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捏造された十人の作者――『挑戦者たち』における法月綸太郎の「世界」

 今回のエントリでは、もともとはトーマス・ベルンハルトの『消去』について書くつもりだったのだが、その予定を変更した。……というのも、私が『消去』について考えていたのが、「話者があらゆる対象を消去すると述べ実際そのように進行しているようにも見える小説が、その実安定した語りの構造を備え一つの長篇小説として堅固に成立しているということには、「消去」される対象として話者そのものの存在は無条件に排除されているという、語りの構造がもたらすトリックがあるのではないか」……というようなことだった。
 そんなことを考えていた折り、たまたま新刊として手に取った法月綸太郎の『挑戦者たち』を一読してみると、まさに私がベルンハルトを読みつつ考えていたようなことが展開されている小説であったため、この作品についてまとまった文章を書くことにしてみたのだ。
 さて、法月綸太郎の新作『挑戦者たち』と言えば、手に取る前から、「全篇が九十九の挑戦状だけからなる特異な書物である」という評判は耳にしていたのではあるが……その時点で既に、これはなにやらどうもキナ臭いと思っていた。だって、この作者は、あの法月綸太郎なのである。例えば、「バベルの牢獄」のような小説を書こうと思い立ち、なおかつ実際に書けてしまうだけの技術を持っているクラスの小説家が、「いろんな文体を駆使していっぱい挑戦状を書いちゃいました~」などというだけのことでキャッキャできたりするもんだろうか。……いや~、さすがに法月綸太郎はそんなタマじゃなかろう。
 私自身は、ミステリはたまにちょこちょこ読む程度の読者だから犯人当てという意味での謎解きには自信はないが、語りの構造を分析すれば解読できるという意味での謎なら、まあ解けるぞと。そんなことを思いつつ実際に『挑戦者たち』を読み進めると、作中でアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』が参照されている……これを知ったとき、私の疑いは確信に変わったのであった。
 『そして誰もいなくなった』とは、どんな小説であっただろうか。……それは、外部から遮断された孤島にいる十人の登場人物たちが次々に殺害され、ついには、エピローグに移行する直前、本編の最後において、全員が死亡するに至るのであった。
 つまり、この小説において読者に「謎」が提示される瞬間とは、十にも及ぶ死体の山だけがあり、犯人の姿もなければ謎を解く探偵の姿も見あたらないという状況なのである。語られる対象が存在せず、話者による記述内容が限りなく「無」に近づく――そんな小説の語りの限界点に近づいているがゆえに、謎が解決される「エピローグ」に移行するためには、話者の位置を変更することによってしか小説として成り立ち得ない――そのような、小説の語りの構造が剥き出しになっているのが、『そして誰もいなくなった』という作品なのであった。
 十にも及ぶ死体の山だけがあるなどという状況においてすら、謎の位置を探り当てことの真相を暴き出すことは可能である――ならば、九十九の挑戦状だけが並べられ、探偵はおろか犯人もおらず、そもそも謎の存在自体が提示されていない小説であっても、それでもなお、謎そのものを見つけ出した上でそれを解くことは、可能であるだろう。
 さらに決定的なのは、初版本だけという限定付きではあるものの、『挑戦者たち』に作者自身からの「プレミアム挑戦状」が添付されていることである。それによると、それぞれの挑戦状についての主要参考文献表に、実在しない架空の本が紛れ込んでいるのだという――言い換えれば、一見するとそれぞれが同等のものに見える九十九の挑戦状には、ただ一つだけ、何らかの意味での特異点が紛れ込んでいることが、作者からのメタ情報としてわざわざ明かされているわけだ――そう、ちょうど、『そして誰もいなくなった』の死体の山の中に特異点が紛れ込んでいたからこそ、一見すると不可能な謎が成立していたように。
 ならば、「プレミアム挑戦状」は、ただのお遊びではあるまい。作品の構造を分析し、「謎」そのものを探り出す道をたどるならば、その過程で、必然的にその答えに行き当たるはずである……そのように、私は確信するの至ったのだ。
 ……などということを白々と書き連ねてきたが、こんなことをわざわざ書いている、なおかつ、思考の道筋をわざわざ過去形で書いているのは、もちろん、これを書いている現在の私は、作品の分析を既に終了し、完全な形で結論に到達したからだ。
 それでは……この作品については、その性質上、次のように宣言するべきだろう……謎はッ! 全てッ! 解けたァァァッ!!!


