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ジョン・スラデック『ロデリック』を読む

 ジョン・スラデックの小説『ロデリック』を、邦訳で読んだ。もともとこの小説に関しては、個人的にかなり以前から読みたかったのだけれども……「原書で読むか……あれ、邦訳の予定あるのか」「あれ、邦訳予定が消えた……」「あれ、やっぱり邦訳されるのか」「また消えた……」ということが延々繰り返されて結局読めない間に何年も過ぎてしまったのだった。……と言っても、結局邦訳されたのは前半の『ロデリック』だけで後半の『ロデリック・アト・ランダム』は邦訳されるのかどうかは未定のようなので、もうこっちは原書で読むことにしようと決断したのでありました。
 さて、『ロデリック』を一読してみてすぐに思ったのが、「なるほどこれはギャディスだ」ということだった。スラデック自身の他の長篇ともかなり異なる書かれ方がされていることから、『ロデリック』がウィリアム・ギャディスの技法を大幅に取り入れて書かれていることは明らかなのであった(ただし、ギャディスよりはかなりマイルドに読みやすく書かれている)。
 それで思ったんだけど……スラデックという人もあまりきちんと日本に翻訳・紹介がなされている作家ではないけれども、これって要するに、「ピンチョンの影響がSFに流れ込むとギブスンになり、ギャディスの影響がSFに流れ込むとスラデックになる」ということなのではないかと。つまり、そもそもギャディスが読まれないようなところではスラデックも読まれることはない……なんてことになってるんじゃないですかねえ。
 少し前、ギャディスに関して日本語で検索していたら、唯一の邦訳である『カーペンターズ・ゴシック』の部数がどれくらいであったのかを推測している人がいたのだけれど……その推測が正しいとすると、衝撃的なまでにすさまじい少部数しか流通してないんですねえ。英文科のある大学図書館がとりあえず蔵書しとくだけでもそんなことにはならんだろ、という水準の部数のようなので、専門のアメリカ文学研究者ですら唯一の邦訳さえチェックしていない(逆に誰もが原書できちんと読み込んでいるわけでもなさそう)ってことなんですかねえ、二十世紀後半の世界の文学全体でも最重要作家の一人なんだけど……。このこと一つをとってもわかるように日本が翻訳大国なんてのは大嘘ですし、「ガイブン好きで~す」とか嬉しそうに言ってみたり、現代文学の善し悪しについてあれこれ論評してみたりするような人々の大部分は、そもそもギャディスの作品に全く触れたことすらないってことなんですよねえ……。


 そういう意味では、ギャディスのことをとりあえずおいといたまま、その影響下に書かれた『ロデリック』について面白いだのつまらないだの言ってみてもしょうがないような気もするけど……まあ、とりあえず、気を取り直して書いてみようかと思う。
 ジョン・スラデックによる長篇小説『ロデリック』が描くのは、ロデリックと名付けられた自己学習型のロボットが人間社会の中に投げ込まれ、数奇な冒険をたどって人間社会のあり方を学んでいく姿だ。……そんな風に要約するといかにもありがちなストーリーに思えてしまうのだが、しかし、ロデリックを取り巻く周囲の人々の描かれ方が破格のものであるゆえに、この作品は極めて特異なスタイルを持つ小説になっている。
 例えば、邦訳にして120ページほどある第一部には、ロデリックは直接的には全く姿を見せない。そこにはただ、ロデリックが開発されることになる経緯の周囲にいる人々の姿だけがある――そして、それらの人々はそれぞれがてんでんばらばらの思惑で行動し、饒舌に言葉を取り交わし、しかし他人の言葉に注意深く耳を傾けることはしないがゆえに勘違いや行き違いや取り違えが横行し、誰もが混乱し、愚かさや浅ましさをさらけ出して、醜く行動し続ける……。
 スラデックの言葉にはいかなる感傷性もなく対象を美化するようなこともないがゆえに、実際の社会で流通しているような混沌とした言語の有様がそのままに写し取られて作中に取り込まれる。……そして、ロデリックが知性を獲得することになるのは、まさにそのような言語的混沌の渦中においてのことであるのだ。


 単なる機械としてのロデリックは自己学習型の自律した知性を獲得する、だからこそ、幼児的な段階から徐々に段階を経て知性を成長させていくことになる。……しかし、『ロデリック』という小説は、奇妙なことに、主人公たるロデリックが登場しない第1部の時点で、むしろ、人間と機械の間の境界の疑わしさを示唆しているのだ。例えばそれは、次のようなレトリックに表れているだろう。


ストーニーは札入れを広げ、テーブルごしに写真を次々に投げてよこした。「どうだい、このかわいこちゃん?」
「お子さんですか?」
「ハッハッハ。いや、おれの飛行機さ! 完璧にリストア済みのカーチス・ホークとロッキード・ライトニングを持ってるんだが、今はこの赤ちゃんにとっかかってるのさ。ベル・エアラコブラだ。一目見ればわかるだろ、この顔。このかわいい前輪が……」(『ロデリック』、柳下毅一郎訳、p15、ルビは省略)



デスクに置かれた電報はフォン博士のこぶしの中でまるまったかたちを取り戻そうとするかのように、まるでそれを受け取ったときの憤慨と困惑をそのまま覚えているかのように、(ミスプリントによって)通信時の混乱を記憶していた。(同、p18)


 『ロデリック』という小説を構成する言語は、地の文の水準においても、人間と機械の間に本質的な差異を認めずその境界を無化する機能を果たしている。――そして、そのことがさらに過激化されるのは、人間が駆使する知性の方が、機械と何ら変わりのないものであることが示唆されるという、反対方向の事態が作中に現れる時点のことだ。
 あるとき、ひょんなことからジプシーの集団に拉致されたロデリックは、しばらくその集団と行動をともにすることになる。その過程で、ロデリックは、ジプシーの老婆が商売として行なっている占いをしこまれることになる――のだが、その実態はと言えば、客の様子など関係なくパターン化された手順に乗っ取って決まりきった答えを告げるものでしかない。そして、ロデリックの占いをおもちゃのロボットの機械仕掛けの芸だと思いこんだ第三者は、ロデリックと次のようなやりとりをすることにもなる。


 クラットは手を引いて安い葉巻を探し、ラップを剥いた。「悪くない、悪くないぞ」アシスタントが火をつけるのを待った。「だがそれほどよくもない。わりと単純だな、要するに表を参照してるだけなんだろう、こいつは? 最初の客には腰痛があるんだろうといい、次の客には足が痛いんだろうと言い、その次には頭痛と――」
「そのくりかえし」とロデリック。「そう、そのとおりなんだ。それから子供のことは、ね、毎回子供は三人生まれるって言うんだ、組み合わせは全部で八とおり……」(同、p200~201)



 子供だましの占いで日銭を稼ぐためにパターン化された手順を繰り返すだけの人間の知性は、ごく単純で原始的な計算機のなすことと何ら変わるところはない。……ならば、ロデリックがその狭間で悩まされ続けているはずの、人間と機械との境界などというものは、いったいどこにあるのか?


 スラデックの『ロデリック』が非常に優れた小説だと言えるのは、人間の知性と機械の知性との根本的な違いを、あくまでも言語の処理の水準で表現しきることに成功しているからだ。
 そもそもコンピュータとは、入力された人工言語を所定のアルゴリズムに則って変換する装置でしかない。その意味では、コンピュータが「間違いを犯す」ことはありえない。コンピュータが間違えたように見えるとき、それはコンピュータ自身の間違いではなく、入力された言語が間違っていたかアルゴリズムに不備があったのかのどちらかを理由に、人間が事前に想定したようには言語が変換されなかったというだけのことに過ぎない。
 そのことをふまえると、スラデックが『ロデリック』の全篇、その膨大にして饒舌な言語の集積を通して、人間の知性の本質として描いたのがなんであったのかが見えてくる――それは、コンピュータが人工言語に接するときとは異なり、人間は自然言語を正確に読み取ることはできない、ということである。
 人間は、言葉を正確に読み取ることができない。大して長くない文章でさえ正確に意味を特定することができず、単純なスペルミスによって単語を取り違え、他人とのやりとりが増えれば増えるほど、勘違いや間違いは雪だるま式に増殖していく。……そして、いかにも人間を人間らしくしているかのように見えていたもの、各個人をして各個人たらしめる個性や特色と見えていたもの、しばしば肯定的だとみなされていた人間社会の価値観とは、膨大な量の自然言語がやり取りされる過程で膨大な量の失敗によって生み出されたノイズでしかない――それこそが、『ロデリック』という小説の根幹を支える認識なのだ(例えば、既に引用したp18において、電報が「記憶」といういかにも人間的な知性を行使していたのは「ミスプリント」によってであるとされていたことを思い出そう)。


 だから、人工知能として生まれながらも人間の知性を学習しなければならないロデリックの境遇は、根本的なパラドクスの内にある。ロデリックに求められているのは、伝達された言語をその通りに受け取るのではなく、読みそこなうことによってノイズを生み出すことができるようになることだ。……言い換えれば、ロデリックは、失敗することに成功しなければならないのだ。
 人間的な知性を発達させるためには、言語を完璧に理解し完璧に伝達するのではなく、程良く間違い、程良く誤解し、適度な個性を獲得しなければならない。しかし、あまりにも過度に間違いすぎることも、ディスコミュニケーションのノイズが生み出した共通の価値観を持つ共同体から排斥されることにつながる。ロデリックは「正しすぎること」と「間違いすぎること」の両極を揺れ動かざるをえないゆえに、一つの共同体の内部に安住することができない。
 例えば、キリスト教の教義について神父から教えを受けるロデリックは、キリストがその身を「犠牲」にするという部分が理解できない。結果として、次のようなやり取りをすることになるだろう。


「さっぱりわかりません、神父様。とくに十字架のとこが。シスター・オラフは犠牲って言ってたけど。だって、チェスではサクリファイスというのはハメ手で――オブライド神父は野球でも同じだって言ってたし――なのになんで全知の神様がハマるんです?」
「ハマる……?」
「だって、神様は誰だって好きなところへやれるんだから、みんなまとめて地獄へ送ることもできるんですよね? だから代わりに息子をサクリファイスしたら、そのあとゲームが有利になってなきゃおかしいですよね? だって、サクリファイスするのはそのおかげで他の連中相手にうまい取引ができて相手をハメられるからですよね? オブライド神父がいつもTシャツでやられてるみたいに――」
「止めろ、止めろ、止めろ! 待て、待ちなさい、待て……」ウォーレン神父は必死に手を押さえ込もうとしているようだった。まるで脳の両半球が戦っているかのように、指は結ばれ絡まった。「よくわかったよ、やることがたくさんある。もっとたくさんある。きみが……きみがそんなふうに考えているなら……『ゲームが有利になるなら』!」
「うん、でも神父様、神様がパラドックスだってどういう意味なんだろう? 息子を釘付けするのが、全世界を地獄でこんがり焼くチャンスを捨てちゃうくらい嬉しかったのはなんでなんですか?」(同、p333~334)



 「犠牲(サクリファイス)」という単語一つとっても、宗教の文脈においてとチェスの文脈においてと野球の文脈においてとではそれぞれ意味が異なる。しかし、その意味の違いとは言語そのものの水準で厳密に定義されたものではなく、社会的文脈によって使い分けるというとりあえずの共通了解が形成されているものでしかない。文脈に通じない者が単に言語の論理だけで事態を解釈しようとするとき、人間の文化の根本的な部分に破壊的な揺さぶりをかけるようなことすら起こりうるわけだ。


 ウィリアム・ギャディスの『JR』を読み、これにロボットが登場しさえすればスラデックになると評したのは殊能将之であった。なるほど確かに、これは的確な評価である。ギャディスの描いた言語的混沌、饒舌な言葉がやり取りされる混乱した会話をそのまま作中に取り込む方法をそのまま引き継いだ上で、その言語的混沌と対比される形で、明晰で混乱の人工言語を基盤にする人工知能を作中に導入したのがスラデックなのである。
 その意味で、「ロボット」とは、スラデックをしてスラデックならではの作品世界を形成させるために、必要不可欠のモティーフであるはずだ。……しかし、である。スラデックが非常に優れた小説家であるといえる、しかし同時に広く読まれることがありえなくもあるのは、自らが獲得した残酷な認識を、自分自身にも平然と適用できてしまうことにあるだろう。「スラデックの個性」なるものがあるとしたら、それは、言葉の読み間違いによってもたらされたノイズでしかありえないわけだ。
 『ロデリック』の作中世界において、そもそもロデリックの起源となるアイディアを生み出したのは、次のような者だったとされている。


