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アメリカン・ドリームを再発見する――「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の到達点(上)

 現在の「キャプテン・アメリカ」誌は「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」と「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の二誌が同時進行で展開しているが、両誌のライターを兼任するのがニック・スペンサー。このニック・スペンサーの仕事はキャプテン・アメリカの歴史にもアメリカン・コミックスの歴史にも残る偉業になりつつあると私は評価しているのだが――一方で、そもそもの就任当初から、ニック・スペンサーのライティングは、普段コミックを読まない層をも巻き込んで大バッシングを浴び続けてきている。それは要するに、「アメリカ人ができれば目を逸らしたい、醜悪なアメリカの現実」を生々しくさらけ出してしまっているからなのではないかと考えている。
 醜悪なアメリカの現実を作中に盛り込みつつアメリカの理念との対立を描くということ自体は、「キャプテン・アメリカ」誌において何十年も前から展開され続けてきたことではあるのだけれど、「別にふだんキャプテン・アメリカのコミックを読んでいるわけではないけれど、キャプテン・アメリカのあるべき姿については何かしら注文をつけたい層」というのがなぜか一定数いて、そういう人々によってニック・スペンサーがボロクソに叩かれ続けているわけだ。
 ニック・スペンサーのライティングによる「キャプテン・アメリカ」は、非読者すらをも含めた多くの層からの攻撃を誘発させずにはいない。そして、それは、このコミックが、最も危険で過激な意味で、現実社会で我々を取り巻く政治性の中枢に踏み込んだものであるからだと思うのだ。……それは、一言で言えば、「政治的な正しさ」の限界を突き抜けたその先にまで赴くことである。
 例えば、これと対照的なものを挙げるならば、近年のディズニーの長篇アニメ作品と比較すれば状況が整理されると思う。……ディズニーのアニメは、多くの場合、まったくもって一分の隙もないまでに、政治的に正しい。そこでは、差別的とみなされる言説は用意周到に排除され、そのコードが厳密に遵守された上で、その枠内で高度なストーリーテリングが展開される。……脚本面での技術的な達成の職人的な評価という意味では、手放しで誉めるしかないようなものが量産される体制が整えられていることが明らかなのだ。そして、作品の全体像が完成してみれば、政治的正しさによって保証された、アメリカの理念のあるべき姿が明確に表現された理想郷がそこにある……。
 しかし、今や、政治的正しさのコードがその全体に張り巡らされ巧妙に統御されたフィクションから周到に排除され、そもそも存在すらしないことになっているものが何であるのかは明らかなのだ。……もちろん、「ドナルド・トランプ的なもの」である。
 有り体に言ってしまえば、ドナルド・トランプ的なものを支持してしまうことは、その人物の弱さと愚かさをさらけ出すことでしかない。しかし、現実には、その種の単にどうしようもない弱さや愚かさが満ちている。単に醜悪な差別意識を大声でがなり立てたい。余所者を排除したい。自分の正当性を無条件に肯定されたい……それらは、あまりにも卑小で平凡な、ちっぽけな悪である。
 そして、どこまでも醜く浅ましいだけで、どこにでもあるゆえにうんざりさせるような平凡な悪は、フィクションには取り込みづらい。政治的に正しい作品の内部で「悪」を司るのは、誰もがそれを「悪」であるのだと認識できる、わかりやすい巨悪でなければならない。……しかし、だからこそ、そのようにして仮構された空間の内部で表現された理想としてのアメリカの理念は、現実のアメリカからはかけ離れたものともなる。アメリカのインテリ層からは単に馬鹿にされていただけの「ドナルド・トランプ的なもの」の浮上は世界的に衝撃をもたらしたが、そのような潮流がドナルド・トランプという固有名と明確に結びつけられるのにも先駆けて、ニック・スペンサーは既にして闘争を開始していたのである。
 どこまでも醜く浅ましく、騒々しい罵詈雑言に満たされた場所としてのアメリカを直視するーーそれも、単に露悪的な現実の告発としててではなく、いまだそこに存在するはずのアメリカン・ドリームを見出すために。このあまりにも無謀な正面突破を敢行してみせた「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」という作品に対しては、正当な評価を下さなければ礼に欠くだろう。……すなわち、これこそが、真に偉大な境地に達したアメリカン・コミックスであるのだ、と。


 ……などと、まずはニック・スペンサーによる現行の「キャプテン・アメリカ」誌への評価を書いてみたのだが、とりあえず、細部がどのようになっているのかを見るために、現状がどのように展開されてきたのかを整理してみたい。
 もともと、ニック・スペンサーがライターに就任して「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」が創刊された時点では、スティーヴ・ロジャースはキャプテン・アメリカの座から退いていた。とあるヴィランとの戦闘の渦中で超人血清の効果を打ち消された結果、本来の年齢ならそうなっていたであろうはずの老人になってしまったのだ。
 この事件を受けてサムがキャプテン・アメリカの座を継承したのだったが……それからしばらくして改めてシリーズを仕切り直した「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の創刊号は、二十世紀FOXなどの一般のメディアに取り上げられて、大バッシングを受けることになる。というのも、サム・ウィルスンは(個人ではなくあくまでもキャプテン・アメリカとして)特定の政治的問題についても立場をはっきりさせることを表明した結果、不法移民を攻撃する人々との戦闘を展開したからだ。
 実は、そもそも作中では、サムはアメリカ中から大バッシングを受け賛否両論が激しく分かれることが描き出されていたのだが、まさにその通りの状況が現実のアメリカにおいても実現し、フィクションの内部と外部が切れ目なくつながるという、奇妙な構図が成立することになったのだった。
 フィクションの内部のこととしては、その後の展開として、『アヴェンジャーズ:スタンドオフ』が勃発。ざっくり言うと、コズミック・キューブの現実改変能力を利用して収監されたヴィランを洗脳し、平凡な一般市民であると思わせて郊外の平和な街で暮らさせる……という、S.H.I.E.L.D.でマリア・ヒルが密かに進めていた策が破綻。洗脳が解けたヴィランたちが一斉に暴動を起こすという事件だ。
 この事件の渦中で、バッキーやリックやサムのような歴代のスティーヴの協力者たちが事態の収拾を図って奔走する中、コズミック・キューブの力によってスティーヴは若返り、元の姿を取り戻すことになるのであった。
 スティーヴは、シールドはサムに預けたまま、自身もキャプテン・アメリカとして復帰。結果として、キャプテン・アメリカが二人いる状態となり、「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」誌も創刊されることとなった。
 ……で、この「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の創刊号で、スティーヴが実は以前からハイドラのスパイであったことが発覚し、大騒ぎになってまたもや大バッシングが吹き荒れたわけだが……改めて『スタンドオフ』にさかのぼって読み返してみると、実は、その件の伏線はきちんと敷かれていたことがわかる。
 『スタンドオフ』で登場したコズミック・キューブというのは、正確に言うと、コズミック・キューブのかけらが「幼女の姿をして人格を持った存在」であったのだけれど、実は、コズミック・キューブとして長時間をともに過ごしたレッドスカルになついており、現実改変能力によってスティーヴを本来の姿に復活させる過程で、スティーヴの過去そのものを、レッドスカルによって都合のよいものに変えていたのであった(……念のために書いておくと、この経緯はストーリー全体の中でその伏線も含めてきちんと辻褄が合うように書かれているので、行き当たりばったりに展開を途中で変更しているようなことはありえない)。
 かくして、表向きは元通りのキャプテン・アメリカの姿でありながら、実は、そもそもの最初からハイドラのスパイであったことになったスティーヴの姿が、「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」誌において描かれることになるのであった……。


