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絓秀実『タイム・スリップの断崖で』に見る、日本の文芸批評の問題点(上)

 絓秀実の時評集『タイム・スリップの断崖で』を読んだ。この書物は、もともとは雑誌「en-taxi」に連載されていた時評をまとめたもの。もともとの雑誌が季刊誌であったため、いざ単著としてまとめてみると十年ぶん以上もの分量がある。そのため、今となっては過去のものとなってしまった事件に対する言及も多いため、単行本化に際して膨大な量の脚注が添えられている。また、各回の末尾には、絓の現在の視点からの短いコメントをつけてもいる。
 私自身は、初出の時点で読んでいる時評もあれば未読のものもあったのだが……以上のような、多くの時間軸が複雑にからみあい交錯するようなテクストが結果として実現しており、へたな小説などよりもよほど面白く読めるような書物になりえていると言える(個人的に民俗学はあまり詳しくないもんで、新刊の『アナキスト民俗学』を読むのは先延ばしになってしまっているのだが、そのうち読みま~す)。
 それにしても、そのような時評集の第一回を読むことは、確かに、わざわざ題名に「タイム・スリップ」と銘打たれているのがおかしくないと思えるほどに、奇妙な時間感覚を呼び覚ますことであった。もともとの連載の最後は2015年末だから、ほぼ現在と地続きのことであると言える――しかし、2004年の初回で言及されることはと言えば、イラク戦争下で拘束された三人の日本人人質に対するバッシングに関することなのである。
 これは、既にあまりにも遠く離れた過去の出来事であるかのように思える……しかし、いざ時評を読んでみると、そこで提出されている問題は、現在の日本においても悪無限のごとく何度も何度も繰り返し立ち現れている、われわれが全く抜け出ていない同一の問題であることも明らかなのだ。


 本来なら改めて言うまでもないことであるはずなのだが、武装勢力に拘束された人質たちには、法律的な意味でも道義的な意味でも、何ら責められるべき点はない。むしろ彼らを保護し擁護することこそが、イラク戦争への加担を決定した日本の「国益」に叶うのであり、感情的に気に入らない相手をヒステリックにバッシングすることは、ストレス解消にこそなりはすれ、誰の利益にもならない。
 だからこそ、当時のブッシュ政権下で国務長官であったコリン・パウエルが人質たちを擁護したことは、多少なりともまともな理性を備えた政治家が自国及び同盟国の利益を考えるならば、単に当たり前の行動なのであった。
 おおよそ以上のような状況をふまえた上で、当時の絓が問題としていたのは、パウエルの発言に飛びつき迎合した、日本国内の左派のことである。……なるほど、当時の日本国内で吹き荒れた、ひたすら感情的な罵詈雑言が飛び交い、近代国家の枠内で大前提として成立しているはずのルールすらわかっておらず、むしろそれに手を染める側の方こそが「国益」を損ないすらするバッシングの嵐は、単に愚かである。そこからすれば、パウエルの発言は相対的にはどう見てもまともであり、とりあえずはこれを支持しておく態度に、左派としてはあらがえない。……しかし、もちろんそれは、イラク戦争そのものに反対している左派の立場からすればありえないことなのであり、本末転倒な事態である。
 そして、絓は、以上のようなイラク戦争下での日本国内の左派の奇妙なねじれは、ベトナム戦争下での反戦運動の頃から、そのまま継承されてきてしまっていることをも指摘するのだ。
 ……以上のような連載第一回の内容を読むと、絓がこの時点で指摘していた国内の問題は、現在に至ってもなおそのまま繰り返されてしまっていることがわかる(絓自身が、現在の時点からのコメントとして「以後、出来不出来や幾つものブレはあるが、同じ事ばかり書いてきたような気がする」と書き添えてもいる)。
 ひたすらどこまでも、底などというものが存在しないかのごとく堕落し続け劣化し続ける言説が飛び交い続ける中で、近代国家が成立する枠組みはとりあえずふまえている理知的な発言がなされている数少ない例外があれば、とりあえずそれに飛びついてしまう――例えば左派にとっては、それが、ひとたびそれを支持してしまえば自らの存在意義の前提が崩壊してしまうような対象であってさえも。
 イラク戦争下の日米関係においてコリン・パウエルが果たした役割を、その後の日本国内の様々な問題の中で果たす存在として急速に浮上してきてしまう対象――そのようなものとして、連載が進むにつれ絓がたびたび言及することになるのは、もちろん、個人としての天皇なのである。


 絓秀実の『タイム・スリップの断崖で』という著作は、同時代的な状況についてリアルタイムで書き継がれてきた時評集でありながら、日本国内の様々な問題の核心的な部分――核心的でありすぎるがゆえに、それがそこにあることをわかっている者も、あえて明示的には語りたがらない部分――を、明晰に述べることに成功している。
 とはいえ、文芸評論家としての絓のこれまでの仕事とも照らし合わせて考えてみると、この時評集での絓の態度に疑問を覚えるのも事実ではあるのだ。……例えば、絓は、柄谷行人と福田和也との鼎談において文芸批評の全般的な問題を議論するような文脈においては、さかんに「アジビラ」としての批評のあり方を主張している。


 僕はもう少し志が低くて、アジビラを書くようにして批評を書きたいと思っていたんですね。そして、そのような批評から最も遠いように見えたのが戦後派文学の批評だったし、戦後派は小林秀雄とそんなに変わらないんじゃないかとも思ったんです。花田清輝の初期なんかは、いい意味でアジビラじゃないですか。
 そういう意味で、僕にとって一九三〇年代と現在は連続していますし、その意味では僕は未だに、柄谷さんにバカにされる全共闘なのです。『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』を読むと、ああ、これはアジビラ集だと思ってしまう。それは、たとえばベンヤミンを読んでも変わらない問題ではないかと思います。(「20世紀の批評を考える」、『皆殺し文芸批評』所収、p70)



