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散文と身体性について――トーマス・ベルンハルト『ある子供』(下)

 トーマス・ベルンハルトの小説に慣れ親しんだ読者が『ある子供』を一読すると、そもそもの冒頭において展開される一群の描写に、鮮烈な印象を持つと同時に強烈な違和感をも覚えることになるだろう。そこには、例えば、次のような言葉が書き込まれているのだ。


 八歳のとき、私は、後見人が所有する古いシュタイア製自転車に初めて乗った。後見人はこのとき従軍してポーランドにおり、ドイツ軍兵士として、今まさにロシアに侵攻しようとしてるところであった。私は、トラウンシュタインの町の私たちが間借りしている建物の下の路地、タウベンマルクトで、小さな町のお昼どきらしく人通りの途絶えた中、生まれて初めて自転車を漕ぎ、あたりをひと回りしたのだ。自分にとってすこぶる新しいこの芸当が面白くて、まもなく私は、タウベンマルクトからシャウムブルガー通りを抜け、シュタット広場へ自転車を走らせると、教区教会のまわりを二、三周したあと、向こう見ずな、取り返しのつかない決心をした。(『ある子供』、今井敦訳、p5)


生まれて初めて自転車を見た瞬間から、乗ってみたくて仕方なかった。自転車乗りという、選りすぐりの階級に憧れた。それが今や、自分もその一人だ。この芸当を教えてくれる人は誰もいなかったから、長いことただ憧れるばかりだった。少し罪悪感はあったけれど、誰に許可を請うこともなく、後見人の高価なシュタイア製自転車を玄関からひっぱり出し、どう扱ったらいいのかよく考えもせず、ペダルを踏んで、いきなり走り出した。転ばなかったら、乗った瞬間にはもう勝ち誇った気分だった。私は、あたりを数回まわっただけで降りてしまうような、そういう子供ではなかった。ひとたび何か始めたら、とことんまでやった。ひとこと断っておくべき人に、何にも言わず、自転車で風を切り、愉悦に気持ちを膨らませ、シュタット広場を離れると、ついには「緑野」と呼ばれるところに出て、ひらけた自然の中を、ザルツブルクへと車輪を回したまだ背が低過ぎてサドルにまたがることができなかったから、ほかの小さい初心者と同じく、フレームに片足を通してペダルを踏んだのではあったが、みるみるスピードを上げた。ずっと下り坂が続いたことも愉悦を大きくした。(同、p6、ルビは省略)


 『ある子供』の冒頭において展開されるのは、幼き日のベルンハルト自身が自転車に初めて乗った日の顛末である……そこで展開される子供の運動とその失敗からくる痛みの鮮烈さは、ほとんど、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』を思い起こさせるようなものですらある。
 そして、まさにそのことこそが、ベルンハルトの小説の通常のあり方と比較したときの強烈なコントラストをなしているわけだ。ベルンハルトの小説においては、あまりにも饒舌な呪詛の言葉の尽きることなき奔流こそが、作品の全体を覆い尽くす。結果として、作中において、情念にとらわれた言葉とは無縁に純粋な運動が展開されるようなことは、ほとんどありえない。ベルンハルトの小説の登場人物は、饒舌にしゃべり倒し、この世界の愚劣さを呪い、嘲り、俗物を嫌悪し、それを述べる自分自身の自己欺瞞にすら言及するが、その身体を動かすことだけはほとんどしない。ベルンハルトの登場人物がなすのは、やむにやまれぬ必要に迫られて、その身体の位置を鈍重に移動させることだけなのであり、身体が言葉のくびきから解放されて純粋に運動するようなことはない。
 そんなベルンハルトの小説に慣れ親しんだ上で『ある子供』を一読したときに感じる違和感とは……要するに、子供の身体は、いまだ言葉によって汚染されてはいない、ということなのではなかろうか。
 ベルンハルトの小説においては、しばしば、様々な異なる階層に属するはずの言葉が連続する文章の中で複雑に入り組み、時制はあちこちにいったりきたりする。では、なぜそのようなことが可能になっているのかと言えば……強烈な自我を持った話者が、過去を回想する形態が強固に守られているからだ。つまり、一見するとバラバラであるはずの言葉の群れを一つの総体としてかろうじてつなぎ止めているのは、過去のいかなる時間を切り出してみても、共通してこの世界に対する強烈な呪詛を放つ主体があるからだ。その言葉を発する主体がこの世を呪い続けているからこそ、異なるときに異なる状況で異なる場所で発せられたバラバラの言葉の群れにも、絶対的な共通点は常にあり、いつでもどのようにでも連結しうる。
 だからこそ、『ある子供』における幼年時代の回想が、ベルンハルトの作品としては非常に例外的なものであるわけだ。そこで回想される幼い主体は、この世界に対する絶え間なき呪いを唱え続けてなどいない。そこにはただ、言葉の意味にとらわれていない、純粋な運動があるーーわずかにそこに添えられる言葉は、その運動そのものがもたらす、躍動する身体の快楽を、ごく素朴に表明するものでしかない。……これはつまり、ベルンハルト的な小説のスタイルが完成するために必要であったのは、言葉を発する主体が、連続する時の流れの中で同一性を保っていることだった、ということだろう。主体の人格、その身体と言葉の切り結ぶ関係が変容したとき、ベルンハルト的なスタイルは切り崩される。つまり、「幼年時代の回想」というモティーフには、ベルンハルトの作品の破れ目が顕在化する契機がある。


