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隠喩としての糞便――廣瀬純『シネマの大義』を読む

 廣瀬純の映画論集『シネマの大義』を読んだ。廣瀬の映画に関する単著としては『シネキャピタル』以来のものとなる(『蜂起とともに愛がはじまる』も映画に関する議論が中心の著作ではあるが)『シネマの大義』は、様々な機会に様々な媒体で書かれた小論、講演の記録、座談会などが一冊にまとめられたものになっている。
 その意味では、構成としては非常に雑多なものになっている著作ではあるのだが、冒頭に収録された廣瀬自身のインタヴュー「早すぎる、遅すぎる 映画批評は何をなすべきか」において、この著作全体を貫いて廣瀬自身が取っている立場が明確に宣言されている。それは例えば、次のようなものだ。


従来のマルクス主義的映画批評は、一本の作品あるいはひとりの監督におけるブルジョワ的世界表象を告発するということに存するものでした。これに対して私自身の関心は、むしろ、作品内における映像のブルジョワ的あるいは資本主義的組織化それ自体にあり、そのような組織化は、ケン・ローチやコスタ=ガヴラス、新藤兼人などといった、世界表象の次元では社会主義あるいは共産主義的傾向をもつ監督たちの映画にも見られるものです。
 小津安二郎は同時代のマルクス主義批評家たちから、プチブルの生活ばかりを描く反動的監督だとして批判されていました。しかし、映像の組織化という観点から言えば、小津映画はブルジョワ反動映画ではまったくありません。小津は、ドラマ的あるいはメタファー的剰余価値生産に映像たちを従事させない。(『シネマの大義』、p15、ルビは省略)



 表層批評が、従来のマルクス主義的批評とともに葬ってしまったマルクス主義を、表層批評のそのただなかにおいて復活させなければなりません。私が試みてきた新たなマルクス主義的映画批評は、この意味では、マルクス主義的表層批評と呼び得るものです。多少乱暴な物言いが許されるなら、要するに、佐藤忠男さんに蓮實重彦さんのオカマを掘らせ、奇形の非摘出子をこしらえさせるということです。あるいは、より精確には、蓮實さん本人のうちに潜在しているマルクス主義者に表層批評家としての蓮實さんのオカマを掘らせると言うべきかもしれません(本書163頁「山中貞雄ーー革命の慎み」では部分的にこれを試みています)。私のいうマルクス主義的表層批評は、この意味で、蓮實主義の一形態にほかなりません。(同、p17~18、傍点は省略)