 ……と、いうわけで、今書かれつつあるこの文章は、法月綸太郎『挑戦者たち』の、一読者によって一方的に突きつけられた「解決編」である。
 これを書くにあたって、一応ちょっとは悩んだのだが……というのも、「プレミアム挑戦状」には正解者特典として、「法月綸太郎直筆ミニサイン色紙」が応募者全員プレゼントとなっているのですな。私がこの小説の構造を詳細に解きほぐしたら、必然的に「プレミアム挑戦状」の解答にも行き当たってしまうので、それが広まろうものなら、法月先生がむちゃくちゃな量のサインを書かなければいけないことにもなりかねませんな。
 ……しかしですねえ、改めて考えてみると、この「プレミアム挑戦状」、十一月三十日までの期間限定と、かなり短期間に有効期限を絞り込んでいる。さらに、作中では、ネットで流通したコピペを改変して引用したりしているわけだから、逆に自作の情報がネットで流通してしまっても文句は言えないのではないかと。
 それより何より、そもそもこの小説に謎が仕掛けられていること自体が明らかにされておらず、小説の語りの構造に自覚的な読者でなければ、謎の存在そのものに気づくことすらできない――という状況がある。……なるほど、「架空の本」が何であるのかいざ探り当ててみると、これはそれほどわかりづらいものでもないので、ちょっとした読書家が参考文献表を端から読んでいけばふつうに発見できる可能性も高い。しかし、この作中で自己言及的に繰り返されているのは、挑戦状に対する解答は、偶然に頼ったりしらみつぶしに答えを探したりするのはダメである、ということなのであった。
 しかし私の場合、謎の存在そのものを発見し、なおかつ特異点を探り当てる筋道を立てて論理的に「プレミアム挑戦状」の解答へ至る道を説明できてしまうのであります。ならば、自ら設定した短い有効期限の内に、不完全にしか提示していなかった謎を完全に解かれたのであれば、作者である法月綸太郎の完全敗北以外の何ものでもないので、泣きながらサインを書きまくる程度の罰は受け入れてもらわねばならんのではなかろうか。……それにさあ、実際に、異様なまでに複雑でとんでもなく精緻に練り上げられた驚異の構造体としての『挑戦者たち』の謎を解き明かしてみてから初めてわかることとして、作品の核心部分で、想像を絶するほどバカなことをしてますよね……。いや~、こんなん解かれたら罰ゲームでしょう(……それに、この文章が広まって法月綸太郎本人の目に止まるという状況も考えて、タイトルはわざわざ、作者なら一目見ただけで謎を全て解かれたことがわかるようにつけたので、観念してくれるのではないでしょうか)。
 ……まあ、正直なところ、『挑戦者たち』の異様に複雑な成り立ちを見るにつけ、小説の語りの構造について法月綸太郎自身と同等かそれ以上に考えている人間でなければ、たしかに、わかるようなもんでもないよなあ、とは思う。……しかしですねえ、法月先生、残念ながら、世の中には私のような読者もいるのですよ、ハッハッハッ。


 とはいえ、その逆に、この小説に対する反応を見ていて「いくらなんでもわからなすぎる、まともに小説読めなさすぎるにもほどがあるのではないか」とも思えたのだった。そりゃあ、私自身、『挑戦者たち』に仕掛けられたからくりをかぎつけてから、それを完全に解きほぐす過程でそれなりに難渋した部分もあったことは事実ではあるけれど、「仕掛けられた謎を解明する」ことと「実はそこに謎が仕掛けられていたことに気づく」だけのこととの間にも、要求される読解力はだいぶ異なるわけだ。
 ところが、『挑戦者たち』を読了した人々の感想・書評の類を探っていっても、これが単なる挑戦状の寄せ集めなどではなく、明確な全体像を持って巧妙に統御された一つの作品であり、その構造に絡む謎が隠されているということ自体に気づいた節があるものすら皆無なのであった、「小説のプロ」であることになっている人々のものも含めてね。
 色々と見ていた中で見つけてしまって特に気になったのは、よりにもよってこの私のことを「小説に関しては頓珍漢なことしか言えない」などと断定してくださりやがった東某氏が、この小説の仕掛けに何も気づいていない風で呑気な感想を書いていたことであった。……え~っと、この人、たしか、法月綸太郎の小説について論じた文章も含めた文芸評論を出版してましたよね……? こういう時って、なんて言ったらいいんでしょうかね……ここはやっぱり、「このアマチュアがぁ!」ですかねえ。
 まあ、私としては、実作者だろうが批評家だろうが研究者だろうが、「小説のプロ」だということに一応なっているのに、謎を解くどころか謎を仕掛けられていることにすら気づけなかった人々は、もう看板下ろした方が身のためだと思うよ。君たちはほんとーに「小説のプロ」なのかい? 「小説ごっこ」とか「文学ごっこ」などと称しておいた方がいいんではないか?
 ……まあ、作者が自作に「謎を仕掛けていること」自体を明言しないままに出版してそのままにしておくと、「謎の存在自体が理解されない」ということはまれにはあるのかなあ、とは思う。私が認識している限りだと、ビオイ=カサーレスの『モレルの発明』が、そんな小説にあたる。実はあの小説に関しては、ボルヘスが「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の冒頭でビオイ=カサーレスとの対話を記録し、「語り手が事実を省略もしくは歪曲し、さまざまな矛盾をおかすために、少数の読者しか――ごく少数の読者しか――恐るべき、あるいは平凡な現実を推測しえない、一人称形式の小説の執筆について」語っていたのだという。
 私としては、これはたぶん本当にビオイ=カサーレスの作品にあることだろうと推測し、色々な状況から『モレルの発明』であろうと当たりをつけて分析してみたところ、実際に、作中で話者によって語られている記述の矛盾や言い落としを照らし合わせると、作品が隠していた極めてグロテスクな、「恐るべき、あるいは平凡な現実」が浮かび上がることを確認したのだが……あの作品の場合、それをきちんと論理的に説明しようとすると、おそらく作中で参照されている書物をも読み込んで小説の記述を照らし合わせつつ記述していく作業をやらないとダメっぽいので、ちゃんとやるとめんどくさいんですよねえ……。


