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『キン肉マン』全巻を通読して、アメリカへの憧憬を見い出した

 少し前、電子書籍のキャンペーンで、『キン肉マン』が1巻から29巻まで期間限定で無料、というものがありました。それで一通り読んでいたんですが、売る側の思惑にまんまとのってしまいまして、結局電子書籍で最新のぶんまで一気に通読してしまったのであります。
 実は私、もともと『キン肉マン』に関しては、最初にいったん完結したときのぶんまでしか読んでいませんでした。これにははっきりとした理由がありまして、最後の結末の改変に納得がいっていなかったということがあります。ネットで軽く調べただけの感じだときちんと確認はとれなかったんですが、私の記憶にある限りだと、もともとの王位継承編のラストは「マッスルスパークでスーパーフェニックスを倒す→王位継承の証のマントを血染めにした時点で、即座に終了」というなんとも即物的にブツっと終わるもので、ハッピーエンドとは言えない「苦い勝利」というような感覚がむしろよいと思えていたのです。それがいざ単行本になってみると、スーパーフェニックスは生きていて和解が成り、アタル兄さんを始めとして死んでいった人々もみんな復活……と、「そりゃねえわ~!」と思えるものになってしまっていたのでした。
 そんな、結末の改変に対する微妙な思いもあったため、『キン肉マン』が(続編ではなく)王位継承編からの直接の続きを再開してからも、なんとなく読まないままできていました。……それが、今回一気に王位継承編から続く完璧超人始祖編を通読してみたわけですけれども。これは要するにアメコミで言うところのレトコン(事後からの遡及的な設定改変・再整理)が徹底されたものになっていたのですが、マッスルスパークに関しても、「単なるものすごい威力の技」ではなく「究極の峰うち」という新たな意味付けが与えられていたので、改変後のストーリーの辻褄が合うことになる再解釈が与えられていたので、私としては納得がいくということもありました。
 ……しかし、実は、私がいざ『キン肉マン』の全編を通読してみて最も大きな印象を受けたのは、確かに高い完成度を持つ完璧超人始祖編ではなく、むしろ荒削りで完成度も低い初期のあたりの方だったのです。
 よくよく考えてみると、私が『キン肉マン』を読んでいたのは2回目の超人オリンピックあたりからのことなのであって、「初期はギャグ路線で始まったから別物」という評判だったこともあり、全くその内容を把握していませんでした。
 今回、改めて一番最初から『キン肉マン』を通読してみると、なるほど、初期の漫画としての完成度は低いです。……とはいえ、アメコミのヒーローものと日本の特撮などとの文脈を融合し、なんとかして共通の場を作り上げようとしている試行錯誤の部分は、私としては単純に否定できないものであります。
 ……しかし、実はそこで目指されていることが非常に壮大な試みであることに本当に気づいたのは、アメリカ遠征編に突入してからのことなのでした。……超人オリンピックの優勝者として世界中で防衛戦を展開することになったキン肉マンは、ハワイを皮切りに全米に乗り込むことになります。しかし、そこに待ち受けていたのは、かつての権威を失い、アメリカの内でもごく一部のテリトリーしか管理できていない、失墜した超人協会の姿……。そして、キン肉マンを迎えた超人協会会長は、ドーロ・フレアース……。
 ……ドーロ・フレアース……
 ……ドーロ・フレアース……
 …………
 …………
 ……ろ、ロード・ブレアース…………!?
 そう、私のような四天王直撃世代の感覚だと、全日本プロレスが運営するタイトルマッチを認定する責任者にして、ほぼ全ての認定書は「代読」ですまされながらも、たま~に来日しては生存を確認させてくれる初代PWF会長こそ、ロード・ブレアースに他なりません。
 もっとも、『キン肉マン』作中でドーロ・フレアースが会長をしている超人協会は、明らかにPWFではなくNWAがモデルではあるのですが。そこは、熱烈な馬場派として知られるゆでたまごの両先生のこと、全日本プロレスとNWAの関係性をふまえた上で、フィクションの内部でそのような設定を作り上げていることは明らかでしょう。
 ……とはいえ、キン肉マンの渡米後も、超人協会のテリトリーは削られてしまい、最後の最後に残された唯一の場所とは……セントルイス!
 ……せっ、セントルイス!? ……そう、セントルイスと言えば、かつてのプロレス界の世界最大の権威、NWAの総本山。各プロモーターが自分のテリトリーを持って独立して活動し、プロモーター同士の連合組織として成立していたのがNWAです。それが、80年代の産業構造の変化によって、テリトリー制は崩壊し、NWAもまた実質的に滅び去ったのでした。
 つまり、アメリカ遠征編におけるキン肉マンの役所とは、現実のプロレス界の状況を照らし合わせるならば、「テリトリー制の元にあった古きよき時代のアメリカン・プロレスの没落に立ち向かう、日本出身の、最後のNWAチャンピオン」ということだったのです! ……これはもう、どこからどう考えても、馬場派プロレスファンだけが持ちうる悲願であり夢であるわけです。このことに気づくだけで、既に泣けてきます。
 そして、『キン肉マン』という漫画が特にアメリカ遠征編において極めて野心的であると言えるのは、プロレスという題材を通して日本とアメリカの関係性を描き出そうとしていることだけが理由ではありません。……実は、ギャグ展開が基調だった最初期のテーマも、密かにここで合流しているということこそが、真に重要なのです。
 キン肉マンのアメリカ遠征中、何度も登場することになり、重要な試合の立会人を努めたりすることにもなったりする人物がいます。新聞記者のクラーク・ケンタ氏であります。
 このクラーク・ケンタ氏なる人物が、スーパーマンことクラーク・ケントのパロディであることは言うまでもないでしょう。……しかし、セントルイスをめぐるストーリー展開の中でクラーク・ケントのパロディキャラを登場させるということには、単に有名なアメコミキャラを盛り込んだという以上の、アメコミの文脈に対する深い理解があると言えるのです。
 赤子の頃に惑星クリプトンから地球へとやってきたスーパーマンが育ったスモールヴィルは、カンザス州にあります。そしてまた、このあたりのアメリカの中枢部の地域は、アメコミ的には、歴代フラッシュと深く結びついた地域でもあります。
 歴代フラッシュが拠点としたキーストーン・シティおよびセントラル・シティも、おおよそこのあたりの地域にあります。両都市の正確な位置は時代ごとに設定が微妙に異なるのですが、最もオーソドックスな設定だと、両都市は川を挟んで隣り合っていることになっています。そして、隣とは言え、実はそこに州境があり、キーストーン・シティはカンザス州の東端、セントラル・シティはミズーリ州の西端にあるのです(ついでに言うと、この州境の橋こそが、初代フラッシュことジェイ・ギャリックと二代目フラッシュのバリー・アレンが出会った場所であることになっているのですが、ドラマの「フラッシュ」は、ちゃんと見ると、そのことをきちんと踏襲していることがわかります)。
 セントルイスはミズーリ州の東端にあるため距離的には少し離れていますが、大きく見れば同じ地域にあると言ってもいいでしょう。……ただし、ここで注意しなければならないのが、なんとなくこのあたりの地域を舞台に選ぶことで、それにまつわる異なる分野のキャラクターを寄せ集めている、というわけではないということです。事態は、むしろ逆です。
 つまり、プロレスとアメコミを完全に同一の地盤に統合して一つの作品の内部に導入するためには、必然的に、このあたりの地域を舞台にするしかない、ということなのです。


