Latest Entries

バザンを読むゴダール

 アンドレ・バザンの映画批評はわかりにくい。しばしば、バザンの議論の論旨は不明瞭であり、分析の俎上に乗せる映画を綺麗に裁断するような爽快感はなく、むしろ、バザンが対象とどのように接しているのかすら把握しにくいようなことすら少なくない。
 その一方で、例えば『映画とは何か』の冒頭に収録された、バザンの代表的な評論の一つである「写真映像の存在論」は、人口に膾炙している要約によると、極めて素朴なリアリズムを肯定するものであるとされている。写真および映画が多くの芸術と異なるのは、現実に存在する事物からの転写を含むという、存在論的な側面を持つからなのであり、このような議論から、編集を排除し長回しで撮影されたシークェンス・ショットを重視するというバザンの美学的立場も導かれる、ということになっている。
 ……しかし、バザンが論じているのがそれほど単純なことに過ぎないのであれば、なぜ「写真映像の存在論」は、あれほどまでに論旨が不明瞭でわかりづらい文章でつづられているのか。あの評論は、書きようによってはもっとクリアに書けた――言い換えれば、それは単に、バザンの論理的な文章能力の欠如によるというのだろうか。
 ……実は、最近、アンドレ・バザンに関する邦語文献がいろいろと充実してきたということもあり、たまたままとめて読み込んでいたのだけれども、そこでわかったのは、私はバザンのリアリズムの議論に関して、根本的に誤読していたということなのであった。映画研究者による最近の議論なども含めてチェックしてみると、バザンの議論を単純化した議論の粗雑さを批判する論者もいる――しかしその一方で、それが定説となっているわけでもなく、過度に単純化されたままの従来の解釈もそのまま流通しているようだ。私自身、バザンの文章そのものを読み込んだ結論としてではなく、なんとなく流通している常識に引っ張られて、バザンの議論の複雑さをよくわかっていなかったのだ。


 「写真映像の存在論」において、確かにバザンは、現実に存在した事物の痕跡が転写されるがゆえに写真および映画は肯定されるという、非常に素朴な意味でのリアリズムを展開している。しかし、それと同時に、その単純な論旨には回収できず、一見すると議論の道筋から逸れているようにすら思える部分が、少なくとも二つある。
 まず一つは、バザンが「真のリアリズム」と「疑似リアリズム」とを区別し、前者のことを「世界の具体的な意味、真の意味を表現したいという欲求」と定義していることだ(なお、この点に関しては、三浦哲哉がバザンを論じた「二つのリアリズムと三つの自動性」(「現代思想」2016年1月号所収)において詳細に論じられている)。……つまり、バザンは、「疑似リアリズム」とは区別される「真のリアリズム」とは何かを端的に述べるのに際して、現実の世界の存在論的なありかたなど、微塵も語ってはいないということだ。
 もう一つは、この評論の結語である。現実の世界の痕跡によって成立する映画の存在論的なあり方を論じながら、その最後の最後に至って、バザンは、それまでの論旨には全く登場しなかった、以下のような言葉を付け加える。


 他方、映画はひとつの言語でもある。(「写真映像の存在論」、野崎歓訳、『映画とは何か』岩波文庫版所収、上巻p21)


 この言い回し自体は、マルローを参照したものであるらしいのだがーーとはいえ、まさにこのような文章をわざわざ結末において付け加えてしまうことが、バザンの議論のわかりにくさの本質であるように、私には思えるのだ。
 なるほど、映画を構成する映像とは、現実世界の痕跡が写し取られた、リアリズムの成果である。しかしその一方で、ほとんど全ての映画は複数のショットがつなぎ合わされて関連づけられて構築されている以上、個々のショットが言語として機能する、複数の記号によって織り成される構造体でもある。……そうである以上、映画の存在論的な側面だけを論じる立場を提出したところで、あらゆる映画のあらゆる側面を汲み尽くすことなどできるはずもないわけだ。
 そして、そのようなとき……アンドレ・バザンという批評家は、自分の議論によっては捕捉しきることのできなかったこと、自分の限界ゆえに明らかにすることのできなかった、映画の側には本来宿っているはずの可能性を、まったく無防備なまでにごろりと投げ出してさらけ出してしまう。
 したがって、バザンの議論は完結しない。そこにはっきりと可視化されている議論の混乱は、映画の複雑さに追いつけない自身の未熟さを包み隠さずに投げ出しているものである。……ならば、バザンが単なる存在論的な問題には回収しえない「真のリアリズム」なるものを提示しなければならなかった理由も、そこにあるのだろう。つまり、「写真映像の存在論」の議論は、あくまでも映画の一つの側面を論じたものでしかない以上、「真のリアリズム」は、バザンの議論をごく一部として含み込む、さらに上位の概念として提示されているのだ。