 というわけで、前置きが長くなってしまったが、実際に『挑戦者たち』がどのような小説であるのかを解明していこう。
 一見するとそれぞれがてんで無関係でバラバラの「読者への挑戦状」が並ぶ中、11章まで読み進めると、どうもこの作品は自己言及的な記述を含むのではないかという疑いが出てくる。「こんな『読者への挑戦』はイヤだ!」と題されたこの章には、こんな記述があるのだ。


 ・とにかく長い。五十ページ以上ありそう。
 ・事件が起こる前に挑戦状。
 ・奥付の後にも挑戦状。(p28)



 「プレミアム挑戦状」は奥付の後、すなわちこの小説の外部に位置しているので、この記述は、この書物そのものに当てはまる自己言及的なものだ。
 ならば、次々に繰り出される挑戦状が自己言及的なものであるとして、作品の全体像を照らし出す手がかりになるものは、どこにあるのか? ……まず、最初に決定的な記述が現れるのは、26章「編集者への手紙」だ。この章は、新作小説『うつろな穴のまわりに』に読者への挑戦が欠けていることを指摘された小説家が、挑戦状の欠如が故意のものであることを説明する手紙となっている。それによると、『うつろな穴のまわりに』が挑戦状を欠くのは、実はこの作中での解決は真の解決ではなく、読者への説明は全くないままに、解決はシリーズの次回作に持ち越されるからだというのだ。


 あらためて私の意図を説明しよう。次作でやろうとしているのは、「一冊の本の中に一度も登場しない人物を、犯人として指名する」というはなれわざだ。
 一度も登場しないというのは、単に姿を見せないだけでなく、作中でまったく存在に触れられない人物を指す。当然、その本の中では犯人と指名できないから、真相の解明は別の本で行わなければならない。いわば作中作を解放して、先行出版するような仕掛けで、二冊の本のタイムラグが、真相を覆い隠すヴェールになるわけだ。「シリーズ最新刊で初めて登場する人物が、前作で解決された事件の真犯人である」ことを示す手がかりを、読者に見破られないように配置するのは、なかなか骨が折れるがね。
 もちろん、すでに布石は打ってあるし、『うつろな穴のまわりに』というタイトルも、真犯人がまだ登場していないことを暗示しているのだが、後編の<読者への挑戦>でその狙いを明かすまで、私はこの二冊がひと続きの物語であることを悟られたくない。『うつろな穴』がそれ一冊できちんと完結しており、『もつれ合う線』も独立した事件を扱った小説であると、土壇場まで読者に思いこんでいてほしいのだ。
 ここまで明かせば、なぜ『うつろな穴』に<読者への挑戦>がないのか、きみにもわかるだろう。この小説の中では、「真相を解明するすべての手がかりは示された」と述べることはできない。重要な事実を隠しているのだから、もしそう書けば、読者に対して嘘をつくことになる。次作のプロットの整合性も失われてしまうだろう。(p55~56)



 ある一冊の探偵小説の内部で起きた事件の真犯人は、その書物の内側にそもそも登場しておらず、外部にしか存在しない。そして、だからこそ、読者に提示されるべき「謎」が成立しておらず、ゆえにその書物には「読者への挑戦」が含まれない……。
 一つ注意しておくべきことは、以上のような特徴を持つ『うつろな穴のまわりで』が、アガサ・クリスティの一冊の小説を参照していることだろう。


新作に挑戦状がないことについて、編集部に問い合わせが殺到するだろうが、それに対してはノーコメントを貫いてほしい。私もいっさいコメントを控えるつもりだ。場合によっては、刊行後しばらくの間、行方をくらますという手もありかもしれないな。『アクロイド殺し』を発表した直後に、アガサ・クリスティーが失踪騒ぎを起こしたように。挑戦状の不在と、作者の不在。『うつろな穴のまわりに』という本の宣伝には、格好のキャッチフレーズになりそうだ。(p56~57、ルビは省略)


 謎を内包しないがゆえに挑戦状を持たない『うつろな穴のまわりで』が『アクロイド殺し』を参照する一方で、挑戦状のみの集積でありそれ以外には何もない『挑戦者たち』は、同じくクリスティの『そして誰もいなくなった』を参照する。
 そして、『アクロイド殺し』と『そして誰もいなくなった』と言えば、小説の語りの言葉を限界地点まで利用することによって、読者の視点から最も盲点となりうる場所へと真相を隠した、その方法論についてそれぞれが正反対の方向性を突き詰めた小説であるだろう。……ならば『挑戦者たち』が『うつろな穴のまわりで』の正反対の構造を持つ作品であるならば、挑戦状のみの集積であるにもかかわらず、作中に謎は存在しており、その作品の内部の調査だけで謎を解くことができるように周到に構成されているのではなかろうか。
 このあたりの部分にまで読解を進めることで、私は、『挑戦者たち』に謎が仕掛けられていることに確信を持つに至ったのだった。


 『挑戦者たち』という小説の語りの構造を分析するにあたって決定的な意味を持つのは、「挑戦状」を含む小説の分類に関する議論が自己言及的になされる46章「分類マニア」である。ここでは、「読者への挑戦」の探偵小説内での位置づけとして「読者説」(「挑戦状」は「問題編」に含まれる)、「探偵説」(「挑戦状」は「解決編」に含まれる)、「犯人説」(「挑戦状」は「問題編」「解決編」のいずれにも属さない)の三つの立場が記述された上で、さらなら第四の立場として「作者説」が展開されることになる。この「作者説」がもっとも突出して小説の読解に著しい変更を要請するものであるので、これについて細かく見てみよう。