 ……マルクス主義的表層批評! さすがにこの発想は凄いと思えるし、そこで目指される方向性自体には、私としては全面的に同意したい。
 蓮實重彦の映画批評の後続への影響という点では、もちろん、功罪の両面があるだろう。しかし、じゃあ先行者としての蓮實を批判する側がどうなのかというと、てんで箸にも棒にも引っかからないようなものしかないというのが実状であろう。
 特にタチが悪いのは、「蓮實の映画批評は映画の外部の現実社会の政治情勢などを全て排除した!」などという完全な嘘をとにかく大声で喧伝することであろう(もっとも、これについては、なかなか入手しづらかった『ハリウッド映画史講義』が文庫化されるということで、今後は一瞬でバレる嘘ということになるのだろうが)。あるいは、最近ネット上で見かけたひっくり返ったのが、「蓮實の表層批評は画面に映っているものだけを論じるため、映画の製作現場からは疎外されている」という主旨の評言であった。
 ……う~ん……とりあえず、このような評言でわかるのは、言ってる人も真に受けてる人も蓮實の映画批評はほとんど読んでいないということだ。「画面に何が映っているのか」を正確に記述することを試みれば、必然的に、撮影や照明やセットの問題にまで行き当たらざるをえない(光がなければ画面には何も映らない)。そして、日本の映画批評家で、監督や脚本家などといった名前がよく表に出がちな人々以外の製作スタッフのことをあれだけ調べ上げ、話を聞きまくるという人は、どう考えても蓮實しかいないのだが……。『映画狂人のあの人に会いたい』に収録されたジョセフ・ロージーのインタヴューにおいて、ロージーの複雑なキャリアにおける様々な国の様々な映画スタッフとの関わり合いを恐ろしく細かいところまで掘り下げながら話を聞きまくった結果、ロージー本人を驚き呆れさせたことを知らないのだろうか!? ……いや、知らないんだろうけどさ……
 「表層批評」という意味では、テマティスム方面での蓮實の主著である『監督 小津安二郎』においてすら、わざわざキャメラマンの厚田雄春のインタヴューを付録として収録しているくらいなんだけど……いったい、何をもって、「製作現場から疎外されている」ということになるんだろうか?
 さらに言うと、「画面に映っているものしか論じない」という姿勢が「製作現場からの疎外」を意味するものだと信じて疑わない人々は、そもそもの大前提として、スタッフロールは作品の一部ではないということにしてしまっているわけだね。蓮實自身はと言うと、むしろ「撮影スタッフの名前を細かく確認しろ」と言う側の人なんだけど……。結局、このあたりのテキトーな言説を平然と述べたり真に受けたりしてしまう人々は、ろくに映画を見ているわけでもなければ、蓮實の映画批評を細かく読んでいるわけでもない、にもかかわらず、蓮實の映画批評の全体像を総括するようなことは言いたがる、とみなすほかないということになる。
 ……などというように、蓮實の映画批評に問題があるのかどうかという検討に入る以前に、「批判者の方こそが論外である」ということがあまりにも多すぎるため、蓮實自身の問題点にきちんと到達できるような議論がほぼ存在しないのである。そういう意味では、蓮實の議論を批判的に継承しつつその問題系を組み替えることをもくろむ廣瀬の批評は非常に野心的なものである……のだが、全体を通読しそこでなされている議論を検討した結論として、私としては、廣瀬の言う「マルクス主義的表層批評」は、廣瀬自身の議論に内在する欠陥の一つによって、本来目指された形で実現しえなかったという評価を下さざるをえないのだ。
 そして、廣瀬の批評に内在する問題点がいったん明らかになってみると、既に引用した廣瀬自身の言葉の内部にすら、既にして明確な兆候が表れてしまっていることも明らかなのだ。……では、その問題点とは何なのか。


 『シネキャピタル』における廣瀬の根本的な発想は、ふつうの映像を組み合わせることによって「特別な映像」を産みだそうとする商業映画の基本的なあり方が、資本主義の剰余価値生産と正確に重なるということであった。
 そして、そのことに対する検討が改めて「マルクス主義的表層批評」という言葉によって表されたとき、以上のような原理に既にして自覚的でありつつ映画を製作している特権的な存在としてストローブ=ユイレが名指されるのは、極めて当然のことであるだろう。
 そして、そのようなストローブ=ユイレがメタファーについて批判的な言葉を述べる言葉を検討しつつ、廣瀬は次のように述べている。


ここで何よりも興味深いのは、ストローブ=ユイレがメタファーを「近代的な発明品」だとした上で、メタファーの君臨の下での人間の感受性の縮減、無能化にまで至る人間の脱野生化を「産業文明のもたらした帰結」だと看做している点です。要するに、ストローブ=ユイレにとってはメタファーもまた優れて近代資本主義に関わる問題だということです。
 実際、ストローブ=ユイレの語彙において、「メタファー」と「剰余価値」とは厳密に同義語となっています。たとえば、また別の或るインタヴューで、質問者が「とりわけ演劇などにおいては、多種多様なアイディアや情報を膨大に蓄積していくことによって、あたかも新たな価値が生産されているように観客に信じ込ませようとする作品が散見される」というような発言をしたときに、ストローブ=ユイレは「そんなものは剰余価値に過ぎない、そんなものは市場経済芸術だ」としてこれを一蹴しています。彼らにとって、映像や音声のメタフォリックな使用とは、映像や音声に労働を強要してそこから剰余価値を引き出そうとする資本主義的振舞いにほかならないのです。(同、p68、傍点は省略)



