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「消去」することの多義性について――トーマス・ベルンハルト『消去』

 しばしば、トーマス・ベルンハルトの作家活動の集大成とも呼ばれる長篇小説『消去』は、全体として、「電報」と「遺書」の二章よりなっている。
 各章には全く改行が存在せず全体としてひとかたまりのパラグラフをなしており、また、「電報」は主人公が両親と兄の死を知らせる電報を受け取ること、「遺書」はその葬儀のために故郷であるヴォルフスエックを訪れること……というように、現在時の出来事として語られるのは、ごく短期間のわずかなことでしかない。全体として、主人公の親族及び故郷に関する軋轢と憎悪の感情が過去の回想とともに奔流のごとく饒舌に語られることにより、この長大な小説を構成している。
 『消去』の語りは、主人公であるムーラウの視点にほぼ完全に寄り添っている……しかし、ムーラウの発する「私」という一人称は地の文そのものではなく、ムーラウの発話はあくまでも小説の話者によって引用されたものであることがたびたび示される。小説の本文そのものを統御している話者は、まず間違いなく、さらに後年のムーラウ自身であることだ。にもかかわらず、話者としてのムーラウと主人公としてのムーラウの間には、厳密に断層が引かれることにによって、作品全体の語りが構成されているわけだ。
 また、特に「電報」においては、ムーラウが家庭教師として教えているガンベッティが、多くの発話の呼びかけられる対象であることが示されていることも重要である。
 そんな特徴を持つ『消去』の本文は、例えば次のように書かれている。


政府は日々私の大事なものを飲み込んでは破壊するとてつもない破砕機を動かしている。故郷の町は見る影もない、と私は言った。故郷の風景は広範囲にわたって、みすぼらしいものにされてしまった。もっとも美しい地域が、新しい野蛮人の金銭欲と権力欲の犠牲になった。美しい巨木が立っていたところでも、その木が切り倒され、壮大な古い建物が立っていたところでは、その建物は取り壊され、素晴らしい小川が谷に流れ込んでいたところでは、その小川がずたずたにされる。いったいどうして、すべての美しいものが踏み躙られてしまうのか。そしていっさいは、社会主義の美名のもと、想像しうるかぎりもっとも下劣な偽善のもとに行なわれているのだ。少しでも文化の匂いのするものはいかがわしいもの扱いをされ、問い詰められやがて消去されるのだ。消去する者が、殺戮する者が仕事にかかっている。私たちが相手にしているのは、消去する者にして殺戮する者であり、彼らは至るところで殺戮の仕事を遂行している。消去する者と殺戮する者は、町を殺して、消去し、風景を殺して、消去する。彼らは、国家の至るところにある何千、何十万という役所の中にでっぷり太った尻をおろしており、消去することと殺戮することしか頭になく、ノイジードラーゼーとボーデンゼーの間にあるすべてをどうやったら完全に消去し、殺戮しつくせるかということしか考えていない。(『消去』、池田信雄訳、旧版・上巻p80)


 「消去」とは、ムーラウが憎悪し嫌悪する者どもが、ムーラウが愛し思い入れを持つ対象に対して行なうことのようである。しかしそれと同時に、『消去』という題名の書物を書く計画を立てているムーラウは、ガンベッティに次のように語りもする。


スケッチだけでは十分ではないのだ、と私はガンベッティに言った。私の頭に最終的に残っている唯一のものは、と私はガンベッティに言った、「消去」というタイトルだ。というのも私の報告は、そこに描写されたものを消去するために書かれるからだ。私がヴォルフスエックという名で理解しているすべて、ヴォルフスエックであるすべて、ガンベッティ君、私の言っていることが分かるかね、本当にそして実際にすべてを消去するために書くのだ。この報告の後には、ヴォルフスエックであるものすべてが消去されていなければならない。私の報告は消去以外の何ものでもないのだ、と私はガンベッティに言った。私の報告はヴォルフスエックをあっさり消去する。私は十一時までポポロ広場にガンベッティといっしょに座っていた、と私は机の上の写真を眺めながら思った。私たちはみなヴォルフスエックを引き擦っている。そして自らの救済のためにそれを消去したい、書くことによって滅ぼしたい否定したいという意志をもっている。しかし、私たちがその消去のための力を持ち合わせないときがほとんどなのだ。(同、上巻p144)


私はこの報告を「消去」と名づけるつもりだ、と私はガンベッティに言った。それは私がこの報告の中ですべてを消去するつもりだからだ。私が書き留めることはすべて消去される。私の家族全員がこの中で消去され、彼らの時間もこの中で消去される。ヴォルフスエックは私の報告の中で、私のやり方で消去されるのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p145)


