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絓秀実『タイム・スリップの断崖で』に見る、日本の文芸批評の問題点(下)

 蓮實と柄谷の少し下の世代として両者の多大な影響を受けることを回避できなかったの絓の批評には、両者に板挟みされた者に特有の逡巡があるように私には思える。
 小林秀雄の批評の最悪の部分には、自分の分析能力を超えた作品の分析を放棄し、作品に遭遇する体験を神話化して流通させるような面が確かにあった。……一方、絓より若い世代の聡明な批評家は、しばしば、単に作品の分析そのものを放棄する。明晰な理路を備えた単線的な言語からなる批評ならば分析を拒むようなこと自体がありえないため、そのような対象だけを選べば、高度な議論はどもることなく淀みなく展開される。
 絓秀実の批評にあるのは、この両極のどちらにも振り切れない態度だろう。作品の分析に手をつけるスガは、自身のそれ以上の分析を拒むような真に優れた作品に遭遇すると、その核にまで行き当たってしまう。良くも悪くも、そこに絓の批評の限界がある……そして、そのとき初めて絓は、自身の逡巡に対する照れ隠しの意味もあるのだろうか、フィクションとしての駄法螺を吹き始めるのだ。
 このような点で、絓秀実は、しばしば似たようなポジションにあると見なされる渡部直己とは決定的に異なっている。両者の決定的な違いは、それぞれの著作のタイトルを見ていけばすぐにわかる。……渡部は、作家名を冠し単独の(もしくはいくつかの)作家に冠する単著を幾冊も上梓してきた。これに対して、絓は、(とりあえず今のところは)このような著作を書くことはなかった。絓が自身の著作に固有名をまぎれこませるような場合、そこにあるのは常に、先行する批評家の固有名であったからだ。
 もちろん、このことは、渡部の優位を意味しない。というのも、渡部は、特定の小説家を取り上げ小説の具体的な内容に即した記述をするに際して、テクストそのものを平然と裏切るようなデタラメを何度も書き連ねてきたからだ。
 具体例を一つ挙げてみよう。これまで渡部は、いたるところで、大江健三郎の『万延元年のフットボール』を同趣旨で批判してきたが、これがなんとも愚かで無惨なものなのである。……渡部によると、大江が『万延元年のフットボール』の中核に置いているのは「表象不可能性」であり、それは「本当のことをいおうか」という言葉で何度も繰り返されているのだそうだ。決して表象することができず言葉にできないことを「本当のこと」として作中に配置することによって、時代状況に制約された素朴な疎外論的文脈を形成してしまっている、のだそうだ。
 しかし、大江が「本当のこと」という言葉の引用元とした谷川俊太郎の詩には、「本当の事を云おうか/詩人のふりはしているが/私は詩人ではない」と書かれているのにすぎない。また、『万延元年のフットボール』の作中でも、鷹四は確かに「本当のこと」の実態を述べずに意味ありげにほのめかしつ続けはするものの、いざその内実に言葉を与えてみると、蜜三郎によって一笑に付されてしまうような大したこともないこととされている(……というか、作中で鷹四は「オレハ本当ノ事ヲイッタ」というはっきりとした言葉を残してすらいるのに、なんでこれが「表象不可能」なんだろうか……)。
 本来なら当たり前のことのはずなのだが、「表象不可能なこと」と「表象困難なこと」とではまるで異なる。そして、多少なりともまともな作家であれば、当然のこととして、「表象困難なこと」をいかにして表象するのかに腐心する。その技術的な努力の部分をすっ飛ばして、あたかも作家が何でもかんでも「表象不可能性」のカテゴリーに放り込んでいるなどと見なすのは、「表象不可能なこと」と「表象困難なこと」の差異を見極めようとすることすらしない、怠惰な読み手の側の愚かさにすぎない。
 『万延元年のフットボール』を作品の具体的なテクストに即して見ていく限り、疎外論の文脈によって限定された表象不可能性の問題などというものは存在しない。それは大江の問題ではなく、渡部がもともと持っていた自分の問題を勝手に大江の小説に投影した挙げ句、大江の側の問題だと勝手に誤読して罵倒しているのにすぎない。渡部は、自分の内部の愚かさを勝手に外部のテクストに投影し、自らの愚かさの鏡像を叩いているのにすぎないわけだ。


