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散文と身体性について――トーマス・ベルンハルト『ある子供』(上)

 トーマス・ベルンハルトの小説『ある子供』を、今井敦による邦訳で読んだ。この小説は、ベルンハルトが自分の幼年時代の回想を題材として書いた五作の自伝的小説の中でも一番最後に発表されたものであるのだが、しかし時系列で言うと最も幼い頃のことを扱っているという、なかなか特殊な位置にある作品だ。この一作だけを読むと、ベルンハルトの作品としてはほんの小品であってなかなか物足りなくもあるので、やはり、残りの四作も邦訳して欲しい……とはいえ、この作品だけでも、ベルンハルトの諸作を読み解いていく上で重要と思われることが書き込まれているのであった。


 ところで、実際に『ある子供』がどのように書かれていたのかを確認する前に、ベルンハルトという作家の重要性がどこにあるのかを軽く確認してみたい。……というのも、ベルンハルトの小説を一読しさえすればそれが凄まじい作品であることは明らかであるのだが、それと同時に、なぜそれが凄いのかを明確に分析することを拒むような類の凄さがそこにあるからだ。
 私自身の感覚としては、おおよそ現代に至るまでの文学史の中で小説の技術がどのように発展し、何が問題となり、結果としてどのような技術が現れてきたのかということはほぼ完全に把握し解析ができている。結果として、ある小説の技術的達成の度合いがどの程度のものであり、どの程度の評価を下すことができ、なおかつダメならダメでどこがどのようにダメなのかを逐一分析的に記述しつつ具体的に示すことができる。……にもかかわらず、なぜそれが凄いのかという技術的分析を完璧に拒む異様な作家が存在する――それが、ルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネなのであり、このような作家に連なるのがトーマス・ベルンハルトであるように思えるのだ。
 ところで、比較的最近、このことに関しては「全く何も語らないこと」こそが最善だとみなして、そのようにしてきた出来事があったのだが……さすがにそろそろ少しだけ言及しておきたいと思う。……というのも、まさにセリーヌやジュネやベルンハルトの異様なテクストと完全に対極にあるものと私には思える、蓮實重彦とかいう無名の小説家に手になる『伯爵夫人』という作品が発表され、ちょっとした話題になっていたからだ。
 既に小説家としていくつかの仕事を上梓してはいながらも、特に目立った業績を残しているわけでもない蓮實の小説がスムーズに出版され著名な文学賞の候補になったことについては、小説家としての業績とは全く無関係な部分での出版業界との人間関係なりがあったようだ。とはいえ、それは小説の内容はおろか蓮實の小説家としてのキャリアにも完全に無関係なので、全くどうでもいい、本来ならいっさいふれるべきですらない話だ。
 私自身は、文学賞の候補になったりする以前、文芸誌に掲載された時点で当の『伯爵夫人』を読み始めたものの、その惨憺たる内容に呆れ果て、半ばほどで読み進めることを放棄したのであった。
 とはいえ、これは、『伯爵夫人』という小説が完全に無価値であることを意味しない。むしろ、ある程度の価値が担保されてしまっているということにこそ、この小説のタチの悪さがあるのだ。……『伯爵夫人』という作品を構成する言語を技術的に分析する限り、どこがどのようになりどのようなことがなされどの程度の技術的水準にあるのかということは、どの点から見てもそこそこ高い評価を下さざるをえない。しかし、そこで駆使されている技術は、既存の文学研究において提出された技術面での理論的言説において、既に明確に定式化されているようなことばかりなのである。ここにあるのは既知の技術の組み合わせでしかなく、小説家としての蓮實重彦自身の取り組みによって従来の理論的研究からはみ出した部分は、全くない(とりあえず、私が読んだ前半までの範疇では)。
 言ってみれば、これはリヴァース・エンジニアリング小説とでもいうべきものであって、文学研究・文学理論の成果をそのまま適用しさえすれば誰にでも書けるはずのものなのである。その意味では、プロの書き手でも批評家・研究者の類でも、この小説から学べることは何一つない。『伯爵夫人』より低水準の小説しか書けない実作者などというものは単に不勉強でトレーニングが足りないのだからプロ失格だし、批評家・研究者がこの小説の読解を通して新たに生み出しえる知見などというものも存在しない。
 にもかかわらず、ここに何か語るべきことがあるかのように振る舞ってあれやこれやの論外の駄弁を労する連中の醜態を鼻で笑っていたりもしたのだが、さすがにこんな茶番が文学の名の元に行なわれるのはあんまりなのではないかとも思い、『伯爵夫人』を最後まで読み切ってその技術的成り立ちを全て明確に示した上で「この小説に何か取り立てて語るべきことがあるかのように考えている者は、全員、単なる馬鹿である」という結論に至る文章を書こうかなどとも考えたりしたのだが、後半を読むのは完全に時間の無駄であろうと判断して結局やめておいたのであった。
 そんなことがあるうち、なんだかこの小説が文学賞の候補になって大きな話題になりつつあったのだが、そんな中、ただ一人、この小説に関して非常に的確であり私にも妥当であると思える評価を下した人物がいた。これまでも、それなりに信頼に足る業績を積み上げてきており、その仕事にも一定の評価を下している批評家……そう、蓮實重彦である。この小説に対して述べる機会がなぜかあった批評家・蓮實重彦は、この程度の作品であれば文学研究者であれば大した労力もかけずに誰でも書ける程度のものでしかなく取り立てて価値もないことを、辛辣ながらも的確に評していたのであった。……いやー蓮實先生、やっぱりさすがですね~。


