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テクストの多義性について――田中千惠子『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想――自然魔術・崇高・ゴシック』を読む

 田中千惠子による『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想――自然魔術・崇高・ゴシック』を読んだ。この研究書は、メアリ・シェリーの手になる『フランケンシュタイン』がその前提としている、極めて複雑に入り組んだ文化的・思想的背景を丹念に解きほぐした、大変な労作である。近代ヨーロッパにおける啓蒙主義とロマン主義の対立を前提とした上で、ロマン主義に流れ込む中世以前の価値観であったり、そのような文脈から現れる崇高の問題であったり……などという膨大にして多様なバックグラウンドを網羅することが目指されており、個人的には「まさにこういう書物が読みたかった」というものになっているのであった。
 というわけで、この書物の内容を具体的に見ていきたいのだが……それ以前の段階での感想として痛感させられたのは、ジャンル・フィクションの読解において何かしら特定のパターン、定型の類を固定させてしまうことがいかに不毛であるか、ということだった。
 例えば、少し前に、たまたま赴いた書店の棚で、『フランケンシュタイン』の歴史的影響をSFの観点から見るという評論を見つけ、手に取ってみた。……のだが、ぱらぱらめくってみたところ、メアリ・シェリーが作中に多数引用したイギリス・ロマン主義の詩を読み進めるのは「かったるい」などと書かれているのを目にして、そっと本を閉じて書棚に戻したのであった……。
 あるいは、こんなこともあった。とある推理小説の巻末に収録されている解説の類を読んでいたら、作者が英文学についてやや細かく専門的な言及をしたような部分について、「読者がそんなこと知るわけない(笑)」というような、嘲笑すべき事柄であるかのように語られているのだった(……というか、それが正しいのだとすると、私なんかは「読者」ではないということになるのだろう。しかし、じゃあ、なんなんですかね……)。
 いずれの場合も、SFなり推理小説なりのジャンル・フィクションにおいて、日本国内では評論家であることになっているような人物による評言である。もちろん、評論家なり批評家なりと研究者とではテクストの読み方も異なってくるわけだが、これはいくらなんでもあまりに落差がありすぎるのではなかろうか(……もちろん、研究者であれば必ず丁寧に実証的な読解を積み上げているというわけでは全くないが……)。
 当たり前の話だが、メアリ・シェリーが『フランケンシュタイン』という小説を執筆した時点では、「SF」なり「ホラー」なりといったジャンルが明確な境界をもって成立しているわけではない。メアリ・シェリー自身は、(既に英国で興隆していたゴシック・ロマンスを参照した上ではあるものの)恐怖をもたらす物語を紡ごうと試み、またイギリスのロマン主義の同時代的な潮流をも参考にしつつ一編の小説を書き上げたのにすぎない。
 「SF」でも「ホラー」でも「探偵小説」でもなんであっても、なんらかの突出した特徴を持ったフィクションが一時代を画した後で、それを模倣する後続者が続いたその結果として、特定の潮流が一つの大きな勢力として形成されてくるわけだ。言い換えれば、あるジャンル・フィクションがそのジャンル内で通用する共通のルールなりコードを持つのは、ある程度の歴史的幅を持つスパンの中で徐々に形成されることに過ぎないということなのだから、ジャンル・フィクションの起源(もしくはそれ以前)に存在する作品が後の時代のジャンル・フィクションのコードに従っていなかったり、その価値判断の基準からするとおかしいことをしていると非難しだすというのは、そもそも本末転倒である。
 例えてみれば、江戸時代の日本人を、現代日本の法律からすると違法になる行動をしているとして非難しているようなものだと思うのだが……しかし実際には、メアリ・シェリーがロマン主義の詩作の問題を内包して小説を書くと「かったるい」とか言い出したり、エドガー・アラン・ポウの探偵小説が現代の基準からして謎解きの提示などがおかしいと言い出したりするような例は、結構わんさかあるわけだ。
 そして、私としてはそれ以上に問題と思えることとして……特定のジャンル・フィクションの内部のコードからしか読解することを認めない、そのコードからはみ出す夾雑物を余分なものとして切り捨てるのならば、多様な領域を横断し複雑な意味を内包するようなタイプの作品の読解は、いつまでたっても遅々として進まないということになる……それこそ、『フランケンシュタイン』という小説の読解・評価が遅れ続けてきたように。


