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電子書籍の進行状況とプロレスに関するnoteについて

 何点かの告知事項があったため、久しぶりに更新しました。以前からこのブログで取り上げていたカサヴェテス論についてなのですが、とりあえず、自分として完全に納得のいく形でおおよそ仕上がりました。結果として、このブログにアップした元のヴァージョンの二倍半以上の分量になったので、もはや全くの別物だなあと。正直なところ、質・量ともに不完全なこのブログのものはもう引っ込めたくすらあるんですが、公開した経緯があるだけにそのままにしておきます。また、このカサヴェテス論と、このブログの他の記事を改稿したものと、新たに書き起こす記事を付け加えて一つの電子書籍の形態にするため、全体の完成にはまだしばらく時間がかかります。主に、映画とプロレスという二つのジャンルを通して、アメリカ文化の根幹の探求と、その日本への受容を探るという内容になります。
 それにしても、「映画とプロレス」という枠組みに何の関係があるのかと言えばーー私としては、正確に言うと「西部劇とプロレス」の本質的な関係ということになるんだけれどもーーほとんど理解されないという以前にほぼ興味を持たれないであろうという状況において、今年になってとんでもないことを成し遂げてしまった人物がいます。……そう、もちろん、ロック様です。
 少し前の私は、ロック様が主演を努めた『ジュマンジ』を見た際、「この程度の水準のアメリカ映画が年に何本も定期的に安定して見られるといいんだけどなあ……まあ無理だけど」などと思っていました。ところが、あにはからんや、その後のロック様主演映画として立て続けに公開された『ランペイジ』『スカイスクレイパー』と見ていって、映画史的に考えて不可能であるはずの事態が進行していることに大変な驚きを覚えたのでした。しかも、この驚くべき事態は、まさにロック様が自ら映画の製作者の側の方にも乗り出したことによって始まっているのです。
 同じ年度の内に連続公開される映画が全て異なるジャンル映画で、細かい演出面はともかくジャンル内の枠組みの内で構成された脚本としてはいずれも完璧なものであり、なおかつ撮影期間はいずれも数ヶ月! さらには、『ランペイジ』と『スカイスクレイパー』に関しては、上映時間が105分程度ーー今のハリウッド映画のあの長いエンドロールを除けば、実質100分未満! ……って、こんなこと、撮影所システムが機能してなければ絶対に不可能なことのはずですやん!
 例えばトム・クルーズなんかも、製作者としても相当に偉いわけだが、それでもなお「ミッション・インポッシブル」というシリーズものの枠組みの中で商業的成功の見込みが立った上でその中で色々と変化をつけ、なおかつそれを各作品についてたっぷり製作期間を取って何年も間を空けることによって初めて成立している。なぜロック様がこんなことをできたのか、全く意味がわからないと言うほかない。
 具体的に映画の内容を見てみても、特に『スカイスクレイパー』の場合、題材としては臆面もなく堂々と『ダイ・ハード』や『タワーリング・インフェルノ』からパクってみせつつも脚本は完璧に機能的に構築するというまさにハワード・ホークス的な図々しさを実践しつつ、実質的に語っている話の内容はと言えば「困ったときはダクトテープがあればだいたいなんとかなる!」「スマホは再起動すればだいたいなんとかなる!」ということしかないのである(あとは強いていうならば、「二択を強制されたらどうするかって? もちろん両方取るわ!」)。そこからさらに、『上海から来た女』のオマージュまでぶち込んでくるのだから、驚くほかない(もっともこれに関しては、『上海から来た女』にオマージュした『燃えよドラゴン』の方への参照の可能性もあるが)。
 どれだけ精密な現代のテクノロジーに取り巻かれた社会の中にあろうとも、ひとたび危機的な状況に陥るやいなや自分自身の体(とあとダクトテープ)だけを頼りに、いっさいの躊躇もなく目的を達成するアクションの主体としての人間ーーすなわち、自らの自由意志をあくまでも行動で示すという意味でのアメリカン・ヒーロー。……そう、ここで実現しているのは、完全無欠のアメリカ映画なのである。ロック様の妙技を味わいまくってしまったと言うほかはない。
 繰り返すが、映画史的に考えて、現代においてこんなことができるわけがない。にもかかわらずなぜこんなことができてしまったのかと言えば、それは、ロック様がプロレスの核心をつかんだ人物であるからだろう。アメリカにおけるプロレスの本質を掴むことが、アメリカの根源そのものに触れることであるからこそ、失われたはずのアメリカ映画の本質を体現することすらできてしまったわけだ。……そして、改めて考えてみれば、もともとプロレスにおいても、ロック様は本来ならありえないはずのことを既に成し遂げていた存在であったのだ。
 アメリカン・プロレスの歴史におけるロック様の立ち位置は、西部劇に例えて言うならば、クリント・イーストウッドのそれに近い。つまり、ハリウッドから本来の西部劇が滅び去ってからのちに、TVドラマの『ローハイド』とマカロニ・ウェスタンにおいて西部劇のスターになったのがイーストウッドであったのと同じように、本来のアメリカン・プロレスが滅びてからのちに、変質した後の状況でスターとなったのがロック様なのであった。
 80年代におけるプロレス業界の産業構造の変化の結果、アメリカン・プロレスの従来のプロモーターのほとんどは滅び去り、90年代に至るとプロレス業界はTV中継を前提とした視聴率戦争の世界へと移行した。……しかし、異変が起きたのはこの時点においてである。テッド・ターナーが資本を投下したWCWに対して、(80年代に既に業態を変え全米侵攻を開始していたとはいえ)もともとは東海岸で代々の家族でプロモーター業を営んできたのに過ぎないマクマホン一族が率いるWWF(現・WWE)が、あろうことか完全勝利したあげくWCWを吸収・合併までしてしまったのである。アメリカの歴史的・文化的・経済的背景をふまえればふまえるほど、とうてい起こり得るはずのないように思えるこの出来事の実質的な立役者となったのが、他ならぬロック様なのであった(あとストンコ)。
 かくして、ハリウッドで撮影所システムが滅びアメリカ映画の核心は失われたのとは異なり、プロレスの本質は、形を変えながらもかろうじて生き延びた。そのロック様が、映画業界に転身し、アクションスターとしての道を順調に進んでいると思いきや……今や、かつてプロレス界で成し遂げたのにも匹敵しかねないことをやりつつあるのである。ロック様は、撮影所システム崩壊後のハリウッドに身を置いた映画人たちが決して掴むことのできなかったものを、プロレスを通して既に身につけてしまっているのであるーーでは、その、アメリカ文化の本質とは、いったいなんなのか?
 ……と、いうことを、現在、電子書籍の形でまとめているわけなのであります。