「なぜって、そのクズを書き飛ばした奴がいるからだ。そいつははるか昔、四〇年代の、尾羽打ち枯らした三文SF作家だ。くたびれたLCスミスのタイプライターの前に座り、一語一セントでクズ小説を打ち出しているーー安っぽい夢だ、そうだろう? だからそいつはたぶん年に短編を百も書き、それに加えてたぶん長編を六冊、全部食費と家賃を稼ぐために書いた。いや、もちろん割り当て分を満たすだけの独自のアイデアなんてものはありゃしない。女房にたずねて、またぞろ巨大電子頭脳、またぞろ月ロケットを引っぱりださねえばならん。この男、どんなかって、たぶん頭はフケだらけのデブで、毎日、テーブルクロスを敷いたキッチン・テーブルまで身体を引きずっていって、タイプライターに向かい合うのも一苦労だろう。
 そして、そいつがこの世界を作ったんじゃ! そのせいでわしらは忌々しいビニールを着て、代用アイスクリームを食べて、ガラスの塔に住んでそこで働かなきゃならんのだ。あいつがたまたまそういうことを書いてしまったせいでーー想像してみろ! もし哀れなうすのろが、もし万一ある日ガラスでなく真鍮と書いていたら、今頃みんな真鍮の塔に住むことになってたかもしれんのだ。まさしく冗談じゃないか」(同、p458~459、ルビは省略)



 例えば「ガラス」を「真鍮(ブラス)」と取り違えるような類の愚かな間違いが生み出す幻想・妄想の類こそがロボットなどという発想を生み、そんな妄想の集合体こそがSFというジャンルを形作る。……自分自身もまた愚かさを免れていないという酷薄な認識こそがスラデックをしてスラデックたらしめる、しかし、それもまた幻想でしかない。ジョン・スラデックとは、そのようなパラドクスの中に不断に身を置きつつ言葉をかろうじてひねり出した小説家だったのである。








ラファティとジョイスに関するメモ

 R・A・ラファティの長篇小説『地球礁』を邦訳で読んだ。……と言っても、つい先頃文庫化された版で読んだのではなくてですね……もともと「こんな本、文庫化されるどころか、再版がかかることすらなかろう」と考えて単行本で買っておいたまま読まずに放置してあったのですが、まさか文庫化されるとは……。結果として、謎の敗北感に打ちのめされるがままに、放っておいた単行本を読み始めるということになってしまったのでありました……(最近だと、ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムズ』が白水Uブックスに入るらしいということにも衝撃を受けました……)。しかしまああれか、「単行本で購入した者もいたからこそ、文庫化への道も開けたのだ!」と考えておけばいいんですかね……。
 それはともかく、個人的にラファティの長篇を読んだのは久しぶりであったのだけれども、これまで自分が読んできた作品とはかなり異なる印象を受けた。と言っても、『地球礁』が『宇宙舟歌』なんかのラファティの同時期の長篇と特別に異なるというわけではなくて、私自身の方に、アイルランドなりカトリックなりについての認識の変化があったからだ。
 これはなぜかというと、たまたま最近、個人的にジョイスを一から読み直すために、その文化的・思想的・宗教的背景を勉強していたからだ(……まあ、そのきっかけはなぜかというと、アラン・ムーアの大作小説『イェルサレム』に、ジョイスの読み直しが含まれているらしいので、それを読むための予習をしてたからなんですけどね……)。そんな経緯を経て、アイルランドの文脈を頭に入れてから改めてラファティを読んでみると、かなり異なる印象を持つことになったというわけだ。


 ジェイムズ・ジョイスという小説家は、自分が生まれ育ったアイルランドという場所こそを作品化する対象として選んだ、それも、アイルランドを去り外国へ移住した者の外部からの視線で書く――そんなことを続けた人物である。そんなジョイスの書く小説は、アイルランドという土地をその内部から精密に描き出すのと同時に、広くヨーロッパの歴史全体の中でのアイルランドの置かれた位置をも厳格に確定する。内部からの視点と外部からの視点とが同時に共存し、わかちがたく絡み合い、巨大なスケールでもってアイルランドの全体像を浮かび上がらせるに至る。
 ジョイスの作品がそのような性格を持つことになったのには、おそらく、アイルランドにはカトリックが根強く浸透していることが非常に大きな理由になっていると思われる。というのも、近代ヨーロッパの文化全体が、カトリックに反発したプロテスタントによって形成されたものである以上、カトリックの信奉者は周縁に追いやられるほかないからだ。
 言い換えれば、プロテスタントを奉ずる勢力に支配されながらも現地の人間はカトリックを信仰している土地においては、ヨーロッパの近代的価値観が全土を覆い尽くしているわけではない。近代的価値観が社会の基調となり古代的・中世的価値観を抑圧し排除しようとしているにしても、完全に排除しきれるはずもなく常に抵抗は続いている、ゆえに、古代・中世と近代とが入り混じり合い同時に共存してしまう周縁として、アイルランドは存在している。
 だからこそ、そのようなアイルランドの有様を完全に把握しきるためには、単に現在時のことのみならず、ヨーロッパの歴史全体を捕捉しなければならないことにもなる。古代から中世を経て近代に至るヨーロッパの変遷をとらえ、カトリックとそこから派生したプロテスタントとを同時にとらえ、カトリックが駆逐されながらも残存し、それゆえに被抑圧者の側に回らざるをえないアイルランドの立ち位置に焦点を当てる――そしてそれを、ヨーロッパの正統的な価値観の本丸に入り込み、正統を完璧に理解していることを示して見せた上で、正統からは捕捉しきれない限界点として周縁を逆説的に暴き立てるということ、それこそが、ジョイスが成し遂げたことであるわけだ。
 ジョイスが真に怪物的な作家であるのは、以上のようなことを、文学の形式性の側面においても実践しえているからだ。本来ならゲール語が話されていた土地であるはずのアイルランドにありながら英語を用い、その上で近代小説のリアリズムの技法を、それこそヨーロッパの文学史上でも最高クラスの水準で完璧に駆使してみせ――さらにその上でリアリズムの限界点を暴き立て、リアリズムを完璧に破壊するモダニズムを完成させる、だからこそ、ヨーロッパの近代的価値観で捕捉しきれない場所としてのアイルランドを描くにあたって、近代の限界点をあぶりだし、その破れ目から古代や中世の価値観をも召喚してみせる……。
 ごく大ざっぱに言うならば、ジョイスがなしたことは、同時代的に絵画においてピカソやマティスがなしたこととも対応しているのだろう。もともと遠近法とはヨーロッパ近代において発明された局地的な技法であった、だからこそ、時を経るとともに遠近法への批判・再検討が進み、遂には、近代的な遠近法を破壊した上で、遠近法以前の技法を再利用したり全く異なるコンテクストの文化の価値観を取り入れたりする方向が進んだ……と。
 以上のように考えれば、ジョイスと同じくアイルランド系の出自を持ちカトリックでもあるラファティがいかにして小説を書いたのかは、比喩的にならば、ごく簡単に表現することができるだろう。……ラファティは、そもそも遠近法自体を無視して絵を描いているのである。


 近代絵画の前提となる遠近法がヨーロッパという局地的な場所で特定の時代に発達した技法に過ぎず、そこにあるかに見えた普遍性は装われたものでしかなかったのと同じく、近代小説のリアリズムもまた、自明的・普遍的なものではない。
 ある特定の言葉が外界の対象をニュートラルに指示しているという制度・共通了解が成立するためには、認識する主体と認識される外部との区別が前提となるのと同時に、その媒介となる言語が純粋な記号としての機能を担保される必要がある。
 ところが、言葉が純粋に対象を指示する記号としてのみ働くものと見なされるのは、歴史的に見ればむしろ例外的な事態である。近代以前のほとんどの文明においては、言葉、とりわけ詩の言葉は、純粋な記号などではなく、むしろ呪術に近いものなのであった。……それがなぜかと言えば、記号と指示対象・認識主体と外部の世界の明確な区別が自明のものではなかった以上、言葉そのものもまた世界の内部に存在する物であるという意味では他の事物と同等の存在であったからだ。したがって、詩を詠むこととは、世界の一部に干渉し世界の一部を改変することである。つまり、詩を詠むこと自体が呪術そのものなのである。例えば風景を詩に詠むときになされているのは純粋に風景を透明な言葉で描写することなどではなく、詠まれる情景と詠む者の心情とが不可分に一致した出来事であったりするわけだ。
 言葉の純粋な機能を抽出し透明な描写を完成させるのがリアリズムなのだとして、それはたかだかヨーロッパ近代において成立した歴史の浅い制度であるのに過ぎない。そして例えばジョイスであれば、アイルランドを征服した者どもが用いる英語の世界に異人として参入し、完璧にリアリズムを使いこなした上で、その限界点としての破れ目を逆説的に提示してみせた。……一方、ラファティは、最初からリアリズムを単に無視して小説を書くのである。
 そのように考えれば、『地球礁』のような小説における詩の言葉の扱いがどのようなものであるのか了解することもできるだろう。


 簡単な答えがある。すでにそうなっていると想像してやればいい。地球人の子供なら子供っぽいと思うだろうが、プーカ人の子供には空想を現実化する手段がある。バガーハッハ詩を詠んで、成ったも同然とすればいい。(『地球礁』、柳下毅一郎訳、単行本版、p36)


 『地球礁』や、それと同時期に書かれた『宇宙舟歌』に共通しているのは、ラファティの作中においては依然として詩の言葉は現実そのものであるということだ。そしてラファティの場合は、リアリズムに反発したとかリアリズムを改変したとかいうのではなく、リアリズムをその内部で制度として確立した文化が支配的であるという歴史的推移を、単に無視しているのである。
 実際、『地球礁』の主な登場人物であるプーカ人とは、地球に訪れて何となくその内部に紛れ込んで暮らしている宇宙人であるのだという。そして、プーカ人は地球とは全く異なる文化を持ち、その視点によって地球の文明を眺めるため、地球人にとっての自明の事態は常に相対化されることにもなる。


 プーカのドラマは地球人のものとはペースもクライマックスも異なっている。上古典形式では、必ず(結末にほど近いところで)すべての血なまぐさい要素がひとつに積みかさなり、きわめて便利かつ楽しい場面が出来あがる。それは過激かつ法外だ。大げさな茶番劇であり悲劇的かつ喜劇的だプーカの肝臓と臓物と心臓を揺すぶる。そして地球人には、いささか乱暴でやり過ぎのようにも見えるだろう。(同、p224)


 ……だがなぜ、ラファティはここまで「支配的な文化」の文脈を無視して好き勝手に書けるのか。おそらくそれは、ラファティがアイルランド系とはいいながらもアメリカに生まれたアメリカ人であったことが大きな理由の一つであるように思えるのだ。
 アイルランドに生まれヨーロッパの内を遍歴したジョイスにしてみれば、アイルランドを描くのに際してヨーロッパの積み重ねてきたその歴史、きらびやかでありながらも同時に厳格で抑圧的な主流文化を無視することなどできなかったであろう。……しかし、だだっ広い空間がどこまでも広がっているアメリカにおいては、主流の文化など無視し、自分の属する文化を気ままに保存して周囲の干渉を寄せ付けないようなことも、比較的容易であろう。その広大な空間の内部で、それぞれがてんでんばらばらの文化がテキトーにごちゃごちゃと同時に共存するようなこともできうる。
 だからこそ、『地球礁』におけるラファティは、プーカ人の一族の生態を、古の知恵を継承するインディアンの部族やら、いかにも西部劇に出てきそうな保安官の一味やらなどと同時に、現代的なテクノロジーも存在する現代のアメリカにごった煮状にぶち込むようなこともできてしまう。
 そして、そんな作品世界だからこそ、常識的な歴史の進行を無視して、次のような記述をすることも可能になるのだろう。


(大洪水の前、インディアンは世界最速の車を持っていたという言い伝えがある。人類が自動車を再発見したときも、インディアンは他よりもよく自動車のことを覚えており、他の人種よりも自動車の扱い方をよく知っていた)(同、p199)


 ……ラファティの出自にあるアイルランドやカトリックの文脈を確認しつつどのようなことがなされているのかを確認していくと、なぜラファティがいかにも奇妙な小説を書いていたのかということについて、おおよそ以上のような整理をしていくことができるかと思う。
 そして、そんなことを考えていると、個人的にもう少し掘り下げたいのは、ラファティとアメリカン・コミックスの関係なのであった。以前から、ラファティの小説を読んでいるとどうにもアメリカン・コミックスからの影響関係が感じられてしょうがないような部分がいくつもあったのだけれど、以上のようなことをふまえれば、むしろラファティがアメリカのコミックブックに深い興味を寄せていたとしてもなんらおかしくはないように思えるのだ。
 というのも、出自であるアイルランドの文化から切り離されたアメリカ人としてSFを書いたのがラファティであったのならば、同じような経緯で自身のルーツから切り離されたユダヤ人の生み出したものがアメリカのコミックブックであったからだ。ユダヤ文化の残響と、資本主義下で成立する現代的な出版文化とが奇妙に結合した歪な存在としてのコミックブックを、その歪さゆえにラファティが愛したとして不思議はないように思える。
 そういう意味では、ファンダムが形成されマニアックな内輪の共同体が形成されることになった七十年代以降くらいのコミックブックになってくるとラファティの嗜好とは異なってくるのかもしれないように思えるのだが……その一方で、後にアメリカン・コミックスのど真ん中で新たな潮流を生み出したアラン・ムーアとニール・ゲイマンの両名がラファティの深刻な影響下にあることを考えると、やはりこのあたりのことは結構根深く絡み合っているのよねえ。しかしそのあたりのことはまた改めて検討してみたいことでもあるので、また別の機会にということで。






