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エリック・ロメール&クロード・シャブロル『ヒッチコック』と編集の倫理

 エリック・ロメールとクロード・シャブロルの共著になるヒッチコック研究書『ヒッチコック』を、邦訳で読んだ。

 もともと、アンドレ・バザンの影響下に「カイエ・デュ・シネマ」誌で活動していた若い映画批評家たちが実作者へと転じていくことで主要な流れが形成されたのがヌーヴェル・ヴァーグなのであったーーそして、ヌーヴェル・ヴァーグが取った批評的立場で重要であったのは、単に商業的娯楽作家とみなされていたアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスの作家的価値を称揚することにあったのだった。

 この邦訳版『ヒッチコック』の解説にもその経緯は詳細に記述されているのだが、当時のフランスにおいて、特にヒッチコックの作品の価値に関する論争は相当に激しいものだったらしい。「カイエ」の執筆者がヒッチコック擁護で揃って立場が統一されているというわけでもなく、論争の果てに、ロメールとシャブロルによる単著として刊行されたのが、この『ヒッチコック』なのであった。

 ……というわけで、もともと映画史的にも非常に有名な著作であった『ヒッチコック』であったのだが、この邦訳が出たのは割と最近であり……いざ読んでみると、なんというか、現在の視点で見ると、かなり古びてしまっている印象を受けた。





 まず、そもそも前提としておさえておかなければならないのは、ロメール&シャブロルによる『ヒッチコック』が、ヒッチコックに関するモノグラフィとしては世界で最初のものであるということだろう。言い換えれば、この著作が刊行された時点では、ヒッチコックがまともな研究の対象とみなされてすらいなかった、ということだ。

 いかなるハッタリもなく、当然のこととして、ヒッチコックをただ堂々と論じてみせるということは、当時の状況としてはそれ自体が大きな意味を持ち得たのかもしれないが……現在の視点で見ると、単にフツーの研究書であるように見えてしまうのである。

 『ヒッチコック』という著作は、激しい論争の果てに成立した書物であるにもかかわらず、その起源にあったはずのポレミカルな部分の痕跡はそのほとんどが消去されている。その数少ない例外が、アンドレ・バザンの立場に言及した部分だ。ロメール&シャブロルは、ヒッチコックを否定する当時の批評家たちを非難しつつ、次のように書く。





 時間が経てば彼らは笑い者になるのだから、こうした批評家は皆無視しよう。唯一重大な反論がアンドレ・バザンによって表明された。彼にとって、ヒッチコックの映画が革命的なのは見掛けだけでしかなかったのだ。(『ヒッチコック』、木村建哉・小河原あや訳、p114)





 ……確かに、ヒッチコックを認めなかった人々のその後についてはロメール&シャブロルが完全に正しいのだから、ある意味では、現在の状況こそが、ロメール&シャブロルの願望が成就した状況であると言えるのかもしれない。つまり、彼らの『ヒッチコック』が、単にふつうの評論として読めてしまうということが。

 とはいえ、この著作の内部には、そう簡単には消化できないような部分も含まれているので、もう少し細かく見てみたい。





 ロメール&シャブロルの『ヒッチコック』は、刊行当時に製作されていた『間違えられた男』までのヒッチコック作品を編年体で論じている。現在の視点から見ると、『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』といった重要な作品群を取り上げることができなかったわけだが、そうは言っても、イギリス時代およびその時点でのアメリカ時代の作品を網羅するだけで、膨大な量に上ることになる。

 ヒッチコックが監督としてのキャリアをいかに送ったのかの評伝を含みつつ、個々の作品製作にあたってプロデューサーとの関係などの中でヒッチコックがどれほどの自己裁量を獲得できたのかなどにも言及しつつ、個々の作品の具体的な検討がなされる。

 そして、その際、ヒッチコック作品のそれぞれの善し悪しを単にバラバラに論じるのではなく、全ての作品に一貫して存在する構造が探られることになる――『ヒッチコック』という著作の特異な部分が現れるのは、このあたりである。ロメール&シャブロルは、ヒッチコック自身がカトリックであったことを非常に重視し、ヒッチコック作品に一貫するカトリック的な世界観を検討するのである。

