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凡人は神話を語りうるか?――『ジャスティスリーグ:ザ・ダークサイド・ウォー』(上)





 『ジャスティスリーグ:ザ・ダークサイド・ウォー』(ハードカヴァーとkindle版)


  ライター:ジェフ・ジョンズ
  アーティスト:ジェイスン・フェイボク、フランシス・マナプル


 「ジャスティスリーグ」誌の40号から50号にかけて展開された『ダークサイド・ウォー』が、ようやく完結した。これは単行本では二分冊で刊行されることになり、パート1には40~44号、パート2には45~50号が収録される。また、パート1の終結を受けてジャスティスリーグの各メンバーに起きた大きな変化を取り上げた個別のワンショットをまとめた単行本『ダークサイド・ウォー――パワー・オヴ・ザ・ゴッズ』も刊行されている……が、こちらのライターはジェフ・ジョンズではなく、トム・キング、ピーター・J・トマシ、フランシス・マナプルなどのメンバーがライティングに参加している。
 さて、そんな形で発表された『ダークサイド・ウォー』だったわけだが……今回の『ダークサイド・ウォー』、またその完結と同時に発表された「DCユニヴァース:リバース」、さらには『グリーンランタン:リバース』も合わせた三作を並べてみると、ジェフ・ジョンズという人は、2000年代に入って以降現在に至るまでのヒーローコミックの世界において、最重要なライターとしての地位を完全に確立したように私には思える。
 今回の『ダークサイド・ウォー』にしても、作中に直接メタ的な表現があるわけではないのだが、ここ四十年ほどのアメリカのヒーローコミックの展開をふまえた上で、現在の視点から何がなされるべきなのかが検討されていると私は思う。……そこで、まずは『ダークサイド・ウォー』という作品の内容が具体的にどんなものであるのかを見ていく前に、アメリカン・コミックスの歴史の中でジェフ・ジョンズという人はどのような位置にいるのかを検討することにしたい。


 現在のヒーローコミックにおけるジェフ・ジョンズの決定的な優位は、一言で言えば、「9.11以降のアメコミ界の迷走に完全に決着をつけた」というところにあると思う。
 よく言われているように、80年代末ころのアメコミ界において「グリム&グリッティ」と呼ばれる潮流が生まれて、リアリティ重視ゆえに過激な暴力描写や性描写が反乱するような陰惨な作品が大量に現れた。そんな潮流が大きな勢力を保ちながらも徐々にそれに対する批判・反発・再検討も生まれていったのが90年代の展開であったわけだが……2001年のにニューヨークで同時多発テロが起きるに至って、そんな展開もまた激変することになる。
 現実世界において一般市民がテロの標的となる大惨事を目にしたとき、ヒーローコミックという絵空事の世界の中にいた作り手たちは極度の混乱に襲われた。従来の水準に比べれば「リアリティ」を重視したコミックを制作していたはずであるのにもかかわらず、作り手たちの多くが居住していたニューヨークの大惨事に比べれば、それは児戯に等しいものだったのだ。だからこそ、ヒーローコミックの潮流は大きな変化をとげたわけだが……愛国心を鼓舞する単純なヒーローコミックという動きが現れたのも当然のことではあったが、それがそれほど長続きすることはなかったのもまた、当然のことであった。
 むしろ、意外に尾を引いて長引いたのが、「真のヒーローとは、地道に人命救助に取り組む市井の平凡な人々の方だ」というテーマであっただろう。現実世界において必死で人助けに勤しむ消防士の姿を直接目にした後で、コミックの中で木から降りられなくなった子猫を助けるスーパーマンの姿を目にしたところで、なんらリアリティを感じることなどできない……。
 そのような感覚自体は、直感的には理解することができる。しかし、ここには、論理的には非常に単純な誤謬がある……とはいえ、実は一種の偏見に過ぎないこの素朴な直感が強い説得力を持ったとき、新たな偏見が生まれることになる。つまり、「真に偉大なヒーローとは、真摯に活動する消防士のような人々である」というのみならず、「スーパーマンがどれほど強力なスーパーパワーを持っていようとも、だからといって偉大であるわけではない」という直感まで生まれるに至ったわけだ。
 スーパーヒーローは、常人にはありえない卓越したスーパーパワーを持っているが、だからといって人格的に優れているわけではない。このことをほとんど強迫的なまでに意識し続けることになった作り手たちは、強力なスーパーヒーローたちの人格的な卑小さを繰り返し描き続けた。ヒーローたちは些細なことで醜い言葉を吐き、他人の揚げ足を取り、互いに異なる立場を取るたびに激しく対立し、内ゲバに明け暮れることになるだろう。
 これは、現在でもなお継続し、ヒーローコミックの多くの作り手たちの内部に強固に根付いていることだ。そして、そんな潮流を生み出したそもそもの偏見にまでさかのぼり、そこにある誤謬を暴き出し、ヒーローコミックのあるべき姿について確信を持って明快な答えにたどり着いたただ一人の人物こそが、ジェフ・ジョンズだったのである。


