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映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(下)

 既に述べたように、映画『ワンダーウーマン』は、ワンダーウーマンという(アメリカでは)非常に有名なキャラクターに関して全く何も知らない観客にとっては、おのずと見え方が変わってくるような作品である。とりわけ、「両腕のブレスレットで銃弾を弾く」というアクションは、そのことを最大の見せ場としてアクション演出が構成されているため、予備知識による印象の差が特に大きく出てしまうような部分となっている。
 このことについて、非常にがっかりしてしまったことがある。『ワンダーウーマン』の日本公開に合わせて、日本の色々な漫画家がワンダーウーマンのイラストを描くというキャンペーンがあったのだが……その中で、「ワンダーウーマンが、ブレスレットと剣で銃弾を弾いている」、というものがあったのだ……。
 ……いや、だから……まあ、これに関して、仕事を振られた漫画家には、別に罪はないだろう。しかし、企画が立てられ、漫画家に仕事を振り、たぶん下書きが仕上げられてから、カラーリングが施されて完成し、一般に向けて公表される……という過程で、「いやこれはおかしいですよ」と一言言える人は、ただの一人もいなかったんだろうか……。


 例えばの話なんだけれども、日本の非常に有名な漫画である『ドラえもん』を、ドラえもんの存在が全くの未知である外国に紹介しようということになったとして、「戦後日本の社会状況においてこの漫画が登場した背景は……」とか、「この作品を生むに至った作者の人となりは……」などということから、まず紹介を始めるという必要はありますかね?
 いやもちろんそういう話が出てきてもいいんだけれども、まずは、「ドラえもんの四次元ポケットやひみつ道具がどういうもので、それを巡ってストーリーの見せ場はどのように作られるか」とか、「作中での主要なキャラクターはこんな関係を持っている」……などといったところから始めて、作品をごくふつうに受容できる下地がまず作られてから後の話ですよね、どう考えても。
 ところが、日本のマスメディア上とかで『ワンダーウーマン』が紹介されるのを見ていると、とりあえず私の見た範囲だと、政治的状況やら時代背景やらの話しかされておらず、ブレスレットに関するアクションについて触れられているのなんて見たことなかったんですよねえ、アメコミに関して識者であることになっている人々の発言で……。
 まあ私自身はワンダーウーマンに関してはそれほど詳しくない方のキャラクターなもんで、真偽を細かく判定することはできないんですが……しかし、これがキャプテン・アメリカなんかだと、キャプテン・アメリカをアメリカの政治や社会と結びつけて語りたがる人々がさも読んだかのような振りをしてついている嘘の数々は、全部ばれてますぞ。
 そういうことから考えると、「ワンダーウーマンの政治性や拝啓知識に関しては饒舌に語るが、ブレスレットのアクションについてすらほぼ触れないというような人は、そもそもコミックなど読んでいない紹介者なのではないか」という疑いを、当然のこととして持ってしまうわけです。


