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小説における「会話」の問題について

 昨年末に書いたエントリで、由良君美の『メタフィクションと脱構築』を読みつつ、そこでメタフィクションの観点からすると共通点を持つ『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』にも、根本的に異なる部分があると書いたのだった(……と、いうような話を受けてその続きとなるのがこのエントリであるのだが、前回書いたことをそのまま引き継いでいるような部分はあまりないので、実質的には独立したエントリになっている)。
 さて、ともに高度なメタフィクションである『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』は、いざ一読してみれば小説としての性質はまるで異なる……では、いったい何が異なるというのだろうか。
 私の考えでは、両作において決定的に異なるのは、作中における「会話」のあり方である。一言で言えば、『ドン・キホーテ』という小説は、異なる価値観・異なる世界観を持つ人々が長大な会話を繰り広げ互いの立場を時に争わせ時にすりあわせる、その長大なプロセスこそが作品の大部分を占めている。一方で、『トリストラム・シャンディ』においては、そのような意味での「会話」は作中に存在していない。
 とはいえ、もちろん、『トリストラム・シャンディ』という小説が会話を含まないというわけではない。登場人物は確かに会話する、しかしそれは、本質的に単一の独白が分岐し変奏されて複雑化されたものにすぎない。……『トリストラム・シャンディ』という小説の話者とされているトリストラム・シャンディは、自叙伝の筆者という名目で、読者に向かって途方もなく饒舌な語りを展開する。そして、その語りの中に現れる登場人物の中でも特に多くの分量を占めるのは、トリストラムの近親者たちであり、言ってみれば、トリストラムの分身ばかりなのである。つまり、トリストラムという奇妙な語り手が異なる価値観の持ち主との間で会話をするのではなく、無数のトリストラムの分身たちが一つの語りを分裂させる、そのような意味で入り組み多重化された語りこそが作品を形成しているのである。
 ……以上のように、『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』の両作における「会話」の機能および意味は、それぞれが全く異なるものとなっている。にもかかわらず、なぜ由良君美はこの両者を「メタフィクション」という観点のみから見て、その共通性にしか言及しなかったのだろうか?


 哲学史の教科書・概説書の類を読んでいると、しばしば見かける決まり文句がある。それは例えば、プラトンの対話篇やニーチェの『ツァラトゥストラ』に関して述べられるもので、「この書物は哲学史上において重要であるのみならず、文学的価値をも備える」というものだ。
 なるほど、そのような決まり文句自体には、特におかしいこともないように思える――プラトンやニーチェのその種の著作に文学的価値が認められるのは、これらの書物の大部分が会話によって占められているからであろう。そして、既に述べたセルバンテスの『ドン・キホーテ』、さらにはマーク・トゥウェインの『ハックルベリ・フィン』やドストエフスキーの五大長篇などについても、そこで展開されている長大な会話を読み進めることの面白さこそが、文学史上においてそれらの作品が確固たる地位を築いていることの大きな理由になっているだろう。
 しかし、ならばなぜ「会話」には文学的価値があるのか、そして、いかにして「会話」の価値の善し悪しを判定できるのか……というと、そもそもその分析を可能にするような装置は、既存の文学理論には存在していないのである。
 小説における「会話」には確かに文学的価値があると言わざるをえない、しかし、ではどのような場合にどのような価値があるのかを理論的な分析の俎上に乗せ、精密に分析することはできない――というのが、既存の文学研究の現状であるということになってしまうだろう。……だからこそ、『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』をメタフィクションの観点から見たときにその共通性を強調した由良君美が、両者の根本的な相違には言及することさえないようなことも起きたと私は思うのだ。


 二十世紀に発展した文学理論の主たる方向性は、文学作品を「作者」から「読者」へと伝達される媒介としてとらえた上で、そこに生じる単線的なコミュニケーションの内実を精密に理論化するものであったのだと言える(……もちろん、より正確に言うならば、作品にとって外部の存在である現実の「作者」を素朴に措定することを否定したり、「作者」ではなく「話者」の機能にこそ着目したり、「話者」の範疇に収まらない審級の分析を可能にするために「内包された作者」の概念が提出されたり――というような様々な立場があったわけだが、いずれの場合も、作品を発する側と受容する側の間に成立する単線的なコミュニケーションが前提されていることについては共通している)。
