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ブログの更新を停止します

 ブログの更新を無期限に停止することにしました。今後のことは何も決めておらず、いずれ再開するかもしれませんし全くしないかもしれません。
 また、過去の記事の既に削除した部分についても、そのうち電子書籍にでもするかもしれないと書いていましたが、これに関しても、とりあえずやめます。
 このブログをやめることにしたのには、一つの明確な理由がありました。……というのも、昨年の記事の中でそれとなく書いたことがあるのが、何らかの評論を書いて何かの賞にでも応募する、ということでした。その後、渾身の力を振り絞り、完全にフルパワーでの文章を書き上げました。
 このブログにこれまでアップしてきた文章のほとんどは、単に自分のための備忘録・勉強ノートを公開しているというだけのものであって、たいして推敲もしておらず、全力で書いたものなどはほぼありません。だからこそ、それが消えようがどうなろうが、私自身にとっては割とどうでもよいことのように思えています。……しかし、全力で書いた文章は違います。投下した労力にしても、結果としての完成度にしても、ほぼ一息でできた走り書きの備忘録とは次元が違います。……私としては、自分が全力で書いた文章というものは、それが存在しているのであれば、仮に明日突発的に事故か何かで死ぬようなことがあったとしても、とりあえず納得して死ねる……とまで思えるものです。
 そして、そのような意味での全力の文章が完成した一方で、それが、そもそもその価値を論じるにも値しない、是非を検討する以前の段階で論外として排除できるものだとされてしまう時点で、もはや、世の中に向けて自分が言うべきことなど特にない、ということになるわけです。
 したがって、私にとっては全身全霊を込めた無二のものでありつつも、同時に、ゴミ同然の論外のものともみなされたまさにその文章、ジョン・カサヴェテス論をこのエントリの直前に公開した今となっては、このブログを継続する理由も、もはやありません。