 とはいえ、じゃあコミックそのものの紹介がいいのかというと、そんなこともないのだった。
 映画『ワンダーウーマン』の公開にタイミングを合わせて邦訳が出版されたのが、現行のDCコミックスの「リバース」展開になってからの最初の単行本『ワンダーウーマン:ライズ』であったことには本当にがっかりし、「特に何も考えないで、機械的に出してるだけなんだろうな~」と思えてしまうようなことだった。
 DCコミックスの「リバース」展開で、とりあえず新規読者がそこから入っていけるように、ほぼ全てのタイトルが新規まきなおしとなったことは事実。……しかし、これが「ワンダーウーマン」の場合、「今までワンダーウーマンのオリジンは何度も語られ直されてその都度少しずつ設定に変化が見られたが、そこにはまやかしがあったのではないか」というところから始まったのだった。
 ……で、そこから、ワンダーウーマンが秘密を探る現在時の話と、改めて出生の状況が語られる回想編とが交互に語られるというのが、それ以降の「ワンダーウーマン」の展開だった。……が、この交互に時間軸を行ったりきたりするのをとりあえず単行本にまとめるときにはやめて、現在編をまとめて単行本の一巻『ライズ』、過去編をまとめて二巻の『イヤー・ワン』として出版された。
 しかし、日本の場合、「あまりにも有名であるがその出生は何度も異なる形で語り直されてきたワンダーウーマン」という話の大前提が共有されていない。だから、その状態で読者がいきなり『ライズ』を読んでもぴんとくることはないだろう。……一方、『イヤー・ワン』の方はと言えば、非常にオーソドックスな形でワンダーウーマンのオリジンを語っており、全く何の予備知識もいらず、ダイアナがブレスレットで銃弾を弾くことになる経緯も語られており、なおかつ映画とも登場キャラクターがかぶっている……ということで、どこからどう考えても、映画公開に合わせて出すにはこれしかないというドンピシャのものなのである! ……が、いまだに邦訳が出てはいないわけだ……。
 だいたい、当のDCコミックスがフリーコミックブックデイなんかで配布していたのは『イヤー・ワン』の方の第一話だったりしたくらいなんだから、「日本の状況はこうこうなのでこうしたいです」という企画を立てれば、単行本の順番を変えるくらいの許可は下りると思うんだが……。そして、それ以前の問題として、『ライズ』と『トゥルース』は完全にひとまとまりの作品なので、『ライズ』だけで先に出版しても、あまりにも中途半端なところでぶつ切りになってしまっている感じが否めない。しかし、これをひとまとまりのものとして続けて読めば、グレッグ・ルッカのライティングもさえ渡り、とんでもなくすばらしい逸品に仕上がっているのである。
 これだけすばらしい作品を、可能な限り適切な状態で刊行しようとする意志は、はたらなかったんだろうか?


 ……などという風に見ていくと、この作品をどのように受容したらよいのかということについて、どこを見渡しても熱意のようなものは見あたらず、結果として、作品をきちんと理解しようとする機運も全く盛り上がらなかったのが『ワンダーウーマン』という映画だったのだと思う。
 このことに関しては、この映画とフェミニズムの関連性をめぐることでも全く同じ状況であったと思う。……なるほど、いざ蓋を開けてみると、この映画はダイレクトにフェミニズム的な指向が含まれるようなものではなかった。
 そのことに関して「やった! フェミニズム臭くない!」などと喜ぶのはもちろん最悪の反応だが、一方で、フェミニズムの観点から「たいしたことない」などとあっさり断じてしまうような評価も、複数の場所で目にした。
 そのようなことについて私が思ったのは、「フェミニスト批評ってのはそんなに甘いものなのかね?」ということである。……だいたい、ハリウッド映画は世界中に向けて売り出される商品なのだから、表向きの大まかな内容はあっさりと咀嚼できるように製作されているのが当たり前である。
 これはフェミニスト批評に限った話ではないが、一見すると単純な内容しか持たない大量消費のための商品としてのフィクションを、実際には存在している詳細な意味内容を分析し時には社会的な文化背景との関連性を浮き彫りにしたりするようなことまでするために、高度な批評理論なんかが存在したりするわけだ。
 単純な商品の表向きの単純な内容をとりあえず咀嚼しただけで、単純な鑑賞以上の分析を試みるわけでもなければ、文化背景をていねいに調べる気もない……にもかかわらず、単純な内容の評価以上の、なんか知的っぽい言説を口にしてみたい。これでは、単に怠惰なだけだと言われてもしかたがないだろう。