 ジェフ・ジョンズのたどりついた答えとは、よくよく考えてみれば、あまりにも簡単なことだ。……すなわち、真摯に人命救助に取り組む消防士が偉大であるのならば、真摯に人命救助に取り組むスーパーマンもまた、同様に偉大であるということだ。スーパーパワーを持っていない平凡な常人が偉大な存在になりうる、だからといって、なぜ、スーパーパワーを持つ存在が偉大な存在になれないということになるのか?
 何かのはずみでスーパーパワーを手にした人物がそれだけでは偉大な存在ではないのであれば、平凡な常人が偉大になりうるのと全く同じ条件の元、偉大な存在になりうる瞬間を描けばよいだけのことだ。スーパーマンはスーパーパワーを持っているからといって偉大ではないということは、スーパーマンが偉大になれないということを意味しない。むしろ、スーパーマンがスーパーパワーを失って単なる常人と同じ存在になったときこそ、なぜ彼が偉大な存在になりうるのかをはっきりと描くことができる。……あるいは、スーパーパワーを手にしながらも全くそれを有効活用できず取るに足らない存在と見なされ続けたようなものでさえ、真に偉大な存在に変貌するチャンスは常にあるし、その瞬間を描くこともできる……。
 現在のヒーローコミックにおけるジェフ・ジョンズの覇権は、言われてみればあまりにも単純なこの答えにたどり着いたという、そのただ一点のみにある(そういう意味では、9.11の以前に既に『アストロシティ:コンフェッション』のような作品を書いていたカート・ビュシークなんかは、そもそも悩む必要すらなかったのだと言える)。しかし……ここに、非常に大きなパラドクスがある。「ジェフ・ジョンズの覇権」が確立する、まさにその事実によって、ヒーローコミックというジャンルの内部に居場所を失い、駆逐されてしまうようなものがある――そのことに気づいたのもまた、ジェフ・ジョンズ自身だったのである。そして、『ダークサイド・ウォー』とは、ジェフ・ジョンズ自身によってヒーローコミックから駆逐されつつあったものをヒーローコミックの内部に改めて導入するという、非常にねじれた構図を持つ試みであったのだ。


 スーパーヒーローが手にしたスーパーパワーとは、単なる偶然によってもたらされたものに過ぎず、力の持ち主の人格が優れていることを保証するわけではない――それどころか、力の使い方を誤れば大きな災いをもたらしさえする。……もちろん、ヒーローコミックにこのようなテーマをもたらしたそもそもの源流は、60年代におけるスパイダーマンの登場にある。
 スーパーパワーの存在が人格の保証にならないからこそ、スーパーヒーローをあくまでも一人の凡庸な人間として扱うことができるし、その揺れ動く内面を描写することによってドラマ面での起伏をもたらすことができる。ジェフ・ジョンズは、まさにそのような方向性でのストーリーテリングの技術を完全に自家薬籠中のものとした人物である。……そういう意味では、ドラマの「フラッシュ」なんかは、(予備知識が全くなくとも楽しめるという点でも)「スパイダーマン以降のヒーローコミック」の究極の集大成であると言うことができるだろう。
 しかし……「スパイダーマン以降のヒーローコミック」のストーリーテリングの技術によって高度に完成された作品を読むとき、私としては奇妙な違和感を覚えることがあったのも事実なのだ。例えば、ジェフ・ジョンズが改めてスーパーマンのオリジンを語り直した『スーパーマン:シークレット・オリジン』を読んだとき……カンザスの片田舎で平凡な少年として成長しつつ自分の力の使い方に悩むクラーク・ケントの姿を目にして、それが、「スパイダーマンの登場以降にしかありえない描かれ方でオリジンが描かれるスーパーマン」であるという奇妙に転倒した構図を強烈に感じてしまったのだ。……だが、あらゆるスーパーヒーローの源流であるスーパーマンとは、本当にそのような存在であるのだろうか?
 改めて強調しておかなければならないのは、「スパイダーマン的な価値観」とは、ヒーローコミックのあり方の一つの姿に過ぎないということだ。いやむしろ、60年代にマーヴル・コミックスが躍進を遂げたとき、スパイダーマンは例外に属する側のキャラクターだったはずである。言い換えれば、スパイダーマン的な価値観がジャンルを覆い尽くすということは、スパイダーマン的ではない価値観が排除されるということでもあるわけだ。スパイダーマン以外のほとんど全てのマーヴルのキャラクターの創造に携わりながら、スパイダーマンだけは手がけなかった者……そう、ジャック・カービイこそがその人である。


