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『ローガン』と『レゴバットマン ザ・ムービー』の対照性と、ヒーローコミックの本質について

 アメリカのヒーローコミックを題材とした映画は依然として続々と制作されているが、最近公開されたそのような作品群の中でも、『ローガン』と『レゴバットマン ザ・ムービー』の二作は、その際立った対照性に非常な違和感を感じてしまったものだった。
 とはいえ、それは、これらの作品そのものを見たことによる違和感というよりも、これらに対して向けられた論評を読んでの違和感、という側面の方が強い。……というのも、私は『ローガン』と『レゴバットマン』の二作を全く対照的な作品だと感じたのだが、この二本の受け取られ方はといえば、両作がそろってともに、私の感想とはまるで正反対であるようなのだ。
 これは要するにどういうことかというと、『ローガン』を見た私は、これこそ、ジャンルとしてのヒーローコミックがどのようなものであるかを考えてみるとまさに直球ド真ん中の作品であると感じた。一方、『レゴバットマン』は、なるほど確かに製作者たちはヒーローコミックの元ネタを調査して参照したりはしているものの、基本的にDCコミックスのことなどどうでもいい人々が製作していることは一目瞭然であり、参照元のコミックとはほぼ無関係、と思ったということだ。
 ところが……『ローガン』について書いて「スーパーヒーローものの終焉」などとしている評を読んですっかり驚いたのだが……さらにそれ以上に、『レゴバットマン』が「バットマンの75年の歴史の総括を成し遂げている」などとしている評を読んで、さらにさらにぶったまげ、驚き呆れ果てたのであった。
 いったい、ここでは、何が起きているのだろうか。


 一応断っておくと、『ローガン』と『レゴバットマン』が元ネタのヒーローコミックとどのような関係にあるのかということは、独立した映画としての評価とは、また別の話である。純粋に単独の作品として見たときに、この良作はどちらも優れた映画だとは思う。『ローガン』がとんでもなくめちゃくちゃ優れているとまでは思わないが、少なくとも、今まで製作されてきたXメン関連の映画の中では最もよいと思った。最後のショットにしても、無用な台詞を排除して些細な動作一つを映像として示すだけで完全に話に決着をつけてみせるところが非常によかった。
 一方、『レゴバットマン』という映画にしても、単にコメディとして見るのならば、非常によかったと思う。いったん笑わせにかかったらリズムをゆるめずにたたみかけるのみならず、ゴッサム市内でのバットマンの活動をド派手なアクション演出でひたすら騒々しく描いておいて、ひとたびバットマンがバットケイヴに戻るやいなや、その広大な空間を孤独に占めているバットマンの姿を強調するために今度は徹底して静寂を描く。結果として、映像や音響も含めた様々な側面がストーリーに緩急をつけるために巧みにコントロールされるようなことが実現しており、作品としての完成度は非常に高いと言える。
 また、公平を期して言っておくならば、DCコミックスの元ネタを調べ上げて細かく参照することには大変な労力が割かれていること自体は確かで、個人的には、キャットマンなどまで登場してきたことには大変驚いた。また、バットマンの完全に身勝手な独断による単独行動が雪だるま式に被害を拡大して巨大なカタストロフィをもたらしたあげく、そもそもの原因となったバットマン自身が自分で自分の始末をしただけのはずのことが、なんとなく世界を救ったみたいな感じになって終わるところも、DCコミックスの巨大イヴェントでわりとありがちな展開であるため、非常に楽しめた。
 しかし、である。『レゴバットマン』という作品の細かい部分を拾っていけば、この製作者たちがDCコミックスについて何の思い入れもなければ、ヒーローコミックというジャンル全般に対する造詣も全くないのは一目瞭然なのである(このことについては、具体例を挙げながら詳細に後述する)。とはいえ、そのこと自体は、前作『レゴムービー』と重複するスタッフによって製作されたという時点で、私としては予想がついていた(……とはいえ、『レゴムービー』は作品そのものが「レゴで遊んでいる子どもの想像の世界」という設定があるため、DCキャラの作中の扱いがおかしくてもそれはそれでしょうがないか……という部分はあったが、『レゴバットマン』にはそういうエクスキューズはない)。作品そのものは優れたものとしてまとまってはいるものの、そこで題材とされたキャラクターへの理解もなく思い入れも特にない人々がいじっていたのだから、まあ『レゴバットマン』もそんな感じのものになるんだろうな~と思って、いざ見てみたら実際その通りだった。
 ……にもかかわらず、『レゴムービー』や『レゴバットマン』を見てDCキャラの扱いの不当さすらわからないような人が、よりによって「バットマンの75年の歴史」なるものを総括し出すのである。正直言って、わけがわからないと言うほかない。
 例えば『レゴバットマン』という映画は、あくまでも独立した映画としてみるならば、「このような状況に置かれた人物はこのように行動するであろう」というキャラクター造形に関して、この作中では首尾一貫したものになっている。しかし、元ネタのコミックとの関係はといえば、あくまでも「パロディ」と呼べるものでしかなく、それ以上でもなければそれ以下でもない。なんでそれでダメなんだろうか。なんでバットマンの歴史に影響を及ぼしていることにならないとダメなんだろうか。……はっきり言ってしまうと、「『レゴバットマン』はバットマンの75年の歴史、そこ語られ続けたヒーロー像を総括することに成功した作品である」などという言説は、最近の言葉で言えば、オルタナ・ファクトである。
 一方、「『ローガン』がスーパーヒーローのジャンルそのものを終焉させた」というのも、正直意味がわからない。作中の舞台とか衣装とかが「ヒーローコミックのありがちなネタ」から逸脱したら、ジャンルが終わったことになんのか? ……というか、それ以前の問題として、ヒーローコミックの読者からしてみると、Xメンのコミック自体が時間旅行や歴史改変を取り上げることが非常に多く、「ヒーロー活動のない世界」「ミュータントが絶滅しかかっている暗黒の未来」みたいな設定は割と何度も繰り返し描き続けてきたことであるので、別に『ローガン』の直接の原作の『オールドマン・ローガン』を挙げるまでもなく、「ヒーローコミックのありがちなネタ」が展開されてるだけなんだけどな~……。