 しかし、小説として書かれたどんなタイプの作品を取り上げてみたところで、コミュニケーションは作者と読者の間に単線的にしか存在していないなどということはありえない(……とりあえずこの際、一般論の話をしているので、ベケットの後期作品のような極めて特殊な例外は除外して考える)。作中で登場人物が会話をしている限り、「作者ー読者」の一直線のみならず、複数の方向性を持つ複数のコミュニケーションが成立し、複雑に交錯し、作中に何らかの社会性をもたらしているはずである。……言ってみれば、作品が作者から読者へ向かう一本の巨大な線として垂直に存在しているならば、その線と交錯する水平な線もまた何本も同時に存在しているはずなのである。
 しかし……例えばナラトロジーにおいて典型的に見られるように、従来の文学理論は、文学作品をあくまでも作者から読者への伝達の経路としてのみとらえており、作品の内部において作者とも読者とも直接的な関係のない第三者同士のコミュニケーションが成立していることにはあまり焦点が当たらない。まさにそれこそが、小説における「会話」の価値を判定する理論が構築されないことの理由であるように思える。
 もちろん、これは、文学作品の分析に社会性が欠落しているという意味では全くない。作品が置かれた文脈、作品の外部の社会状況との相関関係の検討は、フェミニズムなりポストコロニアリズムなりの知見の文学研究への流入に伴い、急速に進展することになった。しかし、それは作品が総体として置かれた文脈の分析のための議論である以上、作品そのものの内部における複線的なコミュニケーションの有り様を、ナラトロジーが作品のナラティヴの検討でなしているような精密な水準で可能にするものではない。……言い換えれば、文学研究において、作品が存在する文脈を前提とした検討と、作品そのものの美学的構造を解析する形態面での検討とは乖離しており、作品内部でのコミュニケーションの有様を分析する装置が存在していないのだ。
 とはいえ、以上のような大ざっぱな総括には、あまりにも巨大な例外が存在する。……言うまでもないだろうが、ミハイル・バフチンのポリフォニー論、そこで提起された「ダイアローグ」の概念である。
 バフチンの著作の中でも特に影響力の強いドストエフスキー論は、ドストエフスキーの小説の内部に見られるポリフォニー性を重要な問題として取り上げている。ドストエフスキーの小説においては、作者の考えがそのまま登場人物の言葉に反映されているモノローグではなく、異なる立場の登場人物がそれぞれに首尾一貫した考えの元にそれぞれの言葉をぶつけあうという意味でのダイアローグが展開されている。したがって、ドストエフスキーの小説にはそれぞれに異なる体系が複数共存しており、作者自身の思想の元に一元化されることがない。
 そして、バフチンのそのような「ポリフォニー」の考えは、そのまま、バフチンによる文学のジャンル論と対応しているものでもあるだろう。古典的な意味での詩とは、自律した言葉を磨き上げて組み合わせることによって、独立した単一のシステムを作り上げることを志向するものだ。それは、作品として完璧に近づけば近づくほど、閉じた圏域を構築することになる。……一方、小説とは、社会の中に流通する様々なあり方をする言葉を寄せ集めてできるものであるゆえに、そもそも閉じたシステムを構築すること自体が不可能である。
 そういう意味では、バフチンが論じている「小説」の問題は、そもそもナラトロジーの問題系とは、見据えている水準そのものが異なる地点にあるのだ。バフチンは、「作者-作品-読者」の閉じた単一システムが形成不可能なジャンルとしてこそ「小説」をとらえている――一方で、ナラトロジーにおけるたいていの論者は、近代小説が成立したそのあとの時点において、その内部における小説の機能を分析することにしか興味がないように見える。例えば、ここなんかを読んでいても、バフチンのダイアローグ性に関する議論は、ナラトロジーの体系とはうまく整合性が取れないことが、ごくあっさりと書かれてしまってているのであった……。こういう部分で理論の接合がうまくいかないのは、バフチンが見据えているスパンよりも遙かに狭い範囲内のことにしかナラトロジーが目を向けていないということでしかないだろう(……とはいえ、私自身はこのあたりのことについて最新の研究を細かく追っているというわけでもないので、既にそのような議論がなされているというのであれば申し訳ないが)。
 もともと、二十世紀の文学理論における形式化・体系化の志向は、ニュー・クリティシズムによる詩の分析によって先鞭がつけられたものなのであった。おおざっぱに言えば、そのような志向が小説の分析にも伝播することによってナラトロジーなどが成立することにもなったわけだが……しかし、これまで述べてきたようなことをふまえれば、実は文学理論における小説の分析は、詩の分析の影響下からいまだ完全に脱しきってはいないようにすら思える。
