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最後に

 前回のエントリの末尾にも付記を入れましたが、その後のやり取りも含めたまとめを作成していただきました。想像以上に酷いことになっています。


  https://togetter.com/li/1198019

 
 さすがに前回のエントリのままで終わりになるのはいくらなんでもと思い更新しましたが、同じような突発的な状況が起きたときに対応する以外に通常の記事を更新することは、「再開未定」ではなく「二度とやらない」ことに決めました。
 今回の件でも不愉快なことは複数あったのですが、その中でもとりわけ気になったのが、私が個人的な愚痴を書いている部分もあるということ自体が、悪いこととして否定し罵倒までしてくる人々が複数いたことです。
 完全に個人が運営している個人ブログに個人的な疑問・感想の類を書いて何が悪いのかさっぱりわからないのですが、これを頭から否定する人々は、自分ではそういうことはいっさいしないのでしょうか。中には、今まで有益な情報を含む記事を書いていたことを肯定しつつ、それとは違うものとして、私の個人的感想が書かれていることを否定するようなケースさえありました。
 自分に利益をもたらしてくれるという理由で他人を称賛するというあつかましさも、他人が個人的感想を書いている領域に図々しくも踏み込んできて罵倒しつつ、個人的行動をすること自体を否定する尊大さも、私の理解を越えています。
 なされている議論の内容に対して批判があるというのはわかりますが、個人のパーソナルスペースでの振る舞い方の水準の話にまでずけずけと踏み込んでくるような身勝手なことがなぜできるのか、私には全くわかりません。
 そのようなこともあり、このような人々が無償の記事から何らかの利益を引き出すことができ、堂々と収奪・搾取する隙を与えるような行為は、金輪際やらないと決めた次第です。


 最後になりますが、今年に入ってから書いた『キン肉マン』に関する二つの記事は、文章そのものは走り書きにすぎないため全力で書いたものとは言えませんが、私の思考の全体像を素描したものにはなりえています。
 そして、実はあの文章は、私の中では、カサヴェテス論と同じ文脈の元にあります。近代社会の中での位置づけとしてとして、前者における「プロレス」と後者における「芸術」とは、同じ役割を果たすものとして捉えられています。
 つまり、『キン肉マン』に関する議論は、言ってみればアタル版マッスル・スパークのようなもので、まだ半分しか完成していない。これをカサヴェテス論と統合することで真のマッスル・スパークが完成するわけですが……その統合のための鍵は、ジル・ドゥルーズの『シネマ』における、「アメリカ」の概念の批判的な検討にあります。その上で、ドゥルーズにおける映画をコミックに置き換えるわけです。
 既にこのブログに何度か書いてきましたが、diptychとは、二枚一組の絵です。つまり、覚え書きをストックしているのにすぎないブログ記事とは別に、全てを統合した「もう一枚」があるわけです。そして、その統合した全体像は(まだ手直しは必要なものの)既にほぼ完成して存在しているわけですが、これはもはやどこにも出しようがないですな。





twitter上からこのブログに直接リンクをはりつつ根拠なしに全否定してきた藤田直哉氏への公開質問状

 当分このブログの更新はしないつもりでしたが、突発的な事態が起きたために更新します。
 また、更新を停止した時点で何も書く気が起きなかったためにコメント欄にも返信をしませんでしたが、励ましの言葉をくださった方々はありがとうございました。
 さて、突発的な事態というのは、「SF・文芸評論家」であるという藤田直哉氏が、私のブログにわさわざ直接リンクをはりつつ以下のようなtweetをしたことです。