 繰り返すが、私の考えでは、『ローガン』はヒーローコミックの直球ド真ん中をそのまま映画に移すことに成功した作品だが、『レゴバットマン』の方はヒーローコミックとはほぼ完全に無関係な作品である。
 これに関しては、別に、『ローガン』のぱっと見の外見が、「ヒーローコミックのありがちな定型」を全部削ぎ落としたのだということにしても、特に変わらない。……言い換えれば、『ローガン』という作品には、枝葉末節が全て変わってしまったのだとしても、ヒーローコミックというジャンルをジャンルとして成立させるその核だけは、確かに存在している。逆に言えば、『レゴバットマン』は、ヒーローコミックを構成するパーツを全て備えているように見えても、そのジャンルそのものの魂だけは、ない。
 ジャンル・フィクションの本質とそのぱっと見の外見との関係というものは、ミステリを例に取るとわかりやすいだろう。ミステリには、しばしば、ありがちな定型としての、舞台設定やキャラクター造形が存在する……しかし、だからといって、それがなければ存在できないというわけではない。名探偵が存在しなくても、ミステリは成立しうる。
 それはなぜかと言えば、ミステリがジャンルとして成立しうる本質が「提示した謎が解かれる」という点にあるからだ。謎を解くのは確かに名探偵が圧倒的に多いわけだが、しかし、通りすがりの一般人が謎を解いていけないわけではない。そして、ミステリの成立に「ありがちなネタが使われているかどうか」が無関係だからこそ、SFやら時代劇やらといった他のジャンルと融合することも可能になる。舞台設定が遠未来だろうと江戸時代だろうと、提示した謎が論理的に解かれるのであれば、ミステリはミステリとして成立する。逆に言うと、例えばガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』シリーズは映画としてはよくできていると思うが、ミステリとは関係ない。キャラクターや舞台設定はシャーロック・ホームズものから取ってきていても、謎解きに作品の主眼がないからだ。
 これと同じことが、ヒーローコミックについても言える。ヒーローコミックが出版される主要な舞台となってきたアメリカのコミックブックの歴史を紐解けば、SFやホラーや西部劇といった異なるジャンルも同時に存在してきた。作り手の側が重複することも多かった以上、しばしばヒーローコミックはこれらの異なるジャンルと混淆し、広範な範囲に及ぶ、様々なタイプの、様々な舞台設定の、様々なキャラクターによる無数のストーリーが展開してきた。
 「ヒーローコミック」というかなり限定されたジャンルの全貌をとらえようとするだけでも、相当なごった煮の混沌状態が存在する。しかし、にもかかわらず、ヒーローコミックをしてヒーローコミックたらしめる本質、ヒーローコミックを一つのまとまりのあるジャンル・フィクションとして成立させるものが存在する。
 ……それは、一言で言うならば、「困っている人がいたら手を差し伸べること」である。
 特殊にして強大な力を手にした者がなぜヒーローになろうとするのかと言えば、困っている人を助けたいからである。もちろん、ヒーローになろうとしたり活動を継続したりする過程で、様々な出来事があり、葛藤があり、それぞれのキャラクターの特徴が問題になるだろう。……しかし、それら全ては、人助けをしようとする意志がまず先にあって、その次にくる二次的なことだ。この順番は、絶対に逆にはならない。
 そもそも、人助けをしようとする意志のない者が特殊な力を手にしたのなら、ヒーローになる必要は特にないのである。ヒーローコミックのことをよく知らない人々が映画化などに携わると、そもそもこの部分で間違えることが非常に多い。「ヒーローになる」という枠組みは自分に与えられた仕事の前提としてまずあるのでそれ以上疑わず、いきなり「ヒーロー活動している人」の内面を描き始め、苦悩や葛藤を描き出す。……いやいやいや、自分から選んで能動的にヒーロー活動をしてるんじゃないんだったら、ヒーローやめた瞬間にその苦悩も葛藤も全部解決じゃないすか~、ということがなぜか非常に多い(……で、そんな感じで、ヒーローコミックというジャンルのことをよく知らん人が映画化を手がけたりすると、そもそも話が成り立つ前提条件がうやむやにされたままおかしなことになっていたりすることがよくあるわけだが、映画を通してだけアメコミ関連のことを知ってるような「アメコミ映画ファン」が勝手に事情を忖度しだし、「その前提を疑うとアメコミヒーローが成立しなくなっちゃうから」とか言い出し、そのうやむやなことがなぜか「アメコミが成立するためのお約束」だということになりだし、そこにツッコミを入れる人は「それを無条件に受け入れないと楽しめなくなる、ジャンルのお約束を知らないにわか」ということにされだすんだよな~)。
 逆に、人助けをする意志があることが全ての前提だからこそ、単なる常人であってもヒーローになることはできる。特殊な衣装も特殊な能力も、選ばれた状況も派手な舞台設定も、何もなくてもヒーローコミックは成立しうる。逆に言えば、ヒーローコミックとは、特殊な衣装やら能力やら名称やらを面白がること、単にキャラクターを愛でることを第一の目的に成立しているジャンルではない(いちおう念を押しておくと、「そういうことをしてはいけない」と言っているわけではない)。
 ヒーローコミックの本質は、「いかにして人助けがなされるか」という点にある。それ以外のことは全て、本質とは無関係な枝葉末節にすぎない。舞台設定がどれだけ特異だろうが、派手なキャラクターがことごとく排除されていようが、ヒーローコミックというジャンルは成立する。これは、謎解きさえあればミステリが成立するのと同じことである。


 私が、『ローガン』という映画の外見がどのようなものであれヒーローコミックの本質をダイレクトに映画に移したものだと思うのは、以上のような理由があるからだ。
 『ローガン』の舞台となるのは、近未来のアメリカだ。そこでは、新たにミュータントが誕生することも長い間に渡っておこらず、絶滅寸前の少数派となっており、かつてXメンであったプロフェッサーXとウルヴァリンは、世間の目から逃れてひっそりと暮らしている。「世界最強のテレパス」でありながらも、同時に認知症をわずらう老人でもあるプロフェッサーXは、ウルヴァリンの介護によってどうにか生き延びている。ひょんなことから、存在しないものと思われていた新たな世代のミュータントの少女と出会った二人は、アメリカから逃れる逃避行を開始する……。
 とりわけプロフェッサーXが置かれた状況の苦しさはかなり無惨なものであり、他人に介護してもらわなければ(あるいは、してもらってさえも)人並みのな生活を送ることは難しい。しかし、にもかかわらず、たまたま困っている人々に遭遇したときに――本当に自分が相手の手助けになることができるのかもわからず、助けるどころかむしろ相手を厳しい状況にまきこんでしまいするかもしれなくとも――躊躇なく相手に手を差し伸べる。だからこそ、ここでのプロフェッサーXは完全にヒーローであると言えるのだ。
 それと比較してみると、『レゴバットマン』におけるバットマンはどうだろうか。……この映画では、バットマンにとってのヒーロー活動とは、単に活動する自分の内面、その自意識の問題のみに還元されてしまっている。ゴッサムシティの全てのヴィランが自首した結果、犯罪は壊滅し、バットマンが活動するその存在意義が失われる……そのとき、自分の存在意義がないということにバットマンが悩み始めるのである。
 その結果、この作品のバットマンは、自分の存在意義、その内面の満足感と、ゴッサムの人々の不幸がより減少することとの間で、あたりまえのように自身の内面の問題を優先するに至る。……いったい、これのどこが、「バットマンの75年に及ぶ歴史の総括」などというものになりえているのだろうか。


