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凡人は神話を語りうるか?――『ジャスティスリーグ:ザ・ダークサイド・ウォー』(上)





 『ジャスティスリーグ:ザ・ダークサイド・ウォー』(ハードカヴァーとkindle版)


  ライター:ジェフ・ジョンズ
  アーティスト:ジェイスン・フェイボク、フランシス・マナプル


 「ジャスティスリーグ」誌の40号から50号にかけて展開された『ダークサイド・ウォー』が、ようやく完結した。これは単行本では二分冊で刊行されることになり、パート1には40~44号、パート2には45~50号が収録される。また、パート1の終結を受けてジャスティスリーグの各メンバーに起きた大きな変化を取り上げた個別のワンショットをまとめた単行本『ダークサイド・ウォー――パワー・オヴ・ザ・ゴッズ』も刊行されている……が、こちらのライターはジェフ・ジョンズではなく、トム・キング、ピーター・J・トマシ、フランシス・マナプルなどのメンバーがライティングに参加している。
 さて、そんな形で発表された『ダークサイド・ウォー』だったわけだが……今回の『ダークサイド・ウォー』、またその完結と同時に発表された「DCユニヴァース:リバース」、さらには『グリーンランタン:リバース』も合わせた三作を並べてみると、ジェフ・ジョンズという人は、2000年代に入って以降現在に至るまでのヒーローコミックの世界において、最重要なライターとしての地位を完全に確立したように私には思える。
 今回の『ダークサイド・ウォー』にしても、作中に直接メタ的な表現があるわけではないのだが、ここ四十年ほどのアメリカのヒーローコミックの展開をふまえた上で、現在の視点から何がなされるべきなのかが検討されていると私は思う。……そこで、まずは『ダークサイド・ウォー』という作品の内容が具体的にどんなものであるのかを見ていく前に、アメリカン・コミックスの歴史の中でジェフ・ジョンズという人はどのような位置にいるのかを検討することにしたい。


 現在のヒーローコミックにおけるジェフ・ジョンズの決定的な優位は、一言で言えば、「9.11以降のアメコミ界の迷走に完全に決着をつけた」というところにあると思う。
 よく言われているように、80年代末ころのアメコミ界において「グリム&グリッティ」と呼ばれる潮流が生まれて、リアリティ重視ゆえに過激な暴力描写や性描写が反乱するような陰惨な作品が大量に現れた。そんな潮流が大きな勢力を保ちながらも徐々にそれに対する批判・反発・再検討も生まれていったのが90年代の展開であったわけだが……2001年のにニューヨークで同時多発テロが起きるに至って、そんな展開もまた激変することになる。
 現実世界において一般市民がテロの標的となる大惨事を目にしたとき、ヒーローコミックという絵空事の世界の中にいた作り手たちは極度の混乱に襲われた。従来の水準に比べれば「リアリティ」を重視したコミックを制作していたはずであるのにもかかわらず、作り手たちの多くが居住していたニューヨークの大惨事に比べれば、それは児戯に等しいものだったのだ。だからこそ、ヒーローコミックの潮流は大きな変化をとげたわけだが……愛国心を鼓舞する単純なヒーローコミックという動きが現れたのも当然のことではあったが、それがそれほど長続きすることはなかったのもまた、当然のことであった。
 むしろ、意外に尾を引いて長引いたのが、「真のヒーローとは、地道に人命救助に取り組む市井の平凡な人々の方だ」というテーマであっただろう。現実世界において必死で人助けに勤しむ消防士の姿を直接目にした後で、コミックの中で木から降りられなくなった子猫を助けるスーパーマンの姿を目にしたところで、なんらリアリティを感じることなどできない……。
 そのような感覚自体は、直感的には理解することができる。しかし、ここには、論理的には非常に単純な誤謬がある……とはいえ、実は一種の偏見に過ぎないこの素朴な直感が強い説得力を持ったとき、新たな偏見が生まれることになる。つまり、「真に偉大なヒーローとは、真摯に活動する消防士のような人々である」というのみならず、「スーパーマンがどれほど強力なスーパーパワーを持っていようとも、だからといって偉大であるわけではない」という直感まで生まれるに至ったわけだ。
 スーパーヒーローは、常人にはありえない卓越したスーパーパワーを持っているが、だからといって人格的に優れているわけではない。このことをほとんど強迫的なまでに意識し続けることになった作り手たちは、強力なスーパーヒーローたちの人格的な卑小さを繰り返し描き続けた。ヒーローたちは些細なことで醜い言葉を吐き、他人の揚げ足を取り、互いに異なる立場を取るたびに激しく対立し、内ゲバに明け暮れることになるだろう。
 これは、現在でもなお継続し、ヒーローコミックの多くの作り手たちの内部に強固に根付いていることだ。そして、そんな潮流を生み出したそもそもの偏見にまでさかのぼり、そこにある誤謬を暴き出し、ヒーローコミックのあるべき姿について確信を持って明快な答えにたどり着いたただ一人の人物こそが、ジェフ・ジョンズだったのである。


