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凡人は神話を語りうるか?――『ジャスティスリーグ:ザ・ダークサイド・ウォー』(下)





 『ジャスティスリーグ:ザ・ダークサイド・ウォー』(ハードカヴァーとkindle版)


  ライター:ジェフ・ジョンズ
  アーティスト:ジェイスン・フェイボク、フランシス・マナプル


 というわけで、アンチモニターによってダークサイドが殺害されたところから始まるのが『ダークサイド・ウォー』の第二幕。
 地球を舞台として展開されたアンチモニターとダークサイドの激闘であったが、その場に居合わせたジャスティスリーグの面々は、単に巻き込まれているだけのような印象が強かったものの……ダークサイドの死とともに、彼らの身にも大きな影響がもたらされることに。ダークサイドの死によって世界の原理が大きく均衡を崩した結果、ジャスティスリーガーたちの多くが、神にも等しい力を手にするという事態が発生するのであった……。
 この第二幕自体は「ジャスティスリーグ」誌では45号と46号のみという短いものでしかないが、各メンバーの身に起きたことの詳細は、それぞれのワンショットで語られるのであった(単行本にまとまった『パワー・オヴ・ザ・ゴッズ』では、そのワンショットを全て収録)。また、この第二幕においてはアーティストがフェイボクからマナプルに交代しているのだが(第三幕は再びフェイボク)、ダークサイドの死によって神々の力が周囲に拡散するという第二幕の冒頭の状況下においてカービイオマージュ全開のアートになるのが最高過ぎるのであった。
 さて、分不相応な力を手にしてしまったジャスティスリーガーたちを描いたワンショットの方はと言うと……ブラックレイサーと融合して「死の神」となったフラッシュ、アポコリプスの太陽のエネルギーを吸収して「力の神」となったスーパーマン、ニューゴッズの力と結びついて「神々の神」となったシャザム、ダークサイドの死によって失われた力をそのまま吸収して「アポコリプスの神」となったルーサー……などが描かれることになったのだけれども、正直なところ、『ダークサイド・ウォー』の本編に比べると総じて低調だなあ、と。
 そんな中、私としてはぶっちぎりの評価を下したいのが、トム・キングのライティングによるグリーンランタン編。パワーリングとマザーボックスの融合によって「光の神」となったハルが、時空を超越し現実を自由に改変すらできる全能の力を手にした顛末を描いている。
 あらゆる現実に干渉し改変できる全能の力を手にしたハル・ジョーダンが、全能の神が全能であるゆえに持たないただ一つのものこそが、自分の思い通りにはならない世界を目の前にしたときに持つ自由意志であることに気づき、ごくあっさりと全能の神の座を捨て、意志の力のみを武器に戦う一介のグリーンランタンに戻る……。短いページ数の中でグリーンランタンの本質を完璧に描き出して独立した短篇としても非常に完成度が高い上に、かつて『エメラルド・トゥワイライト』においてグリーンランタンであることを放棄して全能の力を求めたハルの決断と正反対のことが描かれていることに気づいたとき、思わず目頭が熱くなってしまうのであった……。


 そんな素晴らしいグリーンランタン編とは別の意味でぶっ飛んでいるのが、ピーター・J・トマシのライティングによるバットマン編なのであった。
 もともとバットマンの場合、第一幕の時点で既にメトロンに代わって「メビウスの椅子」に座ることになり、多元宇宙のありとあらゆる知識にアクセスできるという、なんだか既にヤバイ感じになっていた。
 多元宇宙のあらゆる知識にアクセスできることになったバットマンが真っ先に発した質問とは……


  「私の両親を殺したのは誰だ?」


 ちょ……ブルース~! 全宇宙の存亡の危機なんやで! ……そんな、完全にマイペースで「ジョー・チルか。そうか、そうだな」と納得しきりのバッツだったが、即座に発した次なる質問は……


  「ジョーカーの本名は?」


 ……ぶ、ブルーーーーース~~~!!! こんな超絶的な非常事態ですら、ゴッサム界隈のことにしか興味ないの!? ……ていうか、自分の知りたいことだけ知ったら知ったで、「私は神になったぞ」とか調子こきだすし……他人の頭上高く浮遊するポジションを定位置にし出すし……そんな、いつも以上にヤバイ人に「ブルース? おい、ブルース!」と呼びかけたのは、そう、我らがハル・ジョーダン! いいぞ~、ガツンと言ったれ、ハル!