 さて、やや脱線が長くなってしまったが、セリーヌやジュネやベルンハルトの手になる小説は、文学研究のリヴァース・エンジニアリングによって完全に説明がついてしまい正当な手続きさえ踏めば誰にでも構築できてしまうようなしょうもない小説とは、まさに対極にあるものである。
 既存の文学理論の方法論なりそこで積み上げられた分析方法なりをセリーヌなりジュネなりベルンハルトなりに適用してみて明らかになるのは、むしろ、なぜそのような文章をそのように長大に書き連ね連結することによって長篇小説を構成することができるのか、全く理解不能であるということだろう。
 むしろ、セリーヌやジュネの場合、純粋に技術的な見地からのみ見ると、そこにそれまでの文学史で登場していなかった高度な達成があるとも思えない。にもかかわらず、作品全体としては、高度な達成がなされていると評価せざるをえない。……以上のような、明確な分析を拒む異様な散文を改めて丁寧に読み続けることによって私が改めて実感するようになったのは、セリーヌとジュネがあれだけの分量を持つ長篇小説を平然と何作も書くことができたのは、全くわけがわからないということだ。
 セリーヌとジュネの諸作を構成する言葉を一文一文の単位にまで分解して個別に読んでいけば、そこに書かれている文意そのものが不明瞭であるようなこと自体はそれほど多いわけではない。では、彼らの小説の何が異様であるのかと言えば……彼らが書くような文章は、通常の神経の持ち主であれば、あれだけ長大な量を一つの作品というフレームの枠組みの内に束ねることなど到底できないであろう、ということだ。常識的な思考で言えば、本来なら単一の作品としてひとまとまりになることなどありえないはずのセンテンスの集合体が、一個人の執筆作業によって単一の作品としてまとめられ、結果としてその全体が単一の散文になっていることがそもそもありえないはずである、ということだ。
 では、なぜ、セリーヌやジュネには、まとまるはずのない無数のセンテンスを一つの散文としてまとめあげることが可能であったのだろうか。……それは、結局のところ、作品そのものの内部の純粋な分析だけでは説明がつかず、それぞれのセンテンスを結びつけて作品を織り上げる主体、すなわちセリーヌとジュネの精神そのものが常軌を逸しているということによってしか説明がつかないのではないか。……これが正しいのであれば、セリーヌとジュネの作品はそもそもテクスト論の前提を踏み越えているのだからテクスト論によって分析することはそもそも不可能であるのは当然であるということになるわけだし、また、両者がともに、自分自身が直接経験したことを元にしてしか小説は書かなかったこともまた、当然であるということになる。……言い換えれば、セリーヌとジュネの小説が無数のセンテンスのありえないような形での集合体として一つの作品になるためには、作品そのものから作者自身の身体性を消去することができないからないのではないか、ということだ。そして、そこに刻印されている身体性、そこに残留している作者の精神性が、既存の文学理論が暗黙の前提としている、作者なり話者なりの主体の想定されうる通常のあり方をから大幅に逸脱している……。
 もちろん、セリーヌとジュネのなしたことは、それぞれが全く異なる……しかし、両者の作品の分析を拒む異様なあり方に以上のような共通点を見つけることができるのであれば、トーマス・ベルンハルトの小説が、その問題の延長上にあるのは確かなことだと言えるように思うのだ。