 ……おおよそ以上のような感じで、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」と「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の両誌のライティングをニック・スペンサーが兼任する体制はいまだ継続しているが、継続してバッシングを受け続けてきた上に、とりわけ「サム・ウィルスン」の方は、売り上げ面でも順調に降下を続けている。
 もちろん、永年に渡ってキャプテン・アメリカであったスティーヴの知名度こそが、そのような状況を招いているのであろう……だが、両誌をきちんと読み比べてみる限り、あくまでもメインのストーリーが展開されているのは「サム・ウィルスン」の方であり、「スティーヴ・ロジャース」の方こそがサブにすぎないように私には思えるのだ(……まあ、そもそもの最初からハイドラのスパイであることになったスティーヴのストーリーも、それはそれで面白くはあるんですが。なんというか……スティーヴって、もともと戦略家としての高い能力を持つことになってたとはいえ、一本気で直情怪行の人でもあったから、頭脳面ではそこまでめだってはいなかった。しかし、ハイドラのスパイとして、手段・方法を選ばず各方面で知略を用いて暗躍し始めた結果、もはやバットマン並みの脅威になってますな……)。
 コズミック・キューブによって現実が改変され(という設定自体はあまり流布しなかったのだろうが)スティーヴがハイドラのスパイであったことが明らかになった結果、キャプテン・アメリカの本質が損なわれたと感じた人々は、このコミックへの大バッシングへと走った。……しかし、むしろ、キャプテン・アメリカの本質をいったん解体するというまさにそのことこそが、ニック・スペンサーが語ろうとしているストーリーの骨子なのである。
 ……それは、一言で言ってしまえば……現在のアメリカ合衆国とは、スティーヴ・ロジャースがキャプテン・アメリカであるのに値するものではないということだ。
 現在のアメリカ合衆国の現状は、あまりにも醜悪すぎる……その現実を冷徹に描き出そうとするとき、アメリカの建国以来の理念を強固に信じている人物を、醜く浅ましい現実と格闘する視点に据えることができるだろうか。
 あるいは、そのことは、こう言い換えることもできるーースティーヴ・ロジャースという男は、アメリカン・ドリームを再発見することは決してできない、なぜならば、彼の内からそれが根本的に失われることは絶対にありえないからだ、と。
 だからこそ、「キャプテン・アメリカ」というコミックを通してアメリカを語るために必要なのは、アメリカの理念について確信を持つことができず、醜い現実との間に板挟みになり、揺れ動き続ける人物であるのだ。スティーヴ・ロジャースの内部からキャプテン・アメリカとしての人格が失われてしまった状況だからこそ、サム・ウィルスンが、キャプテン・アメリカとは何であるのかを再発見しなければならないということだ。
 かくして、サム・ウィルスンの冒険は、アメリカの暗部をひたすら直視し続ける悪夢となる。不法移民の排撃者・レイシストと戦いコミック外からすらも叩かれたサムは、しかし、アメリカの闇の奥へ奥へと突き進む。サムは時にはウォール街に喧嘩を売り、また時には(ちょうど現実のアメリカで起きた事件をダイレクトに参照した)警官による差別も絡んだ暴行事件へと対処を迫られる。あるいは、『シヴィル・ウォーⅡ』のタイインとして、本編で勃発した事件の一因となったローディの死を、あくまでも「黒人ヒーローの死」ととらえ、ローディの葬儀を通して黒人ヒーローコミュニティの内部の有様を描き出すところなども、圧倒的にすばらしい(……まあ、これについては、本編の方がアレだということもありますが……)。
 ……そして、これらのエピソードは、現実を参照しているがゆえに「リアル」であるのでは、必ずしもない。これら全てのストーリーを、ニック・スペンサーは、頑固なまでに徹底して、マーク・グルーエンウォルドがライティングを担当していた時期の「キャプテン・アメリカ」からのサンプリングのみによって構築していくのである。


 ここにあるニック・スペンサーのあまりにも強烈な姿勢は、創刊号の時点でFOXニュースからぶつけられた非難に対する、はっきりとした答えにもなっているだろう。……FOXニュースで、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」を批判的に取り上げたその最後のまとめの言葉として、一人のコメンテーターが「コミックで政治を語るべきではない」と述べたのだ。
 これは、日本でもしばしば耳にするクリシェであるだろう。……しかし、冷静に考えてみれば明らかなことだが、たとえ純然たるフィクションであろうとも何らかの形で現実社会の文化・習慣・言語などを反映しなければ成立しない以上、政治性を完全に排除することなどできるはずがないのである。……つまり、「フィクションに政治を持ち込むな」と主張する人間は、「自分にとって都合のいい政治性」「自分にとって自然に感じられる政治性」は無意識の内に免除して、「自分にとって都合の悪い政治性」の存在そのものを排除しようとしているわけだ。
 「フィクションに政治を持ち込むな」というのは、それ自体があまりにも政治的な、現状追認をなすイデオロギーである。そして、ニック・スペンサーがとるのは、これとは正反対の態度だ。……すなわち、自分が子供の頃から読み込んできたコミックをサンプリングし、読み直し、語り直すということ自体が、そのまま同時に、現実の政治を語ることでもあるということだ。「コミックを読むこと」が現実社会の中で起きている一つの行為であるならば、それもまた一つの政治なのである。


 ……とはいえ、現実のアメリカの暗部を取り込めば取り込むほど、サムの置かれる立場は、ひたすら絶望的なものになっていくことにもなる。
 サム・ウィルスンの破滅をもくろんで暗躍することになる勢力が非常に狡猾なのは、サムの殺害は決して企んでいないということだ。サムを殺害することとは、サムを殉教者にすることである、死者としてのキャプテン・アメリカ=サム・ウィルスンは、誰もが安心して信じることのできる対象に変わってしまう。キャプテン・アメリカの破滅とは、生きながらにしてその名誉が地に落とされることなのだ。


 --so let those forces tear him apart. Let them expose themselves for what they are and show the lies all of this "freedom" is built on.
 ならば、それらの勢力の狭間で、彼を引き裂かれるがままにすればよい。連中が自分の正体を自らさらけ出すがままにし、この「自由」なるものが依って立つ嘘をも、自ら示させればよい。



 They'll break Captain America--
 連中は、キャプテン・アメリカを打ち砕くだろう――



 --and the country will break with him.
 ――そのとき、この国もまた、彼とともに打ち砕かれるのだ。




 ……自らがキャプテン・アメリカであることに確信を持てない人物を、生きながらにして失墜させること。個人としてのサム・ウィルスンではなく、「キャプテン・アメリカ」というイメージの方をこそ抹殺することが、アメリカ合衆国への真の打撃となる……。
 サム・ウィルスンの、アメリカの闇を見据える旅には、出口などないように思えるーーしかし、そんな渦中で突如として現れたのが、あの奇跡的な15号なのであった。


               (続く)









フランク・ミラーの『ダークナイト3:マスター・レイス』とアラン・ムーアの『プロヴィデンス』が、このタイミングで未完結であることについて

 最近のアメリカの情勢はと言うと、事前に全く予測できなかったほどの激動の渦中にある今日この頃ですが……ふと、そんなアメリカにおいて現在進行形でのコミック業界の状況と照らし合わせてみて、その符号にちょっと驚いてしまったことがあるのでした。

 と、言うのも……フランク・ミラーが『ダークナイト』シリーズの完結編とするという『ザ・マスター・レイス』、それにアラン・ムーアの長篇コミックとしては最終作になるらしい『プロヴィデンス』……この両作が、ともにそろって、刊行ペースが延び延びになっていた結果、現時点で未完結なのです。

 両作ともに、完結は来年前半が予告されてはいるのですが……この人たちのこれまでの仕事を考えるにつけ、間違いなく、アメリカの現状を踏まえて作品内容を変えてくるのではないかと思われます。

 ……やっぱりこの人たちは、何らかの宿命の元に生まれているのではないかと思えてくるのですが……もともと、80年代にアメリカン・コミックスの世界を刷新した二大巨頭たるこの二人は、同時代の政治的状況を堂々と作中に盛り込んでいた人々なのでありました。

 そして、フランク・ミラーの場合で言うと、『ダークナイト・リターンズ』の続編『ダークナイト・ストライクス・アゲイン』は、刊行中に2001年の同時多発テロが勃発していたわけです。そして、第三作となる『マスター・レイス』が、よりによって、今年のこのタイミングとは……。

 『マスター・レイス』の既に出版された部分を読む限りで言うと、まあ大方の予想通りというか、「『DK2』以上『DKR』未満」というところに収まっている感じがします。……しかし、作品としてのトータルの出来映え以上のこととして、これを読み進めながら私が感じていたのは、そのあからさまなまでの生々しさであるのでした。

 というのも、作品の冒頭あたりから既に、そもそもこの作品の刊行が予告された時点では勃発していなかったアメリカの現実でのとある事件がストーリー展開に大きく結びついて語られているのです。……つまり、出版を予告してから実際の出版までの間に、現実社会の情勢に照らし合わせて作品内容が書き換えられていたことが明らかなわけです。

 もともと私自身は『ダークナイト・リターンズ』は90年代になってから、「既に評価の定まった古典」として読んだもんで、そこに描かれている「80年代のアメリカ」の姿をも含めて、あくまでも回想する視点でのみ接していました。一方、『ダークナイト・ストライクス・アゲイン』は、現実世界が反映されているとは言え、作品世界そのものはシュールなまでにぐちゃぐちゃなので、そのリンクは実感しづらい……そういう意味では、今回の『マスター・レイス』を同時進行で読み進めることで初めて、「同時代のアメリカとダイレクトに向き合うことこそ、フランク・ミラーの『ダークナイト』なのだ」と実感できたという部分があります。

 そもそも共和党の大統領候補になる以前から、ドナルド・トランプもバリバリ作中に登場してましたし……最近のミラーの政治的スタンスからすると意外であるゆえに非常に印象的であったこととして、トランプは明確にバットマンの「敵」として描かれています。ブライアン・アザレロやアンディ・キューバートなどの優秀なスタッフが脇を固めて制作しているために作品としてのまとまりはかなりキッチリ保たれているのではありますが、それでもなお同時代性と取っ組み合って混沌としていくその先にあるものは、なんなのか。……まあこれに関しては、『ダークナイト・リターンズ』を越えることはまずありえないとは思いますが、その行く末を見守りたい次第であります。