 ジェフ・ジョンズのたどりついた答えとは、よくよく考えてみれば、あまりにも簡単なことだ。……すなわち、真摯に人命救助に取り組む消防士が偉大であるのならば、真摯に人命救助に取り組むスーパーマンもまた、同様に偉大であるということだ。スーパーパワーを持っていない平凡な常人が偉大な存在になりうる、だからといって、なぜ、スーパーパワーを持つ存在が偉大な存在になれないということになるのか?
 何かのはずみでスーパーパワーを手にした人物がそれだけでは偉大な存在ではないのであれば、平凡な常人が偉大になりうるのと全く同じ条件の元、偉大な存在になりうる瞬間を描けばよいだけのことだ。スーパーマンはスーパーパワーを持っているからといって偉大ではないということは、スーパーマンが偉大になれないということを意味しない。むしろ、スーパーマンがスーパーパワーを失って単なる常人と同じ存在になったときこそ、なぜ彼が偉大な存在になりうるのかをはっきりと描くことができる。……あるいは、スーパーパワーを手にしながらも全くそれを有効活用できず取るに足らない存在と見なされ続けたようなものでさえ、真に偉大な存在に変貌するチャンスは常にあるし、その瞬間を描くこともできる……。
 現在のヒーローコミックにおけるジェフ・ジョンズの覇権は、言われてみればあまりにも単純なこの答えにたどり着いたという、そのただ一点のみにある(そういう意味では、9.11の以前に既に『アストロシティ:コンフェッション』のような作品を書いていたカート・ビュシークなんかは、そもそも悩む必要すらなかったのだと言える)。しかし……ここに、非常に大きなパラドクスがある。「ジェフ・ジョンズの覇権」が確立する、まさにその事実によって、ヒーローコミックというジャンルの内部に居場所を失い、駆逐されてしまうようなものがある――そのことに気づいたのもまた、ジェフ・ジョンズ自身だったのである。そして、『ダークサイド・ウォー』とは、ジェフ・ジョンズ自身によってヒーローコミックから駆逐されつつあったものをヒーローコミックの内部に改めて導入するという、非常にねじれた構図を持つ試みであったのだ。


