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『ローガン』と『レゴバットマン ザ・ムービー』の対照性と、ヒーローコミックの本質について

 アメリカのヒーローコミックを題材とした映画は依然として続々と制作されているが、最近公開されたそのような作品群の中でも、『ローガン』と『レゴバットマン ザ・ムービー』の二作は、その際立った対照性に非常な違和感を感じてしまったものだった。
 とはいえ、それは、これらの作品そのものを見たことによる違和感というよりも、これらに対して向けられた論評を読んでの違和感、という側面の方が強い。……というのも、私は『ローガン』と『レゴバットマン』の二作を全く対照的な作品だと感じたのだが、この二本の受け取られ方はといえば、両作がそろってともに、私の感想とはまるで正反対であるようなのだ。
 これは要するにどういうことかというと、『ローガン』を見た私は、これこそ、ジャンルとしてのヒーローコミックがどのようなものであるかを考えてみるとまさに直球ド真ん中の作品であると感じた。一方、『レゴバットマン』は、なるほど確かに製作者たちはヒーローコミックの元ネタを調査して参照したりはしているものの、基本的にDCコミックスのことなどどうでもいい人々が製作していることは一目瞭然であり、参照元のコミックとはほぼ無関係、と思ったということだ。
 ところが……『ローガン』について書いて「スーパーヒーローものの終焉」などとしている評を読んですっかり驚いたのだが……さらにそれ以上に、『レゴバットマン』が「バットマンの75年の歴史の総括を成し遂げている」などとしている評を読んで、さらにさらにぶったまげ、驚き呆れ果てたのであった。
 いったい、ここでは、何が起きているのだろうか。


 一応断っておくと、『ローガン』と『レゴバットマン』が元ネタのヒーローコミックとどのような関係にあるのかということは、独立した映画としての評価とは、また別の話である。純粋に単独の作品として見たときに、この良作はどちらも優れた映画だとは思う。『ローガン』がとんでもなくめちゃくちゃ優れているとまでは思わないが、少なくとも、今まで製作されてきたXメン関連の映画の中では最もよいと思った。最後のショットにしても、無用な台詞を排除して些細な動作一つを映像として示すだけで完全に話に決着をつけてみせるところが非常によかった。
 一方、『レゴバットマン』という映画にしても、単にコメディとして見るのならば、非常によかったと思う。いったん笑わせにかかったらリズムをゆるめずにたたみかけるのみならず、ゴッサム市内でのバットマンの活動をド派手なアクション演出でひたすら騒々しく描いておいて、ひとたびバットマンがバットケイヴに戻るやいなや、その広大な空間を孤独に占めているバットマンの姿を強調するために今度は徹底して静寂を描く。結果として、映像や音響も含めた様々な側面がストーリーに緩急をつけるために巧みにコントロールされるようなことが実現しており、作品としての完成度は非常に高いと言える。
 また、公平を期して言っておくならば、DCコミックスの元ネタを調べ上げて細かく参照することには大変な労力が割かれていること自体は確かで、個人的には、キャットマンなどまで登場してきたことには大変驚いた。また、バットマンの完全に身勝手な独断による単独行動が雪だるま式に被害を拡大して巨大なカタストロフィをもたらしたあげく、そもそもの原因となったバットマン自身が自分で自分の始末をしただけのはずのことが、なんとなく世界を救ったみたいな感じになって終わるところも、DCコミックスの巨大イヴェントでわりとありがちな展開であるため、非常に楽しめた。
 しかし、である。『レゴバットマン』という作品の細かい部分を拾っていけば、この製作者たちがDCコミックスについて何の思い入れもなければ、ヒーローコミックというジャンル全般に対する造詣も全くないのは一目瞭然なのである(このことについては、具体例を挙げながら詳細に後述する)。とはいえ、そのこと自体は、前作『レゴムービー』と重複するスタッフによって製作されたという時点で、私としては予想がついていた(……とはいえ、『レゴムービー』は作品そのものが「レゴで遊んでいる子どもの想像の世界」という設定があるため、DCキャラの作中の扱いがおかしくてもそれはそれでしょうがないか……という部分はあったが、『レゴバットマン』にはそういうエクスキューズはない)。作品そのものは優れたものとしてまとまってはいるものの、そこで題材とされたキャラクターへの理解もなく思い入れも特にない人々がいじっていたのだから、まあ『レゴバットマン』もそんな感じのものになるんだろうな~と思って、いざ見てみたら実際その通りだった。
 ……にもかかわらず、『レゴムービー』や『レゴバットマン』を見てDCキャラの扱いの不当さすらわからないような人が、よりによって「バットマンの75年の歴史」なるものを総括し出すのである。正直言って、わけがわからないと言うほかない。
 例えば『レゴバットマン』という映画は、あくまでも独立した映画としてみるならば、「このような状況に置かれた人物はこのように行動するであろう」というキャラクター造形に関して、この作中では首尾一貫したものになっている。しかし、元ネタのコミックとの関係はといえば、あくまでも「パロディ」と呼べるものでしかなく、それ以上でもなければそれ以下でもない。なんでそれでダメなんだろうか。なんでバットマンの歴史に影響を及ぼしていることにならないとダメなんだろうか。……はっきり言ってしまうと、「『レゴバットマン』はバットマンの75年の歴史、そこ語られ続けたヒーロー像を総括することに成功した作品である」などという言説は、最近の言葉で言えば、オルタナ・ファクトである。
 一方、「『ローガン』がスーパーヒーローのジャンルそのものを終焉させた」というのも、正直意味がわからない。作中の舞台とか衣装とかが「ヒーローコミックのありがちなネタ」から逸脱したら、ジャンルが終わったことになんのか? ……というか、それ以前の問題として、ヒーローコミックの読者からしてみると、Xメンのコミック自体が時間旅行や歴史改変を取り上げることが非常に多く、「ヒーロー活動のない世界」「ミュータントが絶滅しかかっている暗黒の未来」みたいな設定は割と何度も繰り返し描き続けてきたことであるので、別に『ローガン』の直接の原作の『オールドマン・ローガン』を挙げるまでもなく、「ヒーローコミックのありがちなネタ」が展開されてるだけなんだけどな~……。