テクストの多義性について――田中千惠子『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想――自然魔術・崇高・ゴシック』を読む

 田中千惠子による『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想――自然魔術・崇高・ゴシック』を読んだ。この研究書は、メアリ・シェリーの手になる『フランケンシュタイン』がその前提としている、極めて複雑に入り組んだ文化的・思想的背景を丹念に解きほぐした、大変な労作である。近代ヨーロッパにおける啓蒙主義とロマン主義の対立を前提とした上で、ロマン主義に流れ込む中世以前の価値観であったり、そのような文脈から現れる崇高の問題であったり……などという膨大にして多様なバックグラウンドを網羅することが目指されており、個人的には「まさにこういう書物が読みたかった」というものになっているのであった。
 というわけで、この書物の内容を具体的に見ていきたいのだが……それ以前の段階での感想として痛感させられたのは、ジャンル・フィクションの読解において何かしら特定のパターン、定型の類を固定させてしまうことがいかに不毛であるか、ということだった。
 例えば、少し前に、たまたま赴いた書店の棚で、『フランケンシュタイン』の歴史的影響をSFの観点から見るという評論を見つけ、手に取ってみた。……のだが、ぱらぱらめくってみたところ、メアリ・シェリーが作中に多数引用したイギリス・ロマン主義の詩を読み進めるのは「かったるい」などと書かれているのを目にして、そっと本を閉じて書棚に戻したのであった……。
 あるいは、こんなこともあった。とある推理小説の巻末に収録されている解説の類を読んでいたら、作者が英文学についてやや細かく専門的な言及をしたような部分について、「読者がそんなこと知るわけない(笑)」というような、嘲笑すべき事柄であるかのように語られているのだった(……というか、それが正しいのだとすると、私なんかは「読者」ではないということになるのだろう。しかし、じゃあ、なんなんですかね……)。
 いずれの場合も、SFなり推理小説なりのジャンル・フィクションにおいて、日本国内では評論家であることになっているような人物による評言である。もちろん、評論家なり批評家なりと研究者とではテクストの読み方も異なってくるわけだが、これはいくらなんでもあまりに落差がありすぎるのではなかろうか(……もちろん、研究者であれば必ず丁寧に実証的な読解を積み上げているというわけでは全くないが……)。
 当たり前の話だが、メアリ・シェリーが『フランケンシュタイン』という小説を執筆した時点では、「SF」なり「ホラー」なりといったジャンルが明確な境界をもって成立しているわけではない。メアリ・シェリー自身は、(既に英国で興隆していたゴシック・ロマンスを参照した上ではあるものの)恐怖をもたらす物語を紡ごうと試み、またイギリスのロマン主義の同時代的な潮流をも参考にしつつ一編の小説を書き上げたのにすぎない。
 「SF」でも「ホラー」でも「探偵小説」でもなんであっても、なんらかの突出した特徴を持ったフィクションが一時代を画した後で、それを模倣する後続者が続いたその結果として、特定の潮流が一つの大きな勢力として形成されてくるわけだ。言い換えれば、あるジャンル・フィクションがそのジャンル内で通用する共通のルールなりコードを持つのは、ある程度の歴史的幅を持つスパンの中で徐々に形成されることに過ぎないということなのだから、ジャンル・フィクションの起源(もしくはそれ以前)に存在する作品が後の時代のジャンル・フィクションのコードに従っていなかったり、その価値判断の基準からするとおかしいことをしていると非難しだすというのは、そもそも本末転倒である。
 例えてみれば、江戸時代の日本人を、現代日本の法律からすると違法になる行動をしているとして非難しているようなものだと思うのだが……しかし実際には、メアリ・シェリーがロマン主義の詩作の問題を内包して小説を書くと「かったるい」とか言い出したり、エドガー・アラン・ポウの探偵小説が現代の基準からして謎解きの提示などがおかしいと言い出したりするような例は、結構わんさかあるわけだ。
 そして、私としてはそれ以上に問題と思えることとして……特定のジャンル・フィクションの内部のコードからしか読解することを認めない、そのコードからはみ出す夾雑物を余分なものとして切り捨てるのならば、多様な領域を横断し複雑な意味を内包するようなタイプの作品の読解は、いつまでたっても遅々として進まないということになる……それこそ、『フランケンシュタイン』という小説の読解・評価が遅れ続けてきたように。


 さて、常日頃からそんなことを考え、ジャンル・フィクションを読解する批評・評論・研究の類にはたいていの場合呆れかえるようなことがほとんどであったので、この『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想』という研究書に投下されたとてつもない労力と、その労力によって押し広げられることになった『フランケンシュタイン』の前提となるバックグラウンドのとてつもない広がりとには、大きく驚かされることになったのであった。
 この書物において田中が論旨の前提とするのは、『フランケンシュタイン』の読解において「エソテリシズム」の問題を押さえておくことの重要性である。近年の欧米において急速にその研究が進展しているというエソテリシズムとは、従来の哲学史・思想史には正統なものとして組み込まれることのなかった、ネオプラトニズムの影響下にあるヘルメス主義、錬金術、カバラ、神智学――などの、しばしばオカルトと見なされてきた魔術的な思考である(近年では、このあたりの潮流の再検討が進んだ結果、例えばルネサンスの時期の思想史的な位置づけなんかにしても、大幅に書き換えられつつあるようだ)。
 近代化するヨーロッパにおいては異端となるしかないエソテリシズムは、近代的な啓蒙主義の合理化・理性化、あるいは科学的精神の発達による数値化・軽量化のごとき潮流に反発するロマン主義に引き継がれ、大きな影響を与えることになった。そして、イギリスのロマン主義を代表するP・B・シェリーやバイロンに囲まれるその渦中においてメアリ・シェリーが執筆することになった『フランケンシュタイン』には、その極めて複雑にして多様なバックグラウンドが大きく反映されることにもなった。
 『フランケンシュタイン』の主人公、生命の秘密を科学的に解明し人造人間を創造するヴィクター・フランケンシュタインは、もちろん、熱心な科学の徒であったがためにその道を選んだ。……しかし、ヴィクターが科学の道を選んだそもそものきっかけとしては、アグリッパやパラケルススなどの中世の書物に熱中したという体験があった。ヴィクターが教えを受けた同時代の科学者たちは、それをくだらない過去の遺物として一顧だにしない者もいれば、一定の評価を与える者もいたことが、『フランケンシュタイン』の作中にははっきりと書き込まれている。
 田中は、ヴィクターの知的遍歴においてエソテリシズムが明確な影響を与えていることを確認した上で、ヴィクター個人の内部に、エソテリシズムへの支持とそれへの反発、中世の魔術と近代の科学、そして啓蒙主義とロマン主義とが、複雑に絡み合いながら共存していることを明らかにしてみせるのである。


 ……というわけで、この『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想』という書物は、『フランケンシュタイン』という小説の思想史的背景を解きほぐすという点では傑出した仕事である……のだが、その一方で、文学作品のテクストを分析するという点に関しては、課題が残るとも言わざるをえないのだ。
 一言で言うならば、この書物は、作品のテクストに反映されているそのバックグラウンドの元の文脈を解明し、その成立の歴史的経緯を明らかにする点で精密な分析がなされている一方で、その分析を前提とした上でそれを作品の方に送り返し、作品を構成するテクストそのものの表層で実際に何が起きているのかを分析する点にかけては弱いように思えるのだ。
 具体的に見てみよう。『フランケンシュタイン』において、生命の本質を科学的に解明し、人工の怪物を創造するに至った時のヴィクターは、その実、テクストにおいては、その発見の具体的内容が書かれてはいない。そのことに関して、「第二章 生命と創造」における田中は、次のように書く。

この発見の詳しい経過と内容は、マリオ・プラーツが指摘するように、メアリー・シェリーは具体的に描いていない。ヴィクターは、「ほとんど超自然的な熱狂に燃え」、「願望の頂点に突然、達し」、「死者とともに葬られたアラビア人のように、かすかにきらめく光、一見役に立ちそうにない一条の光だけに導かれて、生命へと通じる道を発見したのである」。むしろここで語られているのは、繰り返して述べられる「一条の光」にあらわされているように、一種の啓示による知解、神秘主義的な体験であると考えられる。(『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想』、p84)

 近代科学の追求の果てに生命の本質を解明したとされるヴィクター・フランケンシュタインの発見の内容は具体的に描かれておらずその描写は空白のままである、ゆえに田中は、ここにおいて実質的に語られているのは実は近代科学の問題ではなく、「神秘主義」の啓示であるのだとする。……しかし、である。科学的描写が空白であること、また神秘主義体験を想起させる言葉が書き込まれていることだけをもって、作品の該当箇所が示しているのが近代科学「ではなく」神秘主義であるとする解釈を確定することができるだろうか。
 もちろん、できない。だからこそ、田中自身、先の引用部分でも「考えられる」という推測の形でしか記述することができていないわけだ。『フランケンシュタイン』という小説のある部分において、表面的には科学について記述されていながらもその実質を表す描写に欠き、神秘主義を象徴的に想起させる記述が代わりに埋める――ここまでが特定されたとしても、表面上の読解で出てくる近代科学の問題が完全に否定され退けられたことにはならないはずなのである。ところが、田中の記述は、ひとまず推測の形で科学を退け神秘主義の文脈で解釈すると、仮説の段階に過ぎないはずの解釈をそのまま採用した線に沿ってテクストのその他の部分の読解をも進めていくことになる。
 だからこそ、この書物のその他の部分においても、これに類似する記述が出てくることにもなるわけだ。例えば、『フランケンシュタイン』におけるゴシック・ロマンスからの影響を分析する部分では、ヴィクターが地下納骨堂や死体安置所での調査に従事する場面において「テキストの強調は、科学よりも、そのゴシック性に置かれている」(p218)と指摘した上で、次のように述べられる。

この独房は錬金術師の作業部屋を連想させ、また冒涜の雰囲気に満ちている。メアリー・シェリーは、キリスト教の文脈において涜神であるとみなされた行為を、さらにゴシック的な恐怖の情景のなかに描きだそうとした点で、作品が読者に与える衝撃の強さを十分意識していたであろうと推測できる。
 これら三つの忌わしく恐ろしい描写は、G・ラックも指摘するように、ルーカーヌスの叙事詩『内乱――パルサリア』におけるネクロマンシーの場面との共通性を感じさせる。(同、p219)


 科学的調査に従事するための場所が実質的に「錬金術師の作業部屋」を「連想」させるのはあくまでも「推測」であるし、ネクロマンシーとの「共通性」にしても「感じさせる」ものでしかない。テクストが前提とする文脈を念入りに明らかにする作業に大変な労力が割かれているのは確かなのだが、テクストそのものとの比較・分析が「連想」「共通性」の域にとどまっている時点では、いまだテクストの内在的分析にまでは到達しえていないわけだ。


 そして、以上のような分析の不十分さは、実際問題として、田中の論旨において一部混乱をもたらしているようにも思えるのである。田中は、「第三章 科学と魔術」において、ヴィクターがルネサンスの自然哲学に影響を受けているゆえに、近代の産物たる科学に対して複雑な態度を取らざるをえないことに関して、次のように記述しているのだ。

 そこで、このことを念頭に置いて作品を入念に読んでみると、次のことがわかる。つまり、メアリー・シェリーが、ヴィクターの運命を決した「守護霊」としての「自然哲学」について高らかに語りはじめるとき、「自然哲学」の一部門としての錬金術や自然魔術への耽溺を告白するとき、「自然哲学」はアグリッパやパラケルススらのルネサンス期の自然哲学を指している。そしてすでに見たように、このときの「自然哲学」は、ヴィクターの崇高な夢であり、彼を鼓舞して生命創造に向かわせる推進力であった。しかし、インゴルシュタットで自然哲学を学び始めてのち、「現代の」という限定詞をつけた「自然哲学」は、往々にしてヴィクターの嫌悪の対象として示される。そのときの「自然哲学」は科学革命以降の自然哲学を指していると考えられるだろう。つまるところ、ヴィクターは本質的にロマン主義気質をそなえたアグリッパ的自然哲学者であるにもかかわらず、科学革命以降の自然哲学の洗礼を受けて以降、教授に反発を感じながらも近代科学の奔流に呑みこまれ、最終的にみずからの創造の出来映えに打ちのめされ、同時代の自然哲学に対して激しい嫌悪を抱いたのであった。(同、p125~126、ルビは省略)

