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ラファティとジョイスに関するメモ

 R・A・ラファティの長篇小説『地球礁』を邦訳で読んだ。……と言っても、つい先頃文庫化された版で読んだのではなくてですね……もともと「こんな本、文庫化されるどころか、再版がかかることすらなかろう」と考えて単行本で買っておいたまま読まずに放置してあったのですが、まさか文庫化されるとは……。結果として、謎の敗北感に打ちのめされるがままに、放っておいた単行本を読み始めるということになってしまったのでありました……(最近だと、ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムズ』が白水Uブックスに入るらしいということにも衝撃を受けました……)。しかしまああれか、「単行本で購入した者もいたからこそ、文庫化への道も開けたのだ!」と考えておけばいいんですかね……。
 それはともかく、個人的にラファティの長篇を読んだのは久しぶりであったのだけれども、これまで自分が読んできた作品とはかなり異なる印象を受けた。と言っても、『地球礁』が『宇宙舟歌』なんかのラファティの同時期の長篇と特別に異なるというわけではなくて、私自身の方に、アイルランドなりカトリックなりについての認識の変化があったからだ。
 これはなぜかというと、たまたま最近、個人的にジョイスを一から読み直すために、その文化的・思想的・宗教的背景を勉強していたからだ(……まあ、そのきっかけはなぜかというと、アラン・ムーアの大作小説『イェルサレム』に、ジョイスの読み直しが含まれているらしいので、それを読むための予習をしてたからなんですけどね……)。そんな経緯を経て、アイルランドの文脈を頭に入れてから改めてラファティを読んでみると、かなり異なる印象を持つことになったというわけだ。


 ジェイムズ・ジョイスという小説家は、自分が生まれ育ったアイルランドという場所こそを作品化する対象として選んだ、それも、アイルランドを去り外国へ移住した者の外部からの視線で書く――そんなことを続けた人物である。そんなジョイスの書く小説は、アイルランドという土地をその内部から精密に描き出すのと同時に、広くヨーロッパの歴史全体の中でのアイルランドの置かれた位置をも厳格に確定する。内部からの視点と外部からの視点とが同時に共存し、わかちがたく絡み合い、巨大なスケールでもってアイルランドの全体像を浮かび上がらせるに至る。
 ジョイスの作品がそのような性格を持つことになったのには、おそらく、アイルランドにはカトリックが根強く浸透していることが非常に大きな理由になっていると思われる。というのも、近代ヨーロッパの文化全体が、カトリックに反発したプロテスタントによって形成されたものである以上、カトリックの信奉者は周縁に追いやられるほかないからだ。
 言い換えれば、プロテスタントを奉ずる勢力に支配されながらも現地の人間はカトリックを信仰している土地においては、ヨーロッパの近代的価値観が全土を覆い尽くしているわけではない。近代的価値観が社会の基調となり古代的・中世的価値観を抑圧し排除しようとしているにしても、完全に排除しきれるはずもなく常に抵抗は続いている、ゆえに、古代・中世と近代とが入り混じり合い同時に共存してしまう周縁として、アイルランドは存在している。
 だからこそ、そのようなアイルランドの有様を完全に把握しきるためには、単に現在時のことのみならず、ヨーロッパの歴史全体を捕捉しなければならないことにもなる。古代から中世を経て近代に至るヨーロッパの変遷をとらえ、カトリックとそこから派生したプロテスタントとを同時にとらえ、カトリックが駆逐されながらも残存し、それゆえに被抑圧者の側に回らざるをえないアイルランドの立ち位置に焦点を当てる――そしてそれを、ヨーロッパの正統的な価値観の本丸に入り込み、正統を完璧に理解していることを示して見せた上で、正統からは捕捉しきれない限界点として周縁を逆説的に暴き立てるということ、それこそが、ジョイスが成し遂げたことであるわけだ。
 ジョイスが真に怪物的な作家であるのは、以上のようなことを、文学の形式性の側面においても実践しえているからだ。本来ならゲール語が話されていた土地であるはずのアイルランドにありながら英語を用い、その上で近代小説のリアリズムの技法を、それこそヨーロッパの文学史上でも最高クラスの水準で完璧に駆使してみせ――さらにその上でリアリズムの限界点を暴き立て、リアリズムを完璧に破壊するモダニズムを完成させる、だからこそ、ヨーロッパの近代的価値観で捕捉しきれない場所としてのアイルランドを描くにあたって、近代の限界点をあぶりだし、その破れ目から古代や中世の価値観をも召喚してみせる……。
 ごく大ざっぱに言うならば、ジョイスがなしたことは、同時代的に絵画においてピカソやマティスがなしたこととも対応しているのだろう。もともと遠近法とはヨーロッパ近代において発明された局地的な技法であった、だからこそ、時を経るとともに遠近法への批判・再検討が進み、遂には、近代的な遠近法を破壊した上で、遠近法以前の技法を再利用したり全く異なるコンテクストの文化の価値観を取り入れたりする方向が進んだ……と。
 以上のように考えれば、ジョイスと同じくアイルランド系の出自を持ちカトリックでもあるラファティがいかにして小説を書いたのかは、比喩的にならば、ごく簡単に表現することができるだろう。……ラファティは、そもそも遠近法自体を無視して絵を描いているのである。