 面識のない赤の他人にタメ口で威圧的に全否定のダメ出しをしてくるのが腹立たしいですが、それ以上に、何も根拠を提示していないことが問題だと思いました。
 このことを問いただすためにtwitterのアカウントを作成したのですが、そこから藤田氏に私が送ったリプライは、まあ私自身のものなのでテキストのみで以下にまとめて引用します。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
藤田先生が直接リンクをはられているブログの文章の書き手です。公開してある文章への批判は自由ですが、完全に全否定しておきながら、具体的な根拠を一切提示していないことが非常に不愉快です。謝罪や訂正は求めませんが、以下、根拠の提示と具体的な説明を求めていきます。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
まず前提として、プロの批評家を自認しておきながら、他人の全否定に具体的な説明を消去して広く公開することに既に手を染められたことには、こちらの個人的心情の水準では、許すことはありません。ただ、完全な全否定の根拠の提示なら、手間も労力も大してかからないはずです。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
(1)カサヴェテス関連の英語文献の扱いについて。カサヴェテスに関して、私の認識では日本語文献は非常に少なく、独立した論を立てるのに心もとないものです。そのため、日本語情報の欠落と思える部分を未邦訳の英語文献で補ったのですが、そこには、情報のみでも


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
有益だろうという思いがありました。「〇〇に関しては門外漢だが、全体としてはこうこう」という評価は当然ありえますが、藤田先生は文章全体を全否定されています。英語圏のカサヴェテス評価と文献を踏まえた上で、私の資料の扱いの致命的欠陥をぜひご教示ください。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
(2)カント『判断力批判』の扱いについて。専門家からは否定される変則的な解釈を提示していることは自覚しています。ただ、私が最も尊敬する批評家の一人であるポール・ド・マン何かの場合、パスカルやカントやヘーゲルの哲学的著作に対してそのような批評をなしていること


howardhoax @howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
もまた常識でしょう。むろん私などがド・マンになど及ぶべくもありませんが、学術的観点でも批評的観点でも構いませんので、『判断力批判』の扱いの全否定されるべき欠陥についてご教示下さい。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
(3)その他。そもそものカサヴェテス評価や映画史的観点からの位置づけ、基本的文章能力なども、全て、「論外」の「ゴミ」という評価が「正当」とのことですので、それぞれ一つずつでも、具体的欠陥をご提示ください。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
以上、こちらからは長くなってしまいましたが、藤田先生はいかなる保留も譲歩も抜きに全否定を公にされたことの内実を問われているだけですので、手間も労力もかからずに即答できるはずです。即答していただけるようお願いします。

howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
仮に、返答に時間がかかったりしようものなら、「自分の罵倒の根拠を説明できないのでは?」「後出して大慌てで考えているのでは?」「そもそも該当文章を読んでなかったのでは?」などの無用の誤解を呼びかねないと存じます。ぜひとも、即答をお願いします。


 ……と、いうことがあったのですが、本日は昼間からtwitter上での活動が確認されている藤田直哉氏は、今のところ私の問い合わせに返答しようとする素振りすらみせていません。


 ところで、藤田直哉氏のネット上で公開されている文章をいくつか確認してみたところ、藤田氏の批評観に関して興味深いものも見つかりました。
 例えば、以下の書評の一部を引用してみます。


http://dokushojin.com/article.html?i=1638


これはぼくのほとんど体質的な「趣味」(主観)なのだけれど、客観性や論理性を装った文章が、その実、ある欲望を隠し持っていたり、論理的ではない価値判断を導入していると、気になる。その判断の根拠を追い詰める作業がないと、納得がいかない。


 お、おお……なんという真摯にして誠実な批評観でありましょうか。
 ということはですよ、全身批評家たる藤田直哉先生は、当然、私の文章に対して「全否定」という価値判断を下した際にも、ほとんど体質的なところから、「判断の根拠を追い詰める」作業を実施済みであろうということになるわけです。
 ならば、それこそ今すぐにでも、私のこのブログの致命的欠陥などズバズバ指摘しまくって粉砕することなど、瞬時にたやすくできるはずですね。時間があけばあくほと、藤田先生の発言の信憑性が落ちてしまいそうで不安です。
 皆様、藤田直哉先生の次なるご活躍にご期待下さい!