 私がその文章を応募したのは、昨年に新たに創設された「すばるクリティーク」なる賞です。……ただし、その賞に応募したのは、単に新たに創設された第一回募集だからまあ目立つだろうし……という程度のことで、積極的な理由はとりたててありませんでした。選考委員が予選の段階から全ての原稿に目を通すと言うことが一つの売りになってはいましたが、そのことによって審査の公平性・適正さが担保されるだろうなどとは全く思っていませんでした。
 利用できる場があるのならば利用しようという気持ちしかなかったのですが、そもそも応募する前の段階で苛立ったのが、原稿の分量に関する規定の恣意性であるのでした。原稿用紙換算で60枚以内、という非常に中途半端な分量で、いったいどのようなことを目指して規定された分量なのかが全くわからなかったのです。「雑誌掲載のための都合から上限はそこがいっぱい」というのならまだわかるのですが、同時に「40枚以上」という規定まで設けられているのは、わけがわからないと言うよりほかにありません。ただでさえ、60枚以内という規定がいかにも中途半端で意味不明であるのに、それにかなり近い、あまり調整も利かないような中途半端な範囲に分量を細かく収めなければならない。……しかし、じゃあなぜその分量にしなければいけないのか、その分量によってどのような評論が求められどのような議論が可能になるのか、ということには、賞の創設に関して長々とした議論を公開しているにもかかわらず、全く触れられていません。「分量」というのも間違いなく表現の形式の一つであるのですが、自分たちが恣意的に決定した分量の持つ意味は、原稿の募集の段階で、なんら明らかにされていないのです。単に多様な議論を求めるのであれば、シンプルに「60枚以内」でなにがいけないのか。
 ……まあ、これは何も今に始まったことではなくて、文章表現の形式性と分量の関連に関する無関心というのは、日本の文芸業界には久しく蔓延していることです。例えば小説で言うなら、長篇なら最低400枚はなければ成立しませんし、逆に短篇なら30枚以内に収めなければなりません。……一方、中篇という形式もあるし、フランス文学にならレシという分類もあるのではありますが、世界の文学史を振り返ってみて、中篇で重要作を連発した例があったのかどうかを考えてみるべきなのです。例えば「バートルビー」が重要な中篇であること自体はいいとして、ではメルヴィルがあのような中篇を職業作家として量産することなどできたのか? という話です。
 なぜ長篇が最低でも400枚以上なければ成立しないのかというと、作品の成立に「何らかのテキストを読み解いた上で構築し直す」、もしくは、「作品が成立する前提となる社会的・文化的・政治的背景を分析的に検討する」という契機が必要となるからです(後者も、広い意味で「テキストの解読」と考えて前者に包含してもかまわないとは思いますが)。……だからこそ、そのようにして長編を書くこともできなければ、短篇を凝縮してまとめることもできない人が自分を小説家だと思いこめる制度として、日本ではよくある「無駄に引き延ばされた中篇」というものがあるわけです。もちろん、ある特定の風俗なり習俗なりの新奇な知識を持つ作者だけが書ける風俗描写から作品を始めても何ら問題はないわけですが、そこから出発して「その背景にまで掘り下げる資料の読み込み」という契機が作品に加わることによって始めて、長編小説が成立します。100枚~200枚の中篇というのは、新奇な風俗描写による水増しだけで引き延ばせる、構成能力を持たない者でも書き終えうる限界ということに過ぎないわけです。
 一方で、ジャンル・フィクションにおいては既存のフォーマットが完成されているので長いものも成立しますが、これは、外国で完成したフォーマットをそのまま流用している場合がほとんどです。あるいは、単に長く引き延ばしたお話を素朴にリアリズムで記述していったというだけのことでも、文芸のジャンル論の問題で言うと、バフチンなんかが言った「小説の言葉」にはなりようがないということでもあります。……つまり、近代以降の日本には「長篇小説」を書ける作家などほとんどいなかったのですが、小説を書けない者が小説を書けているのだと思いこめる制度が周到に張りめぐされてきたわけです。結果として、小説以外においても、文章表現の分量と形式性との関連に関してどうしようもない無神経が当たり前のように存在しているのだと思います。
 私が、「評論で60枚という枚数はあまりにも中途半端で無意味な枠組みである」と思うのには以上のような理由があるのですが……その規定に無理矢理収める形で体裁を整えたため、このブログに公開することになったジョン・カサヴェテス論は、全力を出したとは言え、私としてはかなり不本意なヴァージョンになってしまいました。例えば、映画における時間の問題に関して、ジル・ドゥルーズの『シネマ』の議論と部分的に重なるところもあるのですが、根本的な問題意識、議論の立て方自体は異なるので、「なぜドゥルーズの『シネマ』を参照しないのか」という議論の前提もきちんと比較して書いておきたかったのですが、とうてい分量的に収まりそうもなかったので、そのあたりのことは全部カットしました。
 しかし、そういう部分をばっさりときってもなお60枚に収まりませんでした。引用はかなり多いのですが、これは削れるところが全くないため、議論の展開をところどころカットすることになり、結果として、多くの部分で論旨が飛躍する不完全なものになってしまっています。……それでもなお60枚を超過するため、最終的に脚注を無理矢理本文の中に組み込んで行数を減らし、ぎりぎり「60枚」に収めるという、全くもって不毛な作業をする羽目になったのでした。これは本当に全く余裕がないため、一行増やすことすらできない量になっています。
 そういう意味では、このヴァージョン自体はいずれ書き直すための途中の草稿に過ぎないのでもありますが、公開するのであれば、改変する前の元のままでなければ意味がなくもあります。そのため、引用部分に関して「傍点が表記できないので削ったこと」と「ルビの表記を直後での丸括弧で代用したこと」と「一字ぶん下げての引用の区切りがわかりにくいため、このブログでの体裁に合わせて、斜体への変更に変える」という点だけを除けば、元のヴァージョンから全く変更のないものになっています。……自分としては不本意なヴァージョンではありますが、それでもやはり、意味不明な枠組みの規定の内であれ、自分としては全力を出したものではあるわけです。
 改めて自分の文章を確認してみて思ったのは、これが論外の検討にも値しないゴミだと思う人々が、自分は文学なり芸術なり批評なりの側なりにいると思いこめるのは、到底正気の沙汰とは思えない、ということです。
 もちろん、そのような人々に対する憤激と憎悪と軽蔑と殺意とは全く絶えることなく私の中で渦巻き続けているわけですが、それはまあ、こんなところに書いてもしょうがありません。
 これで、書いておくべきことは全て書き終えました。