 現行の「バットマン」誌のライターであるトム・キングは、その就任直後、自らのバットマン像を語り始めるそのそもそもの始まりにおいて、「強大な敵がいるわけでもなければ派手な出来事があるわけでもない、一見するとなんの変哲もない事件の渦中だろうとなんだろうと、無実の一般人の命を救うのに他に手段がないのであれば、いついかなる時でも、バットマンは躊躇なく自らの命を差し出す」ということを描いている。人格が破綻しまくっているバットマンを他のヒーローたちが(いやいやながらも)受け入れて共同活動をするのは、どれだけ身勝手な振る舞いでも、自分ためではなく他人の命を救うためである絶対的なそこに前提があることは誰もがわかっているからだ。……で、コミックでそのようなことが描かれているのと同時代的に存在している『レゴバットマン』のような映画が、いかなる意味で原作コミックの総括になり、あるいは批評として機能したりしているというのだろうか。『レゴバットマン』のバットマンは、自分の満足のために活動しておきながら他人への迷惑を顧みないのだから、ただのわがままな人である。
 繰り返すが、単に独立したコメディとして見るならば『レゴバットマン』という作品はよくできているし、こういうものがあっても何も問題はないだろう。しかし、原作との関係はほとんどないし、あったとしても、「パロディである」という以上のことは何も言えない。それで、いったい何の問題があるのか。なぜ、「バットマンの75年の歴史」などというものを振りかざさずにはいられないのだろうか。自分がろくに知りもしなければ、詳細に調べる気もないことを、勝手に総括してもらいたくないのだが。
 ……だいたい、『レゴバットマン』に「DC愛」なるものがあると評する者は、DC愛などというものと完全に無縁であるということは断言できる。なぜならば、DCコミックスのキャラクターを扱う作り手がDCコミックスのことをどう思っているのかを判定する、極めて簡単な方法があるからだ。
 DCコミックスのキャラクター、とりわけジャスティスリーグ関連が扱われる際には、一見すると全く目立たないがゆえに、かえって最も注目しなければならないポイントが存在するーーそう、我らがマーシャン・マンハンターさんの扱いである。
 DCコミックスの魂は、マーシャン・マンハンターさんの内にこそ存在する! これこそが、DCコミックスが出版してきた数々のヒーローコミックを貫く、不変の真理なのだ! ……これを確かめるためなら、邦訳が出ている作品だけでもいい、『JLA:リバティ&ジャスティス』や『DC:ニューフロンティア』を一読しさえすればよい。マーシャン・マンハンターさんの真摯にして誠実な魂こそが、DCコミックスのヒーローたちを結束させる、真の中心となりうるのだ!(……そういう意味では、近々邦訳が出る『DCユニヴァース:リバース』が傑作であることには疑いがないのだが、あれは誰でも手にとってすぐわかるようなものでもないんだよな……。この作品のライターのジェフ・ジョンズはと言えば、「New 52からジャスティスソサエティが姿を消したことについてどう思いますか?」とか聞かれた際に、「JSAのライティングを担当した9年間は、わが人生の誇りなんじゃあ!」とか吠え出しちゃうような人なんだけど、このやり取りがよくわからないと、何が起きているのかよくわからないような部分も『DCユニヴァース:リバース』には含まれる。それに比べると、『DC:ニューフロンティア』は完全に独立した作品で予備知識もなしに読み始めることができるし、DCコミックスの本質が全編にみなぎりまくっている傑作なのである。そして、この『DC:ニューフロンティア』を読み終えた直後に例えば『レゴムービー』を見てみれば、殺意を覚えずにいることは難しいのだ……)


 以上のようなことを踏まえた上で、『レゴバットマン』を見てみればどうなるか。……すぐにわかるのは、マーシャン・マンハンターさんの扱いが最悪であるということだ。
 この作品の中でのマーシャン・マンハンターさんの出番はと言えば、ジャスティスリーグのメンバーがパーティをしていたところ、誘われていなかったのにたまたまその場に来てしまってショックを受けているバットマンに無神経に声をかける人、といった役所である。
 こんな馬鹿なことがあるだろうか。「コミュニケーション能力に長け仲間内でわいわい盛り上がれる人々」と「孤独であり寂しがり屋のくせに憎まれ口を叩いてしまういじらしい人物」の対比という大ざっぱすぎる構図があるわけだが、どこからどう考えても、バットマンよりもはるかに酷い目に遭ってきているのがマーシャン・マンハンターさんなのである。
 なるほど、バットマンは両親をそろって失ってしまったかもしれない。しかし、マーシャン・マンハンターさんはと言えば、故郷の火星が全滅である。さらには、なぜ地球にいるのかと言えば、地球の科学者によって手違いでうっかり火星から転送されてきてしまった挙げ句、帰る手段が見つからないから、ということなのである! あまりにも大変な目に遭ってきた生い立ちなのである。
 にもかかわらず、コミックでバットマンとマーシャン・マンハンターさんのやり取りを見ていると、まずまちがいなくほとんどの場合に、マーシャン・マンハンターさんの方が謙虚で気遣いのある態度をしているのである。彼が大変な人格者であることは疑いようがない。……なのになぜ、「他人に理解されない可哀想なバットマンに対して無神経なリア充」みたいな、雑な役を振られなければならないのか!(……そういう意味では、同じレゴでも『レゴバットマン ザ・ムービー<ヒーロー大集合>』の方では、サイボーグが加入してマーシャン・マンハンターさんの役割を果たしているNew 52版のジャスティスリーグに準拠していながらも、ちゃんとマーシャン・マンハンターさんも登場してきて役割があるところが示されていたのが非常によかった)
 そんなバットマンが、マーシャン・マンハンターさんの無神経さによって傷つけられた的な態度を取るのは、お門違いも甚だしいものがある。『DC:ニューフィロンティア』を読んでから『レゴバットマン』を見れば、「おいバッツ、お前ちょっといい加減にしろよ!」と言いたくなってくるはずなのだ(……いや……それ以前に、『DC:ニューフロンティア』でのマーシャン・マンハンターさんへの扱いを読んだだけの時点で、「おいバッツ、お前ちょっといい加減にしろよ!」と思えてくるか……)。
 これはなにも、マーシャン・マンハンターさんだけに限った話ではない。ジャスティスリーガーたちの全員が、「単なる無神経なモブ」という以上の役割を与えられていないのである。これはおかしい! バットマンがジャスティスリーグというチームでなんとかかろうじてどうにかこうにか共同作業をやっていけるのは、バットマンの側の問題ではない! チームメンバーのみなさんの側に謙虚で誠実な人格者が多く(ハルとかは除く)、どうしょうもないバットマンのことをものすごく気にかけてくれるからこそなのだ!
 だいたい、『レゴバットマン』のバットマンが原作の歴史を総括したキャラクターだというのならば、あんなにも素直で物わかりのいい人になるはずがないではないか。……例えば、先に述べたパーティの件にしても、コミックのバットマンなら全く異なる対応をしてくるはずである。
 そう、まずは前提として、自分が招待されていないジャスティスリーグのパーティが開催されることなど、世界最高の探偵たるバットマンは間違いなく事前に察知している。そして、その情報をさらに精査し、出席するヒーローたちの行動を分刻みで把握する……その上で、各ヒーローが自分の街を後にした不在のタイミングで、メトロポリスやコーストシティやスターシティなどに出張って街中を駆け回り、突発的な犯罪を解決しまくっておいた上で、パーティに行っていたヒーローたちに事後的に「あの街で起きたあの犯罪、私が解決しといたけど、なぜいなかったのだ? え? え? 私が犯罪と闘ってる間に、まさか貴様らは遊んでたのか? はあぁ~~~~、人の命をなんだと思ってるのか……たまたま通りがかった私が解決しといたからよかったようなものの、いったい、私がいなかったらどうなってたことか……」などとネチネチ嫌みを言い始める……くらいのことを平然とやってのけるのが、バットマンという男なのである(……そんで、ハルとかガイあたりがキレだしたら仲裁に入るのがマーシャン・マンハンターさん)。


