Latest Entries

アメリカン・ドリームを再発見する――「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の到達点(下)

 ……というわけで、前回の続き。「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」は、アメリカの現実社会の情勢を執拗に描きつつその暗部を徹底して見据えていたのだが、その果てに、あの超絶的にすばらしい15号に到達したのだった(2016年の個人的なベスト・シングルイシューは、「DCユニヴァース:リバース」さえなければ、間違いなくこの15号だったのだが……)。
 もともと、15号の予告されていたカヴァーアートを見てみると、Dマンの、それも、プロレス会場にいる勇姿……そして、そこに添えられた説明はと言えば、「君たち読者が望んだからこそ、この号は実現したのだ!(……えーと、まあ、君たちと言ってもその内のほんのごく一部かもしれないが……)」などと書かれていた。
 ニック・スペンサーと言えば、ネタキャラ扱いされて失墜したDマンの名誉を完全に回復するという、キャプテン・アメリカ史上不滅の偉業を成し遂げたライターである。その後のDマンの活躍を見ていても……例えば、敵によって追いつめられ窮地に陥ったかに見えたサムが「もうおれへの救援はないかと思ったか?」とか言い、そこでいざページをめくってみると、見開きブチ抜きで救出に駆けつけるDマン! ……などという、全世界で三億五千万人はくだらないとも言われるDマンファン歓喜の、とんでもなくすばらしいストーリーが展開されているのであった。
 そんなDマンが、ついにプロレスの世界に舞い戻る――まあ、そうは言っても、メインのストーリーラインからは外れた番外編のようなものなのだろうと思ってはいたのだが……あにはからんや、これが、思いっきりこのタイトルの本筋に絡んだ話になっているのであった。


 さて、15号の冒頭で語られるのは、チャリティのための興業で、Dマンことデニス・ダンフィがプロレス復帰を果たすことになった顛末である……そして、その舞台となるのは……そう、プロレスの殿堂、MSG!
 サムの周辺の一行もこの試合を観戦に赴くことになるのだが……ただ一人、いつもと様子が異なる人物がいるのだ。サムがキャプテン・アメリカになってから後、新たにファルコンとなったホアキン・トレスである。……正直なところ、それまでの時点ではそれほどはっきりとしたキャラが立っているようにも見えなかったホアキンであったのだが、いざみんなでプロレスを見に行くとなると、ものすごいテンションで早口でまくし立て始め、「おれはWWEも新日本プロレスもROHもルチャ・アンダーグラウンドも見てる! しかし、今日は! 今日の試合だけは特別なのだ!」などと、別に聞かれてもいないうんちくを盛り込みつつ、デモリション・ダンフィがいかに特別なレスラーであるのかを声高に誉め称え、周囲にどん引きされつつ「お前、そんな奴だったのかよ」的に困惑されるのであった……(わかる、わかるぞ、この感じ……我が身を振り返ってみても覚えがありすぎて、全く、身につまされるものがありますなあ……とはいえ、ホアキンよ、これだけは言っておきたい。君は年代的にECWは直接見てないんだろうが、たかだかそのあたりの団体名を挙げた程度で「ハードコア」とか言うのはやめてもらおうか……アメリカン・プロレスの文脈においては、それは、我らECWファンの言葉なのだよ……)
 かくして、バトルスター(ジョン・ウォーカーがキャプテン・アメリカであった頃のバッキーでもあった)との因縁の一戦に臨むDマン。しかし、まさに試合の進行中に、会場内で密かに犯罪が発生していることを察知すると、Dマンとバトルスターは協力して犯罪者たちと戦い始める……
 まあ、それ自体はありがちな展開ではあるのだが、特筆すべきなのは、エンジェル・アンズエタのアートであろう。犯罪者たちとの文字通りの場外乱闘の渦中で繰り出される椅子攻撃が完全に「プロレスの椅子攻撃」のフォームで描かれていることには感動するし、その他の一つ一つのプロレス技の人体の描写もいちいち的確なのだ。