 近代絵画の前提となる遠近法がヨーロッパという局地的な場所で特定の時代に発達した技法に過ぎず、そこにあるかに見えた普遍性は装われたものでしかなかったのと同じく、近代小説のリアリズムもまた、自明的・普遍的なものではない。
 ある特定の言葉が外界の対象をニュートラルに指示しているという制度・共通了解が成立するためには、認識する主体と認識される外部との区別が前提となるのと同時に、その媒介となる言語が純粋な記号としての機能を担保される必要がある。
 ところが、言葉が純粋に対象を指示する記号としてのみ働くものと見なされるのは、歴史的に見ればむしろ例外的な事態である。近代以前のほとんどの文明においては、言葉、とりわけ詩の言葉は、純粋な記号などではなく、むしろ呪術に近いものなのであった。……それがなぜかと言えば、記号と指示対象・認識主体と外部の世界の明確な区別が自明のものではなかった以上、言葉そのものもまた世界の内部に存在する物であるという意味では他の事物と同等の存在であったからだ。したがって、詩を詠むこととは、世界の一部に干渉し世界の一部を改変することである。つまり、詩を詠むこと自体が呪術そのものなのである。例えば風景を詩に詠むときになされているのは純粋に風景を透明な言葉で描写することなどではなく、詠まれる情景と詠む者の心情とが不可分に一致した出来事であったりするわけだ。
 言葉の純粋な機能を抽出し透明な描写を完成させるのがリアリズムなのだとして、それはたかだかヨーロッパ近代において成立した歴史の浅い制度であるのに過ぎない。そして例えばジョイスであれば、アイルランドを征服した者どもが用いる英語の世界に異人として参入し、完璧にリアリズムを使いこなした上で、その限界点としての破れ目を逆説的に提示してみせた。……一方、ラファティは、最初からリアリズムを単に無視して小説を書くのである。
 そのように考えれば、『地球礁』のような小説における詩の言葉の扱いがどのようなものであるのか了解することもできるだろう。


 簡単な答えがある。すでにそうなっていると想像してやればいい。地球人の子供なら子供っぽいと思うだろうが、プーカ人の子供には空想を現実化する手段がある。バガーハッハ詩を詠んで、成ったも同然とすればいい。(『地球礁』、柳下毅一郎訳、単行本版、p36)


 『地球礁』や、それと同時期に書かれた『宇宙舟歌』に共通しているのは、ラファティの作中においては依然として詩の言葉は現実そのものであるということだ。そしてラファティの場合は、リアリズムに反発したとかリアリズムを改変したとかいうのではなく、リアリズムをその内部で制度として確立した文化が支配的であるという歴史的推移を、単に無視しているのである。
 実際、『地球礁』の主な登場人物であるプーカ人とは、地球に訪れて何となくその内部に紛れ込んで暮らしている宇宙人であるのだという。そして、プーカ人は地球とは全く異なる文化を持ち、その視点によって地球の文明を眺めるため、地球人にとっての自明の事態は常に相対化されることにもなる。