④作者説=「挑戦状」はもともと二つに分裂しており、その片割れどうしが「問題編」と「解決編」双方に属しているという立場。
 この説を唱える論者は、書物の「作者」と物語の「語り手」を峻別し、前者による物語の「中断」を認めない(それができるのは「語り手」だけである)。したがって、メタレベルの「作者」が物語に直接コメントできるのは、「まえがき」か「あとがき」のいずれかに限られるという。この立場によれば、「読者への挑戦」に「作者」の署名がなされている場合、「挑戦状」によって分割された「問題編」と「解決編」は、別々に語られた二つの物語と見なされる(二重焦点化)。
 要するに「読者への挑戦」と称されるものは、「問題編」の「あとがき」(以上ですべての手がかりが示された)と、「解決編」の「まえがき」(これから論理的な手続きによって新しい物語の幕が開く)が、あたかもひと続きの文章のように混ぜ合わされているにすぎない、というのがこのユニークな新説の骨子である(註)。(p106~107)



 これは非常に特異な見解であるが、全体が「挑戦状」の集積である『挑戦者たち』にこの説を自己言及的に当てはめてみるならば、さらに奇妙な構図が成立することになる。――すなわち、九十九通の各挑戦状が「問題編」と「解決編」の中間地点として「あとがき」と「まえがき」を兼ねているのであれば、任意の一つの挑戦状を読んでいる際、それ以前の挑戦状の全ては「問題編」であり、それ以後の挑戦状は全て「解決編」であることになるわけだ。ならば、各挑戦状を読み進めつつ、それぞれの章がどの機能を持つに至ったのかをまとめてみれば、以下のようになるだろう。


      1章:「挑戦状」+「まえがき」+「問題編」
   2~98章:「挑戦状」+「まえがき」+「あとがき」+「問題編」+「解決編」
     99章:「挑戦状」+「あとがき」+「解決編」


 以上のように分類してみた上で、さらに本文を読み進め、51章「これより先、無法地帯」の次のような記述を参照してみよう。


 たしかに問題編には、虚偽の記述はないのだろう。だからといって、解決編もそうだとは限らない。むしろ、彼らがあれほど「ここまで」や「すでに」といった後ろ向きの表現にこだわるのは、挑戦状から先の解決編がアンフェアで、嘘だらけの無法地帯と化していることを、暗に認めているようなものだ。
 実際、私の知る限り、挑戦状の書き手が問題編だけでなく、解決編にも虚偽の記述がないと宣言した例はないはずである。彼らは「手がかりを正しく組み合わせ、論理的な推理を働かせれば、唯一の正解にたどり着くことができる」とうそぶくが、「その唯一の正解は、解決編に示されている答えと同一である」という但し書きは見たことがない。言わずもがなのことだから省略したと考えるのは、お人好しすぎる。クレームをかわすために、彼らがわざとそういているのは、火を見るより明らかだと思う。
 これが「読者への挑戦」のからくりである。(p113)



 仮にこれが正しく、「解決編」のあらゆる記述が信頼できないものであるのならば、『挑戦者たち』という小説においては、信頼できる記述は「解決編」の機能を持たない1章にしかありえない、ということになる。……ならば、逆に、その1章の参考文献がフェイクであることが示されれば、小説全体が宙づり状態になるのではないか……と考えて1章の文献を確認してみたのだが、ここには特におかしい部分はない。ふ~む。
 ところが、『挑戦者たち』をさらに読み進めてみれば、参考文献をフェイクにするまでもなく、作品全体の記述の信用性を宙づりにする方策は、既に取られていたことがわかるのであった。


 問題の記述は、73章「天地無用」にある。この章は全体が逆さまに印刷されているという異様な章なのだが、そこには、次のような記述があるのだった。


 よく言われるように、探偵小説は原則として、事件の結果から原因にさかのぼるあべこべの物語である。事件の発生から解明に至るまでの操作は時間の推移に従うが、その捜査の内容は現在から過去へと時間を逆行するからだ。互いに逆向きに流れる時間の二重構造を細心な手つきで切り分けると、問題編と解決編という二段構えの叙述形式が生まれる。今やこの物語も、両者のはざまで、時の流れが堰き止められているわけだ。
 ということは、「読者への挑戦」とは、すべての砂がガラス管の底に落ちきった砂時計をひっくり返すようなものだろう。覆水を盆に返すことはできなくても、こぼれ落ちる砂の向きを反転すれば、静止した物語はふたたび動き出し、逆行する時間の推移をあべこべに再現することができる……。
 では気を引き締めて、ここで読者に挑戦しよう。密室状態のアトリエで被害者を墜落死させた犯人は誰か? 物語のここまでの時点で、事件を解決するために必要ないっさいの事実は示された。諸君のなすべき仕事は、落下した砂の一粒一粒をふるいにかけ、止まった時間を前に――あるいは後ろに――進めることである。(p144~145、引用に際して上下を逆転している)



 以上のような内容を持ち、なおかつ上下が逆転して印刷された73章を読むことによって、『挑戦者たち』の作中に流れていた時間は逆転する。作中の時間は右から左に読み進めることによって進むのではなく、左から右へと進むことになる。……ということに気づいてから改めて72章を読んでみると、ごていねいにも次のような記述があるのであった。