 一つの作品が単一の完全なシステムを構築しているのではなく、無数の社会的なネットワークが交わりあい混淆しあう結節点としてあるもの、そのようなジャンルとしてバフチンは小説をとらえる。……そして、まさにこのようなバフチンの姿勢が既存の文学理論のあり方から逸脱し、そこにある齟齬は統合されないままに残されているということにこそ、問題がある。というのも、バフチンはモノローグとは異なるダイアローグの概念を基盤に据えて「小説」のあり方を検討したのだが、それはあくまでも大まかな見取りを提示したものにすぎず、個別の作品に即した各論を細かく展開したわけではなかった。その結果として、バフチンの偉大さが賞賛され称えられ続けているにもかかわらず、その議論を継承しより精密に理論化するようなことは、特になされていないのである。
 例えばドストエフスキー論におけるバフチンは、従来の小説におけるモノローグとは異なるダイアローグは、ドストエフスキーの小説家としてのキャリアを通じて一貫して見られるものだという。もちろんこれは、バフチン独自のドストエフスキー観を確立するために、いくら強調しても強調しすぎるということはなかったのだろう。……しかしこれは、逆に言えば、おしなべてダイアローグ性を有するとされたドストエフスキーの諸作の中で、ダイアローグ性という観点で見た際の質の高低をどのように決定するのかという基準が全く提示されていないということでもある。
 つまりバフチンは、小説の本質を検討する限り、作中の会話においてダイアローグはモノローグより優れていることを明確な形で提示したのだが……これは同時に、価値判断の基準として単純な二分法以上のものではなかったということでもあるのだ。
 『バフチン以後』におけるデヴィッド・ロッジは、このことをはっきりと指摘している。小説の価値を判断するのに「会話」の問題に焦点を当てたバフチンの仕事は重要である、しかし、バフチン自身は小説の「会話」の具体的な分析を綿密に展開したわけでもなかった――そのことを前提とした上で、ロッジは、小説の「会話」の具体的な批評的検討を実践してみせる。
 しかし、ここにもまた問題がある。なるほど、ロッジによる「会話」の分析は、そこで取り上げる作品のていねいな精読に基づいており、なかなかに高度な批評的達成である――しかし、それは自身がそれなりに優秀な実作者でもあるロッジの言わば個人技によって可能になる読解にとどまってもいるのだ。言い換えれば、それはあくまでも個々の作品の場面場面に即した読解なのであって、小説全般における「会話」の価値を判定しうるような理論化は望むべくもないようなものにとどまってもいるのだ。


 ミハイル・バフチンのポリフォニー論は、単一システムの内部にとどまる文学理論にとっての外部を提示した。しかし、バフチン自身は示すのにとどまった外部が具体的にどのようなものであるのかを探索することは引き継がれておらず、未踏の地はそのままに残されてしまっているように思える。……そこで、補助線を引く意味で、バフチンの議論とアナロジーが成立するように思える、他の領域での議論をいくつか参照してみたい。
 例えば、ウィトゲンシュタインのキャリアにおいて言語がどのように使用されていたかを見てみると、そこには、バフチンが意識していたのと同様の問題があるように思える。……よく知られているように、初期のウィトゲンシュタインは、言語によって語りうるものと語りえないものとを峻別し、哲学上の問題は「語りうるもの」についての議論に絞り込んだ上で、厳密に定義された言語による体系として『論理哲学論考』を執筆した。この体系に含まれていないことはそもそも本質的に「語りえないもの」である以上、哲学の問題はこれで全て終わったのだと称したウィトゲンシュタインは、学会から身を退けた。……しかし、のちに「哲学は終わってなどいなかった」と考えを変えたウィトゲンシュタインは、改めて哲学に復帰すると、言語が交換される際に生じるコミュニケーションの問題、「言語ゲーム」と呼ばれる問題に取り組み、『哲学探究』などの著作を残すことになったのだった。
 そのような意味で、初期のウィトゲンシュタインと後期のウィトゲンシュタインは、全く異なる質の言葉を用いて著作を書いている。そして、ここにバフチン的な見方を導入するのであれば、『論理哲学論考』は「詩の言葉」で書かれており、『哲学探究』などは「小説の言葉」で書かれている――と、言うことができると思うのだ。
 ある言葉の意味を厳密に定義づけた上で、その言葉を素材として単一の閉じた体系を完成させる。そのような言葉の使用は、バフチンが古典的な詩が目指すものとして提示したものと等しい。……しかし、ここで興味深いのは、ウィトゲンシュタインが、厳密に定義づけられた言葉による体系の完全性を目指しながらも、それが原理的に完成しえないことを明らかにしている点にある。言葉によって全てが語りうるわけではない、ゆえに、「語りえないものについては沈黙しなければならない」。
