏の推理小説に関する評論を集めたものだが、その中でも「殺す・集める・読む」と「終末の鳥獣戯画」の二つは、高山の主著の一つである『アリス狩り』にも収録されていたのだった。

 『アリス狩り』という書物は、ヨーロッパの近代的な価値観の形成とその内部からの攪乱を文学作品に即して読み解いていくもので、その際の主な対象となるのは、ローレンス・スターンやハーマン・メルヴィルやルイス・キャロルなどであったのだが、推理小説という大きなジャンル全体の推移が、ヨーロッパの文化全体の歴史の中でどのようなものであるのかも論じられていた。そこから、「殺す・集める・読む」と「終末の鳥獣戯画」が、推理小説に関する評論のみと併せて一つの書物になっているのが『殺す・集める・読む』であるわけで、当然のことではあるが、推理小説というジャンルの生成とその背後のヨーロッパ文化との関係に関する高山の立場が、よりクリアにわかるものになっている。……のだけれど、推理小説をより大きな文脈でとらえようとする高山の議論が、ジャンル・フィクションとしての推理小説をあくまでもその内部からのみ論じようとする立場とは大きな齟齬をもたらすような部分があり、個人的にはそこが面白かった。





 さて、表題作でもある「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」は、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズものの成立する背景を見ることで、推理小説というジャンルの成立の条件となる特殊性をおさえようとすることが議論の前提となっている。……そして、その際、高山が強く打ち出すのは、一八八七年に始まるシャーロック・ホームズものを、あくまでも十九世紀ヨーロッパの世紀末文学の一つとしてとらえるということだ。

 そのような時代背景をふまえると、ホームズの無数の事件を整理したワトスンが話者として小説の本文を構成するという、一連の作品の基本前提の持つ意味が明らかにされていくことになる。





 ホームズ作品の、エクリチュールとしての特性はかなり際立っている。ものを書くことが収集行為であることを自らよく知っているのである。物語の終りでホームズが「以上がこの事件の一部始終だよ、ワトスン君。君のコレクションに役立つなら、好きなように使っていいよ」と言い放つパターンが一貫しているのだ。(「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」、『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』所収、p28)





 無数の事件を収集し編集し索引をつけるワトスンの立場は、同時に、事件へと立ち向かうホームズにも見られるものである。





彼にとっては世界よりも、世界の文字化、索引化の方が魅惑的らしい。ホームズの索引とワトスンの日記で世界は二重に文字へと平板化され、ホームズの部屋の中へ、アルファベットのパノラマ的秩序の中へ、コナン・ドイルの意識の中へと「所有」される。世界が文字へと標本化されると言ってもよい。「ワトスン君、明日の晩までには、あいつは、あいつが集めている蝶みたいに、我々の網の中でばたばたもがいているよ。ピンでコルクにとめて、カードをつけて、ベイカー街の標本に仲間入りさせてやるさ」(『バスカヴィル家の犬』)とホームズは言い、彼が実は犯人の昆虫学者と同じ完成の人間であることをはからずも暴露してしまう。(同、p29~30)





 そしてホームズとワトスンの、世界を文字の裡に収集するという感性を、ひとつ上のレヴェルでホームズ作品そのものが見事になぞっていく。推理小説ほど細部が「伏線」として重要なジャンルはないわけだから、それを口実にして、ここでは世紀末文学特有の細部への惑溺趣味は存分にそのはけ口を見出すことができたのである。いや、そこでは細部描写が全てであるが故に、推理小説は世紀末以外にこれを生み出す時代はなかったと言うべきだろう。(同、p30~31、ルビと傍点は省略)





全ての細部が――ちぎれたボタンや穴のあいたズボンが――ひょっとしたらという潜在的意味性を読者に対してたえず主張しうる世界が、即ち推理小説に他ならない。「ヴィクトリア朝の人々は物語絵を介して絵を読むことを教わったように、ラスキンによって建築物を読むことを教えられた」とピーター・コンラッドは言っているが、世界を読むということでしか世界に対峙できなかった文化は、全てに意味を読みとらねばおかぬその偏執そのもののうちに、ついに己れの世界の究極の意味の不在を逆説的に暴露しているのである。(同、p37、傍点は省略)





 ホームズとワトスンに共通する態度、周囲の世界を言語化・索引化して収集し己の支配下に置くこと、解読可能な対象として切れ目なく意味を付与すること――これを、高山は、ヨーロッパ近代における帝国主義、その外部の世界への植民化の運動とパラレルなものであると見なす。

 そのような価値観の体現者としての「名探偵」の姿が確固なものとして形成されるのが十九世紀末であることの必然性を、高山は強調する。例えばそれは、『殺す・集める・読む』の収録された「世紀末ミクロ・テクスト」の文脈でも変わらない。