 道にまよったので、だれかに帰り道をたずねる。すると、道をおしえてやろうといってそのだれかは、平坦で歩きやすい道を、わたしといっしょに歩いてくれる。突然、道は行き止まりになる。そこで、同伴してくれた人がこういう。「さて、きみのするべきことは、ここから帰り道をさがすことだ」(p143)


 ……だが、「帰り道をさが」して逆転した時間の中で、「作者説」に基づいて前の章から順番に「まえがき」「問題編」「解決編」「あとがき」を割り当てていったことも、完全に逆転する。……ならば、結果として全ての章が、「まえがき」「問題編」「解決編」「あとがき」の機能を全て合わせ持つことになってしまう!(……ついでに言うと、以上のような操作を加えたことにより、「作者説」のみならず「読者説」「探偵説」「犯人説」の全ての解釈が『挑戦者たち』という小説に対して成立することにもなるわけだ)
 ここにおいて、全ての章がフェイクであり、偽装された、信用のできない記述であるということが確定してしまうのだ。


 ここまで分析を進めた結果、『挑戦者たち』という小説は九十九通の挑戦状の「語り手」は一見すると全てが別人でありながら、その全ての記述が信用できない――という状態が成立していることがわかる。
 ならば、もはや手がかりはどこにもないように思える――しかし、私が気づいたのは、46章で提示された「作者説」に、大きな見落としをしていたということであった。
 ……そう、あの部分では、挑戦状が問題編と解決編を分割し作品を二重化するのは「『読者への挑戦』に『作者』の署名がなされている場合」という但し書きがあったのだ。
 では、『挑戦者たち』を構成する九十九通の挑戦状において、「作者」の署名がなされているものはどれだけあるのかというと……これが存外少ない。6章、14章、15章、16章、17章、18章、31章、41章、49章、73章、76章、そして80章である。この中には、「さしくゃ」「非作者」「作者(故人)」のような特殊な例も含まれるが、後述する事情によって数に入れている。
 ただし、例えば「作者」の署名が最初に登場する6章では、署名の次に以下のような文章が書き込まれている。


 「――余計なことを」《隠れた黒幕》氏は商売道具の赤ペンを握ると、自分に不都合な文章を挑戦状から削除した。(p21)


 これはつまり、実は6章の「語り手」を「作者」が兼ねているのではなく、6章の記述の内部の審級に、たまたま「作者」という署名が書き込まれた一連の文章が引用されているのにすぎないということだ。ということは、6章においては、「真の作者>語り手>引用された作者」という階層が形成されているわけだ。
 同じことは、76章についても言うことはできる(また、13章にも「作者」の署名自体は存在するが、これは誤解しようもないほどに「引用」であることが明らかなものだ)。……すると、この二つの章を除外して残るのは、14章、15章、16章、17章、18章、31章、41章、49章、73章、80章ということになる。
 ここに至って、私は、自分が正しい方向で真相に近づいてきていることを実感した。――全てが信用できない記述で構成された『挑戦者たち』において、「作者」を自称する者は十人いる。そう、これは、『そして誰もいなくなった』における死体の数と一致する。また、作品全体のエピグラフとしてエラリー・クイーンの『十日間の不思議』が引用されているのは、あの小説が、「十戒」をめぐる「十日間」の事件を描くものであったからだろう。
 ならば、自らこそは真の作者なりと偽装する十人の捏造された作者の中に、ただ一つの特異点として、真の作者である法月綸太郎自身が紛れ込んでいるはずである(もともと、「作者」の署名自体が偽装にすぎないのだから、「非作者」「作者(故人)」といった信用できない記述には大した意味がないことになるわけだ)。
 と言うか、そもそも、真の作者が作中のいずこかに「挑戦状」を通して直接介入している特異点がなければ、「作者説」が成立することはなく、「作者説」で読み解ける作品として『挑戦者たち』が成立しえないという、論理的な循環がある。
 ならば、この論理的循環を突破し特異点をあぶり出す手がかりは、作品の外部から法月自身によってメタ情報として与えられた「架空の本」の存在にあるのではあるまいか。
 いざそう考えて、十に上る「作者」の署名がある章と、九十九章の内の五十八章に付されている参考文献表を照らし合わせてみると……やはりと言うべきか、「捏造された作者」の挑戦状の大半には、参考文献が存在していないのである。これはやはり、捏造された作者であれば、作品の外部に実際に存在する書物を参照することもできなければ、小説の本文と参考文献との間を行き来することもできない、ということなのであろう。
 以上の操作によって「十人の作者」をふるいにかければ、参考文献とのつながりを持つ作者はわずか三人。17章と73章と80章である。ここまでくれば、調べるのはたやすいだろうと思い、実際に調べてみると……17章の「非作者」が参照しているのは、ソランジュ・マリオ『とどのつまりは何も無し』。聞いたことのある書名だけどなあ……と思いきや、よくよく考えてみれば、この題名、レムが架空の書物の書評集である『完全な真空』に書いていたヌーヴォー・ロマンのパロディだ。なるほど、「非作者」だからこそ、参照しているのは非実在の書物だってことか。