 プロレスとアメコミは同じである、と、私は結構前から言い続けてきました。……しかし、そんなことは、独創的なことでも何でもありませんでした。ゆでたまご先生の手になる『キン肉マン』は、そんなことはとっくの昔に当たり前のこととして打ち出し、プロレスとアメコミの融合によって、日本文化とアメリカ文化とがいかなる相克関係にあるのかを描き出そうとする、極めて野心的にしてなおかつ壮大な構想を持つ漫画だったのであります。
 ……しかし……そのように考えると、深く納得がいってしまうことがあります。
 ……そうか……そうだったのか……
 ……ニック・スペンサー、アメリカのゆでたまごだったのか……
 ……そうです、「キャプテン・アメリカは、実はハイドラのスパイだったのだ!」という展開を、前後の展開を知らない非読者がバッシングするということがありましたが、なんのことはない、あれは、「悪魔将軍の正体は、なんと、盗まれたと思われていた黄金のマスクだったのだ!」「ゲェーーーーーーーッ!!!」的な展開にすぎなかったのです。
 ……まあ、それはともかく、『キン肉マン』の初期における野心的な挑戦は、内容的な意味でも商業的な意味でも成功したとは言えず、結局は頓挫することになり、作品は異なる方向に向かっていくことになります。
 そういう意味では、子供のころの私が、2回目の超人オリンピック以降の展開しか読んでいなかったということは、ある意味では必然的なことであるとすら言えます。『キン肉マン』初期の、アメリカ文化への憧憬を基盤に据えた野心的な展開から方向転換し、日本の漫画市場で生き残れる方向性、「少年ジャンプ」のありがちな設定へと型をはめることによって、人気のある作品として生き残ることに成功したわけですから。


