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文学におけるポストメディウム概念の矮小化について――ロバート・クーヴァー『ようこそ、映画館へ』

 しばらく間が空いてしまったが、ロバート・クーヴァーの『ゴーストタウン』について書いた文章の続き。……前回の文章で、私は、クーヴァーの『ゴーストタウン』という小説は、小説とそれ以外の分野(主に映画)とを横断しつつ作品を構成していく部分に、大きな問題があるように思えることを示唆していた。そして、このことに関しては、これまた最近邦訳が出た『ようこそ、映画館へ』の方にこそよりはっきりとした形で問題が表れてしまっていると思えるので、この短篇集について検討してみたい。
 さて、原書では1987年に出版された『ようこそ、映画館へ』は、西部劇やミュージカルやコメディなど様々なジャンルの映画を題材とした短篇小説を集めた書物である。ここで取り上げられている個々の作品を見ていくと、それぞれの小説で、全て異なる技法を用いて言語と映像の関係を作品化しようとしており、技術的には相当に高度なことがなされていると、とりあえずは言うことができる。
 さて、そんな『ようこそ、映画館へ』の中でも、言語と映像の相関関係の処理の仕方という点で致命的な欠点が最もわかりやすい形で露出してしまっているのが、「ルー屋敷のチャップリン」である。まずはこの短篇の、冒頭部分を見てみよう。


 彼はまるで驚いたかのように、しばしそこに佇むが、タップダンス用のスラップシューズは外向きに広げ、だぶだぶのバギーパンツはウェストまで引きあげ、ぼろぼろのジャケットは、入念に一つ残らずボタンを留めて、そう、そこはまぶしくシャンデリアが煌めく玄関ホールの真ん中で、すぐそばにかしこまった肖像画の額ぶちのように磨き立てた手すりが頭上にくねって上にのびる大きな階段があった。やがて黒色の山高帽の下で、瞼をカメラのシャッターみたいに閉じたり開いたりする。竹でできた杖や肘、膝を曲げながら、あたりを見まわすが、ちょこんと鼻の下に乗っかったみずぼらしいチョビ髭が、何かを期待してぴくぴく動く。腰を屈めて、階段の片側の縁沿いに飾ってある大きな葉を持つ観葉植物に鼻を近づけて、くんくんと匂いを嗅ぐと箱の蓋を取りあげ、絵画の背後を覗く。階段のそばのドアの上のほうに飾られていた、大きな枝角を持つ鹿の頭を竹の杖でこつんと叩くと、広間の鏡に向かって葉を見せて笑って見せる。山高帽をちょっと前に傾けて、ぴかぴかにワックスを塗られた、チェッカー盤みたいに四角い黒と白の大理石の床を、風に流されるようにぴょんぴょんと踊りながら進む。床や絵画の表面、鏡、磨き立てられた階段の手すり、水晶のシャンデリア、それらすべてが、出所の分からない明るい光で煌めいている。この光の中を怖じけずに気取って進むが、帽子掛けに喧嘩を挑んだり、つづれ織りのカーペットに向かって鼻水を飛ばしたり、山高帽を脱いで甲冑にかぶせたりする。杖をチョッキのポケットに引っかけ、ホールのテーブルの上の箱から小さな葉巻を一本取りだし、甲冑に向かって、どうぞと差しだす。何、いらないの。それでは、我が輩が、とばかりに自分自身に差しだし、葉巻を受け取り甲冑に愛想笑いで感謝の気持ちを示す。(「ルー屋敷のチャップリン」、『ようこそ、映画館へ』所収、越川芳明訳、p110~111)