 そこに書かれていることが人を煽動し動員するために誇張された駄法螺の類であったとしても、よくできた「アジビラ」であるならば、絓はとりあえずそれを支持するのであろう。
 実際、この著作におけるスガ自身が問題の所在を明確化する以外の、現状の改変のために提起できていることはと言えば、煽動的な「アジビラ」とも言えるような駄法螺を述べることだけである。例えば2006年4~6月の時評で、「誰も反対しない国民運動」としてのクール・ビズに対して、クール・ビズのモデルとは『はぐれ刑事純情派』であると言い張ってみるところなどがそれにあたる。
 このようなフィクションの提示の仕方は蓮實重彦の影響下にあるように思えるが、駄法螺としても蓮實に比べればはるかに弱く穏健なものでしかないし、時評を重ねるにつれてそんな駄法螺すらなりを潜めていき、単なる現状の告発のみが展開されることにもなる。……これでは、まるで絓がただの真面目な良識派であるみたいではないか。
 いずれにせよ、即座に改変しづらい複雑な現状へと提起される立場として、フィクションであることが自覚的なプロパガンダを容認するのであれば……当座の状況の改善のために、フィクションであることを承知の上で例えばパウエルをいったん支持するようなことも、絓の立場からすればそれを批判すべき理由は見あたらないようにも思える。
 もちろん、これがフランスのような場所であれば、とりあえずマリーヌ・ルペンの大統領当選という最悪の事態を回避し当座をしのぐためマクロンを支持しておきながら、マクロンが当選した瞬間に即座にマクロン批判に反転するような左派の立場も成立するだろう。そして、日本国内の左派にはそのような聡明なフットワークの軽さはなく、仮に同じ状況が日本にあれば、ルペンを阻止する運動の渦中でマクロンの「いい人」ぶりに感動してしまうような素朴さを見せたりもするだろう。おそらく絓がいらついているのはそのような日本の左派の愚かさなのであろうが、しかし、聡明さと愚かさの間にかなりの落差があるとは言え、その差は相対的なものにすぎず、本来なら批判するべき対象を状況に合わせていったん許容してしまっているという点で両者の行動は同じ基盤の上にある。……ならば、パウエルの言葉を逆手に取り換骨奪胎して自分たちに都合のいいアジビラに書き換えてしまい、自分たちの動員に利用できるような聡明な左派が日本でもありうるのならば、絓はいったいどのような立場を取るのだろうか。
 『タイム・スリップの断崖で』における絓秀実は、日本国内の複雑に入り組んだ問題に一貫し何度も回帰する問題を暴きつつ、問題の核心部分から目を逸らす国内の左派のインテリ層の欺瞞をもえぐり出す。しかし、ではどうすればいいのかということもよくわからないのだが、それ以上に、これまでの絓の活動で肯定的に述べられていたことは、時評集で厳しく批判される「日本の左派」の態度と根本的に違いがあるとも思えないのである。煽動的なアジビラを書く過程で事実は捨象されてもかまわないと事実上容認している絓の態度は、本来肯定するべきでないものと妥協して容認する「日本の左派」の態度と同類としか思えないということだ。


 絓秀実の文芸評論家としての活動をある程度まとめて追ってきつつ、絓の著作に加えられてきた論評をも読んできた読者であるならば、私が『タイム・スリップの断崖で』に関して述べているような絓の著作の傾向は、とっくの昔に指摘されていることを知っているであろう。それは、鎌田哲哉が「早稲田文学」に連載していた「進行中の批評」で一回を割いた「絓秀実は探している」で論じられていたことだ。
 鎌田によれば、絓の議論は非常に明晰でありながら、どのような異なる文脈の議論においても、同型の問題に回帰してしまうことを繰り返してきたのだという。鎌田は、例えば次のように書いている。


 処女作『花田清輝』以来、絓秀実の著作は分析の至る個所でつねに同型的な論理に貫かれている。通読の過程では、この反復は単に退屈でしかない。(「進行中の批評③ 秀実は探している」、「早稲田文学」2001年7月号所収、p68)


 分析の進行はすべてこうである。(1)事態A(引用順に、超越性/ロマン主義/表象代行作用/レギュラーな警察的知/故郷/詩)は、ある歴史的条件の下でその自明性を失い、事態B(具体的な世界/リアリズム/表象代行作用の失調/イレギュラーな探偵的知/故郷喪失/散文)に脅かされ動揺させられる。(2)だがより深いレベルでは、事態Bの作用は「知らず知らず」あるいは「徹底的な敢行」のうちに事態A'を回帰させ、以下動揺と回帰のループが言説の各水準で悪無限的に続く、と。
 明らかに、「奴の悪循環」(『小説的強度』)への洞察こそ
秀実の批評の核=定数である。私の知る範囲で、この定数が絓の意識を離れたことは一度としてなく、いかなる事態を解析しても同じ光景しか彼は見いだしえていない。(同、p69、ルビは省略)


 ……おそらくは、このような怜悧な指摘が存在したことも、絓が自らの時評集を現在の視点で振り返りつつ「同じ事ばかり書いてきた」と述べたことの一因なのではなかろうか。
 そして、絓の著作を巡る以上のようなもろもろをふまえて、改めて現在の視点から見てみると、私としては、鎌田が絓の批評の問題として指摘したことは、実は、より大きな文脈、「日本の文芸批評」の全般に共通しているかなり致命的な問題点にその根があるように思えるのだ。……加えて言えば、鎌田が指摘する絓の問題は、その大きな文脈であれば、鎌田自身もまた犯してしまっている失策であるとも私は考えている。




          (続く)









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