 スーパーヒーローが手にしたスーパーパワーとは、単なる偶然によってもたらされたものに過ぎず、力の持ち主の人格が優れていることを保証するわけではない――それどころか、力の使い方を誤れば大きな災いをもたらしさえする。……もちろん、ヒーローコミックにこのようなテーマをもたらしたそもそもの源流は、60年代におけるスパイダーマンの登場にある。
 スーパーパワーの存在が人格の保証にならないからこそ、スーパーヒーローをあくまでも一人の凡庸な人間として扱うことができるし、その揺れ動く内面を描写することによってドラマ面での起伏をもたらすことができる。ジェフ・ジョンズは、まさにそのような方向性でのストーリーテリングの技術を完全に自家薬籠中のものとした人物である。……そういう意味では、ドラマの「フラッシュ」なんかは、(予備知識が全くなくとも楽しめるという点でも)「スパイダーマン以降のヒーローコミック」の究極の集大成であると言うことができるだろう。
 しかし……「スパイダーマン以降のヒーローコミック」のストーリーテリングの技術によって高度に完成された作品を読むとき、私としては奇妙な違和感を覚えることがあったのも事実なのだ。例えば、ジェフ・ジョンズが改めてスーパーマンのオリジンを語り直した『スーパーマン:シークレット・オリジン』を読んだとき……カンザスの片田舎で平凡な少年として成長しつつ自分の力の使い方に悩むクラーク・ケントの姿を目にして、それが、「スパイダーマンの登場以降にしかありえない描かれ方でオリジンが描かれるスーパーマン」であるという奇妙に転倒した構図を強烈に感じてしまったのだ。……だが、あらゆるスーパーヒーローの源流であるスーパーマンとは、本当にそのような存在であるのだろうか?
 改めて強調しておかなければならないのは、「スパイダーマン的な価値観」とは、ヒーローコミックのあり方の一つの姿に過ぎないということだ。いやむしろ、60年代にマーヴル・コミックスが躍進を遂げたとき、スパイダーマンは例外に属する側のキャラクターだったはずである。言い換えれば、スパイダーマン的な価値観がジャンルを覆い尽くすということは、スパイダーマン的ではない価値観が排除されるということでもあるわけだ。スパイダーマン以外のほとんど全てのマーヴルのキャラクターの創造に携わりながら、スパイダーマンだけは手がけなかった者……そう、ジャック・カービイこそがその人である。


 念のために書いておくと、カービイ自身はスパイダーマンの基本コンセプトに関わったことを主張しているし初登場号のカヴァー・アートを手がけてもいるのだが、ここではその詳細には立ち入らない(むしろ私としては、「ジャック・カービイが携わらなかったこと」こそがスパイダーマンの本質だと考えてもいる)。
 スパイダーマンの本質が、人間社会の価値観に翻弄される卑小な個人の人間ドラマにあるのならば、カービイの本質は、人間社会の価値観を軽々と超越してしまうところにある。単純な勧善懲悪のストーリーが語られている中に合ってさえ、カービイによるあまりにも卓越したアクション描写は、話の筋などどうでもいいものとして後景に追いやってしまう。人間の価値観を踏み越え、純粋な運動や力の存在感の持つ崇高さだけが周囲を圧倒し始めたとき、例えばそこには、善悪の彼岸にいるギャラクタスのごとき存在が生み出されることになるだろう。
 スパイダーマンは人間ドラマの内部の世界にいるが、ジャック・カービイが生み出すのは神話である。凡庸な世界の中に住む凡人は、自分たちの周囲の世界をよく観察すれば、よくできた人間ドラマを語ることができる――しかし、神話を語ることができるのは、ごく一握りの卓越した詩人だけである。
 70年代に至りマーヴルを去ってDCに移ったカービイは、「フォースワールド」と呼ばれる、その世界全てがカービイ一人によって創造された神話を生み出し始めることになる。ニュージェネシスのハイファーザーとアポコリプスのダークサイド、新しき神々の闘争――もはやそこでは、ヒーローコミックの定型がストーリーの口実として使われることすらなく、カービイに想像力だけが奔放にほとばしる――しかし、高度に練られた人間ドラマが続々と登場しつつもあった当時の状況にあって、「フォースワールド」は、売り上げ面での不振を理由に打ち切られることになった。
 70年代のジャック・カービイとは、時代に取り残された巨人であった。そして、どう転がってもカービイにはなりえない、それどころかカービイを偉大なる先達として尊敬してすらいる、そんな凡人たちこそが、カービイを殺したのだ。
 以上のようなことをふまえてみれば、ジェフ・ジョンズが『ダークサイド・ウォー』でやろうとしていることがなんなのか、見えてくると思う。……すなわち、「スパイダーマン以降のヒーローコミック」の世界を完成させながら、なおかつ同時に、ジャック・カービイを殺さないこと。社会の中で翻弄される卑小な人間たちの世界を描きながら、それと同時に、人間の価値観を踏み越えた神々の世界をも同時に描き出すこと。言い換えれば、人間の世界と神々の世界とが、同時に共存できるものとして調停すること。それらをともに含み込んだものこそがヒーローコミックであるのだから、一つの作品の内部に全てを盛り込むことも可能であるはずなのだ(……こういうことを厳密に検討しようとすると、カービイ以降に別人が手がけた「フォースワールド」もののこととか、それとの兼ね合いでリージョン・オヴ・スーパーヒーローズのことなんかも参照しないといけないんですけどね……。ジェフ・ジョンズにしても、未来世界のヒーローであるリージョンを手がける際には、スーパーマンは「人類史上最高のヒーロー」という神話的側面を打ち出したりもしますし。しかしそのあたりのコミックに関して個人的に未読のものも結構あるので、それはまた、改めて別の機会にということで……)。
 そして、今になって改めて思い起こしてみると、実はジェフ・ジョンズは、「カービイ的なるもの」を手がける準備を少しずつ進めていたようにも思えるのだ。例えば『52』におけるブラックアダムは、単なるヴィランというよりかは、あまりにも巨大すぎる力と激情を抱え込んだゆえに人間社会の価値観に収まりきれない存在として描かれていた。あるいは、『フラッシュポイント』の改変世界におけるアクアマンは激情に支配された残虐な殺戮者と化していたが……その直後、改めて歴史の改変を経たNew 52の世界におけるアクアマンはと言えば、ヒーローでこそあるものの、激情に突き動かされる存在という意味では、『フラッシュポイント』における見かけ上は正反対のアクアマンと本質的な部分では同じであることがはっきりと描かれているのでもあった。
 ……以上のような長い長い経緯を経たその上で、満を持して、遂にジェフ・ジョンズは『ダークサイド・ウォー』を手がけるに至ったのであった。