 一方で、アラン・ムーアはと言うと……これはもう、はっきり書いといた方がいいでしょう。現在進行中の『プロヴィデンス』は、未完結の段階とはいえ、ムーアの過去の仕事と比べてその価値を測定しようとするのは根本的に間違っていると思われます。既に現段階で、『ウォッチメン』も『フロム・ヘル』も完全に過去のものになったと言えるでしょう。『プロヴィデンス』こそが、アラン・ムーアの最高傑作です。少し前に、ムーアがこれでコミックを引退するというニュースが流れましたが、私には意外でも何でもありませんでした。……だって、そもそもコミックという媒体でこれ以上のことをやるのは、もうどう考えても無理ですもん。コミックそのものの限界点ですよ、これ。そういう意味では、この作品は人類全体のコミック史上最高傑作でしょうし、当分の間は塗り替えられることはないでしょう。

 ……とはいえ、コミックという媒体そのものの特徴を限界点まで酷使するような作品である以上、誰にでも気軽に読み解けるようなものでは全くありません。各号が参照しているラヴクラフトのそれぞれの小説を読んだ上で、丹念に両者の異同を照らし合わせることを前提としなければそもそも読めないですし。ラヴクラフトが既に一度小説として言葉で語ったことを改めてコミックで表現し直すことによって生まれる視差が、ラヴクラフトの小説に対する読み直し・再検討になっている……言い換えれば、コミックという媒体でありながら、先行作品に対する批評・研究の類になっています。

 例えば、ラヴクラフトが自作の中で登場させた「カバラの歴史についてパンフレットを書いた人物」に言及する際には、アラン・ムーア自身がそのパンフレットを復元して実際に書いてみて参考資料として作中に挿入し、ヨーロッパ文化史の中でのカバラの歴史とラヴクラフトの小説との相関関係が探られることにもなる……などというような目も眩むことが、全篇に渡って展開されているわけです。そんな、恐ろしく精密に構築された作品によって、欧米の文学史の、従来の通説とは異なる根本的な書き換えが検討されるわけですが(例えば、ラヴクラフトの先行者としてユイスマンスの位置づけが検討されることにより、ユイスマンスのオカルト方面への傾倒がそのキャリアの上でむしろ必要不可欠であったことがきれいに説明できてしまえたりする)、この方向性自体は、近年の文学研究の動向とも一致している……というか、ムーアはこういうことをだいぶ前からやっていたので、ムーアの方こそが世界の文学研究に先駆けていたことになります。

 そして、ラヴクラフトの文学史上の位置づけが検討されることが、そのまま、ヨーロッパの文化史の全体像へのヴィジョンとなり、いかにしてそこからアメリカが分岐されたのかが追求される……ということは、現時点で完結していない『プロヴィデンス』という作品が、激震に見舞われつつある「アメリカの現実」との対峙を避けるようなことはないのではないかと思われるのです。





 80年代におけるアラン・ムーアの登場以降、アメリカン・コミックスの世界において、ライティングの質が劇的に向上したのは確かなことです。……結果として、もはや現在のこの業界では、「巧みなストーリー手リングの技術を持っている」こと自体は、とりたてて珍しいことでもなくなりました。

 そして、特に今年のトレンドとして感じられたのは……単に自分が考えたフィクションを閉じた世界の中で完璧に構築しきることではなく、自分が考えたとおりには語りきることができない現実世界に、ストーリーテリングの技術を駆使してなんとか取っ組み合うということなのでした。……と言っても、これは何も、単に時事的なネタを盛り込んだストーリーテリングを展開するということではなくて、ストーリーを展開するのと同時進行で起きている現実の状況を常に参照しつつ、その状況の変化に合わせてストーリーへのフィードバックを同時進行でやり続けるという、言ってみればインプロヴィゼーションのごときストーリーテリングが、一つの重要な潮流となっているということです。

 そんな状況で、改めてフランク・ミラーとアラン・ムーアの両名の存在感が出てきてしまったのは非常に興味深いところではありますが、今の業界の現場で活躍する人々の中からも、こういう傾向に則った上での優れた仕事は出てきています(……もちろん、ことアラン・ムーアの場合には、現実社会の状況を反映しつつも、同時にフィクションとしての完成度も完全無欠なまでの精密さを誇るということが、そもそも『ウォッチメン』の時点で成し遂げられていたわけではありますが)。

 その最も顕著な例が、ジェフ・ジョンズによる「DCユニヴァース:リバース」でしょう。あの作品は、現実世界に対するあからさまな言及を含む一方で、ストーリー自体は完結せず、伏線とおぼしきものも回収されず投げっぱなしのままになっています。つまりあれは、現実世界の反応を見た上で、それを取り込んだ上で続きを語ることがあらかじめ折り込み済みの企画であるように思えるわけです。

 まあもちろん「DCユニヴァース:リバース」自体は今年のアメコミ業界全体の看板のようなものなわけですが……一方で、現時点であまり注目されていなさそうであるにもかかわらず、既に、間違いなくアメリカン・コミックスの歴史に残る偉業が成し遂げられつつあるのです。ニック・スペンサーによる「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」です。ニック・スペンサーのライティングによるキャプテン・アメリカというと、初っぱなから(非読者の早とちりによる)大バッシングを受けた「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の方こそが、良くも悪くも注目を受けているのだと思いますが……はっきり言って、現行のキャプテン・アメリカ関連の中心は、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌の方にこそあるのです。

 もともと、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌の方も、大バッシングとともにスタートしました。もちろん、マーヴルによるこの企画自体は、「黒人ヒーローによるキャプテン・アメリカの継承」という、ポリティカル・コレクトネスへの配慮から出発したものだったでしょう……しかし、ニック・スペンサーは、現実世界でそのような立場に置かれた人間が受けるであろう反応をそのまま作中に盛り込みます。そして、サム・ウィルスンに、現在のアメリカが抱える社会問題に、革新的な立場から堂々と政治的発言をさせます……このことによって、極めて生々しい内容を持つことになったコミックが、アメリカの保守層からの大変なバッシングに晒されることになったのでした。

 では、その後の「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の展開がどうなったのかというと……ニック・スペンサーが萎縮するようなことは全くなく、ふつうであればなるべく語るのを避けるであろうようなこと、余りに根深い問題であるゆえにできれば自分のスタンスを明らかにしたくない人が多数であるようなことへとばかり、ガンガン突入し続けているのです。

 そして、アメリカの暗部、その闇をあくまで直視し続けることによってそこを突き抜け、それでもなおアメリカをアメリカたらしめている、その根っこの部分になんとかギリギリ残っているアメリカン・ドリームの再発見にまで到達することになったのです。……これは、例えばアメリカ文学においても、ごく一握りの作品しか到達しうることのない境地です。

 そういう意味では、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」は、

既に『グリーンランタン/グリーンアロー』を越えています。売り上げ不振による路線変更を強いられて、そのシリーズの語るべきことを最後まで語りきれなかったからだとはいえ、『グリーンランタン/グリーンアロー』は、単にアメリカの闇を描くことだけしかできなかったわけですから。

 正直なところ、個人的には、もうアメリカン・コミックスについて現状を整理したりその都度の自分の考えをいちいち書き留めておくようなことはしないでいいかなとも思っていたのですが……「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」という作品こそが、どれほどのバックラッシュの中でも、自分の言いたいことを徹底して貫く人間だけがたどり着ける場所を改めて示してくれたという思いがしています。そして、まさにこのような作品があるからこそ、アメリカン・コミックスは読むに値するのだということも。

 ……ということですので、次のエントリでは、改めて、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」について書いてみたいと思います。















ヒーローの継承不可能性について――『バットマン:アイ・アム・ゴッサム』

 DCコミックスの現状を大幅に刷新する今年のイヴェント「リバース」を経て、長年に渡って「バットマン」誌のライティングを担当していたスコット・スナイダーが降板し、新たにライターに就任したのは、近年急速に頭角を現しつつあるトム・キングなのでした。「リバース」以降はDCコミックスの中心的なタイトルの多くが隔週間で出版されていることもあり、「バットマン」誌の1号から6号にかけて展開された最初のアークが早くも完結したので、紹介してみようと思います(単行本にはワンショットの「バットマン:リバース」も収録)。





 『バットマン:アイ・アム・ゴッサム』(TPBとkindle版)