 それにしても、現在の視点から振り返ってみると、『キン肉マン』の方針変更の持つ意味は、日本ではあまり理解されないものであるように思えます。
 初期『キン肉マン』の試みは大変野心的なものだとは思いますが、当時のゆでたまご先生は、その野心的な試みをうまく作品に結実させるだけの技量は持っていなかったように思えます。……しかし、仮に当時のゆでたまご先生に、それこそ現在のニック・スペンサー並の構成力があり、巨大な構想が優れた作品に見事に落とし込まれていたとしても、やはり商業的な成功はありえなかっただろうと私には思えるのです。
 それがどういうことかというと、初期『キン肉マン』で全面的に打ち出されていたアメリカへの憧憬、それも主に「プロレス」と「アメコミ」という視点からそれを表明することは、少なくとも当時の日本では、まるっきり理解もされず、ひたすら馬鹿にされるリスクを持ったことだったということです。
 このことは、日に日にわかりにくいことになっていると思われます。アメコミに関しては、実写映画化が世界的な規模で大成功を収め続けてからというもの、「アメコミキャラは無条件で馬鹿にしてもいいもの」という偏見はどんどん薄れていき(ある一定以上の世代にはいまだ根強く残っているとは思われますが)、「なかったこと」への道をたどっているように思えます。しかし、ろくに語学ができるわけでもなければ、外国のコミックにもほとんどふれた経験がない人々が、とくにアメコミのことをひたすら馬鹿にし侮辱し続けてきたことは、きちんと記録されておくべきことです。
 そして、このことと同様のことについては、実はプロレスの方がより酷いものになっているのです。プロレスに関しては、これは「現在進行形で進んでいること」ではもはやなく、「完全になかったこと」に既になってしまっているのです。
 日本におけるプロレスの受容において、長年に渡って、「アメリカのプロレス」は「無条件で馬鹿にしていいもの」「日本のプロレスより劣るもの」であったのでした。この状況が変わった時点ははっきりしています。”ストーン・コールド”スティーヴ・オースティンとザ・ロックのブレイクが世界的に波及し、日本にも多大な影響を及ぼし始めた時点です。この両者の成功によって日本でも新規の観客が開拓されたことーーさらには、後述するもう一つの結果として、「日本のプロレス業界の主流派はアメリカのプロレスを徹底して馬鹿にし続けてきたこと」は、いつの間にか、完全になかったことになりました。
 そして、日本のプロレス業界においてこのような偏見が強固に形成されたのは、なんとなく自然にできあがってしまったというわけではありません。そこには、日本のプロレスの歴史を強固に方向付けた、一つの明確な起源が存在したのです。


