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『ボルヘスの「神曲」講義』を読み返したのだが……

 少し前の『第三の警官』に関するエントリを書くためにベケットの「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」を読み返したのだけれど、その流れで、ついでと言ってはなんだが、『ボルヘスの「神曲」講義』をも読み返してみた。……のだが、これが、ちょっと驚くほどつまらなかったのである。
 もともと私にとってホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家がどのような存在であったのかというと……学生時代にその存在を初めて知ったころには夢中になって読み進めたのだが、時を経るごとに評価が下っていき……最近では、その著作を改めて手に取ることも少なくなっていたのであった。
 もっとも、ボルヘスを知った当初の時点から既に、ボルヘスに対する懐疑がなかったわけではない。……というのも、この人の場合、思想・哲学への言及を読んでいると、恐ろしく保守的な凡庸極まりないことを平気で述べていたりしたからだ。古典的で広く読まれたような哲学書であればあるほど、実に多種多様な読解が展開され、その書物の持つ意味の多様性・豊穣さが明らかにされる。しかしボルヘスという人は、その道の専門家であればもはや誰一人述べないような、古びて黴臭い、しかし専門外の通俗的な常識としては依然として通用してしまっているようなイメージと同様のものを、特に疑問も持たないままに口にしていたように見える。
 要するに、ボルヘスは非常にブッキッシュではあるものの、読解自体に独創性のあるような存在ではなく、単にディレッタントに過ぎないのではないか……という思いがあったのだ。そして、私のそのような疑いは、時を経て再読を重ねるとともに、ボルヘスが文学について論じた評論や、小説の実作の方面にまで広がっていったのだった。
 今回、ベケットの評論を改めて読み返したのだが、その鮮烈な印象は初読の時と比べても劣るところはなく、よくもまあ二十代前半でこんなもん書いたなあ、と感じさせられるものだった。一方、ボルヘスがダンテについて論じている書物は……長年に渡ってダンテを読み込んできたという高名な作家がその中年に至って書き記したとは思えないほど、凡庸で退屈なものであったのだ。


 さて、『ボルヘスの「神曲」講義』は、ボルヘスがダンテの『神曲』について論じた十の評論をまとめて、一つの書物の体裁とした著作である。ボルヘスは、『神曲』を多くの版で読み込んでいくとともに無数の研究や注釈にも目を通したらしく、この著作は、彼が多大な労力を注ぎ込んだ『神曲』の読解の集大成となっているのだろう。
 ダンテによって書かれた『神曲』は、地獄と煉獄と天国を巡っていくその遍歴を書きつづる過程で、三つの世界の構造を堅固な形で描き出すという、緊密な構造を持つ作品である。そしてボルヘスは、この書物の冒頭近くで、『神曲』を次のように評してみせる。


かつてあったもの、現にあるもの、これから存在するもの、過去の歴史、未来の歴史、私が昔持っていた品々、今後持つであろう品々、こういったもの一切が、この静止した迷宮のどこかでわれわれを待ち受けている……。私が空想してみたのは魔法の作品、ひとつの小宇宙でもあるような版画である。ダンテの長詩は、宇宙にまで舞台を広げたこの種の版画なのだ。しかしながら、思うに、彼の詩が無邪気に読めるならば(だが、そのような幸福はわれわれには禁じられている)、われわれが最初に気づくのは宇宙的な広がりではあるまいし、ましてや崇高さとか壮大さではないだろう。(『ボルヘスの「神曲」講義』、竹村文彦訳、p11~12、ルビは省略)


 これは、ボルヘスの読者にとってはいかにもなじみ深いような、華麗な比喩表現で描き出されたイメージであるようにも見える。……しかし一方で、『神曲』という作品の全体像に関してボルヘスが提示してみせるのは、冒頭近くでのこの部分だけのことであるのに過ぎないのだ。引用部に続く議論においては、ただひたすら、部分部分での細部の表現だけが問題とされ検討に付されることになる。
 もちろん、具体的な細部の検討こそが文学作品の読解において最も重要なことではある。しかし、無数の先行研究を逐一参照し、それぞれの解釈の妥当性に評価を与えながら展開されるボルヘス自身の読解には、斬新なものもなければ、『神曲』の見落とされていた価値が発見されるような閃きもない。
 これは、いったいどういうことなのだろうか。