  ライター:トム・キング
  アーティスト:デヴィッド・フィンチ


 さて、「リバース」を経た最初のストーリー、その冒頭で語られたバットマンの姿とは――それは、ゴッサム市街地上空で発生した、飛行機事故であるのでした。
 飛行機事故と言っても、それは凶悪なヴィランによって引き起こされたわけでもなければ、悪辣なテロ組織の犯行でもなければ、巨大な陰謀が蠢いているわけでもありません。これは、完全にただの事故に過ぎず……そして、スーパーパワーを持っているヒーローにしてみれば、ごくあっさりと解決できる、日常的に処理するべきことでしかありません。
 しかし、折悪しく、ジャスティスリーグの同僚たちは、誰もが緊急の任務をそれぞれが抱えており、ゴッサムに救出に訪れることはできません。そして、単なる常人に過ぎないバットマンにとって、飛行機事故を防ぐための孤独な闘いは、自身の命を懸けたギリギリのものにならざるをえません。
 そして、その渦中で明らかになるのは……どれほど些細な事件に見えようが、派手なことなどないごく普通の事故のように思えようが……無実の人間の命を救うためには他に選択の余地がないのであれば、バットマンは、いつでも自分の命を躊躇なく差し出す覚悟ができているということなのでした。
 ……それはつまり、それがどれほどありきたりの事件に思えようとも、無実の人間の命がかかっている限り、あらゆる闘いはバットマンにとっての最後の闘いになりうる、ということなのでした……。


 自らの解釈によるバットマンの新たなストーリーを始めるにあたって、最初に以上のようなエピソードを置いたトム・キングのライティングには心を鷲掴みにされたのですが……もちろん、これは、その後に続く事件の発端に過ぎませんでした。
 間一髪でバットマンを救ったのは、見慣れないコステュームに身を包みスーパーパワーを持った兄妹、それぞれ「ゴッサム」「ゴッサム・ガール」と名乗る二人だったのです。
 ゴッサムという都市そのものの名を名乗り、先輩ヒーローとしてのバットマンに敬意を表して教えを乞い……しかしバットマンとは異なることとして、スーパーパワーを持っている……そんな二人の出現を前にして、ブルースの心が揺れ動くことになります。


 There're going to be others, Alfred. Other planes. Asteroids. Aliens.
 これからも他の事件は起きるだろう、アルフレッド。他の飛行機が。小惑星が。エイリアンが。



 I won't be able to stop them. I'll die. Then Dick will take my place.
 私には、それらを止めることはできまい。私は死ぬ。そしてディックが私を継ぐだろう。



  Then he'll die.
  そして、彼も死ぬ。



  I can't...there's nothing I can do.
  私にはできない……私にできることは何もないのだ。



 ゴッサムが真に必要としているのは、何のてらいもなく、ゴッサムの守護者たることを望むがゆえに「ゴッサム」と名乗るスーパーパワーを持った若者なのではないかということに、ブルースの心が揺らぐことにもなるわけです。
 若さゆえに未熟さをも見せるゴッサムとゴッサム・ガールに厳しい言葉を投げかけつつもその動向を見守るバットマンでしたが、その均衡が崩れたのは、サイコパイレートがゴッサムに現れたときでした。
 サイコパイレートの介入によってゴッサムに混沌がもたらされ、善意を持って動いても自身の思う通りに事が進まないことに絶望したゴッサムは狂奔し、むしろこの街の破滅をこそ願うことになります。
 もちろん、そんなゴッサムと生身で対立しなければならないのは、バットマンです。自ら「ゴッサム」とまで名乗っておきながらたやすくその街に絶望し、スーパーパワーを持ちながらそれをうまく活用することもできない……そんな若者を前にしたとき、ある意味では己を取り戻したと言えるバットマンは、勝ち目のない闘いの中でボロボロになりながら、次のように言うことになるのです。


  Fine. Fine. Do it, then. Kill Gotham.
  いいだろう。いいだろう。ならばやれ。ゴッサムを殺せ。



  But this city--it's just brick and concrete. It didn't free the Pirate. Or hurt those soldiers. And it damn well didn't murder your parents.
  だが、この街は――ただの煉瓦とコンクリートだ。この街がサイコパイレートを解放したのではない。あの兵士たちを傷つけたのでもない。そしてお前の両親を殺したのでもない。



  The Pirate was here because I couldn't stop the chaos that bleeds this city. You hurt those soldiers because I told you to fly to them. And your parents...they were murderd because I couldn't save them!
  サイコパイレートがここに来たのは、私が、この街をさいなむ混乱を止められなかったからだ。お前があの兵士たちを傷つけたのは、私が彼らの元へ向かうようお前に命じたからだ。そして、お前の両親は……彼らが殺されたのは、私が救えなかったからだ!



  You want to kill Gotham?! For being weak! For being afraid! For failing again and again and again!
  ゴッサムを殺したいと望むのか!? その弱さゆえに! その臆病さゆえに! 何度も何度も何度もしくじってきたがゆえに!



  I am Gotham. Kill me.
  私がゴッサムだ。私を殺せ。



 ……そう、『アイ・アム・ゴッサム』とは、常人としての力の限界ゆえに、単なる個人としての自分が「ゴッサムの守護者たること」が可能であるのか揺れ動いた末に、自分一人しか「アイ・アム・ゴッサム」という言葉を発することのできる者はいないこと、その言葉を自分だけのものとして取り戻すまでの物語だったのです。


 ……さて、トム・キングがこれから展開していくことになる自身のバットマン像の冒頭に据えた以上のようなイメージは、非常に感動的であるのと同時に、極めて危うい点をも秘めているように、私には思えます。……と言うのも、ここで描き出されているのは、バットマンというヒーローの特殊なあり方は、別人によっては継承されることのできないものだということだからです。
 トム・キングが出世作となった「グレイスン」誌でやってきたこととと合わせて考えるならば……結論から言うと、私の考えでは、トム・キングのバットマン解釈は「ディックはブルースの後継者ではない」という前提に立っていると思えるのです。
 このことに関して最も決定的なのは、「グレイスン」誌の「フューチャーズ・エンド」タイインの回でしょう。現行の時点から数年後の世界を描き出すワンショットにおいて(この時間軸自体は『コンヴァージャンス』によってリセットされちゃいましたけれども)、恐ろしく複雑に入り組んだストーリーテリングの技術を用いることで、驚嘆すべき内容が密かに語られていたのでした。
 トム・キングという人はアメコミの過去の名作を念頭に置いたライティングを割とよくするので、これはおそらくはアラン・ムーアの『キリング・ジョーク』の語り方が前提にあるのだと思いますが、しかし複雑さ自体は『キリング・ジョーク』より錯綜しているほどの(とはいえ、いったん解釈できると意味は一義的に決まるので、読み解くまでが複雑だということ)ストーリーを解きほぐしたときに、そこで語られているのは……「ディックは、自身の両親を殺害した人間を野放しにしたゆえにさらなる無実の人間が殺戮されるようなことがあれば、一線を越えて殺人を犯す」という、ちょっと驚くべきことなのでした。
 実はこのことは、トム・キングが直接ライティングに参加しているわけではない「リバース」後の「ナイトウィング」誌にも継承されておりまして、とある出来事に関してブルースと意見が衝突した際、ディックは、「あなたが絶対に倫理上のある一線を越えないのは、自分がそこを越えたら絶対に戻ってこられないことをわかっているからだ。僕はあなたとは違う。人生の光と影の両方を知っているから、たとえ一線を越えたとしても戻ってくることができる」と言い放っているのです。
 つまり、ディック・グレイスンとはもはやディック・グレイスンという独立した人格なのであって、「ブルース・ウェインの後継者」なのではないということです。……そして、ジェイスンはあんなだし、ティムは(少なくとも表向きは)死んじゃうし、ダミアンもあんなだし……ということで、実は現状のバットマンは、ファミリーが多い割には、自分の価値観を引き継ぐ明確な後継者がいない……ということになっているのです。


 そして、以上のように考えてみると、トム・キングのバットマン解釈は、既に、スコット・スナイダーのバットマン解釈とは全く異なる立場に基づくことが明らかにされていると思えるのです。
 というか、私としては、この『アイ・アム・ゴッサム』を読むことによって、全体としてはその高い完成度をほめたたえながらも、どこかにわずかに感じていたスコット・スナイダーのバットマン像への違和感が何であったのか、ようやくわかったのです。……それは、一言で言えば、スコット・スナイダーは、バットマンという存在がいかにして誕生しいかなる行動原理で活動しているのか、その全てが理解可能であり分析可能であるという前提に立っていたということなのでした。このことが頂点に達したのが『スーパーヘヴィ』でしょう。バットマンがどれほど驚異の存在であろうとも、それが常人である以上はその原理を分解し解析することが可能である、だからこそ、それを再現することもできれば、別人が継承することも可能である……。
 一方、トム・キングは、バットマンのような常軌を逸した存在がいかにして誕生し、なぜこんな人物が存在しうるのか、全くわけがわからない――という前提でキャラクター造形をなしています。だからこそ、バットマンを継承することなど、誰にもできない。
 正直なところ、この『アイ・アム・ゴッサム』を最初に一読して、そのストーリーが結構ゴツゴツしてぎこちないことにかなり驚いたものでした。……しかし、よくよく考えてみれば、トム・キングほどの卓越したストーリーテリングの技術を持った人物が、単なる初歩的なミスを犯してそんな仕事をしてしまうなどということは、ありえないわけです。
 つまり、トム・キングほどの技術の持ち主ですらスムーズに語りきれずゴツゴツとしたストーリーになってしまうのは、そもそもが語りえないはずの対象を無理に語ろうとしているからなのではないか、と。……もしこれが正しいのならば、トム・キングが長期間に渡って「バットマン」誌を担当するのであれば、その最高到達点はスコット・スナイダーを凌ぐことにすらなりうるのではないか……と、私には思えます。