 ……なるほど、この部分だけを見れば、田中の記述には特に問題がないように見える。……しかし、第二章における田中自身の論旨と照らし合わせてみればどうだろうか。
 ルネサンス的な自然哲学の徒として近代科学に反発するヴィクターが、自らが近代科学に荷担して生み出した人工の生命を嫌悪する、と田中は述べる……しかし、第二章における田中は、ヴィクターによる人工の生命の創造は、近代科学ではなく神秘主義の発現として解釈することを採用していたのではなかったか。
 『フランケンシュタイン』のテクストが、怪物を近代科学の産物ではなく神秘主義の産物として提示しているのであれば、自然哲学の徒としてのヴィクターが怪物を嫌悪する理由は存在しない。……逆に言えば、ヴィクターの科学への嫌悪がそのまま怪物への嫌悪につながっているのであれば、ヴィクターによる生命の秘密の解明から「科学」という契機を排除して解釈してしまうことに問題があったということだ。
 ヴィクターによる生命の秘密の解明は、科学の衣をまといながらも具体的な描写を欠く。しかし、そのことは、「科学ではなく、実は神秘主義を示している」という、単純な解釈によってテクストの意味を確定できることを意味しない。……むしろ、ここで表されているのは、「科学について書かれているにもかかわらず具体的な記述を欠くため、同時に神秘主義の文脈で解釈することも可能になる」という、テクストの多義性なのだ。言い換えれば、神秘主義の文脈をテクストの解釈に持ち込むことは、テクストの表面上の文脈を排除することにはならず、そもそも一義的な意味の確定が不可能なテクストの多義性を明らかにすることであるはずなのだ。


 そして、実のところ、他ならぬ田中自身が、『フランケンシュタイン』という作品にそのような解釈の多義性が内包されることを自ら述べているのである。田中は、この小説の結末部分について、次のように述べる。

典型的なゴシック小説の結末であれば、教訓あるいは謎の解明がなされるが、本作品は、それらが行なわれない点で、ゴシック小説の規範から外れており、むしろ、現代性を喚起する「開かれた」結末となっている。なぜなら、解釈は読者に委ねられているからである。ロラン・バルトは、「省略法を受け入れるやりかたで書くと、書かれることは予測のできない効果を生みだして、エクリチュールの行為そのものを越えてゆくような効果をもつようになる」、「すなわち、書かれたこと自体が生みだした効果によって、書かれたことが越えられる」のであると述べている。メアリー・シェリーが書いた結末は「自己を超越する」効果を生みだしているのである。
 最後にウォルトンの見守るなか、ダイモンは氷と火の世界に向かって跳躍する。ダイモンの跳び去る姿は「無限の自由によって輝き、不確かで可能的な多数の関連に向かって光を放射する態勢を整える」。『フランケンシュタイン』におけるエンディングは、省略法を用いたその結末の崇高なスタイルによる「意味の不在」あるいは「意味からの解放」ともいうことができ、ここにエクリチュールをめぐる現代の問題に通じるものがある。(同、p276)


 ……だが、『フランケンシュタイン』という小説において、「省略法」が用いられ「意味の不在」や「意味からの解放」が実現され、「エクリチュールをめぐる現代の問題」が開示されたのは、その結末部分においてだけだったのだろうか。
 そうではあるまい。科学による生命の秘密の解明が宣言されながらもその具体的記述を欠き、神秘主義の文脈でも解釈できてしまうようなテクストが書かれたとき、やはりそこにも「省略法」は存在していたのだ。『フランケンシュタイン』は結末部分においてだけ多義性が開示しているのではなく、作品全体のそこかしこにそのような部分をはらむ……まさにそのことこそが、極めて複雑にして読解困難なテクストを形成しているはずなのだ。結果として、ある特定の部分の解釈を「AではなくB」と一義的に確定してしまったことにより、作品の全体に渡って詳細な解釈を試みた田中の論旨においては相互に矛盾する内容もまた出てきてしまったのだと思われる。
 そして、そのようなテクストの一義性と多義性の対立自体が、広くヨーロッパのエソテリシズムを巡る歴史的な状況においても、一つの重要な問題であるようにも思えるのだ。……例えば、田中は、メアリ・シェリーが『フランケンシュタイン』のテクストを改訂した一八三一年版において書き加えた一節について、次のように述べている。

一八一八年版にはなく、一八三一年版で加筆されたこの節は、メアリー・シェリーが、アイロニカルな語り口調でアグリッパの著作について語っていることが窺い知れる。なぜなら、科学革命によって「論破されてしまった」アグリッパの体系『隠秘哲学について』は、じっさい「相矛盾する理論」と「雑多な知識の泥沼」と言いうるほどの、膨大な博物学的知識とさまざまな理論にあふれた書であった。
 アグリッパの『隠秘哲学について』は、魔術大全の書として目論まれたものの、じっさいにはさまざまな権威的意見の集大成となり、統一的秩序を欠き、一貫した理論を見失ってしまっているといえる。しかし、アグリッパがみずからに課した仕事は、理性を行使して新しい学を構築することにあるのではなかった。かつて魔術は高度な叡智であり、彼の仕事は、そうした古の学の原初的純正さを復元することにあり、秘匿された叡智の源泉のなぞを解明するのに、新プラトン主義やカバラ主義の神話などを借用したのである。
 したがって『隠秘哲学について』は、メアリー・シェリーがほのめかすごとく、大プリニウス、オウィディウス、ウェルギリウス、アプレイウスなどのギリシア・ローマの古典や、ヘルメス文書、フィチーノ、中世ユダヤ・カバラ、ロイヒリン、ピコなどの神秘主義的な文献の引用や暗示、博物誌的知識に満ちた膨大な魔術体系の書なのであった。(同、p111)


 エソテリシズムの流れの内にあるテクストは、「相矛盾する理論」と「雑多な知識の泥沼」と評されるようなものであり、「統一的秩序を欠き、一貫した理論を見失ってしまっている」ようなものである……だからこそ、精密に理論化・体系化され議論の意味が一義的に確定された近代科学によってそのあいまいな部分が論破され、駆逐されることにもなった。
 そのような視点を持つならば、言葉の一義性と多義性の相克という事態そのものこそ、エソテリシズムを巡る軋轢がテクストの表層において引き起こす出来事であるのではなかろうか?
 これは、あくまでも印象の域を出るものではないのだが――『フランケンシュタイン』というテクストの多義性は、まさにそれ自身がアグリッパのテクストの多義性をなぞるものであるのではないか。ただし『フランケンシュタイン』の場合、近代科学を排除してそれ以前に存在したルネサンス的な自然哲学に遡行するのではなく、あくまでも近代科学のあり方を前提とした上で、その背後の歴史的文脈をも考慮に入れると依然としてそこに存在しているものとしてのエソテリシズムをも上書きしたのではないか。近代科学とエソテリシズムの両者を同時に一つのテクストの内に書き込むことによって、近代科学はエソテリシズムから生まれざるをえないものであったのだし、また近代科学が覇権を握った後でさえも完全に駆逐しきることはできず同時に存在してしまっている、そんな多義性を内包する異様な作品が生まれえたのではないか。
 ヴィクター・フランケンシュタインという個人の人格には、単にエソテリシズムが反映しているのでもなければ、単に近代科学が反映しているのでもなければ、単にロマン主義が反映しているのでもない。それら全てが複雑に絡み合い相互に影響を与えあうことによって初めて、ヴィクターの人格が存在している。そのようなことを表現しうるものこそが小説の小説性なのであり、そのような多義性を解きほぐしその内に分け入ることこそが、小説を読解するということなのである。







テクストとしての探偵――ロバート・クーヴァー『ノワール』

 少し前のことなのだが、ロバート・クーヴァーによる短めの長篇小説『ノワール』を邦訳で読んだ。この小説は、ハードボイルドものの探偵小説や、その影響下にあるフィルム・ノワール全般に共通するようなイメージ・定型を踏まえた上で、それをパロディ化するような作品になっている。
 まあ、主人公の名前が「フィリップ・M・ノワール」という点で、既にそれは明らかだ。これはもちろんチャンドラーの創造した探偵であるフィリップ・マーロウを踏まえた上で、「ノワール」というジャンルそのものの名前をそのまま主人公に張り付けているわけだ。そして、「ノワール」とはフランス語で「黒」を意味する言葉であるわけだが、反対の「白」を表す「ブランチ」を探偵の秘書の名前につけ、探偵と関わりのある刑事には「ブルー」とつけ、事件の黒幕とおぼしき裏社会の大物には「ミスター・ビッグ」とつけ――というような具合に、そのまま属性自体を表しているような言葉を、わざわざ記号的に作中に配置していく。
 フィルム・ノワールと呼ばれる作品群は、しばしば無時間的・非歴史的な内容を持っているわけだから、そこからストーリーを抹消し、定型と化したクリシェだけを抽出してくることはたやすい。ということは、起源を失った記号の集積として、記号のみで形成される閉じた空間を迷宮と化す……というようなタイプのポストモダン小説を、その素材となるパーツとして「フィルム・ノワールにありがちな定型」を意匠として当てはめて作品世界を構築するというのも、まあお手軽にできてしまうことではあるわけだ。
 そういう意味では、この『ノワール』にしても、決まりきったルーティンに沿っていれば一丁上がりでできてしまうような、「ありがちのいわゆるポストモダン小説」と同じ範疇にあるものではある――のだけれど、そこはさすがに書いているのがロバート・クーヴァーなだけあって、さらにひとひねりを加えることによって、特定の様式に従っていれば誰でも作れてしまうようなスタイルの範疇からは逸脱する作品になりえているのであった。


 この『ノワール』がポストモダン小説の単にありがちな作品から逸脱しているのは、一言で言えば、その細部の書き込みの充実ぶりによっている。そしてそれは、単に細部が充実しているというだけのことではなく、作品全体の読解に変容を迫るようなものが、そこかしこに書き込まれているということだ。
 具体的に見てみよう。例えば、冒頭近くの段階で、ミチコなる日本人女性に関するエピソードが登場する。ミチコは元々とあるヤクザの情婦であり、そのヤクザが自分自身を誇示するような内容を持つ刺青を入れられていた。ところがあるとき、ミチコは敵対するヤクザに誘拐され、刺青の内容が上書きされ、ミチコの愛人のヤクザが侮辱されるものへと意味が変えられる。これ以降、ミチコの身体は敵対する二つのヤクザの勢力の間を行ったり来たりし、その都度ミチコの全身の刺青は拡大し、遂にはその全身を覆うにまで至る。
 この時点では、ストーリーの本筋とは一見してほとんど無関係にまで見えるにもかかわらずグロテスクに肥大したミチコのエピソードは、次のような経緯をたどることになるのだ。


このように彼女は二人のヤクザの親分のあいだを、一種のメッセージボードとして行ったり来たりさせられ、ついにヤクザたちは互いの技術を称え合うほどになり、彼らの敵対関係は――すべての子分たちの不興を買ったのだが――純粋に芸術的な書簡の応酬となった。彼らはミチコの体を有名な傑作風景画や性愛画からの抜粋で覆いつくし、そこに暗示的な、あるいはあからさまな脅迫や侮辱を常に添えた。黄道十二宮を彼女の適切な場所に焼きつけ、少しでも空白があれば四世紀に及ぶヤクザの歴史を書き記し、彼女の足の裏、唇や頭皮、目蓋や脇の下までも埋め尽くした。あまりに夢中になっていたので、このまま続けば彼女の内蔵にも刺青を入れ始めたかもしれない。ところがちょうどその頃、親分の片腕たちがミチコの体を街の近代美術館で展示しようともくろんだ。そして、親分たちがまさに和解しようとしたとき、刺青の針を耳に撃ち込んで二人を始末したのである。ミチコは結局、頭から爪先まで何重にも刺青を入れられる結果となった。エキゾチックな落書きのうえにまた落書きが描かれ、ヤクザの公式の歴史書のようでも俗語辞典のようでもあり、画廊のようでもあった。これは、彼女の所有権を主張する近代美術館との契約が終わってからあとの、彼女のキャリアに役立った。彼女は図書館に一時間展示されるだけで百ドルの価値をもつようになったのである。その刺青も今はみな色褪せてしまった。輪郭がぼやけ、明晰さがなくなり、さまざまな色が混じっている。皺が絵や文の連続性を絶ち、詳細を曖昧にした。すべての歴史と同じ運命をたどっているのだ――歴史は崩れていく記憶にすぎないのだから。時の流れとともに変わらないものはない。悲しいことだ。彼女の体のどこかに書かれた俳句が、まさにそのことを詠っている。(『ノワール』、上岡伸雄訳、p23~24)