 ……というわけで、「プレミアム挑戦状」の解答自体には割とあっさりたどり着いてしまったのだが、実はこの時点では、謎はいまだ解決していないのである。
 というのも、私自身の当初の予想としては、「十人の作者」と参考文献表とを相互に参照すれば、作者は二人にまで絞り込まれるはずだと考えていたのだ。作者が二人であれば、「一冊は架空の本である」という「真の作者からのメタ情報」によって、唯一の「真の作者」を特定することができる。
 にもかかわらず、ここまでの推理では、「真の作者」の条件を備える者はいまだ二名おり、それ以上に絞り込む手がかりはない。……つまり、「プレミアム挑戦状」の謎を解くことは、実は『挑戦者たち』という小説においては、作品が内包する真の謎を解く以前の段階で解けてしまう、探偵に対して「偽の解決」を与えて安堵させる機能を持つ「偽りの謎」にすぎなかったのだ……(本当にエラリー・クイーンっぽくてあまりにもマニアックすぎると思うのだが、そう考えてみると、『十日間の不思議』がエピグラフに採用されていたことには、『挑戦者たち』の謎も二段構えであることも示唆されていたのかもしれない)。
 もちろん、私としては、「プレミアム挑戦状」の謎を解いただけの段階では、この正解を暴露する気は毛頭なかった。この謎を解いても解決しきれない残された謎をもさらに解ききったことによって初めて、この書物の謎を解ききったと言えると思うからだ。
 では、「プレミアム挑戦状」の謎を解いたことを足がかりにして、さらにこの書物の奥へと踏み込んでいくとどうなるのか。


 『挑戦者たち』を構成する九十九通の挑戦状において、「真の作者」による介入がある、その特異点はただ一つしか存在しないように思える。九十九通の挑戦状が全て異なる「語り手」によって語られているのならば、「作者」を兼ねることのできる「語り手」はただ一人でしかありえないからだ。……にもかかわらず、「プレミアム挑戦状」を解く過程で「真の作者」の手になる挑戦状として浮上したのは、73章と80章であり、この二つの差異をそれ以上見極めるための手がかりはない。
 実は、残された挑戦状が「二通」であることを理解するためには、この小説の構造を全く異なる側面から見なければならなかったのだ。……そのためには、78章「黄金比率」を読む必要がある。
 そこでは、探偵小説の「絶対領域」なるものについて、以下のような記述が見られるのだ。


 絶対領域とは、「読者への挑戦」が二度おこなわれる本格ミステリ作品において、「第一の挑戦状」と「第二の挑戦状」の間に存在する神秘的空間を意味するスラングである。(p154)


 しかし、単に前後の挑戦状にはさまれた、不安定で露出度の高い章があればいいというわけではない。ある実作者の見解によれば、「問題編:絶対領域:解決編」のページ数ごとの比率が「10:1:3.7」となるのが理想(絶対領域の黄金比率)で、この数字は『呪縛の家』からはじき出したものだという。直感的な俗説にすぎないとしても、この比率から大きくはずれた作品は、あまり高く評価されない傾向があるようだ。(p154~155)


 ……以上のような記述を見る限り、この「黄金比率」を『挑戦者たち』という小説そのものに自己言及的に適用すればよいように思える。しかし、この章には次のような記述もある。


また、挑戦が三回以上おこなわれる作品(代表的な作例として、有栖川有栖『双頭の悪魔』)に関しては、前記の黄金比率を大きく逸脱することから、絶対領域の許容範囲外と見なされることが多い。(p155)


 以上の記述ゆえに、九十九通の挑戦状よりなる『挑戦者たち』に「黄金比率」を適用することはできないと思えるかもしれない――しかし、これはミスリードなのである。46章において提唱された「作者説」に従う限り、任意の一通の挑戦状を読んでいるその時点において、挑戦状の前後はそれぞれが問題編と解決編として機能する。
 既に見てきたように、九十九通の挑戦状の位置づけは常に不確定なものであり、不断に「挑戦状」として機能するのではなく、その存在は「問題編」や「解決編」へところころと変動し続ける。したがって、各挑戦状を読むという読者の行為こそが「問題編」「挑戦状」「解決編」の位置づけをその都度定義するのであり、各挑戦状を読み進めるごとに、「問題編」と「解決編」の分量の比は変動し続ける。
 ということは、読者がある特定の挑戦状を読んでいるとき、『挑戦者たち』において「黄金比率」が成立する瞬間もある。そしてそのとき、『挑戦者たち』の作中に「絶対領域」が存在することになる。
 192ページぶんの本文よりなる『挑戦者たち』において「絶対領域」となりうるのは、おおまかな端数を四捨五入すれば、131ページの63章から、143ページの72章にあたる。ということは、「絶対領域」を出現させる「第一の挑戦状」は62章である――そして、そのとき出現する「第二の挑戦状」こそが、73章であるわけだ(そしてもちろん、73章に作者の署名がある以上、「作者説」が要求する条件も厳密に満たすことになる)。
 そう、よくよく考えてみれば、「一人の真の作者が存在する」ということは、何も「一通だけの本物の挑戦状が存在する」ことを意味するのではなかったのだ。真の作者は、「第一の挑戦状」と「第二の挑戦状」の双方を自らの手で書いている。
 では、なぜ、異なる観点から見たとき、真の作者による挑戦状は73章と80章であったのか。……このことは、73章において時の流れが逆転していることを思い出せば納得がいく。つまり、「絶対領域」の存在する位置が反転されたとき、146ページから158ページあたりまでが、そのおおよその領域となる。ということは、反転された時間における「第一の挑戦状」が80章であるということになるわけだ。
 ある一点を中心に回転することによって反転された形で存在する「絶対領域」の外延に存在するのが62章と80章なのであり、相互に分身関係にあるこの二つの章は、両者ともに「第一の挑戦状」である。そして、絶対領域の回転運動の中心点に不動の状態で鎮座する73章こそが、真の挑戦状としての「第二の挑戦状」である。
 ゆえに、73章に署名された「作者」の刻印こそが、真の作者としての法月綸太郎本人による署名にほかならないわけだ。