 ……以上いくつかの引用を照らし合わせてみる限り、もちろん、ムーラウの発言は非常に混乱したものだ。ムーラウは故郷を破壊する者を憎悪しているのか、それとも、故郷そのものを憎悪しているのか。「消去」という行為自体は、肯定されるべきものなのか、それとも否定されるべきものなのか。それは意志的に望まれ選択された行為なのか、それとも、致し方なしに選択された行為なのか。さらには、「政府による消去」と「書くことによる消去」とは、果たして同じものなのか。
 もちろん、このような記述の混乱は、一人の人間が持ちうるその内面の矛盾し混沌とした有様をそのまま散文の形に移したことによって生じている者だ。そして、そこにある混乱、正反対であるはずにもかかわらず実際には入り交じり明確な境界も見極め難い愛憎……それら全てを克明に認識し記述した上で、それでもなおその抹消を望むからこそ、「消去」という行為が選ばれることになるのだろう。
 ムーラウは、自らの言う「消去」について、ガンベッティに次のように語っている。


私が彼に、どうやったら私の言う意味で世界を変えることができるかを話すと、ガンベッティの注意と熱狂はどんどん大きくなった。それにはまず世界を全面的かつ過激に「破壊」し、無に至らしめるまでに「否定」し、それから自分に耐えられると思える仕方で再生させること、一言で言えば、完全な新世界として再生させることだ。それがどのようなかたちで起こるかは言えないが、再生されるのはまず完全に否定することが必要だということは分かっている。というのも、世界の完全な否定なしに世界の刷新はありえないからだ。(同、上巻p151)


もちろん、私たちがそう考えれば、すべての古いものは私たちに敵対するようになる。つまり私たちはすべてを敵に回すことになるのだ、ガンベッティ君、と私は彼に言った。だからと言って、古いものを私たちの望む新しいものに取り換えるために滅ぼそうという私たちの考えが妨げられるようなことになってはならない。すべてを放棄するのだ、と私はガンベッティに言った。すべてに反発し最終的にはすべてを消去するのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p154)


 ……なるほど、いざ『消去』の全篇を読み終えてみると、その結末部分でムーラウがなしたとある行為は、確かに、ヴォルフスエックに対する「消去」とも言える行為であるようにみえる。だがそれは、既に引用した部分で言われているような「世界の完全な否定」からはあまりにもかけ離れている。
 ムーラウが述べる「消去」と、実際になす「消去」の間には、巨大な懸隔があるーーだが、それ以上に、ここにはより本質的な問題がある。……もし世界の完全な絶滅、その消去を願っているのであれば、なぜムーラウは、自分の考えを詳細にガンベッティに語り伝え、自身の言葉を残そうとする必要があるのか。ガンベッティという人物はと言えば、そもそもがムーラウの教え子なのであり、ムーラウが自身の後継者として育てたがっている節すらある。
 全世界の完全な消滅を願う人間が、自身の後継者の育成に励む……これは、あまりにもあからさまな矛盾ではないか?


 とはいえ、『消去』でひたすら繰り広げられるムーラウの饒舌な言葉は、自身の言葉に潜む矛盾や自己欺瞞についてすら、なんら隠すことなく語ってみせる。……そこには、例えば、次のような言葉が見られるのだ。


私たちが憎むのはもっぱら私たちが間違ったことをしているときであり、間違ったことをしているからだ。母はいやな人間だ、妹たちもそうだが、そのうえに愚鈍だ、父は軟弱だ、兄は哀れな道化だ、全員が愚か者だ、絶えずこう考え(そして口にすること!)が、私の習慣になってしまった。この習慣は、私にとって、基本的には卑劣極まりないものだが、武器にはなり、その武器でともかくも良心の呵責だけは静めなければならなかった。家族の者たちも、私が彼らにしたように、私をけなし、私を晒しものにし、私を性悪に仕立てればいいのだ、実際、私はいつのまにか彼らを性悪にしてしまったのだが、と私はガンベッティに言った。私たち人間は簡単にそしてすぐに、憎んだり、非難したりすることに慣れてしまう。自分の憎しみと非難に、そのとき、ほんのわずかでも正当性があるのかと問うこともしない。(同、上巻p74)