 一人の人間でありながら、際限なく書き加えられ書き換えられ時には抹消されさえする、その全体の意味を確定し難いテクストそのものになってしまっている――そして、そのようなテクストとしての身体は、たびたび交換されることによってコミュニケーションの媒体としての機能を担わされ、やがて媒体としてのテクストそのものに価値が見出された結果、商品としての機能さえ持つことになる。
 これだけでも、非常に充実した細部である。……だが、上の引用部が本当に興味深いものになっているのは、その最後の部分にさりげなく書き込まれたことがあるからだ。ミチコの身体がたどることになった数奇な運命を叙述したその果てに、この小説の話者は、「時の流れとともに変わらないものはない。悲しいことだ」という詠嘆を語り、小説の地の文の審級で自らの主観を読者に語りかけてみせる――ように思えたのが、実は、それはミチコの身体に俳句として書き込まれた言葉の内容をそのまま引用していたのにすぎなかったのである。
 もちろん、クーヴァーによる原文は英語で書かれたものであり、日本人ヤクザによる俳句自体は、おそらくは日本語で書かれている。その意味では、ここでの話者は直接的に言葉を引用しているわけではなく、「翻訳」の機能を担うことによって、かなり特殊な形ではあるが、実質的に自由間接話法を用いていることになるのだが、ここではその問題はひとまず措いておこう(内容が等価なものであっても話者による変形が引用文全体に加えられている以上、これは間接話法であると考えることもできそうだから、かなり微妙な問題だ)。というのも、この部分で非常に重要なのは、「作中の世界で物理的に存在している言葉」と「読者が、自分の属する現実世界の存在として接している言葉」とが、全く同等のものとされてしまっていることであるからだ。
 小説を読むとき、ふつう読者は、作中世界に存在しその一部を構成するものとしての言葉と、現実世界に存在する作品そのものの本体である地の文とは区別する。しかし、クーヴァーはそのような区別を突き崩し、言葉が存在している審級の階層差を無化してしまっているわけだ。
 そのようなことは、『ノワール』の他の部分を見ることでも確認できる。例えば、探偵に依頼人として訪れた謎の女性は、自身の過去について語る中で、次のように述べる部分がある。


 まだほんの子供だった頃のことよ、フィル。私はある男の庇護を受けることになったの。トラブルを招く男だっていうのはわかっていた。体中にbad boyって書いてあるのよ――これは、文字どおりの意味なの。両方の乳首のまわりとか、臍のまわりとかに書いてあって、目の窪みみたいに見えたわ。(同、p86)


 「体中にbad boyって書いてある」という言葉を聞けば、ふつう聞く側はそれを比喩表現として受け取り、ある人物が悪童であることをやや婉曲的に示しているのだと解釈するだろう。しかしここではそれは、「文字どおり」、身体に「bad boy」という言葉が書き込まれていることを意味する。……ここで明らかにされていることは、比喩表現が担う機能は、実際のところ、その表現を受容する側の解釈に依るところが大きい、ということであろう。
 例えば隠喩であれば、「AはBである」と述べることによって、二つの異なる対象を類比によって結びつけ、何らかの新たなイメージ・新たな解釈・新たな世界観を創造する。「あの人は虎である」と言えば、ある人物が虎のように怖ろしく猛々しい様子をしているイメージが形成される。……しかし、これは改めて考えれば、そのようなイメージを形成する受容者の側が、「あの人」の存在する現実と「虎」の存在する現実とをひとまず異なる水準に存在しているものとしてとらえた上で、別物としてのイメージを重ね合わせているという事態が起きているからだ。
 そして、クーヴァーがやっているのは、このような構図を根本から転倒することなのである。というのも、文学作品において隠喩を用い二つの異なるイメージを結びつけようとしたところで、実際に作中に存在しているものはと言えば、例える項も例えられる項も等しく言葉であるからだ。文学作品の実体とは言葉そのものでしかなく、その「言葉そのもの」の水準だけを見るならば、階層の差異などというものは存在しない。そこからはみ出る過剰な部分、言語が指し示すイメージは、実は表現の受容者の方こそが自ら創造しているものであるのにすぎない。文学作品の内実としては、ただ単に言葉が一直線に並んでいるという以上のことはない。「深層」は、読者の頭の中にしか存在しないのだ。


 そういう意味では、ミチコの身体が刺青に覆われ尽くしたエピソードを、この『ノワール』という作品そのものの全体像を示す「象徴」としてとらえてしまうのは、おそらく間違っている。統一された全体像を明確に指し示し体現する象徴化の機能を特定の部分が担っているのではなく、作品のどこをとっても偏在している特徴が、ある特定の部位でたまたま露出して読み取りやすいものになっているような事態が、この作品では起きているのだ(つまり、この作品の内部に存在しているのは、symbolではなくsymptomである……と、言えばいいのだろうか)。
 だから、『ノワール』という作品の舞台となる都市は、それ自体が「文字どおり」の意味でテクストなのである、比喩ではなく。ミチコの身体を覆い尽くした刺青が時に上書きされ時に抹消されたのと同じく、フィリップ・M・ノワールが最初に遭遇した事件のその痕跡、殺人事件の現場の地面に死体の跡を示すために書き込まれたチョークの輪郭は、たびたび抹消され書き換えられることになる。
 だからこそ、探偵が都市の中を移動することは、次のように書かれることにもなる。


君は身を屈めながら路地を走り、その行き止まりで、煉瓦作りの塀をよじ登る。塀を乗り越え、誰かの家の裏庭に着地する。ブラインドを降ろした窓に、服を脱いでいる一人の女の影が映っている。あのブラインドの向こう側には別の物語がある。おそらく君がいま巻き込まれているのよりもましな物語。君がここで一息ついて、ちょっとした魅力のあるゴシップ記事として読みたいと思うような代物だ。しかし、君はまず窓の灯りでミチコに手渡されたメモを読む。(同、p24~25)


 都市そのものがテクストである、ゆえに、その内部を移動する探偵は、それぞれがそれぞれに共存している多種多様な物語に接している。そして、「読む者」としての探偵が、焦点を当てられるべき物語が何者であるのかを指定することによって、作品の内部で優先されるべき物語が特定されることにもなる。
 そのような意味で、「探偵」が作品の内部で果たす役割は、「読者」のそれと重なることになる。主人公である探偵が「君」という二人称で記述されることによって、「探偵」と「読者」が重ね合わされることは、さらに強調されてもいる。……しかし、そのような構図自体は、当然のことながらほとんど全ての探偵小説について言えるようなことでしかない。むしろ、『ノワール』という小説の焦点は、「探偵」=「読者」という構図をいったん採用しながら、その構図を突き崩していくことにある。
 まずは、「都市そのものがテクストである」ということは、都市内に物語が無数に蠢いていることと等価ではない……そのことが明らかになる。都市そのものが無数に存在し相互に書き換えあう言語の集合体だとしても、物語が存在することが自明であるわけではない。物語は、言語に接してそこから何かを読みとる者の方こそが能動的に創造してしまうものだ。……だから、例えば、次のように語る、物乞いの老人がいる。


ある日、わしはあそこのビルから人が飛び降りるのを見た。それからわしはまたそれを見た――あそこのビルから人が飛び降りた。だが、わしにはわからん。わしは二人の人間が飛び降りるのを見たのだろうか、それとも一人が飛び降りるのを見て、それからわしの脳がそのことについて考え、二人の違う人物を作り出したのだろうか? 次にそれについて考えたとき、わしはまた別の人間が飛び降りるのを見た。あるいは、別の人間が飛び降りるのを見て、それがほかの二人のことを考えさせた。脳ってのはおかしなもんじゃないか? で、どう思う? わしは三人の人間が飛び降りるのを見たのか? それとも、飛び降りるのは一人しか見ていないが、わしの脳が思い出すことで、三人見たような気になっているのか?(同、p56)


 あるいは、禁酒を貫き通す男が、自分が酒を断つことになったきっかけとなった過去の出来事を語る中で、次のように述べる。


もちろん、ほとんどの場合、私はへべれけになってもいましたから、何が現実で何がそうでないかもわかっていませんでした。ただ、ある意味では、すべて現実だったんです。だって、すべてを想像しているだけだったとしても、それは現実だったのですから。少なくとも、私の心のなかでは現実でした。(同、p193)


 さらには、信用できない語り手の群れに苛立つ探偵に対して、依頼者の女性が次のように語る。


物語をでっち上げて、そのなかにギャップがあるとね、ミスター・ノワール、みんながしゃしゃり出て、ギャップを埋めようとするのよ。そうせずにいられないの。(同、p225)


 ……都市そのものがテクストである、だから、テクストを読み取る者の方こそが、テクストの集積から物語を生み出してしまう。……しかし、既にミチコのエピソードが明らかにしていたように、都市の内部に生きる住民そのものもまた、「文字どおり」の意味で書かれた言葉であることによって、都市の一部をなしているわけだ。
 文学作品は言葉で書かれているからこそ、その内部に登場するあらゆる要素は、書かれた言葉である。だから、都市は言葉の集積であるのと同時に、その内部において都市を読み取る無数の住民もまた書かれた言葉であるのであり、無数の主体が相互に読み取り合い書き換え合い行間を創造して妄想としての物語をでっち上げ合うことによって、作品そのものが、まさに織り成されることになる。
 そして、そのような『ノワール』の作品世界のあり方は、主人公である「探偵」にすら当てはまる。ここにあるのは、あまりにも身も蓋もない事実だ……探偵小説における「探偵」は、しばしば「読者」の立場と重なり合うのと同時に、書かれた言葉でもあるわけだ。
 だからこそ、意識を失った探偵は次のような状態に陥ることにもなる。


君の精神を守っていた外殻が破壊され、精神が痛めつけられて、考えることなどできない。それよりも、苦痛と都市に関する、映像のない夢を見ているようだった。映像のほとんどない夢。君は古い映写機のなかを引きずられている。そして、犯罪のはびこる迷路のような君の腸が、どこかに映し出されている。君の送り穴がどこかで引っかかり、裂けていく。君の頭は機械のなかで動けなくなる。映像が消える。(同、p45~46、ルビは省略)


 テクストの集積としての都市から様々な物語を読み取る「読者」としての探偵は、同時に、自身もまた「送り穴(スプロケット・ホール)」を持ち映写機にかけられる、映画のフィルムである。フィリップ・M・ノワールもまた、映画のフィルムという、それ自身が読み取られるもの、テクストである――その一方で、映像が消える時点があることが明言されるのと同時に、それは「映像のない夢」であるとも表現されている。……これはもちろん、「なんらかの映像が存在する」という出来事自体が、映像なしに言葉のみで書かれているからだ。
 探偵の腸の内部が「犯罪のはびこる迷路」として表現されることが、この作品のスタイルをさらに決定づけてもいる。テクストとしての作中世界は全てが言語の集積であるがゆえに階層の区別などというものは無化されているからこそ、都市は探偵の身体の外部にあるのと同時に、その内部にあるとも言えるということだ。
 もともと、ハードボイルド小説とは、探偵が事件を超越的に俯瞰する立場にいるという従来の探偵小説の構図を突き崩し、探偵もまた事件の渦中に巻き込まれずにはいないようなタイプの小説として成立した。そういう意味では、クーヴァーは、そんな探偵のあり方をさらに過激に押し進めているのである――探偵は、犯人ともその他の人物とも周囲の都市全体とも同じく、書かれた言葉という意味では全て等しく、同じ水準にある。


 ……さて、以上のように『ノワール』という作品を読んだ私は、そこで展開されていることを非常に高く評価する一方で、ある種の物足りなさを感じてしまったことも事実なのである。この小説は、「現代において文学に何ができるか、もしくは何をなすべきか」ということに関してほとんど模範解答を与えているような作品でもあるし、技術的にはほとんど非の打ち所がないと言ってもいいのだが……しかし、「いやいや、そりゃあロバート・クーヴァーだったら、これくらい余裕でできるだろ~!」などとも思えてしまうのだった。
 既に述べたように、この『ノワール』という作品は、「テクストそのものが既存の記号の集積のみで構成されている」というようなポストモダン文学にありがちなスタイルを踏襲した上で、そこからさらにひとひねりを加えて言語そのものの水準の原理的な検討・分析にまで到達している。……のではあるが、例えばクーヴァー自身の『ユニヴァーサル野球協会』のような小説においては、野球ゲームの閉じたルールの内部の法則のみで作品世界全体が構築されてしまうような事態が示されたその後で、そんな記号的世界が存在しているそもそもの起源としての、閉じたテクストの世界の外部にあるアメリカの現実なり、そのアメリカの内部にあるユダヤ文化の問題……といったところにまで到達していたのであった。それが『ノワール』においては、フィルム・ノワールのクリシェは作品にある種の意匠を与えるだけで、それ以上にまで掘り下げられることはなされていないのだ。
 ……まあ、そうは言っても、もちろん『ノワール』と『ユニヴァーサル野球協会』では、作品の分量自体がかなり異なる。私は『ノワール』のことを「短めの長篇」と書いたが、これはむしろ「長めの中篇」と表現するべきであるのかもしれない。そして、これが中篇であるのだとすれば、確かに、長篇がはらむ過剰性をカットした、中篇としては過不足ない形式に収まった作品であるのだとも言える。
 そういう意味では、ポストモダン文学のありがちなスタイルを洗練させた上で、短篇においても中篇においても長篇においても、それぞれ異なる形式の内で異なるタイプの技術を使い分けてみせるクーヴァーの技量はとんでもない水準にあるのだが……それでもなお、釈然としない気持ちが残ってしまうのであった。こういうことができてしまうような作家は、ほんとは、長篇だけ書いていればいいと思うのよねえ。
 とは言え、『ノワール』という作品が非常に高度な文学的達成であること自体は、疑いようもない。そして、それが高度であるがゆえに、ここで何がなされているのかをある程度でも嗅ぎつけられるような読み手が限られてくることもまた、確かであろう。
 全身が刺青で覆い尽くされたミチコの身体を前にした敵対する二人のヤクザの振る舞いは、言ってみれば、「鈍感な読者」の姿と重なるものであるだろう。書く者は一方的に書かれる者を支配する、あるいは、読む者は読まれる者を一方的に支配する。二人のヤクザは、この静的な構図を微塵も疑っていなかった。……それと同様に、話者によって「君」と呼びかけられることで読者と重なる立場を持つ「探偵」がそれ自体言葉でしかないことに鈍感である者、あるいは、読み手としての自分が読まれるものの側から撃ち抜かれるという経験におよそ無縁である者。そのような人々は、高度な文学作品のテクストの表層において何が起きているのかなどということは、およそ理解できるはずもないのである。