 さて行くのだ。
 ……まあ、私ゃあ、謝罪なんてことはしませんがね。




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コメント

お疲れ様でした。

howardhoax様へ
いきなりのブログ更新停止に驚き、戸惑いつつも文章を読み、「あぁこれは仕方ないな」とも思わされてしまうものでした。
私自身はアメリカンコミックス、とりわけDCコミックスの話の時ばかり長いコメントを打っていたので、迷惑かな? と思いつつも丁寧に、それも面白く返してくれるhowardhoax様のご厚意に感謝の念しかありません。
アメリカンコミックスだけでなくプロレスや小説にも興味をもつようになり、最近では「文学批評ってなんなんだろう」としばしば思いにはせ紹介された本をゆっくりと消化していました。
私としてはお金を払ってでも読みたい過去の記事、それとプロヴィデンスの批評やドゥームズデイ・クロックの批評とあるのですが、それは私個人の問題でしょう。
とにもかくにもお疲れ様でした。また戻ってくるかな? という期待と共に立ち寄ることはあると思います。

長い間、ありがとうございました。

最近、文學界という雑誌に小山鉄郎という人の又吉直樹論が載っていました。あまりに酷い、というか荒唐無稽なもので、ああいうものを載せて平気なのはどういうわけだろう、と考えました。

自分はhowardhoax氏の文学論ーー特に、東浩紀を論じたものだとか、ノヴァーリスとホフマンを論じたものだとかを読んで、小説に対する認識を新たにする事ができました。

今の文壇はともかく、howardhoax氏の評論に影響を受けた者としては、またこのブログに氏が帰ってくるのを願って待ちます。色々、小説に対する理解が広がったと感じており、ファンとしてはいつまでも待つ気持ちでおります。

いままで様々な評論、感想など楽しませていただきました
無期限停止は残念ではありますが、どうか今後はゆるりとお休みください

本当に残念です。

HowardHoax様の文章が読めなくなるのが本当に残念でなりません。
経緯は存じませんが、この「カサヴェテス論」を「検討に値しないゴミ」などと言えてしまうのは、「カサヴェテス論」を分析できるだけの能力がないと白状しているようなものではないでしょうか。批評として質が低いというのなら「検討」して批判すればすむ話なのですから。
あるいは、彼らが批評の対象と採り上げるべきと見なす問題なり人物なりを扱っていない限り「検討に値しない」のかもしれません。「いまさらキルケゴールの引用なんてしてるよ、ぷぷっ」なんてレベルだったりするのではないでしょうか。彼らなりの批評の常識をかってに作り上げ、それに当てはまらない物を排除してしまう。

いずれにせよ、更新の停止も電子書籍を出版するか否かもご自身の決めることなので口出しはできませんが、いつかまたHowardHoax様の文章を読めることを心待ちにしている者もいることを覚えておいていただければ幸いです。

自分の見識が足りず、これまでなんのコメントもさせていただいておりませんが、ただただ残念です。
howardhoaxさんの記事が更新されるのをいつも楽しみにしておりました。
なんの権威もなく、金銭的なお礼もしていない一読者ですが、ぜひいつの日か再開されるのを心待ちにしております。

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Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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