 プーカのドラマは地球人のものとはペースもクライマックスも異なっている。上古典形式では、必ず(結末にほど近いところで)すべての血なまぐさい要素がひとつに積みかさなり、きわめて便利かつ楽しい場面が出来あがる。それは過激かつ法外だ。大げさな茶番劇であり悲劇的かつ喜劇的だプーカの肝臓と臓物と心臓を揺すぶる。そして地球人には、いささか乱暴でやり過ぎのようにも見えるだろう。(同、p224)


 ……だがなぜ、ラファティはここまで「支配的な文化」の文脈を無視して好き勝手に書けるのか。おそらくそれは、ラファティがアイルランド系とはいいながらもアメリカに生まれたアメリカ人であったことが大きな理由の一つであるように思えるのだ。
 アイルランドに生まれヨーロッパの内を遍歴したジョイスにしてみれば、アイルランドを描くのに際してヨーロッパの積み重ねてきたその歴史、きらびやかでありながらも同時に厳格で抑圧的な主流文化を無視することなどできなかったであろう。……しかし、だだっ広い空間がどこまでも広がっているアメリカにおいては、主流の文化など無視し、自分の属する文化を気ままに保存して周囲の干渉を寄せ付けないようなことも、比較的容易であろう。その広大な空間の内部で、それぞれがてんでんばらばらの文化がテキトーにごちゃごちゃと同時に共存するようなこともできうる。
 だからこそ、『地球礁』におけるラファティは、プーカ人の一族の生態を、古の知恵を継承するインディアンの部族やら、いかにも西部劇に出てきそうな保安官の一味やらなどと同時に、現代的なテクノロジーも存在する現代のアメリカにごった煮状にぶち込むようなこともできてしまう。
 そして、そんな作品世界だからこそ、常識的な歴史の進行を無視して、次のような記述をすることも可能になるのだろう。


(大洪水の前、インディアンは世界最速の車を持っていたという言い伝えがある。人類が自動車を再発見したときも、インディアンは他よりもよく自動車のことを覚えており、他の人種よりも自動車の扱い方をよく知っていた)(同、p199)


 ……ラファティの出自にあるアイルランドやカトリックの文脈を確認しつつどのようなことがなされているのかを確認していくと、なぜラファティがいかにも奇妙な小説を書いていたのかということについて、おおよそ以上のような整理をしていくことができるかと思う。
 そして、そんなことを考えていると、個人的にもう少し掘り下げたいのは、ラファティとアメリカン・コミックスの関係なのであった。以前から、ラファティの小説を読んでいるとどうにもアメリカン・コミックスからの影響関係が感じられてしょうがないような部分がいくつもあったのだけれど、以上のようなことをふまえれば、むしろラファティがアメリカのコミックブックに深い興味を寄せていたとしてもなんらおかしくはないように思えるのだ。
 というのも、出自であるアイルランドの文化から切り離されたアメリカ人としてSFを書いたのがラファティであったのならば、同じような経緯で自身のルーツから切り離されたユダヤ人の生み出したものがアメリカのコミックブックであったからだ。ユダヤ文化の残響と、資本主義下で成立する現代的な出版文化とが奇妙に結合した歪な存在としてのコミックブックを、その歪さゆえにラファティが愛したとして不思議はないように思える。
 そういう意味では、ファンダムが形成されマニアックな内輪の共同体が形成されることになった七十年代以降くらいのコミックブックになってくるとラファティの嗜好とは異なってくるのかもしれないように思えるのだが……その一方で、後にアメリカン・コミックスのど真ん中で新たな潮流を生み出したアラン・ムーアとニール・ゲイマンの両名がラファティの深刻な影響下にあることを考えると、やはりこのあたりのことは結構根深く絡み合っているのよねえ。しかしそのあたりのことはまた改めて検討してみたいことでもあるので、また別の機会にということで。




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