 アメコミの文脈で、アメコミがどういうものなのかをよくわかっていない人々は、平然と「バットマンとスーパーマン」という表記をします。私自身は、スーパーマン派かバットマン派かと言われると明確にバットマン派なのですが、それとはまた別の話として、単に両者を並列するときには、スーパーマンを先に置くことが当然のことです。
 これは、日本のプロレスの文脈で言うと、「猪木と馬場」と表記してしまうことに相当します。……今回、『キン肉マン』を通読してみて改めて確認できたのは、さすがにゆでたまご先生は、日本のプロレスに言及する文脈では、必ず「馬場と猪木」と表記しているということです。「馬場と猪木」と書くのか、それとも「猪木と馬場」と書くのかということは、その言葉を発する人物のプロレス観が問われてくる、本質的な問題なのです。
 プロレスとは、極めてアメリカ的なジャンルです。そして、アメリカ遠征に単身乗り込んだ若き日のジャイアント馬場は、全盛期のアメリカン・プロレスの世界で、トップクラスにまで登り詰めました。それは偶然でも何でもなく、馬場がアメリカのプロレスの技術体系を完璧に修得していたということでもあります。
 それに対して、ジャイアント馬場の後進のアントニオ猪木がしたこととは、価値評価の基準そのものを変えることでした。実際、自身もアメリカ遠征を経験している猪木にしてみれば、「アメリカのプロレス」という枠組みの中では馬場に勝る部分などないことは自明のことです。……だからこそ、猪木は、「アメリカのプロレスなど偽物である」ということを強烈に打ち出したわけです。
 「アメリカのプロレスの多くは、ショーマンシップを全面に打ち出している偽物である」「ゆえに、馬場のアメリカでの実績など大したことはない」「ゆえに、実は馬場は弱い」「ゆえに、アントニオ猪木の新日本プロレスこそが本物である」……この種の主張が声高に何度も繰り返されたことが、日本のプロレス業界のある種の傾向を決定づけることになりました。
 プロレスはショービジネスですから、観客を喜ばせるための技術体系も、当然のこととして存在します。しかしそれとは別に、様々な利害関係によって生じる現場関係者間でのトラブルに対処するために、純粋に人体を破壊するためのみの技術体系も、観客には見せる必要のない「裏」のものとして存在します。
 観客から代価を取って見せるものならなんでも「ショー」なのですが、なぜか日本では、「ショー」という言葉に侮蔑的な意味が込められていると思いこむ人々が多いようです。……そして、猪木の戦略は、日本の市場においては大成功を収めることになりました。「表」の技術の追求は投げ捨てて、本来なら観客に見せる必要のない「裏」の技術を大々的に誇示して、自分たちこそが真面目に真剣勝負を追求しているとしたわけです。
 ……これは、逆に言えば、猪木のやることは、実はそもそもプロレスである必要はないということでもあります。実際、日本では、猪木新日本のプロパガンダを真に受けた人々の中から、完全にプロレスから脱却し純粋な総合格闘技の流れすら生まれてくることになったわけです。
 猪木にとってのプロレスとは、先行者たる馬場を打ち破り上に行くための、乗り越えるべき共通の土台を設定しているものにすぎません。言い換えれば、たとえプロレスなど存在しなくとも、猪木はいずれかの手段によって、自分がのし上がる道を見つけていたことでしょう。……しかし、馬場は違います。馬場のプロレスは、プロレスというジャンルそのものの本質と結びついた形としてしか存在することができません。プロレスがなければ、偉大なる存在としてのジャイアント馬場は存在しえないのです。