 付記 その後のやり取りも含めたまとめを作成していただきました。

  https://togetter.com/li/1198019







ブログの更新を停止します

 ブログの更新を無期限に停止することにしました。今後のことは何も決めておらず、いずれ再開するかもしれませんし全くしないかもしれません。
 また、過去の記事の既に削除した部分についても、そのうち電子書籍にでもするかもしれないと書いていましたが、これに関しても、とりあえずやめます。
 このブログをやめることにしたのには、一つの明確な理由がありました。……というのも、昨年の記事の中でそれとなく書いたことがあるのが、何らかの評論を書いて何かの賞にでも応募する、ということでした。その後、渾身の力を振り絞り、完全にフルパワーでの文章を書き上げました。
 このブログにこれまでアップしてきた文章のほとんどは、単に自分のための備忘録・勉強ノートを公開しているというだけのものであって、たいして推敲もしておらず、全力で書いたものなどはほぼありません。だからこそ、それが消えようがどうなろうが、私自身にとっては割とどうでもよいことのように思えています。……しかし、全力で書いた文章は違います。投下した労力にしても、結果としての完成度にしても、ほぼ一息でできた走り書きの備忘録とは次元が違います。……私としては、自分が全力で書いた文章というものは、それが存在しているのであれば、仮に明日突発的に事故か何かで死ぬようなことがあったとしても、とりあえず納得して死ねる……とまで思えるものです。
 そして、そのような意味での全力の文章が完成した一方で、それが、そもそもその価値を論じるにも値しない、是非を検討する以前の段階で論外として排除できるものだとされてしまう時点で、もはや、世の中に向けて自分が言うべきことなど特にない、ということになるわけです。
 したがって、私にとっては全身全霊を込めた無二のものでありつつも、同時に、ゴミ同然の論外のものともみなされたまさにその文章、ジョン・カサヴェテス論をこのエントリの直前に公開した今となっては、このブログを継続する理由も、もはやありません。


