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私が愛したバリー・アレン――ドラマ「フラッシュ」を讃える

 ドラマ「フラッシュ」のシーズン1を視聴し終えたの自体はだいぶ以前のことなのですが……しかし、このドラマについて何を語るべきなのか、考えあぐねておりました。
 だってですよ、アメコミヒーローの中でも特に自分が大好きなキャラクターの一人が、果てしなくどこまでも深い愛とリスペクトの元に実写化され……なおかつ、原作コミックからもってきた無数の要素を現代のストーリーとして違和感なく語り直すために念入りに工夫がなされることによって、原作ファンとしては各話ごとに毎回々々顔をほころばせ続けつつも、何の予備知識もない視聴者にとっても興味深く見続けられるであろうという、奇跡的なまでに配慮の行き届いた処理がなされているのです。
 そんなドラマに対して、原作ファンとしてはどうしても過剰な高評価を与えかねないことは、重々承知しております……だからこそ、そのことをきちんと肝に銘じた上で、このドラマを的確に評する文章を書こうとしている以上、極めてニュートラルに、冷静かつ客観的な評価を下さなければならないのです。ファンとしての興奮によって我を失うようなことは、あってはなりません。……以上をふまえた上で、あくまでも冷静な観点から言わせていただきますと、これ、人類史上最高のドラマじゃないですかね。
 ……いや、だってですよ!? 全体のプロデューサーが我らがジェフ・ジョンズであるわけですよ。そして、そのジェフが「フラッシュ」に対してどのような態度を取ってるかと言えば……「おれ、「フラッシュ」なら全部コミックブック版で持ってるぜ~!」とか言ってるわけですよ。
 これがどういうことなのかよく知らないと、「あっそう」ですませてしまいそうなもんですが……ちょっと待ってくださいよと。「フラッシュ」は既に七十五年の歴史があるわけですから、連載開始当時の初出のコミックブックなんつーもんは、むちゃくちゃなプレミアがついておるわけですよ。1940年代の「フラッシュ・コミックス」を全部購入するとして、ミント状態であればゆうに百万ドル以上はするわけです(逆に、全部最低のコンディションであったとしても、十万ドル以上はかかるはず)。幼い頃から「フラッシュ」読者であった、そんな人物が、長じて「フラッシュ」のライターになり、全部合わせれば十年近い期間もの間、担当を務める……というか、よくよく考えてみればおかしいぞと。「フラッシュ」誌をコミックブック版でコンプリートしたと言っても、ライターとして無名時代にはそんなにお金があるはずがないから……もしかして、ジェフ、「フラッシュ」のライティングで稼いだお金を、「フラッシュ」のバックナンバーを買い集めるためにつぎ込んでた……!?
 そんな、自らの身を「フラッシュ」無限地獄に沈め、フラッシュのために人生を捧げたほどのアメコミバカが、満を持して「フラッシュ」のドラマ版のプロデューサーに就任した次第であったわけなのであります。……しかし、いざ完成した作品を見てみると、「フラッシュファンによる、フラッシュファンのためだけに向けられた作品」ということにはならず、もともと熱心なフラッシュファンである視聴者も、フラッシュのことを初めて知るような視聴者も、ともに共存できる……そのような環境が実現できるために、最初から複数の視点による解釈が可能であることがあらかじめ盛り込まれた、多面的な作品になっていたのです。


 ドラマ「フラッシュ」は、ふとしたことがきっかけで「超高速で動けるようになる」という特殊ではありながらも単純明快な能力を手にすることにあった、バリー・アレンという人物が、若く未熟ではありながらも、ヒーローとなり徐々に成長する姿を最初から描き出しています。したがって、当然のこととして、バリー・アレンのことを何も知らない視聴者の視点に寄り添うことが、作品のそもそもの大前提になっているわけです。……そして、このドラマは、単に一人の若者が様々な困難を乗り越えていく成長譚としてのみ見たときも、異常なまでにできがよいのです。どこでにでもいそうな平凡だが善良な若者が、分不相応なスーパーパワーをふとした弾みで手に入れてしまったらそうなるであろうようなこと……若者の若者としての逡巡や苦悩や喜びが、その繊細な感情の揺れ動きの全てが巧みに活写されているのです。