 繰り返すが、私の考えでは、『ローガン』はヒーローコミックの直球ド真ん中をそのまま映画に移すことに成功した作品だが、『レゴバットマン』の方はヒーローコミックとはほぼ完全に無関係な作品である。
 これに関しては、別に、『ローガン』のぱっと見の外見が、「ヒーローコミックのありがちな定型」を全部削ぎ落としたのだということにしても、特に変わらない。……言い換えれば、『ローガン』という作品には、枝葉末節が全て変わってしまったのだとしても、ヒーローコミックというジャンルをジャンルとして成立させるその核だけは、確かに存在している。逆に言えば、『レゴバットマン』は、ヒーローコミックを構成するパーツを全て備えているように見えても、そのジャンルそのものの魂だけは、ない。
 ジャンル・フィクションの本質とそのぱっと見の外見との関係というものは、ミステリを例に取るとわかりやすいだろう。ミステリには、しばしば、ありがちな定型としての、舞台設定やキャラクター造形が存在する……しかし、だからといって、それがなければ存在できないというわけではない。名探偵が存在しなくても、ミステリは成立しうる。
 それはなぜかと言えば、ミステリがジャンルとして成立しうる本質が「提示した謎が解かれる」という点にあるからだ。謎を解くのは確かに名探偵が圧倒的に多いわけだが、しかし、通りすがりの一般人が謎を解いていけないわけではない。そして、ミステリの成立に「ありがちなネタが使われているかどうか」が無関係だからこそ、SFやら時代劇やらといった他のジャンルと融合することも可能になる。舞台設定が遠未来だろうと江戸時代だろうと、提示した謎が論理的に解かれるのであれば、ミステリはミステリとして成立する。逆に言うと、例えばガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』シリーズは映画としてはよくできていると思うが、ミステリとは関係ない。キャラクターや舞台設定はシャーロック・ホームズものから取ってきていても、謎解きに作品の主眼がないからだ。
 これと同じことが、ヒーローコミックについても言える。ヒーローコミックが出版される主要な舞台となってきたアメリカのコミックブックの歴史を紐解けば、SFやホラーや西部劇といった異なるジャンルも同時に存在してきた。作り手の側が重複することも多かった以上、しばしばヒーローコミックはこれらの異なるジャンルと混淆し、広範な範囲に及ぶ、様々なタイプの、様々な舞台設定の、様々なキャラクターによる無数のストーリーが展開してきた。
 「ヒーローコミック」というかなり限定されたジャンルの全貌をとらえようとするだけでも、相当なごった煮の混沌状態が存在する。しかし、にもかかわらず、ヒーローコミックをしてヒーローコミックたらしめる本質、ヒーローコミックを一つのまとまりのあるジャンル・フィクションとして成立させるものが存在する。
 ……それは、一言で言うならば、「困っている人がいたら手を差し伸べること」である。
 特殊にして強大な力を手にした者がなぜヒーローになろうとするのかと言えば、困っている人を助けたいからである。もちろん、ヒーローになろうとしたり活動を継続したりする過程で、様々な出来事があり、葛藤があり、それぞれのキャラクターの特徴が問題になるだろう。……しかし、それら全ては、人助けをしようとする意志がまず先にあって、その次にくる二次的なことだ。この順番は、絶対に逆にはならない。
 そもそも、人助けをしようとする意志のない者が特殊な力を手にしたのなら、ヒーローになる必要は特にないのである。ヒーローコミックのことをよく知らない人々が映画化などに携わると、そもそもこの部分で間違えることが非常に多い。「ヒーローになる」という枠組みは自分に与えられた仕事の前提としてまずあるのでそれ以上疑わず、いきなり「ヒーロー活動している人」の内面を描き始め、苦悩や葛藤を描き出す。……いやいやいや、自分から選んで能動的にヒーロー活動をしてるんじゃないんだったら、ヒーローやめた瞬間にその苦悩も葛藤も全部解決じゃないすか~、ということがなぜか非常に多い(……で、そんな感じで、ヒーローコミックというジャンルのことをよく知らん人が映画化を手がけたりすると、そもそも話が成り立つ前提条件がうやむやにされたままおかしなことになっていたりすることがよくあるわけだが、映画を通してだけアメコミ関連のことを知ってるような「アメコミ映画ファン」が勝手に事情を忖度しだし、「その前提を疑うとアメコミヒーローが成立しなくなっちゃうから」とか言い出し、そのうやむやなことがなぜか「アメコミが成立するためのお約束」だということになりだし、そこにツッコミを入れる人は「それを無条件に受け入れないと楽しめなくなる、ジャンルのお約束を知らないにわか」ということにされだすんだよな~)。
 逆に、人助けをする意志があることが全ての前提だからこそ、単なる常人であってもヒーローになることはできる。特殊な衣装も特殊な能力も、選ばれた状況も派手な舞台設定も、何もなくてもヒーローコミックは成立しうる。逆に言えば、ヒーローコミックとは、特殊な衣装やら能力やら名称やらを面白がること、単にキャラクターを愛でることを第一の目的に成立しているジャンルではない(いちおう念を押しておくと、「そういうことをしてはいけない」と言っているわけではない)。
 ヒーローコミックの本質は、「いかにして人助けがなされるか」という点にある。それ以外のことは全て、本質とは無関係な枝葉末節にすぎない。舞台設定がどれだけ特異だろうが、派手なキャラクターがことごとく排除されていようが、ヒーローコミックというジャンルは成立する。これは、謎解きさえあればミステリが成立するのと同じことである。