 以上のようなストーリーを展開されていく15号を私が絶賛するのは、なにも、いくらなんでもこの私と趣味が同じすぎるニック・スペンサーのプロレス愛が全篇で炸裂しているからだけではない。……いや、もちろん、ホアキンがプロレスについて「およそ人類によって創造された中でも、最も偉大なスポーツ・イヴェント」などと述べる言葉に全身全霊を込めて全力で同意するのにも吝かではないし、プロレスこそはアメリカ文化の根源にからみつき、深く掘り下げればアメリカの中枢にたどり着く、深遠なる究極のジャンルであると私も思うのだが、しかし、何も、この15号は、どうしてもプロレスを取り上げなければ成立しなかったというわけではない。
 この15号において、最も明らかな形で表れていること……それは、ニック・スペンサーは、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の創刊号以来、自分の好きなものだけを好きなように思うがままに語るという、ほとんど幼児的なまでの己の衝動に徹底して忠実であり続けたということだ。
 そして、そのようなことは、自分が好きなことをいっても叩かれないような、安全地帯を確保した上でなされるのではない。現在のアメリカを直視して、その醜悪な部分を、自分の目に映るがままに、醜悪なままに描き出すこと。批判すべきと思えることには、容赦なく批判すること。無防備な言論ゆえに罵詈雑言を浴びせかけられようとも、そんなことに屈せず己の立場を貫くこと。誰にどう思われようが、社会的な体裁がどうであろうが、自分が好きなものに対してどこまでも忠実であること。……つまり、一言で言えば、徹底して自由であること。
 それこそは、アメリカ文学の中でもごく一握りの偉大な作品だけが到達しうる境地なのだ。脱走した黒人奴隷の処遇を巡って自分の感情と社会倫理が対立したときのハックルベリ・フィンの態度……あるいは、アメリカ文学の他の言葉で言うなら、悲しみと虚無の間では、常に悲しみを選ぶということ。
 アメリカの暗部をなんら飾りたてることもせずに見つめ率直に語ることは、アメリカを否定することではない。そんな旅をくぐり抜けた後だからこそ……15号の小さな事件が解決した後で、興業が再開された会場内を見渡したとき、サムは次のように思うに至ったのだ。


 But then, looking around, it hits me--
 だがそのとき、周囲を見渡して、思い浮かんだことがある――



 --everyone here is doing the same thing. People of all races, different backgrounds--
 ここにいる誰もが、同じことをしている。あらゆる人種の、異なる背景を持つ人々が――



 --coming together to celebrate something they love.
 ――ともに集まり、自分の愛するものを祝福している。



 Forgetting about all the bad in the world--
 この世界の悪いことを全て忘れ――



 --and just focusing on what makes them happy for once.
 ――そしてただ、自分を幸せにしてくれるものだけに集中する。



 With everything I've been through lately, it's just what I needed to see--
 最近くぐり抜けてきたあらゆることを考えれば、おれが目にすべきものは、ただこれだけだったんだ――



 --and I'm not the only one.
 ――そう、おれは独りじゃない。



 Now I know. Tomorrow, we'll be back to the same old problems.
 もうわかってる。明日になれば、おれたちはまた、古くからの同じ問題に戻るだろう。



 We'll be at each other's throats all over again. But for now--
 おれたちは再び、互いにいがみ合うだろう。だが、今だけは――



 --we get to be what always wanted to be.
 ――おれたちは、いつだって自分がなりたいと望んできたものになれる。



 We get to be friends and allies again.
 おれたちは、再び仲間になることができる。



 ……例えばプロレス会場にひとたび赴きさえすればーーたとえそれがその場限りのつかの間の夢にすぎないものであろうともーーアメリカン・ドリームは、既にその場に存在している。
 だからこそ、15号を最後まで読み終えたとき、アメリカのあらゆる暗部をくぐり抜けたその後でなお、サム・ウィルスンは、自分はアメリカン・ヒーローであり続けることができるし、またそう望み続けることができるのだと、確信するに至ったのだ。