 しかし、その一方で、我々「フラッシュ」読者は、バリー・アレンという人物の来歴を、既にあまりにも知り過ぎています――そこで描かれているのがどれほど若き日々のオリジン・ストーリーであろうとも、バリー・アレンとはいつの日か真に偉大なヒーローになる男であることを当然の前提とみなし……そして、その後の人生の過程で数多くの悲劇的な出来事に見舞われ、その都度それを乗り越え、そして最後には、世界を救うために自分の命を犠牲に捧げる……。
 たとえそれが、バリー・アレンの最初の日々の物語であったとしても、「フラッシュ」の読者は、全てを知ってしまったその後の視点、バリー・アレンについて語られるべきことは何もかもが語られてしまった事後的な視点から、回想する形でしかその物語に接することはできません(……まあ、そんなバリーも、さらにその後には生き返っちゃったわけですが……)。そして、このドラマの製作者の側はそんなことは百も承知であるからこそ、作中での現実の水準において、全てを知ってしまった事後的な状態で若く未熟なバリーに接する、そんな視点までもがあらかじめ織り込まれてすらいるわけです。
 そんなことを考えるにつけ、ヒーローコミックの実写化において、これほど巧みに原作を利用した例は、ちょっと思いつかないくらいなのです。バリー・アレンのみならず、ウォリー・ウェストやバート・アレンがフラッシュを襲名していた時期も含め、膨大な量の「フラッシュ」誌からの引用が敬意をもってなされたその上で、このドラマ独自のストーリーを構築するように絶妙にシャッフルされているため、ひたすら「フラッシュ」のコミックを読み込んできたような読者でも、先の展開を読めないように作り込まれています。……例えば、第1シーズンの黒幕がリヴァース・フラッシュであることは「フラッシュ」読者ならすぐにわかるのですが、「リヴァース・フラッシュの容疑者」がわざわざ二人設定されているため、結末までわかってしまうようなことはないのです。
 ついでに言うと、ドラマ版のオリジナルな要素の多くも、大変素晴らしいものです。例えば、S.T.A.R.ラボの研究員としてバリーをサポートするシスコとケイトリンの二人にしても、既存のコミックキャラクターから名前が取られているとはいえ、実質的にオリジナルのキャラクターであるでしょう。……で、特にシスコですよシスコ! ヒーローコミックの実写化というと、つべこべ言って原作のテイストから離れて「まあなんとか現実にもありそうな、リアルと言ってもおかしくない」くらいの無難な落としどころを目指すようなことがよくわるわけですが、このドラマの場合、ヒーローもののベタなあり方が大好きなシスコがノリノリでコードネームやらコステュームやら秘密メカやらをガンガンぶち込んでくるのがサイコーです。……さらには、バスター・キートン大好きッ子である上に、人類全体が滅びるかもしれないようなヤバい事態で、いきなりダグラス・アダムズの小説を引用したりするわけですから……うう、シスコーッ! 好きだーーーッ!!! (……しかし、それにしても……シスコもケイトリンも実質的にはドラマのオリジナルキャラだと私は思ってるんですが、ケイトリンが本当にキラーフロストちゃんなんだとすると、それはそれで、なんだかこみあげてくるものが……。そりゃあ、このドラマの中でもケイトリンは結構酷い目に遭ってますけど、それでも、本来のその身に起きるはずだったことと照らし合わせると、「ケイトリン、あんた、ホンマによかったなあ……」などとしみじみと思ってしまうのです。あと、シスコも名前の元ネタはヴァイブにあたるわけですが、ジェフ・ジョンズがNew 52で「JLA」を担当した際、ヴァイブって、「しょうもない三下ヒーローだと思われているものの、実は、フラッシュとスピードフォースの影響関係に干渉しうる可能性を秘めている唯一の人物」ということにしようとしてたんですよねえ。そんなキャラの名前をわざわざフラッシュのドラマに持ってきたってことは、ジェフ的にはなんらかの思惑があるのかもしれません)
 ……なんだか取り乱してしまいましたが、以上のように異常なまでの手厚い配慮をもってこのドラマが作り込まれていることは、新規の視聴者の視点と長年のフラッシュファンの視点とが単純に共存できるというだけの話ではありません。それだけではなく、最初のオリジン・ストーリーが既にして二度目の回想でもありうるというその二重性自体が、バリー・アレンという人物の本質なのであり……このドラマのシーズン1全体を通して、作品全体で追求された骨子となってすらいたのです。