 純粋に技術的な観点から見た場合、ベルンハルトの作品を構成する言語は、セリーヌとジュネよりも明らかに洗練されたものになりえている。これは逆に言えば、ほとんどありえないことのように見えた異様な連結をしたセンテンスの群れとしての散文を、なんとか分析するための手がかりが与えられたということでもあるように思える。
 ベルンハルトの小説においては、しばしば、極めて複雑に入り組み錯綜した話法が用いられる。話者が何かを語っている現在時と語られている過去の時点との内容が交錯し、異なる登場人物の、異なる時点での、作中でも異なる水準に存在するはずの発言の境界が取り払われてあっさりと乗り越えられ、同一平面上にあるものとして無造作に並べられる。
 明らかに異なる階層に属するはずの無数のセンテンスがフラットに並べられてしまうことによって、通常の精神による通常の発話によってはありえないはずのセンテンスの連なりが実現する。このとき、それぞれのセンテンスが一つの作品に属するものとして単一のフレームの枠内に収めうるのは、作者(もしくは話者)という単一の主体によって統御されているという事実によってかろうじてつなぎ止められていることでしかない。その意味では、ベルンハルトの小説においては全てのセンテンスは一つのものとして連結されていると言うこともできるし、逆に、全てのセンテンスがそれぞれバラバラに孤立していると言うこともできる。
 だから、ベルンハルトの小説において段落わけが存在しないのは、そのあり方からして絶対的に必要不可欠な要請であるわけだ。段落わけが存在するということは、いくつかのセンテンスが結びついて一つのネットワークを形成しているということになり、それぞれの段落の内部におけるそれぞれのセンテンスの相互の意味の結びつきは、異なる段落に属するセンテンスとよりも強固に結びついているということになり、無数のセンテンスの集合体の中で、整理された階層化が生じてしまう。そのとき、ベルンハルトの散文の核心にあるものは消滅してしまうだろう。


 ……以上のように考えてみると、自伝的小説がベルンハルトのキャリアを検討する上で非常に重要であることは当然であるように思える……のみならず、『ある子供』という作品の場合には、それ以上の重要性がある。というのも、ベルンハルト自身が明らかに異なる身体性を持っていた幼年時代を成人の段階から回想すること、また、精神的な先達として大きな影響を受けていた祖父が重要な登場人物として書き込まれているからだ。結果として、身体と言語との関わりが、話者としてのベルンハルト自身のあり方が作品のあり方を大筋で決定しつつも、貧弱な言語と激しい運動に振り切った幼年時代と、蓄積し饒舌に淀んだ言語と貧弱な運動の老年時代との、それぞれの限界に振り切った極点の狭間で激しく揺れ動くことになるからだ。
 ……などということを考えていたのだけれど、実際に『ある子供』の内容の読解に入る前に既にだいぶ文章を書いてしまったので、続きは改めて別のエントリを立てることにする。……しかしあれですな、文学賞を受賞する際にスキャンダラスな騒ぎを起こして話題を振りまいたことが実際に書物を手に取るきっかけになるのならば、それこそ、より巨大なスキャンダルを巻き起こしたベルンハルトの書物を手に取った方がいいっちゅーことになると思うんですよなあ。









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