 ワンダーウーマンという有名なキャラクターには、フェミニズムと関わり合うという意味合いが不可分に結びついて存在し続けてきた。にもかかわらず、始めてこのキャラクターが単独で実写映画化された『ワンダーウーマン』の作中では、直接的なフェミニズムの主張はほとんど存在しなかった。
 ……ならば、「それはなぜなのか」という問いを立て、それに答えるために背景を調査したり分析を展開したりすることを経た後で初めて、その内容に関する評価を下すことができるだろう。
 はっきりとここで述べておかなければならないのは、二十年ほど前までのアメリカのコミック・ブック業界においては、性差別が自覚的に意識されることすらないまでに内面化されていたということだ(……これはまあ、要するに、今の日本と大して変わらないということでもある)。コミックの内容に対する自己検閲のシステムであるコミックス・コードが有名無実化していった80年代以降の状況で、性と暴力に対する直接的な描写が氾濫したが、そこにあったのは、主要な読者層であるヘテロの若い男性の欲望に無批判に奉仕するものであったわけだ。
 それ以降、現在に至るまでのアメリカのコミック・ブック業界は、そのような無自覚なセクシズムに対する批判を受け入れ続け、業界の性質を絶えず変え続けてきた。スーパーヒーローものに偏重していた内容に関しても、様々な内容が取り上げられる方向に進み、女性の描写が若い男性の性的な視線から消費されるためだけに存在するようなことは、ほぼなくなっていった。
 ここ二十年ということなら、例えばジム・リーは、トップクラスのアーティストとしての地位を保ち続けている。そして、ジム・リーのアートの変遷を確かめてみれば、作風そのものにはそれほど大きな変化は見られないものの、女性の人体の描き方は根本的に変わってきていることは、一目瞭然なのだ。
 もちろん、現実社会の水準でなら、アメリカにも性差別はまだまだ残っているのだろう。コミック・ブック業界でも、読者の側からのバックラッシュは絶えず存在する。しかし、少なくともフィクションの製作現場の水準でなら、作り手たちの間で性差別をなくすことが当たり前のこととして内面化されてきてもいる。
 そういう意味では、現在のコミック・ブック業界を代表する男性が音頭をとって製作し、女性監督の仕事をサポートして完成した『ワンダーウーマン』に直接的なフェミニズムの主張がなかったことは、むしろ、「ようやくここまできたか」と思えるような、喜ばしい事態なのだ。それはつまり、ワンダーウーマンがフェミニズムの意味ばかりを担うことからはとりあえず解放され、個人的な問題を抱えたただの一人の女性として描くこともできるようになったということだからだ。
 ……だから、こういう状況についての「やった、フェミニズム臭くない!」という反応も、「フェミニズムの観点からは全然たいしたことない」という反応も、双方ともに私としては悪い冗談の類としか思えない。これは単に、日本の文化状況がアメリカから二十年以上の差を付けられて、周回遅れになっていることに完全に無自覚な者によってのみ発せられる言葉なのだろう。


 映画『ワンダーウーマン』の作中では、第一次大戦中の欧米での女性に対する不当な扱いが描かれる場面もあるが、厳しい告発が向けられるわけではない。私の考えでは、これはあくまでも「昔はこんなにおかしいこともまかり通ることもあったんだね」という回想としてのみ存在しているのだと思う。
 もしお望みであれば、ワンダーウーマンというキャラクターの担ったフェミニズム的な意味を、社会的な文脈のメタ的な視線まで織り込んで制作されたコミックも存在する。……正確には、ワンダーウーマンそのものではなくワンダーウーマンのパロディキャラを主人公とした『アストロシティ:ヴィクトリー』である。
 このコミックでは、フェミニズムを強く主張し、女性に希望を与えるために闘う女性ヒーローが、社会のあらゆる方向から徹底して罵詈雑言を浴びせられ続け、女性だけが共同生活を営むキャンプが「狂信的なカルト集団の巣窟」などとバッシングを受け、それでも戦い続ける様が描かれている。つまり、ワンダーウーマンというキャラクターの作中で描かれた内容のみならず、社会的に担ったメタ的な文脈をもふまえてストーリーが構築されているわけだ。
 このようなコミックの脚本を、カート・ビュシークという一人の男性が書くことができたということが、既に記念碑的なことであると言えると思うのだが……そうだとしても、これが可能になったのは、コミック・ブック業界のセクシズムをめぐる血みどろの闘争が既に過去のものとなり、過ぎ去ったこととして回想する余裕もできたからこそ成立しえた作品だと思う。
 ……まあ、日本の文化状況にふさわしいのは、映画の『ワンダーウーマン』じゃなくて、こっちのコミックの方だとは思うが……。