 ……以上のような描写が読者にもたらす効果は、それぞれの読者の置かれている状況によって決定的に異なってくる。実は、タイトルに堂々と提示されている通り、ここで描かれている「彼」の動きは、喜劇役者チャーリー・チャップリンのありうべき動きを極めて精密に描写したものなのだ。
 チャップリンのイメージをもともと保持している読者の観点からすると、クーヴァーの描写は非常に高度なものである。この小説内でいきいきと描かれるチャップリンの動作や表情を、ありありと鮮明に思い浮かべることすらできる。……言い換えれば、「元ネタとしてのチャップリンのイメージを持つ読者」の間では、ここでの描写を構成する言語の指示する内容は、ぴたりと一義的に固定される。
 とはいえ、私が問題としているのは、チャップリンのことを知らない読者が排除されているということではない。この先の展開を追えばわかることだが、チャップリンのイメージと小説の言語をぴたりと同期させることによってしか、この小説のここから先の展開は意味を持たないのだが、しかし、私が問題とするのは、この小説で何が起きているのかをきちんと読み取った読者にとってすら、これは問題含みの小説であるということだ。
 ……主人公の行動の一挙手一動作が、読者の内部でチャップリンのイメージと完全に同期したまましばらく作品が展開したしばらく後に、次のような描写が現れ始めるのである。


チャーリーは調子に乗って、帽子から煙草を取りだすと、婦人の前でそれを上に掲げ、二つに割る。ズボンを上まで持ちあげ、肘でズボンを押さえる。二つになった煙草の吸いさしを肩ごしにパチっと指ではじくと、両足をあげてジャンプし、空中で二つを同時に蹴りあげる。ズボンも同時に脱げる。吸いさしのひとつは帽子でキャッチ。もうひとつのほうも追いかけるが、落ちたズボンが足かせになって、よろめいて、はからずも若い貴婦人の体にぶつかって、婦人を欄干から下に叩き落としてしまう。最初、チャーリーには何が起こったのか分からない。あたかも婦人の姿が突然、宙に消えてしまったかのように、くるくるまわって必死に婦人を探す。チャーリーは恐る恐る手すりの下を覗きこむと、彼女が下にいて、輪なわの部分を捻ったり引っ張ったりしているが、うまく逃れられない。あっと驚いて、手を伸ばし、彼女を引きあげようとするが、できない。力が足りない。欄干の結び目を手探りするが、手が震えて仕方ない。階段を駆けおりて、下から婦人のほうに手を伸ばすが、彼女の足は一メートル以上頭上にあり、じたばた動いている。(同、p131)


 ……このあたりまで読み進めれば、「ルー屋敷のチャップリン」という小説が何をしようとしているのかは、既に明らかになっているだろう。
 つまり、読者の内部でチャップリンのイメージを精密に固定する描写を展開したその上で、実際の映画ではチャップリンが決して展開しないような、ありえないはずのイメージを生み出すことである。あのチャップリンは、どれほど荒唐無稽なドタバタを繰り広げようとも、そのことが周囲の人間を無惨にして陰惨な血みどろの暴力に巻き込むようなことは決してなかった。だからこそ、読者にチャップリンのイメージをありありと喚起したその上で、そのチャップリンの姿をおよそありえなかったはずの状況に投げ込み、生み出されるはずのなかった映像を読者の脳内に再生してみせているわけだ。
 ……しかし、である。果たしてこれは、文学的な意味のあることなのだろうか。これを書いた時点でのクーヴァーには思いも寄らなかったのだろうが、現時点での技術水準においてならば、ある程度コンピュータに詳しい個人ですら、実際のチャップリンの映画を編集して改竄し、クーヴァーがしているのと同様のパロディを小説ではなく実際の映像で制作することは、たやすくできる程度のことだ。
 言葉による描写のみでこれほどまでにチャップリンの動作をいきいきと描き出すこと自体は非常に高度な達成であるのだが、しかし、その達成は、実際の映像が実現してしまえば無意味なものでしかない。それがなぜかと言えば、この小説でのクーヴァーの言葉は、正確にただ一つの映像を指示するために構成されており、完全に一義的な意味しか持たないように志向されているからだ。
 既に引用した冒頭部分のようなクーヴァーの言葉は、元ネタのチャップリンのイメージを知る読者の間では、完全に一義的なイメージを指示する言葉として、いっさいの異なる解釈の余地がなく固定される。つまり、この小説には、言葉と映像との間を行き来することによってそれぞれの側の意味が豊穣になるような効果は全くない。単に、言葉と映像という異なる手段が同じ対象を指示していることを明らかにすることによって、両者の指示効果が同期しているだけである。言い換えれば、言葉が言葉として、映像が映像として、それぞれが独立して存在していたならば当然あったはずの多義的な意味が、むしろ縮減されてしまっているのだ。さらには、言葉の指示する内容が完全に一義的に固定されてしまう以上、同等の内容を示す映像と置き換え可能なものでしかなくなってしまうわけだ。