 実はプロレスなどというジャンルが存在する必要はないということこそが、新日本プロレスの本質です。……だからこそ、純粋な総合格闘技に打って出て、惨敗し、急速に訴求力を失って倒産寸前に追い込まれてからのちは、あれだけ馬鹿にしていたはずのアメリカン・プロレスの、それも商業的な成功を見込んで最も露骨にショーアップされた部分ばかりをパクりまくることによって、売り上げ的に立て直すことによって存続してきたわけです。
 ……そのように考えると……『キン肉マン』という漫画もまた、商業的な成功のために露骨な方針転換をしたことは確かではあります。しかし、『キン肉マン』の場合には、決して変わることのない核が存在していたと言えると思うのです。
 コミックなりプロレスなりの文脈でアメリカへの憧憬を堂々と打ち出すことは、当時の日本では、馬鹿にされ蔑まれることでしかなかったわけです。……そして、だからこそ、そのような部分をきれいにぬぐい去り、「少年ジャンプ」の典型的なバトル漫画のスタイルに自らはまっていくことによって、『キン肉マン』は人気漫画としての地位を確立しました。
 しかし……『キン肉マン』という漫画が描き続けてきたことは、「馬鹿にされたら、馬鹿にしかえせばいい」「蔑まれたら、蔑まれないようにのし上がればいい」「のし上がるためには、周囲を食い殺せばいい」ということだったでしょうか。……もちろん、馬鹿にされ蔑まれること自体がいいことであるわけはないが、だからといってそのような生き方を選択せずに生き続けることこそ、核として『キン肉マン』が描き続けてきたことだったわけです。……そして、私としては、そのような部分にこそ、『キン肉マン』の馬場全日本との深い共鳴を見て取りたいのです。
 なぜ、『キン肉マン』という漫画は、その核を失わずにいることができたのでしょうか? ……もちろん、心に愛があるから、というのも、一つの答えです。しかし、実際に作品の内部に具体的に描かれていることにも、はっきりとした痕跡があるはずです。
 馬場全日本とアメリカン・プロレスとの本質的な結びつきを、いつまでも証し立て続ける何ものか……『キン肉マン』という作品が展開するにつれ、「超人レスリング」という形式の、「超人」の方ばかりが重要性を持つようになり、それこそ常人には不可能な、超人にしかありえないド派手な必殺技が展開されるようになり……そんな中、どう見てもプロレスそのものとしかとらえられない技、それどころか、アメリカのある地域の郷土性すらぬぐい去りようもなく刻印された技ばかりを頑固に使い続ける、一人の人物……スピニング・トーホールド、カーフ・ブランディング、そして、テキサス・クローバーホールド……
 ……そう、今や私は、テリーマンの偉大さについて語らなければならないでしょう。


                    (つづく)



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コメント

まさかHowardHoaxさんのキン肉マン分析が読めるとは!うれしい驚きです。
続きも楽しみにお待ちしております。
既にお読みかもしれませんがアメリカ遠征編に関する著者へのインタビューがあります。
http://nikupedia.com/Copyrighted:%E9%81%8B%E5%91%BD%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E%E8%82%A2_%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E9%81%A0%E5%BE%81%E7%B7%A8

ちなみに「アメコミは馬鹿にしていいもの」「馬場はばかにしていいもの」という認識は恥ずかしながら私自身も長らく持っておりました。
ただこういう誤った認識をどこで得てしまったのかは我ながら定かではないんですよねぇ。
日本のギャグマンガにおける、アメコミパロディ・嘲笑の対象として登場する馬場をモデルにしたキャラクター、が一因だとは思うのですが。
パロディで元ネタを分かった気になってしまう弊害って大きくてマンガだと『ガラスの仮面』とか、小説だと『ドン・キホーテ』とか、実際に読むまで大きく勘違いしていた苦い思い出があります。

Re: タイトルなし

 プロレスを見続けて、素人ながらにもその技術体系がある程度わかってきてから始めてわかるのが、ジャイアント馬場は死ぬほどうまいということです。
 馬場がNWA王座を獲得したジャック・ブリスコ戦とかにしても、元々アマレスの一流選手でもある全米トップレスラーにガンガン寝技で責め立てられても普通についていった上で好勝負を展開していたりもしますし、長年聞かされ続けてきた「馬場は弱い」「全日は寝技ができない」というのはいったいなんだったのかと。
 結局、わけわかっていない人々の適当な法螺でも、大勢で大合唱し続けたら、なんとなく一般論になってしまうってことなんでしょうねえ。

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 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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