 ……以上をもって、『挑戦者たち』という小説の全体像はおおよそ明らかになったことと思う。とはいえ、まだ細かい問題はいくつか残っている。
 この小説における「挑戦状」が解けるものだというなら、では、犯人は誰なのか。犯人が本文のどこにも存在していなかった『うつろな穴のまわりに』の正反対だというのであれば、全てのページに偏在していることになるし、それと96章の記述を合わせて考えれば、犯人は「作者」「挑戦状そのもの」「読者」のいずれかということになるだろう。
 そして、99章の最後において語られる「真犯人はここに名前を挙げた人物の中にいる」という言葉を真に受けるのならば、「本書をお読みいただいた読者諸氏」しかありえない、ということになるのだろう。……まあこれは、的確に読むことによって、謎を謎として存在させることに成功させた読者、ということに限られるのかもしれないが。
 それから、くれぐれも書いておきたいのは、この『挑戦者たち』という小説は、単なる手すさびでも文体練習でも小ネタ帳でもないということだ。明確に全体像が厳密に構築されているし(だいたい、『挑戦者たち』への書評という形式を持つ97章において「『読者への挑戦』という針穴を通して、謎解き小説の全体像をあべこべに映し出す『カメラ・オブスクラ』的なメタフィクション」と自己言及的に述べられていることを、気にする人はいなかったのだろうか……)、単に部分部分を読むだけでは理解することのできない語りの構造が極めて高度に洗練された形で存在しているからだ。
 そして、実は私がもともとトーマス・ベルンハルトの『消去』を論じようとしていたことから逸れてこの小説について書いたことにも、そこに理由がある。もともと私がこの小説の内部を丹念に探ろうとする気になったのは、「法月綸太郎という作者ならこれくらいのことを書いているだろう」という事前の予測があったからだし、この作品にそうとは言われないままに仕掛けられた謎を解くことができたのは、作者本人によって作品の外部から提示されたメタ情報があったからだ。つまり、実はこの作品は、おそろしく精緻に構築されてはいるものの、作品が作品として自律することはできず、作者本人が存在するメタレヴェルへと続く穴を解消することができないことをさらけ出し、そのことを前提とした上で組み上げられている。……つまり、むしろこの作品は、法月綸太郎がそのキャリアで追求してきたことのど真ん中にある作品であるのだ。


 ……さて、一通り分析を終えてからは、そんなことを考えていたのだが……まあ、最初に「謎は全て解けた」というようなことを書いたが、正直なところ、細部で小ネタはまだいろいろ埋まっているんだろうなあ、とは思っていた。例えば、73章こそが真の作者の署名だとわかってから続けて74章を読むと、「法月綸太郎、最悪だ……」と思えるようにもなっていたりもするし。
 それで、以下に書くのは、作品の構造そのものではなくむしろ装飾にあたるようなことなのだが、とんでもないネタが埋め込まれているのを発見した事の次第だ。……まあ正直なところこのことに関しては、仮に作品の構造を全て解き明かしたところで、元ネタを知らなければ全くわからないようなことなので、誰もが見つけられるようなものではない。また、それについて詳しく書いても、元ネタを知らなければ、やはりよくわからないだろう。
 しかし、この文章は『挑戦者たち』の「解決編」を勝手に書くと決めて書き始めたものなので、作品の謎ではなく、密かに語られていたストーリーにも、その結末に至るまで書いてしまおうと思う。
 このことに気づいたきっかけとなったのは、一通り全体像を分析し終えた後で、改めて8章のポルナレフ(?)の言葉を読んでいたときのことだった。ポルナレフ(?)は、次のように言っていたのだった。


 真相を推理する前に
 言っておくッ!
 おれは今
 やつの論理のアクロバットを
 ほんのちょっぴりだが
 体験した

 い…いや…
 体験したというよりは
 まったく理解を
 超えていたのだが
 ………
 あ…ありのまま 今
 起こった事を話すぜ!

 『おれは 挑戦状の前で問題編を読んでいたと
 思ったら いつのまにか解決編を読んでいた』

 な…
 何を言っているのか
 わからねーと思うが
 おれも 何をされたのか
 わからなかった…

 頭がどうにかなりそうだった…
 叙述トリックだとかちゃぶ台返しだとか
 そんなチャチなもんじゃあ
 断じてねえ
 もっと恐ろしいものの片鱗を
 味わったぜ…(p24~25、傍点は省略)



 ……いざ改めてこの言葉を読んでみると、ポルナレフ(?)の発言はその場限りのネタでもなんでもなく、まさに作品全体の仕掛けを自己言及的に示していたことに気づかされる。……そう、問題編と解決編が不確定なままにすり替わるというのはまさに『挑戦者たち』という小説に仕掛けられたものなのであり、それは「叙述トリック」とも「ちゃぶ台返し」とも呼べるものではない。ポルナレフ(?)は、確かに、真相に肉薄していたのだ。
 それにしても……そうか、法月綸太郎ってDIO様だったのか……などと思ってみると……ん? ちょっと待てよ……法月綸太郎が真の作者として作中に降臨したのは73章。……しかし、46章の「作者説」では、物語を「中断」できるのは「語り手」であって「作者」にその能力はないとされていたのにもかかわらず、73章において作者は「時の流れを堰き止め」、作中に「止まった時間」を出現させていた……こ、これは……?