 では、バリー・アレンという人物の本質とは何なのか。……それは、彼が、反復とともに生きるしかない人物であるということです。
 DCコミックスの擁する無数のキャラクターの中でも、トップクラスに位置することは確かではありながらも、スーパーマンやバットマンと同格であることは絶対にないヒーロー、それがフラッシュです。したがって、「フラッシュ」誌はほとんど切れ目なく刊行され続けてきたものの、スーパーマンやバットマンのように、切れ目なく続く本編と別枠の番外編としてオリジナルストーリーが刊行されるようなことは、ほとんどありませんでした。
 レギュラー・シリーズの刊行が打ち切りになったり継続になったりして安定しないほどの不人気でもなければ、思い切って設定を変えたオリジナルの番外編が単発で刊行されるほどの人気でもない……ちょうどそのような程度の位置にあるのが「フラッシュ」です。結果として、時代ごとの移り行きはありながらも、同工異曲のストーリーが何十年にも渡って毎月毎月途切れることなく刊行され続けてきたわけです。
 バリー・アレンという人物には、クラーク・ケントやブルース・ウェインがそうであるほどの特殊性や人気やカリスマ性はありません。だからこそ、彼の人生は、絶え間なき反復の内にある……ちょうど、我々読者の大半の人生がそうであるように。毎日がほとんど同じことの繰り返しであり、常軌を逸したそれぞれに特殊な事件が頻発し、波瀾万丈にして不規則な生涯が展開されることなどありえない。
 我々の多くが絶え間のない反復から抜け出ることがほとんどありえないのと同じく、バリーもまた、そのような反復から抜け出ることはありません。したがって、バリー・アレンのストーリーを語ることになった者がまず最初に求められるのは、とらえようによってはただのマンネリでしかない、この反復を肯定できるかどうかということなのです。
 新たに「フラッシュ」誌のライティングを担当することになった者は、しばしば、何十年も積み上げられてきたマンネリにしか思えない定型から外れ、自身のオリジナルな着想を展開しようともします――しかし、熱心な「フラッシュ」誌の読者であれば、直近二十年ぶんくらいのバックナンバーは全て読んでいるような状態がむしろふつうなのです。それでもなお毎月必ず「フラッシュ」誌を読み続けるのはなぜかと言えば、毎週同じ定食屋に通って同じ昼食を食べるかのように、既にして習慣づけられた行為になっているからです。そんな、同じメニューであるからこそ食べ続けることができる客に対して、中途半端に自分の独創性を発揮した創作料理を提供するような料理人は、客がどのような状況でどのように食事しているのかを考えたことがあるのだろうか、ということなのです。その独創性に自己満足はできるかもしれない料理は、しかし、毎週飽きずに食べ続けることのできるものなのか、と。


 そのような意味では、ドラマの「フラッシュ」の最も重要なポイントは、各話の冒頭がバリー自身によるモノローグで'My name is Barry Allen. I'm the fastest man alive.'と始まることにこそあります。「フラッシュ」誌を読み続けてきた読者であれば――そこで語られる固有名詞や、細かい表現にわずかな変化こそあれ――このモノローグを、それこそうんざりするほど何度も何度も何度も何度も目にしてきたわけです。そして、そこで語られるものが定型の内にあるからこそ、新しく始められたドラマとしてゼロから語られているはずのストーリーが、同じモノローグによって語られた、我々自身の記憶の内にある無数のフラッシュのストーリーと一挙に連結され、もう自動的に涙腺がうるむような事態になってしまっているわけなのです(……そういう意味では、コミックの方でも、『リバース』を経て新たに「フラッシュ」誌のライターに就任したジョシュア・ウィリアムスンは、このモノローグを復活させてくれたので、私としては既に信頼しています。と、いうかですね……この人、もともと熱心な「フラッシュ」読者で、ジェフ・ジョンズがライターだったころにわざわざ会いに行って、ジェフジョンフラッシュがいかに素晴らしいかを熱心に告げていたような人らしい……おい、ちょっと待て……もしかして、君らは、バリーとウォリーなのか……?)。