 よくよく考えてみれば、上記の引用部分においてボルヘスが『神曲』に対してなしていたこととは、あくまでも一つのイメージを提示して見せたというだけのことなのであって、論理的な読解・解釈がなされていたわけではなかったことに気づく。
 そして……そこで提示されたイメージ、ボルヘスなりの『神曲』に対するヴィジョンを検討してみれば……そこに存在しているのは、過去・現在・未来の全てを内包した上で、既にいかなる角度からも完全に完成したものとしての「版画」なのであり、「静止した迷宮」とも称される「ひとつの小宇宙」である。言い換えれば、これは既に完成し動くことのない対象であるのだから、解釈によって内容が根本的に変動しかねない、というような意味での不確定性はあらかじめ排除されている……ということでもあるわけだ。
 つまり、そこでは対象となっているのはあくまでも静止した「版画」であるのだから、これを読み解いていく作業とは、既に固定されているものを拡大していくというだけの作業に過ぎず、対象に変容を迫るような読解ではありえないということになる。
 この書物に収録されている「スィーモルグと鷲」という評論は、そのような私の疑念を裏書きする内容を持っている。そこでは、『神曲』の天国篇のとある着想に先行するものとして、ファリード・ウッディーン・アッタールの詩が引かれているのだが、それは、次のような内容が語られるものだ。


 遠方の地の鳥の王スィーモルグが、中国のまん中に一枚の鮮やかな羽を落とす。昔からの秩序に嫌気がさしていた鳥たちは、王を探し出す決心をする。王の名前が、三十羽の鳥を意味することは知っており、どの宮殿がカーフという名の、大地を取り巻く環状の山脈にあることも心得ている。(中略)苦難によって清められた三十羽が、スィーモルグの山に舞い降りる。ついに王の姿を目の当たりにした彼らは、自分たちがスィーモルグであり、スィーモルグとは自分たちの一羽一羽で、また全員でもあることを悟る。スィーモルグのうちに三十羽の鳥がいて、おのおのの鳥にスィーモルグがいる。(プロティノスもまた『エンアネデス』Ⅴ・八・四で、同一性の原理の天国的な広がりを明言している。英知界にあっては、一切があらゆる場所にある。一個の物はどんな物でも、あらゆる物である。太陽はすべての星であり、個々の星はすべての星であり、また個々の星はすべての星で、かつ太陽である)。(同、p100~101)


 巨大な鳥の王の姿を探し求めたところで、それを構成するところの実体は、個々の鳥たちである。つまり、巨大な鳥の王の全体像は、その全体を構成する細部の鳥の姿と一致する。……逆に言えば、個別の要素を把握しさえすれば、それが拡大したものとして、容易にその全体像へと到達しうる。
 以上のようなフィクションが肯定的に語られているのであれば、ボルヘスにとっての『神曲』読解が、ただひたすら細部を拡大することに過ぎないのにも納得がいく。全体と個別とが一致した完璧な構造物にあっては、細部を語りさえすれば、全体を提示したのも同然であるからだ。……逆に言えば、ボルヘスが進める読解作業においては、細部の読みを徹底されることによって新たな解釈が浮上したり、それにともなって作品の全体像が変容されるようなことはそもそも存在しえない、ということになる。完璧な作品とは、既にして過去・現在・未来の全てを含む、「静止した」存在であるからだ。


 そのように考えてみれば、ボルヘスの言葉の端々から、おそろしく保守的な好みがただよってきたことも了解される。ボルヘスが肯定しているような作品像とは、全体として端正に均整がとれ調和が保たれている……という意味での、最も素朴な意味での「美」の感覚に過ぎないからだ。
 単にバランスが保たれているから美しい、などという素朴な美意識は、マニエリスムなりモダニズムなりの展開によって、粉々に叩き潰されたはずである。……そして実のところ、ボルヘスとは、既に否定されたはずの素朴な美意識に依っているような素人趣味を好む存在でしかなかった……というのが実態であると思うのだ。この文章の最初に引用した部分の、最後のあたりをもう一度引用してみよう。