 「ルー屋敷のチャップリン」における、以上のような問題は、技法面では異なる書かれ方がしている「きみの瞳に乾杯」においても、そのままに存在してしまっている。
 さて、その、この短篇集の末尾に置かれた「きみの瞳に乾杯」という短篇なのだが……解説を読む限りだと、『カサブランカ』を元ネタにしたこの小説がなぜ末尾に置かれているのか、翻訳・紹介に携わっている人々はそもそもよくわかっていないのではないか、という危惧の念を覚えている。
 解説によると、この「きみの瞳に乾杯」という短篇は、『カサブランカ』を扱いつつ「完全にポルノ映画に変身を遂げている」のだという。……のだが、この説明だと、この短篇で何が起きているのかも分からないし、説明している側がわかっているのかもよくわからない、というのが正直なところだ。
 実は、「きみの瞳に乾杯」という短篇は、『カサブランカ』という映画の作中では省略されており、省略されているがゆえに議論を呼び続けることになった空白のシーンの、ありえたかもしれない出来事を再現することによって成立しているのだ。
 つまり、この「きみの瞳に乾杯」という短篇は、単に『カサブランカ』を見たことがあるというだけでは、作中で何が起きているのかわからない。それのみならず、「『カサブランカ』の作中であいまいにしか描かれず何通りかの解釈が可能なある特定の場面があり、長年に渡って論じられ続けてきた」ということまで認識していないと、そもそも読解できないような形で構成されているのだ。
 『カサブランカ』の主人公であるリックは、モロッコのカサブランカで、かつての恋人であったイルザと再会する。時は第二次大戦中、ドイツに対するレジスタンスの重要人物であるラズロがイルザの夫であり、カサブランカからの脱出を試みている。ラズロを助けることができるのはリックなのだが、この夫妻に対して協力的な態度を取らない。そして、イルザが決死の思いでリックに協力を頼むやり取りがあったその後で、場面が変わると、リックはイルザに協力的になっている……。
 問題となるのは、この場面である。リックとイルザの間に、映画で描かれている後にどれだけのやり取りがあったのかは、省略されている。有り体に言ってしまえば、二人の間に性交渉があったのかなかったのかということによって、その後の展開の意味は変わって解釈できる……のだが、この映画は、どちらとでも取れるようにままになっているということだ。


 クーヴァーの「きみの瞳に乾杯」という短篇は、ここでの二人の関係を「あったもの」と特定した上で、そこでありえたはずの性交渉をあからさまに描写する。……だが、単にそれだけで終わるのではない。この短篇がどのように成立しているのかということを、リックの独白を通して、自己言及的に提示してみせもする。


空港の誘導灯が一つづきのフィルムの齣みたいに部屋の中を移動していくたびに、彼女のお尻は、カフェアメリカンのネオンサインのように、ぱっと光るように見える。時間というのも、これと同じかもしれない、とリックは思う。時間とは、終わりのない流れというより、むしろ、連続していない断片のあいだの小さな隙間をすばやく、連続して飛んでいく電子の飛躍だと。それこそ、時間に関して、よく彼が「連結=かぎ爪理論」と呼ぶものだった。もちろん、その理論は彼が発明したものではないが。(「きみの瞳に乾杯」、同、p230~231)