 念のために書いておくと、カービイ自身はスパイダーマンの基本コンセプトに関わったことを主張しているし初登場号のカヴァー・アートを手がけてもいるのだが、ここではその詳細には立ち入らない(むしろ私としては、「ジャック・カービイが携わらなかったこと」こそがスパイダーマンの本質だと考えてもいる)。
 スパイダーマンの本質が、人間社会の価値観に翻弄される卑小な個人の人間ドラマにあるのならば、カービイの本質は、人間社会の価値観を軽々と超越してしまうところにある。単純な勧善懲悪のストーリーが語られている中に合ってさえ、カービイによるあまりにも卓越したアクション描写は、話の筋などどうでもいいものとして後景に追いやってしまう。人間の価値観を踏み越え、純粋な運動や力の存在感の持つ崇高さだけが周囲を圧倒し始めたとき、例えばそこには、善悪の彼岸にいるギャラクタスのごとき存在が生み出されることになるだろう。
 スパイダーマンは人間ドラマの内部の世界にいるが、ジャック・カービイが生み出すのは神話である。凡庸な世界の中に住む凡人は、自分たちの周囲の世界をよく観察すれば、よくできた人間ドラマを語ることができる――しかし、神話を語ることができるのは、ごく一握りの卓越した詩人だけである。
 70年代に至りマーヴルを去ってDCに移ったカービイは、「フォースワールド」と呼ばれる、その世界全てがカービイ一人によって創造された神話を生み出し始めることになる。ニュージェネシスのハイファーザーとアポコリプスのダークサイド、新しき神々の闘争――もはやそこでは、ヒーローコミックの定型がストーリーの口実として使われることすらなく、カービイに想像力だけが奔放にほとばしる――しかし、高度に練られた人間ドラマが続々と登場しつつもあった当時の状況にあって、「フォースワールド」は、売り上げ面での不振を理由に打ち切られることになった。
 70年代のジャック・カービイとは、時代に取り残された巨人であった。そして、どう転がってもカービイにはなりえない、それどころかカービイを偉大なる先達として尊敬してすらいる、そんな凡人たちこそが、カービイを殺したのだ。
 以上のようなことをふまえてみれば、ジェフ・ジョンズが『ダークサイド・ウォー』でやろうとしていることがなんなのか、見えてくると思う。……すなわち、「スパイダーマン以降のヒーローコミック」の世界を完成させながら、なおかつ同時に、ジャック・カービイを殺さないこと。社会の中で翻弄される卑小な人間たちの世界を描きながら、それと同時に、人間の価値観を踏み越えた神々の世界をも同時に描き出すこと。言い換えれば、人間の世界と神々の世界とが、同時に共存できるものとして調停すること。それらをともに含み込んだものこそがヒーローコミックであるのだから、一つの作品の内部に全てを盛り込むことも可能であるはずなのだ(……こういうことを厳密に検討しようとすると、カービイ以降に別人が手がけた「フォースワールド」もののこととか、それとの兼ね合いでリージョン・オヴ・スーパーヒーローズのことなんかも参照しないといけないんですけどね……。ジェフ・ジョンズにしても、未来世界のヒーローであるリージョンを手がける際には、スーパーマンは「人類史上最高のヒーロー」という神話的側面を打ち出したりもしますし。しかしそのあたりのコミックに関して個人的に未読のものも結構あるので、それはまた、改めて別の機会にということで……)。
 そして、今になって改めて思い起こしてみると、実はジェフ・ジョンズは、「カービイ的なるもの」を手がける準備を少しずつ進めていたようにも思えるのだ。例えば『52』におけるブラックアダムは、単なるヴィランというよりかは、あまりにも巨大すぎる力と激情を抱え込んだゆえに人間社会の価値観に収まりきれない存在として描かれていた。あるいは、『フラッシュポイント』の改変世界におけるアクアマンは激情に支配された残虐な殺戮者と化していたが……その直後、改めて歴史の改変を経たNew 52の世界におけるアクアマンはと言えば、ヒーローでこそあるものの、激情に突き動かされる存在という意味では、『フラッシュポイント』における見かけ上は正反対のアクアマンと本質的な部分では同じであることがはっきりと描かれているのでもあった。
 ……以上のような長い長い経緯を経たその上で、満を持して、遂にジェフ・ジョンズは『ダークサイド・ウォー』を手がけるに至ったのであった。