小説における「会話」の問題について

 昨年末に書いたエントリで、由良君美の『メタフィクションと脱構築』を読みつつ、そこでメタフィクションの観点からすると共通点を持つ『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』にも、根本的に異なる部分があると書いたのだった(……と、いうような話を受けてその続きとなるのがこのエントリであるのだが、前回書いたことをそのまま引き継いでいるような部分はあまりないので、実質的には独立したエントリになっている)。
 さて、ともに高度なメタフィクションである『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』は、いざ一読してみれば小説としての性質はまるで異なる……では、いったい何が異なるというのだろうか。
 私の考えでは、両作において決定的に異なるのは、作中における「会話」のあり方である。一言で言えば、『ドン・キホーテ』という小説は、異なる価値観・異なる世界観を持つ人々が長大な会話を繰り広げ互いの立場を時に争わせ時にすりあわせる、その長大なプロセスこそが作品の大部分を占めている。一方で、『トリストラム・シャンディ』においては、そのような意味での「会話」は作中に存在していない。
 とはいえ、もちろん、『トリストラム・シャンディ』という小説が会話を含まないというわけではない。登場人物は確かに会話する、しかしそれは、本質的に単一の独白が分岐し変奏されて複雑化されたものにすぎない。……『トリストラム・シャンディ』という小説の話者とされているトリストラム・シャンディは、自叙伝の筆者という名目で、読者に向かって途方もなく饒舌な語りを展開する。そして、その語りの中に現れる登場人物の中でも特に多くの分量を占めるのは、トリストラムの近親者たちであり、言ってみれば、トリストラムの分身ばかりなのである。つまり、トリストラムという奇妙な語り手が異なる価値観の持ち主との間で会話をするのではなく、無数のトリストラムの分身たちが一つの語りを分裂させる、そのような意味で入り組み多重化された語りこそが作品を形成しているのである。
 ……以上のように、『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』の両作における「会話」の機能および意味は、それぞれが全く異なるものとなっている。にもかかわらず、なぜ由良君美はこの両者を「メタフィクション」という観点のみから見て、その共通性にしか言及しなかったのだろうか?


 哲学史の教科書・概説書の類を読んでいると、しばしば見かける決まり文句がある。それは例えば、プラトンの対話篇やニーチェの『ツァラトゥストラ』に関して述べられるもので、「この書物は哲学史上において重要であるのみならず、文学的価値をも備える」というものだ。
 なるほど、そのような決まり文句自体には、特におかしいこともないように思える――プラトンやニーチェのその種の著作に文学的価値が認められるのは、これらの書物の大部分が会話によって占められているからであろう。そして、既に述べたセルバンテスの『ドン・キホーテ』、さらにはマーク・トゥウェインの『ハックルベリ・フィン』やドストエフスキーの五大長篇などについても、そこで展開されている長大な会話を読み進めることの面白さこそが、文学史上においてそれらの作品が確固たる地位を築いていることの大きな理由になっているだろう。
 しかし、ならばなぜ「会話」には文学的価値があるのか、そして、いかにして「会話」の価値の善し悪しを判定できるのか……というと、そもそもその分析を可能にするような装置は、既存の文学理論には存在していないのである。
 小説における「会話」には確かに文学的価値があると言わざるをえない、しかし、ではどのような場合にどのような価値があるのかを理論的な分析の俎上に乗せ、精密に分析することはできない――というのが、既存の文学研究の現状であるということになってしまうだろう。……だからこそ、『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』をメタフィクションの観点から見たときにその共通性を強調した由良君美が、両者の根本的な相違には言及することさえないようなことも起きたと私は思うのだ。


 二十世紀に発展した文学理論の主たる方向性は、文学作品を「作者」から「読者」へと伝達される媒介としてとらえた上で、そこに生じる単線的なコミュニケーションの内実を精密に理論化するものであったのだと言える(……もちろん、より正確に言うならば、作品にとって外部の存在である現実の「作者」を素朴に措定することを否定したり、「作者」ではなく「話者」の機能にこそ着目したり、「話者」の範疇に収まらない審級の分析を可能にするために「内包された作者」の概念が提出されたり――というような様々な立場があったわけだが、いずれの場合も、作品を発する側と受容する側の間に成立する単線的なコミュニケーションが前提されていることについては共通している)。
 しかし、小説として書かれたどんなタイプの作品を取り上げてみたところで、コミュニケーションは作者と読者の間に単線的にしか存在していないなどということはありえない(……とりあえずこの際、一般論の話をしているので、ベケットの後期作品のような極めて特殊な例外は除外して考える)。作中で登場人物が会話をしている限り、「作者ー読者」の一直線のみならず、複数の方向性を持つ複数のコミュニケーションが成立し、複雑に交錯し、作中に何らかの社会性をもたらしているはずである。……言ってみれば、作品が作者から読者へ向かう一本の巨大な線として垂直に存在しているならば、その線と交錯する水平な線もまた何本も同時に存在しているはずなのである。
 しかし……例えばナラトロジーにおいて典型的に見られるように、従来の文学理論は、文学作品をあくまでも作者から読者への伝達の経路としてのみとらえており、作品の内部において作者とも読者とも直接的な関係のない第三者同士のコミュニケーションが成立していることにはあまり焦点が当たらない。まさにそれこそが、小説における「会話」の価値を判定する理論が構築されないことの理由であるように思える。
 もちろん、これは、文学作品の分析に社会性が欠落しているという意味では全くない。作品が置かれた文脈、作品の外部の社会状況との相関関係の検討は、フェミニズムなりポストコロニアリズムなりの知見の文学研究への流入に伴い、急速に進展することになった。しかし、それは作品が総体として置かれた文脈の分析のための議論である以上、作品そのものの内部における複線的なコミュニケーションの有り様を、ナラトロジーが作品のナラティヴの検討でなしているような精密な水準で可能にするものではない。……言い換えれば、文学研究において、作品が存在する文脈を前提とした検討と、作品そのものの美学的構造を解析する形態面での検討とは乖離しており、作品内部でのコミュニケーションの有様を分析する装置が存在していないのだ。
 とはいえ、以上のような大ざっぱな総括には、あまりにも巨大な例外が存在する。……言うまでもないだろうが、ミハイル・バフチンのポリフォニー論、そこで提起された「ダイアローグ」の概念である。
 バフチンの著作の中でも特に影響力の強いドストエフスキー論は、ドストエフスキーの小説の内部に見られるポリフォニー性を重要な問題として取り上げている。ドストエフスキーの小説においては、作者の考えがそのまま登場人物の言葉に反映されているモノローグではなく、異なる立場の登場人物がそれぞれに首尾一貫した考えの元にそれぞれの言葉をぶつけあうという意味でのダイアローグが展開されている。したがって、ドストエフスキーの小説にはそれぞれに異なる体系が複数共存しており、作者自身の思想の元に一元化されることがない。
 そして、バフチンのそのような「ポリフォニー」の考えは、そのまま、バフチンによる文学のジャンル論と対応しているものでもあるだろう。古典的な意味での詩とは、自律した言葉を磨き上げて組み合わせることによって、独立した単一のシステムを作り上げることを志向するものだ。それは、作品として完璧に近づけば近づくほど、閉じた圏域を構築することになる。……一方、小説とは、社会の中に流通する様々なあり方をする言葉を寄せ集めてできるものであるゆえに、そもそも閉じたシステムを構築すること自体が不可能である。
 そういう意味では、バフチンが論じている「小説」の問題は、そもそもナラトロジーの問題系とは、見据えている水準そのものが異なる地点にあるのだ。バフチンは、「作者-作品-読者」の閉じた単一システムが形成不可能なジャンルとしてこそ「小説」をとらえている――一方で、ナラトロジーにおけるたいていの論者は、近代小説が成立したそのあとの時点において、その内部における小説の機能を分析することにしか興味がないように見える。例えば、ここなんかを読んでいても、バフチンのダイアローグ性に関する議論は、ナラトロジーの体系とはうまく整合性が取れないことが、ごくあっさりと書かれてしまってているのであった……。こういう部分で理論の接合がうまくいかないのは、バフチンが見据えているスパンよりも遙かに狭い範囲内のことにしかナラトロジーが目を向けていないということでしかないだろう(……とはいえ、私自身はこのあたりのことについて最新の研究を細かく追っているというわけでもないので、既にそのような議論がなされているというのであれば申し訳ないが)。
 もともと、二十世紀の文学理論における形式化・体系化の志向は、ニュー・クリティシズムによる詩の分析によって先鞭がつけられたものなのであった。おおざっぱに言えば、そのような志向が小説の分析にも伝播することによってナラトロジーなどが成立することにもなったわけだが……しかし、これまで述べてきたようなことをふまえれば、実は文学理論における小説の分析は、詩の分析の影響下からいまだ完全に脱しきってはいないようにすら思える。
 一つの作品が単一の完全なシステムを構築しているのではなく、無数の社会的なネットワークが交わりあい混淆しあう結節点としてあるもの、そのようなジャンルとしてバフチンは小説をとらえる。……そして、まさにこのようなバフチンの姿勢が既存の文学理論のあり方から逸脱し、そこにある齟齬は統合されないままに残されているということにこそ、問題がある。というのも、バフチンはモノローグとは異なるダイアローグの概念を基盤に据えて「小説」のあり方を検討したのだが、それはあくまでも大まかな見取りを提示したものにすぎず、個別の作品に即した各論を細かく展開したわけではなかった。その結果として、バフチンの偉大さが賞賛され称えられ続けているにもかかわらず、その議論を継承しより精密に理論化するようなことは、特になされていないのである。
 例えばドストエフスキー論におけるバフチンは、従来の小説におけるモノローグとは異なるダイアローグは、ドストエフスキーの小説家としてのキャリアを通じて一貫して見られるものだという。もちろんこれは、バフチン独自のドストエフスキー観を確立するために、いくら強調しても強調しすぎるということはなかったのだろう。……しかしこれは、逆に言えば、おしなべてダイアローグ性を有するとされたドストエフスキーの諸作の中で、ダイアローグ性という観点で見た際の質の高低をどのように決定するのかという基準が全く提示されていないということでもある。
 つまりバフチンは、小説の本質を検討する限り、作中の会話においてダイアローグはモノローグより優れていることを明確な形で提示したのだが……これは同時に、価値判断の基準として単純な二分法以上のものではなかったということでもあるのだ。
 『バフチン以後』におけるデヴィッド・ロッジは、このことをはっきりと指摘している。小説の価値を判断するのに「会話」の問題に焦点を当てたバフチンの仕事は重要である、しかし、バフチン自身は小説の「会話」の具体的な分析を綿密に展開したわけでもなかった――そのことを前提とした上で、ロッジは、小説の「会話」の具体的な批評的検討を実践してみせる。
 しかし、ここにもまた問題がある。なるほど、ロッジによる「会話」の分析は、そこで取り上げる作品のていねいな精読に基づいており、なかなかに高度な批評的達成である――しかし、それは自身がそれなりに優秀な実作者でもあるロッジの言わば個人技によって可能になる読解にとどまってもいるのだ。言い換えれば、それはあくまでも個々の作品の場面場面に即した読解なのであって、小説全般における「会話」の価値を判定しうるような理論化は望むべくもないようなものにとどまってもいるのだ。


