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ジョン・スラデック『ロデリック』を読む

 ジョン・スラデックの小説『ロデリック』を、邦訳で読んだ。もともとこの小説に関しては、個人的にかなり以前から読みたかったのだけれども……「原書で読むか……あれ、邦訳の予定あるのか」「あれ、邦訳予定が消えた……」「あれ、やっぱり邦訳されるのか」「また消えた……」ということが延々繰り返されて結局読めない間に何年も過ぎてしまったのだった。……と言っても、結局邦訳されたのは前半の『ロデリック』だけで後半の『ロデリック・アト・ランダム』は邦訳されるのかどうかは未定のようなので、もうこっちは原書で読むことにしようと決断したのでありました。
 さて、『ロデリック』を一読してみてすぐに思ったのが、「なるほどこれはギャディスだ」ということだった。スラデック自身の他の長篇ともかなり異なる書かれ方がされていることから、『ロデリック』がウィリアム・ギャディスの技法を大幅に取り入れて書かれていることは明らかなのであった(ただし、ギャディスよりはかなりマイルドに読みやすく書かれている)。
 それで思ったんだけど……スラデックという人もあまりきちんと日本に翻訳・紹介がなされている作家ではないけれども、これって要するに、「ピンチョンの影響がSFに流れ込むとギブスンになり、ギャディスの影響がSFに流れ込むとスラデックになる」ということなのではないかと。つまり、そもそもギャディスが読まれないようなところではスラデックも読まれることはない……なんてことになってるんじゃないですかねえ。
 少し前、ギャディスに関して日本語で検索していたら、唯一の邦訳である『カーペンターズ・ゴシック』の部数がどれくらいであったのかを推測している人がいたのだけれど……その推測が正しいとすると、衝撃的なまでにすさまじい少部数しか流通してないんですねえ。英文科のある大学図書館がとりあえず蔵書しとくだけでもそんなことにはならんだろ、という水準の部数のようなので、専門のアメリカ文学研究者ですら唯一の邦訳さえチェックしていない(逆に誰もが原書できちんと読み込んでいるわけでもなさそう)ってことなんですかねえ、二十世紀後半の世界の文学全体でも最重要作家の一人なんだけど……。このこと一つをとってもわかるように日本が翻訳大国なんてのは大嘘ですし、「ガイブン好きで~す」とか嬉しそうに言ってみたり、現代文学の善し悪しについてあれこれ論評してみたりするような人々の大部分は、そもそもギャディスの作品に全く触れたことすらないってことなんですよねえ……。


 そういう意味では、ギャディスのことをとりあえずおいといたまま、その影響下に書かれた『ロデリック』について面白いだのつまらないだの言ってみてもしょうがないような気もするけど……まあ、とりあえず、気を取り直して書いてみようかと思う。
 ジョン・スラデックによる長篇小説『ロデリック』が描くのは、ロデリックと名付けられた自己学習型のロボットが人間社会の中に投げ込まれ、数奇な冒険をたどって人間社会のあり方を学んでいく姿だ。……そんな風に要約するといかにもありがちなストーリーに思えてしまうのだが、しかし、ロデリックを取り巻く周囲の人々の描かれ方が破格のものであるゆえに、この作品は極めて特異なスタイルを持つ小説になっている。
 例えば、邦訳にして120ページほどある第一部には、ロデリックは直接的には全く姿を見せない。そこにはただ、ロデリックが開発されることになる経緯の周囲にいる人々の姿だけがある――そして、それらの人々はそれぞれがてんでんばらばらの思惑で行動し、饒舌に言葉を取り交わし、しかし他人の言葉に注意深く耳を傾けることはしないがゆえに勘違いや行き違いや取り違えが横行し、誰もが混乱し、愚かさや浅ましさをさらけ出して、醜く行動し続ける……。
 スラデックの言葉にはいかなる感傷性もなく対象を美化するようなこともないがゆえに、実際の社会で流通しているような混沌とした言語の有様がそのままに写し取られて作中に取り込まれる。……そして、ロデリックが知性を獲得することになるのは、まさにそのような言語的混沌の渦中においてのことであるのだ。


 単なる機械としてのロデリックは自己学習型の自律した知性を獲得する、だからこそ、幼児的な段階から徐々に段階を経て知性を成長させていくことになる。……しかし、『ロデリック』という小説は、奇妙なことに、主人公たるロデリックが登場しない第1部の時点で、むしろ、人間と機械の間の境界の疑わしさを示唆しているのだ。例えばそれは、次のようなレトリックに表れているだろう。


ストーニーは札入れを広げ、テーブルごしに写真を次々に投げてよこした。「どうだい、このかわいこちゃん?」
「お子さんですか?」
「ハッハッハ。いや、おれの飛行機さ! 完璧にリストア済みのカーチス・ホークとロッキード・ライトニングを持ってるんだが、今はこの赤ちゃんにとっかかってるのさ。ベル・エアラコブラだ。一目見ればわかるだろ、この顔。このかわいい前輪が……」(『ロデリック』、柳下毅一郎訳、p15、ルビは省略)