 ……まあ、いずれにせよ、コミックではそれぞれが重要な役割を与えられていたり特徴が描き出されていたりして大事に扱われているキャラクターたちを雑に扱っていることが明らかな映画に向かって「バットマンの75年の歴史の総括」だの「DCコミックスへの愛に満ちあふれている」だのと称すのはほんとうにやめてもらいたい。総括してないし愛もありません。
 最近の日本へのアメコミの翻訳・紹介は、また一つ異なる局面になってきたのではないかと思い、私としては非常に危惧していることがある。……と、いうのも……もともと日本への紹介というのはマーヴル中心でDC関連は非常に薄かったのだけれど、それというのも、日本ではアメコミ読者と言ってもマーヴルばかりでDCのことはほぼ知らんと言うような人が昔から多かったわけです。
 で、マーヴルのことしか知らん人が「アメコミの識者」として翻訳・紹介に携わった結果、スーパーマンやバットマンはともかく、自分がろくに知らないフラッシュやグリーンランタンやグリーンアローを勝手にネタキャラ扱いして小馬鹿にするようなことを、商業誌上なんかでも平然とやってきていたわけだ。
 ところが最近は、コミックではDCがマーヴルを圧倒してきており、おそらくは映画でもそういう状況になっていくだろう……ということがあり、たぶんメディア上でDC関連の需要が増えてきているのだが、そういう場所で「アメコミの識者」であることにしちゃった人々が、ろくに知らんままにDCの紹介をするという、地獄絵図が成立しつつあるわけだ。
 私としては、少なくともこれだけは言っておきたい。……フラッシュやグリーンランタンやグリーンアローやマーシャン・マンハンターをネタキャラ扱いするような者は、『DC:ニューフロンティア』を100回熟読してから出直してこい!


 いずれにせよ、ヒーローコミックの本質は、「いかにして人助けはなされるのか」という点にある……このジャンルのことをよく知らない人間が映画化に携わるときに犯しがちなミスが、このことに正面から立ち向かうのが気恥ずかしいゆえに、無駄にリアル志向になる、ということであるだろう。
 多くの場合、「ヒーローが掲げる理想なんて、厳しい現実の前では絵空事だよ?」的なことが語られる(こういうのが「大人向き」なのらしいね)。しかし、これは根本的に本末転倒なのである。もともとアメリカのヒーローコミックの起源とは、大恐慌時代の厳しくどうにもならない現実をスーパーパワーで変えてくれる存在としてティーンエイジャーに夢見られたものだったのだから、「ヒーローなんて現実の前では無力だよ?」などというのは、ツッコミにも何にもなっていない。原因と結果を取り違えた者のたわ言である。
 そして、『ローガン』という映画は、ヒーローコミックと西部劇の双方の視点から、以上のようなことも作中に取り込んでいる。なるほど、コミックのXメンにしても『シェーン』のような西部劇にしても、現実からはおよそかけ離れた絵空事であるだろう。しかし、現実とはかけ離れた絵空事の中だけにある夢や希望が、厳しい現実に影響を及ぼし改変しうる、ということだ(厳密に言うと、ウルヴァリンが初めて参画した第二次Xメンにしても『シェーン』にしても、楽天的な絵空事の世界に暴力性が混入してきて壊れ始める兆候が出始めた、本格的に壊れていく次代の先触れにあたるようなものではあるのだが)。
 そしてまた、以上のようなことを踏まえた上で、ヒーローコミックの本質を絶対に外さずに映画化する稀有の存在がジョス・ウィードンであることは、いくら強調してもしすぎるということはない。そう、われらがジョスは、そのことを絶対に外さない! ……そして、ジェフ・ジョンズが統括する体制になったDC映画が真っ先にやったことは、われらがジョスをぶっこ抜いてくることだったのである! 「ジェフ、さすがだぜ!」と言うしかないではないか!
 そんな、現在のアメコミ業界の現役最強のライターにしてDCファン道十段ことジェフ・ジョンズが遂に脚本にまで参画した『ワンダーウーマン』が批評的にも興行的にも大成功を収めているのはまことに喜ばしい限りなのだが……ジェフが脚本を書いている以上、見る前の時点で断言できる! この映画でも、「いかにして人助けがなされるのか」というポイントは、絶対に外されていないはずだ!(……しかし、日本に『ワンダーウーマン』が紹介されるときって「女性監督によるフェミニズム的映画」という点ばかりが強調されているようだけど、むしろ、日本とアメリカが文化面で絶望的に差を付けられてしまったのって、「アメリカで女性監督がそういう映画を製作しようとしたときには、サポートしてそれに見合った脚本を書ける男性がごろごろいる」ということだと思うんだけど……。アメコミ業界は特にここ二十年ほどの間でフェミニズムなどの視点からの批判を受け入れ自己批判を続けた結果として相当に変化してきているんだけど、「日本に翻訳・紹介するアメコミ識者」にそういうことをきちんと論じられる人も皆無でしょうな。英語での関連文献は膨大な量が出ているので、たぶん、もともとフェミニズムやジェンダー論に詳しい人がきちんとした文献に当たった方が、実りある成果を出せるのだと思う。それと、もう一つ……前売りの特典としてワンダーウーマンの初登場コミックの「復刻版」がついてくると宣伝しておきながら、コミックブックの復刻でも何でもない、初登場エピソードだけを収録した小冊子(しかも、今の日本の商品の広告入り)を渡してくるのは、完全に詐欺ですぞ……。単に初登場エピソードを再収録しただけのものなら、普通に持ってるわ〜い!)
 だが……『ワンダーウーマン』の成功を聞くにつけ、ただ一つどうしても解消できないもやもやとした思いにとらわれるのも事実なのだ……
 なぜ……いったい、なぜ……最初から……『グリーンランタン』を……映画化……する、時点で……ジェフに……任せな……かった……(涙)