彼は濡れたタオルで煙草を消すと、ぽいっとわきに投げ捨て、両手で彼女の太股に手をまわし、彼女のお尻を(彼の頭は、まだ連続して動くフィルムの齣としての時間のことを考えている。その齣、その古びた役に立たない内容というより、むしろ齣と齣とのあいだの隙間だ。なるほど二次元的に見ると極小だが、三次元的に見ると、宇宙のごとく深みがあり神秘的でもあるその世界を)自分の顔のほうに引き寄せ、まるで子どもが蒸気で曇った窓ガラスから外を見るように、顔をお尻に押しつける。キスをして、洗い立てのふたつの尻肉をそっと噛み(万が一、ふたつの齣のあいだに滑り落ちたらどうなるのだろう? そう彼は思案する――)、舌で彼女のアヌスを(――どこにいることになるんだろう?)舐めながら、二本の指を使って、硬いキャンディの塊のような恥丘のふくらみをマッサージしてやる。(同、p231)


 ……もちろん、この「きみの瞳に乾杯」という短篇小説そのものが存在している場所こそが、「齣と齣とのあいだの隙間」、実際に存在している『カサブランカ』という映画のフィルムの連続体の中でのある一点、リックとイルザとの関係が省略されつつ次の場面へと転換される、「二次元的に見ると極小」な、まさにその場所にある。
 この小説は、映画と関係を切り結びつつ書かれる小説が存在しうるような場所はどこなのかを明確に描いているからこそ、映画を題材とした短篇集の末尾に置きうる。……のだが、しかし、それでもやはり、このような形で映画と小説とが結合されたとは言え、そこで素材とされた作品がより豊かなものになっているかどうかは、また別の話なのだ。
 現実に存在している『カサブランカ』という映画の特に後半の展開は、二人の男女の関係性の機微について、幾通りもの解釈をなしうる。もちろん、ここには、当時のハリウッドにはプロダクション・コードが存在していたゆえに直接的な性描写ができなかったという事情もあるのだが、そうは言っても、「きみの瞳に乾杯」という小説の依って立つ解釈を採用した場合、リックとイルザとの関係がそれ以上解釈の余地のない形で固定されてしまい、作品の持ちうる意味がやせ細ってしまうのだ。


 ロバート・クーヴァーによる一連の小説、『ようこそ、映画館へ』や『ゴーストタウン』は、小説の根本的な部分に映画の問題を混入させることによって言語と映像との間を行ったり来たりするような経験を成立させようとしてはいるのだが、その代償として、素材となる小説のテクストと映画のテクストとの双方が貧困になってしまっている。……というか、映画と小説とを一つの作品の内に混在させるにあたって、双方を貧困化することによってしか共存させることができていない。
 もちろん、その後のクーヴァーは、映画を題材としつつも最終的には言語によってしか成立しえないような作品として『ノワール』を完成させているのだから、ここにあった問題を突破しているとは言えるだろう。しかし、そのことが意味するのは、『ようこそ、映画館へ』や『ゴーストタウン』は明確に失敗作であったということだ。
 では、なぜクーヴァーはこのような失敗をしてしまったのだろうか。……私の考えでは、小説においてこのような無惨な失敗が起きてしまうのは、美術批評の文脈において提起された「ポストメディウム」という概念を文学の方面によく考えずに転用してしまった場合に起きることだと思う。ポストメディウム論がもともと置かれていた文脈をよく見てみると、そのままの形で文学に転用することはまず無理であるのにもかかわらず、そこでなされている議論がよくわからないままに転用してしまうとき、このような無惨な作品が現れてしまうということだ。
 もちろん、クーヴァーが『ようこそ、映画館へ』を出版したのは一九八七年であり、ロザリンド・クラウスによって「ポストメディウム」概念が提起されたのはそれより遅く一九九九年以降であるという、タイムラグは存在する。その意味では、クーヴァー自身が美術批評の既存の文脈を参照して自作に取り込んだというわけでは全くないのだが、しかし、それでもなお、ここには同時代的な問題系があると言える。
 そのことは、ロザリンド・クラウスの「ポストメディウム」に関する議論がそもそもどのような文脈でなされていたのかを確認すると、問題は明確なものとなってくる。……クラウスの議論は、その前提として、クレメント・グリーンバーグのモダニズムに関する議論を批判的に検討しつつ乗り越えるためのものだったということがある。
 では、グリーンバーグによるモダニズムの議論とは、どのようなものであったのか。……それは、一言で言えば、「メディウム・スペシフィシティ」を中核とする議論だ。グリーンバーグによれば、芸術におけるモダニズムとは、その芸術の属する分野に固有の、その依って立つ基盤となるメディウムの扱いが純化され、そのメディアにおいてしか成立しえない自律性を獲得したものだという。例えば絵画であれば、絵画が絵画として存在しうるメディウムの特徴、絵画にとっての本質である平面性にまで純化が進められるものこそ、モダニズムである。
 だからこそ、グリーンバーグは、例えば次のように書いている。