 さて、常日頃からそんなことを考え、ジャンル・フィクションを読解する批評・評論・研究の類にはたいていの場合呆れかえるようなことがほとんどであったので、この『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想』という研究書に投下されたとてつもない労力と、その労力によって押し広げられることになった『フランケンシュタイン』の前提となるバックグラウンドのとてつもない広がりとには、大きく驚かされることになったのであった。
 この書物において田中が論旨の前提とするのは、『フランケンシュタイン』の読解において「エソテリシズム」の問題を押さえておくことの重要性である。近年の欧米において急速にその研究が進展しているというエソテリシズムとは、従来の哲学史・思想史には正統なものとして組み込まれることのなかった、ネオプラトニズムの影響下にあるヘルメス主義、錬金術、カバラ、神智学――などの、しばしばオカルトと見なされてきた魔術的な思考である(近年では、このあたりの潮流の再検討が進んだ結果、例えばルネサンスの時期の思想史的な位置づけなんかにしても、大幅に書き換えられつつあるようだ)。
 近代化するヨーロッパにおいては異端となるしかないエソテリシズムは、近代的な啓蒙主義の合理化・理性化、あるいは科学的精神の発達による数値化・軽量化のごとき潮流に反発するロマン主義に引き継がれ、大きな影響を与えることになった。そして、イギリスのロマン主義を代表するP・B・シェリーやバイロンに囲まれるその渦中においてメアリ・シェリーが執筆することになった『フランケンシュタイン』には、その極めて複雑にして多様なバックグラウンドが大きく反映されることにもなった。
 『フランケンシュタイン』の主人公、生命の秘密を科学的に解明し人造人間を創造するヴィクター・フランケンシュタインは、もちろん、熱心な科学の徒であったがためにその道を選んだ。……しかし、ヴィクターが科学の道を選んだそもそものきっかけとしては、アグリッパやパラケルススなどの中世の書物に熱中したという体験があった。ヴィクターが教えを受けた同時代の科学者たちは、それをくだらない過去の遺物として一顧だにしない者もいれば、一定の評価を与える者もいたことが、『フランケンシュタイン』の作中にははっきりと書き込まれている。
 田中は、ヴィクターの知的遍歴においてエソテリシズムが明確な影響を与えていることを確認した上で、ヴィクター個人の内部に、エソテリシズムへの支持とそれへの反発、中世の魔術と近代の科学、そして啓蒙主義とロマン主義とが、複雑に絡み合いながら共存していることを明らかにしてみせるのである。


 ……というわけで、この『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想』という書物は、『フランケンシュタイン』という小説の思想史的背景を解きほぐすという点では傑出した仕事である……のだが、その一方で、文学作品のテクストを分析するという点に関しては、課題が残るとも言わざるをえないのだ。
 一言で言うならば、この書物は、作品のテクストに反映されているそのバックグラウンドの元の文脈を解明し、その成立の歴史的経緯を明らかにする点で精密な分析がなされている一方で、その分析を前提とした上でそれを作品の方に送り返し、作品を構成するテクストそのものの表層で実際に何が起きているのかを分析する点にかけては弱いように思えるのだ。
 具体的に見てみよう。『フランケンシュタイン』において、生命の本質を科学的に解明し、人工の怪物を創造するに至った時のヴィクターは、その実、テクストにおいては、その発見の具体的内容が書かれてはいない。そのことに関して、「第二章 生命と創造」における田中は、次のように書く。

この発見の詳しい経過と内容は、マリオ・プラーツが指摘するように、メアリー・シェリーは具体的に描いていない。ヴィクターは、「ほとんど超自然的な熱狂に燃え」、「願望の頂点に突然、達し」、「死者とともに葬られたアラビア人のように、かすかにきらめく光、一見役に立ちそうにない一条の光だけに導かれて、生命へと通じる道を発見したのである」。むしろここで語られているのは、繰り返して述べられる「一条の光」にあらわされているように、一種の啓示による知解、神秘主義的な体験であると考えられる。(『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想』、p84)