 私がその文章を応募したのは、昨年に新たに創設された「すばるクリティーク」なる賞です。……ただし、その賞に応募したのは、単に新たに創設された第一回募集だからまあ目立つだろうし……という程度のことで、積極的な理由はとりたててありませんでした。選考委員が予選の段階から全ての原稿に目を通すと言うことが一つの売りになってはいましたが、そのことによって審査の公平性・適正さが担保されるだろうなどとは全く思っていませんでした。
 利用できる場があるのならば利用しようという気持ちしかなかったのですが、そもそも応募する前の段階で苛立ったのが、原稿の分量に関する規定の恣意性であるのでした。原稿用紙換算で60枚以内、という非常に中途半端な分量で、いったいどのようなことを目指して規定された分量なのかが全くわからなかったのです。「雑誌掲載のための都合から上限はそこがいっぱい」というのならまだわかるのですが、同時に「40枚以上」という規定まで設けられているのは、わけがわからないと言うよりほかにありません。ただでさえ、60枚以内という規定がいかにも中途半端で意味不明であるのに、それにかなり近い、あまり調整も利かないような中途半端な範囲に分量を細かく収めなければならない。……しかし、じゃあなぜその分量にしなければいけないのか、その分量によってどのような評論が求められどのような議論が可能になるのか、ということには、賞の創設に関して長々とした議論を公開しているにもかかわらず、全く触れられていません。「分量」というのも間違いなく表現の形式の一つであるのですが、自分たちが恣意的に決定した分量の持つ意味は、原稿の募集の段階で、なんら明らかにされていないのです。単に多様な議論を求めるのであれば、シンプルに「60枚以内」でなにがいけないのか。
 ……まあ、これは何も今に始まったことではなくて、文章表現の形式性と分量の関連に関する無関心というのは、日本の文芸業界には久しく蔓延していることです。例えば小説で言うなら、長篇なら最低400枚はなければ成立しませんし、逆に短篇なら30枚以内に収めなければなりません。……一方、中篇という形式もあるし、フランス文学にならレシという分類もあるのではありますが、世界の文学史を振り返ってみて、中篇で重要作を連発した例があったのかどうかを考えてみるべきなのです。例えば「バートルビー」が重要な中篇であること自体はいいとして、ではメルヴィルがあのような中篇を職業作家として量産することなどできたのか? という話です。
 なぜ長篇が最低でも400枚以上なければ成立しないのかというと、作品の成立に「何らかのテキストを読み解いた上で構築し直す」、もしくは、「作品が成立する前提となる社会的・文化的・政治的背景を分析的に検討する」という契機が必要となるからです(後者も、広い意味で「テキストの解読」と考えて前者に包含してもかまわないとは思いますが)。……だからこそ、そのようにして長編を書くこともできなければ、短篇を凝縮してまとめることもできない人が自分を小説家だと思いこめる制度として、日本ではよくある「無駄に引き延ばされた中篇」というものがあるわけです。もちろん、ある特定の風俗なり習俗なりの新奇な知識を持つ作者だけが書ける風俗描写から作品を始めても何ら問題はないわけですが、そこから出発して「その背景にまで掘り下げる資料の読み込み」という契機が作品に加わることによって始めて、長編小説が成立します。100枚~200枚の中篇というのは、新奇な風俗描写による水増しだけで引き延ばせる、構成能力を持たない者でも書き終えうる限界ということに過ぎないわけです。
 一方で、ジャンル・フィクションにおいては既存のフォーマットが完成されているので長いものも成立しますが、これは、外国で完成したフォーマットをそのまま流用している場合がほとんどです。あるいは、単に長く引き延ばしたお話を素朴にリアリズムで記述していったというだけのことでも、文芸のジャンル論の問題で言うと、バフチンなんかが言った「小説の言葉」にはなりようがないということでもあります。……つまり、近代以降の日本には「長篇小説」を書ける作家などほとんどいなかったのですが、小説を書けない者が小説を書けているのだと思いこめる制度が周到に張りめぐされてきたわけです。結果として、小説以外においても、文章表現の分量と形式性との関連に関してどうしようもない無神経が当たり前のように存在しているのだと思います。
 私が、「評論で60枚という枚数はあまりにも中途半端で無意味な枠組みである」と思うのには以上のような理由があるのですが……その規定に無理矢理収める形で体裁を整えたため、このブログに公開することになったジョン・カサヴェテス論は、全力を出したとは言え、私としてはかなり不本意なヴァージョンになってしまいました。例えば、映画における時間の問題に関して、ジル・ドゥルーズの『シネマ』の議論と部分的に重なるところもあるのですが、根本的な問題意識、議論の立て方自体は異なるので、「なぜドゥルーズの『シネマ』を参照しないのか」という議論の前提もきちんと比較して書いておきたかったのですが、とうてい分量的に収まりそうもなかったので、そのあたりのことは全部カットしました。
 しかし、そういう部分をばっさりときってもなお60枚に収まりませんでした。引用はかなり多いのですが、これは削れるところが全くないため、議論の展開をところどころカットすることになり、結果として、多くの部分で論旨が飛躍する不完全なものになってしまっています。……それでもなお60枚を超過するため、最終的に脚注を無理矢理本文の中に組み込んで行数を減らし、ぎりぎり「60枚」に収めるという、全くもって不毛な作業をする羽目になったのでした。これは本当に全く余裕がないため、一行増やすことすらできない量になっています。
 そういう意味では、このヴァージョン自体はいずれ書き直すための途中の草稿に過ぎないのでもありますが、公開するのであれば、改変する前の元のままでなければ意味がなくもあります。そのため、引用部分に関して「傍点が表記できないので削ったこと」と「ルビの表記を直後での丸括弧で代用したこと」と「一字ぶん下げての引用の区切りがわかりにくいため、このブログでの体裁に合わせて、斜体への変更に変える」という点だけを除けば、元のヴァージョンから全く変更のないものになっています。……自分としては不本意なヴァージョンではありますが、それでもやはり、意味不明な枠組みの規定の内であれ、自分としては全力を出したものではあるわけです。
 改めて自分の文章を確認してみて思ったのは、これが論外の検討にも値しないゴミだと思う人々が、自分は文学なり芸術なり批評なりの側なりにいると思いこめるのは、到底正気の沙汰とは思えない、ということです。
 もちろん、そのような人々に対する憤激と憎悪と軽蔑と殺意とは全く絶えることなく私の中で渦巻き続けているわけですが、それはまあ、こんなところに書いてもしょうがありません。
 これで、書いておくべきことは全て書き終えました。


 さて行くのだ。
 ……まあ、私ゃあ、謝罪なんてことはしませんがね。






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Howard Hoax

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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