 バフチンの議論においては、「詩の言葉」と「小説の言葉」は、単純に、異なるジャンルにおいて異なる性質を持つものと見なされている。一方、ウィトゲンシュタインにとっては、それは単に別の問題として並列できるようなものではなかった。言葉によって作品を構築するという点に注目し、ウィトゲンシュタインが哲学者ではなく文学者であるとしたならば――彼は、完全な言語による完全な詩を構築しようとした果てにその限界に突き当たり、複数のコミュニケーションの結節点としての言語を取り上げるという意味での小説家へと転向した……そんな存在であるのだ。
 バフチンにおいては単に異なるジャンルのことであった「詩の言葉」と「小説の言葉」の差異は、ウィトゲンシュタインにおいては、自身の思考を構成する言葉を練り上げる過程で必然的に横断しなければならない、連続的な問題としてとらえられていたはずだ。
 そして、以上のような問題意識は、ウィトゲンシュタインと比較的近い時期に、まさに小説においても展開されていたのだと私は考える。それこそが、探偵小説におけるエラリー・クイーンの仕事に他ならないのだ。


 小説の内部にジャンル・フィクションがあまたある中でも、ナラトロジーの問題系がほとんど剥き出しの形で作中に現れるような領域は、探偵小説を措いて他にないだろう。それはもちろん、作品を「作者-読者」の単一のコミュニケーションとしてとらえるナラトロジーの論理と、作品の本質そのものが「犯人ー探偵」の間での単一のコミュニケーションとして成立する探偵小説との間に、明確なアナロジーが成立しているからだ。……さらに言えば、例えばアガアサ・クリスティのいくつかの作品に見られるように、「犯人-探偵」の間で展開されるトリックが、ナラトロジーで問題となるような語りの構造そのものの水準で成立することによって、問題自体が同一水準で一致するような場合すら存在する。
 そのような意味では、ジャンル・フィクションとしての特徴によって登場人物のパターンが類型化されているぶん、作品を構成する論理が剥き出しになっているわけだが、そんな中でエラリー・クイーンが取り組んだ問題にウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と類似するようなことすらあることを私が知ったのは、法月綸太郎によるエラリー・クイーン論を読んだからだった。……「初期クイーン論」「一九三二年の傑作群をめぐって」などの評論の中で、法月は、エラリー・クイーンの初期の作家活動に見られる特異な特徴と、そこからの明確な変化が見られる後期の活動との差異を論じている。法月によれば、クイーンの初期の作家活動とは、探偵小説の内部で展開される論理の厳密性をつきつめ、その形式化をなすことにあったのだという。
 通常の小説における「作者-作品-読者」の関係が、探偵小説における「犯人-死体-探偵」の関係と類比されているわけだが、法月によれば、初期のクイーンはこの「犯人-死体-探偵」という回路のコミュニケーションを、それまでの探偵小説の水準をはるかに越える形で形式化し、厳密なものにしたのだという。
 そして、探偵小説を構築する上での厳密な形式化こそが、探偵小説の論理の限界点を逆説的な形で暴き立ててしまうことにもなる。例えば、クイーンの初期の「国名シリーズ」の一作である『ギリシア棺の謎』に、形式化しえない限界点、その破れ目が表れている。『ギリシア棺の謎』において、「犯人-探偵」の回路に、メタ化する作用が導入されている――探偵である(作中人物としての)エラリー・クイーンは、手に入れた証拠を元に、そこからの推理によって必然的にたどりつく事件の真相を解読する。しかし、犯人が名指されたそのあとになって、実はクイーンが手に入れた証拠そのものが、真犯人によって捏造された偽の証拠であったことが明らかになるのだ。
 推理によって真相にたどり着くためには、殺人事件の結果として存在することになった死体の周囲にある証拠を手がかりにしなければならない。しかし、その証拠そのものが偽の証拠であり、真犯人とは異なる者を犯人として示すために捏造されたものであるのならば、探偵が真相にたどり着く道筋は存在しないことになる。真犯人は、探偵が手にしている「証拠」と同一の水準にはおらず、メタ的な立場を確保している。
 そして、このような「真犯人」による「偽の証拠」の提示は、原理的には無限に上昇することが可能である。「偽の証拠」を廃棄して手にした新たな証拠が、やはり「偽の証拠」であり、「真犯人」はそのさらに上の階層に存在している可能性は、常に否定できない。
 だからこそ、エラリー・クイーンの初期の作品においては、「読者への挑戦状」の存在は作品として成立するために必要不可欠だったのだと、法月は指摘する。作品を読み進め、真相が明かされる直前の「読者への挑戦状」の部分にまでたどり着いた読者に対して、作中で読者が既に読み進めた部分の中だけに、真相を解読するのに必要十分なだけの証拠が既に出尽くしていることを保証する――逆に言えば、既に登場した証拠が「偽の証拠」へと反転するような機会がそれ以上存在しないことが確定されるからこそ、読者のみならず探偵も、論理的に「犯人」を特定することが可能になる。