 ……以上のようなことは、なにも渡部直己だけに限られることではなく、至る所で何度も繰り返されてきたことであるだろう。そういう意味では、絓なり後続する批評家なりが、安易な分析を拒むテクストの分析を回避しつつ明確に分析できる対象のみを取り上げることは、相対的には明らかに優位に立つことであるし、無駄に他人の作品を貶めないという意味では誠意のある行動であるとすら言える。
 とはいえ、絓の著作に即して見るとき、核心部分で特定の対象への分析を回避することが、著作の全体への影響をも及ぼしているようなこともあるのである。そのことを、少し具体的に見てみたい。
 非常にトリッキーでありなかなかに独創的であるゆえに、絓の批評のスタンスが明確に表れているように私に思えるのが、文芸誌「すばる」で連載されていたチャート式文芸時評である(単行本としては、『文芸時評というモード』に収録)。
 この文芸時評における絓は、その月に文芸誌に発表された小説を縦軸と横軸の二つの観点から点数化して評価し、その全体の位置づけをチャートとして提示し、一望する図を与えてみせる。
 その際、横軸は「技術」で一定しているのだが、縦軸はと言えば、正月には「おめでたさ」、ある時には「共産主義」、野球になぞらえたいときには「リーグ優勝可能性」、などと、テキトーきわまりないものである。
 もちろん、この毎月ころころと変わり続ける縦軸は、数値化の根拠などというものは何ら存在しない、駄法螺の類のものである。その意味で、この二元的に数値化されたチャート表が意味することは、ごくシンプルな一つのことでしかない。……すなわち、同じ月に文芸誌で発表された小説を完全に同一の基準で見てみれば、どんぐりの背比べにすぎない大半のゴミと、安易な分類を超えたごく一握りの優れた作品の二つが存在しており、その両者の決定的な溝は埋めがたい……ということである。
 以上のような性格を持つチャート式文芸時評を単行本化した『文芸時評というモード』は、絓の著作の中では最も「アジビラ」としての側面が強い(なおかつうまくいっている)ものだと思うが、しかし、ここには、実はかなり根深い問題が残っている。……絓による文芸時評は、実は、もともとは渡部直己が「物語内容」と「物語言説」の二つの価値基準から点数化することを前提とした文芸時評が非難轟々たる反応を得た後で、その数値化の前提を踏襲しておこなったものだったのである。つまり、絓は、「文学作品を厳密に点数化する」という形式を踏襲しつつも、実はその判断基準などいくらでも適当にこじつけることができるということをパロディとして実演しているわけだ。
 だが、絓がパロディを実演しているのだとして、それは何に対するパロディなのか。絓は、『文芸時評というモード』の冒頭に、そもそも文芸時評という日本に固有の奇妙な制度とは何なのかという原理論をも収録している。そこには、次のような記述が見られる。


 近年にいたるまで、日刊紙=全国紙における文芸時評の存在意義が、繰り返し疑問に付されてきた。しかし、寡聞にして、どこかの日刊紙=全国紙が文芸時評という制度を廃したという話も聞かない。これにはやはり理由があると考えるのが妥当なのであって、私見によれば、文芸時評とは――とりわけ、日刊紙=全国紙のものは――「天皇制」のごときものと位置づけることができよう。それは、まさしく「国民的象徴」なのであって、かつて湾岸戦争についての反対署名を「天皇制」の一語で総括しようとした者がいたが、彼がその批判の分析の対象を文芸時評に向けたとしたら、多少は実り多い成果が得られたのではないかと、今となっては惜しまれるのである。
 つまり、文芸時評なる制度が、新聞の配布先たる全国民に伝達しようとしているメッセージは、日本国民が、国民として付与された特質にもとづいて、月々自発的に、「文学」(=芸術)という富を算出しているということそれ自体であって、その意味において、文芸時評は「国民的象徴」なのである。この場合、時評に取り上げられた作品がどのようなものであるかは、さしあたり、問われる必要はない。文芸時評とは、天皇とおなじく、国民レヴェルにおいて、存在することに意義があるものなのである。確かに、こんなことが制度的に保証されている国は、ほかにはあるまい。(『文芸時評というモード』、p8~9)