しかしながら、思うに、彼の詩が無邪気に読めるならば(だが、そのような幸福はわれわれには禁じられている)、われわれが最初に気づくのは宇宙的な広がりではあるまいし、ましてや崇高さとか壮大さではないだろう。


 そう、ボルヘスには、「崇高さ」の感覚がわからなかったのだ。これは言い換えれば、「崇高」をその基盤に据えるモダニズムの問題系がまるでわかっていなかったことをも意味する。……ならば、ダンテの読解を、モダニズムにおいて現在進行形で存在している問題系へと直に接続してみせるベケットの豪腕などというものは、ボルヘスには望むべくもなかったのだ。
 だが……ならばなぜ、ボルヘスは、二十世紀における最大の作家の一人とまで目されるに至ったのだろうか?
 私の考えでは、その理由は、ボルヘスが注意深く短篇作家にとどまったことにある。……というのも、全体と個別とが同一のものとしてシームレスにつながってしまうようなボルヘス的な世界においては、長大な作品の細部の描写など、読むに耐えるものになるはずがないからだ。だからボルヘスは、およそ現実には存在しないかのように思える幻想的な世界を想定した上で、そのような世界の全体像を短い作品で描ききり、細部には一切立ち入らない……というやり方で小説を構築した。
 そこで書かれている内容には目も眩むような新規さがあり、なおかつ、その作中世界の奇妙なあり方の全体像が提示された上で、作品はすぐさま終わる。細部の描写が存在せず潔く作品が断ち切られているからこそ、読者は、語られていない部分にも果てしのない奥深さを備える巨大な作品に接したという印象を持つ。……だがその実態はと言えば、細部を「書かない」のではなくて、「書けない」のに過ぎまい。
 そして、短篇小説であるからこそ、作品を構成する文章に何の淀みもなく、ただするすると読みやすいという、ごく通俗的な意味での美文であることも、問題とはされない。二十世紀に至っては、ただ単に素朴に対象を記述するという意味での文章にとどまるような作家は、本来であれば「文学」の範疇に入るわけもないのにもかかわらず、だ。
 つまり……ホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家は、その作品の書かれた内容で読者を幻惑することによって、本来ならあまりにも前時代的に過ぎ、素朴な美意識の範疇から一歩も出ていないはずの素人趣味が、あたかも最先端のものであるかのように信じさせて流通させることに成功したのである。結果として、誰もが高度な達成であると信じている上に、読めば読んだでするすると読みやすく、また作者の大量の読書経験に裏打ちされた衒学趣味も明らかなため、批評家・研究者の類も諸手をあげて飛びつくに至ったわけだ。
 ボルヘスの作品が読みやすいのは、その見かけとは裏腹に、キレイに整ったものは美しい……という素朴で常識的な美意識に基づいているからだ。そして、そのような代物があたかも現代文学として成立するかのような体裁を整えたことによって、常識的な美意識の範疇に収まることなどできない、マニエリスムやモダニズムの問題など存在しないかのような空気を醸成し、そのような空気の内部で作品の制作が可能であるかのように思わせることに成功したわけだ。