 単なる常人でありながら、スーパーパワーを持ったヒーローたちと同等の責任を果たすことを自身の当然の使命とみなし、そんな存在として振る舞いうるために、いつでも死ぬ覚悟を携え続け……ゴッサムという一つの街がはらむその悪も闇も汚辱も、それら全てが自分の責任であるとすら見なし、己の身の丈を越えた妄執にとりつかれた男。そして、その肉体は精神に追いつかない通常のものにすぎないからこそ、いつか必ず死ぬ。……そんな狂気じみたあり方しかできないからこそ、バットマンは、自分が他の誰とも異なること、他の誰も自分を継承することなどできないことを確認した上でしか、そのぎこちないコミュニケーションを始めることはできないのです。
 ひとまず、事件が終結し……その余波で、かつての幼き頃の自分にと似た境遇に陥り心が折れてしまった人物が生まれる、そんなときにどのように接すればよいのかわからなくなったブルースは、アルフレッドに助言を求めることになります。アルフレッドに冷静な言葉を突きつけられたブルースは、自分が何者であるのかを改めて客観視する……それは苦い認識であるのですが、しかし、やはり、バットマンのストーリーとは、ここからしか始まりえないものなのです。


  Alfred. When it happened. Mother and Father. How did you...help me?
  アルフレッド。あれが起きたとき。母と父のことだ。お前は……どうやって、私を救ったのだ?



  Master Bruce, with all due respect...
  ブルースさま、しかるべき敬意を持って申し上げますが……



  ...each night you leave this perfectly lovely house and go leaping off buildings dressed as a giant bat.
  ……毎晩、あなたは、この完璧なまでに心地よい家を後にし、巨大な蝙蝠の装束で建物の上を飛び跳ねに赴きます。



  Do you really think I helped you?
  あなたは本当に、私があなたを助けたとお考えなのですか?











もしある日目覚めてスーパーパワーを手にしていたとしたら

 何を隠そう、私はバットマンのファンです。そして、バットマンと言えば、常にあらゆる事態を事前に想定している男。……ならばそんなバットマンのあり方に接し続けてきた読者としては、単に安穏に日々を過ごしているようではダメなのではないか、と近頃思えてきたのです。
 例えば、例えばですよ。もしもある日目覚めてみたら、突然スーパーパワーを手にしていたとしたらどうでしょう。……むろん、「そんなことあるわけない」と言われるかもしれません。しかし、です。確かに、現在の私が存在しているアース・プライムにおいてはメタヒューマンの存在など確認されていないわけですが、なんらかの事件に巻き込まれて、ごくふつうにスーパーパワーが存在している並行宇宙に飛ばされたらどうなるでしょう。確かにその可能性は低そうですが、もしそんな事態に遭遇したとしたら、事前のシミュレーションさえあればこんなに苦労しなかったのに、なんてことになりかねません。備えあれば憂いなしというやつです。
 とはいえ、それに関しては、私はそれほど心配しておりません。ある日目覚めたときに他の宇宙に転送され謎のスーパーパワーを獲得していたとしても、そのときこそ、今までアホほどヒーローコミックを読み込んできた経験が活かされるはずなのです。あらゆるパワーのあらゆる特性、そのメリットとデメリット、使用に伴う注意点などが即座に分類され、自分が置かれた状況を混乱せずに把握することができるでしょう。
 もちろん、実際にスーパーパワーの用いた時に実感する苦労などは、事前のシミュレーションではどうにもならないものでしょう。それに関してはあらかじめ覚悟しておいて、状況に合わせて少しずつ克服していくしかありません……パワーによって得られる目先の利益に目がくらんで、大いなる力には大いなる責任が伴うことを痛感させられるような痛い目に遭うことだってあるかもしれません。そのようなことについては、実際にその状況に置かれてから考えるしかないことでしょう。
 しかし……しかし、です。以上のようなことはどの宇宙でスーパーパワーを獲得したとしても同じことではあるのですが、飛ばされたのがDCユニヴァースだった場合にのみ、おそろしく厄介なことが待ち受けているのです。
 自分がスーパーパワーを手に入れてしまったことを、ひた隠しにしたとしましょう。あるいは、人前で能力を使用するにしても、素顔を隠しシークレット・アイデンティティを用いたとしましょう。ほんの数回能力を使用しただけでびびってしまい、以後なにごともなかったかのように能力の使用をひかえたとしましょう。どのようにしたとしても、遅かれ早かれ、その瞬間は訪れるのです……ある夜、闇の中からいつの間にか現れた人物が、全く気づかない内にこちらのすぐ近くにまで接近しており、自分の本名・住所・スーパーパワーの実態……などもろもろの秘密の情報を全て握っていると告げる、そんな恐怖の瞬間が。へたをしたら、自分ですら気づいていなかった能力の弱点・欠陥を告げられるようなことすらありうるのです。
 この瞬間が訪れるのを回避することは、絶対にできません。そのため、最初から観念してこの出来事にどう対応するかを事前に考えておくことしかできません。もちろん、ヒーローコミックを読んでいれば、最悪の愚行を犯すことだけは回避できるはずですが――そう、それはもちろん、この最初の邂逅で次のように言ってしまうことです、「え、もしかしてバットマンって、ただの常人なの?」と。
 これを言ってしまった瞬間、その後の運命は完全に決定してしまい、二度と覆すことはできなくなります。奴は、このことは絶対に忘れません。そして奴の中では、いずれこちらに対して言い放つ言葉が自動的にセットされ、こちらの動向をうかがい続けることになります――それは、こちらがそんなことはとっくの昔に忘れたころのことであるかもしれません。なるほど、確かに自分は強力なスーパーパワーを持っている、しかし、その特性を見誤り、使用方法を取り違え、ミスをして周囲に被害をもたらしてしまった……。そんな、自分の失策ゆえに心が折れかかった最悪の瞬間を見計らって、狙いすましたようにピンポイントで、奴は吐き捨てるように言い放ってきます――「このアマチュアがぁ!」と。
 そう、どれほど強力な能力を手にしていようとも、その適正な使用法に対して不断に研究していなければ、奴としては単なるアマチュアに過ぎないのです(……というか、自分ではスーパーパワーの類を全く持たない奴にとっては、スーパーパワー持ちに対して上から目線を確保するにはその論点しかありません)。ひとたび目の敵にされたら最後、能力使用上のミスがあるごとに奴はその情報を収集し続け、データを詳細に分析して記録し、入念にバックアップを取り、そこまでしているのに自分でもほとんど暗記しており、その後ず~っと、ことあるごとに「あのときの貴様はああだった」「このときはこうだった」などとねちねちねちねち嫌みを言われ続けることになります。
 しかし、そもそもの話として、両親が残した莫大な遺産を食いつぶしつつヒーロー活動をしているあの男は、それによってはビタ一文稼いではいないのですが、「プロ」ってなんなんでしょうか……。とはいえ、奴と口論でもしようものなら、口論そのものもその後の展開もひたすら酷い目に遭うので、へたに突っつかない方が身のためです。また、口論と言っても、奴と言い争いをしようとしても大抵は言い争い自体が成立しません。奴からひたすらボロクソ言われまくって「いくらなんでもそれはあんまりだ」と我慢の限界を超え何かしら言い返そうと奴の方を振り向いたとしても、既に奴の姿はその場から跡形もなくかき消えています。
 それにまた、金銭面の問題については、奴としてはあまり問題になりません。敵の陰謀で資産が凍結された際にも、周囲がうろたえる中で「今あるものだけで何とかしろ!」とか言って平然としてましたからね(この件の詳細については『バットマン・エターナル』を参照してください)。ここは奴にとってはあまり弱点にはなりません、では、どこから籠絡したらよいのか……ということについては、後ほど改めて検討してみます。