文学におけるポストメディウム概念の矮小化について――ロバート・クーヴァー『ようこそ、映画館へ』

 しばらく間が空いてしまったが、ロバート・クーヴァーの『ゴーストタウン』について書いた文章の続き。……前回の文章で、私は、クーヴァーの『ゴーストタウン』という小説は、小説とそれ以外の分野(主に映画)とを横断しつつ作品を構成していく部分に、大きな問題があるように思えることを示唆していた。そして、このことに関しては、これまた最近邦訳が出た『ようこそ、映画館へ』の方にこそよりはっきりとした形で問題が表れてしまっていると思えるので、この短篇集について検討してみたい。
 さて、原書では1987年に出版された『ようこそ、映画館へ』は、西部劇やミュージカルやコメディなど様々なジャンルの映画を題材とした短篇小説を集めた書物である。ここで取り上げられている個々の作品を見ていくと、それぞれの小説で、全て異なる技法を用いて言語と映像の関係を作品化しようとしており、技術的には相当に高度なことがなされていると、とりあえずは言うことができる。
 さて、そんな『ようこそ、映画館へ』の中でも、言語と映像の相関関係の処理の仕方という点で致命的な欠点が最もわかりやすい形で露出してしまっているのが、「ルー屋敷のチャップリン」である。まずはこの短篇の、冒頭部分を見てみよう。


 彼はまるで驚いたかのように、しばしそこに佇むが、タップダンス用のスラップシューズは外向きに広げ、だぶだぶのバギーパンツはウェストまで引きあげ、ぼろぼろのジャケットは、入念に一つ残らずボタンを留めて、そう、そこはまぶしくシャンデリアが煌めく玄関ホールの真ん中で、すぐそばにかしこまった肖像画の額ぶちのように磨き立てた手すりが頭上にくねって上にのびる大きな階段があった。やがて黒色の山高帽の下で、瞼をカメラのシャッターみたいに閉じたり開いたりする。竹でできた杖や肘、膝を曲げながら、あたりを見まわすが、ちょこんと鼻の下に乗っかったみずぼらしいチョビ髭が、何かを期待してぴくぴく動く。腰を屈めて、階段の片側の縁沿いに飾ってある大きな葉を持つ観葉植物に鼻を近づけて、くんくんと匂いを嗅ぐと箱の蓋を取りあげ、絵画の背後を覗く。階段のそばのドアの上のほうに飾られていた、大きな枝角を持つ鹿の頭を竹の杖でこつんと叩くと、広間の鏡に向かって葉を見せて笑って見せる。山高帽をちょっと前に傾けて、ぴかぴかにワックスを塗られた、チェッカー盤みたいに四角い黒と白の大理石の床を、風に流されるようにぴょんぴょんと踊りながら進む。床や絵画の表面、鏡、磨き立てられた階段の手すり、水晶のシャンデリア、それらすべてが、出所の分からない明るい光で煌めいている。この光の中を怖じけずに気取って進むが、帽子掛けに喧嘩を挑んだり、つづれ織りのカーペットに向かって鼻水を飛ばしたり、山高帽を脱いで甲冑にかぶせたりする。杖をチョッキのポケットに引っかけ、ホールのテーブルの上の箱から小さな葉巻を一本取りだし、甲冑に向かって、どうぞと差しだす。何、いらないの。それでは、我が輩が、とばかりに自分自身に差しだし、葉巻を受け取り甲冑に愛想笑いで感謝の気持ちを示す。(「ルー屋敷のチャップリン」、『ようこそ、映画館へ』所収、越川芳明訳、p110~111)


 ……以上のような描写が読者にもたらす効果は、それぞれの読者の置かれている状況によって決定的に異なってくる。実は、タイトルに堂々と提示されている通り、ここで描かれている「彼」の動きは、喜劇役者チャーリー・チャップリンのありうべき動きを極めて精密に描写したものなのだ。
 チャップリンのイメージをもともと保持している読者の観点からすると、クーヴァーの描写は非常に高度なものである。この小説内でいきいきと描かれるチャップリンの動作や表情を、ありありと鮮明に思い浮かべることすらできる。……言い換えれば、「元ネタとしてのチャップリンのイメージを持つ読者」の間では、ここでの描写を構成する言語の指示する内容は、ぴたりと一義的に固定される。
 とはいえ、私が問題としているのは、チャップリンのことを知らない読者が排除されているということではない。この先の展開を追えばわかることだが、チャップリンのイメージと小説の言語をぴたりと同期させることによってしか、この小説のここから先の展開は意味を持たないのだが、しかし、私が問題とするのは、この小説で何が起きているのかをきちんと読み取った読者にとってすら、これは問題含みの小説であるということだ。
 ……主人公の行動の一挙手一動作が、読者の内部でチャップリンのイメージと完全に同期したまましばらく作品が展開したしばらく後に、次のような描写が現れ始めるのである。


チャーリーは調子に乗って、帽子から煙草を取りだすと、婦人の前でそれを上に掲げ、二つに割る。ズボンを上まで持ちあげ、肘でズボンを押さえる。二つになった煙草の吸いさしを肩ごしにパチっと指ではじくと、両足をあげてジャンプし、空中で二つを同時に蹴りあげる。ズボンも同時に脱げる。吸いさしのひとつは帽子でキャッチ。もうひとつのほうも追いかけるが、落ちたズボンが足かせになって、よろめいて、はからずも若い貴婦人の体にぶつかって、婦人を欄干から下に叩き落としてしまう。最初、チャーリーには何が起こったのか分からない。あたかも婦人の姿が突然、宙に消えてしまったかのように、くるくるまわって必死に婦人を探す。チャーリーは恐る恐る手すりの下を覗きこむと、彼女が下にいて、輪なわの部分を捻ったり引っ張ったりしているが、うまく逃れられない。あっと驚いて、手を伸ばし、彼女を引きあげようとするが、できない。力が足りない。欄干の結び目を手探りするが、手が震えて仕方ない。階段を駆けおりて、下から婦人のほうに手を伸ばすが、彼女の足は一メートル以上頭上にあり、じたばた動いている。(同、p131)