 私が、『ローガン』という映画の外見がどのようなものであれヒーローコミックの本質をダイレクトに映画に移したものだと思うのは、以上のような理由があるからだ。
 『ローガン』の舞台となるのは、近未来のアメリカだ。そこでは、新たにミュータントが誕生することも長い間に渡っておこらず、絶滅寸前の少数派となっており、かつてXメンであったプロフェッサーXとウルヴァリンは、世間の目から逃れてひっそりと暮らしている。「世界最強のテレパス」でありながらも、同時に認知症をわずらう老人でもあるプロフェッサーXは、ウルヴァリンの介護によってどうにか生き延びている。ひょんなことから、存在しないものと思われていた新たな世代のミュータントの少女と出会った二人は、アメリカから逃れる逃避行を開始する……。
 とりわけプロフェッサーXが置かれた状況の苦しさはかなり無惨なものであり、他人に介護してもらわなければ(あるいは、してもらってさえも)人並みのな生活を送ることは難しい。しかし、にもかかわらず、たまたま困っている人々に遭遇したときに――本当に自分が相手の手助けになることができるのかもわからず、助けるどころかむしろ相手を厳しい状況にまきこんでしまいするかもしれなくとも――躊躇なく相手に手を差し伸べる。だからこそ、ここでのプロフェッサーXは完全にヒーローであると言えるのだ。
 それと比較してみると、『レゴバットマン』におけるバットマンはどうだろうか。……この映画では、バットマンにとってのヒーロー活動とは、単に活動する自分の内面、その自意識の問題のみに還元されてしまっている。ゴッサムシティの全てのヴィランが自首した結果、犯罪は壊滅し、バットマンが活動するその存在意義が失われる……そのとき、自分の存在意義がないということにバットマンが悩み始めるのである。
 その結果、この作品のバットマンは、自分の存在意義、その内面の満足感と、ゴッサムの人々の不幸がより減少することとの間で、あたりまえのように自身の内面の問題を優先するに至る。……いったい、これのどこが、「バットマンの75年に及ぶ歴史の総括」などというものになりえているのだろうか。