 文芸時評という制度とは、天皇制のごときものである。絓は、はっきりとそのように述べている。ならば、そこに存在する前提を転倒しパロディによって全体像を覆すという作業をしているのだとしても、いったんは天皇制を受け入れていることは否定できない。
 文芸批評もまた何らかの制度の内にあることに自覚的でありつつその制度を内部から転倒してみせるようなパロディをテクストそのものの水準で実演してみせることに関しては、おそらく蓮實重彦の影響が強いのであろう。しかし、それぞれがどのような活動をしどのような発言をしてきたのかを照らし合わせてみれば、天皇制をいったんは許容した上で活動することに関して、どちらの方が批判されなければならないのかについては、言うまでもないほどに明らかだろう(……とはいえ、現在の時点での絓は、そういうことまで考えた上で、文芸誌からも大学からも収入を得ていないのかもしれないが……)。
 だが、問題は、絓の言行不一致にのみあるのではない。正直なところ、左派による天皇制の利用を生真面目に批判する絓より、『文芸時評というモード』において適当な駄法螺を展開する絓の方がよっぽど面白いとすら私は思う。……にもかかわらず、私が『文芸時評のモード』という著作を肯定しきれないのは、ここで実演されるパフォーマンスが、絓が本来なら論じるべきであるはずのことを覆い隠す煙幕として機能しているように思えるからだ。
 絓によるチャート式文芸時評は、ひとたびパフォーマンスを取り払ってしまえば、「同時代的に文芸誌で書かれ続ける大半のゴミ」と「一握りの小説家による真に読まれるべきテクスト」を選別することしかなしていなかった。そして、ゴミのゴミたるゆえんは、それなり以上に優れた批評家であれば、誰でも明快に述べることができる。
 一方、絓は、一握りの優れたテクストをテクストに即して念入りに分析する作業は、肝心の所で回避する。日本語という言語に対する自己言及的な分析に基づく文学作品であるならば天皇制という制度そのものに亀裂を入れることすらありうるのかもしれないのにかかわらず、絓はそれを正面から論ずるのではなく、自身の言説をもフィクションと化しつつ、パロディとして距離を取っているというエクスキューズをつけながらも、天皇制への加担に自らもまた加わってしまう。