 つまり、作品に対して超越的な立場にある「作者」としてのエラリー・クイーンが作品世界に介入し、形式化された推理ゲームが展開される論理空間の境界を「読者への挑戦状」によって確定するからこそ、論理的に筋が通った推理が可能になる。そして、作品の内部が厳密な論理によって形式化されているからこそ、「作者」による介入、境界の設定それ自体は、恣意的なものであることを否定できないということにもなる。
 ……以上のような形で、探偵小説の論理空間の厳密化の果てにその限界地点までをも逆説的に明らかにしてしまったのがエラリー・クイーンの初期作品なのであり、後期の作家活動は、必然的にここから移動したものになる――というのが、法月の立論だ。そして、エラリー・クイーンの変容は、例えば、『Yの悲劇』と『災厄の町』の比較を通して明らかにされることになる。
 『Yの悲劇』と『災厄の町』という、それぞれが異なる時期に書かれた別々の作品は、その実、作品を構成する要素にまで分解してみれば、ほとんど同じパーツが組み合わされることによって成立しているのだと、法月は言う。……そして、『ギリシア棺の謎』と同時期に書かれた『Yの悲劇』ではやはり探偵小説の形式化の問題が展開されており、「犯人」の水準のメタ化が扱われている(ついでに付言すると、ナラトロジーとのアナロジーで考えるならば、『Yの悲劇』における「犯人」の位相は、「作者」と「話者」の二重性と考えることもできるのが興味深い)。その一方、『災厄の町』においては、そのようなメタ化の契機はなく、一読した限りでは『Yの悲劇』と全く異なる印象を読者に与えることになる。
 法月の説明によれば、プロットにおいて同じ要素を垂直に配置したのが『Yの悲劇』であり、水平に配置したのが『災厄の町』であるのだという。『Yの悲劇』と同じ要素を持ちながらもそのパーツはあくまでも水平に組み上げられているゆえに、作中におけるコミュニケーションは横にずれ、支配関係が存在せず、結果として作品そのものを俯瞰する超越的な視点が作中の水準に現れてメタ化が起きるようなこともない、と。
 なるほど、実際に『Yの悲劇』と『災厄の町』の両作をそのような観点から比較して読み比べてみる限り、法月の説明は確かに筋の通ったものである。しかし、法月の議論の中心が、あくまでもエラリー・クイーンの初期作品の特異性を分析することにあり、その限界が示されたあとでのクイーンの必然的な変容を示すために引かれたのが『災厄の町』である以上、当の『災厄の町』の内容が詳細に分析されているわけではないのである。
 法月は、『災厄の町』を評して「探偵小説をシステムの全体性という呪縛から解放し、微視的なコミュニケーションの一回性に向かって新たに開いていく回路の可能性が密かに示されている」と述べる。そのこと自体は、もっともなことだと思う――しかし、ではここで言う「微視的なコミュニケーション」とはいったいなんなのか。そして、垂直の構造を水平に組み直すことによってメタ化を解消するとは、作品の内実に照らし合わせてみれば、いったいいかなる事態のことを指し示しているのか。
 ミハイル・バフチンによるポリフォニー論は、ナラトロジーの分析装置の閉域の外部を指し示したが、そこで示された外部の内実が詳細に示されたわけではなく、未踏の地が残されたままであると、私は既に書いた。そのような問題のアナロジーとしてエラリー・クイーンの探偵小説を分析する法月綸太郎の議論を参照したわけだが、話はふたたび振り出しに戻った、かに見える。


 ジャンル・フィクションとしての探偵小説の専門家としてではない視点でエラリー・クイーンを読む論者が、ジャンル内の問題にこだわった国名シリーズやドルリー・レーンものよりも『災厄の町』のような後期作品を「小説として」より高く評価しているのを、いくつか目にしたことがある。
 そのこと自体はもっともであるし、私自身もそう思う。……しかし、既存の文学理論によって分析可能なのはむしろ国名シリーズのような作品なのであり、「文学的価値がある」はずのプラトンの対話篇やニーチェの『ツァラトゥストラ』を評価するための枠組みがないのと同じく、『災厄の町』の「小説として」の価値を判定しうるような装置は実は存在しないのだ。『災厄の町』の問題は、ナラトロジーの問題圏の外部にある。
 ……以上のようなことを考えていた私が、この問題に別の角度から検討することが可能であることを気づいたのは、ある批評家が全く異なる文脈でしていた議論がこの問題に接続可能であることに思い当たったときのことだった。
 既にだいぶ以前のことであるが、批評家の鎌田哲哉が「早稲田文学」に連載していた「進行中の批評」に、その議論はあった。絓秀実の批評に頻出する同型の問題に分析を加え批判的に論評していた鎌田は、絓の盲点になっているのが小林秀雄と坂口安吾の姿勢の違いであるとした上で、次のように書いている。