 念のために書いておくと、映画『ワンダーウーマン』がフェミニズムの観点から見て反動的な後退だという批判があっても全くかまわないのである、その批判が正当な手続きを踏んでいるのであれば。
 例えば、ワンダーウーマンの両腕のブレスレットについて、アクション面での意味ばかり私は書いてきたけれど、一方で、「文字通りの意味で男が女を縛り付けていた時代の名残り」という意味付けも与えられてきた。また、ワンダーウーマンの故郷のパラダイス島にしても、基本的には、「男の暴力から逃れてきた女たちにとっての楽園」という含意があった。……だから、同じ内容に関するコミックと映画での描かれ方の落差を比較して、「映画の方が後退している」という批判だって当然成立しうるわけだよね、私が読んだ中では存在しなかったけれども。
 一方、あくまでも独立した映画としてのみ『ワンダーウーマン』を評価するため、作中に描かれていることだけを内在的に取り上げるという立場も当然成立する。……しかし、その場合には当然のこととして、この映画の外部でワンダーウーマンというキャラクターが幅広く持ってきた文化的・社会的な意味には、いっさい言及してはならないということになる。
 これまたフェミニスト批評に限ったことではないわけだけれども……映画をあくまでも独立した映画としてのみ見て、作品外部の文化背景やなんやかやに関してはいっさい調べる気も分析する気もないけれども、影響力の大きな有名なキャラクターなので、独立した映画をとりあえずは見たという知識のみに基づいてその外部の大きな分化や社会の文脈について語りまくるということを、スーパーマンやキャプテン・アメリカなんかを取り上げて平然とやっている人々って、掃いて捨てるほどいるよね。
 ……そういう意味では、これはやっぱり、フェミニズムうんぬんの話ではない、はるかにそれ以前の問題だ。批評や研究のめんどうな作業をする気はさらさらない人々が、なんとなく知的っぽい感じに自己満足できる、文化的・社会的に大きな文脈を切ったつもりになれるような批評もどきをやりたがるのは全くくだらん、ということでしかない。
 やっぱり、問題なのは、単純に物事を断言できないような状況の複雑さ、めんどうな作業を進めなければ理解などできないようなあいまいさにとどまることのできる人間がほとんどいない、ということなのだろう。映画『ワンダーウーマン』の主演のガル・ガドットとイスラエルの関係についても、怒り出す人が出てくるのはまあ当たり前のことではあるわけだ。……もちろん多くの日本人にとってはパレスチナ問題など身近ではなく、それほどの知識があるわけでもなく、当事者の感覚など持ち合わせてはいないのだが、しかし、自分にとっては縁遠い問題についての他人の怒りを「それとこれとは話が別」というように、さも理性的であるかのような分別をふりまわすのはおかしい。これは、客観的なのではなくて、他人事であるのにすぎない。
 このことを日本に置き換えたら、どんな話なのだろうか。……例えば、黒澤明の『七人の侍』を現代でリメイクするとして、強者に虐げられる村人たちを救うために立ち上がった七人の侍を演じるのが……石原慎太郎! 百田尚樹! 高須克弥! 長谷川豊! ……などというメンツだったとして、果たして我々は冷静でいられるのか。
 まあ、この場合は純粋に映画としても酷いことになりそうだけれど、「それはそれ、これはこれ」「作品としての評価と俳優への個人的評価とは別の話」という言葉を発するのには、本当はそれなりに覚悟がいることはわかると思う。……そして、パレスチナ問題に関する当事者感覚というものは、たぶんこんな例よりもさらに生々しいものであるはずなわけだ。映画というジャンルで、身体性をまるまる備えて作品に写り込む俳優の個人的な属性と役柄とを完全に区別してとらえるのは難しい。……そして、そのような難しさや曖昧さをあっさりと無視して簡単な結論に飛びつくのは、「理性」や「客観性」や「分別」などではなく、粗雑にして無神経な愚かさでしかない。