 ストローブ=ユイレにとって、メタファー(隠喩)と剰余価値とは、「厳密に同義語」である。……このような廣瀬の評言に、私としては完全に同意する。確かに、ストローブ=ユイレの立場は、そのようなものとしてしかありえない。……一方、廣瀬の問題とは、隠喩と剰余価値とが「厳密に同義語」とまで言いながら、同じ議論が異なる文脈で出てきた際に、平然とこの原則から逸脱してしまうという点にある。
 何が問題なのだろうか。……ある二つの言葉が「厳密に同義語である」ということは、言い換えれば、その二つの言葉の間では、比喩によってどちらかがどちらかを譬える関係は成立しえないということだ。隠喩に関する問題が「まるで剰余価値の問題のようである」ことがなければ、剰余価値に関する問題が「まるで隠喩の問題である」ようなこともありえない、それこそが、「厳密に同義語である」ということだ。
 一見すると、些細な言葉の選択の違いに見えるかもしれない。……しかし、実のところ、ここにこそ、廣瀬の議論の核心がある。隠喩が全く異なる文脈の言葉を結びつけることによって剰余価値を生み出してしまうという事態をよりわかりやすいものとして説明するために、隠喩という言葉自体が隠喩によって他の文脈と結びつけられてしまうという逆説。廣瀬が落ち込んでいるのは、そのような錯綜した事態である。
 隠喩と剰余価値とが「厳密に同義語」であるという原理から全く逸脱しない強度を備えるのがストローブ=ユイレの映画であるのならば、廣瀬の映画批評の問題は、同じ原理を提示しながらも、密かにその「厳密」さを放棄し、隠喩に依存する文脈を呼び込んでしまうことにあるのだと言える。


 廣瀬純の『シネマの大義』は、既に述べたように映画に関する雑多な内容を含む論集であるのだが、その中でも、複数の論考をまたいで一貫し、特権的な扱いを受け、書物全体に共通する文脈をもたらす言葉がある。
 それがどのようなものであるのかを、いくつかの引用を並べて確認してみよう。


現代の映画監督たちが総じて問う共通の問題があるとすれば、それはクソ(あるいは”クソ的なもの”)をめぐる問題だろう。ここでいう「現代」とは、とりあえず、ゴダール以降、あるいはアルトマン以降といった意味だが、クソをめぐる問いそれ自体が映画の現代を規定していると逆に捉えるならば、そこにはゴダール/アルトマンよりも早い時期から映画を撮り始めた者も当然含まれることになる。たとえば増村保造がその典型だ。
 クソを問う現代監督は、そのやり方によって二つの人種に大別される。第一の人種は、クソ的なものが出現する瞬間を作品の向かうべき終着点に位置づける作家たちから構成される。彼らにとって、クソの出現は、ほとんど恩寵のそれともみなすべき特権的な瞬間であり、スクリーン上でのクソのそうした公現こそが、退屈で凡庸なこの曇った世界のただなかに絶対的な輝きを――たとえ一瞬のこととは言え――取り戻させるものとしてある。或る時期からこの新種の頂点に君臨してきたのがデイヴィッド・リンチにほかならない。
 他方、第二の人種にとって、クソは目指すべき目標、誇らしい戦利品といったものではもはやない。むしろ正反対に、クソはすべての物語の出発点に存するもの、あるいは逆に言えば、すべての物語はクソからはじまらなければならないものだとされる。彼らにとって、世界とは、何よりもまず、隅々までクソに満ちた場として与えられているのであり、クソの横溢としてのこの世界を描き出すことなしには、信じるに足るようないかなえう映画作品もあり得ない。この人種を体現する監督として、たとえば侯孝賢、あるいはホン・サンスの名が挙げられよう。(同、p193~194)