 絓が、重要作家の重要作品に対して、肝心の部分での分析を回避してしまっているということは、文芸時評よりも主著での記述に即して見ていく方がいいだろう。もちろん、文芸時評においては作品の具体的な分析があるのだが、絓の場合には、分析しないことではなく、肝心な部分で核を回避するというところに問題があるので、主著の長い記述の方が例としてはよいわけだ。
 以前から私が気になっていたのは、『革命的な、あまりに革命的な』における、絓による大江健三郎への読解なのであった。……もともと、『革命的な、あまりに革命的な』という単行本にまとまる原稿は、鎌田哲哉が「進行中の批評」を連載していたのと同時期に、「早稲田文学」に連載されていた。そこで、鎌田の側から提出された批判と同時進行で進むのを読みながら、絓の大江の作品に対する扱いに驚くということが、私の中であった。
 『革命的な、あまりに革命的な』という著作の主眼は、1968年の日本で起きていた状況を分析することにある。そういう意味では、一小説家である大江への言及が主要なものとならないことは問題ではないのだが……絓が大江に関して言及するのは、主に、1968年の学生活動家たちに影響を与えた若い世代の小説家、という側面に注目してのことになる。
 当時の学生活動家より少し年長の世代の大江が後続する世代に影響を与えたのは、大江が学生時代に書いた初期作品『われらの時代』であるとされる。その上で、その内容が批判的に分析されることになるのだが……もちろん、『われらの時代』という作品そのものは、大江自身のキャリアの中では、若書きの初期作品にすぎない。
 では、当の大江は68年に何をしていたのかと言えば、「走れ、走り続けよ」「核時代の森の隠遁者」「狩猟で暮したわれらの先祖」などのその時期に書いていた中短篇を『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』として出版することなのであった。
 絓は、大江の初期作品『われらの時代』の、とりわけ作中での「われら」という言葉の持つ含意が68年の日本の学生活動家たちにもたらした悪影響について論じてみせる。しかし、大江自身が68年に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という連作集のなかでやっていたのは、自身が初期作品で提起した「われら」という言葉の迂闊さを自己批判し、解体してみせることだったのである。
 つまり、大江自身が68年になしていたことをの実態を作品に即して分析しようとするならば、同時代的な現実と同調するわかりやすい見取り図を描くことなどできなくなる、ということだ。だからこそ、絓の『革命的な、あまりに革命的な』という史論においては、「大江の若書きが68年に与えた影響」の記述はあっても、「大江自身が68年に出版したテクストの分析」は含まれない。
 とはいえ、このことについては、絓自身が著作の内でエクスキューズをつけてはいる。……絓によれば、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』に先立つ『万延元年のフットボール』の時点で、大江は同時代的に影響を与える知識人としての立場から離脱したのだという。それゆえ、『万延元年のフットボール』以降の大江は、同時代的な状況を分析する上では参照する必要がないのだ、と(ついでに言うと、大江の『万延元年のフットボール』の位置づけに関して、絓は、「疎外論的な文脈にある」という渡部の評価を共有している……のだが、むしろ、そのことによって同時代的な責任を放棄するデタラメさがあるということをこそ評価しているのである。こういうことを見て改めて思うのは、渡部が本人としては大まじめにテキトーなたわごとを述べだしたら、絓がとりあえずそれを引き受けつつパロディ化してギャグに作り変えてあげる、ということが繰り返されてきている、ということだ。……しかし……なんというか、これは、ボケとツッコミの役割が完全に逆転していると思うのだが……)。
 以上のような状況をふまえつつ、それでもなお絓の大江に対する対応にもどかしさを覚えるのは、絓が「読めていない」からではなく、むしろ逆に、「読めている」からである。
 何人かの文芸評論家が集まった座談会の席で、福田和也が大江について「クヌート・ハムスンやセリーヌなどの真の偉大さに比べると、その一歩手前にいる」という趣旨で評したことがある。それを受けて絓は、次のように述べているのだ。


 たとえば『狩猟で暮したわれらの先祖』のあたりは、これ意外とセリーヌに近い感じがしませんか。(「小説の運命Ⅰ」、『皆殺し文芸批評』所収、p128)


 ……いやいやいや、だから、やっぱり、わかってんじゃ~ん! 大江の核心がどこにあるのという話になると、真っ先に持ち出してくるのは、スガにとっては、やはり『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』から、ということになるのである。にもかかわらず、いざ68年の史論を書くとなるとこの作品には一言も触れないということにこそ、絓秀実という批評家の限界があるように思えてしまうのだ。


 絓秀実の批評を以上のようなものとしてとらえていくと、後続者としてそれを批判する鎌田哲哉の立場にも、従来とは異なる評価を下さなければならないように思える。
 鎌田の絓批判によれば、絓が同じ論旨での悪循環を繰り返しているのには、「翻訳」や「法廷=議論」という契機が欠如しているからなのだという。しかし、これらが、絓以前から繰り返されている「分析困難なテクストの回避」の一形態だと考えてみると、鎌田自身もそこから免れてはいないことが明らかになるのである。
 論争的な局面での舌鉾の鋭さと論理の切れと説得力という意味では、恐ろしいまでの強さを持つのが鎌田哲哉という批評家なのであった。……しかし、鎌田の批評のほとんどにおいて、何度も繰り返されるきまった型が存在していた。
 鎌田は、自分が批判する対象の弱点をえぐり出すと、いかにしてその弱点が成立していいるのかをギリギリまで論理的に記述する。……しかし、最終的に対象を否定する際にするのは、「そのような弱点を備えていない、豊かな価値を備えたテクスト」を持ち出し、否定する対象にぶつけることである。
 鎌田のデビュー作「丸山真男論」において、丸山の弱点に対してジョイスの『ユリシーズ』をぶつけて以来、鎌田はこのレトリックを何度も繰り返していた。しかし、「否定されるべき対象の弱点」を免れているものとして提示されるテクスト(その大半は著名な文学作品である)は、無条件に肯定されるべきものとしてのみ参照され、なぜそれが肯定されるのかはそれ以上分析されることがない。
 言い換えれば、鎌田にとっては、「肯定されるべきテクスト」はあらかじめ無謬なものなのであり、それ以上の分析は許されていない。……そういう意味では、その核心部分において、鎌田の批評は教条主義的なものであると言うほかないのだ。