  「じゃあよ、次のワールドシリーズはどこが勝つんだよ?」


 ……こんな男に期待した私が馬鹿だった……。
 一方のバッツはバッツで、「メビウスの椅子でアクセスできるのは過去と現在の知識だけだ、未来の予知はできん」などと素で答え出す始末。しかし、いざハルの方をまじまじと見て色々と情報を確認すると、さらにさらに調子に乗った男がそこにいるのであった……。「ジョーダン、貴様が達成したことはグリーンランタン・コァの外には何もないではないか。ん~?」「貴様がヒーローなのではない、そのリングがヒーローなだけだ」などと容赦なくボロクソ言い始めましたよ。……しかし、今回のバッツはきちんと情報を収集した上でボロクソ言ってるので……ということは、ハル、これはやべーよ、自動車買おうとしても保証人すらいなくて醜態晒してたときのこととかもバレてんぞ!?
 ……そのような、完全無欠のストーキング能力を手にしたバットマンがゴッサムに帰還したワンショットにおいて描かれたのは、その能力を駆使してゴッサムの犯罪と戦う姿なのであった……!(……しっかし……多元宇宙のありとあらゆる情報にアクセスできる能力を手にしながら、それでもなお、ゴッサムのことしか興味ないのか、この人は……)
 膨大な量の情報を処理した結果、犯罪が発生しそうな場所を事前に特定することが可能になったバットマン(……しかし、それならやっぱり、ワールドシリーズの勝者くらい、余裕で予想できたんじゃ……)。犯行間際の強盗団を北極にまでワープさせて置き去りにしますが、「こんなとこに置いてかれたら死んじまうよぉ!」などと泣きつかれると、「あっちに向かって全力で行けば、なんとかギリギリ生還できるぞ? その間、ゴッサムの無実の市民は安全でいられるというわけだ」などと言って立ち去るその姿は、さすがに不殺の信念を固く誓ったヒーローだと言うほかありますまい。そのほかにも、元妻に逆恨みした挙げ句殺害を計画する男を捕まえると、ワンダーウーマンの故郷、アマゾン族の女傑の群れの中に男を放り込み、「ここにしばらくいれば女性を尊敬する習慣が身につくと思うぞ?」などと言い出します。
 ……なんというか……やっぱり、この人にスーパーパワーを持たせたらイカン……。


 さて、ダークサイドの死によって世界の原理の均衡が崩れ、新たに力を獲得した勢力がそれぞれある程度確定されることになった第三幕になると、そんな各勢力による混沌とした争いが展開されることになるのであった。
 そして、その混沌とした闘争が次々に新たな段階へと進展するその渦中において、「ダークサイドの死」を第一幕に据えていたストーリーの全体がなぜ『ダークサイド・ウォー』と題されているのか、その理由が明らかになる。
 『ダークサイド・ウォー』という作品のそもそもの前提であったこと――それは、神々と凡人とはそれぞれが全く異なる原理の中で生きているのだが、にもかかわらず両者の世界は地続きになっており、相互に関連し影響を与えあっているということだ。
 確かにダークサイドはアンチモニターとの闘争において破れ、無惨に死んだ。しかし、神にとっての死の概念が、人間にとってのそれと完全に同一のものであるとは限らない。ひとたびこの世から完全に消滅したはずのダークサイドは、しかし、時が満ち条件が整いさえすれば、再びこの世界に降臨するだろう。
 一方、ダークサイドを殺害することすら可能であったアンチモニターは、まさにダークサイドを殺害したことによって永劫に回帰する終わりなき神々の世界から離脱する機会を得ることになる。……しかし、もはやアンチモニターではなく単なる凡庸な存在としてのメビウスに戻ったとき……かつての自分と同じように、ふとした偶然からたまたま分不相応な力を手にした凡人に襲撃されるや、ごくあっさりと犬死にするだろう。
 アンチモニターとダークサイドとの間で闘われた闘争は、ダークサイドの死をもってアンチモニターの完全な勝利に終わったはずである。しかし、その後の展開をも含めて俯瞰して考えたとき、果たして本当にアンチモニターが勝利したと言えるのか。ダークサイドはひとたび殺害されようが平然と再生し、一方のアンチモニターは、神々の世界から自ら離脱するやいなや、偶然に翻弄され無意味にあっさりと死亡することさえある、一度限りの凡人の生を生きる。
 私の考えでは、ここには、アメリカン・コミックスの歴史において実際に起きたことへの参照があると思う(……念のために書いておくと、そういうことはないと言うのであれば、『ダークサイド・ウォー』からそのまま続く「DCユニヴァース:リバース」においても、現実のコミックの歴史的事実への参照は存在しないということになる)。
 確かに、かつてダークサイドを生み出したジャック・カービイの仕事は、時代の流れの中で凡人たちによって抹殺された。しかし、ひとたび殺されようがなんだろうが、しかるべき時を経れば、カービイの仕事は何度でも再生する。常人の域を越え時代を越える作品を生み出す天才の仕事は、継続して評価され続けるがゆえに古典になるのではない。そうではなく、時代の状況が移りゆく中で時に忘却され、時にその評価は失墜し、時に抹殺されさえし……それでもなお、その都度再生し、新たな観点から再評価されうる作品だけが、古典として生き延びうる。……その一方で、凡人の作品は同時代の状況にうまく合致し高い評価を得ることがあっても、天才の作品を葬り去ることさえあっても、時代が去りひとたび忘却されるや、決して再生することはない。
 そのあまりにも残酷な現実、天才と凡人との耐え難い落差を見据え、無限に再生する天才の仕事の素晴らしさと恐ろしさを理解し……それでもなお、一回限りの凡人の生によって達成された世界を肯定するという姿勢を、ジェフ・ジョンズは貫いているのだ。
 なぜなら、DCユニヴァースとは、そのような凡人たちによって見られた夢の集合体であるからだ。