この作品に登場する「レザボア・ドッグズ」と名付けられた集団は、ありがちな誤解とは反対に、生まれついてのクソたちからなる不浄な犬の群れなどではない。確かに、生来のクソに違いないと我々に確信させるに足る面構えの人物もそこに混ざってはいるが、この集団を構成する者たちのうちの大半はクソではなく、むしろ、クソを演じてみせようと試みる者たちなのであり、また、その試みに失敗し、クソに到達することの困難さで画面を満たすことになる者たちなのだ。
『レザボア・ドッグス』において、見るからにクソな面構えのエドウォード・バンカー(幼少の頃からの輝かしい犯罪歴で有名な小説家)によって演じられる登場人物ミスター・ブルーが物語の開始早々、画面から消え去り、その後、二度と画面に姿を見せることがないのは、したがって、ただたんに彼の小説家としての仕事が多忙を極め、それ以上、撮影に参加している暇がなかったからというだけのことではない。なによりもまず、クソでない者たちがクソを演じることでクソになろうと試みる(そしてその不可能性を突き付けられる)というこの作品の主たる流れのなかに、バンカーのような生粋のクソ野郎が身を落ち着ける場など残されているはずもないからなのだ。触っても手の汚れようのないような小さな玉のようなウンチを出すのがやっとといった風情の者たちが、でかいクソをぶりぶりと出すような厚かましき汚らわしさを獲得したいと望み、懸命にそれを演じようとすればするほど、演じること自体がそれとして際立ち、終着点としてのクソが無限遠の彼方に遠ざかっていく――これが『レザボア・ドッグス』の物語だとすれば、でかいクソをすることが誰の目にも疑い得ないクソ野郎のバンカー/ミスター・ブルーについて語るべきことなどあるはずもないだろう。無味無臭・無味乾燥の、ウンチの何すら値しないウンチを出すのがやっとの者たちに混じってナチュラル・ボーン・シットの彼が登場するのは、彼らのために不可能なモデルを提供するため、あるいは、彼らとそのモデルとのあいだの無限大の隔たりを誰の目にも明らかなかたちで示すためなのであり、また、それ以外の理由などひとつもないからこそ、彼はオープニング・タイトルとともに画面から完全に姿を消してしまうのである。(同、p195~196)



 しかし増村は、世界がクソに満ち溢れたところだというこの事実を諦念とともに告発するために『赤い天使』を撮ったわけではない。そうではなく、クソに埋め尽くされたこの絶望的な世界のただなかに「それでもなお」という一語とおもに何らかの希望を見出し得るとすれば、それはいったいいかにして可能なのかという問いに我々を巻き込むために撮ったのだ。(同、p213)


 もちろん世界はクソまみれだ、しかし/だからこそ、我々は希望を失ってはならないし、希望を失わずにいられる――クソ映画は我々にそう告げている。(同、p215)


 今回の作品でゴダールは「糞の平等」のようなものを唱え実践しようとしている。(中略)「排便する存在」としての平等という新たなテーマの出現が、これまでずっと続けてきたことをゴダールに断念させたわけだ。(同、p542)