 私自身、鎌田哲哉の批評の多大な影響を受けてきはしたものの、そういう意味では、やはり鎌田哲哉よりも山城むつみの方が優れた批評家であると言わなければならないだろう。山城は、向かい合うべきテクストに実直に向かい合い愚直に分析する批評をなすからだ……しかし、その帰結として、ぱっと見のわかりやすい面白さはない。
 このあたりのことに関して非常に良くないと思ったのが、既に引用したインタヴューの中で、蓮實が山城の批評を「まったく興味がわかない」「とにかく面白くない」とボロクソにおとしていたことだ。
 既に言及したように、同じインタヴューの中で、蓮實は、日本の文芸批評における具体的なテクストの分析の欠如を問題にしていた。とはいえ、もちろん、そのこと自体は誇張である。実際には、テクストを具体的に引きつつ作品を論じる批評家は掃いて捨てるほど存在するが、その大半は箸にも棒にもひっかからないものであり、どうしようもない単純素朴な誤読をなしており、そもそも取り上げるのにすら値しないということだ。
 そういう意味では、相対的に見れば、山城むつみは、まともにテクストが読めるという意味で希有な批評家であると言わなければならない。しかし蓮實は、今度はそれが「面白くない」と難癖をつけだす――それも、まともな分析ができていない側の渡部直己あたりを聞き手としながら、である。平然とダブルスタンダードを行使しているここでの蓮實には、党派性しかない。
 具体的なテクストの分析を愚直にやったところで、読み物として面白くなるはずがない。単純な面白さを求める多数の読者を呼び込むはずがない。現にというか、このインタヴューからしばらく後に蓮實は実際に『「ボヴァリー夫人」論』を出版することになったが、あの書物にはまともな読者などほとんどついてはいないではないか。
 実直な作品論であり、長大にして難解な議論をも含む『「ボヴァリー夫人」論』は、そもそも通読した者すらほとんどいないような書物であるだろう。蓮實の主著がそんなものであるのだから、蓮實の活動の全体像を俯瞰できる者などほとんど存在しないはずであるにもかかわらず、『伯爵夫人』のようなしょうもない小説が世に出ると、『「ボヴァリー夫人」論』については沈黙を決め込みんでいながらも、とりあえず小説だけ読んだら「遂に蓮實について語れるぞ!」とばかりに鬼の首でも取ったかのようにはしゃぎだすアホどもに対しては、私としては、呆れる以外の反応はない。しかし蓮實は、この手のアホどもをコントロールし煽動し動員することによって自分の権威を築いてきたことも今となっては否定できないだろう。
 『「ボヴァリー夫人」論』は、「面白くない」……それは山城むつみの批評が「面白くない」のと、同じ意味に置いてである。あるいは、かつての蓮實によって激しく否定された小林秀雄の「遭遇のメロドラマ」にしても、批評家として飯を食っていくために選択された方法論でしかなかっただろう。小林を肯定する者も否定する者も、その大半は、小林の人目に立つパフォーマンスやレトリックの部分しか見てはいない……それは、小林からしてみれば、そういう読者は動員されている側の者でしかないと言うことだ。そして、『「ボヴァリー夫人」論』と『伯爵夫人』の読者の配置を見る限り、蓮實もまた、結局は小林のあり方を繰り返している。
 そういう意味では、そのことに自覚的であろうとなかろうと、誰もが「日本の文芸批評」の磁場に囚われていることは確かだ。……だが、仮にも批評家としての道を選んだ者は、フィクションの分析が行き詰まった地点で、自らがフィクションの実演に逃げ込むようなことはやはりやめるべきだとは思う。少なくとも、絓秀実が『タイム・スリップの断崖で』という書物の核心で書いていたこととは、近代国家なりの天皇制なりの分析をするのに当たって、フィクションの分析こそが必要不可欠であるということなのだった。
 現実社会の分析という局面ですら、文芸批評にしかできないようなことが確かにあるのならば、なぜそれを回避する必要があるのだろうか。