 以上のようなことをどうして考えるに至ったのかというと……たまたま私は、最近になって、改めてポストモダン文学のことを考えて直していたからだ。
 「ポストモダン文学」という言葉自体は広く流通しているし、どういうタイプの作品のことを指し示しているのかもおおよそわかる。しかし一方で、ある作品が「ポストモダン文学」であると言える、その厳密な定義は今一つよくわからず、あいまいなままに言葉だけが流通しているように見える。
 もともと、文学・芸術におけるポストモダニズムについてはきちんとした議論もなされていた。モダニズムの問題系が既に成立しなくなったような後期資本主義下の状況において、モダニズムとの緊張関係を保持しつつその後にくるものを探る……というのがポストモダニズムであろう。一方で、後期資本主義下で成立するような、記号が記号だけで自律性を獲得し、幻想的な閉じた世界が形成されうる……もしくは、そのような世界観を可能にしうる消費社会の実態……などといった対象を単純に楽天的に肯定し褒め上げるという意味でのポストモダニズムも存在する。が、そういう安直な意味でのポストモダニズムは、単にダメなものだと、とっくの昔に否定されていたわけだ。
 例えば小説で言えばトマス・ピンチョンの作品に典型的に見られるように、モダニズムとの緊張関係を保持したままで展開されるという意味でのポストモダニズムは、ぐちゃぐちゃと混乱した記述を持ち、すっきりとわかりやすい見取り図を描けるはずもないようなものだ。……逆に言えば、モダニズムの問題系があたかも存在しないかのように(もしくは、既に解決済みのことであるかのように)振る舞うという虚偽のもとに、安易な意味でのポストモダニズムは成立する。
 そういう意味では、これはとっくの昔に話がついた問題であるはずなのだが……依然として、モダニズム抜きであるゆえに読みやすくソフトに仕上げられ、後期資本主義下の消費社会を肯定的に歌い上げてくれたり、メタフィクショナルに記号の戯れを演じて見せてくれたりするような、なんか洗練されているっぽい「ポストモダン文学」を喜んで絶賛してしまうような批評家・研究者の類もしぶとく残存しており、なかなか絶滅しない。……一方で、安直な意味でのポストモダニズムを批判することに執念を燃やし……まあそれ自体は別にいいのだが、なぜか、ポストモダニズムと呼ばれる領域の全体が否定されうるという謎の主張を展開する人々も後を絶たない(……だから、日本の文脈で言うと、そもそも「ポストモダン文学」などというものは存在したことがないので、批判すること自体が無意味なわけだ。……いや、厳密に言うと、唯一、無名時代に高橋源一郎が書きためており後に日の目を浴びることになった初期作品には、その可能性は胚胎していたかもしれない。しかし源一郎は、職業作家になれたとみるや、即座に、安易な意味でのポストモダン文学に遁走した――というのが、私の考えだ)。
 まあそれはともかく、細部の意味が存在しないがゆえにばっさりと省略することによって成立していたのが、ボルヘスの短篇小説なのであった。ボルヘス自身は聡明であったため、これを水増しして細部の無惨さを曝してしまうようなことはなかったのだが、ボルヘスの影響を受けた後続者たちは、喜んでこれを引き延ばし、存在意義のない細部が延々と続くという、ひたすらしょうもない「ポストモダン文学」が量産されることになったわけだ。
 今まで、私としては、そんな潮流の元祖であると言えるボルヘスだけは、読むに耐える範疇の小品に留めたという意味で免罪されるのでは……と、考えてきた。しかし、今回『ボルヘスの「神曲」講義』を読み直すことで、その考えが変わった。むしろ、ボルヘスの筆致が洗練されており隙がないものであるがゆえに、そもそもその作品がモダニズムの問題などあたかも存在しなかったかのような詐術を弄していること自体が隠されきってしまっているのだと、今となっては思えるからだ。


 しかし、改めて考えてみると……文学・芸術には最終的にはモダニズムしかない、しかし後期資本主義下の現在においてはモダニズムは成立しようがない、ではどうするか――といったことをねちねちねちねちと延々と言い続けているような私のような者こそが真のポストモダニストであるということになるのだろうか? ……などと考えてみてはみても、あまり自分から申告する気にはならないのであった……。









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コメント

凡庸さを釈義する凡庸さ

 表題の通りで、まあ仰る事は略同感なのだけど、初期に数篇の気の利いた掌編を書いただけの作家を、何等新たな視点分析も無くまるで騙されたとでも云う様に悪し様に罵っても、読む方の徒労感が巣ざまじい、っては想いませんか?