 とはいえ、ある観点から見れば、凡人の夢想とは脆弱なものだ。卓越した天才が圧倒的な独創性をひとたびその内部に持ち込むやいなや、その影響は速やかにその全体にまで行き渡り、その世界が根本的に変質することになるだろう。……そして、『ダークサイド・ウォー』と「DCユニヴァース:リバース」の両作を貫いて圧倒的な強度をもたらしているのは、天才の世界と凡人の世界をともに冷徹な目で見据えた上で、それでも凡人たちの世界に全てを賭けることにしたジェフ・ジョンズの決意なのだ。
 だから、仮にジェフ・ジョンズが、圧倒的な影響力を持つ天才に正面から喧嘩を売るようなことがあったとして……それは、勝算があるわけでももなければ対等な条件であるわけでもない、単に無謀な挑戦なのである。正面から立ち向かえば、一瞬でミンチにされるかもしれない。仮にこちらが勝利を収めようとも、相手は何度でも再生する。そして、自分の側には今だけ、一度限りの生しかない……。そんな悲壮な決意の元に今まさに闘われようとしつつあるのが、DCユニヴァースを守るための闘争なのである。ただ単に王殺しがなされたわけでもなければ、既存の権威が失墜したわけでもないということを、無邪気にはやし立てる者たちは理解しているのだろうか?


 凡人たちの生きる世界を描きながらもそれを完結した世界として閉じてしまうならば、その外部にある、凡人の価値観を超越した神々の世界の存在そのものがなかったことになる。……逆に言えば、それは、超越的な存在があるからこそ、凡人が凡人であることの意味がわかると言うことなのでもあり……どれほど隔絶した価値観がそこにあろうとも、両者は地続きの同じ世界の中にいる。
 地球上で人間として生きるジャスティスリーガーたちは、ふとした偶然から神の力を手にすることとなり、その異様な世界の中に放り込まれた。……一方、神々の力を手にすることはなかったワンダーウーマンが『ダークサイド・ウォー』の視点人物に据えられているのは、彼女は元々神々の世界と人間の世界にまたがって存在していた人物であったからだろう。
 そんなワンダーウーマンは、神々の世界と人間の世界が入り交じる有様をまざまざと体験したその上で、スーパーマンの言葉を受けて次のように結論づけることになる。


  Clark's right.
  クラークは正しい。



  We were never gods.
  我々は神であったことなどなかった。



  Gods watch the world from above.
  神々はこの世界を上方から観察する。



  Gods don't intervene.
  神々は干渉しない。



  Gods don't bleed. Or cry. Or laugh. Or love.
  神々は血を流さない。泣きもしない。笑いもしない。愛することもない。



  Not like us.
  我々とは異なる。



  We struggle.
  我々はもがく。



  We fight.
  我々は闘う。



  We fail.
  我々はしくじる。



  But the best of us never give up.
  しかし、我々の中でも最良の者は、決して諦めない。



  No matter the odds.
  たとえ、どれほど勝ち目がなかろうとも。



 DCユニヴァースのヒーローたちは、神ではない。しかし、人間の世界と神々の世界とが単に無関係に別々に存在しているのでもない。両者は相互に影響しあっているし、双方の領域を合わせて初めて、世界の全体がある……そのような前提で『ダークサイド・ウォー』が展開されることがあったからこそ、なんかヤバイ邪神を召喚しちゃう回路も開いちゃったわけだ。