 近代科学の追求の果てに生命の本質を解明したとされるヴィクター・フランケンシュタインの発見の内容は具体的に描かれておらずその描写は空白のままである、ゆえに田中は、ここにおいて実質的に語られているのは実は近代科学の問題ではなく、「神秘主義」の啓示であるのだとする。……しかし、である。科学的描写が空白であること、また神秘主義体験を想起させる言葉が書き込まれていることだけをもって、作品の該当箇所が示しているのが近代科学「ではなく」神秘主義であるとする解釈を確定することができるだろうか。
 もちろん、できない。だからこそ、田中自身、先の引用部分でも「考えられる」という推測の形でしか記述することができていないわけだ。『フランケンシュタイン』という小説のある部分において、表面的には科学について記述されていながらもその実質を表す描写に欠き、神秘主義を象徴的に想起させる記述が代わりに埋める――ここまでが特定されたとしても、表面上の読解で出てくる近代科学の問題が完全に否定され退けられたことにはならないはずなのである。ところが、田中の記述は、ひとまず推測の形で科学を退け神秘主義の文脈で解釈すると、仮説の段階に過ぎないはずの解釈をそのまま採用した線に沿ってテクストのその他の部分の読解をも進めていくことになる。
 だからこそ、この書物のその他の部分においても、これに類似する記述が出てくることにもなるわけだ。例えば、『フランケンシュタイン』におけるゴシック・ロマンスからの影響を分析する部分では、ヴィクターが地下納骨堂や死体安置所での調査に従事する場面において「テキストの強調は、科学よりも、そのゴシック性に置かれている」(p218)と指摘した上で、次のように述べられる。

この独房は錬金術師の作業部屋を連想させ、また冒涜の雰囲気に満ちている。メアリー・シェリーは、キリスト教の文脈において涜神であるとみなされた行為を、さらにゴシック的な恐怖の情景のなかに描きだそうとした点で、作品が読者に与える衝撃の強さを十分意識していたであろうと推測できる。
 これら三つの忌わしく恐ろしい描写は、G・ラックも指摘するように、ルーカーヌスの叙事詩『内乱――パルサリア』におけるネクロマンシーの場面との共通性を感じさせる。(同、p219)


 科学的調査に従事するための場所が実質的に「錬金術師の作業部屋」を「連想」させるのはあくまでも「推測」であるし、ネクロマンシーとの「共通性」にしても「感じさせる」ものでしかない。テクストが前提とする文脈を念入りに明らかにする作業に大変な労力が割かれているのは確かなのだが、テクストそのものとの比較・分析が「連想」「共通性」の域にとどまっている時点では、いまだテクストの内在的分析にまでは到達しえていないわけだ。


 そして、以上のような分析の不十分さは、実際問題として、田中の論旨において一部混乱をもたらしているようにも思えるのである。田中は、「第三章 科学と魔術」において、ヴィクターがルネサンスの自然哲学に影響を受けているゆえに、近代の産物たる科学に対して複雑な態度を取らざるをえないことに関して、次のように記述しているのだ。

 そこで、このことを念頭に置いて作品を入念に読んでみると、次のことがわかる。つまり、メアリー・シェリーが、ヴィクターの運命を決した「守護霊」としての「自然哲学」について高らかに語りはじめるとき、「自然哲学」の一部門としての錬金術や自然魔術への耽溺を告白するとき、「自然哲学」はアグリッパやパラケルススらのルネサンス期の自然哲学を指している。そしてすでに見たように、このときの「自然哲学」は、ヴィクターの崇高な夢であり、彼を鼓舞して生命創造に向かわせる推進力であった。しかし、インゴルシュタットで自然哲学を学び始めてのち、「現代の」という限定詞をつけた「自然哲学」は、往々にしてヴィクターの嫌悪の対象として示される。そのときの「自然哲学」は科学革命以降の自然哲学を指していると考えられるだろう。つまるところ、ヴィクターは本質的にロマン主義気質をそなえたアグリッパ的自然哲学者であるにもかかわらず、科学革命以降の自然哲学の洗礼を受けて以降、教授に反発を感じながらも近代科学の奔流に呑みこまれ、最終的にみずからの創造の出来映えに打ちのめされ、同時代の自然哲学に対して激しい嫌悪を抱いたのであった。(同、p125~126、ルビは省略)