たとえば、坂口はクリスティや横溝正史を評価し、や笠井潔とは逆に、ヴァン・ダインや小栗虫太郎を馬鹿にしていた。たぶんこの理由は、彼が法的「議論」(平井宜雄『法律学基礎論覚書』)の性質を理解していた例外的な文学者であった事実と切り離せない。(「早稲田文学」2001年7月号所収「進行中の批評③」、p71)


 坂口は「証拠」が万能だと言ってはいない。たとえば、彼自身がその古代史分析で証拠として提出する、日本書紀の「テンカン的でヒステリイ的」な「文章の調子」(坂口「飛鳥の幻」)が、当時の歴史学者に即座に承認されたとは思えない。証拠が「証拠」になるにはある前提=決意の共有が不可欠であり、「証拠」の闘争とみえるものはしばしば通約不可能な諸決意の闘争と抵抗の過程である。だが、だとしても諸決意の通約不可能性と限界自体を我々は依然討論において示しうる。「争う」必要はないが、「争いうる」必要がある、と坂口が書くのはそのためだ。この感覚は、警察/探偵という分割が陥っている盲点を明確にする。小栗虫太郎や秀実の発想には、「法廷」=「議論」の介在する余地が全くないのだ。(同、p71~72)


 おそらく鎌田自身は全く意識していないことであろうが、このあまりにも大ざっぱに過ぎ身も蓋もない探偵小説の類型の二分類は、他ならぬエラリー・クイーンには適用できない。ヴァン・ダインの決定的な影響下に作家活動を開始して探偵小説の形式を発展させ、ある時期以降からは作中に「法廷」の場面を大きく取り込むことになる――そんな経歴を持つのが、エラリー・クイーンという探偵小説家であるからだ。
 しかし……逆に、まさにその「法廷」の概念の導入こそが、クイーンの作風の根本的な変化がダイレクトに反映している結果だとしたら、どうなるだろう?
 初期クイーンを論ずる法月の議論によれば、犯人が残した「証拠」を手がかりに真相を解読しようとする探偵は、犯人が「証拠」の真偽を覆して自身は上位の階層へと移動する、そのメタ化の契機を防ぐことはできない。……しかし、あまりにも身も蓋もないことではあるが、犯人が残した「証拠」を「法廷」での審議にかけ、複数の立場からの複数のコミュニケーションに照らし合わせて検討するならば、その真偽が決定不可能に陥ることなどない。したがって、事件がメタ化することはない(……殊能将之の『黒い仏』のように、犯人が文字通りの意味でメタ的な存在として設定されているのでもない限り……)。
 言い換えれば、探偵が犯人のメタ的立場への逃走を防ぐことができないのは、「犯人-探偵」という単一の回路でのコミュニケーションしか、あらかじめ想定されていないからだ。「証拠」が単一の垂直的回路の内部でのみ検討されるのではなく、水平的コミュニケーションが交錯しあう結節点としてとらえられるならば、事件そのものがメタ化するようなことはありえない。
 しかし、そのとき、「探偵」は事件の全体像をただ一人で描き出す絶対的な超越者のような立場を確保することはできないだろう。複数の立場・複数の視点が複雑に入り組む中で、あくまでも一つの視点から事件に立ち会うというだけのことになる。言い換えれば、もはや「犯人ー探偵」の単一の回路が特権化されるようなこともない。……そして、『災厄の町』において法廷に証人として出廷したときのエラリー・クイーンは、まさにそのような状況に身を任せていたのではなかったか。


 ……法月綸太郎のエラリー・クイーン論を手がかりにしておおよそ以上のようなことを考えていた私は、このような議論をナラトロジーの問題へとスライドさせれば、由良君美が解き忘れて残した宿題であるとも言える「メタフィクション」と「脱構築」との関係性についても、うまく説明ができると思えるようになった(ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のクライマックスで展開されるのがあの長大な法廷闘争であったことを思い起こせば、これは単に無関係な議論を結びつけた類比ではないことも明らかであると思う)。
 事件の中心に置かれた死体の周辺に存在する「証拠」の真偽を自由に反転させることによって、事件そのものをメタ化する――「犯人」にとってそのようなことが可能になるのは、「犯人ー探偵」という単一の回路のコミュニケーションしか想定されていないからだ。これと全く同じように、「作者-読者」という単一の回路しか想定されていないからこそ、「作者」は「作品」をメタ化することができる。
 当たり前のことではあるが、文学作品を構成する素材となる言葉は、本来、何らかの対象を指示する機能と、それ自体が交換されてコミュニケーションの媒体となる機能、その両方を備えている。……しかし、制度として確立した近代小説の内部では、コミュニケーションの機能がいったん剥奪され、言葉が純粋に対象を指示するためだけに機能している、かのような仮構が成立している。