 名探偵のあるべき性格造形とは何か。枝葉を捨てて一言にして言えば、読みの困難なものを解読可能なものに、過剰な根茎状の混沌を要するにテクストに変えていく能力の体現者と言うに尽きるだろう。万事が「読み」とりにくい世紀末の状況が要請していたそういう記号論的ヒーローが、つまりは名探偵であり、彼が一切を解読して世界をテクスト化していく経緯を描くメターテクストたる推理小説という斬新なジャンルは、従って十九世紀末をもってそのピークに達する理屈になる。(「世紀末ミクロ・テクスト――推理小説と顕微鏡」、同書、p47)





 推理小説というジャンルが「十九世紀末をもってそのピークに達する」という言葉は、オーソドックスな推理小説史観からすればとうてい認められないものであるだろう。……しかし、ここでの高山の議論がどのような立場からなされているのかは、さらに時代が下った時期の推理小説に関する議論から明らかになるので、そこまで見てから改めて検討する。





 高山の立場は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものによって基本的なフォーマットが確立した推理小説というジャンルを、あくまでも世紀末文学の一種としてとらえることにあるということは、既に述べた。

 そのような立場からなされる、非常にユニークな議論がある。通常ならば、(ゴシック・ロマンスの掉尾を飾る最末期の作品と見なされることもあるように)怪奇小説の歴史の文脈で語られるブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を、ホームズものと同等の推理小説としてとらえるのだ。

 もちろん、これは、推理小説の本質を殺人事件と名探偵の推理としてのみとらえている限り、取られることのない立場だ。それは、推理小説の本質を、世界を言語化し、意味を与え、収集・編集してコントロール可能なものとすることこそが本質の世紀末文学としてとらえたとき、初めて取られる立場だ。

 近代ヨーロッパの中心地点の一つであるロンドンを出発して東欧のトランシルヴァニアへと向かう『吸血鬼ドラキュラ』に書き込まれているのは、中心と周縁の対立なのだと高山は言う。

 近代化されていない領域であるトランシルヴァニアの吸血鬼とは、噂・迷信・民話・口碑などといったフォークロアに包まれた存在である。従って、吸血鬼の存在を特定しそれを退治することととは、フォークロアを分類・収集し、近代的な体系を整備することによって可能となる――そのプロセスを書き込んだのが、『吸血鬼ドラキュラ』であるのだと言う。





ロンドンが抑圧した民衆的猥雑の文化が、その活力もろともトランシルヴァニアへと投影された。かくて周縁から中心へと両義的なパワーが逆流してくる。リアリズムの只中にフォークロアが、と言ってもよいだろう。両義的なパワー? そう、「人と獣の境界を曖昧にし、人と神、男と女の境界線を曖昧にしてやまないドラキュラ」(デイヴィッド・ハンター『恐怖小説』。一九八〇)という存在をめぐって、もう一度「閾」のテーマのことを思い出そう。但し、この物語自体は、そういう両義的なパワーを一枚岩的に単線化していくテクストの暴力をこそ浮かび上がらせるのである。世界を「擬人化」した、というか、アモーファスな世界に<かたち>と<意味>を押しつけていった長い長い<近代>という時代の歴史を、人と獣を分かつ閾をとり払うことでラディカルにゆさぶっていった。(「テクストの勝利――吸血鬼ドラキュラの世紀末」、同書、p147、ルビは省略)





 ミナ・ハーカーの立場にたてば、この作品はネガティヴな力を馴致する社会装置としての推理小説ということになり、これはこれでシャーロック・ホームズ的伝統の中で<発明>の名に値する巧緻なできばえである。世界の両義性を、回転する円環でしか形象できないそのあり方を、テクストの誤読/護読を介して、モノリス(一枚岩)に、一本の直線(行)に還元してしまうテクスチュアルな営みだ。民衆文化そのものを抑圧してきた<近代>の営みを、ミナ・ハーカーが演じてみせる。(同、p149、ルビは省略)





 民話のことに引きつけて言えば、中東欧のフォークロワのエンサイクロペディアを豪語しながら、こうしてつまりはそうした民族的なものを殺し去るにいたった反ー民話的ディスクールの生成の現場にブラム・ストーカーは立ち会わせてくれているのだ。少なくとも<近代>はこうして民衆文化を圧殺してきたんだが、わかるか、と。(同、p150、傍点は省略)





 ……以上のような議論を読む限り、推理小説というジャンルの「ピーク」と高山が見なす十九世紀末になされたことは、ヨーロッパ近代の価値観による外部への収奪を極めて効率的にモデル化した装置こそが推理小説である、ということになる。

