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西部劇は解体しうるのか――ロバート・クーヴァー『ゴーストタウン』

 ロバート・クーヴァーの『ゴーストタウン』を邦訳で読んだのだが、なんとも微妙な気持ちになってしまった。……率直に言って、この小説は、クーヴァーの小説としては相当にダメなものである。ただ、私ががっかりしてしまったのは単にそれだけが理由ではなく、この小説に関して適切な紹介がなされているように思えなかったということもある。
 おそらくは、この小説に関して解説やら書評やらの類を書いている人々が、ここで題材となっている西部劇に関して全くの無知であるらしいことも、その大きな要因の一つとなっているのであろう。『ゴーストタウン』という小説の、西部劇というジャンルの参照の仕方は決定的にダメである。……一方、この小説よりしばらく後にクーヴァーが書いた『ノワール』は、フィルム・ノワールというジャンルの参照の仕方という点で、『ゴーストタウン』の時点より大幅に優れたものになりえている。
 ところが、日本語の翻訳紹介ということだと、後年の『ノワール』の方が先に出てしまった。つまり、ロバート・クーヴァーという小説家にしかるべき敬意を表し、そのキャリアを丹念に追うようなタイプの読者にしてみれば、予備知識なしで読めば当然のこととして失望してしまうようなものなのである。……ところが、『ゴーストタウン』は『ノワール』での達成に比べれば相当に見劣りするものでしかないというような評価・検討の類は、特に見られないのである。
 とはいえ、私がロバート・クーヴァーという作家にとって「ダメなもの」として見なしてしまうような水準そのものは、通常の小説との比較で考えると相当に高い(例えば、クーヴァーの代表作である『ユニヴァーサル野球協会』は、同じく野球を題材として取り上げたアメリカのポストモダン文学であるフィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』などと比べてみても、明確に上回る作品であると評価している)。また、そもそもアメリカのポストモダン文学と言えばトマス・ピンチョン以外の作家は重要作・代表作ですら邦訳・紹介されていないものがごろごろあることを思えば、クーヴァーの邦訳された小説が一冊増えるだけでも、貴重なことであるとは言える。
 ただ、『ゴーストタウン』と西部劇との関係を評する解説・書評の類が(私が目にした限りでは)ことごとく的外れで、なおかつ西部劇への無知が隠されていないようなものばかりであることを思うと、とりあえず作品を広めるために戦略的に弱点を隠蔽しているのではなく、単に問題の所在にすら気づいていないのではないかと思えてしまうのだ。
 例えば、『ゴーストタウン』という小説が、オーソドックスな西部劇が綺麗事の物語の背後に隠しがちな性と暴力を過激に描いたことを持って「西部劇のパロディ・解体」と見なしている人々がいるようなのだけれども、ペキンパーの西部劇を見たことがないのだろうか……(というか、へたをするとペキンパーの名前すら知らないのかもしれない)。
 あるいは、ジョン・フォードのような古典的・正統的な西部劇の巨匠でさえ、そのキャリアの後半になると、『リバティ・バランスを射った男』のような、西部劇というジャンルそのものへのメタ的視線、その定型が隠蔽しがちなものの背後の事情までをも内包した自己言及的な西部劇を監督しているのだけれども、「西部劇のパロディ・解体」などという者は、このあたりの事情まできちんとふまえてものを言っているのだろうか。
 そして、それ以前のそもそもの話として、「西部劇」とは、すなわち映画を表すジャンルというわけではない。西部劇は、小説としてもコミックとしても、あるいはTVドラマとしても、無数の作品が生産されてきている。また、開拓時代のアメリカ西部(と言うか、厳密に言うと、西武に限らずとも開拓途上の状態の無法地帯)を舞台にしたジャンルが「西部劇」であるため、このジャンルに属するフィクションが、明確な物語の定型を共通して持つわけでは、実はない。保安官やらインディアンやらカウボーイやら流れ者のギャンブラーやらは確かに西部劇に頻出する記号であるが、必要不可欠な構成要素というわけでもない。保安官の登場しない西部劇など、いくらでも存在する。
 多くの媒体にまたがって長年に渡って量産されてきたジャンルが西部劇である以上、そこに頻出するありがちな物語がジャンル内で自己言及的に相対化され、パロディ化され、解体され、ありがちな定型が隠蔽し抑圧した裏側が暴露されるようなことも、ジャンルの内部で既にさんざん繰り返されてきたことだ(余談になるが、アメリカの娯楽の分野では、小説なのか映画なのかという媒体の問題よりも、西部劇なのか犯罪者なのか恋愛ものなのかという内容での分類の方が、ジャンルの区分の境界として大きい意義を持っているように、最近思えてきた。これは、日本とは根本的に感覚が違うところなのではないかと。文化的に高い価値を認められると、コミックがあっさりとgraphic novelなどと呼ばれてしまうことにも、そのあたりの事情があるように思われる。……しかし、これはしょっちゅう思うことなんだけれども、日本でアメリカ文学の研究してる人の大半って、アメリカの文化的背景、大衆娯楽の状況とかにはほんとに興味ないよね……西部小説なんかにしても、かなり早い段階でアメリカ文学の本流からは外れたものの、二十世紀にも娯楽ものとしては大量生産されてきたんだけれども……)。
 つまり、もし本当に、そのような巨大なジャンルとしての西部劇の総体を「神話」とみなしそれを解体するのであれば、それこそ『ユニヴァーサル野球境界』以上の巨大な小説でなければ到底なしうることなどできるはずもないのである。
 ……では、『ゴーストタウン』という、長篇としては小ぶりの小説が西部劇を参照しつつなしていることとは、いったいなんなのか。


