Latest Entries

絓秀実『タイム・スリップの断崖で』に見る、日本の文芸批評の問題点(中)

 前回の続き。絓秀実の『タイム・スリップの断崖で』を読みつつ、絓がだいぶ以前の段階で鎌田哲哉によって批判されていたようなことが依然として繰り返されているのではと思う一方で、ここにはより大きな文脈での、日本の文芸批評全般に共通する問題点が潜在的にあるのでは、と考えたのだった。
 さて、そのような問題に関して、私の知る限り最も自覚的なのは蓮實重彦である。ではそれはなんなのかというと、一言で言ってしまえば、「文学作品の実体であるテクストの具体的な分析の欠如」である。
 小林秀雄以降をとりあえずの区切りとして見たときに、日本の文芸批評は、文芸批評であるにもかかわらず文学作品のテクストそのものの記述・分析を回避してきた。そのことをことあるごとに強調するのとともに、小林秀雄をも手厳しく批判してきたのが蓮實なのであった。
 例えば、蓮實は、小林が詩的言語を初めとする特権的な芸術体験との自分の初めての邂逅を語ってみせ多くの後続者を引きつけ多大な影響力を行使してきた独特の語り口を、「遭遇のメロドラマ」として切って捨てる。
 なるほど、小林がランボーなりモーツァルトなりとの自分の最初の遭遇を語ってみせる言葉の内実を分析してみれば、そんなことなどおよそ現実にはありえなフィクションであることは明らかである。小林は、ある特定の芸術作品と、それに出会った自分の体験とを特権化するフィクションを流通させ、それを周囲に現実だと信じさせることによって、自身の批評家としての決定的な影響力を築く。……少なくともこのプロセスでは、批評家が芸術作品を具体的に分析することがなしですまされている。
 しかし、小林秀雄の批評をおおよそ以上のような立場から批判する蓮實がどのような批評をなしてきたのかと言えば、これが非常に入り組んだ、なかなかに複雑な事情がある。
 まず前提としなければならないのは、とりわけ映画批評家としての蓮實は、作品の実体に即した具体的な分析に継続的に取り組み続けてきたということだ。しかし一方で、蓮實が小林に対して批判したような、分析のない独立したフィクションとしての批評をも継続して手がけてきたという事実がある。
 とはいえ、蓮實が提示するフィクションには、小林とは決定的に異なる特徴がある。……小林の提示するフィクションの特徴とは、それがフィクションであるにもかかわらず、影響を受ける人々がまぎれもなく真実であると信じていた点にある。言ってみれば、小林のフィクションは「神話」である。これに対して、蓮實が自らの批評に紛れ込ませるフィクションは、誰がどう見てもホラ話だとわかるようなものでしかない。誰もがフィクションだと自覚して接する状況を前提とするのが蓮實のフィクションなのであるのだから、ここにあるのは、「近代以降のフィクション」の問題であるだろう(これは言い換えれば、蓮實の批評こそが「近代以降の天皇制」の問題を内在させるものであるのかもしれないということでもあるのだが、このことについては後述する)。
 蓮實重彦という批評家は、日本の文芸批評における記述・分析の欠如を指摘し、分析をせずにすませながら批評家が自分に都合のいいフィクションを流通させて影響力を行使するような事情を暴露する。しかしそれと同時に、自分自身もまたフィクションを堂々と流通させるのだが、その際、それがフィクションであることを隠そうとすらしないようなものであるため、非常に大きな影響力を持つに至りながらも、その巧みに構築されたフィクションを批判するのは難しい。……さらに言うと、そのようにして自身の影響力を築いた文芸批評家としての蓮實が、文学作品を実直に分析した主著を予告し続けていてもそれを出版することなど遂にないだろうとばかり私は考えていたのだが、なんと蓮實の『「ボヴァリー夫人」論』は実際に完成し本当に出版されてしまったのである。このことが、事情をさらに複雑なものにしている。
 蓮實重彦の批評は毀誉褒貶激しく、肯定する者も否定する者も夥しく存在するのではあるが、肯定する側も否定する側も、ほとんどの場合、蓮實の周囲にある極めて複雑ない事情を把握していない。蓮實は、自身の置かれた文脈や状況によって細かく立場を変更させ続けており、その言説は状況ごとに全て異なる色合いを持つのである。
 大ざっぱに言えば、蓮實は、状況に応じてモダニストとしての立場とポストモダニストとしての立場を細かく使い分けている。この複雑な状況は、日本が文化的な後進国でしかないゆえのことであると思うのだが――いずれにせよ、結果として蓮實の批評の性格は、単一の立場から単純に要約して把握できるようなものではありえない。
 そのことの具体例として挙げることができるのは、蓮實の精神分析なりアカデミックな映画研究なりに対する両義的な態度だろう。絓と渡辺直巳と城殿智行によるインタヴューの中で、蓮實は次のように語っている。


 私の立場は非常にインパーシャルというか、ユング流の思想ばかりが意味もなく珍重されている日本では、フロイト流の精神分析がもっと盛んになってほしいという真摯な思いが一方にあるのです。勿論、本当に盛んになったら潰すつもりですけどね(笑)。ただ、本格的な精神分析は、現在の日本の大学にはほとんど存在していないでしょう。これは、知の平衡感覚という視点から大いに問題だと真摯に思っているのです。大学の映画学研究にしても同じです。アメリカ流のフィルムスタディーズがもっとさかんになったら、これも潰すつもりでいます。しかし、現状としては、精神分析も映画学も、やはりもっと盛んにならないと困る。(「文学と映画をめぐって」『「知」的放蕩論序説』所収、p103)