 さて、自分の中で懸案であったカサヴェテス論が改めて出来上がった頃になって、ちょうど劇場公開された濱口竜介監督の『寝ても覚めても』を見てきました。そして、作品全体の演出なりなんなりの評価ということとはまた別のこととして、最後の最後に現れたショットが、まったくもっていかなる意味でも救い難い、どうしようもない最低最悪のクソで、怒り狂うということがありました。
 と言っても、ここには一つの、作品外の事情を含む理由があります。仮に私が何の予備知識もなしにこの映画を見ていたとしたら、「最後になってずいぶん陳腐なことをして、作品全体の価値を落としちゃうんだんなあ」と呆れるだけで、特に気にもとめずにすませていたでしょう。しかし、濱口監督という人はカサヴェテスからの影響を公言している人物であるので、そのことを念頭に置いてみると、そこにある意味が明らかになるのです。
 『寝ても覚めても』の最後のショットでは、作品の主役のカップルが、並んで川の流れを眺めつつ語り合うところが描かれます。そして、その会話によって明らかになるのが、この「川の流れ」が、カサヴェテスにとっての「ラヴ・ストリームス」を、隠喩として表しているということです。
 いや……あのさあ、カサヴェテスにとっての「ラヴ・ストリームス」ってさあ、たった一つの、それもすこぶる安直な隠喩をポンと出して表現できるものであるわけがないでしょうよ。カサヴェテスは、「ラヴ・ストリームス」とはいかなる事態であるのかを、ただひたすら役者の身体に寄り添うことによって、なんとかかろうじて表現しようとしてきたわけですよ。そんなことをし続けてきたからこそ、カサヴェテスの映画はああいうスタイルのものになっているわけです。
 だから、カサヴェテスの映画では、映像を隠喩として用いて、画面に映っているものを、それ以外のなにものかを指し示すために奉仕させるようなことは起こりません。しかし、カサヴェテスの影響を受けていると公言する濱口竜介は、隠喩であるゆえにそのありさまを外部から俯瞰し一望できる「川の流れ」=「ラヴ・ストリームス」を主役のカップルに外部から眺めさせ、「きたねえ」「でも、きれい」などとのんきに言わせているわけです。はっきり言って、最悪です。
 そして、それが最後のショットに現れるだけなら、じゃあそれを削ってしまえばいいのかというと、そういうわけでもないんですな。作品の最後で「川の流れ」=「ラヴ・ストリームス」という隠喩が明らかにされることによって、そこから遡及的に、そこに至るまでの作品の至る所でこの隠喩が全体の構成に奉仕していたことが、事後的に明らかになるわけです。例えば、「川の流れ」のすぐ近くに、主役のカップルがこれから新たに家庭を築くための家があるという位置関係が、個人の内面の感情の流れと家庭生活との関係性をも示しています。つまり、この隠喩は単に最後のショットで使われているだけのものではなく、作品全体の文脈に組み込まれ、全体像を指し示す象徴的な機能を担っているわけです。……これ、いつの時代の映画だよ。
 一言で言えば、この作品でのこういうような「文学的」なことがクソなわけです。これは文学が悪いということではなくて、映画を参照するだけでは出てこないから文学の技法から借りてきていることが、稚拙で最悪な、初歩的な使い方しかできていないということです。逆に言うと、カサヴェテスの場合であれば、安直に文学から借りてくるようなことはいっさいしないからこそ、優れて芸術的だと言えるわけです。
 ……そんでまあ、安定の蓮實重彦のぬるま湯ですよ。蓮實の場合、『寝ても覚めても』のような映画の、文学的な観点からの問題点がわからないわけがありません。しかし、濱口監督と直接話をする機会があっても、映画的な観点からの話しかしません。それがどれほど厳しく詰問するような内容のものであったとしても、実は、むしろ蓮實に保護されているわけです。文学的な観点からしたら低水準すぎて、単にぶった斬って終わりにするしかないわけですから。そんな蓮實が、『寝ても覚めても』の最後のショットについて「途方もない美しさ」などと書いているのを読んで、もうこれは本当にさようならなのだなと思いました。
 改めて確認しますが……隠喩が用いられるとき、譬える項と譬えられる項の両者は、既に確定しています。両方の項の意味もしくはイメージが確定しているからこそ、両者を隠喩によって結びつけることが可能になるわけです。つまり、「ラヴ・ストリームス」を「川の流れ」に結びつけた隠喩を用いる者にとっては、そもそも「ラヴ・ストリームス」とはなんであるのかについての問いは、既に出ているということになります。