 単なる凡人に過ぎないバリー・アレンのストーリーは耐えざる反復の内にある、だからこそ、そこにある反復を小手先の独創性で誤魔化したりなかったことにするのではなく、マンネリをマンネリとして受け入れ、反復がそこにあることを認めることによってしか、バリー・アレンという人物について語り始めることはできないのです。
 バリーの生きる生の条件として、大いなる反復の内にいるしかないことは、あらかじめセットされてしまっています。……だからこそ、第1シーズンのクライマックスにおけるバリーは、タイムスリップによって文字通りにループする生の中を生きる羽目に陥ることになるのでありーー結果として、初めてバリー・アレンという人物に接することになった視聴者ですら、初めて目にするストーリーでありながらも同時に二度目のこととしてバリー・アレンの生涯に立ち会うことになる、言い換えれば、バリー・アレンの生涯をその終わりから振り返って回想する「フラッシュ」読者の視線に合流し、そこにある二重化された世界を見ることが可能になるわけです。
 これは、逆に言えば、バリー・アレンの物語に最初に接する人間は、そのそもそもの始まりの時点から、バリーの二重化された生、反復される時間を共有できるわけではないということになります。……ならば、そのそもそもの最初に語られたパイロット版、'My name is Barry Allen. I am the fastest man alive.'という言葉が多くの視聴者にとっていまだいかなる意味をも持たない最初のエピソードにこそ、視聴者がバリーの本質を知らぬままにドラマ自体と別れてしまう危険が潜んでいることになります。
 しかし……いざそのような観点で改めてパイロット版を振り返ってみると、このパイロット版だけでも、バリー・アレンの本質が初見の視聴者にも伝わるように、周到に構築されていたことがわかるのです。冒頭において語られる、バリーの幼少期の出来事――自宅が不可思議な何者かによって襲撃され母親が殺害された事件の渦中で、父親は、バリーに対して'Run, Barry. Run!'と叫ぶことになりました。もちろんそれは、幼く弱いバリーに対して「逃げろ」という以上の意味を持つ言葉ではありませんでした。そして、時が過ぎた作品が語る現在時、パイロット版のクライマックスにおいて、幼少時のあの事件と類似する状況に置かれることになったバリーに対して、再び、'Run, Barry. Run!'という言葉がかけられることになります。
 極めて類似した二つの状況下において、同じ人物に対して向けられた、同じ言葉――その言葉が、全く同じ言葉が反復されたものであったからこそ、何もかもが変わってしまっていることがわかる。凡庸な人生が反復の繰り返しでしかないことをいったん受け入れるからこそ、完全に同じことの反復が、それでもなお全く異なる意味を持ちうることを示し、その内部に、バリーの変容、その成長を刻み込むこともできる。……バリー・アレンという人物が何者であるのかを示すためには、ただそれを描くだけでよかったのです。










アメコミ関連で最近考えたこと

 ここしばらくのところ、通常の更新を変更してアメコミに関する記事を連続してアップしてきましたが、それは次回で最後にして、通常の運営に戻りたいと思います。
 実は、「DCユニヴァース:リバース」に関する記事も書こうと思ってはいたんですが……いざ「リバース」を読み終えた後で『ダークサイド・ウォー』を読み返してみると、「リバース」の内容で目新しく思えたようなものは、実はほとんど全て『ダークサイド・ウォー』の方に出てきているなあ、と。そう考えてみると、わざわざ「リバース」に関する感想を独立した文章にする必要はないように思えてきたのです。