 近代小説の作中で地の文として記述される「描写」は、はっきりと存在している主体同士の間で取り交わされるコミュニケーションではなく、ニュートラルな空間の内部で純粋に対象を指示している、非人称的な言葉である、ことになっている。……しかし、本来ならコミュニケーションの機能を持つはずの言葉がなぜ非人称的に機能しうるのかと言えば、近代小説そのものが、制度として「作者-読者」の単一の回路のコミュニケーションのみを特権化し、それを「自然なもの」として固定しているからだ。
 メタフィクションとは、自らの足場であるフィクションそのものが「自然なもの」ではなく、どのような制度として成立しているのかを俯瞰的な立場から自己言及的に提示してみせる技法のことだ。……言い換えれば、当たり前のことであるが、そもそもそこに制度としてのフィクションの世界が既に成立し存在していることを前提としなければ俯瞰的な立場を取ることできないということだ。「作者-読者」の回路が揺るがずそこに存在しているからこそ、作者=犯人は容易く自身をメタ的立場に置くことができる。
 そのように考えれば……一見すると、文学作品の意味を俯瞰的立場からずらし変容させるがゆえに類似しているかのように見えた「メタフィクション」と「脱構築」とは、実は全く異なる概念であることがわかる。
 あらゆる文学作品は、言葉を素材として構成されている。そして、言葉は複雑な社会のネットワークの中で交換され続ける結節点として機能しており、必然的に、どれほど単純に見えるものであっても常に多義的な意味のブレをはらむ。……だから、リアリズムに基づく「描写」によってニュートラルに物語を表象した近代小説であろうが、完璧なポエジーを志向して単一の意味の閉域を構築した詩であろうが……いかなる文学作品であれ、「作者の意図」や「既に成立している社会制度によって固定された、作品に接する態度」などのもろもろを無視し、素材としての言葉が本来持っている多義性を常に念頭に置きつつ読み解くのであれば、どのように読みどのように解釈することもできる。
 脱構築とは、そもそも原理的に、あらゆるテクストを対象として実践することが可能なことのである。……そして、犯人が残した「証拠」を「法廷」での審議にかけて多種多様な観点からその真偽を判定しにかかるのと同じく、作者が残した「作品」、それを構成する言語が単一の意味に固定されていることを認めず社会のネットワークに向けて開かれた多義性を解放する「脱構築」を読者=探偵が実践したとき、作者=犯人はメタ的立場に逃げ込むことなどできなくなる。


 念のために付け加えておくが、脱構築は原理的にあらゆるテクストを対象に対して可能であるということは、それがいい加減なものであることを示しているのでは全くない。どのような文学作品であれ、作品そのものの全体が全体として流通するなどということはありえず、その題名であったり要約であったり通説・評価の類の方こそが流通する。……その意味では、前提となる先入観をふまえた上で作品そのものに向かい合いテクストをていねいに読み解くのであれば、具体的なテクストの細部には先入観と合致しない齟齬が発見されることになり、結果として人は多かれ少なかれ脱構築的な姿勢を取らざるをえないという、ただそれだけの話なのである。
 「脱構築」という言葉自体は、よかれあしかれ、何物をも担保しない。「脱構築」が一つの方法として一時的に流通しようとも、それは、体系的に修得しうる方法論として形式化された結果としてひとたび修得すれば自動的に使用者の知的水準を上昇させてくれるような魔術なのではない。逆に、「脱構築」という言葉が一時的に流行しそれに飛びつく人間が次々に現れたというだけの理由で、自分がその内実をろくに知りもしないがままにそれを小馬鹿にできるものだと思いこむような愚か者は、まさに当の自分がズブズブに漬かり込んでいるような類の愚かさを撃ち抜くものこそが脱構築であるということすらわからない、徹頭徹尾間抜けな存在であるということでしかない。
 ポール・ド・マンとは、詩すらをも含めたあらゆるタイプのテクストを、バフチンが言う意味での「小説」として読み解いてみせる――そんな姿勢を貫いた批評家だったのである。


 しかし、そのように考えてみるのであれば、バフチンによる「詩」と「小説」の区分はそもそも妥当なものであったのか、という疑問が出てくることも確かである。……実のところ、他ならぬド・マンがバフチンについて検討した短い論説において、修辞的な文彩の問題と会話の言葉の問題とをバフチンが区別していることに疑義を呈していたのでもある(『理論への抵抗』所収「ダイアローグとダイアローグ性」)。……そして、修辞的な文彩の分析が社会的に流通する言葉の多義性を前提とするのであれば、現在では認知物語論のような展開もある以上、ナラトロジーを閉じた単一システムとして見なした私の前提も検討され直さなければならないのかもしれない。
 いずれにせよ、文学理論が分析するその対象はあまりにも複雑であるゆえに厳密な形式化が発展しきっていないことは確かなのであり、ウィトゲンシュタインやエラリー・クイーンが単純なモデルの内部で形式化の不可能性に逆説的に行き着いたようなところにまで理論化が達していない……ということなのではなかろうか。