今後しばらくの更新について

 今後しばらくの期間のブログの記事の更新について何ですが、アメリカン・コミックスに関するエントリを何回かに渡って連続で更新していくことにいたします。
 と、いうのもですね……最近のアメコミについて書いておきたいことが溜まりすぎていてですね、これはちょっと、色々なことを書きつつアメコミのことをちょこちょこと月一くらいで更新しているような場合じゃないだろう、と。「ジャスティスリーグ」誌で展開されていた『ダークサイド・ウォー』が先頃完結したわけですが、この最終号と同時に、DCコミックス全体の世界観が刷新される「DCユニヴァース:リバース」も発売されたわけでした。
 で、その「DCユニヴァース:リバース」なんですが、制作者の側は「サプライズに満ちているのでネタバレなしで読んでもらいたい作品」と考えていることを事前に表明していました。しかしまあ、文字で要約されたネタバレとかはともかく、コミックそのもののプレヴュー画像なら別にいいだろと思って、数ページぶんだけ事前に出ていたものをPC上で読んでみたのです。……す、するとですよ……つ、遂に! 遂に!! 遂にッ!!! あ、あの男の姿がそこに……ッ!!!! そ、そして、その横に、おなじみの(しかし最近ではコミックの中でお目にかかることはとんとなかった)あのモノローグが沿えられているのを目にした瞬間、思わずPCの前で立ち上がり、きつく握りしめた二つの拳を全力で天に向けて突き上げていたのです……
 う、うう……こ、この一ページを目にするためだけに、五年待った……そ、そして……遂に復活なったあいつとの再会が叶ったあの人が、両目からぼろぼろ涙をこぼしながら'How could I ever forget you?'と口にしているのを目にしたその瞬間、こちらの涙腺も決壊し、両手で頭を抱え込んだまま床に倒れ込んであたりをごろごろとのたうちまわりつつ、言葉にならないうめき声を喉の奥からひねり出し続けるようなことにもなったのです。
 破壊と再生を繰り返す不可思議な世界観を持つゆえに、あまりにも奇妙な人間関係が存在することもある……しかし、だからこそ、時にはこのような再会もまた、このような形で起こりうる……そう、これが! これが!! これこそがッ!!! DCユニヴァースなんだよッッッ!!!!! (……なお、この時点では、「DCユニヴァース:リバース」は、いまだ数ページしか読んでいません……)
 その後、少しは冷静になってから改めて振り返ってみると、「果たして、自分がこれほどまでのリアクションを示したのはいつ以来のことなのだろうか?」とふと疑問に思ったのですが……よくよく考えてみた結果、「小橋健太が三冠王座を初めて奪取したのを目撃したとき以来」という結論に到達しました(つまり、我が生涯で二十年ぶり二度目)。
 あのヒーローも、極めて長い歴史を持つキャラクターではあるのですが……しかしながら、今回の「DCユニヴァース:リバース」におけるあのヒーロー関連のシーンに関しては、完全にオールタイムベストですね。……くれぐれも断っておきますが、ことこの点に関しては、異論は一切認めん!