 ミハイル・バフチンのポリフォニー論は、単一システムの内部にとどまる文学理論にとっての外部を提示した。しかし、バフチン自身は示すのにとどまった外部が具体的にどのようなものであるのかを探索することは引き継がれておらず、未踏の地はそのままに残されてしまっているように思える。……そこで、補助線を引く意味で、バフチンの議論とアナロジーが成立するように思える、他の領域での議論をいくつか参照してみたい。
 例えば、ウィトゲンシュタインのキャリアにおいて言語がどのように使用されていたかを見てみると、そこには、バフチンが意識していたのと同様の問題があるように思える。……よく知られているように、初期のウィトゲンシュタインは、言語によって語りうるものと語りえないものとを峻別し、哲学上の問題は「語りうるもの」についての議論に絞り込んだ上で、厳密に定義された言語による体系として『論理哲学論考』を執筆した。この体系に含まれていないことはそもそも本質的に「語りえないもの」である以上、哲学の問題はこれで全て終わったのだと称したウィトゲンシュタインは、学会から身を退けた。……しかし、のちに「哲学は終わってなどいなかった」と考えを変えたウィトゲンシュタインは、改めて哲学に復帰すると、言語が交換される際に生じるコミュニケーションの問題、「言語ゲーム」と呼ばれる問題に取り組み、『哲学探究』などの著作を残すことになったのだった。
 そのような意味で、初期のウィトゲンシュタインと後期のウィトゲンシュタインは、全く異なる質の言葉を用いて著作を書いている。そして、ここにバフチン的な見方を導入するのであれば、『論理哲学論考』は「詩の言葉」で書かれており、『哲学探究』などは「小説の言葉」で書かれている――と、言うことができると思うのだ。
 ある言葉の意味を厳密に定義づけた上で、その言葉を素材として単一の閉じた体系を完成させる。そのような言葉の使用は、バフチンが古典的な詩が目指すものとして提示したものと等しい。……しかし、ここで興味深いのは、ウィトゲンシュタインが、厳密に定義づけられた言葉による体系の完全性を目指しながらも、それが原理的に完成しえないことを明らかにしている点にある。言葉によって全てが語りうるわけではない、ゆえに、「語りえないものについては沈黙しなければならない」。
 バフチンの議論においては、「詩の言葉」と「小説の言葉」は、単純に、異なるジャンルにおいて異なる性質を持つものと見なされている。一方、ウィトゲンシュタインにとっては、それは単に別の問題として並列できるようなものではなかった。言葉によって作品を構築するという点に注目し、ウィトゲンシュタインが哲学者ではなく文学者であるとしたならば――彼は、完全な言語による完全な詩を構築しようとした果てにその限界に突き当たり、複数のコミュニケーションの結節点としての言語を取り上げるという意味での小説家へと転向した……そんな存在であるのだ。
 バフチンにおいては単に異なるジャンルのことであった「詩の言葉」と「小説の言葉」の差異は、ウィトゲンシュタインにおいては、自身の思考を構成する言葉を練り上げる過程で必然的に横断しなければならない、連続的な問題としてとらえられていたはずだ。
 そして、以上のような問題意識は、ウィトゲンシュタインと比較的近い時期に、まさに小説においても展開されていたのだと私は考える。それこそが、探偵小説におけるエラリー・クイーンの仕事に他ならないのだ。


 小説の内部にジャンル・フィクションがあまたある中でも、ナラトロジーの問題系がほとんど剥き出しの形で作中に現れるような領域は、探偵小説を措いて他にないだろう。それはもちろん、作品を「作者-読者」の単一のコミュニケーションとしてとらえるナラトロジーの論理と、作品の本質そのものが「犯人ー探偵」の間での単一のコミュニケーションとして成立する探偵小説との間に、明確なアナロジーが成立しているからだ。……さらに言えば、例えばアガアサ・クリスティのいくつかの作品に見られるように、「犯人-探偵」の間で展開されるトリックが、ナラトロジーで問題となるような語りの構造そのものの水準で成立することによって、問題自体が同一水準で一致するような場合すら存在する。
 そのような意味では、ジャンル・フィクションとしての特徴によって登場人物のパターンが類型化されているぶん、作品を構成する論理が剥き出しになっているわけだが、そんな中でエラリー・クイーンが取り組んだ問題にウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と類似するようなことすらあることを私が知ったのは、法月綸太郎によるエラリー・クイーン論を読んだからだった。……「初期クイーン論」「一九三二年の傑作群をめぐって」などの評論の中で、法月は、エラリー・クイーンの初期の作家活動に見られる特異な特徴と、そこからの明確な変化が見られる後期の活動との差異を論じている。法月によれば、クイーンの初期の作家活動とは、探偵小説の内部で展開される論理の厳密性をつきつめ、その形式化をなすことにあったのだという。
 通常の小説における「作者-作品-読者」の関係が、探偵小説における「犯人-死体-探偵」の関係と類比されているわけだが、法月によれば、初期のクイーンはこの「犯人-死体-探偵」という回路のコミュニケーションを、それまでの探偵小説の水準をはるかに越える形で形式化し、厳密なものにしたのだという。
 そして、探偵小説を構築する上での厳密な形式化こそが、探偵小説の論理の限界点を逆説的な形で暴き立ててしまうことにもなる。例えば、クイーンの初期の「国名シリーズ」の一作である『ギリシア棺の謎』に、形式化しえない限界点、その破れ目が表れている。『ギリシア棺の謎』において、「犯人-探偵」の回路に、メタ化する作用が導入されている――探偵である(作中人物としての)エラリー・クイーンは、手に入れた証拠を元に、そこからの推理によって必然的にたどりつく事件の真相を解読する。しかし、犯人が名指されたそのあとになって、実はクイーンが手に入れた証拠そのものが、真犯人によって捏造された偽の証拠であったことが明らかになるのだ。
 推理によって真相にたどり着くためには、殺人事件の結果として存在することになった死体の周囲にある証拠を手がかりにしなければならない。しかし、その証拠そのものが偽の証拠であり、真犯人とは異なる者を犯人として示すために捏造されたものであるのならば、探偵が真相にたどり着く道筋は存在しないことになる。真犯人は、探偵が手にしている「証拠」と同一の水準にはおらず、メタ的な立場を確保している。
 そして、このような「真犯人」による「偽の証拠」の提示は、原理的には無限に上昇することが可能である。「偽の証拠」を廃棄して手にした新たな証拠が、やはり「偽の証拠」であり、「真犯人」はそのさらに上の階層に存在している可能性は、常に否定できない。
 だからこそ、エラリー・クイーンの初期の作品においては、「読者への挑戦状」の存在は作品として成立するために必要不可欠だったのだと、法月は指摘する。作品を読み進め、真相が明かされる直前の「読者への挑戦状」の部分にまでたどり着いた読者に対して、作中で読者が既に読み進めた部分の中だけに、真相を解読するのに必要十分なだけの証拠が既に出尽くしていることを保証する――逆に言えば、既に登場した証拠が「偽の証拠」へと反転するような機会がそれ以上存在しないことが確定されるからこそ、読者のみならず探偵も、論理的に「犯人」を特定することが可能になる。
 つまり、作品に対して超越的な立場にある「作者」としてのエラリー・クイーンが作品世界に介入し、形式化された推理ゲームが展開される論理空間の境界を「読者への挑戦状」によって確定するからこそ、論理的に筋が通った推理が可能になる。そして、作品の内部が厳密な論理によって形式化されているからこそ、「作者」による介入、境界の設定それ自体は、恣意的なものであることを否定できないということにもなる。
 ……以上のような形で、探偵小説の論理空間の厳密化の果てにその限界地点までをも逆説的に明らかにしてしまったのがエラリー・クイーンの初期作品なのであり、後期の作家活動は、必然的にここから移動したものになる――というのが、法月の立論だ。そして、エラリー・クイーンの変容は、例えば、『Yの悲劇』と『災厄の町』の比較を通して明らかにされることになる。
 『Yの悲劇』と『災厄の町』という、それぞれが異なる時期に書かれた別々の作品は、その実、作品を構成する要素にまで分解してみれば、ほとんど同じパーツが組み合わされることによって成立しているのだと、法月は言う。……そして、『ギリシア棺の謎』と同時期に書かれた『Yの悲劇』ではやはり探偵小説の形式化の問題が展開されており、「犯人」の水準のメタ化が扱われている(ついでに付言すると、ナラトロジーとのアナロジーで考えるならば、『Yの悲劇』における「犯人」の位相は、「作者」と「話者」の二重性と考えることもできるのが興味深い)。その一方、『災厄の町』においては、そのようなメタ化の契機はなく、一読した限りでは『Yの悲劇』と全く異なる印象を読者に与えることになる。
 法月の説明によれば、プロットにおいて同じ要素を垂直に配置したのが『Yの悲劇』であり、水平に配置したのが『災厄の町』であるのだという。『Yの悲劇』と同じ要素を持ちながらもそのパーツはあくまでも水平に組み上げられているゆえに、作中におけるコミュニケーションは横にずれ、支配関係が存在せず、結果として作品そのものを俯瞰する超越的な視点が作中の水準に現れてメタ化が起きるようなこともない、と。
 なるほど、実際に『Yの悲劇』と『災厄の町』の両作をそのような観点から比較して読み比べてみる限り、法月の説明は確かに筋の通ったものである。しかし、法月の議論の中心が、あくまでもエラリー・クイーンの初期作品の特異性を分析することにあり、その限界が示されたあとでのクイーンの必然的な変容を示すために引かれたのが『災厄の町』である以上、当の『災厄の町』の内容が詳細に分析されているわけではないのである。
 法月は、『災厄の町』を評して「探偵小説をシステムの全体性という呪縛から解放し、微視的なコミュニケーションの一回性に向かって新たに開いていく回路の可能性が密かに示されている」と述べる。そのこと自体は、もっともなことだと思う――しかし、ではここで言う「微視的なコミュニケーション」とはいったいなんなのか。そして、垂直の構造を水平に組み直すことによってメタ化を解消するとは、作品の内実に照らし合わせてみれば、いったいいかなる事態のことを指し示しているのか。
 ミハイル・バフチンによるポリフォニー論は、ナラトロジーの分析装置の閉域の外部を指し示したが、そこで示された外部の内実が詳細に示されたわけではなく、未踏の地が残されたままであると、私は既に書いた。そのような問題のアナロジーとしてエラリー・クイーンの探偵小説を分析する法月綸太郎の議論を参照したわけだが、話はふたたび振り出しに戻った、かに見える。


 ジャンル・フィクションとしての探偵小説の専門家としてではない視点でエラリー・クイーンを読む論者が、ジャンル内の問題にこだわった国名シリーズやドルリー・レーンものよりも『災厄の町』のような後期作品を「小説として」より高く評価しているのを、いくつか目にしたことがある。
 そのこと自体はもっともであるし、私自身もそう思う。……しかし、既存の文学理論によって分析可能なのはむしろ国名シリーズのような作品なのであり、「文学的価値がある」はずのプラトンの対話篇やニーチェの『ツァラトゥストラ』を評価するための枠組みがないのと同じく、『災厄の町』の「小説として」の価値を判定しうるような装置は実は存在しないのだ。『災厄の町』の問題は、ナラトロジーの問題圏の外部にある。
 ……以上のようなことを考えていた私が、この問題に別の角度から検討することが可能であることを気づいたのは、ある批評家が全く異なる文脈でしていた議論がこの問題に接続可能であることに思い当たったときのことだった。
 既にだいぶ以前のことであるが、批評家の鎌田哲哉が「早稲田文学」に連載していた「進行中の批評」に、その議論はあった。絓秀実の批評に頻出する同型の問題に分析を加え批判的に論評していた鎌田は、絓の盲点になっているのが小林秀雄と坂口安吾の姿勢の違いであるとした上で、次のように書いている。


たとえば、坂口はクリスティや横溝正史を評価し、や笠井潔とは逆に、ヴァン・ダインや小栗虫太郎を馬鹿にしていた。たぶんこの理由は、彼が法的「議論」(平井宜雄『法律学基礎論覚書』)の性質を理解していた例外的な文学者であった事実と切り離せない。(「早稲田文学」2001年7月号所収「進行中の批評③」、p71)


 坂口は「証拠」が万能だと言ってはいない。たとえば、彼自身がその古代史分析で証拠として提出する、日本書紀の「テンカン的でヒステリイ的」な「文章の調子」(坂口「飛鳥の幻」)が、当時の歴史学者に即座に承認されたとは思えない。証拠が「証拠」になるにはある前提=決意の共有が不可欠であり、「証拠」の闘争とみえるものはしばしば通約不可能な諸決意の闘争と抵抗の過程である。だが、だとしても諸決意の通約不可能性と限界自体を我々は依然討論において示しうる。「争う」必要はないが、「争いうる」必要がある、と坂口が書くのはそのためだ。この感覚は、警察/探偵という分割が陥っている盲点を明確にする。小栗虫太郎や秀実の発想には、「法廷」=「議論」の介在する余地が全くないのだ。(同、p71~72)