 ……以上のように読まれるとおり、『シネマの大義』を構成する多くの議論の内部では、糞便を指示する言葉こそが特権的なものとして至るところに登場し、共通する一つの文脈を作り上げている。
 おそらくはフーコーの「汚辱に塗れた人々の生」が参照されているのではないかとも思うのだが、直接の言及はないし、『シネマの大義』はあくまでも独立した議論の文脈を形成しているので、仮に発想元がそれだったのだとしても、とりあえずそのことは措いて構わないだろう。
 最も細心の注意を払って検討されなければならないのは、廣瀬が糞便を指す言葉を用いる際に、それが隠喩として用いられているのか否かということだ。廣瀬の言う「クソ」「ウンチ」「シット」「糞」が、糞便そのものを指し示すのではなく隠喩としての機能を担っているのであれば、廣瀬が宣言する「マルクス主義的表層批評」は、あえなく破綻することになる。
 例えば、仮に、ある時にある文脈である人物が「ワーナーはクソだ」と述べたとしよう。この際、ここで用いられている「クソ」が隠喩である可能性は高いが、だからといって、それが確定的であるわけではない。
 仮にその人物が、現代社会のごく平均的な思考からは著しく逸脱し、「ワーナーと呼ばれる大手映画会社の実体は糞便そのものである」と確信し、そのような文脈で文字通りの言葉を発しているのに過ぎないのかもしれない。……あるいは、その人物は、「クソ」という言葉の定義を拡大し、ワーナーと呼ばれる大手映画会社がその定義からして内包されるような概念として「クソ」という言葉を発しているのかもしれない。
 これらの場合、ここでの「クソ」は隠喩ではない。言い換えれば、文脈から外して一文だけを切り出して検討した場合、隠喩が隠喩であると確定することができないことは往々にしてある。……一方、例えば「ワーナーのやってることってのは、クソみたいなもんだ」という言葉が発せられたとしよう。譬える項と譬えられる項とが明示されている以上、これは、明確に直喩である。この場合、この発話の意味は一義的なものとして固定することになる。
 では、この両者を連結し、「ワーナーはクソだ。ワーナーのやってることってのは、クソみたいなもんなんだ」と述べられたとしよう。この二文が連結し、共通の文脈に置かれた場合には、後者が直喩であることが確定した時点で、前者に含まれる「クソ」という言葉が隠喩であったことが、遡及的に確定することになる。つまり、いったん隠喩が述べられてから、改めて意味を確定するために直喩で語り直された発話だったということが明らかになるわけだ。
 以上のことをふまえた上で、廣瀬による糞便に関する記述をいくつか引用した中でも最初のものの、冒頭部分を改めて確認してみよう。……ここでの廣瀬は、ひとたび「クソ」と呼んだことを、改めて「あるいは”クソ的なもの”」と呼び変えている。
 「クソ」と「クソ的なもの」が並列に並べられることが可能になるのは、ふつうに考えれば、この両者のいずれもが糞便そのものを指し示しているのではなく、それぞれが隠喩と直喩、あくまでも比喩として用いられているからということになる。
 ……しかし、『シネマの大義』という著作には、「クソ」と「クソ的なもの」との並列可能性について、さらに細かい議論をしている部分も含まれる。その部分も、さらに検討してみよう。


 『サウダーヂ』を論じる小論の中で、廣瀬は、「さわれるクソ」と「さわれないクソ」との区別を持ち出している。それは、例えば以下のような記述だ。


『サウダーヂ』(二〇一一)はクソに塗れている。クソとそうでないものとがあるのではなく、すべてはクソであり、「さわれるクソか、さわれないクソか」でしかない。上映時間一六七分のあいだスクリーンを隅々までクソで埋め尽くし続けるというその徹底ぶりが『サウダーヂ』に特異な強度を与えている。フィルムそれ自体が一本のクソなのだ。(同、p221)


 重要なのは、しかしながら、そのように寄せ集められたこれらの「問題」それ自体を「クソ」だと取り違えないようにするということだ。「問題」はそのどれもが確かに「クソのようなもの」ではあるだろう。しかし「クソのようなもの」であることは「クソ」であることとは必ずしも一致しない。(同、p222)