 というわけで、『ダークサイド・ウォー』に関するエントリと、それを受けた「DCユニヴァース:リバース」に関するエントリを順次アップしていきますが、ここでは少し細かく内容について検討したため、完全に結末にまで触れることになることをお断りしておきます。
 それから、ドラマの「フラッシュ」のことについても書かずじまいであったため、これについても書きます。……それから、映画の『シヴィル・ウォー』を見てからというもの、あの映画を見てしまったという記憶そのものをなんとか自分の中から消去しようと努めてきたのですが、コミックの方でのキャプテン・アメリカに関して起きた色々なことと相まって、ちょっとどうしてもキャップについて書いておきたいということが出てきましたので、これについても書きます。
 そんな感じで、しばらくの間、アメコミに関する記事の更新が続きま~す。










ジョン・スラデック『ロデリック』を読む

 ジョン・スラデックの小説『ロデリック』を、邦訳で読んだ。もともとこの小説に関しては、個人的にかなり以前から読みたかったのだけれども……「原書で読むか……あれ、邦訳の予定あるのか」「あれ、邦訳予定が消えた……」「あれ、やっぱり邦訳されるのか」「また消えた……」ということが延々繰り返されて結局読めない間に何年も過ぎてしまったのだった。……と言っても、結局邦訳されたのは前半の『ロデリック』だけで後半の『ロデリック・アト・ランダム』は邦訳されるのかどうかは未定のようなので、もうこっちは原書で読むことにしようと決断したのでありました。
 さて、『ロデリック』を一読してみてすぐに思ったのが、「なるほどこれはギャディスだ」ということだった。スラデック自身の他の長篇ともかなり異なる書かれ方がされていることから、『ロデリック』がウィリアム・ギャディスの技法を大幅に取り入れて書かれていることは明らかなのであった(ただし、ギャディスよりはかなりマイルドに読みやすく書かれている)。
 それで思ったんだけど……スラデックという人もあまりきちんと日本に翻訳・紹介がなされている作家ではないけれども、これって要するに、「ピンチョンの影響がSFに流れ込むとギブスンになり、ギャディスの影響がSFに流れ込むとスラデックになる」ということなのではないかと。つまり、そもそもギャディスが読まれないようなところではスラデックも読まれることはない……なんてことになってるんじゃないですかねえ。
 少し前、ギャディスに関して日本語で検索していたら、唯一の邦訳である『カーペンターズ・ゴシック』の部数がどれくらいであったのかを推測している人がいたのだけれど……その推測が正しいとすると、衝撃的なまでにすさまじい少部数しか流通してないんですねえ。英文科のある大学図書館がとりあえず蔵書しとくだけでもそんなことにはならんだろ、という水準の部数のようなので、専門のアメリカ文学研究者ですら唯一の邦訳さえチェックしていない(逆に誰もが原書できちんと読み込んでいるわけでもなさそう)ってことなんですかねえ、二十世紀後半の世界の文学全体でも最重要作家の一人なんだけど……。このこと一つをとってもわかるように日本が翻訳大国なんてのは大嘘ですし、「ガイブン好きで~す」とか嬉しそうに言ってみたり、現代文学の善し悪しについてあれこれ論評してみたりするような人々の大部分は、そもそもギャディスの作品に全く触れたことすらないってことなんですよねえ……。