 ……とはいえ、そのような結論に向けて収束する『ダークサイド・ウォー』という作品に、私としては一つの疑問が残るのも事実なのである。
 と、いうのも……卓越した名声を獲得し、明らかに特別な存在であるジャスティスリーグのメンバーの多くは、単純に犬死にすることを許されているような存在ではないからだ。彼らの多くは既に何度も死に、その都度再生している。明らかに彼らは、『ダークサイド・ウォー』が描く、凡人の常識を逸脱した神々の方にこそ近い生を送っているのである。
 だが……まさにそれこそが、『ダークサイド・ウォー』に連なる「DCユニヴァース:リバース」で描かれたことだったのだ。私の考えでは、いざ「DCユニヴァース:リバース」を読んだ上で改めて『ダークサイド・ウォー』を読み直してみると、「DCユニヴァース:リバース」で語られている内容は、そのほとんどが既に『ダークサイド・ウォー』の時点で語られているように思えるのである。むしろ、「DCユニヴァース:リバース」は、極めて単純にして素朴なただ一つのことしか改めて語ってはいない。
 そう、それは、時に複雑怪奇でもあり、奇妙極まりないものでもあり、通常の人間の常識からはあり得ない数奇な運命が交錯する――そして、無数の多元宇宙が重なり合う――そんな不可思議な世界としてのDCユニヴァースが存在するための基盤、そこにある無数の運命が収束する中心点にいるただ一人の人物が、どれほど常識を逸脱したスーパーパワーを持とうとも、時空を超越しありえない生涯を送ろうとも、死すら乗り越えて再生しようとも……それでもなお、凡庸な人間以外の存在では絶対にありえないということだ。
 これは、逆に言えば、「DCユニヴァースとは何か」という問いに対する答えが、完全な形で提示されたということでもあるだろう。DCユニヴァースとはまさにそのような世界であるからこそ、その中心点に存在することができるのは、スーパーマンでもバットマンでもありえなかったのだ。特別な何かを担ってしまっている特別なヒーローではなく、どれほど特殊な状況に置かれようが、どこまでいっても凡人でしかありえない彼のような人物でなければ、DCユニヴァースがDCユニヴァースであるための中心点に位置することはできなかったのだ。
 そう、もはやそのことがはっきりとした形で明らかにされ、DCユニヴァースとは何かが明確に定義されたからこそ――どれほど不可解な迷走が起き、あるべき姿が見失われるようなことが幾たび起ころうとも――ただ、彼がどのような人物なのかを提示しさえすれば、DCユニヴァースは何度でもその本質を取り戻すだろう。











凡人は神話を語りうるか?――『ジャスティスリーグ:ザ・ダークサイド・ウォー』(中)







 『ジャスティスリーグ:ザ・ダークサイド・ウォー』(ハードカヴァーとkindle版)

  ライター:ジェフ・ジョンズ
  アーティスト:ジェイスン・フェイボク、フランシス・マナプル


 というわけで、前回の続き。『ダークサイド・ウォー』の本編がどのようになっているのか、具体的に見ていきたい。
 『ダークサイド・ウォー』の全体の構成として、各号が各章として割り当てられているのみならず、いくつかの章が連結されて一幕を成し、全体として三幕構成を形作っている。これは、古典的な悲劇の構成にならったものであるだろう。
 そして、第一幕の結末として衝撃的な事件が起きることになり、ここを境として、作品の内容も急展開することになる。