 ……このあたりまで読み進めれば、「ルー屋敷のチャップリン」という小説が何をしようとしているのかは、既に明らかになっているだろう。
 つまり、読者の内部でチャップリンのイメージを精密に固定する描写を展開したその上で、実際の映画ではチャップリンが決して展開しないような、ありえないはずのイメージを生み出すことである。あのチャップリンは、どれほど荒唐無稽なドタバタを繰り広げようとも、そのことが周囲の人間を無惨にして陰惨な血みどろの暴力に巻き込むようなことは決してなかった。だからこそ、読者にチャップリンのイメージをありありと喚起したその上で、そのチャップリンの姿をおよそありえなかったはずの状況に投げ込み、生み出されるはずのなかった映像を読者の脳内に再生してみせているわけだ。
 ……しかし、である。果たしてこれは、文学的な意味のあることなのだろうか。これを書いた時点でのクーヴァーには思いも寄らなかったのだろうが、現時点での技術水準においてならば、ある程度コンピュータに詳しい個人ですら、実際のチャップリンの映画を編集して改竄し、クーヴァーがしているのと同様のパロディを小説ではなく実際の映像で制作することは、たやすくできる程度のことだ。
 言葉による描写のみでこれほどまでにチャップリンの動作をいきいきと描き出すこと自体は非常に高度な達成であるのだが、しかし、その達成は、実際の映像が実現してしまえば無意味なものでしかない。それがなぜかと言えば、この小説でのクーヴァーの言葉は、正確にただ一つの映像を指示するために構成されており、完全に一義的な意味しか持たないように志向されているからだ。
 既に引用した冒頭部分のようなクーヴァーの言葉は、元ネタのチャップリンのイメージを知る読者の間では、完全に一義的なイメージを指示する言葉として、いっさいの異なる解釈の余地がなく固定される。つまり、この小説には、言葉と映像との間を行き来することによってそれぞれの側の意味が豊穣になるような効果は全くない。単に、言葉と映像という異なる手段が同じ対象を指示していることを明らかにすることによって、両者の指示効果が同期しているだけである。言い換えれば、言葉が言葉として、映像が映像として、それぞれが独立して存在していたならば当然あったはずの多義的な意味が、むしろ縮減されてしまっているのだ。さらには、言葉の指示する内容が完全に一義的に固定されてしまう以上、同等の内容を示す映像と置き換え可能なものでしかなくなってしまうわけだ。


 「ルー屋敷のチャップリン」における、以上のような問題は、技法面では異なる書かれ方がしている「きみの瞳に乾杯」においても、そのままに存在してしまっている。
 さて、その、この短篇集の末尾に置かれた「きみの瞳に乾杯」という短篇なのだが……解説を読む限りだと、『カサブランカ』を元ネタにしたこの小説がなぜ末尾に置かれているのか、翻訳・紹介に携わっている人々はそもそもよくわかっていないのではないか、という危惧の念を覚えている。
 解説によると、この「きみの瞳に乾杯」という短篇は、『カサブランカ』を扱いつつ「完全にポルノ映画に変身を遂げている」のだという。……のだが、この説明だと、この短篇で何が起きているのかも分からないし、説明している側がわかっているのかもよくわからない、というのが正直なところだ。
 実は、「きみの瞳に乾杯」という短篇は、『カサブランカ』という映画の作中では省略されており、省略されているがゆえに議論を呼び続けることになった空白のシーンの、ありえたかもしれない出来事を再現することによって成立しているのだ。
 つまり、この「きみの瞳に乾杯」という短篇は、単に『カサブランカ』を見たことがあるというだけでは、作中で何が起きているのかわからない。それのみならず、「『カサブランカ』の作中であいまいにしか描かれず何通りかの解釈が可能なある特定の場面があり、長年に渡って論じられ続けてきた」ということまで認識していないと、そもそも読解できないような形で構成されているのだ。
 『カサブランカ』の主人公であるリックは、モロッコのカサブランカで、かつての恋人であったイルザと再会する。時は第二次大戦中、ドイツに対するレジスタンスの重要人物であるラズロがイルザの夫であり、カサブランカからの脱出を試みている。ラズロを助けることができるのはリックなのだが、この夫妻に対して協力的な態度を取らない。そして、イルザが決死の思いでリックに協力を頼むやり取りがあったその後で、場面が変わると、リックはイルザに協力的になっている……。
 問題となるのは、この場面である。リックとイルザの間に、映画で描かれている後にどれだけのやり取りがあったのかは、省略されている。有り体に言ってしまえば、二人の間に性交渉があったのかなかったのかということによって、その後の展開の意味は変わって解釈できる……のだが、この映画は、どちらとでも取れるようにままになっているということだ。


 クーヴァーの「きみの瞳に乾杯」という短篇は、ここでの二人の関係を「あったもの」と特定した上で、そこでありえたはずの性交渉をあからさまに描写する。……だが、単にそれだけで終わるのではない。この短篇がどのように成立しているのかということを、リックの独白を通して、自己言及的に提示してみせもする。


空港の誘導灯が一つづきのフィルムの齣みたいに部屋の中を移動していくたびに、彼女のお尻は、カフェアメリカンのネオンサインのように、ぱっと光るように見える。時間というのも、これと同じかもしれない、とリックは思う。時間とは、終わりのない流れというより、むしろ、連続していない断片のあいだの小さな隙間をすばやく、連続して飛んでいく電子の飛躍だと。それこそ、時間に関して、よく彼が「連結=かぎ爪理論」と呼ぶものだった。もちろん、その理論は彼が発明したものではないが。(「きみの瞳に乾杯」、同、p230~231)


彼は濡れたタオルで煙草を消すと、ぽいっとわきに投げ捨て、両手で彼女の太股に手をまわし、彼女のお尻を(彼の頭は、まだ連続して動くフィルムの齣としての時間のことを考えている。その齣、その古びた役に立たない内容というより、むしろ齣と齣とのあいだの隙間だ。なるほど二次元的に見ると極小だが、三次元的に見ると、宇宙のごとく深みがあり神秘的でもあるその世界を)自分の顔のほうに引き寄せ、まるで子どもが蒸気で曇った窓ガラスから外を見るように、顔をお尻に押しつける。キスをして、洗い立てのふたつの尻肉をそっと噛み(万が一、ふたつの齣のあいだに滑り落ちたらどうなるのだろう? そう彼は思案する――)、舌で彼女のアヌスを(――どこにいることになるんだろう?)舐めながら、二本の指を使って、硬いキャンディの塊のような恥丘のふくらみをマッサージしてやる。(同、p231)