 たとえば、『断崖』における主人公の疑惑の感情を検討する際、ロメール&シャブロルは次のように書く。





実際、疑惑は、『レベッカ』の作家が好むテーマの一つであり、ヒッチコック映画の中には、疑惑がしかるべき位置を占めていない作品は一本もないほどなのである。疑惑とは、言わば「交換」の概念の心理的な保証金であり、この概念の道徳的な側面は後ほどさらに推し進めて検討することになろう。(同、p82、傍点は省略)





 ヒッチコック作品の全てに登場する「疑惑」という登場人物の感情は、一見すると感情とは関係がなさそうな、「交換」というテーマと結びついているのだという。

 『ヒッチコック』においてロメール&シャブロルがまず目指すのは、ヒッチコック作品が脚本面で一貫して持つ構造を解きほぐすことである。だからこそ、ロメール&シャブロルは、『疑惑の影』いついて論じるときにも、次のように書く。





この作品の中に心理的な犯罪映画の独創的な見本しか見て取らないことは、まず不可能である。脚本の構造自体が、そして熟考された演出の詩法が、そうした見方を禁じるのだ。ここでは、すべてが脚韻の原則に基づいている。(同、p87)





 ヒッチコック作品において、登場人物の感情とプロットの展開(さらには、ここでは論じられていないが、ヒッチコック作品に頻出する特異な視覚的な特徴)とは、あたかも詩作において脚韻が踏まれるかのような、首尾一貫とし整然とした建築的構造を有している。

 ヒッチコック作品を何本かまとめて見てみれば、そこにある突出した視覚的な表現は、誰でも気がつく。しかし、ロメール&シャブロルは、単にヒッチコックの視覚的表現を抽出して、それだけを独立したものとして評価するのではない。むしろ、単に周囲から浮き出て突出しただけにみえる視覚的に異常な細部が、実は、作品全体の論理の中では、登場人物の感情と不可分に結びついていることを強調するのだ。

 だからこそ、ロメール&シャブロルは、『見知らぬ乗客』について、次のように書く。





 ヒッチコックの技――この映画は、それを特によく際立たせている――は、純化された、ほとんど幾何学的なあらゆる形象が我々一人一人に与える魅惑によって、我々に登場人物の経験するめまいを共有させ、そしてめまいを越えて、精神的な観念の深さを発見させることにある。象徴から観念へと向かう流れ[電流]は、常に感情という凝縮器を通過する。これは決して理論的な、型にはまった関係ではない。それゆえ感情とは手段であり、猟奇人形劇のドラマと違って、目的ではない。感情は、形式を越えたところに、しかし観念の手前にある。したがって、感情は、口の中に苦い味を残すと同時に、世界の統一性それ自体であるような<統一性>の感覚を我々に残す。カオスのただ中で常に判別可能な<統一性>であり、<悪>の暗い諸相に最も美しい光線のいくつかを反射させているような原初の光である。<自然>の強烈な感覚がこの映画全篇を貫いており、それは、祝日の夕方やよく晴れた午後といった日常的な自然であると同時にまた、大文字の自然、より正確に言えばコスモスでもあって、めまぐるしく旋回する様々な世界の深奥で、めまぐるしく旋回する一つの世界なのである。各々の振る舞い、各々の思考、各々の物質的もしくは精神的な存在には、ある秘密が託されており、その秘密からすべてが照らし出される。そしてこの光は、慰めと共に恐怖をも分かち与える。世界の土台が立脚するその同じ原理が同時に、世界の破壊を司ることのできる原理でもある。(同、p135、ルビと傍点は省略)





