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前回のエントリの続きの続き

 さて、いよいよ福嶋大先生のご専門であらせられるところの、文学についてのありがたいお言葉を再検討してみましょう。

 まず、くだんの書評での大先生のお言葉は、次のようなものでした。


あるいはマジック・リアリズムは、中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界を浮かび上がらせた。複雑で多様な世界を把握するのに、もはや旧来の読書人=穏健な市民の視線は役に立たなくなった。ゆえに、ガルシア・マルケスやレイナルド・アレナスは、19世紀の文学には決して出てこないようなマージナルな登場人物を通じて、情報を「魔術的」に再構成することを狙ったのである(ついでに言えば、こういう企図は、異星人や未来人、非人間を扱ってきたSFとも共振するものだろうし、日本のキャラクター文化とも無縁ではない)。マジック・リアリズムもまた、「芸術を統制する芸術家」(バース)への不信を反映させたインターメディア的な文学現象であった。


 これに対する私の疑問は、「十九世紀の文学には、そもそもマージナルな存在なんていっぱいいるんじゃないの?」ということです。これについて、大先生は次のようにツイートしていらっしゃいました。


あと、僕が書いたのは「十九世紀の文学は、マージナルな存在を決して書くことはなかった」という意味ではなく「19世紀の文学には決して出てこないような”タイプの”マージナルな登場人物」という意味です。変なブログに惑わされないでください(笑)@tamanoirorg


 大先生の説明でもわかり辛いのですが、要するに、「十九世紀のマージナルなキャラクターとは異なったタイプのマージナルなキャラクターをガルシア=マルケスやアレナスは登場させた」ということでしょうか。もし最初からそれを言いたかったのだとすれば、はっきりいって大先生の日本語はヘタすぎます。初読の段階でそのような解釈が出来る人はほとんどいないものと思われます。

 まあ、正直なところ私は、大先生は後出しジャンケン野郎だと思い始めています。普通、「超越論的」となにも注釈を付けずに言ったら、いまどき誰もそれがフッサールの言う意味での用語だなんて思いませんからね。まあ、後出しでフッサールと言い出しても、それもまたおかしかったわけですが。

 「19世紀の文学には決して出てこないようなマージナルな登場人物」という表現を、大先生のおっしゃっている意味のこととして解釈すると、そもそも立論の前提が崩壊することには気づいていないようです。だって、十九世紀の文学には、「中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界」などというものがあったんですよね? 「複雑で多様な世界を把握するのに、もはや旧来の読書人=穏健な市民の視線は役に立たなくなった」んですよね?

 ところが、十九世紀の文学には、既にマージナルなキャラクターからの視点があった。逃亡した黒人奴隷やら、学校教育からドロップアウトした子供やら、極貧の娼婦なんかの視点もあったんですよね? ならば、「中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界」を相対化する視点は、既に十九世紀文学に書き込まれていたことになるんじゃないですか? なんでそこから、「ゆえに」という一言で、いきなり二十世紀後半まで飛ぶんですかね? マジック・リアリズムよりはるかに昔の時点で、「中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界」は浮かび上がっていたということに、当然なるんじゃないですか?

 ガルシア=マルケスやアレナスのマージナルなキャラクターは、十九世紀のマージナルなキャラクターとは異なる機能を果たしたことになりますよね? それはなんなんですかね? 正直、私にはさっぱりわかりません。


 まあ、大先生が「マジック・リアリズム」とか「メタフィクション」という用語を玩びながら、それらの用語の歴史的背景はご存知無いことは既にバレバレです。次は、メタフィクションについての大先生の発言を検討してみましょう。


 文学もまた同様である。20世紀中葉以降の作家は、19世紀の大作家――ドストエフスキーであれフローベールであれ――とは、根本的に異なる書き方を発明しなければならなかった。その際に鍵となるのも、やはり情報の問題である。情報の概念がなければ、ナボコフもボルヘスもピンチョンもバロウズも、バラードもディックもギブソンもイーガンも、あるいはメタフィクションもマジック・リアリズムも理解することはできない。彼らは、情報の概念の台頭を、個人の好き嫌いでどうこうなる問題とは思っていなかった。

たとえば、ボルヘス的メタフィクションは、「作家はあらかじめ存在するテクストの注釈者である」というコンセプトに基づいている。かつてジョン・バースが“The Literature of Exhaustion”で述べたように、ボルヘスのコンセプトは「インターメディアの芸術」としての側面を持っていたと言えよう。架空の書物の注釈を書いたボルヘスは、いかなるテクストもメディア上の伝承のなかで手垢のついた情報にすぎない、という状況そのものをカリカチュア的に描いてみせたのだ。それは当然、ルターやムハンマドによる唯一絶対の「聖典」の読書行為からは遙かに隔たったところにある。