 ……などということを、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」を読みながら考えていたのだが、まさにこの文章を書いている途中に、メリル・ストリープによるドナルド・トランプ批判のスピーチが話題になっていた。
 私がその内容に接して思ったのは、やはりアメリカのインテリ層は基本的にダメである……ということだった。メリル・ストリープは、ハリウッドの多様性を称揚しつつ、それが失われたときにアメリカに残されるのは、アメフトやMMAのような「芸術ではない」ものだけなのだという。
 メリル・ストリープの言う文脈からすれば、プロレスもまた「芸術ではない」ものにくくられるのだろう。そして実際、WWEと親密な関係を持つトランプがそのショーアップされた演出を自身の政治活動に流用してきたことは事実であるし、様々なところで指摘されてもいる。
 だが、だからといって、なぜ「ドナルド・トランプ的なもの」と「プロレス的なもの」がイコールで結びつけられる必要があるのか。トランプが利用しているようなプロレス流の演出は、80年代以降のアメリカのプロレス業界の産業構造の変化の中で、利潤を拡大し企業としての最適化を計るために追求されてきたものでしかないわけだ(その興業内容での象徴的存在こそが、(トランプも参加したことのある)「レッスルマニア」なのであり、このイメージこそが、現在のアメリカン・プロレスの最大公約数的なイメージになっているのだろうが……例えば、80年代以降の業界の変質の中で、プロレスのもともとの本質が失われていくこと抵抗した人々もいたわけで……巨大な資本もなければ、優れた身体能力なり技術なりを持つ選手を集めることもできない、持たざる者たちによる反逆の狼煙こそがECWという団体だったのであり、めいめいがなけなしの持ち物とプロレスへの情熱だけを持ち寄り、言いたいことを言い、やりたいことをやり、誰もが自由に振る舞う、いつかその時間が終わるとも思えぬままに、アメリカの場末で乱痴気騒ぎが果てしもなく繰り広げられ続けたのであった……)。
 つまり、人々が安易にトランプと結びつけて語りたがる「プロレス的なもの」とは、プロレスと言ってもせいぜいがここ三十年程度の潮流にすぎず、そんなものはプロレスの本質でも何でもないのだ。トランプはプロレスのごく一部をかすめ取っているだけなのにもかかわらず、あたかもそれがプロレスというジャンルそのものであるかのように語る言説は、あまりにも粗雑なのだ。
 そして、アメフトやMMAをごく大ざっぱにひとくくりにして「芸術ではない」と断じてしまうメリル・ストリープの粗雑さは、これと同種のものであるだろう。……そもそも、メリル・ストリープが称揚する「ハリウッドの多様性」なるものがどこからきたのかと言えば、初期の映画産業が非常に社会的地位が低いゆえに、貧しい移民でも容易に職を得ることができたということにある。
 低俗なものだと蔑視されるがゆえに誰でも参入でき、ゆえに多様性が担保され、アメリカの大衆娯楽の基盤を形成する――そのような源流を持つという意味では、アメリカの映画とプロレスとコミックとは、同質のものなのだ。
 「ドナルド・トランプ的なもの」と「プロレス的なもの」とを同じカテゴリーに放り込んで、ひとくくりにして拒絶すること……それこそが、アメリカにおいては既に敗北し破綻したことであるのが、なぜわからないのか。必要なのは、トランプに簒奪されたかに見える「プロレス的なもの」の本質をえぐり出し、トランプの手から取り戻すことであろう。
 そして、ニック・スペンサーが「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」において展開しているのは、まさにそのようなことであるのだ。









関連記事


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://howardhoax.blog.fc2.com/tb.php/224-bb5d47c6

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | ホーム |  »

このブログについて

 ・毎月第1・第3土曜日に更新しています。それ以外にも不定期に更新していますので、月に2~3回程度の頻度で新しい記事を載せています。


 ・コメント欄は承認制です。管理者の直接の知人でもないのにタメ口で書き込まれたようなコメントは承認しませんのであしからず。


 ・なにか連絡事項のある方は、howardhoax(アットマーク)yahoo.co.jpまでどうぞ。

 

プロフィール

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

全記事表示リンク

広告

 

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

広告

 

検索フォーム

 

 

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

 

QR