 『ゴーストタウン』という小説が始まるのは、開拓時代のアメリカの西部とおぼしき場所で、無人の荒野を独りで行く男が、町を訪れるところである。……ただ、それが正確にいつの時点のことであるのかも、作中でどの程度の時間が経過しているのかも、はっきりとしたことはわからない。むしろ、作中での時間の扱いが通常のものではないことをはっきりさせるためにこそ、冒頭近くに次のような記述がある。


そして谷から出てみると、彼は何もない大平原の真っ只中にいた。そこは何も起きたことがないように見えるが、同時にすべてがすでに終わってしまった――始まる前に終わってしまったようにも見える場所だった。そこにありながら、そこにない空間。恐ろしいと同時にありふれた、とてつもなく大きな虚空。この馬が歩く地面は、これだけの広がりがあるのに紙のように薄く、何もないところに広がっているかのようだ。彼はここで世界の終わりを迎えるつもりはないが、世界の終わりが来るような気がしなくもない。(『ゴーストタウン』、上岡伸雄・馬籠清子・訳、p5~6)


 「彼」と呼ばれる男がとある町を訪れるところから物語は始まるのだが、しかし、その町を男が訪れるのが初めてのことであるのかどうかすら、はっきりとはわからない。


 その死者が彼に取り憑いているように思える。乾いた風に目がついていて、彼の背後から囁きかけている。空中に目があるというこの感覚がときどきとても強くなり、彼は鞍の上で体をひねって視線を後ろに向けずにいられなくなる。そしてある日、そのように後ろを向いたとき、反対側の地平線に町があることに気づく。彼が向かっていた町の鏡像のように見える町。まるで彼は一つの町を旅立ち、また同じ町に向かっているかのようだ。(同、p7~8)


 そして、その町がどのような場所であるのかと言えば、いかにも本物らしくない、作り物めいた場所であることが隠されもせず、はっきりと明言されることになる。


通り過ぎていくのは質素な町。人気がなくて静まり返り、砂漠そのものからできた町のようだ。今にも倒れそうな、ハリボテの正面外観だけの木造家屋が数軒並び、荒涼とした砂漠に街路のような雰囲気を作り出している。(同、p8)


 ……つまり、ここまでを整理してみると、直線的な時間の流れが存在せず、全てが終わったと同時に何も始まっていないとも言える無時間的・非歴史的な空間の内部で、一人の男が作り物めいたいかにも偽物のような町に向かっているのだが、その訪問は初めてではなく、何度も何度も繰り返されたものであり、空間的にも時間的にも物語は循環していることが示唆されている。
 それのみならず、「彼」と呼ばれる人物については、次のような記述もある。


あるとき彼は誰かを埋めなければならなかった。記憶によれば兄弟みたいな男。ただ、彼が掘った穴に横たわる死者は本当のところ死んでおらず、やみくもに動き続け、土を蹴ってどけようとしていた。実は、体をねじったりもがいたりしていたのは彼自身で、彼がやみくもに蹴っていたのだった。埋葬のための穴に横になり、土が顔にかかっていた。しかし、再びそれは彼でなくなり、そこにいる男は突如として穴から這い出るそうとして、空気に掴みかかるかのように腕を振っていた。(同、p5)


 つまり、「彼」という言葉が誰を指しているのかも、実は明確ではない。埋葬するものと埋葬されるものとの間で主観が交代しているのかもしれず、死者と生者との間の境界も明確ではない。
 そのことを踏まえると、タイトルが『ゴーストタウン』とされていることも、これと関係があるように思えてくる。実は作中では、「ゴーストタウン」と呼べる場所がはっきりとした形で登場するわけではない。つまり、一見すると生者たちが住んでいる普通の町と思える場所が、実はその実態は死者たちのゴーストタウンであることが示唆されているわけだ。
 始まりも終わりもない循環する時間の内部で、「彼」と呼ばれる人物の人格の境界も明確ではないからこそ、西部劇を構成するありがちなパーツだけが、物語に奉仕する本来の機能を失い、純然たる記号としてのみ働いて、単線的な時間が流れない迷宮的な作品世界を構築する――ということが、この小説では起きている。