 ……これは、かなり入り組んだ複雑な議論である。まずここで前提とされているのは、ヒッチコック作品の個々の登場人物やそれぞれの作品の枠組みをもすら越えて、全体としての統一性が存在するということだ。それぞれの作品なりさらにその内部の登場人物なりは、それぞれの枠組みの範疇で自律的に行動しているのではなく、あくまでも全体の統一性の一部を担っているのにすぎない。だから、各個人の個人的な感情すら、単に各個人の内部で私有されているのではなく、より広い、世界の統一性の内部でなんらかの機能を果たすものである(おそらく、このような発想自体が、ロメール&シャブロルが重視するカトリック的思考がそのまま反映したものであるのだろう)。

 結果として、ヒッチコックの作品世界において、個人の内面の感情と、一見するとそれとは無関係に思える作品そのものの視覚的なスタイルは、有機的に結びついていることになる。画面に写る「純化された、ほとんど幾何学的なあらゆる形象」は、それ自体が自足して存在するのではなく全体の統一性に奉仕しているという意味では、各個人の感情とも等価なのである。

 そして、ロメール&シャブロルが、たとえば、ヒッチコック作品における「交換」の機能を重視するのは、以上のような議論を前提とした上でのことなのだ。……だからこそ、『間違えられた男』を論じる過程で、次のように述べられることにもなる。





ヒッチコックの固有性は、事態の裏と表とを同時に我々に見せることである。彼の作品は二つの極を往還し、それらの極は、両極端が相通ずるように一致し得る。この往還に、我々は「交換」という名を与えた。ここにおいて、この往還が、全人類の交換可能な罪責として、最も高貴な表現を見出していることを認めよう。(同、p183)





 個人がバラバラに存在しバラバラにそれぞれの行為なり感情なりを有しているのではなく、全体が統一性の内にあるからこそ、異なる個人がそれぞれに持つ感情なり、全く異なる場所で行われた別々の行為なりが、「交換」されることが可能になる……。

 そして、ロメール&シャブロルは、以上のような特徴を持つヒッチコック作品の構造の最も典型的な「母型」は、『裏窓』に結実しているのだと言う。足を骨折して歩けない『裏窓』の主人公は、望遠レンズで隣人たちの姿を覗きつつ、そこで起きていることに推論を加える。





 推論[演繹]の筋道は、いくつかの極端な帰結にまで進む。知りたい、あるいはより正確には、見たいという情熱は、ついには報道写真家の他のあらゆる感情を抑えつけることになるだろう。この「覗き」の悦楽の絶頂は、恐怖の頂点と合致する。彼は罰を受ける、というのは、自分の婚約者が、数メートルばかりのところで、中庭という深淵によって隔てられて、容疑者の部屋で不意をついて襲われるのだから。(同、p150~151)





 ……そして、『裏窓』が「母型」であるからこそ、それを基準としていくつかの要素に変形を加えれば、その他の作品がどのように構成されているのかも分析できることになる。





この観点、建築の観点から見ると、『知りすぎていた男』は、ちょうど『裏窓』の系[派生的命題]のように思われる。一方から他方へと移行できるようにするには、公式[定式]の項の一つを修正するだけで十分である。<空間>を<時間>に代えるのだ。

 『裏窓』において、登場人物を彼が欲望し恐怖する対象から隔てるのは、ある広がり[延長]である。この映画ではそれは、同じくはっきりと画定された、ある間の持続である。深淵はもはや空っぽの庭ではなく、ある長さの時間、同じほど大きな不安を分配する時間であり、そしてその不安をヒロインは、どんな犠牲を払っても飛び越えたいと願うだろう。(中略)『裏窓』の世界は、凝視の世界、絶対的な受動性の世界であり、いかなる出口もない。『知りすぎていた男』の世界においては、全体を支配する時間が、一つの可能な行動という次元を導き入れる。そしてこの救済は、<運命>(だがむしろ<摂理>ではないか)と<意志>が組み合わさった働きと引き換えにしか得られないのである。(同、p172~173、傍点は省略)