私たちはみな悪魔的本性の持ち主だが、その正体は写真コレクションのような、どうでもいいくだらないものの中に現れる。私たちの下劣さ、卑しさ、厚かましさが、そういうくだらないものによって証明されるのだ。なにもかも私たちの弱さに原因がある。というのも私たちは誠実であるなら、自分より弱いと見たがっている相手より実際はずっと弱く、自分よりおかしいと見たがっている相手よりずっとおかしく、滑稽で、無節操な存在だということを認めざるをえないからである。「私たち」こそ、無節操で、おかしくて、滑稽で、異常な存在であって、ガンベッティ君、相手のほうがそうではないのだ。自分の家の者たちのほかでもないこういう写真だけを保存し、しかもそれをいつでも見ることのできる机の引き出しにし舞うことで、私は自分の卑劣、破廉恥、無節操を証明している。(同、p181)


私たちは時々こんなふうに誇張をはじめるが、と私はだいぶ後でガンベッティに言った、そうなると誇張こそ唯一筋の通った事実に見えてきて、本来の事実はもう全然目に入らず、際限なく繰り返される誇張しか目にとまらなくなる。誇張への熱狂的信奉はいつでも私を癒してくれた、と私はガンベッティに言った。私がこの誇張への熱狂的信奉を誇張の技法に変えてしまったとしたら、それが、私を私の惨めな状況と精神的倦怠から救い出す唯一の方法だったからだ、と私はガンベッティに言った。私は自分こそ私の知るもっとも偉大な誇張芸術家だと言い切れるところまで、誇張の技法を磨き上げた。私は私以外に私のような人間を知らない。いまだかつて誇張の技法をここまで極めた者はいない、と私はガンベッティに言った。そしてそれに続けて、もしいきなり誰かに、私の正体は何なのだと聞かれたら、それに対して、私の知るかぎりもっとも偉大な誇張芸術家だと答えるしかないだろう、と言った。(同、下巻p444~445)


 実は、『消去』の作中において、以上のような矛盾した態度にとらわれているのは、ムーラウだけではない。ムーラウと親交のある詩人・マリアもまた、次に引くような態度を見せているのだ。


マリアは私に、「本当はウィーンに戻りたいの」と言ったとしても、その直後の、時には、二、三分も経たないうちに、反対のことを言う。同じくらい確信をこめて「実を言うとウィーンには戻りたくない」と言うのだ、実はローマに残りたい、ローマで死んでもいいくらいに思ってるわ、と。マリアはよく、ローマで死にたいと言った、と私は考えた。マリアはその知性ゆえに、ローマにいること、実際にはウィーンを愛していながらローマにいることを余儀なくされている、と私は考えた。しかしマリアは、住む家の手配をしてくれ、実際、ウィーンの重要な扉をすべて開いてくれたウィーンの知り合い全員にけんつくを食わしてから、二、三週間もすると、ぞろまた、今度こそ最終的に「故郷」であるウィーンに戻るつもりだ、と言いはじめ、それを聞くと私はいつも面と向かって笑うことで話を中断せずにいられなくなるのだ。というのもマリアの口から出る「故郷」という言葉は、私の口から出たのと同じくらいグロテスクに響いたからだ。(中略)ローマ人であろうとしながら同時にウィーン人であるマリアは、こういう危険な感情と精神状態をばねにあの偉大な詩を書くのだ、と私は考えた。(同、p172~173)


 ……なるほど、ここでのマリアのように平然と矛盾した態度を取ってしまうこと自体は、誰しも多かれ少なかれ犯してしまうことではあるだろう。そして、ムーラウは、そのような矛盾・自己欺瞞、人間の混乱した本質を直視することが、ある種の文学的達成をもたらすと考えているようである。
 そして、『消去』に書き込まれた散文、そこに人間の愚かさや欺瞞が混沌としたままに活写されているのに接すると、確かに高度な文学的達成があるのも事実である。……しかし、『消去』の全体を改めて確認した上で、私はこう述べなければならない。……ムーラウの言う「消去」とは、言語そのものの水準においては決してなされていないのだ、と。