 逆に言えば、だからこそ、カサヴェテスは隠喩を用いて何かを表現するようなことをしなかったわけです。「ラヴ・ストリームス」とはなんなのかと問い続けているからこそ、何事かを感じ考えつつある俳優とともにあり続けーーそして、実質的な遺作である『ラヴ・ストリームス』の結末において、自らが俳優として、そのことについて叫ばざるをえなかった。
 「ラヴ・ストリームス」という概念というか出来事そのものをただ一つの隠喩で固定したイメージで表現できてしまう者は、当たり前のことですが、「ラヴ・ストリームス」とはなんなのかという問いを生きてはいません。既に答えは出たことになってしまっている。だからこそ、一つの隠喩として操作可能な記号となったそれは、作品を構築するための一つのパーツとなり、他の要素と按配よく組み上げられ配置されることによって、作品の全体像の中でしかるべき位置に納まることになるわけです。
 『寝ても覚めても』という映画を全体として見たときに、映画の美学的問題の中でこうこうこういう達成があり、これほどの価値があり、このようにして高い評価が下される、ということがある。それは別に間違いではないし、そのような評価が当然あってしかるべきです。しかし、それとは全く別の問題として、はっきりと言っておかなければならないこととしてーーこの映画が、これこそは愛だとして提示しているものは、愛ではない。
 もちろん、世の中には、己の欲求に忠実に、周囲にどのように思われようとも衝動的な行動を取ることを辞さない人物もいるだろう。そのような人物がフィクションとして描き出され映画に映されることもあるだろう。そのことが悪いわけではない。そのような人物を作中から排除せよと言っているのでもない。私が言っているのは、非常に素朴なことだ。それは愛じゃない。
 濱口竜介という監督が、日本映画の第三の黄金時代を築くんだって? 結構なことだ。優れた映画作家なのだろう。……しかし、少なくとも、『寝ても覚めても』のような映画を撮り上げる人間は、ジョン・カサヴェテスの名前を口に出すべきではない。隠喩として静的なものとして固定されてしまった表現に、もはや「ストリーム」などというものがあるわけがない。当たり前のことだろう。
 実は、こういうことを言うのに関しては、たまたま最近の私自身が『フェイシズ』と『こわれゆく女』との間でのスタイルの変化を細かく検討していた結果として、非常に些細なことにも思える細かい技術上の問題においてすら、カサヴェテスが自分の追求するもののために捨て去って己を変容させた部分があることを改めて発見してしまった、ということとも無関係ではない。そして、それをふまえると、カサヴェテスの表現するエモーションをふまえつつ古典的な映画のスタイルを追求するという濱口監督の目標は、およそ実現不可能な絵空事としか思えないのだ。カサヴェテスが表現しようとしたもののためには、やはり、古典的な映画のスタイルを捨て去ることはどうしても必要だった。にもかかわらず、美的に完成度の高いスタイルを備えた映画の枠組みの中に無理にカサヴェテス的なものを取り込もうとしたときに、カサヴェテスが静的な隠喩によっては決して表現することのなかったことそのものを、隠喩へと作り替えられたまがいもの、スタイルを保ちつつ作中で操作可能な安全な部品として作中に取り込むことになった。……これは、カサヴェテスに対するオマージュではない。侮辱だ。
 『寝ても覚めても』という映画が公開され、また監督がカサヴェテスからの影響を公言したことについては、既に他の余波も生み出している。私の目に留まったものの中だけでも、『寝ても覚めても』を論じるために、カサヴェテスの作品群をおよそ粗雑に要約した平板なものとして参照し、自分の議論に権威があるかのように見せかけるためとしか思えないほど好き勝手に適当に取り扱うような、恥というものを知らない文章があった。当たり前のことだが、こういうことは単なるインテリごっこに過ぎず、知性などというものは微塵もない。この種の恥知らずな振る舞いを否定し決別することによってカサヴェテスの作品群が成立したはずなのだが、そんなことすらわからない程度の水準の者が、たやすく参照しつつ自らの議論に易々と組み込めるものとしてカサヴェテスを取り扱うことには、反吐が出る。
 ……などということを考えていたのだが、日本でそれなりに映画を見ている層にあっては『寝ても覚めても』はそれなりに好評らしい。それはまあ別にいいのだが、この映画とカサヴェテスの関係について怒っている人物など、どうやら全然いないようなのである。ならば、私が日本語でジョン・カサヴェテスについて云々しようなどと言うことは、やはり、全くの無駄であったのだ。