 ここでの文脈を整理すると、ボルヘスが書いたようなメタフィクションは、十九世紀の小説とは「根本的に異なる書き方」をしていた、ということになります。

 では、文学史上、「『作家はあらかじめ存在するテクストの注釈者である』というコンセプト」を最初に書いたのは、ボルヘスなのでしょうか。大嘘です。それがセルバンテスであることは、文学史上の常識中の常識です。そして、ボルヘスはそれを熟知していたからこそ、最初の小説とみなされる「『ドン・キホーテ』の著者ピエール・メナール」において、セルバンテスの築いた基礎を拡張するメタフィクションを構築したわけです。「根本的に異なる書き方」などしていないわけです。

 しかし、セルバンテスは十九世紀ではない、という声が上がるかもしれません。しかし、十九世紀の段階で、のちにボルヘスがしばしば踏襲したようなメタフィクションを展開していた人がいます。カーライルです。「架空の書物の書評や序文」というようなメタフィクションの技巧は、既にカーライルによって確立していました(これはうろ覚えなのではっきりとは言えませんが、そもそもボルヘス自身がどこかでカーライルを自分の先行者として言及していたはずです)。

 別に、「情報」という概念が注目を浴びた時代に、メタフィクションという形式が好んで取り上げられたことを指摘するのは、間違いでもなんでもありません。しかし、それが既存の文学にはなかった「根本的に異なる書き方」であるなどと断言した瞬間、それは嘘になります。ただ単に、多くの作家が、必要に迫られて、既存の文学で積み上げられたメタフィクションの技法に再注目し、改良できるところは改良しているだけです。まともな小説家や文学研究者であれば、メタフィクションの技法は、セルバンテスとスターンとカーライルくらいで既にほとんど出尽くしていることくらい承知しています。

 さて、最後に書いておきたいのは、そもそも大先生の知識人としての姿勢のまずさです。大先生は、こんなことをツイートしています。


 もうねー、偉そうに批判するならフッサールくらい読んどいでくれよ…。単純にいい迷惑なんだよ…。


 これはなんなんでしょうか。プロの物書きが、「商業誌に載せたこの情報は間違っているのでは?」と指摘されたら、「いい迷惑」などと言っていることはできないはずです。私は、不本意ながら、大先生の執筆した雑誌に料金を払ってしまいました。おそらく大先生は、自分が原稿の対価を受け取っているプロであるという自覚がまったくありません。こういうプロフェッショナリズムが欠如した人間には、そもそも批評家などというものは務まらないと私は考えています。


付記(8/5)


 しばらく経ってから冷静にこのエントリを読み直したところ、「普通、「超越論的」となにも注釈を付けずに言ったら、いまどき誰もそれがフッサールの言う意味での用語だなんて思いませんからね。」という部分は、われながら迂闊なことを書いているなあ、という気がしてきました。

 私が言いたかったのは、「フッサールが哲学全般に対して広範な影響を有しているわけでもない今の時代で、「文芸誌での、スピノザの本の書評」というコンテクストでいきなり「超越論的」という用語を使っておいて、事後的にそれが「あれはフッサールの言う意味」とか言っても伝わるわけねーだろ! 現象学とは何の関係もないコンテクストなんだから」ということでした。

 しかし、この福嶋亮大という人物のデタラメな発言に対して頭に血が上っていたためか、言葉足らずの発言になってしまっていたようです。もし、まともにフッサールを研究していて、不愉快な思いをされたという方がいたのなら、謝罪します。申し訳ありませんでした。

 ついでに書いておくと、『スピノザの方法』と『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を両方とも通読してからだいぶ経った現在の視点からすると、福嶋亮大の言っていることは、もっと根本的な部分でおかしいと思えてきました。

 『危機』においてフッサールは、超越論的な認識主観についての検討がヨーロッパ哲学の本流であるとみなし、デカルトから発してカントを経由し、そして自身の現象学に到達する、という目的論的な歴史観を展開しています。ゆえに、デカルトは超越論的という言葉を使っていなくとも、超越論性の検討の先行者であるのだ、と。

 ここでフッサールが言っているのは、デカルトのコギトのことでしょう。しかし、そもそも國分功一郎の『スピノザの方法』でのコギトに関する議論を考えれば、『危機』での議論をそのまま適用することはできないのです。だって、『スピノザの方法』では、スピノザはデカルトの哲学を整合的に解釈するためにはコギトの検討を基盤に据えて議論を展開したが、スピノザ自身の哲学を展開するためには、コギトを基盤に据えていてはできないので、コギトの検討を放棄し、神の概念を基盤に据える方向に移行した、そうして『エチカ』を書いた、とはっきり書かれているのですから。

 『スピノザの方法』と『危機』の両方を通読していれば、『スピノザの方法』で國分功一郎のやったことが、『危機』でのフッサールが言った意味で超越論的である、などという評価は出てきません。ここからわかることは、福嶋亮大という人物は、『スピノザの方法』と『危機』のどちらか片方を(もしくは、その両方を)通読していない、ということです。

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