 『消去』という小説の作中における「消去」という言葉は、様々な水準での様々な意味を同時に担わされているものである。政府による開発・環境破壊の類も「消去」であり、ムーラウが法律上の権利を持ってヴォルフスエックに対してなす行為も「消去」である。
 そして、「世界の完全な否定」に向けて「書く」こともまた、「消去」であるとされる……だがこれは、具体的にはいかなることなのか。書くことこそが「消去」であるのだと述べるムーラウは、しかし、実際に行う行為として「消去」を実践するとき、言葉とはほぼ無関係な水準にある、行動の人となる。一方、ムーラウが実際に発する言葉のほとんどは、自らの教え子に語りかけ、自分自身の後継者を育成するという、世界を絶滅させ抹消するなどということとはおよそ対極の水準にあるものだ。
 ムーラウは、言葉を発し書く人としての己を最も重要視している一方で、実際に言葉を操る水準においては、なんら「消去」を実行していない。もっと言えば、言語そのものの水準で「消去」がなされるのであれば、語られる対象ではなく、語るための言葉そのものもまた消滅に向かわなければならないはずなのであるが、そのような契機は『消去』という作品には微塵もない。
 つまり、ムーラウの散文は、人間が抱え込む愚かさや矛盾や自己欺瞞、そこにある混沌とした有様を直視し散文に写すことに成功してはいるのだが、そこでの検討が、言語そのものの水準での自己言及的な領域にまで到達することは決してない。
 ……だからこそ、言葉を発する人間としてのムーラウはあらゆる対象の消去を望むと言いながらも、自身の言葉を受け取る存在としてのガンベッティの消滅を望むどころか、そこにガンベッティが不動の存在としてあり続けることを疑うようなそぶりすら見られない。つまり、「語り手としてのムーラウ」と「聞き手としてのガンベッティ」という、作品そのものを構成するフレームは、作品によって自己言及的に反省される対象から無条件に除外されているのである。だからこそ、ムーラウからガンベッティに対して投げかけられた言葉は何ら「消去」されることなどなく、どこまでも饒舌に繁殖し、膨大な量の言葉を内包する長篇小説自体は、安定した語りの構造を備えて自足することになるわけだ。
 ムーラウの言葉はなにものも「消去」しないし、それ自体が「消去」されることもない。それこそが、『消去』という小説が抱え込んだ最大の自己欺瞞なのである。


 ……以上のようなことを別の側面から考えるならば、そこにあるのは、小説を構成する言葉のあり方と、言葉が発せられる元々の起源にある人間の身体とが切り結ぶ関係性との問題であるだろう。
 言葉だけを見るならば意味的に矛盾・混乱し、時制の面でも辻褄が合わない……それでもなおそんな言葉の群を一つの作品として構成することができるのは、そもそも矛盾・混乱した言葉が、一人の人間の身体という独立したフレームの内側にも平然と共存しているからだ。
 つまり、トーマス・ベルンハルトという小説家は、小説の言葉のあり方が、その言葉を発することになった身体との関係によって規定されるというところにまで、文学的達成を遂げたのである。しかし、そこにある身体というフレームそのものには検討がなされなかったがゆえに、作中に書かれている否定的・破滅的な意味とは裏腹に、長大な作品を平然と書き続けることのできる小説家でありえたわけだ。
 例えば、『消去』におけるガンベッティは、ほとんど、ムーラウに呼びかけられムーラウに教えられる対象としてしか存在していない。……だが、ガンベッティがムーラウの言葉を批判的に検討し、時に師の教えを受け入れず時に反論していたら、どうなっていただろう? ……もちろん、『消去』という小説は今ある形では存在しえなかった、言い換えれば、言葉を発する人としてのムーラウの身体が変容する契機があったはずだということだ。


 とはいえ、トーマス・ベルンハルトの達成は――ベルンハルトの小説の、ここまで述べてきたような側面での先行者たるルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネとともに――二十世紀の文学理論によっては補足不可能な領域にまで到達したものだったと言える。言葉の表層にあるレトリックが、身体を通した人間の認識と不可分に結びついていることに改めて着目したのは認知言語学であり、これは従来のテクスト論とは根本的に相容れない方向性であるからだ(ついでに言えば、テクスト論は人工知能によって置き換え可能となる可能性があるが、認知能力と結びついたレトリック分析は、完全に人間同様の強い人工知能を搭載したロボットが完成しない限り不可能だろう。そういう意味では、二十一世紀の文学理論はレトリック分析の方向性で発達することはまず間違いないと私は考えているのだが……そうなると、詳細にヴィーコを読み込むところから始めなければならない……ということは、とりあえず二十一世紀も、ジョイスの覇権は生存確定ということにもなるのであった……)。
 しかし……ベルンハルトの言う「消去」が、本当に「書くこと」、言葉そのものの水準にまで向けられていたら、どうなっていたのだろうか? 
言い換えれば、言葉が担ってしまう否定性までもが突き詰められ、言葉と身体の結びつさえもが解体され、言葉の自壊や身体の変容が実演される水準にまで、文学的追求がなされていたならば?
 私が、ベルンハルトの高度な達成を理解しながらも最終的には否定しなければならないのは、ベルンハルトに既に先行する中に、そこまで到達した人々がいたことを知っているからだ。……もちろん、それは、サミュエル・ベケットでありアントナン・アルトーであるのであった。






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