 あらゆる芸術において、そのミディアムに起こったこと、私はこれこそがモダニズムの起源を確定するのに最も重要であると考える。モダニズムを美的質の革新とし、それによって自己が正当化されたのは、ミディアムの直接知覚できる実体の革新による。そうした革新を離れてしまえば、モダニズムは消散する。(「モダニズムの起源」、藤枝晃雄訳、『グリーンバーグ批評選集』所収、p52)


 芸術のモダニズムは、いかなる領域においても、自身の依って立つメディウムの自己純化によって成立する。……だからこそ、モダニズム以降、複数のメディアを横断するような芸術が可能になったことを踏まえて、クラウスは「ポストメディウム的状況」なる概念を持ち出すことにもなったわけだ。
 メディウム・スペシフィシティを前提とするモダニズムに対して、ポストメディウム的状況は、異なるメディウムの間での領域横断・異種混淆性を前提とする。……以上のような要約はあくまでも大ざっぱな要約にすぎないのだが、この程度の粗雑な理解しかない状態だと、「文学は言葉をメディウムとする、映画は映像をメディウムとする、ゆえに両者を横断して混淆するのがポストメディウム的状況である」と楽天的に考えてしまうような誤謬も生まれてしまうのだろう。
 そう、これは、はっきりと「誤謬」なのである。なぜか。……それは、議論のそもそもの前提となるグリーンバーグのモダニズムに関する分析の中で、ジャンルとメディウムの関係性の中で、文学だけはその特性を定義することが難しい例外であることが、はっきりと述べられていたからだ。
 先に引用した評論の他の場所で、グリーンバーグは次のように書いている。


 一九世紀中葉以降、ある芸術は、多少なりとも、他の芸術よりも根本的にミディアムの革新を強く求めてきた。いま、散文小説のミディアムが質を維持するのに刷新兼革新を比較的必要としなかったということに注目すべきである。ジョイスの存在は措くとして、D・H・ロレンスも、トーマス・マンも、そしてプルーストですらそうではない。ただしここでは、ミディアムそれ自体に属するものと、そうでないものとの区別は余りにも微妙であるし、おそらくミディアムそれ自体という概念も狭すぎるであろう。詩の場合、同様の区別が小説よりも大きいか小さいかを見分けることができるかどうかは独立した話題としての議論の場を要するだろう。さらにおそらく、文学において何がミディアムで、何がそうでないのかを区別することは、いずれにせよ甚だ学的で、アレクサンドリアニズム的であり、実際の文学経験からかけ離れすぎていて、労を取るわけにはいかない。文学においては「内容」と「形式」、技術あるいはミディアムは、他のどの芸術におけるよりも、直接にお互いを統御する――もっとも究極的には、他のあらゆる芸術においても同じである。(同、p53)