 「まさか…花京院……おまえの伝えたいことというのは…法月綸太郎のスタンドの謎をおまえは解いたのか?」
 「『時計をとめる』………?」
 「ま…まさかッ! そんなことが! 法月綸太郎の「ザ・ワールド」の正体というのはッ! 自作の内部に降臨し、作中の「時」を止める能力だったのかッ!」
 「………! こいつはやばすぎる! …やばすぎるスタンドじゃぞッ!」


 ……そう……九十九通の挑戦状のみからなる文章が、それでもなお全体として一つの小説になりえていたのは、73章に「真の作者」として降臨した、法月綸太郎がッ! そのスタンド能力「ザ・ワールド」を発動しッ! 作中に流れる「時」を止めていたからだったのだッ! これこそが、『挑戦者たち』の真相なのだァァァァァァァッッッ!!!


 (この文章を書いてから後日改めて『挑戦者たち』を読み返していたら気づいたことがあったので、ここで補足をば。46章で論じられる「作者説」なのだが、挑戦状が「作者」ではなく「語り手」によるものである場合、挑戦状の前後が分裂するのかについては解釈が割れているというのだ。……つまり、真の作者の署名によって初めて「問題編」と「解決編」が分裂するのなら、『挑戦者たち』の場合は、73章以外では分裂は起きない。すなわち、72章以前が「問題編」になり74章以降が「解決編」になるのは、73章の時点で一挙に起こる。また、「問題編」が「解決編」に、「解決編」が「問題編」に反転するのも、「ザ・ワールド」の発動とともに、作品全体に干渉して一挙に起こる。ポルナレフ(?)の発言を読む限り、どうもこのモデルの方が適切なように思えてきたのだが……まあ、最終的な結論は同じだし、何より、「作者説」には複数の解釈の間で議論があることが作中で明言されているので、ここまで書いてきたモデルも別に間違いではないのだが)


 「綸太郎様ッ! あなたは必ず時を支配できるッ! もっと! もっと! 静止した時の中を動けると思いなしゃれッ! 空気を吸って吐くことのように! HBの鉛筆をベキッ!とへし折る事と同じようにッ できて当然と思うことですじゃッ!」


 法月綸太郎、73章を書きながら、「『ザ・ワールド』ッ! 止まれいッ! 時よッ!」とか言ってたのか……ん? ちょっと待てよ……と、いうことは……今まさにッ! このッ! 文章を、書きつつある、このおれこそがッ! 空条承太郎だということかァァァァァッッッ!!!


 (法月先生、もしこの文章を読まれているようでしたら、このタイミングで「こともあろうに! ……一介の読者が………『我が………止まった時の世界に………………』入門してくるとは………………!!」と言ってくれるようお願い申し上げます)


 おれ「時は動き始めた」


 (法月先生、改めてこの文章を最初から読み返すようなことがあれば、私の推理におかしい道筋があるかチェックを入れたり、私が難渋しているところに行き当たるような場合、適宜「そこで承太郎! きさまが何秒動けようと関係のない処刑を思いついた……」とか「最高に「ハイ!」ってやつだアアアアアアハハハハハハハハハハーッ」とか「ロードローラーだッ!」などと言っていただけるとよろしいかと存じます。納得がいかれた場合は次に進んでください)
 

 「な……なんだ? 体のうごきがに…にぶいぞ」
 「ち…ちがう動きがにぶいのではない…う…動けんッ! ば…ばかな」


 おれが時を止めた……そして作中から脱出できた…やれやれだぜ…
 どんな気分だ? 自分の作中にいたはずが読者に背後に立たれる気分はよ?
 これからッ! てめーをやるのに! 五百文字もかからねーぜッ!
 オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ(法月先生、ここはもちろん、「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄……」ですよ!)


 (法月先生、「ば…ばかなッ! ………こ……この法月綸太郎が………この法月綸太郎がァァァァァァ~~~~~~~~~~ッ」で!)


 法月綸太郎…
 『ザ・ワールド』
 ――――――――完全敗北…死亡


 「これで終わったな……」
 「法月綸太郎にはみんなが貸していたのだよ」
 「二十八年前から大勢の人間が…あらゆるものを貸していたのだ」
 「わしらが煙に巻かれて失った時間はこの地球にも匹敵するほど大きい…しかし…彼らのおかげだ…彼らのおかげでわしらは生きているのじゃ…」
 「花京院! イギー! アヴドゥル! 終わったよ……」


 てめーの敗因は…たったひとつだぜ……法月綸太郎…たったひとつの単純な答えだ………
 『てめーはおれを怒らせた』


                    法月綸太郎『挑戦者たち』 完









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