 訂正 大江健三郎の小説についての書誌情報で微妙に不正確な表現があったので訂正します。大江が主に68年に執筆・発表していた作品群が『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』として単行本になって出版されたのは、翌69年になってからでした。失礼しました。







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コメント

非常に興味深く拝読させて頂きました。色々と思う所があったので拙い駄文を連ねさせて頂きます。

実はこのエントリを読む前に『小説より遠く離れて』を読んでいたのですが、蓮實がアレで述べた「物語」と「長編小説」の区分を、ここの論考に絡めさせる事が出来るような気がします。すなわち、「物語」に直接抗する事を諦めて相対的に作品を外部文脈の内に粛々と組み込んでいくのが柄谷的な在り方なのだとすれば、あくまで反復の中の偶然性や差異に賭けて「長編小説」を志していくのが蓮實的な在り方と換言出来るのではないか。そして柄谷的なクローズドサークルは「物語では伝えきれない何か」を見落としているのではないか……
あのテクストに蓮實が書きつけた「物語とともにあるとは、物語のように生きたりするのではなく、物語の体現しつつある真実の露呈に立ち会うということ」という文字列を見るとそんなエクスキューズが頭に浮かびます。

しかし同時に鎖国以来、異民族の大量移住を経験していないホモソーシャル的な日本社会に於いて「「蓮實的」な方法は可能なのか?」ともつくづく疑ってしまいます。当時の文壇の一種保守的な『枯木灘』の絶賛と、その世界観を資本主義で解体した『地の果て至上の時』の酷評なんかを対比する限り。

……長々と済みません。私自身の無知と勉強不足が祟って上手く言葉に出来ないのですが、「相対主義やパロディが却って「物語」の現状追認に陥ってしまう」という事態について、どうお考えになられますか。

Re: タイトルなし

 まず前提として、「物語」と「小説」の区別に限ったことではありませんが、蓮實が既存の文学・哲学・美学などから用語を引っ張って来るときは、もとの文脈を踏まえて使っています(自分の議論の文脈によって意味を捻じ曲げることもありますが)。
 特に映画評論でありがちだったのが、蓮實のそういう議論を蓮實のオリジナル議論だと勘違いして的はずれな批判を展開するということです。蓮實をきちんと論じるのが面倒なのは、そういう事情があるからです。
 蓮實は今や『「ボヴァリー夫人」論』で、ナラトロジーにおける「物語」の扱いと「小説」の関連も単に率直に論じているので、それを参照しないで蓮實のことについて云々してもしょうがないというのが、私が言っていることです。そういう主著があるのに、パフォーマンスに近い方を「蓮實的」と前提した話をするのも、私は気が進みません。

あ、誤読でしたか
すいません

ご論考拝読しました。
一点、渡部直己さんは、最後の字は、
巳ではなく、己です。

批判的な文脈で固有名詞を出す以上、
間違えずに名前を書くのは、
大切なことかと思いました。
具体的に作品を読めない、という文脈で批判する
当の対象を書き間違ってしまうというのでは。。。

Re: タイトルなし

 それに関してはすぐに修正します。

 ただし、テクストの誤読と単純な誤字との間になんらかの相関関係があるかのようにほのめかすこと、また、文章の後半部分を省略することで、批判の具体性を省略する態度については私としては受け入れ難いですね。

相関関係のほのめかしってのはよくわかりませんが、
単に批判的な文脈で名前を間違えるのは
批評家として失礼な態度なのではってだけです。
ま、肯定的な文脈で間違えても失礼ですけど。