 高山は、『アリス狩り』での議論では、スターンやメルヴィルやキャロルの小説に近代的価値観からの逸脱・反逆を読み取っていたわけだから、推理小説というジャンルに対する評価は歴史的な限界を持ったネガティヴなものでしかないようにも思える。……とはいえ、推理小説の二十世紀以降の展開とその意味の変質をも高山は論じているので、そちらも確認してみよう。





 ドイル以降の推理小説の展開を見るに当たって、大きく取り上げられるのは、チェスタトンである。そして、高山がチェスタトン作品の特徴として特に注目するのは、その作品群がしばしば好んで取り上げるパラドクスの問題だ。

 推理小説という装置がヨーロッパ近代の価値観を体現しつつ閉じた系を形成するのであれば、その内部にパラドクスがあるはずはない。言葉の両義性や多義性がもたらすパラドクスとは、近代的なシステムの綻びであり、前近代にルネサンスの文学がしばしば取り上げたことでもあった。

 以上のような議論をふまえた上で、「終末の鳥獣戯画」になると、ホームズ的な推理小説が収集・編集行為による意味付けによって覆い隠したはずの「世界の究極の意味の不在」が、推理小説という場において剥き出しになってしまう事態が論じられることになる。

 一九二〇年代以降、ヴァン・ダインやアガサ・クリスティやエラリー・クイーンなどによって続々と発表されることになった「童謡殺人」において、しばしば、犯人が殺人に至る合理的な動機は消滅している。むしろ犯人は、単に意味もなく殺人に手を染めるのであり、童謡の筋立てに実際の殺人の方を一致させるために事件を展開することすらする。そこにあるのは殺人そのものの無意味さであり、また、前近代的な童謡の残虐さが剥き出しになっているのでもある。





わが高木彬光の童謡殺人『一、二、三――死』でも、数え歌の筋に合いさえすれば誰を殺すかは問題にしない超犯罪者が現れてくる。形式が内容を制覇していく、つまり韻の踏みぐあいで登場人物の死活がどうにでもなる童謡の過酷な形式性が、いまや言語の外にはみ出て、非常な運命の力と化して白昼の条理の巷を跋扈するのである。

 それにしても、ある原因が必然的にある結果を生むはずと考えるいわゆる因果律というものが近代的思考の中心を支えていて、それがまた近代推理文学の抜きさしならぬ骨法となって現れてもいるわけだが(ポワロの好きな「正しい順序と方法で」というやつだ)、人間のもつ不条理な闇が次第に明るみに出てきた一九二〇年代、三〇年代、当然この「因果帝国」もおかしくなってきたはずで、それがすなわち推理小説の展開にも微妙な陰翳を与えることになった。超論理の超犯罪に打ち勝つために、人間の心の奥に澱む「鬱積された潜勢エネルギー」にも広く目配りできる超探偵が必要になったのだ。「誰がいちばん得をするか」式の単純な因果構成に行き詰まりをみせていたミステリーは、童謡に目を向けることでいっきょに深さをかちとった。ちょうど同時代の「純」文学がギリシア・ローマ神話に材をとりはじめたのと同工異曲の事情である。(「終末の鳥獣戯画――童謡殺人と現代」、同書、p223~224、ルビは省略)






 つまり、高山によれば、一九二〇年代から三〇年代にかけての推理小説とは、前世紀末に形成された推理小説の基盤となるフォーマットおよびその依って立つところの近代的価値観が自己言及的に検討され、批判的に解体された時期であったのだ……ということになる。

 もちろん、これは、オーソドックスな推理小説の歴史観とは大幅に異なる――というか、完全に矛盾する。通常であれば、一九二〇年代から三〇年代にかけては、既に言及されたヴァン・ダインやアガサ・クリスティやエラリー・クイーン、さらにはクロフツやフィルポッツやディクスン・カーなどの代表作が続々と発表されたことによって、むしろ「黄金時代」と見なされている時期だからだ。

 推理小説の黄金時代であるはずの時期が、高山の議論においては、推理小説の枠組みが土台から解体される時期ととらえられる。この齟齬はどこからくるのか。





 このような齟齬を、ジャンルの外からの視点で改めてとらえてみるならば――それは、ジャンル・フィクションとは、ジャンルとしての存在意義を失った時点だからこそ、ジャンルそのもののあり方が絶えず流動することもなくなり、結果として、ジャンルの内部にいる人間からすれば固定し自律性を獲得したかのように思うことのできるものである、ということなのではなかろうか。