 このブログの通常記事の更新を停止することになる少し前に、伊丹十三が監督した映画のことについて書いたことがあった。そのこともあり、未見だった作品も含めてまとめて見直していたのだけれど、色々と気付くことがあった。
 今回初めて見た映画として、『スーパーマーケットの女』があった。……なるほど、確かにこの映画にも、映画の美学的な側面、その演出ということに関しては、取り立てて見るべきものはない。しかし一方で、伊丹十三以降に現れた、映画の演出能力に関して伊丹をはるかにしのぐ、才能溢れる男性の映画作家のみなさんが、ある一点については軒並み惨敗していることもまた、明らかなのだ。
 『スーパーマーケットの女』が描くのは、非効率な仕事の仕方によって経営危機に陥っているスーパーマーケットを、一人の中年女性が主婦の視点から改革をもたらし経営を建て直す顛末だ。そういう意味では、やってること自体は『タンポポ』の主要登場人物の性差を反転させただけの焼き直しだとも言えるのだが、まさにその性差の反転こそが、この映画の肝になっている。
 この映画が執拗にねちねちと描き出すのは、自分では仕事ができるつもりでいるが実際には全くそんなことのない、日本の男たちの醜悪なダメさ加減だ。とは言え、これはカリカチュアではない。日本の男たちの具体的なダメっぷりが、あくまでも現実のありようそのままに描かれている。一方で、そのような男たちの中で女がどのように仕事をすればよいのかということについて、いかなるジェンダーバイアスにも陥ることなく、極めてフェアな視点で描き出すことに成功している。
 現在の欧米では、エンターテインメントの製作において性差別が徹底して排除される方法論が確立していることは、当然の前提になっている。そのことに慣れた視点で見てみても、『スーパーマーケットの女』には、非の付け所が全くないのだ。伊丹がこの映画を製作した90年代の時点では、ハリウッドですら無自覚な性差別が平然と垂れ流されていたことを考えると、これは本当に凄いことだ。
 おそらく、この映画における伊丹がこのような立場を築くことができたのは、純粋なマーケティングの産物なのだろう。ふつうの女たち、とりわけ主婦層からどのように見られるのかを自覚的に計算し、不快に思われるはずの要素を削ぎ落とすことによってこのような映画が成立したのだと思う。もちろん、日本の主婦の家庭での生活を事細かに描き出したら、日本国内では自明の理とされ自覚すらされない性差別が作中に紛れ込んでしまうことになるのだが、この映画での伊丹は、「スーパーマーケットの店内にいるときの主婦」しか描かないことで、その問題に踏み込むことを回避している。これは、実に聡明な判断だと言える。
 このような方法によって映画を製作するということは、女たちを見るときにも見られるときにも、性的興味を括弧にくくってニュートラルな人間同士の関係をまずは確立しようとする、というだけのことであるのだが……映画のみならず日本の文化全般において、ただそれだけのことができる男の作り手が現在においてすら壊滅的なまでにほとんどいないというのが、日本の無惨な状況である。
 日本映画においてなら、伊丹以前にも、例えば成瀬巳喜男のように、日本の男たちのダメさ加減を冷徹に描き出すことのできる監督もいた。しかし、成瀬のやったことも伊丹のやったことも単にポツンと孤立しており全く継承されていないことを考えると……さらには、伊丹の映画の価値を全く認めない人々によって罵詈雑言が繰り返されてきたことをも考え合わせると、彼らが何をやっていたのかすら全く理解されていないことは明らかだ。逆に言えば、伊丹十三の映画を無条件で全否定する価値判断を共有していた集団内の言説の推移をジェンダー論やフェミニズムの観点から分析すれば、おそろしく前時代的なホモソーシャルな実態が暴かれてしまうことは間違いない。……いやあ、ここにとんでもない地雷原があるねえ。
 そして、それらのことはまた、この映画にTVタレントが大挙して出演していることにも関係があるのだと思う。……いや、当時の製作背景を事細かく調べたわけではないので、あくまでも推測に過ぎないのだけれども。とりあえず、当時の伊丹の日本の映画業界との関係が既に抜き差しならなくなっていたことを考えると、職業的な映画俳優をわずかしか起用せずに商業映画を製作できてしまうということ自体が、作品の内容とリンクしているように見えるのだ。昔ながらの自分の仕事のやり方、実は効率も悪く非合理極まりない従来のやり方に固執し、女たちに仕事のやり方を変えることを進言されると怒り出して「素人」を怒鳴り散らすというのも、映画業界においてもあったことなのだろう。だったら、映画に関しては素人のTVタレントだけでもこれくらいヒットするものは製作できますよ、と。
 ……でもまあ、冷静に考えてみれば、『スーパーマーケットの女』で伊丹十三がしていることって、結局のところ、「ふつうの女たちとともに仕事をするときも、顧客として想定して商品を供給するときも、単に対等な存在として公平に扱う」ということをしているだけなのであって、既存の家族制度なり資本主義なりの解体をとなえているようなことは全くない。にもかかわらず、二十年前の国内のそういう男が依然としてものすごく先進的に見えてしまうということが、現在の日本という場所なのだろう。