五月雨ですみません。
いま書き込みをした時のことを思い出したのですが、
単純な誤植とは思いませんでした。

侮蔑の意味を込めて、わざと間違えたという可能性も
ありうるのでは、と一応考えました。
そうすると相関関係がまったくないわけではないし、
侮蔑の意味をほのめかしているのかなと。
批判の本旨と単純な誤植の相関関係を、
読んでいてほのめかされたとも言えます。

その推測はまったく的外れだったわけですが、
単純な誤植かどうかは、
書いた本人にしかわかりませんので。

気分を害されたのなら失礼しました。

Re: タイトルなし

 まず前提として、連続投稿は非常に迷惑なので、絶対にやめてください。

 私が「相関関係」を「ほのめかし」たと言っているのは、あなたが、具体的な因果関係を全く述べないままに、あたかも単なる誤字の問題が他の文脈にも意味があるかのようにを示唆しているということです。
 誤字の指摘をしたいのなら、すればよい。論旨を批判したいのなら、すればよい。しかし、誤字の存在が論旨にも影響を与えると言うのなら、その因果関係を具体的に記述し論証しなければならない。いざ具体的に内容を聞かれれば、自分でも「まったく的外れ」な推測に過ぎなかったことを認めざるをえないようなことでしかなかった。つまり、具体的な因果関係の説明を省略したゆえに、本来ならそれがくだらないことに過ぎなかったことが隠蔽され、私がそんなことに付き合わされる羽目になったということです。
 そして、このようなことはそもそも、私がこの文章で日本の文芸評論の問題点と言っている「分析の欠如」そのものです。この文章に対して、全く無邪気にそういうことが出来る神経を疑います。まずはご自分の読解力を疑われるところから始めたほうがよいと思います。

>侮蔑の意味を込めて、わざと間違えたという可能性も
>ありうるのでは、と一応考えました。
>そうすると相関関係がまったくないわけではないし、
>侮蔑の意味をほのめかしているのかなと。
>批判の本旨と単純な誤植の相関関係を、
>読んでいてほのめかされたとも言えます。

 何度でも言いますが、テキストに「侮蔑の意味」があるのなら、具体的に引用して、そのように解釈できることを論証せよというのが、私が繰り返し言っていることです。そして、私は、対象を批判する際には実際にそのようにしているわけです。
 一方、あなたは、

>具体的に作品を読めない、という文脈で批判する
>当の対象を書き間違ってしまうというのでは。。。

 などというように、文章の後半を「。。。」と省略することによって、論旨をぼかしています。私は、このことを具体的に指して「ほのめかし」と言っているわけです。「書き間違ってしまうというのでは」どうなるのか、それを具体的に書かない。だからこそ、本当はそこで省略されたことが「まったく的外れ」であったとしても、そのことが隠蔽され、あたかも正当な批判が成立しているかのような幻想というか妄想が成立しかねない、ゆえによくない……ということを、本文のほうでも再三に渡って繰り返しているわけです。
 そして、私は、そのような意味での、誤字にまつわる「ほのめかし」などということは一切していません。あなたが「ほのめかされた」と思ったら成立するなどという主観的な問題ではありません。つまり、「ほのめかされたとも言え」るようなところなどどこにもありません。私はあなたの「ほのめかし」という行為を指定することは、あなたの言葉に即してやっています。一方、あなたのやっていることは、ただの言いがかりです。

>単純な誤植かどうかは、
>書いた本人にしかわかりませんので。

 テキストが他人にはうかがい知れない、検証不可能な主観の反映でしかないと考えているのなら、文芸評論の話になど口を突っ込むべきではありません。あなたは、文学理論などに関する最低限の知識を欠いているように思えます。
 

>気分を害されたのなら失礼しました。

 あなたの行為が失礼であるのは、私の「気分」の問題ではありません。私の「気分」に全く関わりなく、あなたは非常に失礼な「行為」をしています。
 たとえば英語圏でなら、このような言い回しはnon-apology apologyと言って、謝罪の形式を取っているが謝罪としては成立していない、ということになっています。ご存じなかったのかも知れませんが、文化的にある程度進んだところでは当然の考え方です。

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