 ……なるほど、この部分だけを見れば、田中の記述には特に問題がないように見える。……しかし、第二章における田中自身の論旨と照らし合わせてみればどうだろうか。
 ルネサンス的な自然哲学の徒として近代科学に反発するヴィクターが、自らが近代科学に荷担して生み出した人工の生命を嫌悪する、と田中は述べる……しかし、第二章における田中は、ヴィクターによる人工の生命の創造は、近代科学ではなく神秘主義の発現として解釈することを採用していたのではなかったか。
 『フランケンシュタイン』のテクストが、怪物を近代科学の産物ではなく神秘主義の産物として提示しているのであれば、自然哲学の徒としてのヴィクターが怪物を嫌悪する理由は存在しない。……逆に言えば、ヴィクターの科学への嫌悪がそのまま怪物への嫌悪につながっているのであれば、ヴィクターによる生命の秘密の解明から「科学」という契機を排除して解釈してしまうことに問題があったということだ。
 ヴィクターによる生命の秘密の解明は、科学の衣をまといながらも具体的な描写を欠く。しかし、そのことは、「科学ではなく、実は神秘主義を示している」という、単純な解釈によってテクストの意味を確定できることを意味しない。……むしろ、ここで表されているのは、「科学について書かれているにもかかわらず具体的な記述を欠くため、同時に神秘主義の文脈で解釈することも可能になる」という、テクストの多義性なのだ。言い換えれば、神秘主義の文脈をテクストの解釈に持ち込むことは、テクストの表面上の文脈を排除することにはならず、そもそも一義的な意味の確定が不可能なテクストの多義性を明らかにすることであるはずなのだ。


 そして、実のところ、他ならぬ田中自身が、『フランケンシュタイン』という作品にそのような解釈の多義性が内包されることを自ら述べているのである。田中は、この小説の結末部分について、次のように述べる。

典型的なゴシック小説の結末であれば、教訓あるいは謎の解明がなされるが、本作品は、それらが行なわれない点で、ゴシック小説の規範から外れており、むしろ、現代性を喚起する「開かれた」結末となっている。なぜなら、解釈は読者に委ねられているからである。ロラン・バルトは、「省略法を受け入れるやりかたで書くと、書かれることは予測のできない効果を生みだして、エクリチュールの行為そのものを越えてゆくような効果をもつようになる」、「すなわち、書かれたこと自体が生みだした効果によって、書かれたことが越えられる」のであると述べている。メアリー・シェリーが書いた結末は「自己を超越する」効果を生みだしているのである。
 最後にウォルトンの見守るなか、ダイモンは氷と火の世界に向かって跳躍する。ダイモンの跳び去る姿は「無限の自由によって輝き、不確かで可能的な多数の関連に向かって光を放射する態勢を整える」。『フランケンシュタイン』におけるエンディングは、省略法を用いたその結末の崇高なスタイルによる「意味の不在」あるいは「意味からの解放」ともいうことができ、ここにエクリチュールをめぐる現代の問題に通じるものがある。(同、p276)