Re: 凡庸さを釈義する凡庸さ


>何等新たな視点分析も無くまるで騙されたとでも云う様に悪し様に罵って

 ボルヘスの文芸評論のどこがどうおかしいと思うのかを具体的に書いている以上、「分析も無」いだの「悪し様に罵って」だのと言われる筋合いはありません。また、ボルヘスのモダニズム文学に関する理解については、寡聞にして、私がここで述べたような評価と同等の評価を下しているのを読んだことがありません。しかし「新たな視点」が全く無いのだとあなたが断定される以上、あなたはご存知なのだと思います。後学のため、ボルヘスとモダニズム文学の関連性について私が述べたことと同等のことを述べている文献を具体的に教えていただけますでしょうか?
 それから、私の意見に同意しようと同意しまいと勝手ですが、事実とは異なる決め付けによって難癖をつけるのはやめていただきたいですね。

>初期に数篇の気の利いた掌編を書いただけの作家

 ボルヘスが通常の文学史でどのように評価され、後代に影響を及ぼしているのかをご存じないようです。私は現状の評価が過大評価であり悪影響を及ぼすと思うから批判的な評価を書いたわけです。

>読む方の徒労感が巣ざまじい、っては想いませんか?

 なぜこのようなことを言えるのかがさっぱりわかりません。このエントリの文章はネット上に無料で公開されているだけのものであり、読む読まないは個人の勝手です。また、私が特定の誰かに対して「この文章を読んで欲しい」とお願いしたこともありません。意見が異なるので反論したいというのならばまだしも、基本的には同感である、などという人の労力を私が慮らなければいけないとあなたが考えていることの理由がさっぱり分かりません。
 したがって、あなたの疑問に対する返答は、「全く想いません、と言うか、それは私のあずかり知るところでは全くなく、そんなことをいちいち相手に問いかける人がどういう神経をしているのかがわかりません。むしろ、そんなことをいちいち書き込まれて、こちらこそ強制的に読まされ返答を強いられる側の徒労感こそすさまじい。」と思います。

 では、わざわざ多大な労力を持って返答した以上、私の側の疑問にも答えていただけるよう、よろしくお願いいたします。なお、ボルヘスが例えばジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を評して述べた文章などは読んでいますし、ここで問題になっているのはボルヘス自身の論ではありません。ボルヘスとモダニズム文学との関連について私の評価と完全に同等の趣旨を述べた文献を具体的に紹介していただけますよう、くれぐれも宜しくお願いいたします。

 最初に断わっ度くと同業者じゃ無いからね。 で、ポストモダニズムってそんなに美味しいの? 標榜してる作家数多なんだろうけど其の概念で分類規格化して標本箱に入れ無きゃ玩味不充分に成る作品群って? 否、作家さんてのは売る為にも様々なる意匠を纏い体現してるかの様に振る舞いたがる、芸術運動としてコミで売り出す癖が定着して以来だろうし同伴評論家が併せて喇叭を吹くのも相俟っての事だろうけど、其の惹句を反転させて評論から世相史めかして御時勢ですよと遣られても正直うんざり。
 ボルヘスに出会ったのは集英社の全集の一冊だったと想うけど(’60年代末、篠田一士さんだかも煽ってた記憶が)読んでて初期集合論をあしらった気の利いた掌編との認識だったなあ。 其れ以前に代数トポロジーの流行に合わせたSFアンソロジーも読んでたし、其の稍古風な変種としか見做せ無かったと云うのが正直な感想で、其れに嫌いなチェスタートン(戦後創元の探偵小説全集に三冊ばかり入ってた)の匂いもそこはかとなく。 ポスト附箋かプレかは知らんけどゲーデル風味を使った円城塔さんは、勿論踏まえてるんだろうけど、理解の深さが心地良くファン。 ヒネる程度には馬齢を重ねてるから啓示とは受けんけど。
 世間が狭いので初めて広報以外のメールを受けました。 非礼をお詫びします。 老耄と看過御願いする次第です。