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コメント

コミックの歴史や変遷、キャラのジャンルにおける位置付けを踏まえてそれらを作中の設定に反映させる手法はグラント・モリソンが有名ですが、ジェフ・ジョーンズも負けず劣らずそういう手法を好みますよね。
例えばインフィニットクライシスでアレックス・ルーサーがマルチバースを改編するにあたって「Everything come from Superman」と言及してますが、これなんてスーパーマンがDC引いてはスーパーヒーロージャンルのアルファにしてオメガである事実を踏まえた話ですし。
ジェフもスナイダーもモリソンも優秀なライターはDCのキャラの歴史や位置付け、神話性というものについて強く着目しているように思います。

howardhoax様、更新お疲れ様です。前々から「ダークサイド・ウォーは本気で書く」とおっしゃていたので非常に楽しみにしていました。
ただ個人的に気になったことがあります。
といのも、

>ヒーローコミックのあるべき姿について確信を持って明快な答えにたどり着いたただ一人の人物こそが、ジェフ・ジョンズだったのである。

個人的にはスコット・スナイダーもそれに当てはまるのではないかと思うのです。というのもゼロイヤー以降のhowardhoax様もおっしゃていた、子供も楽しみ大人も楽しめるストーリーライン。更にフランクミラー以降のハードボイルドでリアルな部分を継承しつつ、エンドゲームでのバットマンの神話(アポロンの鎧)を改めて書き出し、スーパーへヴィでのバットマンのヒーロー性を復権(というよりも強調でしょうか?)したことでたどり着けたと思うのです。
howardhoax様はどうお考えでしょうか?

あと、

>ヒーローたちは些細なことで醜い言葉を吐き、他人の揚げ足を取り、互いに異なる立場を取るたびに激しく対立し、内ゲバに明け暮れることになるだろう。

というのは、まさしくマーヴェルのシヴィルウォー2でのグダグダな展開がこの病の典型例ではないかと日に日に疑いが強くなっていくのであります。(というか個人誌はともかくクロスオーバーでこの病が強く出ている気が……)
そういうのも含めてキャプテンアメリカのエントリも非常に楽しみにしています。

次回のエントリも楽しみにしています!

Re: タイトルなし

> 通り過ぎれなくなったRさん

 まあスコット・スナイダーはヒーローコミックに本格参入したのは割と最近なので、色々と混迷し試行錯誤がなされたあとで全体の状況を見渡すことが出来た人だと思っているので、彼自身は「混迷の中で一つの答えにたどり着いた」という人ではないのではないかと。まあもちろん、他人の試行錯誤を見て「じゃあこうすりゃいい」とすぐに学習できるような賢い人もほとんどいないわけですけどねえ。
 そして、それ以前の問題として、中盤以降くらいのスナイダー版バットマンって、そもそもジェフがかなり関わってるんじゃないかと思うんですよね……今になって振り返ると、「エンドゲーム」とか、そもそも「ダークサイド・ウォー」の内容を最後まで細かく聞いてないと成立しないでしょ~、と。現行のDCユニヴァースの基本方針はジェフ・ジョンズとスコット・スナイダーとトム・キングの三人が細かく打ち合わせをして決めてるらしいので、あの三人は単に別々のライターとしてとらえるよりも、同じ方向性を追求しているチームとしてとらえた方がいいのではないかと思っております。

 「シヴィル・ウォーⅡ」、そんな感じなんですか……僕は完結してからでいいかと思ってたのでまだ読んでおりません。まあ想定内ですけどね……今のマーヴルは商業的にうまくいっちゃってるんで、路線変更は当分ない感じなんですかねえ。

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