「問題」そのものがクソなのではない。そこで生活しているわけでもなく、そこをきちんと訪れたことすらない者あちが新聞やテレビなどの報道から得た知識に基づいていい加減に想像しているだけに過ぎないはずの「問題」、すなわち、「日本の地方都市の現状」という抽象的な括りで十把一絡げに頭のなかだけででっち上げられたたんなる想像の産物に過ぎないそうした「問題」が、そっくりそのまま寸分違わぬかたちで実際に生きられてしまっているという恐るべき現実、これこそがクソなのだ。その多くが実際に甲府で生活をしているとされる人々によって演じられる『サウダーヂ』の登場人物たちの生きる日常が、甲府のことなど何ひとつ具体的に知らない者たちの頭でっかちな想像を微塵たりとも超えないということ、これこそがクソなのであり、要するにクソとはステレオタイプ、紋切り型、クリシェのことであり、クリシェでしかない生のことなのだ。(同、p223)


 ここでは、「クリシェでしかない生」こそが「さわれないクソ」であるのだということが、明確に述べられている。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」の両者を含む上位の概念が廣瀬の言う意味での「クソ」であるのならば、ここには比喩の働く余地はないということになる。
 しかし、廣瀬は、「さわれるクソ」と「さわれないクソ」の両者がいかなる関係性をもって同一の概念に内包されることができるのか、いかなる議論も展開してはいない。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」とは、それぞれが単に無関係に存在しながら、同一の言葉によってのみ関連づけられている。……ここにあるのは、隠喩の機能そのものである。
 さらに言うと、この小論の冒頭で、廣瀬は「フィルムそれ自体が一本のクソなのだ」と断定してしまっている。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」のどちらかによって全編が満たされているという意味で述べるのであれば、「さわれないクソ」に関する部分をも含めて「一本のクソ」と述べることはできない、それは「さわれない」のだから。言い換えれば、「さわれるクソ」のことしか指示できないはずの「一本」という表現が、「さわれないクソ」をも含んで指示してしまっている。つまり、「さわれるクソ」という「クソ」全体の一部に過ぎないはずの概念が、「クソ」全体を包含するものとして当然のこととして扱われている。
 以上のように検討してみれば、やはり、「さわれるクソ」、通常の意味での糞便そのものが、糞便そのものとは無関係な文脈に連結しより大きな文脈を形成するために、隠喩としての機能を担わされてしまっていることは、『シネマの大義』という著作の内部で起きていることとして間違いのないことなのである。


 なぜ私は、映画を論じる文脈での隠喩の使用のされ方を細かく論じているのだろうか。……それは、比喩形象の類は、「映画において用いられている状況」と「映画を論じる言語において用いられている状況」とのそれぞれで、全く異なるあり方をするからだ。
 極めて当然の事実として、映画の画面に糞便が映り込んでいる際に、その映像が糞便以外のなにものかを指し示すことはない。それは圧倒的に、糞便そのものをどこまでも表象している。もちろん、「糞便が映っている
映像」が前後の文脈と合わせた結果他の何物かをも同時に指示することはありえるが、しかし、糞便そのものの形象が失われることはありえない。
 一方、言葉として発せられた糞便は、あくまでも隠喩としてのみ用いられたにすぎない糞便と、そこだけで見れば全く区別が付かない。したがって、この言語を操作する者は、糞便そのものの表象と隠喩としての糞便とを意図的に混同し、新たな文脈を形成することすら可能である。
 ということは、である。ある映画に関して「映像そのもの」ではなく、「映像をいったん言語に移し替えたもの」を議論の素材とするならば、映像そのものに即していた限りでは到底出てこないような突飛な文脈を構成することが可能となる。
 ……だからこそ、そのような意味での隠喩の機能が存分に駆使されてしまっている『シネマの大義』という著作は、私としては、マルクス主義からも表層批評からも後退してしまっているという判断を下さざるをえないのだ。