 いずれにせよ、スーパーパワーを持ってしまっているその時点で、奴からは目の敵にされる可能性が非常に高いです。というかむしろ、スーパーパワーを持っているにもかかわらず奴から認められるためには、「自分がスーパーパワーを手に入れたのはあくまでも偶然であり、そのこと自体は自分が優れていることを証明するものでは全くなく、むしろ恩寵を与えられた者として無私の精神で人々に奉仕し続けることこそが最上の喜びである」という、ひたすら謙虚な姿勢を徹底して取り続けなければ、絶対に認められません。この点に関しては、奴から認められているのはクラーク・ケントとバリー・アレンぐらいしかいないのではないかと思われます。
 このことに関しては、表面上だけを取り繕うことは全くの無駄です。何しろ相手は、世界最高のストーカー……じゃなくて名探偵、ありとあらゆる情報を入手しています。それこそ、そもそも奴の接触を受ける以前、スーパーパワーを獲得した初日に、人知れずそのパワーの駆使に喜んでいたような経験も、なぜか奴はチェックしています。自分が能力持ちであることに調子こいてるような経験をどこでやらかしていても、奴の情報網には絶対にとらえられてしまうのです。……そういう意味では、人通りのない路地裏で密かに犯罪者と戦うような羽目になったとき、解決してから誰もいない状況で「くっ……バットマンは、普段からこんなキツい戦いをしてるのか……ッ!」などと独白していると、奴としてはポイントが高いかもしれません。
 とはいえ、以上のような経験をコツコツと積み上げたところで、すぐに限界に行き当たります。基本的に、奴は他人を無条件に信頼するということを知りません。逆に、共闘するような経験が増えてきたところで、ちょっとでもミスをすればすぐにアマチュア呼ばわりです。
 また、奴は人類トップクラスの知能を備え複数の外国語にも堪能であるはずなのですが、こと語彙力はと言えば……確かに、非難・攻撃・弾劾・罵倒などのネガティヴ方面においては豊富な語彙を駆使してくるのですが、ポジティヴ方面の語彙は極めて貧相です。その結果として、ともに活動して事件を解決したときなど、素でダメ出しされているのか、それとも、本当は褒めたいのだけれども素直に褒められないから憎まれ口を叩いているだけなのか、全く判断がつかないようなことがあります。
 これは非常に面倒な問題ですが、奴に近い人物であれば対処法を心得ているようでもあります。最近だと、「バットマン/スーパーマン」の29号を読み、スーパーマンの恐るべき手腕に感動したことがありました。……間一髪の危機をスーパーマンに救出され、なんとか助かったバットマン。しかし、「別に助けとか全然必要なかったぞ。解決までの時間が少しばかり短縮されただけだ」などと言い張ります。まあいつものことではありますが、呆れてしまったスーパーマンの提案はと言えば……「ブルース、なぜ君は、素直に人に助けを求められないんだい? そんなことでは、本当に困ったときにどうするんだ……そうだ、いい考えがあるぞ。君が僕に助けを求めやすいように、君が口にしやすい簡単な合い言葉を決めておくというのはどうだろう? 例えばそうだな、命の危険が迫ったときは「バナナマフィン」と言うことにしておく、とかさ?」ということでした(真に受けず聞き流しているように見えるブルースでしたが、しばらく後に宇宙空間で一人でロボに遭遇したときには、ちゃっかり「クラーク……バナナマフィン」とか言ってました……)。
 スーパーマンの巧妙な手腕はまさに恐るべしと言うほかありませんが、これは、そもそも奴に相当近づいた上でしか用いることのできない高等テクと言うべきでしょう。ならば、そもそも奴に近づくためにはどうするべきなのでしょうか。


 このことについて検討するために、奴が他のヒーローと遭遇したときにどんな反応をするのかを見てみましょう。


 ・なんか赤いヒーローに遭遇したとき:「フラッシュ? ファミリーがいっぱい? ……おお、いつもうちのディックやティムやダミアンがお世話になります」


 ・なんか金色のヒーローに遭遇したとき:「ブースター・ゴールド? うちのバブスのために命を懸けてくれたのか……?(涙) マイケル、お前はいいヤツだ」


 ・なんか緑のヒーローに遭遇したとき:「グリーンランタン? 同僚はガイ・ガードナー? ……死ね」


 ……以上のようなことを見てわかることは、そもそも獲得したスーパーパワーがグリーンランタンのパワーリングだった場合、もう奴から敵視されることは諦めるしかないということです。
 それ以外のことからわかることは、奴が他のヒーローを認めたり受け入れたりするの際して、それまでのヒーロー活動の業績などは全く考慮されないということです。奴にとっては、他人を認めるかどうかの基準は、ファミリーにとって重要かどうかということ以外には存在しないのです。
 ……などということを検討していた際、私は、恐ろしいことに気づいてしまったのです。バットマンと言えば、グリーンランタン方面にはことあるごとに手厳しく当たりしょっちゅうボロクソ言いまくっていることで知られています……しかし、しかしです。グリーンランタンとは、各隊員がパワーリングによって選出される、原則として全員が対等なヒーローですから、原理的にサイドキックが存在しません。ということはつまり、奴としては、自分のファミリーとのサイドキック方面でのつながりを気にする必要がない、ということなのです。
 ……と、いうことは! 実は、奴は、「グリーンランタンに対しては特に手厳しい」というわけではなかったのではないでしょうか!? そうではなく、グリーンランタンに対してはファミリー方面とのしがらみがないため自由に振る舞えていた……逆に言えば、サイドキック方面でつながりがある他のヒーローに対しては、実はあれでもだいぶ気を使っていたのではないでしょうか。ならば……「本来ならば、バットマンの他のヒーローに対する扱いは、対グリーンランタンの時のような態度がむしろデフォルト」、ということなのでは!?
 な、なんて恐ろしいんだ……奴が他のヒーローにとってほんの少しは微妙に気を使っているように見えるのは、実は、ファミリーのためのご機嫌取りでしかなかったのです。
 そう、奴にとっての弱点は、ファミリー関連以外のことではありえないのです。例えば、ここまで、スーパーパワー持ちのヒーローがどれだけ厳しく奴に当たられることになるのか検討してきましたが、奴自身の息子がスーパーパワーを獲得したときなどには、以上のようなことは全く適用されません。身内のことが絡むと、平然とダブルスタンダードを駆使してくるのがバットマンという男なのです。
 したがって、奴に厳しく当たられないようにするには、奴に比べればコミュニケーションを取るのに全く苦労することのない常識を備えたファミリーのみなさんとお近づきになるのにしくはない、ということになります。私のお勧めとしては、ディックさんということになるのですが……ディックさんくらい奴との付き合いが長くなると、むしろ保護者みたいになってきます。例えば、先述したような、奴に罵倒されてるのか褒められてるのか分からないようなときは、ディックさんに聞けばすぐに判定してくれるのです。
 ディックさんと言えば、ディックさんの名誉のために私はここで声を大にして言いたいのですが……彼はよく女たらしとか言われてますけど、私は違うと思うんですよ! ……だってですよ、考えてもみてくださいよ。ディックさんの場合、物心ついたばかりの幼い頃から、奴につきっきりで成長してきたのですよ。引きこもりで根暗な奴の心に刺さらないように、繊細に丁寧に、意を尽くし言葉を選んでしゃべる習慣が骨の髄まで染み込んでしまっているはずなのです。そんな人物が、成長しいけている見た目も備えた状態で周囲に接するならば、本人としてはデフォルトのつもりの態度でも、誤解されまくりモテまくることになってしまうということなのに違いないのです。……つまりあれは、女たらしなんじゃなくて、ディックさんの生い立ちゆえに背負い込むことになった、悲しい性なんですよ!


 奴にとっては他のヒーローへの配慮は、ファミリーのみなさんがサイドキックつながりで嫌な思いをしないための気遣いに過ぎない……というのが大原則だとは思いますが、その中でも、非常にまれな例外があることも事実です。というのも、奴はウォリーに対してはかなり気を使っていますが(幼いウォリーが「バットマンって狂人なんでしょ」とか言ってるところに遭遇したものの、特に怒らず報復もしないという奇跡的な寛容さを示したこともありました)、どうもこれは、むしろバリーのためにウォリーに気を使ってる感じがするんですな。
 だってですよ、『フラッシュ:リバース』のジェフ・ジョンズによる設定資料には、こんな記述があるのですよ。


 Barry was known to chat about forensics and technique with Batman for hours after a Justice League meeting ended. Batman never talked to anyone else that long.
 バリーは、犯罪科学・技術についてジャスティスリーグの会合終了後にバットマンと数時間に渡って談笑することで知られていた。バットマンは、他の誰とも、それほど長く話すことは決してなかった。