 そういう意味では、ギャディスのことをとりあえずおいといたまま、その影響下に書かれた『ロデリック』について面白いだのつまらないだの言ってみてもしょうがないような気もするけど……まあ、とりあえず、気を取り直して書いてみようかと思う。
 ジョン・スラデックによる長篇小説『ロデリック』が描くのは、ロデリックと名付けられた自己学習型のロボットが人間社会の中に投げ込まれ、数奇な冒険をたどって人間社会のあり方を学んでいく姿だ。……そんな風に要約するといかにもありがちなストーリーに思えてしまうのだが、しかし、ロデリックを取り巻く周囲の人々の描かれ方が破格のものであるゆえに、この作品は極めて特異なスタイルを持つ小説になっている。
 例えば、邦訳にして120ページほどある第一部には、ロデリックは直接的には全く姿を見せない。そこにはただ、ロデリックが開発されることになる経緯の周囲にいる人々の姿だけがある――そして、それらの人々はそれぞれがてんでんばらばらの思惑で行動し、饒舌に言葉を取り交わし、しかし他人の言葉に注意深く耳を傾けることはしないがゆえに勘違いや行き違いや取り違えが横行し、誰もが混乱し、愚かさや浅ましさをさらけ出して、醜く行動し続ける……。
 スラデックの言葉にはいかなる感傷性もなく対象を美化するようなこともないがゆえに、実際の社会で流通しているような混沌とした言語の有様がそのままに写し取られて作中に取り込まれる。……そして、ロデリックが知性を獲得することになるのは、まさにそのような言語的混沌の渦中においてのことであるのだ。


 単なる機械としてのロデリックは自己学習型の自律した知性を獲得する、だからこそ、幼児的な段階から徐々に段階を経て知性を成長させていくことになる。……しかし、『ロデリック』という小説は、奇妙なことに、主人公たるロデリックが登場しない第1部の時点で、むしろ、人間と機械の間の境界の疑わしさを示唆しているのだ。例えばそれは、次のようなレトリックに表れているだろう。


ストーニーは札入れを広げ、テーブルごしに写真を次々に投げてよこした。「どうだい、このかわいこちゃん?」
「お子さんですか?」
「ハッハッハ。いや、おれの飛行機さ! 完璧にリストア済みのカーチス・ホークとロッキード・ライトニングを持ってるんだが、今はこの赤ちゃんにとっかかってるのさ。ベル・エアラコブラだ。一目見ればわかるだろ、この顔。このかわいい前輪が……」(『ロデリック』、柳下毅一郎訳、p15、ルビは省略)



デスクに置かれた電報はフォン博士のこぶしの中でまるまったかたちを取り戻そうとするかのように、まるでそれを受け取ったときの憤慨と困惑をそのまま覚えているかのように、(ミスプリントによって)通信時の混乱を記憶していた。(同、p18)


 『ロデリック』という小説を構成する言語は、地の文の水準においても、人間と機械の間に本質的な差異を認めずその境界を無化する機能を果たしている。――そして、そのことがさらに過激化されるのは、人間が駆使する知性の方が、機械と何ら変わりのないものであることが示唆されるという、反対方向の事態が作中に現れる時点のことだ。
 あるとき、ひょんなことからジプシーの集団に拉致されたロデリックは、しばらくその集団と行動をともにすることになる。その過程で、ロデリックは、ジプシーの老婆が商売として行なっている占いをしこまれることになる――のだが、その実態はと言えば、客の様子など関係なくパターン化された手順に乗っ取って決まりきった答えを告げるものでしかない。そして、ロデリックの占いをおもちゃのロボットの機械仕掛けの芸だと思いこんだ第三者は、ロデリックと次のようなやりとりをすることにもなる。


 クラットは手を引いて安い葉巻を探し、ラップを剥いた。「悪くない、悪くないぞ」アシスタントが火をつけるのを待った。「だがそれほどよくもない。わりと単純だな、要するに表を参照してるだけなんだろう、こいつは? 最初の客には腰痛があるんだろうといい、次の客には足が痛いんだろうと言い、その次には頭痛と――」
「そのくりかえし」とロデリック。「そう、そのとおりなんだ。それから子供のことは、ね、毎回子供は三人生まれるって言うんだ、組み合わせは全部で八とおり……」(同、p200~201)



 子供だましの占いで日銭を稼ぐためにパターン化された手順を繰り返すだけの人間の知性は、ごく単純で原始的な計算機のなすことと何ら変わるところはない。……ならば、ロデリックがその狭間で悩まされ続けているはずの、人間と機械との境界などというものは、いったいどこにあるのか?