デスクに置かれた電報はフォン博士のこぶしの中でまるまったかたちを取り戻そうとするかのように、まるでそれを受け取ったときの憤慨と困惑をそのまま覚えているかのように、(ミスプリントによって)通信時の混乱を記憶していた。(同、p18)


 『ロデリック』という小説を構成する言語は、地の文の水準においても、人間と機械の間に本質的な差異を認めずその境界を無化する機能を果たしている。――そして、そのことがさらに過激化されるのは、人間が駆使する知性の方が、機械と何ら変わりのないものであることが示唆されるという、反対方向の事態が作中に現れる時点のことだ。
 あるとき、ひょんなことからジプシーの集団に拉致されたロデリックは、しばらくその集団と行動をともにすることになる。その過程で、ロデリックは、ジプシーの老婆が商売として行なっている占いをしこまれることになる――のだが、その実態はと言えば、客の様子など関係なくパターン化された手順に乗っ取って決まりきった答えを告げるものでしかない。そして、ロデリックの占いをおもちゃのロボットの機械仕掛けの芸だと思いこんだ第三者は、ロデリックと次のようなやりとりをすることにもなる。


 クラットは手を引いて安い葉巻を探し、ラップを剥いた。「悪くない、悪くないぞ」アシスタントが火をつけるのを待った。「だがそれほどよくもない。わりと単純だな、要するに表を参照してるだけなんだろう、こいつは? 最初の客には腰痛があるんだろうといい、次の客には足が痛いんだろうと言い、その次には頭痛と――」
「そのくりかえし」とロデリック。「そう、そのとおりなんだ。それから子供のことは、ね、毎回子供は三人生まれるって言うんだ、組み合わせは全部で八とおり……」(同、p200~201)



 子供だましの占いで日銭を稼ぐためにパターン化された手順を繰り返すだけの人間の知性は、ごく単純で原始的な計算機のなすことと何ら変わるところはない。……ならば、ロデリックがその狭間で悩まされ続けているはずの、人間と機械との境界などというものは、いったいどこにあるのか?


 スラデックの『ロデリック』が非常に優れた小説だと言えるのは、人間の知性と機械の知性との根本的な違いを、あくまでも言語の処理の水準で表現しきることに成功しているからだ。
 そもそもコンピュータとは、入力された人工言語を所定のアルゴリズムに則って変換する装置でしかない。その意味では、コンピュータが「間違いを犯す」ことはありえない。コンピュータが間違えたように見えるとき、それはコンピュータ自身の間違いではなく、入力された言語が間違っていたかアルゴリズムに不備があったのかのどちらかを理由に、人間が事前に想定したようには言語が変換されなかったというだけのことに過ぎない。
 そのことをふまえると、スラデックが『ロデリック』の全篇、その膨大にして饒舌な言語の集積を通して、人間の知性の本質として描いたのがなんであったのかが見えてくる――それは、コンピュータが人工言語に接するときとは異なり、人間は自然言語を正確に読み取ることはできない、ということである。
 人間は、言葉を正確に読み取ることができない。大して長くない文章でさえ正確に意味を特定することができず、単純なスペルミスによって単語を取り違え、他人とのやりとりが増えれば増えるほど、勘違いや間違いは雪だるま式に増殖していく。……そして、いかにも人間を人間らしくしているかのように見えていたもの、各個人をして各個人たらしめる個性や特色と見えていたもの、しばしば肯定的だとみなされていた人間社会の価値観とは、膨大な量の自然言語がやり取りされる過程で膨大な量の失敗によって生み出されたノイズでしかない――それこそが、『ロデリック』という小説の根幹を支える認識なのだ(例えば、既に引用したp18において、電報が「記憶」といういかにも人間的な知性を行使していたのは「ミスプリント」によってであるとされていたことを思い出そう)。


 だから、人工知能として生まれながらも人間の知性を学習しなければならないロデリックの境遇は、根本的なパラドクスの内にある。ロデリックに求められているのは、伝達された言語をその通りに受け取るのではなく、読みそこなうことによってノイズを生み出すことができるようになることだ。……言い換えれば、ロデリックは、失敗することに成功しなければならないのだ。
 人間的な知性を発達させるためには、言語を完璧に理解し完璧に伝達するのではなく、程良く間違い、程良く誤解し、適度な個性を獲得しなければならない。しかし、あまりにも過度に間違いすぎることも、ディスコミュニケーションのノイズが生み出した共通の価値観を持つ共同体から排斥されることにつながる。ロデリックは「正しすぎること」と「間違いすぎること」の両極を揺れ動かざるをえないゆえに、一つの共同体の内部に安住することができない。
 例えば、キリスト教の教義について神父から教えを受けるロデリックは、キリストがその身を「犠牲」にするという部分が理解できない。結果として、次のようなやり取りをすることになるだろう。