 では、それの何がダメなのか。以前私は、クーヴァーの『ノワール』を評して「この『ノワール』という作品は、「テクストそのものが既存の記号の集積のみで構成されている」というようなポストモダン文学にありがちなスタイルを踏襲した上で、そこからさらにひとひねりを加えて言語そのものの原理的な検討・分析にまで到達している」と書いたのだが、それを踏まえて言えば、『ゴーストタウン』は単にありがちなポストモダン文学なのであって、そこにクーヴァーなりのひとひねりが加えられているようなこともないのである。
 まず、作品を構成するパーツが西部劇の記号であることを除いてしまえば、作品のなりたちそのものはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』に酷似しているのだが、『ペドロ・パラモ』より後続でありながら、あの小説よりはるかに単純な構造しか『ゴーストタウン』は備えてはいない。
 では、『ゴーストタウン』の独自性たる、西部劇的な記号を本来の文脈から引き剥がして無時間的な作品世界に投入するということは、どうなのだろうか。……私は、そのような試みはフィルム・ノワールを題材としてはうまく機能しても、西部劇ではうまくいかないと思う。
 そもそもの前提として、「フィルム・ノワール」とは、漠然とした雰囲気なり画面のスタイルなりに共通する傾向を持つ一群の作品をまとめて呼ぶ呼称に過ぎず、明確なジャンルとしての境界を持たない。だから、その雰囲気・スタイルだけを抽出し、無時間的な作品世界を構成するということは、もともと備えている傾向と合致している。
 一方、西部劇とは、要するにアメリカの時代劇である。西部劇は巨大な広がりを持つジャンルであるが、時代劇である以上、歴史性を抜き取ることなどできない。例えば銃器を精密に描写するなら、それだけで、時代・場所がある程度特定されてくることもありうるし、南軍もしくは北軍の兵士(もしくはそうであった過去)が登場するなら、政治性を抜き取ることもできない。
 だから、『ゴーストタウン』という小説がなしているのは、西部劇の定型に対するパロディ・解体ではない。むしろ、ここで起きている事態は全くの逆である。西部劇のありがちな要素を切り出してきて断片的に組み合わせ、クーヴァー独自の無時間的な作品世界の構成要素とする、そのことにあたって、個々のパーツが本来備えていたはずの歴史性・政治性はばっさりと捨象されている。つまり、西部劇の隠された真実、その本来の実態なるものは、『ゴーストタウン』の閉じて独立した作品世界によって、むしろ隠蔽されているのである(……そう考えてみると、これって、イタロ・カルヴィーノの完全にダメな部分と同じですな……)。
 ただし、『ゴーストタウン』と類似するテーマを扱った『ノワール』になると、そのような問題はかなり解決し、技術的にも大幅の進歩が見られる。……のだが、作品が成立する根本的な前提は共有するのだから、本質的な部分ではない小手先の技術が洗練されただけであるとも言える。
 ロバート・クーヴァーの、以上のような問題は、最近邦訳が復刊されたマイケル・オンダーチェの『ビリー・ザ・キッド全仕事』においても、(単に西部を扱っているという内容面での類似のみならず)共通している部分があると私は考えている。……そこで、もう少しこのあたりのことを検討するため、クーヴァーが『ゴーストタウン』以前に書き、これも最近邦訳が出た『ようこそ、映画館へ』についても、改めて考えてみたい。











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コメント

面白かったです。次回が楽しみです。

ポストモダン文学は全然詳しくないのですが、最近、「パロディ」というものの重要性を感じています。近代小説の始まりはセルバンテスのドン・キホーテだという話がありますが、ドン・キホーテというのは承知の通り、パロディで、「小説」というジャンルはスタート時点からかなりひねくれた、呪われた構造を持っているんじゃないかという気がしています。

howardhoax氏の評論を読んでいると、「小説というものから世界を見ると、世界は単なるテキストにすぎない。が、テキストの外部に出ていこうとする可能性も小説は持っている」…そんな志向性を感じます。

小説はただのテキストである事、言葉に過ぎない事、その事を意識しつつ、なおかつその外部へと出ていこうとするもの、そういうものがhowardhoax氏にとって評価されているのかなあと思っております。

僕自身の文学観と重なる所、重ならない所を参照しつつ読んでおります。また次回楽しみにしております。

大体の駄目なポストモダン文学って、リアリズムなりモダニズムなりに批判的になる余り、それらの史実的達成まで放棄してしまっていて、結果ただの幻想小説まがいに堕しているような気がします。

思えばピンチョンの「V.」なんかでは、プロフェインのパートを中心にコミカルなキャラを描きつつ、ステンシルのパートでは世界大戦前夜の緊張感や植民地における陰惨な浄化政策といった史実が、リアリズムのラインを超えつつも克明に描写されている。
私はピンチョンはそこまで好きじゃないのですが、彼はポストモダン的な物とそれらに無闇に飛びつく時代に対して徹底的に冷めていたと思われます。それは一考に値する。

とりあえずジョイスやフォークナー、日本なら谷崎や大江のような純文学の大家とサブカルチャーの関係辺りから論じないと、真の意味での「ポストモダン文学」は産まれないんでしょうねえ。

ともかくクーヴァー、「公開火刑」なんてドン・デリーロとか結構誉めてた記憶があるんですけどね。未訳なのがうやうやしいです。

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