 繰り返すが、隠喩であるかどうかが一見すると不確定な表現が実際には隠喩として機能しているという事態は、『シネマの大義』という著作においては、極めて致命的なことであると言えると思う。
 例えば、この論集でなされる議論の理論的な中枢であると見なせる「フーコー/イーストウッド」「プラトン/レヴィナス/ゴダール/小津」あたりの小論では、その根本的な発想として、哲学者による著作をあくまでも映画と見なし、哲学書の展開自体に切り返しショットやクロースアップなどの映画の技法が含まれることになっている。
 つまり、廣瀬は哲学書をあくまでも映画としてとらえているわけだが、例えば「フーコーのカメラ」という記述がなされる際、それが文字通りの意味で廣瀬が信じていることなのか、それともあくまで隠喩としてのみ用いられているのかは、その部分だけでは確定できない。それぞれの論考自体は、この不確定性が貫かれているのである。
 しかし、『シネマの大義』という書物全体で見ると、その終わり近くに収録されたロラン・バルトに関する講演記録で、ドミニク・パイーニから話を引き継ぎつつ、廣瀬は次のように述べてしまう。


映画を直接的には論じていないようなテクストのなかにもストップ・モーションやクロースアップといった映画的手法を読み込んでみせるパイーニさんの映画批評家としてのその曲芸的な身振りを私自身もそっくりそのまま真似て、しかし、パイーニさんが引き出してきたのとは異なる答えを、いわば、パイーニさんの答えに対する切り返し、あるいは、アンチテーゼとして呈示した上で、私の後に発表されるバルト研究者の桑田光平さんにそのジンテーゼ、パイーニさんと私とを同時に捉えるロング・ショットを期待してみたい。今日はそのように思っています。(同、p468~469、ルビと傍点は省略)


 バルトが文字通りの意味で映画を撮影しているわけではないと自らが見なしていることを、廣瀬は自ら認めてしまっている。バルトが用いているのはあくまでも「映画的手法」であり、廣瀬自身が行なっているのは、「いわば」「切り返し」なのであって、「切り返し」そのものではない。
 直接聴衆を目の前にして発せられた言葉であるからだろうか、ここでの廣瀬は、文脈を明らかにし、それが比喩であることを隠さず、意味も固定する直喩を選択している。……ならば、この著作全体が一つの文脈に置かれるならば、フーコーやカントやレヴィナスが文字通りの意味で映画を撮影したと信じているのではなく、あくまでも隠喩としてのみ述べられていたことになってしまう。
 ……以上のことを確認した上で、この著作の冒頭に立ち戻ろう。小津映画とマルクス主義映画批評との関係を述べた廣瀬は、「ドラマ的あるいはメタファー的剰余価値生産」と述べていたのだった。
 当然のことであるが、「メタファー」と「剰余価値生産」とが「厳密に同義語」であると信じている者は、両者の間に「的」という言葉を挟むことはありえない。ここでの「メタファー」はあくまでも「剰余価値生産」を指示することに奉仕する直喩なのであり、「メタファー」と「剰余価値生産」が同等であると信じられてはいないことが、この些細ながらも決定的な表現によって自ずから明らかになってしまっているのだ。


 廣瀬純の『シネマの大義』を読み込みつつ私が考えたのは、以上のようなことであるのだが……廣瀬自身が掲げる「マルクス主義的表層批評」からこの書物の記述方法が乖離することによって生じた結果は、黒沢清の評価に表れているように私には思えた。
 蓮實重彦の映画批評を批判的に読み替える作業を貫徹するならば、結果としてその評価が最も大きく変動するのが、黒沢清であろう。しかし、廣瀬による黒沢清の評価は、むしろ蓮實による従来の評価とそれほど変わるものではない。
 廣瀬は、マルクス主義的表層批評の観点からして、黒沢清はゴダールと並ぶほどの特権的映画監督であるとする。私には、これは受け入れ難い評価だ。……むしろ、表層批評にマルクス主義の観点も入ることで、黒沢清の見え方は根本的に変わる……と言うか、蓮實重彦と黒沢清との影響関係のその間隙で、無視してもよいことになっていたはずのとある固有名が、全く異なる意味を持つものとして再浮上することになるはずなのである。
 ……とはいえ、これは、『シネマの大義』の読解とは直接的な関係がないことではあるので、改めて別の記事に書くことにしよう。







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 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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