 ……もちろん、この「きみの瞳に乾杯」という短篇小説そのものが存在している場所こそが、「齣と齣とのあいだの隙間」、実際に存在している『カサブランカ』という映画のフィルムの連続体の中でのある一点、リックとイルザとの関係が省略されつつ次の場面へと転換される、「二次元的に見ると極小」な、まさにその場所にある。
 この小説は、映画と関係を切り結びつつ書かれる小説が存在しうるような場所はどこなのかを明確に描いているからこそ、映画を題材とした短篇集の末尾に置きうる。……のだが、しかし、それでもやはり、このような形で映画と小説とが結合されたとは言え、そこで素材とされた作品がより豊かなものになっているかどうかは、また別の話なのだ。
 現実に存在している『カサブランカ』という映画の特に後半の展開は、二人の男女の関係性の機微について、幾通りもの解釈をなしうる。もちろん、ここには、当時のハリウッドにはプロダクション・コードが存在していたゆえに直接的な性描写ができなかったという事情もあるのだが、そうは言っても、「きみの瞳に乾杯」という小説の依って立つ解釈を採用した場合、リックとイルザとの関係がそれ以上解釈の余地のない形で固定されてしまい、作品の持ちうる意味がやせ細ってしまうのだ。


 ロバート・クーヴァーによる一連の小説、『ようこそ、映画館へ』や『ゴーストタウン』は、小説の根本的な部分に映画の問題を混入させることによって言語と映像との間を行ったり来たりするような経験を成立させようとしてはいるのだが、その代償として、素材となる小説のテクストと映画のテクストとの双方が貧困になってしまっている。……というか、映画と小説とを一つの作品の内に混在させるにあたって、双方を貧困化することによってしか共存させることができていない。
 もちろん、その後のクーヴァーは、映画を題材としつつも最終的には言語によってしか成立しえないような作品として『ノワール』を完成させているのだから、ここにあった問題を突破しているとは言えるだろう。しかし、そのことが意味するのは、『ようこそ、映画館へ』や『ゴーストタウン』は明確に失敗作であったということだ。
 では、なぜクーヴァーはこのような失敗をしてしまったのだろうか。……私の考えでは、小説においてこのような無惨な失敗が起きてしまうのは、美術批評の文脈において提起された「ポストメディウム」という概念を文学の方面によく考えずに転用してしまった場合に起きることだと思う。ポストメディウム論がもともと置かれていた文脈をよく見てみると、そのままの形で文学に転用することはまず無理であるのにもかかわらず、そこでなされている議論がよくわからないままに転用してしまうとき、このような無惨な作品が現れてしまうということだ。
 もちろん、クーヴァーが『ようこそ、映画館へ』を出版したのは一九八七年であり、ロザリンド・クラウスによって「ポストメディウム」概念が提起されたのはそれより遅く一九九九年以降であるという、タイムラグは存在する。その意味では、クーヴァー自身が美術批評の既存の文脈を参照して自作に取り込んだというわけでは全くないのだが、しかし、それでもなお、ここには同時代的な問題系があると言える。
 そのことは、ロザリンド・クラウスの「ポストメディウム」に関する議論がそもそもどのような文脈でなされていたのかを確認すると、問題は明確なものとなってくる。……クラウスの議論は、その前提として、クレメント・グリーンバーグのモダニズムに関する議論を批判的に検討しつつ乗り越えるためのものだったということがある。
 では、グリーンバーグによるモダニズムの議論とは、どのようなものであったのか。……それは、一言で言えば、「メディウム・スペシフィシティ」を中核とする議論だ。グリーンバーグによれば、芸術におけるモダニズムとは、その芸術の属する分野に固有の、その依って立つ基盤となるメディウムの扱いが純化され、そのメディアにおいてしか成立しえない自律性を獲得したものだという。例えば絵画であれば、絵画が絵画として存在しうるメディウムの特徴、絵画にとっての本質である平面性にまで純化が進められるものこそ、モダニズムである。
 だからこそ、グリーンバーグは、例えば次のように書いている。


 あらゆる芸術において、そのミディアムに起こったこと、私はこれこそがモダニズムの起源を確定するのに最も重要であると考える。モダニズムを美的質の革新とし、それによって自己が正当化されたのは、ミディアムの直接知覚できる実体の革新による。そうした革新を離れてしまえば、モダニズムは消散する。(「モダニズムの起源」、藤枝晃雄訳、『グリーンバーグ批評選集』所収、p52)


 芸術のモダニズムは、いかなる領域においても、自身の依って立つメディウムの自己純化によって成立する。……だからこそ、モダニズム以降、複数のメディアを横断するような芸術が可能になったことを踏まえて、クラウスは「ポストメディウム的状況」なる概念を持ち出すことにもなったわけだ。
 メディウム・スペシフィシティを前提とするモダニズムに対して、ポストメディウム的状況は、異なるメディウムの間での領域横断・異種混淆性を前提とする。……以上のような要約はあくまでも大ざっぱな要約にすぎないのだが、この程度の粗雑な理解しかない状態だと、「文学は言葉をメディウムとする、映画は映像をメディウムとする、ゆえに両者を横断して混淆するのがポストメディウム的状況である」と楽天的に考えてしまうような誤謬も生まれてしまうのだろう。
 そう、これは、はっきりと「誤謬」なのである。なぜか。……それは、議論のそもそもの前提となるグリーンバーグのモダニズムに関する分析の中で、ジャンルとメディウムの関係性の中で、文学だけはその特性を定義することが難しい例外であることが、はっきりと述べられていたからだ。
 先に引用した評論の他の場所で、グリーンバーグは次のように書いている。


 一九世紀中葉以降、ある芸術は、多少なりとも、他の芸術よりも根本的にミディアムの革新を強く求めてきた。いま、散文小説のミディアムが質を維持するのに刷新兼革新を比較的必要としなかったということに注目すべきである。ジョイスの存在は措くとして、D・H・ロレンスも、トーマス・マンも、そしてプルーストですらそうではない。ただしここでは、ミディアムそれ自体に属するものと、そうでないものとの区別は余りにも微妙であるし、おそらくミディアムそれ自体という概念も狭すぎるであろう。詩の場合、同様の区別が小説よりも大きいか小さいかを見分けることができるかどうかは独立した話題としての議論の場を要するだろう。さらにおそらく、文学において何がミディアムで、何がそうでないのかを区別することは、いずれにせよ甚だ学的で、アレクサンドリアニズム的であり、実際の文学経験からかけ離れすぎていて、労を取るわけにはいかない。文学においては「内容」と「形式」、技術あるいはミディアムは、他のどの芸術におけるよりも、直接にお互いを統御する――もっとも究極的には、他のあらゆる芸術においても同じである。(同、p53)