 そんなことを考えて激怒しつつある一方でーー実は、自分が歩んできた人生の意味の全てをかけて、ある些細な動作によって別の時間・別の場所で起きた何事かを指し示すという、肉体そのものによって命がけで繰り出された隠喩を目撃することになり、深く衝撃を受けるということがあった。
 その隠喩を繰り出した人物は、丸藤正道という。
 プロレスラーとなって20周年を迎えた丸藤がそもそもの最初にデビューしたのは、全日本プロレスのリングにおいてだった。そして、その後のキャリアのほとんど全てを全日本プロレスの外で過ごした丸藤は、今年になって、数ヶ月に渡って全日本プロレスに参戦することになった。そして、一応の一区切りがつく最後の試合となったのが、5月24日、宮原健斗の保持する三冠王座に挑戦する試合だった。
 私は、この試合を直接観戦しにいくことはできず、映像で見ていただけなのだがーーリングの上で丸藤がとあることをして見せたとき、それがいかなる意味のことなのかを即座に了解し……そして、深く動揺した。それからあとは、ほとんど嗚咽しながら映像の中の試合の行方を見守るしかなかった。
 この試合での丸藤は、一つの試合に二つの意味を持たせ、その二重化された試合を同時に闘っていた。「今、ここ」に存在する己の肉体で闘いながら、全く同時に、他の時に他の場所で起きた、ある一つの出来事をも指し示していたのだ。
 丸藤は、己の肉体を一つの記号として用いることで異なる時に異なる場所で起きた二つの出来事を結びつけて見せた。結果として、そこで表現された意味を見る限り、言葉が用いられておらずとも、これは広い意味では隠喩だと言うことができる。その意味では、丸藤もまた、その二つを結びつけてみることに関して、既に自分の中では答えが出ていることを表現してみせたのに過ぎないとも言える。
 しかし、改めて考えてみれば……丸藤がプロとしてデビューしたそもそもの始まりから知っている私にしてみると、丸藤が二十周年を迎えたということは、それはそのまま私自身の二十年だということでもある。そして、丸藤が少なくともリングの上で見てきたことがなんであるのか、おおよその全体像をわかっているからこそ、丸藤が己の肉体から繰り出した一つの隠喩が、二十年間を通して考え続けてきた末にたどり着いた一つの答えであることが、はっきりとわかった。そして丸藤は、己がたどり着いた答えを表現しきるという形で責任を取るために、その出来事を命がけで闘い抜いたのだ。
 宮原健斗対丸藤正道の試合は、何年かに一度見られるかどうかといった水準の名勝負だった。……いや、私自身の主観に照らし合わせて正確に述べるならば、プロレスの試合を通してこれほどまでに心が揺さぶられる経験をしたのは、まさに五年ぶりのことだ。
 しかし……いざこの試合が終わってから、この試合に関して語られた言葉の多くを渉猟してみたとき、そこに二重化された意味があったことが本当に全く伝わっていなかったことがわかり、私は愕然とした。だが、本当に驚くべきなのは、そのことではなかった。むしろ私自身の方こそが勝手に幻想に浸っていたのかとまで思えた頃にわかったのが……ただ一人、本当にただ一人だけの人物が、丸藤正道が表現したのはなんであったのかを自分が理解したことを示す証拠を残していたのだ。
 「……よりによって、お前はわかったのかよ!?」という衝撃に、私は改めて悶絶することになった。