 現行の「バットマン」誌のライターであるトム・キングは、その就任直後、自らのバットマン像を語り始めるそのそもそもの始まりにおいて、「強大な敵がいるわけでもなければ派手な出来事があるわけでもない、一見するとなんの変哲もない事件の渦中だろうとなんだろうと、無実の一般人の命を救うのに他に手段がないのであれば、いついかなる時でも、バットマンは躊躇なく自らの命を差し出す」ということを描いている。人格が破綻しまくっているバットマンを他のヒーローたちが(いやいやながらも)受け入れて共同活動をするのは、どれだけ身勝手な振る舞いでも、自分ためではなく他人の命を救うためである絶対的なそこに前提があることは誰もがわかっているからだ。……で、コミックでそのようなことが描かれているのと同時代的に存在している『レゴバットマン』のような映画が、いかなる意味で原作コミックの総括になり、あるいは批評として機能したりしているというのだろうか。『レゴバットマン』のバットマンは、自分の満足のために活動しておきながら他人への迷惑を顧みないのだから、ただのわがままな人である。
 繰り返すが、単に独立したコメディとして見るならば『レゴバットマン』という作品はよくできているし、こういうものがあっても何も問題はないだろう。しかし、原作との関係はほとんどないし、あったとしても、「パロディである」という以上のことは何も言えない。それで、いったい何の問題があるのか。なぜ、「バットマンの75年の歴史」などというものを振りかざさずにはいられないのだろうか。自分がろくに知りもしなければ、詳細に調べる気もないことを、勝手に総括してもらいたくないのだが。
 ……だいたい、『レゴバットマン』に「DC愛」なるものがあると評する者は、DC愛などというものと完全に無縁であるということは断言できる。なぜならば、DCコミックスのキャラクターを扱う作り手がDCコミックスのことをどう思っているのかを判定する、極めて簡単な方法があるからだ。
 DCコミックスのキャラクター、とりわけジャスティスリーグ関連が扱われる際には、一見すると全く目立たないがゆえに、かえって最も注目しなければならないポイントが存在するーーそう、我らがマーシャン・マンハンターさんの扱いである。
 DCコミックスの魂は、マーシャン・マンハンターさんの内にこそ存在する! これこそが、DCコミックスが出版してきた数々のヒーローコミックを貫く、不変の真理なのだ! ……これを確かめるためなら、邦訳が出ている作品だけでもいい、『JLA:リバティ&ジャスティス』や『DC:ニューフロンティア』を一読しさえすればよい。マーシャン・マンハンターさんの真摯にして誠実な魂こそが、DCコミックスのヒーローたちを結束させる、真の中心となりうるのだ!(……そういう意味では、近々邦訳が出る『DCユニヴァース:リバース』が傑作であることには疑いがないのだが、あれは誰でも手にとってすぐわかるようなものでもないんだよな……。この作品のライターのジェフ・ジョンズはと言えば、「New 52からジャスティスソサエティが姿を消したことについてどう思いますか?」とか聞かれた際に、「JSAのライティングを担当した9年間は、わが人生の誇りなんじゃあ!」とか吠え出しちゃうような人なんだけど、このやり取りがよくわからないと、何が起きているのかよくわからないような部分も『DCユニヴァース:リバース』には含まれる。それに比べると、『DC:ニューフロンティア』は完全に独立した作品で予備知識もなしに読み始めることができるし、DCコミックスの本質が全編にみなぎりまくっている傑作なのである。そして、この『DC:ニューフロンティア』を読み終えた直後に例えば『レゴムービー』を見てみれば、殺意を覚えずにいることは難しいのだ……)