 ば……バリー、すげえ! まさか、奴と日常的にサシで数時間も会話できる人物がこの世に存在したとは……(むしろ、バリーのスーパーパワーはそっちなのでは……?)。こういうことを知るにつけ、奴にとって、ウォリーのとの関係だけは、むしろバリーのために気を使っているように思えるのです。
 だってですよ、以前バリーとウォリーの両方が死んでいた時期のこと、『ライトニング・サーガ』においてフラッシュが復活するかもという兆候があったとき、これバリー復活するんじゃねと思ってワクワクして待ちかまえていたものの、いざ復活したのがウォリーだとわかると、密かにガッカリしてましたからね、あの男は。そのくせ、さらにしばらく後にいざバリーが復活した時には、バリー復活おめでとうパーティには、頑なに姿を見せませんでしたからね……(ちなみに、ディックはちゃんと出席しました……)。
 しかし……奴とバリーとの関係を考えるにつけ、これは、ディックやアルフレッドですら、奴とサシで数時間は話が保たない、ということなのでしょうか……。これはあくまでもジャスティスリーグとかヒーローコミュニティの中の話であって、ファミリーはまた別だとも取れますが……しかし、'never talked to anyone else that long'って、はっきり書いてあるしなあ……。
 ただ、私に思い出せる限りでもこれには例外はありまして、それは『ノーマンズランド』におけるゴードンとのことです。あの長大なクロスオーヴァーである『ノーマンズランド』の全編において、私が最も衝撃を受けたのは、終盤において展開された、奴とゴードンとの長大な会話でした。ゴッサムの危機的な状況の中でこじれてしまった関係を修復するために両者は長々と二人だけで話したのですが……その際、ゴードンの信頼を取り戻すため、奴は、自分が他人との会話の途中で突然いなくなってしまうことの真の理由を明かすことになったのです。それを知った私は、思わず衝撃を受けることになりました……「そ、そんな理由だったのかよ!?」と。
 そう、ゴードンと言えば……日本の腐女子の皆様におかれましては、「バットマン×ジョーカー」とか「ブルース×ディック」なんてのばかり耳にしますが、「バットマン×ゴードン」だってなかなかイケるのだということが気づかれないということに、私としては日夜心を痛めています。なんか『ノーマンズランド』の邦訳は途中でストップしてるみたいですが、これが完結した暁には、そのことも周知されていくのではないかと信じている次第なのであります。


 ずいぶん長々と書いてきてしまいましたが……スーパーパワーを得てからひとたび奴に目を付けられ敵視されれば、それからずっと、ことあるごとにボロクソ言われ続けミスをあげつらわれ手厳しく当たられることになります。
 一方で、細心の注意を払って奴のご機嫌を取り籠絡して近づきになれば、そのような酷い目に遭うことはとりあえずありません……が、だからといって、奴がこちらを完全に信頼しきるようになることは絶対にありません。表面上はどれだけ親しくなろうとも、奴はこちらの能力の研究や弱点の分析を継続し、詳細なデータを記録し続けることはやめません。
 ものすごく酷い目に遭い続けるのか、それとも、ものすごい労力を払って細心の配慮を行き届かせることによって、それより少しはマシな対応を手にするのか……後者の道を選ぶとして、そのすさまじい労力を払うだけの価値は果たしてそこにあるのか……う~む……。
 ……あれ? と、いうか……そもそも、なんでおれ、バットマンのファンだったんだろう……










私が愛したバリー・アレン――ドラマ「フラッシュ」を讃える

 ドラマ「フラッシュ」のシーズン1を視聴し終えたの自体はだいぶ以前のことなのですが……しかし、このドラマについて何を語るべきなのか、考えあぐねておりました。
 だってですよ、アメコミヒーローの中でも特に自分が大好きなキャラクターの一人が、果てしなくどこまでも深い愛とリスペクトの元に実写化され……なおかつ、原作コミックからもってきた無数の要素を現代のストーリーとして違和感なく語り直すために念入りに工夫がなされることによって、原作ファンとしては各話ごとに毎回々々顔をほころばせ続けつつも、何の予備知識もない視聴者にとっても興味深く見続けられるであろうという、奇跡的なまでに配慮の行き届いた処理がなされているのです。
 そんなドラマに対して、原作ファンとしてはどうしても過剰な高評価を与えかねないことは、重々承知しております……だからこそ、そのことをきちんと肝に銘じた上で、このドラマを的確に評する文章を書こうとしている以上、極めてニュートラルに、冷静かつ客観的な評価を下さなければならないのです。ファンとしての興奮によって我を失うようなことは、あってはなりません。……以上をふまえた上で、あくまでも冷静な観点から言わせていただきますと、これ、人類史上最高のドラマじゃないですかね。
 ……いや、だってですよ!? 全体のプロデューサーが我らがジェフ・ジョンズであるわけですよ。そして、そのジェフが「フラッシュ」に対してどのような態度を取ってるかと言えば……「おれ、「フラッシュ」なら全部コミックブック版で持ってるぜ~!」とか言ってるわけですよ。
 これがどういうことなのかよく知らないと、「あっそう」ですませてしまいそうなもんですが……ちょっと待ってくださいよと。「フラッシュ」は既に七十五年の歴史があるわけですから、連載開始当時の初出のコミックブックなんつーもんは、むちゃくちゃなプレミアがついておるわけですよ。1940年代の「フラッシュ・コミックス」を全部購入するとして、ミント状態であればゆうに百万ドル以上はするわけです(逆に、全部最低のコンディションであったとしても、十万ドル以上はかかるはず)。幼い頃から「フラッシュ」読者であった、そんな人物が、長じて「フラッシュ」のライターになり、全部合わせれば十年近い期間もの間、担当を務める……というか、よくよく考えてみればおかしいぞと。「フラッシュ」誌をコミックブック版でコンプリートしたと言っても、ライターとして無名時代にはそんなにお金があるはずがないから……もしかして、ジェフ、「フラッシュ」のライティングで稼いだお金を、「フラッシュ」のバックナンバーを買い集めるためにつぎ込んでた……!?
 そんな、自らの身を「フラッシュ」無限地獄に沈め、フラッシュのために人生を捧げたほどのアメコミバカが、満を持して「フラッシュ」のドラマ版のプロデューサーに就任した次第であったわけなのであります。……しかし、いざ完成した作品を見てみると、「フラッシュファンによる、フラッシュファンのためだけに向けられた作品」ということにはならず、もともと熱心なフラッシュファンである視聴者も、フラッシュのことを初めて知るような視聴者も、ともに共存できる……そのような環境が実現できるために、最初から複数の視点による解釈が可能であることがあらかじめ盛り込まれた、多面的な作品になっていたのです。


 ドラマ「フラッシュ」は、ふとしたことがきっかけで「超高速で動けるようになる」という特殊ではありながらも単純明快な能力を手にすることにあった、バリー・アレンという人物が、若く未熟ではありながらも、ヒーローとなり徐々に成長する姿を最初から描き出しています。したがって、当然のこととして、バリー・アレンのことを何も知らない視聴者の視点に寄り添うことが、作品のそもそもの大前提になっているわけです。……そして、このドラマは、単に一人の若者が様々な困難を乗り越えていく成長譚としてのみ見たときも、異常なまでにできがよいのです。どこでにでもいそうな平凡だが善良な若者が、分不相応なスーパーパワーをふとした弾みで手に入れてしまったらそうなるであろうようなこと……若者の若者としての逡巡や苦悩や喜びが、その繊細な感情の揺れ動きの全てが巧みに活写されているのです。
 しかし、その一方で、我々「フラッシュ」読者は、バリー・アレンという人物の来歴を、既にあまりにも知り過ぎています――そこで描かれているのがどれほど若き日々のオリジン・ストーリーであろうとも、バリー・アレンとはいつの日か真に偉大なヒーローになる男であることを当然の前提とみなし……そして、その後の人生の過程で数多くの悲劇的な出来事に見舞われ、その都度それを乗り越え、そして最後には、世界を救うために自分の命を犠牲に捧げる……。
 たとえそれが、バリー・アレンの最初の日々の物語であったとしても、「フラッシュ」の読者は、全てを知ってしまったその後の視点、バリー・アレンについて語られるべきことは何もかもが語られてしまった事後的な視点から、回想する形でしかその物語に接することはできません(……まあ、そんなバリーも、さらにその後には生き返っちゃったわけですが……)。そして、このドラマの製作者の側はそんなことは百も承知であるからこそ、作中での現実の水準において、全てを知ってしまった事後的な状態で若く未熟なバリーに接する、そんな視点までもがあらかじめ織り込まれてすらいるわけです。
 そんなことを考えるにつけ、ヒーローコミックの実写化において、これほど巧みに原作を利用した例は、ちょっと思いつかないくらいなのです。バリー・アレンのみならず、ウォリー・ウェストやバート・アレンがフラッシュを襲名していた時期も含め、膨大な量の「フラッシュ」誌からの引用が敬意をもってなされたその上で、このドラマ独自のストーリーを構築するように絶妙にシャッフルされているため、ひたすら「フラッシュ」のコミックを読み込んできたような読者でも、先の展開を読めないように作り込まれています。……例えば、第1シーズンの黒幕がリヴァース・フラッシュであることは「フラッシュ」読者ならすぐにわかるのですが、「リヴァース・フラッシュの容疑者」がわざわざ二人設定されているため、結末までわかってしまうようなことはないのです。
 ついでに言うと、ドラマ版のオリジナルな要素の多くも、大変素晴らしいものです。例えば、S.T.A.R.ラボの研究員としてバリーをサポートするシスコとケイトリンの二人にしても、既存のコミックキャラクターから名前が取られているとはいえ、実質的にオリジナルのキャラクターであるでしょう。……で、特にシスコですよシスコ! ヒーローコミックの実写化というと、つべこべ言って原作のテイストから離れて「まあなんとか現実にもありそうな、リアルと言ってもおかしくない」くらいの無難な落としどころを目指すようなことがよくわるわけですが、このドラマの場合、ヒーローもののベタなあり方が大好きなシスコがノリノリでコードネームやらコステュームやら秘密メカやらをガンガンぶち込んでくるのがサイコーです。……さらには、バスター・キートン大好きッ子である上に、人類全体が滅びるかもしれないようなヤバい事態で、いきなりダグラス・アダムズの小説を引用したりするわけですから……うう、シスコーッ! 好きだーーーッ!!! (……しかし、それにしても……シスコもケイトリンも実質的にはドラマのオリジナルキャラだと私は思ってるんですが、ケイトリンが本当にキラーフロストちゃんなんだとすると、それはそれで、なんだかこみあげてくるものが……。そりゃあ、このドラマの中でもケイトリンは結構酷い目に遭ってますけど、それでも、本来のその身に起きるはずだったことと照らし合わせると、「ケイトリン、あんた、ホンマによかったなあ……」などとしみじみと思ってしまうのです。あと、シスコも名前の元ネタはヴァイブにあたるわけですが、ジェフ・ジョンズがNew 52で「JLA」を担当した際、ヴァイブって、「しょうもない三下ヒーローだと思われているものの、実は、フラッシュとスピードフォースの影響関係に干渉しうる可能性を秘めている唯一の人物」ということにしようとしてたんですよねえ。そんなキャラの名前をわざわざフラッシュのドラマに持ってきたってことは、ジェフ的にはなんらかの思惑があるのかもしれません)
 ……なんだか取り乱してしまいましたが、以上のように異常なまでの手厚い配慮をもってこのドラマが作り込まれていることは、新規の視聴者の視点と長年のフラッシュファンの視点とが単純に共存できるというだけの話ではありません。それだけではなく、最初のオリジン・ストーリーが既にして二度目の回想でもありうるというその二重性自体が、バリー・アレンという人物の本質なのであり……このドラマのシーズン1全体を通して、作品全体で追求された骨子となってすらいたのです。