 さて、第一幕を通して展開されるのは、DCユニヴァース全体の存亡を揺るがす規模ですらあると言える、ダークサイドとアンチモニターの闘争である。……しかし、実は、「ダークサイドとアンチモニターが正面から一騎打ちで覇権を争う」というのは、うまく処理するのがなかなかに面倒な題材であるのだ。
 もともと、アンチモニターとは、1986年の『クライシス・オン・インフィニトゥ・アース』において発生した宇宙全体の存亡の危機、その全ての黒幕としての役割を果たすために登場したキャラクターであった。そして、この『クライシス』は多元宇宙にまたがるDCユニヴァース全体の危機とされており、DCユニヴァースの全てのストーリーがこの作品を結節点として連結されることが売りの一つでもあったのだから、当然のこととして、ジャック・カービイが描いた「フォースワールド」、そこに登場するニューゴッズの面々もまた同じ世界観の中にいることになる。しかし、そこにダークサイドが登場した際にはあくまでも脇役程度の役割しか与えられておらず、アンチモニターとダークサイドの関係がどのようなものであるのかは今一つ明らかではなかった。
 『クライシス』とは、複雑化しすぎたDCユニヴァースの世界観を全てまとめて整理した上でいったんリセットするためのイヴェントであったはずなのだが、「フォースワールド」の収まる位置はそれほど明確ではなく、ぎこちない位置づけのままに残されていたのだ。……そして、『ダークサイド・ウォー』を読み終えて改めて振り返ってみると、DCユニヴァースの全体像を調整することを目的とした数々のイヴェントにおいても、「フォースワールド」の位置づけがきちんと確定されたことは遂になかったように思えてくるのだ(グラント・モリスンは『マルチヴァーシティ』において提示したDCユニヴァースの全体像の地図ではうまいこと整合性のある設定を作りえていたんだけれども、「フォースワールド」も含めてストーリーの形を取った『ファイナルクライシス』の方はと言うと、アレだし……)。
 まず『ダークサイド・ウォー』が決定的に抜きんでている点として、時には相互に矛盾し複雑に錯綜する様々な相互を丹念に解きほぐし、完全に統一された設定を与えた上で、それでもなおそれほど背景知識がなくともするすると読み進められるほどまでに整理されたストーリーの形式を与えている、ということがある。そもそもの前提として、この、「整理され統一された世界観を提示した」ということだけでも凄いことなのだ。
 例えば、「フォースワールド」において、ダークサイドは「アンチライフ・イクウェイション(反生命方程式)」なるものを求めているとされるし、「死」そのものを表す存在としてブラックレイサーというキャラクターが提示されてもいる。一方で、当然のことながら『クライシス』はDCユニヴァース全体の存亡や、そもそもの宇宙の起源に関わっているはずであるし……さらには、ジェフ・ジョンズ自身が担当していた時期の「グリーンランタン」は、大ヒットしてどんどん話がデカくなっていった結果、「生」や「死」の概念そのものが具現化された力を巡る争いまでが展開されることにもなった。設定的には「グリーンランタン」の内部だけにとどまることもなさそうなことであったのだが……驚くべきことに、ジェフ・ジョンズは、それら全ての設定を「なかったこと」にするようなこともなく、全て「あったこと」であるまま、強引に統一された説明を与えてしまったのである。
 かくして、宇宙の存亡そのものに関わるような壮大な話が展開されてきた「クライシス」も「フォースワールド」も「グリーンランタン」も、完全に同一の世界観の内部で語りうる基盤が整えられてしまった。……とはいえ、錯綜した設定を整理整頓し統一するために、既存の設定に微妙な再解釈が加えられたり、新たな設定が書き加えられたり、変更がなされていたりする部分もある。実際のところ、アンチモニターのそもそものオリジンに関しても、新たな説明が付け加えられている。
 そして、まさにその点……統一された基盤の元で、対等な立場でダークサイドの前に立つことになったアンチモニターの正体が、どのような存在であるとされていたのかということ。まさにこの点に、DCユニヴァースがその内に抱え込んだ秘密が暴露されてしまっていたのだ。