 以上のようなことを踏まえた上で、『レゴバットマン』を見てみればどうなるか。……すぐにわかるのは、マーシャン・マンハンターさんの扱いが最悪であるということだ。
 この作品の中でのマーシャン・マンハンターさんの出番はと言えば、ジャスティスリーグのメンバーがパーティをしていたところ、誘われていなかったのにたまたまその場に来てしまってショックを受けているバットマンに無神経に声をかける人、といった役所である。
 こんな馬鹿なことがあるだろうか。「コミュニケーション能力に長け仲間内でわいわい盛り上がれる人々」と「孤独であり寂しがり屋のくせに憎まれ口を叩いてしまういじらしい人物」の対比という大ざっぱすぎる構図があるわけだが、どこからどう考えても、バットマンよりもはるかに酷い目に遭ってきているのがマーシャン・マンハンターさんなのである。
 なるほど、バットマンは両親をそろって失ってしまったかもしれない。しかし、マーシャン・マンハンターさんはと言えば、故郷の火星が全滅である。さらには、なぜ地球にいるのかと言えば、地球の科学者によって手違いでうっかり火星から転送されてきてしまった挙げ句、帰る手段が見つからないから、ということなのである! あまりにも大変な目に遭ってきた生い立ちなのである。
 にもかかわらず、コミックでバットマンとマーシャン・マンハンターさんのやり取りを見ていると、まずまちがいなくほとんどの場合に、マーシャン・マンハンターさんの方が謙虚で気遣いのある態度をしているのである。彼が大変な人格者であることは疑いようがない。……なのになぜ、「他人に理解されない可哀想なバットマンに対して無神経なリア充」みたいな、雑な役を振られなければならないのか!(……そういう意味では、同じレゴでも『レゴバットマン ザ・ムービー<ヒーロー大集合>』の方では、サイボーグが加入してマーシャン・マンハンターさんの役割を果たしているNew 52版のジャスティスリーグに準拠していながらも、ちゃんとマーシャン・マンハンターさんも登場してきて役割があるところが示されていたのが非常によかった)
 そんなバットマンが、マーシャン・マンハンターさんの無神経さによって傷つけられた的な態度を取るのは、お門違いも甚だしいものがある。『DC:ニューフィロンティア』を読んでから『レゴバットマン』を見れば、「おいバッツ、お前ちょっといい加減にしろよ!」と言いたくなってくるはずなのだ(……いや……それ以前に、『DC:ニューフロンティア』でのマーシャン・マンハンターさんへの扱いを読んだだけの時点で、「おいバッツ、お前ちょっといい加減にしろよ!」と思えてくるか……)。
 これはなにも、マーシャン・マンハンターさんだけに限った話ではない。ジャスティスリーガーたちの全員が、「単なる無神経なモブ」という以上の役割を与えられていないのである。これはおかしい! バットマンがジャスティスリーグというチームでなんとかかろうじてどうにかこうにか共同作業をやっていけるのは、バットマンの側の問題ではない! チームメンバーのみなさんの側に謙虚で誠実な人格者が多く(ハルとかは除く)、どうしょうもないバットマンのことをものすごく気にかけてくれるからこそなのだ!
 だいたい、『レゴバットマン』のバットマンが原作の歴史を総括したキャラクターだというのならば、あんなにも素直で物わかりのいい人になるはずがないではないか。……例えば、先に述べたパーティの件にしても、コミックのバットマンなら全く異なる対応をしてくるはずである。
 そう、まずは前提として、自分が招待されていないジャスティスリーグのパーティが開催されることなど、世界最高の探偵たるバットマンは間違いなく事前に察知している。そして、その情報をさらに精査し、出席するヒーローたちの行動を分刻みで把握する……その上で、各ヒーローが自分の街を後にした不在のタイミングで、メトロポリスやコーストシティやスターシティなどに出張って街中を駆け回り、突発的な犯罪を解決しまくっておいた上で、パーティに行っていたヒーローたちに事後的に「あの街で起きたあの犯罪、私が解決しといたけど、なぜいなかったのだ? え? え? 私が犯罪と闘ってる間に、まさか貴様らは遊んでたのか? はあぁ~~~~、人の命をなんだと思ってるのか……たまたま通りがかった私が解決しといたからよかったようなものの、いったい、私がいなかったらどうなってたことか……」などとネチネチ嫌みを言い始める……くらいのことを平然とやってのけるのが、バットマンという男なのである(……そんで、ハルとかガイあたりがキレだしたら仲裁に入るのがマーシャン・マンハンターさん)。