 よりあからさまに言ってしまえば……既に明確な存在意義を失ったもの、あってもなくてもよいもの、ただし、確固たる提携は確立しているために同工異曲の作品を量産することが容易な状態になっているもの……結果として、その分野の存在意義など考えずにすむものこそ、ジャンル・フィクションなのではなかろうか。

 ジャンル・フィクションの成立・完成と見えるものは、より広い文化全体の文脈の内部でとらえ直してみるなら、むしろその存在意義の喪失である。……そのような仮説を立ててみた上で、改めて高山宏の『殺す・集める・読む』の議論に戻ってみると、非常に興味深く思えることがある。高山は、ヨーロッパの推理小説の展開を論じた上で、その議論を、「日本の推理小説」の方にも進めるのである。





 日本において推理小説というフィクションが完成・定着する上で極めて重要な役割を果たしたのが、江戸川乱歩である。自ら実作者として日本語による推理小説を執筆するのと同時に、欧米の黄金期の本格的な推理小説を精力的に紹介した乱歩のデビュー作である「二銭銅貨」とは、では、どのような小説だったのだろうか。

 一九二三年に発表された「二銭銅貨」は、そのタイトルの通り金銭、それも偽金を取り扱う小説だ。推理小説との親和性の高い暗号のテーマを取り扱いながら、ストーリーの展開とともに、作中で扱われる言語や貨幣が空虚なまがい物にすぎないことが明らかになるという小説が、金本位制の信頼が揺らぐ時期にこそ書かれている。





 そう、一九二〇年代とは、いつからか始まった近代に対する、自分たちは終りであるという括り方を激しく自覚的にやった十年であった。日本でもやっとそうだったということを考える場合、一九二〇年代までなかった推理小説がなぜ一九二三年にという議論は大変有効だ。特にその出発点において既に、解決の落とし所を予め宙吊りにし(犯人は初めから判明)、そもそも解決するとは何で、しかもさかしらな解決の身振りがいかに滑稽なものかをむしろ明らかにした、『二銭銅貨』はまさしくメタ推理小説と言うべく、もっとずっと大がかりな一九二〇年代論全体の中で評価すべきものと思う。(「『二銭銅貨』の経済学――デフレと推理小説」、同書、p250~251)





 ヨーロッパで十九世紀末に基本的なフォーマットが確立した推理小説が自己言及的に解体したのが一九二〇年代であるならば、「日本の推理小説」は、そもそも推理小説が存在意義を失ったのと同時期に、空虚なまがいものとして、あらかじめフェイクとして成立したものである、ということになる。……よくよく考えてみれば、「江戸川乱歩」という筆名からして、エドガー・アラン・ポウのイミテーションであるわけだ。

 日本の推理小説とは、そもそもその存在意義などない時点で成立したまがいものである――しかし、これは、「ヨーロッパの推理小説」と「ヨーロッパの近代」の関係をふまえてみれば、ある意味で当然のことであるとも言えるのではないだろうか。つまり、「日本の推理小説」がその前提としている「日本の近代」が、そもそもまがいもののイミテーションに過ぎないわけだ。

 そのように考えてみると、日本の推理小説という局面で江戸川乱歩が果たした役割とは、近代小説が成立するにあたって夏目漱石が果たしていた役割と、かなり似通ったものであったと言えるのかもしれない。





 高山宏の『殺す・集める・読む』を読みながらそんなことを考えていたのだが、私自身の中で、ジャンル・フィクションの作家を信用するときとそうでないときの境界線は、このあたりにあるのかもしれないと思った。……つまり、自分が帰属するジャンル・フィクションには確固たる足場も存在意義もなく、常にフェイクとしてしか存在できないという自覚を抱きつつ、それでもなお存在意義をなんとか成立させようとする小説家。現代日本の推理小説ということで言えば、少なくとも法月綸太郎や殊能将之なんかはそれに該当する小説家であるゆえに、私には読むに値するものだと思えるのだ、と。

 そんなことを考えていると、批評家としての法月綸太郎がしばしば参照している坂口安吾の推理小説に関する議論を、「日本文化私観」なんかの近代日本に関する議論と結びつけ、そこからさらに法月綸太郎の方に送り返すとかすると、かなり面白い議論ができるのではないかと思った。あるいは、ジャンル・フィクションに関する二つの立場を、花田清輝の「楕円」の話につなげてみるとか。殊能将之の『鏡の中は日曜日』にしても、ヨーロッパの文化を取り入れる近代日本の虚妄まで取り込んで書かれつつ技術的にも以上に高度な達成がなされている小説なので、ジャンルに関係なく、近代以降の日本の小説家でこれと同等以上の長篇小説を書ける人間はほんの数人しかいないと思いますよ。
















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