 もともと、『クライシス』において巨大な災厄を引き起こした遠因とされていた出来事とは、ガーディアンズ・オヴ・ザ・ユニヴァースがそう名乗る以前のオア人の一員であったクロナという人物が、禁忌を破り宇宙のそもそもの起源を時間を遡って観測しようとしたことにあった。……そして、今回の『ダークサイド・ウォー』において、アンチモニターのオリジンは、この出来事に対応したものであることとされたのだ。『クライシス』において反物質宇宙から襲来し正物質で満たされた多元宇宙を滅ぼし尽くしかけたアンチモニターとは、最初からそのような化け物じみた存在ではなかった。メビウスなる人物が反物質宇宙の起源を観測しようとした結果、超常的な力にとらわれ変貌した存在こそアンチモニターであったのだ。……つまり、率直に言ってしまえば、多元宇宙を滅ぼし尽くす力を備えたアンチモニターとは、分不相応な力を備えてしまった凡人にすぎなかったのである(……もっとも、そうは言っても、ニューゴッズの一員としてあらゆる知識を収集するメトロンの前任者であったことが明らかにされているので、単なる常人というのとも違うのだが)。
 DCユニヴァースが統一されるための全体の結節点となり、全てのヒーローが一致団結して打倒すべき恐るべき怪物は、その実、統一された世界観の元でいざダークサイドと対峙してみれば、たまたまの偶然で巨大な力を手にしてしまった凡人に過ぎなかった。ここで明らかにされてしまったアンチモニターとダークサイドの違いとは、そのまま、「クライシス」と「フォースワールド」の違いでもあるだろう……それは、DCユニヴァースにジャック・カービイの神話世界をうまく組み込むことができなかった、根本的な差異である。そもそもDCユニヴァースの内部には、凡人しかいなかったのだ。……よりはっきりと言うならば、そこには、ごく一握りの傑出した才能の持ち主によって独創的に創造されたキャラクターなどというものは、全く存在していなかったのである。


 アメリカン・コミックスの歴史をアメリカの同時代的な文化現象と照らし合わせてたどってみれば明らかなことだが、実は、スーパーマンやバットマンですら、独創的なキャラクターというわけでは全くない。コミック・ブックより以前から存在し隆盛を極めたパルプ・マガジンを舞台にして人気を博したヒーローたちに、その元ネタの多くはある。時には何のひねりもなくあからさまにパクり、受けるネタを寄せ集めて無理矢理継ぎ合わせて強引にデッチ上げられたというのが、そもそもスーパーマンとバットマンが創造された時点での実態であっただろう。
 しかし、にもかかわらず、スーパーマンもバットマンも、先行した元ネタのパルプヒーローたちよりもはるかに広範な影響力を持ち、普遍性を備え、今日にまで生き続けることにさえなった。これはつまり、スーパーマンやバットマンがはからずも備えてしまった普遍性とは、作者たちの構想や才能によってコントロールされる範囲をはるかに越え出ていたということであろう。大不況のさ中で貧しいティーンエイジャーが自分たちの好きなものを無邪気に寄せ集めて創造したからこそ、広くアメリカ人が欲望するものが奇跡的に具現化されたキャラクターが誕生してしまったのだ(そういう意味では、私の見解としては、スーパーマンとバットマンの誕生の数年後、ジョー・サイモンとジャック・カービイによってキャプテン・アメリカが創造された時点で、ようやくヒーローコミックは独自のジャンルとしての道を歩み始めたのだと考えている)。


 アメリカのヒーローコミックの源流たるDCコミックスは、アメリカ文化の実状と結びついた普遍性を備えるような、原型的なヒーローを幾人も擁する。しかし、いずれの場合もそれらの起源は天才の独創性の産物によるものではない、言い換えれば、凡人の夢想が、凡人の夢想であるからこそ広範な影響力を持ちえることにもなり、結果として分不相応なまでの力を得ることになったものだ。
 『ダークサイド・ウォー』とそれに続く「DCユニヴァース:リバース」において、ジェフ・ジョンズは、そもそもDCユニヴァースとはなんであるのか、その根本的な部分から定義付けたのだと私は思う――すなわち、DCユニヴァースとは、取るに足らない凡人たちが見た夢の集合体であるのだ。
 だからそれは、ごく一握りの傑出した才能が生み出し、独創的であるゆえに時に人の心を打ち時に揺さぶるような特別な作品とは異なる。だから、「クライシス」と「フォースワールド」を完全に統一し、一つの巨大な物語として語ることはできない。両者は対立するしかないーーだからこそ、アンチモニターとダークサイドには、完全に決着が付くまで死闘を演じるしかない。
 そして、分不相応な力を得てしまっただけの凡人が、常に不利であるというわけでもない……かつて凡人たちが、時代に取り残されてしまったジャック・カービイを抹殺してしまったのと同じく、アンチモニターは、死闘の果てにダークサイドを殺害するだろう。
 しかし、これは結末ではない。「ダークサイドの死」とは、全てが終結する最後の出来事ではなく、さらなる出来事が起きる前触れとなるのに過ぎない。『ダークサイド・ウォー』は、そのような題名がつけられているのにもかかわらず、「ダークサイドの死」によって、第一幕が終結するのに過ぎないのだ。











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