 ここにあるのは、前回のエントリで取り上げたような、例えばフランスの左派がマクロンに接する際の両義的な態度と同質のものであるだろう。……蓮實は、まず近代的な文化が成立する前提として精神分析なり映画学なりが制度として整う必要を痛感しているのだが、それが制度として確立し硬直した瞬間に、批判的に脱構築しなければならないともみなしているのである。……言ってみれば、モダニストとしての立場からもポストモダニストとしての立場からもまともに機能する者が存在しない以上、自身が両方の局面で機能しなければならないという継続的な態度変更が、蓮實重彦の批評の核心に存在するのである。さらに言えば、これは文芸批評の文脈においては、ニュー・クリティシズム的なものの存在が前提とされなければまずいが、それが盲信されてもまずいということだろう。結果として蓮實の立場は文芸批評の文脈においてもかなり複雑なものであるのだが、蓮實の立場を単純な言説で裁断できると思えてしまう愚かさは、困ったものである。


 もちろん、蓮實重彦の批評の以上のような複雑に入り組んだ状況に比べれば、柄谷行人の批評は、極めて単純な文脈の元にある、率直でシンプルであるゆえにどこまでも明晰なものであるだろう。
 同時代的に多大な影響力を持った両者の批評は、時を経るごとに、その乖離の度合いを強めることにもなった。蓮實は、少なくとも映画批評においては、実際に画面に映っているものに即した記述をすることから批評を始めることを根付かせることに成功した(蓮實の映画批評にも功罪の両方があるのは当然のことだが、映画批評の文脈での蓮實を単純素朴に批判している者は事情をまるっきりわかっていないので、基本的に単なる馬鹿である)。しかし、文芸批評での文脈においては、映画批評においてほどの影響力を持つことはできなかった。
 一方で柄谷はと言えば、自身の議論の形式化・明晰化を押し進める過程で、文学作品と具体的に向かい合うことが希薄化することが継続した。……その結果として現れた状況は、柄谷以降の活動を開始し柄谷の影響下にある批評家の大半は、抽象的な議論はと言えば洗練され高度な形で展開できるものの、文学作品を具体的に記述・分析するようなことは、ほとんど全くと言っていいほどしない、ということであった。もはや彼らは作品を批評するのではなく、他人の批評を批評する。そこには相互に環流する議論があり高度な内容も存在するが(「他者」も「交通」も存在するわけだ)、作品の批評はない。ただ、批評家同士による、互いの批評の批評だけが存在するようになったわけだ。
 かなり長い迂回をしてしまったが、おおよそ以上のような文脈をふまえて初めて、絓秀実の置かれた状況の面倒な背景が理解できるように思える。……そして、絓の『タイム・スリップの断崖で』という時評集を読み込むということは、小林秀雄以降の日本の文芸批評の問題点をその身に引き受けてきた批評家が現代日本の問題と取り組んできたときに何が見えるのか、ということにほかならないのだ。
 実際、日本の文芸批評に存在する以上のような乖離は、この『タイム・スリップの断崖で』という時評集にも、直接的にその影響を刻みつけているように私には思える。……例えば、絓は、「時評集という性格から外れるため」という理由を述べつつ、連載第一回の大西巨人論を単行本未収録としている。
 私自身は、その大西巨人論を未読のため、収録した場合に書物としての性格がどのように変わるのについては何とも言えない。……しかし、それ以前の問題として、「文芸批評」と「時評」は、本当にそのように区別できるものなのか。
 裁判員制度について論じる絓は、近代国家の前提をなす社会契約説を「フィクション」だと明言している(p156~162)。あるいは、現在の視点から総括した結語に至って、近代国家の「選挙」という行動を、有権者がその都度「自然人」と仮構されることによって成立する擬制であることを、改めて念押ししてもいる(p302~307)。
 つまり、絓自身は、近代国家の成立そのものが「フィクション」を基盤としていることを前提としつつ、その社会状況を分析する時評においては、フィクションの分析を「異なる性格」のものとして除外しているのである。
 フィクションの分析をしなければ近代社会を分析することは貫徹しないということこそが、絓の立場であるだろう。にもかかわらず、絓自身は、ごく単純な常識に則り、フィクションの分析と社会の分析とを区別する……この両義的な態度が、おそらくは日本の文芸批評の問題点がそのままに反映されたものであろうということは、既に述べたとおりだ。
 そして、以上のように状況を確認すれば、日本の文芸批評が取りこぼしてきたものがなんであったのかもわかると思う。……つまり、近代国家の日本におけるあり方、フィクションとしての天皇制をいかに記述するかということを、それ自体をフィクションの内部に処理しえた者は、確実に存在した。にもかかわらず、そこで何が起きているのかをフィクションの分析を通して明らかにするような、その核心部分を射抜くような文芸批評は、遂に存在しなかった、ということだ。



          (続く)









関連記事


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://howardhoax.blog.fc2.com/tb.php/239-20e7a41e

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | ホーム |  »

このブログについて

 ・毎月第1・第3土曜日に更新しています。それ以外にも不定期に更新していますので、月に2~3回程度の頻度で新しい記事を載せています。


 ・コメント欄は承認制です。管理者の直接の知人でもないのにタメ口で書き込まれたようなコメントは承認しませんのであしからず。


 ・なにか連絡事項のある方は、howardhoax(アットマーク)yahoo.co.jpまでどうぞ。

 

プロフィール

Howard Hoax

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

全記事表示リンク

広告

 

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

広告

 

検索フォーム

 

 

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

 

QR