 やっぱDCコミックスって全日本プロレスと同じだなあ……と改めて思うのが、「実質的な顧客層の数は少なくとも名前自体はビッグネームなので、いざ大きな事件が起きると、実態をなんも知らんのに事情通ぶって語りたがる輩が激増する」ということなのであります。そういうわけですから、「DCユニヴァース:リバース」に関する記事をこのブログに上げたとして、(わざわざ私の方からも見えるようにリンクを貼った上で)上から目線であれこれ論評した挙げ句極めて的外れなダメ出しをするような愚か者が複数出てくることが自明なのです。以前起きたこととして、私が「キャプテン・アメリカ」誌を読み始めてから後に生まれたような大学生が私の見解にあれこれダメ出しした挙げ句、「まあ、考えは人それぞれか」などと、さも対等であるかのような結論を宣言したり……あるいは、アメコミの映画化に関する私の見解が、「特にアメコミに関する詳細な知識を持っているわけでもない一般的な観客層のなんとなくの共通認識」と一致しないものであると、「逆張りしてるだけ」などとわざわざ言ってよこす輩が現れるような地獄絵図がありました。
 余談になりますが、「逆張り」という言葉は、私の中では、「その言葉が発せられた時点で、それを言った人物の言葉の信憑性が十分の一くらいにまで減じられるNGワード」ということになっております。もともとの意味であろうギャンブルでの張り方とかから離れて、複数の異なる考えが存在するときに特定の何かを「逆張り」であると決めつけるということは、そもそも何かを「逆張り」であると宣言する人物の頭の中では、最初から「正解」が決まっているということにほかなりません。「正解」が「正解」であることになんの疑いもないからこそ、「正解」とは異なる考えを持つ者は、それが「正解」ではないことを本人もわかった上で、パフォーマンスなどの別の目的のために間違いを承知で特異な考えをわざわざ述べている、ということにされてしまっているわけです。……そんな極めて異常な偏見が高じると、ある特定の分野でにわか達が特に根拠もなくなんとな~く持つにいたった共通認識とは異なる意見は「逆張りしてるだけ」ということにされてしまうわけなのです。……いや、例えば私の場合、にわかが参入してくる前から元々持っていた考えが、にわかが参入した後でにわか達によって形成された常識から外れるということで「逆張り」扱いされたわけですが……ということは、私は時空を越え、自分よりはるかに基本的な情報を持っていない人々の未来の見解を確認した上で、改めて過去にさかのぼってから、わざわざにわかの考えから外れる「逆張り」をしたということになるんですかねえ? ……おれ、そんなスーパーパワーを持ってたのか……


 キャプテン・アメリカと言えば、ニック・スペンサーのライティングとともに新創刊された「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」をめぐる状況も、ひたすらどこまでもうんざりするようなことになっていますなあ。創刊号の結末で、キャップが実はハイドラのスパイであるとをずっと隠していたことが示唆されるということがあったわけですが、そのことをきっかけに、巨大なバッシングが吹き荒れたのです。
 確かにそれが本当ならヒドイ展開であるわけですが……私が疑いを持ったこととして、「しかし、あのキャプテン・アメリカ道高段者のニック・スペンサーが……エド・ブルーベイカーがやらかしたDマン抹殺事件の後始末をしてDマンの名誉を回復するというキャプテン・アメリカ史上不滅の功績を既に残している、あのキャップ愛に満ちたニック・スペンサーが、そんなことをするかあ?」ということがあったのです。
 そんで、いざ「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」のその後の展開を読んでみると……なんのことはない、キャップとハイドラをめぐるその展開は、もともとニック・スペンサーがライティングを手がけた「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」および『アヴェンジャーズ:スタンドオフ』で敷かれていた伏線が回収されたものにすぎず、きちんと通してストーリーを追っている読者からしてみれば、思いっきり話の途中の部分でしかなかったのであります。
 ということは、この事件はつまり、「別に普段からキャプテン・アメリカ関連の展開をチェックしているわけでもなければ、現行のライターであるニック・スペンサーの力量やキャップ愛を把握しているわけでもないのに、なぜかキャップファンを自認するクソども」と「話の途中の中途半端な部分を、あたかも新規読者でも完全に新しく読み始められるジャンプイン・ポイントであるかのように大々的に売り出したマーヴルのクソ編集方針」の華麗なコラボによるでっちあげにすぎなかったのです。ニック・スペンサーは悪くな~い!