 スラデックの『ロデリック』が非常に優れた小説だと言えるのは、人間の知性と機械の知性との根本的な違いを、あくまでも言語の処理の水準で表現しきることに成功しているからだ。
 そもそもコンピュータとは、入力された人工言語を所定のアルゴリズムに則って変換する装置でしかない。その意味では、コンピュータが「間違いを犯す」ことはありえない。コンピュータが間違えたように見えるとき、それはコンピュータ自身の間違いではなく、入力された言語が間違っていたかアルゴリズムに不備があったのかのどちらかを理由に、人間が事前に想定したようには言語が変換されなかったというだけのことに過ぎない。
 そのことをふまえると、スラデックが『ロデリック』の全篇、その膨大にして饒舌な言語の集積を通して、人間の知性の本質として描いたのがなんであったのかが見えてくる――それは、コンピュータが人工言語に接するときとは異なり、人間は自然言語を正確に読み取ることはできない、ということである。
 人間は、言葉を正確に読み取ることができない。大して長くない文章でさえ正確に意味を特定することができず、単純なスペルミスによって単語を取り違え、他人とのやりとりが増えれば増えるほど、勘違いや間違いは雪だるま式に増殖していく。……そして、いかにも人間を人間らしくしているかのように見えていたもの、各個人をして各個人たらしめる個性や特色と見えていたもの、しばしば肯定的だとみなされていた人間社会の価値観とは、膨大な量の自然言語がやり取りされる過程で膨大な量の失敗によって生み出されたノイズでしかない――それこそが、『ロデリック』という小説の根幹を支える認識なのだ(例えば、既に引用したp18において、電報が「記憶」といういかにも人間的な知性を行使していたのは「ミスプリント」によってであるとされていたことを思い出そう)。


 だから、人工知能として生まれながらも人間の知性を学習しなければならないロデリックの境遇は、根本的なパラドクスの内にある。ロデリックに求められているのは、伝達された言語をその通りに受け取るのではなく、読みそこなうことによってノイズを生み出すことができるようになることだ。……言い換えれば、ロデリックは、失敗することに成功しなければならないのだ。
 人間的な知性を発達させるためには、言語を完璧に理解し完璧に伝達するのではなく、程良く間違い、程良く誤解し、適度な個性を獲得しなければならない。しかし、あまりにも過度に間違いすぎることも、ディスコミュニケーションのノイズが生み出した共通の価値観を持つ共同体から排斥されることにつながる。ロデリックは「正しすぎること」と「間違いすぎること」の両極を揺れ動かざるをえないゆえに、一つの共同体の内部に安住することができない。
 例えば、キリスト教の教義について神父から教えを受けるロデリックは、キリストがその身を「犠牲」にするという部分が理解できない。結果として、次のようなやり取りをすることになるだろう。


「さっぱりわかりません、神父様。とくに十字架のとこが。シスター・オラフは犠牲って言ってたけど。だって、チェスではサクリファイスというのはハメ手で――オブライド神父は野球でも同じだって言ってたし――なのになんで全知の神様がハマるんです?」
「ハマる……?」
「だって、神様は誰だって好きなところへやれるんだから、みんなまとめて地獄へ送ることもできるんですよね? だから代わりに息子をサクリファイスしたら、そのあとゲームが有利になってなきゃおかしいですよね? だって、サクリファイスするのはそのおかげで他の連中相手にうまい取引ができて相手をハメられるからですよね? オブライド神父がいつもTシャツでやられてるみたいに――」
「止めろ、止めろ、止めろ! 待て、待ちなさい、待て……」ウォーレン神父は必死に手を押さえ込もうとしているようだった。まるで脳の両半球が戦っているかのように、指は結ばれ絡まった。「よくわかったよ、やることがたくさんある。もっとたくさんある。きみが……きみがそんなふうに考えているなら……『ゲームが有利になるなら』!」
「うん、でも神父様、神様がパラドックスだってどういう意味なんだろう? 息子を釘付けするのが、全世界を地獄でこんがり焼くチャンスを捨てちゃうくらい嬉しかったのはなんでなんですか?」(同、p333~334)