「さっぱりわかりません、神父様。とくに十字架のとこが。シスター・オラフは犠牲って言ってたけど。だって、チェスではサクリファイスというのはハメ手で――オブライド神父は野球でも同じだって言ってたし――なのになんで全知の神様がハマるんです?」
「ハマる……?」
「だって、神様は誰だって好きなところへやれるんだから、みんなまとめて地獄へ送ることもできるんですよね? だから代わりに息子をサクリファイスしたら、そのあとゲームが有利になってなきゃおかしいですよね? だって、サクリファイスするのはそのおかげで他の連中相手にうまい取引ができて相手をハメられるからですよね? オブライド神父がいつもTシャツでやられてるみたいに――」
「止めろ、止めろ、止めろ! 待て、待ちなさい、待て……」ウォーレン神父は必死に手を押さえ込もうとしているようだった。まるで脳の両半球が戦っているかのように、指は結ばれ絡まった。「よくわかったよ、やることがたくさんある。もっとたくさんある。きみが……きみがそんなふうに考えているなら……『ゲームが有利になるなら』!」
「うん、でも神父様、神様がパラドックスだってどういう意味なんだろう? 息子を釘付けするのが、全世界を地獄でこんがり焼くチャンスを捨てちゃうくらい嬉しかったのはなんでなんですか?」(同、p333~334)



 「犠牲(サクリファイス)」という単語一つとっても、宗教の文脈においてとチェスの文脈においてと野球の文脈においてとではそれぞれ意味が異なる。しかし、その意味の違いとは言語そのものの水準で厳密に定義されたものではなく、社会的文脈によって使い分けるというとりあえずの共通了解が形成されているものでしかない。文脈に通じない者が単に言語の論理だけで事態を解釈しようとするとき、人間の文化の根本的な部分に破壊的な揺さぶりをかけるようなことすら起こりうるわけだ。


 ウィリアム・ギャディスの『JR』を読み、これにロボットが登場しさえすればスラデックになると評したのは殊能将之であった。なるほど確かに、これは的確な評価である。ギャディスの描いた言語的混沌、饒舌な言葉がやり取りされる混乱した会話をそのまま作中に取り込む方法をそのまま引き継いだ上で、その言語的混沌と対比される形で、明晰で混乱の人工言語を基盤にする人工知能を作中に導入したのがスラデックなのである。
 その意味で、「ロボット」とは、スラデックをしてスラデックならではの作品世界を形成させるために、必要不可欠のモティーフであるはずだ。……しかし、である。スラデックが非常に優れた小説家であるといえる、しかし同時に広く読まれることがありえなくもあるのは、自らが獲得した残酷な認識を、自分自身にも平然と適用できてしまうことにあるだろう。「スラデックの個性」なるものがあるとしたら、それは、言葉の読み間違いによってもたらされたノイズでしかありえないわけだ。
 『ロデリック』の作中世界において、そもそもロデリックの起源となるアイディアを生み出したのは、次のような者だったとされている。


「なぜって、そのクズを書き飛ばした奴がいるからだ。そいつははるか昔、四〇年代の、尾羽打ち枯らした三文SF作家だ。くたびれたLCスミスのタイプライターの前に座り、一語一セントでクズ小説を打ち出しているーー安っぽい夢だ、そうだろう? だからそいつはたぶん年に短編を百も書き、それに加えてたぶん長編を六冊、全部食費と家賃を稼ぐために書いた。いや、もちろん割り当て分を満たすだけの独自のアイデアなんてものはありゃしない。女房にたずねて、またぞろ巨大電子頭脳、またぞろ月ロケットを引っぱりださねえばならん。この男、どんなかって、たぶん頭はフケだらけのデブで、毎日、テーブルクロスを敷いたキッチン・テーブルまで身体を引きずっていって、タイプライターに向かい合うのも一苦労だろう。
 そして、そいつがこの世界を作ったんじゃ! そのせいでわしらは忌々しいビニールを着て、代用アイスクリームを食べて、ガラスの塔に住んでそこで働かなきゃならんのだ。あいつがたまたまそういうことを書いてしまったせいでーー想像してみろ! もし哀れなうすのろが、もし万一ある日ガラスでなく真鍮と書いていたら、今頃みんな真鍮の塔に住むことになってたかもしれんのだ。まさしく冗談じゃないか」(同、p458~459、ルビは省略)



 例えば「ガラス」を「真鍮(ブラス)」と取り違えるような類の愚かな間違いが生み出す幻想・妄想の類こそがロボットなどという発想を生み、そんな妄想の集合体こそがSFというジャンルを形作る。……自分自身もまた愚かさを免れていないという酷薄な認識こそがスラデックをしてスラデックたらしめる、しかし、それもまた幻想でしかない。ジョン・スラデックとは、そのようなパラドクスの中に不断に身を置きつつ言葉をかろうじてひねり出した小説家だったのである。






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