 よくよく考えてみれば、映画ほど数多くの要素から構成されている芸術もない以上、ただ一本の映画についてすら、その内容を完全に言語によって分析することは、事実上不可能である。撮影の問題があり、それに際して照明や音響の問題があり、俳優の演技があり、そのベースに脚本があり、最終的に編集の問題がある。言語によって、それも限られた分量で対象を分析するなら、その映画のごく一部にしか触れ分析することはできない。
 したがって、ある一本の映画を前にして、わかりやすい整理された評価を下す者、対象を心地よいまでに裁断しきってみせる者、即座に飲み込める断言を下す者……これらは、全て、対象となる映画のごく一部にしか触れることができていない上に、そのこと自体を隠蔽する言説であるだろう。
 一本の映画を前にしたときのバザンの批評は、むしろ、己の無能さをこそさらけ出す。そして、言語による批評では汲み尽くすことのできない映画そのものの豊穣さをこそ、逆説的に指し示す……(そんな風にバザンの批評を読むようになってみると、彼が、ほとんど野生児のごとき暴れ者にすぎなかったフランソワ・トリュフォーの保護者になりえたのは、その批評家としての本質と不可分に結びついていたように思えてくるのだ)。
 既に自我が硬直しきっている、もしくは、自我を語ることにしか興味を持たない者による批評は、対象から、自分が語りたい部分しか見出さず、残りを捨象するだろう。一方、バザンの批評は、己の限界ゆえに語りきれない残余をごくあっさりとさらけ出しつつも、対象を語る言説の精度を上げるために、絶え間なく自我を変容させ、自らの議論を不断に修正し続けるーーこれこそが、しなやかにして強靱な知性であると言うべきなのだろう。


 改めて、バザンの批評をそのようなものとしてとらえてみれば……バザンの議論を、編集を排除した長回しのショットを肯定するものとしてとらえるなどというのは、あまりにも粗雑にバザンを矮小化したものに過ぎないと痛感される。
 なるほど、バザンは、長く持続し多くのアクションを存在論的に統合したショットを肯定する。また、一つのアクションを構成するショットを分割するような編集を否定しもする。そして、そのような大ざっぱな構図に基づいた短評を実際に書くこともしている。
 しかし、バザンが「ある特定の状況における特定のショットの分割の否定」をなすことは、映画全般におけるショットの分割と操作・編集一般を否定することでは、全くない。実際、以上のようなことをふまえれば、バザンによる次のような言葉は、むしろ非常に明快なものとなるはずである。


 作品の美学的洗練と、現実を描くだけでよしとするリアリズムの生々しさや即効性といったものを対立させる考え方には注意しなくてはならない。芸術において「リアリズム」とは何よりもまず深く「美学的」であるということを改めて思い出させたところに、イタリア映画の大きな功績があるといえよう。(「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、谷本道昭訳、『映画とは何か』所収、下巻p91~92)


それゆえ私たちは、より多くの現実をスクリーンに現出させようとするあらゆるシステム、あらゆる技法を「リアリズム的」と呼びたい。当然のことながら、「現実」は量として捉えるべきものではない。同じ出来事、同じ対象について、さまざまに異なる表現が可能である。それぞれの表現は事物の性質のいずれかを捨て、いずれかを拾い上げるものであり、私たちは拾い上げられた性質をもとにスクリーンに映された事物を理解する。(同、下巻p95)


 このように、すべての芸術の中でもっともリアリズム的な芸術である映画でさえ、他の芸術と同じ宿命にある。映画は現実全体を捉えることはできず、現実はどこからか必ず映画から逃れていくのだ。技術的な進歩は、それが的確に用いられた場合、現実を捉える網の目を狭めることができるかもしれない。だが、複数の現実のうちいずれかを、多かれ少なかれ選択しなくてはならないことに変わりはない。(同、下巻p99)


 映画批評が一本の映画の全てを語ることができないのと同じく、映画が現実の総体を捕捉することはできない。……そして、だからこそ、映画が現実と対峙するとき、選択しうる方法は無数にあるゆえに、「複数の現実」があるのだと、バザンは述べている。
 だから、ネオレアリズモに見られるように、「写真映像の存在論」におけるリアリズムの議論がそのまま実現したような映画をバザンは高く評価する一方で、それとは異なるあり方をしたリアリズムが存在することをも、同時に認められる。だからこそ、バザンは、例えば次のように書くことにもなるわけだ。


以前に私は、現代映画のリアリズムのいくつかの側面を検討し、『ファルビーク』と『市民ケーン』にリアリズムの手法の両極を見るに至った。つまり、『ファルビーク』は被写体のリアリティ、そして『市民ケーン』は表象の仕組みのリアリティをわがものにしているのである。『ファルビーク』ではすべてが真実であるのに対して、『市民ケーン』ではすべてがスタジオで再構成されている。(「『揺れる大地』」、『映画とは何か』所収、下巻p130)