 ……まあ、いずれにせよ、コミックではそれぞれが重要な役割を与えられていたり特徴が描き出されていたりして大事に扱われているキャラクターたちを雑に扱っていることが明らかな映画に向かって「バットマンの75年の歴史の総括」だの「DCコミックスへの愛に満ちあふれている」だのと称すのはほんとうにやめてもらいたい。総括してないし愛もありません。
 最近の日本へのアメコミの翻訳・紹介は、また一つ異なる局面になってきたのではないかと思い、私としては非常に危惧していることがある。……と、いうのも……もともと日本への紹介というのはマーヴル中心でDC関連は非常に薄かったのだけれど、それというのも、日本ではアメコミ読者と言ってもマーヴルばかりでDCのことはほぼ知らんと言うような人が昔から多かったわけです。
 で、マーヴルのことしか知らん人が「アメコミの識者」として翻訳・紹介に携わった結果、スーパーマンやバットマンはともかく、自分がろくに知らないフラッシュやグリーンランタンやグリーンアローを勝手にネタキャラ扱いして小馬鹿にするようなことを、商業誌上なんかでも平然とやってきていたわけだ。
 ところが最近は、コミックではDCがマーヴルを圧倒してきており、おそらくは映画でもそういう状況になっていくだろう……ということがあり、たぶんメディア上でDC関連の需要が増えてきているのだが、そういう場所で「アメコミの識者」であることにしちゃった人々が、ろくに知らんままにDCの紹介をするという、地獄絵図が成立しつつあるわけだ。
 私としては、少なくともこれだけは言っておきたい。……フラッシュやグリーンランタンやグリーンアローやマーシャン・マンハンターをネタキャラ扱いするような者は、『DC:ニューフロンティア』を100回熟読してから出直してこい!