 ……まあ、こういうような状況を見るにつけ、ワンダーウーマンというキャラクターは日本になど相応しくない……と思うのだったが、しかし、ダイアナはといえば、スティーヴとともに、問題はdeserveではなくbelieveなのだと言っていたのであった。








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コメント

3本連続、それも前のも含めると7本連続の更新お疲れ様です。
 自分はDCコミックスの一ファンとはいえNew52から入り(お金の事情があるとはいえ)バットマンやスーパーマンそしてフラッシュを中心に買って見聞しているため「ブレスレット」のアメリカでのどういった扱いなのかをしり非常に楽しいエントリでした。
 割と海外のサイトやレビューを巡っていると「ワンダーウーマンが回転して変身するシーンがほしかった」という意見もあり70年代のドラマを見ていた人たちはすごい盛り上がりを見せていたというのも印象的でした。
……ジェフならいれてくれそうなんですけど、やっぱりこれもワーナーの仕業なのでしょうか……

>批評や研究のめんどうな作業をする気はさらさらない人々が、なんとなく知的っぽい感じに自己満足できる、文化的・社会的に大きな文脈を切ったつもりになれるような批評もどきをやりたがるのは全くくだらん、ということでしかない。

まったくもって耳が痛い話です……。自分も最近になってようやく批判理論入門として『『フランケンシュタイン』解剖講義』を読んでいるんですけど今までどれだけ浅い感想を述べてきたか……といった次第です。
 

ただこれってちょっと思うのがやはりその浅い知見の集まりこそがポストトゥルースになり『シークレットエンパイア』に繋がったりするんでしょうか(それにしてもシークレットエンパイア:オメガ非常に良かったですね。)

あとこれは前のエントリになるんですけど「スパイダーマン:ホームカミング」、これってマイルズ君の要素を大分使ってますよね……、自分は熱心なスパイダーマンファンではないんですけど彼をピーターパーカーといってよいのか微妙に腑に落ちない自分がおりました……

>ワーナーはクソ! 本当にクソ! どうしようもないクソ!

なんだか噂によるとハリウッドのセクハラ騒動のあとに『ジャスティスリーグ』の制作陣にクリストファー・ノーランぶちこむときいて「やはりDCユニバース最大の脅威はネクロンやらバルバトスではなくワーナーなのでは?」と思う次第です……。

次回も楽しみにしています!!

Re: タイトルなし

 あ〜、ドラマ版のワンダーウーマンのことは考えに入れてなかったです。それを含めるとまた違った見方が成立するんでしょうか……
 逆に、ドラマのフラッシュでバリー要素とウォリー要素とバート要素がシャッフルされてたので、『ホームカミング』でのピーター要素とマイルズ要素のシャッフルは特に気にならなかったんですよね〜。……とは言え、「バリーと付き合うリンダ」という展開だけはさすがにキツかったんですが……

 もうワーナーに関しては、やっぱなんも期待しちゃダメなんだな〜と。最近の動きって、

 明るいに作風にしつつ、ファイギみたいにコミックに詳しい人材に舵取りさせよう。そうだジェフ・ジョンズだ
 → ジェフ・ジョンズの脚本が気に食わん! 介入!
 → なんで『スパイダーマン:ホームカミング』のような映画が作れんのだ? ああいう明るいのが作れないとダメだ! 方針転換だ!
 → そうだノーランを呼び戻そう!

 ……みたいなことになってますよね……
 この会社に期待する方がおかしかった……ジェフジョン脚本がお蔵入りで仕事が消滅していくのは完全に時間の無駄だから、もう完全にコミックの方に復帰して欲しいです……

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Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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