 芸術の多くのジャンルがある中で、文学だけは、何がメディウムであり何がそうでないのかを定義するのが非常に難しい。グリーンバーグは、明確にそう述べている。しかし、この評論はあくまでも美術評論であり、グリーンバーグの議論も、主に絵画のモダニズムを検討することに主眼があるから、文学については軽く触れるだけで、上に引用した議論が深められることはない。
 以上から導き出される結論は、はっきりと述べておかなければならない。……すなわち、クレメント・グリーンバーグによるモダニズムの議論と、それを批判的に前提したポストメデゥウムに関する議論とは、(少なくともそのままの形では)文学に転用することはできない。
 既に英語圏なんかでも、ポストメディウムの概念を安直に文学に転用した論文は書かれているし、(ロバート・クーヴァーをはるかに下回る水準で)映像を小説に安易に組み込んで「異種混淆性」を実現した気になっている愚にもつかない小説は、さらに多くの数が書かれてしまっている。
 なぜそんなことが起きるのかと言えば、これらの人々は、「文学が前提となるメディウムは言葉である」という安直な定義に、何の疑問も持っていないからだ。「メディウムの純化」がモダニズムの前提であるならば、「言葉の純化」がポストメディウム状況の以前に成立しているはずなのだが、この種の人々がそんなことを考えている節はない。……一方、議論の流れの中で軽く触れただけにすぎないにもかかわらず、やはりグリーンバーグは非常な炯眼の持ち主だと言うしかない。……そう、文学において何がメディウムであるのかということは、実はそれほど明らかなことではないのである。
 ……では、グリーンバーグが突き詰めることのなかった議論を深めてみれば、どうなるのか。文学においてメディウムと言えるものを正確に定義しようとするならば、それは何なのか。さらには、文学のメディウムを自己純化した果てにある文学のモダニズム、さらにその先にある文学のポストメディウム的状況とは、いったいなんなのか。


 ロザリンド・クラウス以降のポストメディウムをめぐる議論は、
芸術作品を構成するデータがデジタル処理に還元しうるという技術的状況を前提している。例えば映画であれば、コンピュータ上で処理すれば、言語記号に変換して処理することが可能である。
 ……ということは、言い換えれば、芸術作品の言語記号への変換可能性がこの議論の前提となっている。そして、文学作品は最初から言語記号でできているのだから、この議論の例外となるのは、よくよく考えてみれば当たり前のことなのだ。もちろんコンピュータの人工言語とは異なる仕方によってではあるが、映像も音響も匂いも味覚も、言語として文学作品の内部に取り込まれている。だから、例えば「言葉」と「映像」を越境することは、メディウムを横断し異種混淆性を実現することにはならない。同じ表現が異なる階層で異なる形態を取っておりいつでも変換は可能であるというだけの状態を、異なるメディウム同士の相互の関係性と取り違えてしまっているのにすぎない(だいたい、古今東西の物語文学において挿絵が添えられることなど無数にあるのだから、言葉と映像が場合によっては変換可能であるなどというのは、当たり前のことである)。……以上のような部分が明快にならなければ、メディウム・スペシフィシティなりポストメディウムなりに関する議論を文学に転用することはできない。
 文学作品の素材とは言葉である、とは言える。しかし、クレメント・グリーンバーグの言う意味でのモダニズム、ある芸術のジャンルが依って立つ基盤としてのメディウムが自己純化され、そのメディウムの特性と作品の質が結びつき、そのメディアを用いることによってしか成立しない状況にまで純化が進むとは、文学においてはいかなる事態なのか。
 文学作品の成立しうる限界地点、そのメディウムにもともと備わる法則に作品の成立が依存し、その特性と不可分に結びついてしまう事態――文学にそのような影響を必然的にもたらすものだという意味でメディウムと呼べるものは、確かに言葉ではあるのだが、そのように言うだけでは正確ではない。より厳密に言わなければならなかったのである。文学作品にとってのメディウムとは、その作品を構成している言語の文法構造である。
 日本語が用いられているなら日本語の、英語が用いられているなら英語の、それぞれの文法構造の限界を、文学作品は超えることはできない(文法構造を破壊するときですらそうである)。その意味で、単に個々の「言葉」が文学作品にとってのメディウムなのではなく、共時的にとらえられる言語体系そのもの(ラング)こそがメディウムだったのである。
 そのように考えてみると、モダニズムとはメディウムの本質と結びつく自己純化の過程であるというグリーンバーグの議論は、文学にも当てはまることがわかる。その上で、それをモダニズムを前提としつつ批判的に乗り越えるためのポストメディウム的状況とは、文学にとってはなんなのかを考えることもできるだろう。
 その作品が所属する固有の言語の文法構造に、作品の成り立ちは依存する。このような意味で純化された閉域の外部とは、異なる法則によって支配されている、異なる言語体系であろう。……つまり、文学作品にとってのポストメディウム的状況とは、複数の言語間での異種混淆性のことなのである。
 以上のように考えてみれば、文学におけるポストメディウム状況とは実は目新しいものではなく、ヴァルター・ベンヤミンやジョージ・スタイナーなどによる既存の翻訳論をきちんと参照すればよいだけのことだったのである(ここでくれぐれも注意しておかなければならないのは、ここでの言語的異種混淆性とは、単なる翻訳可能性の問題ではなく、「翻訳不可能性を前提とした上での翻訳の問題」であることだ)。
 また、この視点は、従来の文学史に対する批判的な読み直しという点でも有用だろう。なるほど、グリーンバーグの議論を以上のような形で文学に転用すれば、エズラ・パウンドやT・S・エリオットの詩作の歴史的意味を位置づけることは用意になる。……一方、モダニズムのような純化された詩作を評価する価値判断が定着すると、例えばウォルト・ホイットマンやアレン・ギンズバーグなどを評価する価値判断がどのようにして成立しうるのか、それぞれが全く異なる価値判断の体系が単に無関係に存在しているように見えていたことも、統一して理解する視座が開けるだろう。ホイットマンやギンズバーグなどはアメリカ文学史の枠組みの内部では不動の位置を与えられながらも、同じ詩としてモダニズムとどのような関連にあるのかは、今一つわからなかったのである。しかし、ホイットマンやギンズバーグなどの本質が言語的混淆性ととらえるならばより広い文脈に一般化した議論が展開できるし、また、パウンドやエリオットにも「自己純化」という枠組みに収まらない言語的混淆性を評価する捉え方をすることもできるようになる。
 ……まあ、一つ言えることは、私が「文学作品に映像を安易に取り込むのは非常に危険である」と考えているのは、以上のようなことを踏まえているからである(別にその前提で文学をやってもいいんだけれど、そうなると、ゴダールの映画とかと完全に同一基準で勝負することになる上に、惨敗している地点からのスタートになるということをわかってるのだろうか……)。少なくとも、私が触れてきた「映像を取り込んだ文学作品」の大半は単に愚かなものでしかなかった。その中でも数少ない例外の一つが大江健三郎の『取り替え子』だったのだけれども、このことについては、いずれ詳述することもあるだろう。










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