 いずれにせよ、ヒーローコミックの本質は、「いかにして人助けはなされるのか」という点にある……このジャンルのことをよく知らない人間が映画化に携わるときに犯しがちなミスが、このことに正面から立ち向かうのが気恥ずかしいゆえに、無駄にリアル志向になる、ということであるだろう。
 多くの場合、「ヒーローが掲げる理想なんて、厳しい現実の前では絵空事だよ?」的なことが語られる(こういうのが「大人向き」なのらしいね)。しかし、これは根本的に本末転倒なのである。もともとアメリカのヒーローコミックの起源とは、大恐慌時代の厳しくどうにもならない現実をスーパーパワーで変えてくれる存在としてティーンエイジャーに夢見られたものだったのだから、「ヒーローなんて現実の前では無力だよ?」などというのは、ツッコミにも何にもなっていない。原因と結果を取り違えた者のたわ言である。
 そして、『ローガン』という映画は、ヒーローコミックと西部劇の双方の視点から、以上のようなことも作中に取り込んでいる。なるほど、コミックのXメンにしても『シェーン』のような西部劇にしても、現実からはおよそかけ離れた絵空事であるだろう。しかし、現実とはかけ離れた絵空事の中だけにある夢や希望が、厳しい現実に影響を及ぼし改変しうる、ということだ(厳密に言うと、ウルヴァリンが初めて参画した第二次Xメンにしても『シェーン』にしても、楽天的な絵空事の世界に暴力性が混入してきて壊れ始める兆候が出始めた、本格的に壊れていく次代の先触れにあたるようなものではあるのだが)。
 そしてまた、以上のようなことを踏まえた上で、ヒーローコミックの本質を絶対に外さずに映画化する稀有の存在がジョス・ウィードンであることは、いくら強調してもしすぎるということはない。そう、われらがジョスは、そのことを絶対に外さない! ……そして、ジェフ・ジョンズが統括する体制になったDC映画が真っ先にやったことは、われらがジョスをぶっこ抜いてくることだったのである! 「ジェフ、さすがだぜ!」と言うしかないではないか!
 そんな、現在のアメコミ業界の現役最強のライターにしてDCファン道十段ことジェフ・ジョンズが遂に脚本にまで参画した『ワンダーウーマン』が批評的にも興行的にも大成功を収めているのはまことに喜ばしい限りなのだが……ジェフが脚本を書いている以上、見る前の時点で断言できる! この映画でも、「いかにして人助けがなされるのか」というポイントは、絶対に外されていないはずだ!(……しかし、日本に『ワンダーウーマン』が紹介されるときって「女性監督によるフェミニズム的映画」という点ばかりが強調されているようだけど、むしろ、日本とアメリカが文化面で絶望的に差を付けられてしまったのって、「アメリカで女性監督がそういう映画を製作しようとしたときには、サポートしてそれに見合った脚本を書ける男性がごろごろいる」ということだと思うんだけど……。アメコミ業界は特にここ二十年ほどの間でフェミニズムなどの視点からの批判を受け入れ自己批判を続けた結果として相当に変化してきているんだけど、「日本に翻訳・紹介するアメコミ識者」にそういうことをきちんと論じられる人も皆無でしょうな。英語での関連文献は膨大な量が出ているので、たぶん、もともとフェミニズムやジェンダー論に詳しい人がきちんとした文献に当たった方が、実りある成果を出せるのだと思う。それと、もう一つ……前売りの特典としてワンダーウーマンの初登場コミックの「復刻版」がついてくると宣伝しておきながら、コミックブックの復刻でも何でもない、初登場エピソードだけを収録した小冊子(しかも、今の日本の商品の広告入り)を渡してくるのは、完全に詐欺ですぞ……。単に初登場エピソードを再収録しただけのものなら、普通に持ってるわ〜い!)
 だが……『ワンダーウーマン』の成功を聞くにつけ、ただ一つどうしても解消できないもやもやとした思いにとらわれるのも事実なのだ……
 なぜ……いったい、なぜ……最初から……『グリーンランタン』を……映画化……する、時点で……ジェフに……任せな……かった……(涙)












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コメント

更新お疲れ様です。
個人的には『レゴバットマン』はロボットチキン見るノリで見てましたね。ただこれ、「世間一般の認知するなんとなくあるバットマンのイメージ」のバットマンですよね…。まぁ、予告の時点で映像媒体でアニメのこと全く言及しなかった時点で分かり切ってたことですけど。

>ジャスティスリーガーたちの全員が、「単なる無神経なモブ」という以上の役割を与えられていないのである。

 正直、この映画で一番呆れたシーンは自分もここですね…。あんだけ劇中でバットマンの親友と強調されたバリーやクラークの態度が最悪だなんてあり得ないよって感じで!! ぶっちゃけ個人的にはキャラの名前とか登場ヴィランは調べるだけなら誰でもできますし、キャラの性格まで調べてないで意味あるのかねっていう気持ちがあります。(その点トムキングが今度やるカイトマンバラードは非常に楽しみにしています)
……あとバットマンがパーティーに現れた場合多分ハルが最初にいじくってくるんだろうなって思ってます。

>「ヒーローが掲げる理想なんて、厳しい現実の前では絵空事だよ?」的なことが語られる(こういうのが「大人向き」なのらしいね)
 
いつごろか、こういった鬱な展開を現実的、大人向けというようになってしまいましたね。これは本当に訳が分かりません…。

>「女性監督によるフェミニズム的映画」という点ばかりが強調されている

これは日本だけじゃなくてアメリカでも(内部の制作陣はともかく)記事で見かけましたね…、。ただ同時に幾つかのあちらの評論で「いかにして人助けがなされるのか」というポイントを褒めちぎっていたのでやっぱジェフはジェフだな!!っとハローキティ買いながらワクワクしています。


> なぜ……いったい、なぜ……最初から……『グリーンランタン』を……映画化……する、時点で……ジェフに……任せな……かった……(涙)

いえ本当にそうなんですけど、あと最初からBVSの時点で指揮権よこせよとか……色々ワーナーに突っ込みたい気持ちはありますけど、、ベンアフレック×ジェフジョオンズのバットマンが幻になったのが今最もの悲しみですなぁ。

次回の更新mp楽しみにしています!