 芸術の多くのジャンルがある中で、文学だけは、何がメディウムであり何がそうでないのかを定義するのが非常に難しい。グリーンバーグは、明確にそう述べている。しかし、この評論はあくまでも美術評論であり、グリーンバーグの議論も、主に絵画のモダニズムを検討することに主眼があるから、文学については軽く触れるだけで、上に引用した議論が深められることはない。
 以上から導き出される結論は、はっきりと述べておかなければならない。……すなわち、クレメント・グリーンバーグによるモダニズムの議論と、それを批判的に前提したポストメデゥウムに関する議論とは、(少なくともそのままの形では)文学に転用することはできない。
 既に英語圏なんかでも、ポストメディウムの概念を安直に文学に転用した論文は書かれているし、(ロバート・クーヴァーをはるかに下回る水準で)映像を小説に安易に組み込んで「異種混淆性」を実現した気になっている愚にもつかない小説は、さらに多くの数が書かれてしまっている。
 なぜそんなことが起きるのかと言えば、これらの人々は、「文学が前提となるメディウムは言葉である」という安直な定義に、何の疑問も持っていないからだ。「メディウムの純化」がモダニズムの前提であるならば、「言葉の純化」がポストメディウム状況の以前に成立しているはずなのだが、この種の人々がそんなことを考えている節はない。……一方、議論の流れの中で軽く触れただけにすぎないにもかかわらず、やはりグリーンバーグは非常な炯眼の持ち主だと言うしかない。……そう、文学において何がメディウムであるのかということは、実はそれほど明らかなことではないのである。
 ……では、グリーンバーグが突き詰めることのなかった議論を深めてみれば、どうなるのか。文学においてメディウムと言えるものを正確に定義しようとするならば、それは何なのか。さらには、文学のメディウムを自己純化した果てにある文学のモダニズム、さらにその先にある文学のポストメディウム的状況とは、いったいなんなのか。