 ごく通常の意味での映画のリアリズムが「被写体のリアリティ」と言われる一方で、必ずしも現実の被写体が転写されているわけではない、むしろ編集の論理が重要であるオースン・ウェルズの『市民ケーン』は、「表象の仕組みのリアリティ」と表現されている。
 このことは、非常に重要である。なぜならば、バザンによるリアリズムの問題が単に素朴な現実からの転写に過ぎないという解釈を前提にすると、(バザンが高く評価する)『市民ケーン』が現実からの転写ではないトリック撮影を含むということが、バザンの理論の致命的欠陥であるかのような批判が出てくるからだ。しかし、既に見たように、そのような批判は、単にバザンの議論を矮小化している者の誤読に過ぎない(最近のことでも、『映画とは何か』の新訳の訳者の一人である野崎歓の『アンドレ・バザン 映画を信じた男』を一読してみると、バザンのリアリズムの問題を単純化して捉えた上で、ロッセリーニをはじめとするネオレアリズムの方の議論ばかりが追われていたので、本当にがっくりきた……)。
 では、バザンがウェルズに即して言う「表象の仕組みのリアリティ」とは、ネオレアリズモなども含まれるであろう「被写体のリアリティ」と、いったい何が異なるのか。


 短いジャーナリスティックな時評ではなく、単著としてオースン・ウェルズを論じた論考の中で、バザンは、「表象の仕組みのリアリティ」の実態を詳細に書き記している。
 それを読む限り、バザンの言う「リアリズム」とは、「モノとしての現実の世界が存在し、それを前提として、それを転写した表象としての記号の世界が存在する」というような、単純な図式に基づいてはいない。例えば、次のような記述を見てみよう。


 実生活で何らかのアクションに関わっているとき、私の注意力は、みずからの投企に導かれて、同様にある種の潜在的なデクパージュを行う。それによって、対象は確かに、私にとってそれが持つ面のうちのいくつかを失ってしまい、記号ないし道具となる。とはいえ、アクションはつねになされる最中にあり、対象はいつでも自由に、私をその物体としての現実性に立ち戻らせ(たとえば、ガラス製であれば、手に怪我を負わせるというように)、まさにそのことによって、予定されていたアクションに変更を加えることができる。私自身も、いかなる瞬間にも、そのアクションをもう望まなくなってもいいし、あるいは道具箱のようには見えなくなった現実それ自体によって、アクションから気をそらされることがあってもいいのである。
 ところが、古典的なデクパージュは、私たち自身と対象の間に相互的に存在するこの種の自由をすっかり取り除いてしまう。それは自由なデクパージュに代わって、アクションとの関連におけるショットの論理が私たちの自由を完全に麻痺させるような、強制されたデクパージュをもたらすのだ。私たちの自由は、それがもはや行使されえなくなる以上、もはや感じ取ることができなくなる。
 『ケーン』と『アンバーソン家』における奥行きの深い画面の組織的な使用は、もしウェルズがそこから古典的なデクパージュの改良しか引き出していなければ、なるほど月並みな面白味を持つ程度だろうが、ウェルズはそうではない別の使い方をしているのだ。(『オーソン・ウェルズ』、堀潤之訳、p81~82、ルビと傍点は省略)



 バザンが記述しているのは、極めて入り組んだ事態だ。……そもそも、映画がその対象とするような題材、ある人間によるなんらかのアクションがなされる際、そのアクションが完遂されるためには、当の人間が周囲を記号として認識し、記号として操作する能力を持っていることが前提となる。……しかし、記号として機能する物体には、モノとしての実態があるのだから、記号としての機能を失って単なるモノに戻るようなことも、いつでも起こりうる。
 つまり、映画が映画として存在するために参照する「現実」とは、既にしてモノの世界と記号の世界とが複雑に入り組んだ世界であることを、バザンは明言しているわけだ。
 バザンが否定するのは、素朴な意味でのリアリズムが失われるからではない。そうではなく、モノの世界と記号の世界とが入り組んだ複雑きわまりない実態を持つ場所としての「現実」、そのような現実を、硬直し慣習化された基本的スタイルによってのみ表現し、映画を見る者の自由を奪うこと――言い換えれば、「世界の具体的な意味、真の意味を表現したいという欲求」が見失われるからこそ、否定するわけだ。


 奥行きの深い画面は、こうしたアクションの美学に先立つ技法面での条件だったということが、いまやよく見て取れる。奥行きの深い画面だけが、このように有効な仕方で、現実を私たちの精神に重くのしかからせることができたのだ。『市民ケーン』の劇的なデクパージュは、この技法面でのデクパージュによって仕上げられなければならなかった。ちょうど調査員たちがケーンの人生の意味を見出すには至らないのと同じように、観客自身もまた、デクパージュによってパズルに向き合わされるべきなのだ。(同、p83~84)