 丸藤が表現して見せた二つの時・二つの場所の二つの出来事を、両方ともに目撃した人々は、決して少なくはないはずだ。にもかかわらず、多くの人々にとってはそのことを連想することはなかった……逆に言えば、私にとって、それは、忘れることのできないまま痛みを伴って自分の中に刺さったままでいる出来事であったのだ。
 それからしばらくして、先頃、丸藤が20周年記念の自伝を出版していた。この自伝を最後まで読み通すことで、わずかに残っていた疑いは消え去り、丸藤が表現していたのはやはりあのことだったのという考えは確信に変わった。
 自伝の中でも件の宮原戦は語られているが、表面上の意味以上のことに丸藤はいっさい触れていない。しかし、この書物を最後まで読み通し、エピローグで最後の最後に丸藤が述べたことを確認すれば、なぜ丸藤がそうしたのかがわかった。丸藤が表現したのは、あまりにもさりげないやり方だった……しかし、それに過度な説明など加えない丸藤は、伝わらなくともいいなどと思っていたのではなかった。むしろ、これだけでも絶対に伝わると確信していたのだ。実際、少なくとも私には伝わったし、あいつにも伝わったわけだ。
 宮原健斗対丸藤正道の三冠戦は、ごくまれにしか起こりえない規模の名勝負だった。しかし、それは、そこにある二重化された意味の両方を受け取るからそのように思えるのであって、表向きの意味を受け取るだけでは、単に白熱した好勝負が展開されていたのに過ぎない。
 とは言え、現在の日本のプロレス界が置かれている状況を考えていると、仮にこの試合の持っていた意味が周知されたところで、今年の年間ベストバウトとして認定されるようなことはまずありえないだろう。だがそうは言っても、誰もがこの試合の一つの意味しか受け取っていない中で選考がされてしまうのであれば、それはあまりにもアンフェアだと思えてならなかった。……そして、なにより、全日本プロレスとプロレスリング・ノアという二つの団体のどちらか一つにでも、過去に一度は愛着を覚えたことのある人間なら誰でも、この日起きたことは何だっのかを知らなければならない。
 だから、この試合に関する全てを明らかにすることにした。しかし、このブログの通常記事を更新するつもりはもうないので、noteを使ってみることにした。日本語で文学・芸術・思想・哲学などを論じたり、アメコミのような外国文化を紹介したりするようなことは完全に無駄だという確信は、私の中ではもはや動かし用がない。しかし、ことプロレスに関しては、日本は独自の文化を備えて発展した先進国であることは間違いないわけだ。そういう意味では、こちらのnoteの方は、プロレス関連限定で今後も更新するかもしれない。
 ということで、noteを用いて文章を書いてみて、結果として全体で27000字ほどの文章になったのだが、その全体は有料設定にして、前半の12000字ほどの部分を無料公開することにした。とは言え、有料にしたのは、自分の考えの全てを出すところに最低限度の障壁を設けたという意味なので、下限の100円である。そして、この試合で何が起きたのかということ自体は、無料部分だけでもわかるような形で公開している。
 それにしても、この観戦記を自ら読み直して思ったのは、この文章は、カサヴェテス論を自分で納得のいく形でおおよそ完成させた後だからこそ書けたものだということだった。何かのことについてまとまった文章を書くなら、もはや、自分に課すべき最低限度のハードルはこのくらいでなければならんとも思った。そして、このブログでやってきたことの全体像を電子書籍としてまとめている今の視点からすると、この文章こそが、先にできてしまったとは言え、その全体のエピローグになっているのであった。