 ……だが、『フランケンシュタイン』という小説において、「省略法」が用いられ「意味の不在」や「意味からの解放」が実現され、「エクリチュールをめぐる現代の問題」が開示されたのは、その結末部分においてだけだったのだろうか。
 そうではあるまい。科学による生命の秘密の解明が宣言されながらもその具体的記述を欠き、神秘主義の文脈でも解釈できてしまうようなテクストが書かれたとき、やはりそこにも「省略法」は存在していたのだ。『フランケンシュタイン』は結末部分においてだけ多義性が開示しているのではなく、作品全体のそこかしこにそのような部分をはらむ……まさにそのことこそが、極めて複雑にして読解困難なテクストを形成しているはずなのだ。結果として、ある特定の部分の解釈を「AではなくB」と一義的に確定してしまったことにより、作品の全体に渡って詳細な解釈を試みた田中の論旨においては相互に矛盾する内容もまた出てきてしまったのだと思われる。
 そして、そのようなテクストの一義性と多義性の対立自体が、広くヨーロッパのエソテリシズムを巡る歴史的な状況においても、一つの重要な問題であるようにも思えるのだ。……例えば、田中は、メアリ・シェリーが『フランケンシュタイン』のテクストを改訂した一八三一年版において書き加えた一節について、次のように述べている。

一八一八年版にはなく、一八三一年版で加筆されたこの節は、メアリー・シェリーが、アイロニカルな語り口調でアグリッパの著作について語っていることが窺い知れる。なぜなら、科学革命によって「論破されてしまった」アグリッパの体系『隠秘哲学について』は、じっさい「相矛盾する理論」と「雑多な知識の泥沼」と言いうるほどの、膨大な博物学的知識とさまざまな理論にあふれた書であった。
 アグリッパの『隠秘哲学について』は、魔術大全の書として目論まれたものの、じっさいにはさまざまな権威的意見の集大成となり、統一的秩序を欠き、一貫した理論を見失ってしまっているといえる。しかし、アグリッパがみずからに課した仕事は、理性を行使して新しい学を構築することにあるのではなかった。かつて魔術は高度な叡智であり、彼の仕事は、そうした古の学の原初的純正さを復元することにあり、秘匿された叡智の源泉のなぞを解明するのに、新プラトン主義やカバラ主義の神話などを借用したのである。
 したがって『隠秘哲学について』は、メアリー・シェリーがほのめかすごとく、大プリニウス、オウィディウス、ウェルギリウス、アプレイウスなどのギリシア・ローマの古典や、ヘルメス文書、フィチーノ、中世ユダヤ・カバラ、ロイヒリン、ピコなどの神秘主義的な文献の引用や暗示、博物誌的知識に満ちた膨大な魔術体系の書なのであった。(同、p111)


 エソテリシズムの流れの内にあるテクストは、「相矛盾する理論」と「雑多な知識の泥沼」と評されるようなものであり、「統一的秩序を欠き、一貫した理論を見失ってしまっている」ようなものである……だからこそ、精密に理論化・体系化され議論の意味が一義的に確定された近代科学によってそのあいまいな部分が論破され、駆逐されることにもなった。
 そのような視点を持つならば、言葉の一義性と多義性の相克という事態そのものこそ、エソテリシズムを巡る軋轢がテクストの表層において引き起こす出来事であるのではなかろうか?
 これは、あくまでも印象の域を出るものではないのだが――『フランケンシュタイン』というテクストの多義性は、まさにそれ自身がアグリッパのテクストの多義性をなぞるものであるのではないか。ただし『フランケンシュタイン』の場合、近代科学を排除してそれ以前に存在したルネサンス的な自然哲学に遡行するのではなく、あくまでも近代科学のあり方を前提とした上で、その背後の歴史的文脈をも考慮に入れると依然としてそこに存在しているものとしてのエソテリシズムをも上書きしたのではないか。近代科学とエソテリシズムの両者を同時に一つのテクストの内に書き込むことによって、近代科学はエソテリシズムから生まれざるをえないものであったのだし、また近代科学が覇権を握った後でさえも完全に駆逐しきることはできず同時に存在してしまっている、そんな多義性を内包する異様な作品が生まれえたのではないか。
 ヴィクター・フランケンシュタインという個人の人格には、単にエソテリシズムが反映しているのでもなければ、単に近代科学が反映しているのでもなければ、単にロマン主義が反映しているのでもない。それら全てが複雑に絡み合い相互に影響を与えあうことによって初めて、ヴィクターの人格が存在している。そのようなことを表現しうるものこそが小説の小説性なのであり、そのような多義性を解きほぐしその内に分け入ることこそが、小説を読解するということなのである。





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