 「犠牲(サクリファイス)」という単語一つとっても、宗教の文脈においてとチェスの文脈においてと野球の文脈においてとではそれぞれ意味が異なる。しかし、その意味の違いとは言語そのものの水準で厳密に定義されたものではなく、社会的文脈によって使い分けるというとりあえずの共通了解が形成されているものでしかない。文脈に通じない者が単に言語の論理だけで事態を解釈しようとするとき、人間の文化の根本的な部分に破壊的な揺さぶりをかけるようなことすら起こりうるわけだ。


 ウィリアム・ギャディスの『JR』を読み、これにロボットが登場しさえすればスラデックになると評したのは殊能将之であった。なるほど確かに、これは的確な評価である。ギャディスの描いた言語的混沌、饒舌な言葉がやり取りされる混乱した会話をそのまま作中に取り込む方法をそのまま引き継いだ上で、その言語的混沌と対比される形で、明晰で混乱の人工言語を基盤にする人工知能を作中に導入したのがスラデックなのである。
 その意味で、「ロボット」とは、スラデックをしてスラデックならではの作品世界を形成させるために、必要不可欠のモティーフであるはずだ。……しかし、である。スラデックが非常に優れた小説家であるといえる、しかし同時に広く読まれることがありえなくもあるのは、自らが獲得した残酷な認識を、自分自身にも平然と適用できてしまうことにあるだろう。「スラデックの個性」なるものがあるとしたら、それは、言葉の読み間違いによってもたらされたノイズでしかありえないわけだ。
 『ロデリック』の作中世界において、そもそもロデリックの起源となるアイディアを生み出したのは、次のような者だったとされている。


「なぜって、そのクズを書き飛ばした奴がいるからだ。そいつははるか昔、四〇年代の、尾羽打ち枯らした三文SF作家だ。くたびれたLCスミスのタイプライターの前に座り、一語一セントでクズ小説を打ち出しているーー安っぽい夢だ、そうだろう? だからそいつはたぶん年に短編を百も書き、それに加えてたぶん長編を六冊、全部食費と家賃を稼ぐために書いた。いや、もちろん割り当て分を満たすだけの独自のアイデアなんてものはありゃしない。女房にたずねて、またぞろ巨大電子頭脳、またぞろ月ロケットを引っぱりださねえばならん。この男、どんなかって、たぶん頭はフケだらけのデブで、毎日、テーブルクロスを敷いたキッチン・テーブルまで身体を引きずっていって、タイプライターに向かい合うのも一苦労だろう。
 そして、そいつがこの世界を作ったんじゃ! そのせいでわしらは忌々しいビニールを着て、代用アイスクリームを食べて、ガラスの塔に住んでそこで働かなきゃならんのだ。あいつがたまたまそういうことを書いてしまったせいでーー想像してみろ! もし哀れなうすのろが、もし万一ある日ガラスでなく真鍮と書いていたら、今頃みんな真鍮の塔に住むことになってたかもしれんのだ。まさしく冗談じゃないか」(同、p458~459、ルビは省略)



 例えば「ガラス」を「真鍮(ブラス)」と取り違えるような類の愚かな間違いが生み出す幻想・妄想の類こそがロボットなどという発想を生み、そんな妄想の集合体こそがSFというジャンルを形作る。……自分自身もまた愚かさを免れていないという酷薄な認識こそがスラデックをしてスラデックたらしめる、しかし、それもまた幻想でしかない。ジョン・スラデックとは、そのようなパラドクスの中に不断に身を置きつつ言葉をかろうじてひねり出した小説家だったのである。








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