 バザンのリアリズムとは、モノの世界が現実にそこに存在することを確認するための存在論ではないむしろそれは、観客がいかにして一本の映画と向き合うべきなのかを検討する、認識論としてある。
 だからこそ、バザンは、ウェルズによる編集という行為を否定しているのではないわけだ。むしろ、編集においてすら、「リアリズム」は存在しうることを、バザン自身が示唆している。


 この手短な検討において、確かに私はごく限られた事例しか取り上げなかったかもしれない。映画全体が以上のような原則に従って組み立てられているわけではないし、たいていの場合、きわめて特徴的な断片のただ中でも、オーソン・ウェルズはカメラによるシーンの古典的な分析に頼ることをためらわない――とはいえ、見たところ伝統的な提示の手法への回帰が、映画の全体的なスタイルをいささかも損なわないのはなぜなのか、そしてウェルズがすばやいモンタージュを用いるとき、彼がその部分にまで、固定ショットにおける「リアリズム的」な技法の要諦を通用させるに至っているのではないか、ということはさらに検討しなければならないだろう。(「『市民ケーン』の技法」、堀潤之訳、『オーソン・ウェルズ』所収、p144)


 アンドレ・バザンのリアリズム論は、単に素朴な現実信仰、長回しの称揚などではない。むしろそれは、実体を持つモノと抽象的な記号とが不可分にからみついてしか存在できない現実世界をいかに捕捉するのかという、複雑に練り上げられた議論であるのだと言える。
 長回しが肯定されるのは、それが、多様にして複雑な現実のある一つの側面をよく捉えるからに過ぎない――そして、バザンの議論を敷衍して考えれば、例えば、言語記号をそのまま画面に映すことすら、場合によっては「リアリズム」として機能しうる。
 バザンのリアリズム論を、そのような巨大な射程を持つものとしてとらえたときーーまさにそのようにして映画によって現実に迫る者、バザンの議論の最も複雑にして困難な部分をも実作によって継承しえている映画作家が、たった一人だけ存在していることが明らかになる。……もちろん、ジャン=リュック・ゴダールがその人である。


 そもそも、アンドレ・バザンが創刊に携わった「カイエ・デュ・シネマ」において批評家として活動していた若き日のゴダールは、ヌーヴェル・バーグの中にあっても、それほどバザンの影響を受けた方ではなかっただろう。
 実際、「カイエ」に発表した「古典的デクパージュの擁護と顕揚」という評論について、後年のゴダールは、編集の重要性を強調することが、バザンへ論戦をしかける行為であったかのように述懐している。……とはいえ、ゴダールの長篇デビュー作『勝手にしやがれ』の時点では、長回しが非常に重視されているし、そのような傾向は、少なくとも『軽蔑』のあたりまでは続いていたであろう。
 そのため、私の以前の印象としては、「なんだかんだ言いながらもバザンの長回し重視の影響下にあったゴダールは、やがてバザンの影響下から完全に脱し、過激な編集の人となった」と、漠然と捉えていたのだった。……しかし、バザンの批評を詳細に読み返してみた今となっては、それは完全に誤りであったことがわかる。ゴダールの変貌とは、むしろ、バザンの議論の深化の過程であるとすら言えるのではなかろうか。
 もちろん、ゴダール自身のキャリアが進む過程で、バザンの映画批評が直接的な影響を及ぼし続けたなどということは、疑わしい。しかし、バザンの議論が、ゴダールが特異な変容を遂げたその後でもなお、その作品を捉え、肯定することもできうるような射程を持っていたことは、確実なのである。……そして、バザンが没してはるかのち、1985年に至って、当のゴダールは、次のように述べていたのであった。


ぼくは彼とはほとんどつきあいがなかった。話しあう機会は滅多になかった。というのも、かなり早くに死んでしまったからだ。いま彼のテクストを読み直してみてわかるんだが、ぼくは彼と話しあうことができたはずだ。(「人生を出発点とする芸術」、奥村昭夫訳、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』所収、p7~8)








関連記事


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://howardhoax.blog.fc2.com/tb.php/226-b29ec492

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | ホーム |  »

このブログについて

 ・毎月第1・第3土曜日に更新しています。それ以外にも不定期に更新していますので、月に2~3回程度の頻度で新しい記事を載せています。


 ・コメント欄は承認制です。管理者の直接の知人でもないのにタメ口で書き込まれたようなコメントは承認しませんのであしからず。


 ・なにか連絡事項のある方は、howardhoax(アットマーク)yahoo.co.jpまでどうぞ。

 

プロフィール

Howard Hoax

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

全記事表示リンク

広告

 

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

広告

 

検索フォーム

 

 

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

 

QR