 おそらく鎌田自身は全く意識していないことであろうが、このあまりにも大ざっぱに過ぎ身も蓋もない探偵小説の類型の二分類は、他ならぬエラリー・クイーンには適用できない。ヴァン・ダインの決定的な影響下に作家活動を開始して探偵小説の形式を発展させ、ある時期以降からは作中に「法廷」の場面を大きく取り込むことになる――そんな経歴を持つのが、エラリー・クイーンという探偵小説家であるからだ。
 しかし……逆に、まさにその「法廷」の概念の導入こそが、クイーンの作風の根本的な変化がダイレクトに反映している結果だとしたら、どうなるだろう?
 初期クイーンを論ずる法月の議論によれば、犯人が残した「証拠」を手がかりに真相を解読しようとする探偵は、犯人が「証拠」の真偽を覆して自身は上位の階層へと移動する、そのメタ化の契機を防ぐことはできない。……しかし、あまりにも身も蓋もないことではあるが、犯人が残した「証拠」を「法廷」での審議にかけ、複数の立場からの複数のコミュニケーションに照らし合わせて検討するならば、その真偽が決定不可能に陥ることなどない。したがって、事件がメタ化することはない(……殊能将之の『黒い仏』のように、犯人が文字通りの意味でメタ的な存在として設定されているのでもない限り……)。
 言い換えれば、探偵が犯人のメタ的立場への逃走を防ぐことができないのは、「犯人-探偵」という単一の回路でのコミュニケーションしか、あらかじめ想定されていないからだ。「証拠」が単一の垂直的回路の内部でのみ検討されるのではなく、水平的コミュニケーションが交錯しあう結節点としてとらえられるならば、事件そのものがメタ化するようなことはありえない。
 しかし、そのとき、「探偵」は事件の全体像をただ一人で描き出す絶対的な超越者のような立場を確保することはできないだろう。複数の立場・複数の視点が複雑に入り組む中で、あくまでも一つの視点から事件に立ち会うというだけのことになる。言い換えれば、もはや「犯人ー探偵」の単一の回路が特権化されるようなこともない。……そして、『災厄の町』において法廷に証人として出廷したときのエラリー・クイーンは、まさにそのような状況に身を任せていたのではなかったか。


 ……法月綸太郎のエラリー・クイーン論を手がかりにしておおよそ以上のようなことを考えていた私は、このような議論をナラトロジーの問題へとスライドさせれば、由良君美が解き忘れて残した宿題であるとも言える「メタフィクション」と「脱構築」との関係性についても、うまく説明ができると思えるようになった(ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のクライマックスで展開されるのがあの長大な法廷闘争であったことを思い起こせば、これは単に無関係な議論を結びつけた類比ではないことも明らかであると思う)。
 事件の中心に置かれた死体の周辺に存在する「証拠」の真偽を自由に反転させることによって、事件そのものをメタ化する――「犯人」にとってそのようなことが可能になるのは、「犯人ー探偵」という単一の回路のコミュニケーションしか想定されていないからだ。これと全く同じように、「作者-読者」という単一の回路しか想定されていないからこそ、「作者」は「作品」をメタ化することができる。
 当たり前のことではあるが、文学作品を構成する素材となる言葉は、本来、何らかの対象を指示する機能と、それ自体が交換されてコミュニケーションの媒体となる機能、その両方を備えている。……しかし、制度として確立した近代小説の内部では、コミュニケーションの機能がいったん剥奪され、言葉が純粋に対象を指示するためだけに機能している、かのような仮構が成立している。
 近代小説の作中で地の文として記述される「描写」は、はっきりと存在している主体同士の間で取り交わされるコミュニケーションではなく、ニュートラルな空間の内部で純粋に対象を指示している、非人称的な言葉である、ことになっている。……しかし、本来ならコミュニケーションの機能を持つはずの言葉がなぜ非人称的に機能しうるのかと言えば、近代小説そのものが、制度として「作者-読者」の単一の回路のコミュニケーションのみを特権化し、それを「自然なもの」として固定しているからだ。
 メタフィクションとは、自らの足場であるフィクションそのものが「自然なもの」ではなく、どのような制度として成立しているのかを俯瞰的な立場から自己言及的に提示してみせる技法のことだ。……言い換えれば、当たり前のことであるが、そもそもそこに制度としてのフィクションの世界が既に成立し存在していることを前提としなければ俯瞰的な立場を取ることできないということだ。「作者-読者」の回路が揺るがずそこに存在しているからこそ、作者=犯人は容易く自身をメタ的立場に置くことができる。
 そのように考えれば……一見すると、文学作品の意味を俯瞰的立場からずらし変容させるがゆえに類似しているかのように見えた「メタフィクション」と「脱構築」とは、実は全く異なる概念であることがわかる。
 あらゆる文学作品は、言葉を素材として構成されている。そして、言葉は複雑な社会のネットワークの中で交換され続ける結節点として機能しており、必然的に、どれほど単純に見えるものであっても常に多義的な意味のブレをはらむ。……だから、リアリズムに基づく「描写」によってニュートラルに物語を表象した近代小説であろうが、完璧なポエジーを志向して単一の意味の閉域を構築した詩であろうが……いかなる文学作品であれ、「作者の意図」や「既に成立している社会制度によって固定された、作品に接する態度」などのもろもろを無視し、素材としての言葉が本来持っている多義性を常に念頭に置きつつ読み解くのであれば、どのように読みどのように解釈することもできる。
 脱構築とは、そもそも原理的に、あらゆるテクストを対象として実践することが可能なことのである。……そして、犯人が残した「証拠」を「法廷」での審議にかけて多種多様な観点からその真偽を判定しにかかるのと同じく、作者が残した「作品」、それを構成する言語が単一の意味に固定されていることを認めず社会のネットワークに向けて開かれた多義性を解放する「脱構築」を読者=探偵が実践したとき、作者=犯人はメタ的立場に逃げ込むことなどできなくなる。


 念のために付け加えておくが、脱構築は原理的にあらゆるテクストを対象に対して可能であるということは、それがいい加減なものであることを示しているのでは全くない。どのような文学作品であれ、作品そのものの全体が全体として流通するなどということはありえず、その題名であったり要約であったり通説・評価の類の方こそが流通する。……その意味では、前提となる先入観をふまえた上で作品そのものに向かい合いテクストをていねいに読み解くのであれば、具体的なテクストの細部には先入観と合致しない齟齬が発見されることになり、結果として人は多かれ少なかれ脱構築的な姿勢を取らざるをえないという、ただそれだけの話なのである。
 「脱構築」という言葉自体は、よかれあしかれ、何物をも担保しない。「脱構築」が一つの方法として一時的に流通しようとも、それは、体系的に修得しうる方法論として形式化された結果としてひとたび修得すれば自動的に使用者の知的水準を上昇させてくれるような魔術なのではない。逆に、「脱構築」という言葉が一時的に流行しそれに飛びつく人間が次々に現れたというだけの理由で、自分がその内実をろくに知りもしないがままにそれを小馬鹿にできるものだと思いこむような愚か者は、まさに当の自分がズブズブに漬かり込んでいるような類の愚かさを撃ち抜くものこそが脱構築であるということすらわからない、徹頭徹尾間抜けな存在であるということでしかない。
 ポール・ド・マンとは、詩すらをも含めたあらゆるタイプのテクストを、バフチンが言う意味での「小説」として読み解いてみせる――そんな姿勢を貫いた批評家だったのである。


 しかし、そのように考えてみるのであれば、バフチンによる「詩」と「小説」の区分はそもそも妥当なものであったのか、という疑問が出てくることも確かである。……実のところ、他ならぬド・マンがバフチンについて検討した短い論説において、修辞的な文彩の問題と会話の言葉の問題とをバフチンが区別していることに疑義を呈していたのでもある(『理論への抵抗』所収「ダイアローグとダイアローグ性」)。……そして、修辞的な文彩の分析が社会的に流通する言葉の多義性を前提とするのであれば、現在では認知物語論のような展開もある以上、ナラトロジーを閉じた単一システムとして見なした私の前提も検討され直さなければならないのかもしれない。
 いずれにせよ、文学理論が分析するその対象はあまりにも複雑であるゆえに厳密な形式化が発展しきっていないことは確かなのであり、ウィトゲンシュタインやエラリー・クイーンが単純なモデルの内部で形式化の不可能性に逆説的に行き着いたようなところにまで理論化が達していない……ということなのではなかろうか。
 そういう意味では、法月綸太郎によるエラリー・クイーン論をナラトロジーの文脈にアナロジーで接合することによって明らかになることとは――仮に文学理論の形式化がどれほど精密なものにまで発展しようとも、「小説」というジャンルから「会話」という契機を排除することは原理的にできない、ということであるだろう。
 そもそも、完全な閉域として成立している単一の論理空間の構築自体が不可能であるのならば、言語を素材とする構造物である小説においては、形式化しえない残余としての裂け目は、複数の主体間のコミュニケーションを担う「会話」の形で必然的に表象されることになるはずである。
 そして、このことは、「会話」が必ずしもそのままの形で小説の中に書き込まれていなければならないということを意味しない(バフチンがドストエフスキー論において、モノローグの手記という体裁を持つ『地下室の手記』にすらダイアローグ性を読みとっていたことを想起しよう)。むしろ、社会的なコミュニケーションの結節点としての言語が多義性を持ってしまうということにこそ主点がある。
 だから、バフチンによる修辞的な文彩の問題と会話の言葉の問題との区別にド・マンが疑義を呈したことは、実はヨーロッパ精神史の全体像にすら関わってくるような大問題なのではないか……と、私には思えるのだ。
 修辞的な文彩、レトリックの問題は、ヨーロッパにおいては抑圧され取るに足りないものだとされる時期が長かったことである。……だからこそ、言語を分析するに際して形式化・普遍化を押し進める生成文法の問題意識は、文学作品の具体的な細部の読解には全く応用できないように思える(から個人的に全然勉強できていないのだ)が、そういうタイプの議論で取りこぼされる問題へ注意が向いた結果として認知言語学が派生してきたという事実は、私としては非常に興味深い。
 そして、言葉がその最も表層的な部分で担う修辞性をいったん切り捨てて普遍的に適用しうる論理性を追求する傾向、および、そのような潮流全般に対する反発――という問題は、実は、ヨーロッパの歴史において初めて起きたことでもないのだ。というのも、デカルトによって近代哲学の基礎が築かれ、人類全般に共通する普遍的な理性の存在が想定され哲学的な問題が論理的に処理しうるという潮流が成立したとき、それに対して、ルネサンス以降の人文主義を継承するヴィーコによる激しい反発が存在したわけだ。
 つまり、ロジックによる全体化・普遍化を押し進めることと、そこで切り捨てられるレトリックをどう処理するかという問題はヨーロッパに持続的に存在していたわけだが……より広いスパンで見ると、レトリックの問題そのものの内部にも、抑圧されてきた領域があるのである。……というのも、もともと古代のギリシャおよびローマにおいて重要な学問の分野として確かな地位を得ていた「レトリック」とは、日本語に訳す場合、「修辞学」と「弁論術」の二通りの訳語が存在しているのである。言い換えれば、本来「レトリック」とは、「修辞学」と呼ぶしかないような問題と「弁論術」と呼ぶしかないような問題との双方が入り交じって存在していたような分野なのである。そして、レトリックの中でも「弁論術」的な側面は、「修辞学」的な側面よりもさらに徹底的に凋落した。
 そしてそのことは、小説を対象として成立する文学理論においてすら、「会話」の価値を判定する基準がいっさい存在しないままに放置されている――ということにまで尾を引いているのではないかと、現在の私は考えているのだ。どのような「会話」がなされるべきであるのか、またそこでなされる修辞的な要素はどのような基準で価値判断がなされるべきか……という主題は、元々は学問の分野として確固なものとして成立していたのである。
 ただ、そのようなことは、小説における「会話」の問題について検討していて初めて思い当たったことでもあるので、私自身、ギリシャおよびローマの弁論術などは特に重要性を感じることもなく見過ごしてきてしまった分野であるので、そのあたりをきちんと検討するためには、アリストテレスやキケロなんかの弁論術をきちんと一から勉強する必要があるのであった……。
 また、以上のような議論をふまえれば、エラリー・クイーンが探偵小説の内部でやったのとはまた異なるやり方であったのだろうが、『トリストラム・シャンディ』にいてスターンがいかにしてメタフィクションを構築できたのかは、おおよそつかめてきたように思える。……しかし、『ドン・キホーテ』の方はといえば、「会話」を徹底的に作中に書き込むことによって極めて複雑な言語空間を成立させているのにもかかわらず、なおかつ作品全体をメタ化してひっくり返すようなこともしているわけで、そのあたりはどのようにとらえたらいいのか……。改めて、尋常な分析の範疇には収まりきらない、あの小説の怪物性が思い知らされることにもなってしまったのであった。











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