 ロザリンド・クラウス以降のポストメディウムをめぐる議論は、
芸術作品を構成するデータがデジタル処理に還元しうるという技術的状況を前提している。例えば映画であれば、コンピュータ上で処理すれば、言語記号に変換して処理することが可能である。
 ……ということは、言い換えれば、芸術作品の言語記号への変換可能性がこの議論の前提となっている。そして、文学作品は最初から言語記号でできているのだから、この議論の例外となるのは、よくよく考えてみれば当たり前のことなのだ。もちろんコンピュータの人工言語とは異なる仕方によってではあるが、映像も音響も匂いも味覚も、言語として文学作品の内部に取り込まれている。だから、例えば「言葉」と「映像」を越境することは、メディウムを横断し異種混淆性を実現することにはならない。同じ表現が異なる階層で異なる形態を取っておりいつでも変換は可能であるというだけの状態を、異なるメディウム同士の相互の関係性と取り違えてしまっているのにすぎない(だいたい、古今東西の物語文学において挿絵が添えられることなど無数にあるのだから、言葉と映像が場合によっては変換可能であるなどというのは、当たり前のことである)。……以上のような部分が明快にならなければ、メディウム・スペシフィシティなりポストメディウムなりに関する議論を文学に転用することはできない。
 文学作品の素材とは言葉である、とは言える。しかし、クレメント・グリーンバーグの言う意味でのモダニズム、ある芸術のジャンルが依って立つ基盤としてのメディウムが自己純化され、そのメディウムの特性と作品の質が結びつき、そのメディアを用いることによってしか成立しない状況にまで純化が進むとは、文学においてはいかなる事態なのか。
 文学作品の成立しうる限界地点、そのメディウムにもともと備わる法則に作品の成立が依存し、その特性と不可分に結びついてしまう事態――文学にそのような影響を必然的にもたらすものだという意味でメディウムと呼べるものは、確かに言葉ではあるのだが、そのように言うだけでは正確ではない。より厳密に言わなければならなかったのである。文学作品にとってのメディウムとは、その作品を構成している言語の文法構造である。
 日本語が用いられているなら日本語の、英語が用いられているなら英語の、それぞれの文法構造の限界を、文学作品は超えることはできない(文法構造を破壊するときですらそうである)。その意味で、単に個々の「言葉」が文学作品にとってのメディウムなのではなく、共時的にとらえられる言語体系そのもの(ラング)こそがメディウムだったのである。
 そのように考えてみると、モダニズムとはメディウムの本質と結びつく自己純化の過程であるというグリーンバーグの議論は、文学にも当てはまることがわかる。その上で、それをモダニズムを前提としつつ批判的に乗り越えるためのポストメディウム的状況とは、文学にとってはなんなのかを考えることもできるだろう。
 その作品が所属する固有の言語の文法構造に、作品の成り立ちは依存する。このような意味で純化された閉域の外部とは、異なる法則によって支配されている、異なる言語体系であろう。……つまり、文学作品にとってのポストメディウム的状況とは、複数の言語間での異種混淆性のことなのである。
 以上のように考えてみれば、文学におけるポストメディウム状況とは実は目新しいものではなく、ヴァルター・ベンヤミンやジョージ・スタイナーなどによる既存の翻訳論をきちんと参照すればよいだけのことだったのである(ここでくれぐれも注意しておかなければならないのは、ここでの言語的異種混淆性とは、単なる翻訳可能性の問題ではなく、「翻訳不可能性を前提とした上での翻訳の問題」であることだ)。
 また、この視点は、従来の文学史に対する批判的な読み直しという点でも有用だろう。なるほど、グリーンバーグの議論を以上のような形で文学に転用すれば、エズラ・パウンドやT・S・エリオットの詩作の歴史的意味を位置づけることは用意になる。……一方、モダニズムのような純化された詩作を評価する価値判断が定着すると、例えばウォルト・ホイットマンやアレン・ギンズバーグなどを評価する価値判断がどのようにして成立しうるのか、それぞれが全く異なる価値判断の体系が単に無関係に存在しているように見えていたことも、統一して理解する視座が開けるだろう。ホイットマンやギンズバーグなどはアメリカ文学史の枠組みの内部では不動の位置を与えられながらも、同じ詩としてモダニズムとどのような関連にあるのかは、今一つわからなかったのである。しかし、ホイットマンやギンズバーグなどの本質が言語的混淆性ととらえるならばより広い文脈に一般化した議論が展開できるし、また、パウンドやエリオットにも「自己純化」という枠組みに収まらない言語的混淆性を評価する捉え方をすることもできるようになる。
 ……まあ、一つ言えることは、私が「文学作品に映像を安易に取り込むのは非常に危険である」と考えているのは、以上のようなことを踏まえているからである(別にその前提で文学をやってもいいんだけれど、そうなると、ゴダールの映画とかと完全に同一基準で勝負することになる上に、惨敗している地点からのスタートになるということをわかってるのだろうか……)。少なくとも、私が触れてきた「映像を取り込んだ文学作品」の大半は単に愚かなものでしかなかった。その中でも数少ない例外の一つが大江健三郎の『取り替え子』だったのだけれども、このことについては、いずれ詳述することもあるだろう。








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コメント

>しかし、ホイットマンやギンズバーグなどの本質が言語的混淆性ととらえるならばより広い文脈に一般化した議論が展開できるし、また、パウンドやエリオットにも「自己純化」という枠組みに収まらない言語的混淆性を評価する捉え方をすることもできるようになる。

成程。私事ですが近頃『現在時と過去の言語を交錯させる作家』と聞き古井由吉の作品に関心を抱いてて、この議論や氏の作品がロベルト・ムージルを参照している事などを踏まえれば、日本語の文脈に於けるモダニズム理解の路を開く事が出来るのかな、とか思ったりしました。

また、「メルヴィルやフローベールやドストエフスキーに於ける引用技法がモダニズムに於ける歴史を語る構造へと継承された」と確か武田泰淳のエントリでおっしゃられていたと思いますが(間違ってたら失礼)、やはりこの文脈に接続したりするのでしょうか…?

Re: タイトルなし

 たぶんその線はあると思います。ただ、実は私自身が『特性のない男』を未読なもんで、そことのかねあいでの古井の詳細な評価を保留しているということがあります。
 そのあたりをちゃんと読み込もうとしたら、ブロッホやデーブリーンあたりとの比較も含めてやっていかないといけないので、腰を据えてかからないといけないことがわかってるので、自分の中で先延ばしにしちゃってるんですよね〜。

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