 では、バリー・アレンという人物の本質とは何なのか。……それは、彼が、反復とともに生きるしかない人物であるということです。
 DCコミックスの擁する無数のキャラクターの中でも、トップクラスに位置することは確かではありながらも、スーパーマンやバットマンと同格であることは絶対にないヒーロー、それがフラッシュです。したがって、「フラッシュ」誌はほとんど切れ目なく刊行され続けてきたものの、スーパーマンやバットマンのように、切れ目なく続く本編と別枠の番外編としてオリジナルストーリーが刊行されるようなことは、ほとんどありませんでした。
 レギュラー・シリーズの刊行が打ち切りになったり継続になったりして安定しないほどの不人気でもなければ、思い切って設定を変えたオリジナルの番外編が単発で刊行されるほどの人気でもない……ちょうどそのような程度の位置にあるのが「フラッシュ」です。結果として、時代ごとの移り行きはありながらも、同工異曲のストーリーが何十年にも渡って毎月毎月途切れることなく刊行され続けてきたわけです。
 バリー・アレンという人物には、クラーク・ケントやブルース・ウェインがそうであるほどの特殊性や人気やカリスマ性はありません。だからこそ、彼の人生は、絶え間なき反復の内にある……ちょうど、我々読者の大半の人生がそうであるように。毎日がほとんど同じことの繰り返しであり、常軌を逸したそれぞれに特殊な事件が頻発し、波瀾万丈にして不規則な生涯が展開されることなどありえない。
 我々の多くが絶え間のない反復から抜け出ることがほとんどありえないのと同じく、バリーもまた、そのような反復から抜け出ることはありません。したがって、バリー・アレンのストーリーを語ることになった者がまず最初に求められるのは、とらえようによってはただのマンネリでしかない、この反復を肯定できるかどうかということなのです。
 新たに「フラッシュ」誌のライティングを担当することになった者は、しばしば、何十年も積み上げられてきたマンネリにしか思えない定型から外れ、自身のオリジナルな着想を展開しようともします――しかし、熱心な「フラッシュ」誌の読者であれば、直近二十年ぶんくらいのバックナンバーは全て読んでいるような状態がむしろふつうなのです。それでもなお毎月必ず「フラッシュ」誌を読み続けるのはなぜかと言えば、毎週同じ定食屋に通って同じ昼食を食べるかのように、既にして習慣づけられた行為になっているからです。そんな、同じメニューであるからこそ食べ続けることができる客に対して、中途半端に自分の独創性を発揮した創作料理を提供するような料理人は、客がどのような状況でどのように食事しているのかを考えたことがあるのだろうか、ということなのです。その独創性に自己満足はできるかもしれない料理は、しかし、毎週飽きずに食べ続けることのできるものなのか、と。


 そのような意味では、ドラマの「フラッシュ」の最も重要なポイントは、各話の冒頭がバリー自身によるモノローグで'My name is Barry Allen. I'm the fastest man alive.'と始まることにこそあります。「フラッシュ」誌を読み続けてきた読者であれば――そこで語られる固有名詞や、細かい表現にわずかな変化こそあれ――このモノローグを、それこそうんざりするほど何度も何度も何度も何度も目にしてきたわけです。そして、そこで語られるものが定型の内にあるからこそ、新しく始められたドラマとしてゼロから語られているはずのストーリーが、同じモノローグによって語られた、我々自身の記憶の内にある無数のフラッシュのストーリーと一挙に連結され、もう自動的に涙腺がうるむような事態になってしまっているわけなのです(……そういう意味では、コミックの方でも、『リバース』を経て新たに「フラッシュ」誌のライターに就任したジョシュア・ウィリアムスンは、このモノローグを復活させてくれたので、私としては既に信頼しています。と、いうかですね……この人、もともと熱心な「フラッシュ」読者で、ジェフ・ジョンズがライターだったころにわざわざ会いに行って、ジェフジョンフラッシュがいかに素晴らしいかを熱心に告げていたような人らしい……おい、ちょっと待て……もしかして、君らは、バリーとウォリーなのか……?)。
 単なる凡人に過ぎないバリー・アレンのストーリーは耐えざる反復の内にある、だからこそ、そこにある反復を小手先の独創性で誤魔化したりなかったことにするのではなく、マンネリをマンネリとして受け入れ、反復がそこにあることを認めることによってしか、バリー・アレンという人物について語り始めることはできないのです。
 バリーの生きる生の条件として、大いなる反復の内にいるしかないことは、あらかじめセットされてしまっています。……だからこそ、第1シーズンのクライマックスにおけるバリーは、タイムスリップによって文字通りにループする生の中を生きる羽目に陥ることになるのでありーー結果として、初めてバリー・アレンという人物に接することになった視聴者ですら、初めて目にするストーリーでありながらも同時に二度目のこととしてバリー・アレンの生涯に立ち会うことになる、言い換えれば、バリー・アレンの生涯をその終わりから振り返って回想する「フラッシュ」読者の視線に合流し、そこにある二重化された世界を見ることが可能になるわけです。
 これは、逆に言えば、バリー・アレンの物語に最初に接する人間は、そのそもそもの始まりの時点から、バリーの二重化された生、反復される時間を共有できるわけではないということになります。……ならば、そのそもそもの最初に語られたパイロット版、'My name is Barry Allen. I am the fastest man alive.'という言葉が多くの視聴者にとっていまだいかなる意味をも持たない最初のエピソードにこそ、視聴者がバリーの本質を知らぬままにドラマ自体と別れてしまう危険が潜んでいることになります。
 しかし……いざそのような観点で改めてパイロット版を振り返ってみると、このパイロット版だけでも、バリー・アレンの本質が初見の視聴者にも伝わるように、周到に構築されていたことがわかるのです。冒頭において語られる、バリーの幼少期の出来事――自宅が不可思議な何者かによって襲撃され母親が殺害された事件の渦中で、父親は、バリーに対して'Run, Barry. Run!'と叫ぶことになりました。もちろんそれは、幼く弱いバリーに対して「逃げろ」という以上の意味を持つ言葉ではありませんでした。そして、時が過ぎた作品が語る現在時、パイロット版のクライマックスにおいて、幼少時のあの事件と類似する状況に置かれることになったバリーに対して、再び、'Run, Barry. Run!'という言葉がかけられることになります。
 極めて類似した二つの状況下において、同じ人物に対して向けられた、同じ言葉――その言葉が、全く同じ言葉が反復されたものであったからこそ、何もかもが変わってしまっていることがわかる。凡庸な人生が反復の繰り返しでしかないことをいったん受け入れるからこそ、完全に同じことの反復が、それでもなお全く異なる意味を持ちうることを示し、その内部に、バリーの変容、その成長を刻み込むこともできる。……バリー・アレンという人物が何者であるのかを示すためには、ただそれを描くだけでよかったのです。










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