Re: タイトルなし

 まず、このブログを読んでいただいている方に、非常に失礼な口調で書かれた上のコメントについてご説明します。
 私のコメントでの質問に対して何の応答も無かったため、上記人物が公開しているメールアドレスに、きちんとした説明をするか、それとも、ただのはったりであったのならば「何等新しい視点分析も無い」「凡庸さを釈義する凡庸さ」などの決め付けに関して謝罪・撤回するように求めました。それに対する応答が上のコメントであったため、本来ならこのブログではこのような失礼なものは載せないのですが、やむなく例外とする次第です。
 ……それにしても、五日間も待たせた上で、読まされるのがこれか……。謝罪しているということは、もともとの表現がただのはったりであったということなんでしょうけれども、何の説明も訂正も無い。その代わりに、今度は全く別のことについて難癖を付け出した挙句、そこでも言っていることはめちゃくちゃ、とは……。文学のことなんてろくに知らないのは明らかなのに、何でこんなに意味不明の自己主張なんてするんでしょうか? 本人にとっては気持ちよく、自意識が満足させられるから? こんなの書き込まれるほうがひたすら迷惑なんですが……。
 だいたい、このエントリでは、ボルヘスの文芸評論を具体的に読解した後で、あくまでも補足としてモダニズム~ポストモダニズムと関連する歴史的位置付けをちょこちょこよ足しているだけなんですけどね。さらには、ポストモダニズムという言葉はあいまいだけれども、良いものもあれば悪いものもあると言っているだけなのに、謎のポストモダン批判をいきなり始められても意味がわかんないですね。

>其の概念で分類規格化して標本箱に入れ無きゃ玩味不充分に成る作品群って?

 別にボルヘスだろうがピンチョンだろうがデリーロだろうが、「ポストモダン」という用語を全く使わないでなされた研究・評論の類なんていくらでもあるので、単に事実として間違いですね。
 なんで、事情を全く何も知らないのに、わけのわからない難癖をつけるんですかね。

>其の惹句を反転させて評論から世相史めかして御時勢ですよと遣られても正直うんざり。

 ポストモダニズムをめぐる言説一般のことを言っているのか、私の書いたこのエントリのことを言っているのか、あいまいでよくわからない文章ですが、どちらにしてもおかしいですね。ボルヘスが代表作を書いていたのは30~40年代なので、時勢もクソもないですね。時勢の話なんてしてないのに、自分が勝手に「世相史」だの「御時勢」だのと勘違いして一人相撲をとった挙句こんなこと書き込まれてもねえ……。
 だいたい、「正直うんざり」などとまたしても被害者面してますが、ポストモダン文学の研究なんてろくに眼を通していないでしょう。自分が知りもしない分野について事情通ぶった上で難癖をつける人って、なぜか、だいたいこういう物言いをしますよねえ……。

>其れ以前に代数トポロジーの流行に合わせたSFアンソロジーも読んでたし、其の稍古風な変種としか見做せ無かったと云うのが正直な感想で、

 はあ……。ボルヘス的な内容を小説として書くことがSFの領域に広まったのは、ボルヘスより後のことですね……。ボルヘスが既に代表作を書いていたころは、アメリカなんかでも、まだパルプ雑誌でのスペースオペラが中心で、ハードSFはようやく勃興しつつあったという時期です。……ということは、ボルヘスの後続者を先に読んでいたから、ボルヘスは「其の稍古風な変種としか見做せ無かった」、しかし、その前後関係はよくわかっていない、と……。
 こんなにもわけのわかっていない人の難癖を読まされる側の徒労はすさまじいですね……

>世間が狭いので初めて広報以外のメールを受けました。 非礼をお詫びします。 老耄と看過御願いする次第です。

 どうせ自分のはったりを認められないのならば、無関係な難癖を更に付け足すことで煙に巻こうなどというせこいことをせずに、最初からこれだけにしておいた方がまだマシだと思うんですが……。
 自分の意志で人の文章を読んだ上で被害者面されたり、文学をめぐる事情もまるきりわかっていないのに根拠の無い偏見に基づいて難癖を延々付け続けたり……と、こちらこそひたすら迷惑なので、二度とこのブログにはこないでください。

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