Re: タイトルなし

>……あとバットマンがパーティーに現れた場合多分ハルが最初にいじくってくるんだろうなって思ってます。

 あの映画の展開でも、ハルが(本人としては全く悪意がないままに)「なんだブルース、お前も参加したかったのか?」とか言ってナチュラルにぶっ刺してくるとかだったらアリですね。しかし、あの製作者たちは『レゴムービー』でハルをゴミキャラ扱いしてたような人々なので、そんな期待はできないのです。
 ベインが頭悪いと思ってる時点でコミック読んでないですし……。あと一番思ったのは、この人たちはディックのこと何も知らなければ調べる気もなければ興味すらないってことですね。

 トム・キングが「バットマン」でシリアスな展開に唐突にギャグをぶっ込んでくるのはなんなんですかね。今のところは「ブルース、不在の現場でバットマンの代役をアルフレッドに唐突な無茶ぶり」「バットマンテーマのファストフードにガン切れブルース、店員に八つ当たり→挙句の果てにはナイフとフォークでバーガー食い始める」「カイトマン登場」でしょうか。まあ全部最高なわけですけれども。

 ヒーローコミックの「リアル志向」の影響の大元にはやはり『ウォッチメン』がありますが、今になって改めて考えると、ちゃんと受容されてきた作品ではなかったとも思います。……というのも、このエントリで書いた定義を元にすると、『ウォッチメン』は完全にヒーローコミックの範疇の内にあるからです。
 『ウォッチメン』の後続者は無駄にリアル志向、暴力表現を目指すことでヒーローコミックを破壊しているように見えましたが、『ウォッチメン』自体は、「ものすごく頭のいいヒーローが、ヒーローとしてやるべきことを本当に突き詰めたらこんなことになっちゃうよ」ということなので、ヒーローコミックのルールを守った上で内部からジャンルを批判・解体しているわけです。そういう意味で、ヒーローコミックというジャンルそのものに打撃を与えたのはやはり『ウォッチメン』しかなかったと言えます。
 ヒーローコミックのリアル路線に対するカウンターとしてマーク・ウェイドやカート・ビュシークが王道回帰を打ち出しましたが、あれはやっぱり、『ウォッチメン』フォロワーに対する反論にはなっていても、『ウォッチメン』そのものに対する反論にはなっていなかったな〜と。……で、現在に至って、ようやくジェフがそこにまで手をつけ始めたんじゃないでしょうか。

 それにしても、『ワンダーウーマン』の成功のあとでなお、ジェフのバットマン脚本がボツになるとは、ワーナーはほんとクソですな……。もうその脚本コミック化すりゃいいと思うんですが、権利関係がめんどくさそう……(そ、そうだ……『ダークナイトライジング』のときみたく、この脚本を元にした書き下ろしオリジナル長編を、次のバットマン映画と同時期にこっそり出版しよう!)
 だいたい、バットマンはともかく、フラッシュやグリーンランタンやシャザムでジェフ以上の脚本書ける人材が映画業界から出てくるはずもないんだから、もうそのあたりは全部ジェフに書かせろや〜!

大衆に向けた宣伝文句にマジレスしてる自分を客観視できないほど頭の悪い方ではないと思いましたがどういう意図でマーケティング目的で選択された文句(またそんな言葉に釣られて映画を観て感想を書いている人々)を発端にこんなありがたーい講釈を長々書いてるんでしょう

Re: タイトルなし

 個人のブログなど以外の、一応プロという肩書のライターによる独立した評論なども複数読んだあとでそれに対する反応としてこの記事を書いているので、「大衆に向けた宣伝文句」「マーケティング目的で選択された文句」に反応しているなどという根拠のない難癖をつけられても意味がわかりません。初手からして事実誤認です。
 また、コメントとしては疑問文の形になっていますが、この記事のどの部分を指しているのかも不明な曖昧な文章で、何を聞きたいのか文意も取れません。そのため、当然のことながら、こちらとしては答えることは何もありません。
 まともに句読点すら打てていないような文章を読まされてもこちらとしては時間の無駄なので、二度とこないでもらえますか。

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