   note.mu/kenkashima/n/nd2fbd9b41911




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コメント

お久しぶりです。

更新してくださってうれしいです。
『丸藤正道の全日本プロレス参戦とはなんだったのか』早速購入しました。
カサヴェテス論の公開もお待ちしております。

Re: お久しぶりです。

 どうもありがとうございます。

記事が更新されたのは望外の喜びでした。
アメコミや映画の記事については、英語で書いておられるかもしれないということで
待っています。本来ならば全国書店に置くに値する記事ですが、時代は変わりました。
日本ではツイッターも同じように、議論の内容よりも文章の態度や人格攻撃が頻発しているのでまともな議論などとても生まれそうにありません。プロレスについては無知なのですが、是非読ませていただきます。

Re: タイトルなし

 勉強を続けた結果、自分の英語のライティング能力にだいぶ自信がついてきましたので、来年には英語に移行できそうです。また、最後のまとめとしてアメリカ文化と日本文化の狭間にあるものとしてプロレスについて書いている文章自体は、プロレスのことに関して事前に予備知識がなくとも読めるように書いています。
 アメコミに関して日本語で書くのはもう全くの無駄というか、まともな文章なら書き手へのデメリットの方が大きいと思っています。このブログであったことだと、

未邦訳のコミックに関して私が紹介のまとまった記事を書く
 → しばらく後に邦訳が決定
 → 私の記事を剽窃と言えないギリギリくらいにまでどこぞのライターが最低限改変して、出版社のオフィシャルの紹介文として公表

などということもありました。パッと見は少し異なる文章に見えても、そもそも日本語でまとめて語られたこと自体がない作品を要約するにあたって私が考えたキーワード(作品本編には出てこない言葉)がそのまま残っていたりするので、すぐにわかってしまうわけです。
 もうまったくどうしようもないですね。そういうことを続けているからそもそもパクる元ネタのまともな文を日本語で書く人はどんどんいなくなっていくのでしょう。

はじめまして

連載はお辞めになられたとのことですが、シャマランのミスター・ガラスについてご意見お聞きしたいです。信じること(信仰)、そしてシャマランなりのアメコミ映画論ということで大変感銘を受けたのですが、映画とアメコミに精通した方がどう評されるのか気になっております。

Re: はじめまして

 はじめまして。「ミスター・ガラス」はまだ見ていませんが、いずれにしても、今まとめていることが終わったら、その後も映画について日本語でなにかしら書くつもりはありません。

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Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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