 そういう意味では、法月綸太郎によるエラリー・クイーン論をナラトロジーの文脈にアナロジーで接合することによって明らかになることとは――仮に文学理論の形式化がどれほど精密なものにまで発展しようとも、「小説」というジャンルから「会話」という契機を排除することは原理的にできない、ということであるだろう。
 そもそも、完全な閉域として成立している単一の論理空間の構築自体が不可能であるのならば、言語を素材とする構造物である小説においては、形式化しえない残余としての裂け目は、複数の主体間のコミュニケーションを担う「会話」の形で必然的に表象されることになるはずである。
 そして、このことは、「会話」が必ずしもそのままの形で小説の中に書き込まれていなければならないということを意味しない(バフチンがドストエフスキー論において、モノローグの手記という体裁を持つ『地下室の手記』にすらダイアローグ性を読みとっていたことを想起しよう)。むしろ、社会的なコミュニケーションの結節点としての言語が多義性を持ってしまうということにこそ主点がある。
 だから、バフチンによる修辞的な文彩の問題と会話の言葉の問題との区別にド・マンが疑義を呈したことは、実はヨーロッパ精神史の全体像にすら関わってくるような大問題なのではないか……と、私には思えるのだ。
 修辞的な文彩、レトリックの問題は、ヨーロッパにおいては抑圧され取るに足りないものだとされる時期が長かったことである。……だからこそ、言語を分析するに際して形式化・普遍化を押し進める生成文法の問題意識は、文学作品の具体的な細部の読解には全く応用できないように思える(から個人的に全然勉強できていないのだ)が、そういうタイプの議論で取りこぼされる問題へ注意が向いた結果として認知言語学が派生してきたという事実は、私としては非常に興味深い。
 そして、言葉がその最も表層的な部分で担う修辞性をいったん切り捨てて普遍的に適用しうる論理性を追求する傾向、および、そのような潮流全般に対する反発――という問題は、実は、ヨーロッパの歴史において初めて起きたことでもないのだ。というのも、デカルトによって近代哲学の基礎が築かれ、人類全般に共通する普遍的な理性の存在が想定され哲学的な問題が論理的に処理しうるという潮流が成立したとき、それに対して、ルネサンス以降の人文主義を継承するヴィーコによる激しい反発が存在したわけだ。
 つまり、ロジックによる全体化・普遍化を押し進めることと、そこで切り捨てられるレトリックをどう処理するかという問題はヨーロッパに持続的に存在していたわけだが……より広いスパンで見ると、レトリックの問題そのものの内部にも、抑圧されてきた領域があるのである。……というのも、もともと古代のギリシャおよびローマにおいて重要な学問の分野として確かな地位を得ていた「レトリック」とは、日本語に訳す場合、「修辞学」と「弁論術」の二通りの訳語が存在しているのである。言い換えれば、本来「レトリック」とは、「修辞学」と呼ぶしかないような問題と「弁論術」と呼ぶしかないような問題との双方が入り交じって存在していたような分野なのである。そして、レトリックの中でも「弁論術」的な側面は、「修辞学」的な側面よりもさらに徹底的に凋落した。
 そしてそのことは、小説を対象として成立する文学理論においてすら、「会話」の価値を判定する基準がいっさい存在しないままに放置されている――ということにまで尾を引いているのではないかと、現在の私は考えているのだ。どのような「会話」がなされるべきであるのか、またそこでなされる修辞的な要素はどのような基準で価値判断がなされるべきか……という主題は、元々は学問の分野として確固なものとして成立していたのである。
 ただ、そのようなことは、小説における「会話」の問題について検討していて初めて思い当たったことでもあるので、私自身、ギリシャおよびローマの弁論術などは特に重要性を感じることもなく見過ごしてきてしまった分野であるので、そのあたりをきちんと検討するためには、アリストテレスやキケロなんかの弁論術をきちんと一から勉強する必要があるのであった……。
 また、以上のような議論をふまえれば、エラリー・クイーンが探偵小説の内部でやったのとはまた異なるやり方であったのだろうが、『トリストラム・シャンディ』にいてスターンがいかにしてメタフィクションを構築できたのかは、おおよそつかめてきたように思える。……しかし、『ドン・キホーテ』の方はといえば、「会話」を徹底的に作中に書き込むことによって極めて複雑な言語空間を成立させているのにもかかわらず、なおかつ作品全体をメタ化してひっくり返すようなこともしているわけで、そのあたりはどのようにとらえたらいいのか……。改めて、尋常な分析の範疇には収まりきらない、あの小説の怪物性が思い知らされることにもなってしまったのであった。









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