 ……などというように、ロメール&シャブロルが提示してみせる、ヒッチコック作品に通底する構造は、確かに説得力があるように思えるのだ。





 以上のように『ヒッチコック』の議論を整理していると、現在からすれば古びてしまっているという私の評価は、過小評価であるように思えるかもしれない。

 しかし、である。実は、ここまで私がその論旨を記述してきたような議論は、『ヒッチコック』の本文ではもっとはるかに錯綜して述べられており、各所に散らばった議論を整理して、かなり苦労して論点をまとめ直して、ようやく得られた見通しなのだ。

 ではなぜそんなことをしなければならなかったのかと言えば、『ヒッチコック』という著作は、あくまでもヒッチコックの経歴に即した形で、編年体で作品が時系列に沿って検討されていくからだ。

 ロメール&シャブロルが作品分析で試みているのは、ヒッチコック作品の全体に通底する共通点を探り、その構造を解明することだ――ならば、そのために最適な方法が、編年体の記述であることはありえない。実際、製作順に個々の作品が言及されるがゆえに、論旨が行ったり来たりし、一貫した議論を追うのが非常に手間がかかる記述になってしまっているのである。

 また、編年体であることが、ロメール&シャブロルによる個々の作品評価の説得力をも減じてしまっているように思える。なるほど、カトリック的世界観の分析が終始一貫して追求される著作なのであれば、そこで、『私は告白する』や『間違えられた男』が特権的な作品として評価されることには納得がいく。しかし、ヒッチコックのキャリアを年代に沿って追っていく過程で、この二作品が、同時期の『見知らぬ乗客』『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『知りすぎていた男』などといった傑作群よりも重視されてしまうことには、全く説得力がない(……正直なところ、この著作を読んでいて、批評家としてのロメールのキレのなさを痛感してしまったので、そもそも実作者になる前のロメールが批評家として「カイエ・デュ・シネマ」で活動していたころ、極東の島国でそれを読んでいた過激派映画ファンの学生が「こいつ殺す」などと言っていたのもやむなし、などと思ってしまったのだ……あ、これはもちろん、若き日の蓮實重彦の話です)。

 もちろん、なんらかの対象の抽象的な構造を解明するためには、歴史性・時間性をいったん括弧にくくらなければならないなどということは、当たり前のことである……ロメール&シャブロルがそれをできなかったのは、そもそもヒッチコック作品の研究書自体が存在しないという状況があったからだろう。まずは、体裁が整い単著として完成した評論が出版されるという形を作るため、オーソドックスな編年体に則った単著が上梓された……。

 そこまで考えて、ふと気づいたことがある。……結局のところ、著作家としてどのように著作の体裁を整えるのかということは、映画監督としてどのように自作を完成させるのかとうことと、全く同じことなのではないか、と。

 つまり私は、ここにこそ、ロメールとシャブロルの両名の、ゴダールとトリュフォーとの間の根本的な断絶があるのではないか、と思ってしまったのだ。……言い換えれば、ゴダールなりトリュフォーなりであれば、自分が信じる価値を自作で表現しようとするのに際して、世間一般への配慮と何らかの形で衝突が起きてしまうようなことがあった場合、果たして、体裁を取り繕うためだけに自作の編集を変えるようなことがあるだろうか、ということだ。

 例えば、トリュフォーがヒッチコックに直接取材した『映画術』は、体裁としては対談集なのだから、ロメール&シャブロルの『ヒッチコック』とは異なる……しかし、より根本的な相違として、異様なまでのハイテンションで徹底して自分の好きなものを語り倒すトリュフォーの態度こそが、あの著作をして、いつまででも古びることなく広く読み継がれ続けるものにしていたのではなかろうか。

 そのように考えてみれば……ロメールにせよシャブロルにせよ、優れた映画を何本も撮っているし、部分部分で見れば突出した細部もいくらでもある。しかし、作品全体を通してみたときに、通常の映画として存在できないような体裁をかなぐり捨てたもの、作家の衝迫のみに突き動かされて

わけのわからない領域にまで至ったもの……そのようなものは遂に実現することがなかった。彼らは最低限の世間向けの配慮、世間向けの忖度を捨てることはなかった……言い変えれば、ロメールにせよシャブロルにせよ、本当にヤバい一線を越えることだけは、決してなかったのだ。








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