 『ある子供』のテクストを綴る主体である話者、現在時のベルンハルト自身は、もちろん、そのような存在ではない。幼きベルンハルトの、いまだ言葉に覆い尽くされてはいない世界の有り様は、現在時の話者のフィルターを通すことによってしか作品になりえない。だから、子供の目に映る素朴な世界の言語化が、成人したベルンハルトによってなされる、結果として、読者が読み進める言葉は、既に主人公の子供が目にしたものとは異なるものになってしまっているはずであるーーしかし、それでもなお、言葉と身体との関係が、従来のベルンハルトのスタイルが維持できないまでに揺さぶりをかけられていることも事実である。
 長い時が経過する中で、世界に対する強烈な呪いを抱き続け、同時に知識を蓄え続けることによって巧みに言語を操る術を獲得した主体こそがベルンハルトの小説の話者であるからこそ、練り上げられた言語を持たず身体性が素朴に剥き出しになっている子供の世界は、ベルンハルト的主体が認識する世界の破れ目となる。……一方で、『ある子供』という小説においては、幼きベルンハルトに多大な影響を与えた祖父が大きな役割を果たす。無名の小説家であり、高度な知識を蓄え巧みに言葉を操る術を持ちつつ、この世にあふれる俗物性を忌み嫌う祖父は、例えば次のように語ってみせる。


アナーキストは、この世の薬味だ、と祖父は何度も言った。ことあるごとに祖父が言うこの台詞も、私を恍惚とさせた。むろん、この言葉を完全に、つまり、意味のすべてを私が理解できたのは、だいぶ時間がたってのことだった。私にとって、トラウン川に架かる鉄道橋は最高のものだった。とてつもなく大きな怪物を見上げるように、私は、この鉄道橋を見上げた。それは、私が生涯どう係わっていいのか分からなかった神よりも、もちろん、ずっと大きな怪物だった。だからこそ、この最高のものをどうやったら崩壊させられるか、いつも思案していたのだ。祖父は、橋を崩壊させるためのあらゆる方法を教えてくれた。火薬さえあれば、何でも好きなように破壊できる。いいか、わしは頭の中では毎日あらゆるものを壊しているぞ。頭の中では、毎日、いつなんどきでも、すべてを破壊し、崩壊させ、消し去ることができるのだ、と祖父は言った。祖父にとって、この考えこそがもっとも素晴らしい考えであった。私も、この考えを自分のものにして、生涯ずっとこれと戯れてきた。殺したいとき殺す。壊したいとき壊す。消し去りたいとき、消し去るのだ。だが、頭の中で考えたことは、頭の中で考えたことに過ぎん、と、祖父は言って、パイプに火を点した。(同、p18)


 ベルンハルトの小説に慣れ親しんだ読者であれば、ここで祖父が語る言葉は、『消去』の話者が滔々と語ってみせる考えに余りにも似ていることに、否応なしに気づかされる。そして、そのような考えが胚胎した主体とは――もちろん、その身体から躍動する運動性を奪われた、老人のそれであったわけだ。
 つまり、『ある子供』という小説には、言葉と身体とが切り結ぶ関係、それによって表現される言葉のあり方の、両極が示されているのだ。言葉を持たぬがゆえに何の意味なく運動そのものを目的として躍動する主体と、運動を停止しひたすら言葉をその内にため込むことと吐き出すこととを果てしなく続ける主体。言葉と身体とは、その両極で揺れ動くーー従来のベルンハルトの作品であれば、絶え間なく吐き出され続ける呪詛の言葉こそが、果てしのなく終わりのない、それ以上に変容しようのない閉じて閉塞しきった作品世界を構成しているように思えた。しかし、『ある子供』が示しているのは、幼い主体と老いた主体とは、ちょっとしたきっかけでたやすく変わりうるということだ。……例えば、ベルンハルトの一家の生活状況が変わり引っ越すことにもなり、少し余裕が生まれたという程度のことで、祖父の身には次のような変化が起きることになる。


ウィーンを去ったのは間違いではなかった。祖父は息を吹き返した。ヴェルンハルト通りでは年がら年中、多かれ少なかれいつも書斎に座っていたいわゆる精神の人が、ここへ来て、疲れを知らぬ散策者となった。この散策者は、これまで誰もなしえなかったほどに、散歩というものを高尚な、他のすべての芸術に比肩する芸術へと高めた。(同、p66)


 果てしなく呪いの言葉を吐き出し続ける老人のあり方は、その実、生活状況が改善され優雅に散歩する習慣が身につく程度のことで、たやすく変わりうる。……ここには、ベルンハルトの作品世界のあり方の裏側が恥ずかしげもなく暴露されており、ユーモラスでさえある。
 ……しかし、ここで、注意してみなければならないことがある。ベルンハルトは、『ある子供』を書き上げ自伝小説を第五部まで完成させた、その上でこそ『消去』を執筆したのであり、その逆ではなかったということだ。『ある子供』という小説は、ベルンハルトのスタイルの内幕を自ら暴露しているかに見える……むしろ、その後でなお『消去』のような小説を書きうることの方こそが、驚くべきことなのではあるまいか。
 ……と、いうようなことを考えていたので、『ある子供』を読んで考えた以上のようなことをふまえた上で改めてその視点から『消去』を読み直し、少し腰を据えて論じてみたい。









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