 だいたい、キャップファンにしてみれば、真に激怒するべきなのは、映画『シヴィル・ウォー』の終盤の展開であるでしょう。私の場合、「どうせアクション演出の部分だけは高度なものになっていても、話はクソなんでしょ?」「どうせキャップは出てなくて、USエージェントしか出てないんでしょ?」とあらかじめ覚悟して見に行ったわけですが、終盤の展開の最悪ぶりは、それすら上回ってきたのでした……。
 そもそもの話として、キャプテン・アメリカというキャラクターが人命救助に関して「全員を救えるわけはない」とか言って最初から諦めてて、救いきれない犠牲者がいることを織り込み済みで活動している時点で、いやもうキャプテン・アメリカというキャラクターを用いる必然性自体がないからねと。……で、自分は強い信念の元に理想を徹底して追及しているわけでもなく、厳しい現実の前で妥協することは既にしているくせに、トニーが理想と現実を折り合わせるために必死で奔走して折衝した結果としての妥協案を提示したら、いやそれは従えない! とか言ってその部分では絶対に妥協せずに通すのって、それただの我が儘な人だからね。
 ……で、終盤の最悪のクソ展開がくるわけですが……なんというか、これはもう、「この人の過去とこの人の過去とをこうつなげたらこうつながるぞ」ということを、キャラクター設定を駒のように動かすことだけでつなぎ合わせた、キャラクター自体にはなんの思い入れもない人々が機械的に設定をいじることで、とにかく辻褄があった話を作ろうとした結果の悪夢のごとき産物であるわけですよ。ルッソ兄弟が脚本がうまいなんてことにしちゃうからこんなことが起きるんだよ。
 実は、DCコミックスの方でも、同時期に「バットマン&ロビン・エターナル」の終盤で、映画『シヴィル・ウォー』の終盤の展開に酷似するネタがあったことは事実なのであります。しかしそっちの方はあくまでもわき役に関することですから、メインのキャラクターの過去に取り返しのつかない設定を後付けで盛り込んでしまうようなことにはなっていません。そして何より、そのネタは、とあるキャラクターにヒーロー活動を引退させその周辺の出来事に一つの区切りをつけて結末に向かわせるためのこととしてきちんと最後まで描ききっているので、ちゃんと納得感があるんですよねえ……。


 私としては、日々精進しながらキャプテン・アメリカ道を邁進しているつもりではあるのですが、ニック・スペンサーをバッシングしつつ映画『シヴィル・ウォー』をほめたたえるようなことがトレンドなのだとすると、それには徹底して抗戦せざるをえないのでありますし、そのことが「逆張りしてるだけ」などと言われようものなら、そんな愚か者どもにたいする怒りを押し殺すことなどできないのであります。
 しかし、キャプテン・アメリカを擁する当のマーヴル・コミックスはと言えば、女性層などの新規読者の開拓に余念がなく……まあ、そのこと自体は別にいいわけですが、新規読者の開拓にほんのわずかなりとも障害になりそうなものなら、従来の読者にとって思い入れがあるようなものでもどんどん切り崩し、従来の読者を切り捨てていくので、「やっぱマーヴルは新日本プロレス……」と思うほかないのです。
 先日も、たまたまネット上を検索していて見つけたこととして、活字メディアなどではアメコミ関連の識者であるということになってるらしい人が、「基本、マーベルの方がDCより面白い」などとのたまっていて、突発的に殺意を覚えました。……いやもちろん、DCの主要作品とマーヴルの主要作品とを念入りに読み込んだ上でそのような結論に至ったのならばしょうがないのですが、この人の場合、そもそも商業誌上にあげているアメコミ関連の原稿が間違いだらけなわけです。で、ネットに書き散らしていたそんな言葉の前後を確認してみても、DCコミックスがふだん発行しているコミックのどこがどうつまらないのかに関する指摘は皆無で、具体性が全くないのです。ぶっちゃけ読まないで言ってるだろと。
 例えば、DCコミックスが擁する現役のトップライターとしてはジェフ・ジョンズやスコット・スナイダーやトム・キングなんかが挙げられるわけですが……これらの人たちの仕事が「基本、つまらない」と思えてしまうほどに優れた人材とされるのは、マーヴルで仕事をしている中で具体的に誰あたりなんですかねと。まさか、「今のベンディス」やらジョナサン・ヒックマンあたりが先の三人より上とか言うんじゃねえだろーなあゴラァ! などという怒りが腹の中で煮えたぎっているのであります。
 だいたい、昨年度のDCコミックスは『コンヴァージャンス』後の「DC You」という新展開が売り上げ的に大ゴケし、それが今年の「リバース」につながったんでしょうが、別に「DC You」は内容面での評価自体は低くないわけです。……というのも、アメコミ業界にありがちなコンティニュイティをいったん放棄し、各クリエイターの作家性の尊重するという方針で始まったのが「DC You」。ここで展開された新規タイトルの中には批評的に高評価の作品も結構ゴロゴロあったんですが、売り上げに全く反映されませんでした。
 つまり、「内容的には悪くないが商業的には失敗」という評価が既に確立しているのが昨年度の「DC You」だったわけで、一方のマーヴルが新規読者の開拓に成功した結果、両社の売り上げが結構離れたというのが、最近のアメコミ業界の状況です。そして、ここには、両社のコミックの内容面での優劣がはっきりついたという論調などないのですが……もちろん、アメリカでの一般的評価に従わなければならない必要などないわけですが、DCのコミック全般が全体としてマーヴルに劣るというのなら、「DC You」が内容面で何がダメだったのかを具体的に説明しやがれっちゅー話ですよ。「基本、マーベルの方がDCより面白い」とか言われてるとき、基本的にダメなものとされてるDCの作品ってなんなの? 『グレイスン』とか『ゴッサム・アカデミー』なんかの最近の作品は邦訳も出てるから誰でも検証可能になってるけど、このあたりのラインアップも、全部ダメなのよね? ……逆に、自分が読んでいないコミックを、売り上げの数字だけを見て「つまらない」と勝手に決めつけて偏見を垂れ流しているんだったら、とうてい許されることではないね。
 こういうのを見ておりますと、マーヴルしか読んでいない人間が、アメコミ全般の事情通だというふりをした挙げ句、DC方面で大きな話題があると、事情を全く何もわかっていないのに極めて的外れ自説を開陳して間違った偏見を垂れ流すという、日本でも新日本プロレスの周辺の人々が全日本プロレスに対してやっているのと全く同じことが起きているのがわかります。


 ……などというように、アメコミ関連の情報に接していると、日々憤懣やるかたない思いが蓄積してくるわけでありまして、もう実写化されたものなどいっさい目にせず、コミックだけをただ黙々と読んでいればいいのではないかとも思うのではありますが……し、しかし! 今や私には、あれが、そう、あの作品があるのです……
 どれだけデタラメなキャラクター造形がなされた実写化作品を見ようとも……わけわかってないのに知ったような口を利きたがるクソどもによって怒りが増幅されようとも……どれだけ心が折れそうになっても、何度でも戻ってくるたびにDCコミックスの一読者としての心が洗われ新鮮な気持ちを取り戻すことのできる、そんな作品が、コミック以外にも、実写化された作品でも現れるに至ったのです。
 そして、それを仕掛けたのは……そう、まさにあの、ジェフ・“おれのコミックのコレクションは6万冊以上あるが、99パーセントはDCだぜ~!”・ジョンズだったのです! 今や、ドラマの「フラッシュ」こそが、DCコミックスの読者が何度でも帰ってくることのできる故郷になりえたのです……ッ!











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 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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