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ラファティとジョイスに関するメモ

 R・A・ラファティの長篇小説『地球礁』を邦訳で読んだ。……と言っても、つい先頃文庫化された版で読んだのではなくてですね……もともと「こんな本、文庫化されるどころか、再版がかかることすらなかろう」と考えて単行本で買っておいたまま読まずに放置してあったのですが、まさか文庫化されるとは……。結果として、謎の敗北感に打ちのめされるがままに、放っておいた単行本を読み始めるということになってしまったのでありました……(最近だと、ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムズ』が白水Uブックスに入るらしいということにも衝撃を受けました……)。しかしまああれか、「単行本で購入した者もいたからこそ、文庫化への道も開けたのだ!」と考えておけばいいんですかね……。
 それはともかく、個人的にラファティの長篇を読んだのは久しぶりであったのだけれども、これまで自分が読んできた作品とはかなり異なる印象を受けた。と言っても、『地球礁』が『宇宙舟歌』なんかのラファティの同時期の長篇と特別に異なるというわけではなくて、私自身の方に、アイルランドなりカトリックなりについての認識の変化があったからだ。
 これはなぜかというと、たまたま最近、個人的にジョイスを一から読み直すために、その文化的・思想的・宗教的背景を勉強していたからだ(……まあ、そのきっかけはなぜかというと、アラン・ムーアの大作小説『イェルサレム』に、ジョイスの読み直しが含まれているらしいので、それを読むための予習をしてたからなんですけどね……)。そんな経緯を経て、アイルランドの文脈を頭に入れてから改めてラファティを読んでみると、かなり異なる印象を持つことになったというわけだ。


 ジェイムズ・ジョイスという小説家は、自分が生まれ育ったアイルランドという場所こそを作品化する対象として選んだ、それも、アイルランドを去り外国へ移住した者の外部からの視線で書く――そんなことを続けた人物である。そんなジョイスの書く小説は、アイルランドという土地をその内部から精密に描き出すのと同時に、広くヨーロッパの歴史全体の中でのアイルランドの置かれた位置をも厳格に確定する。内部からの視点と外部からの視点とが同時に共存し、わかちがたく絡み合い、巨大なスケールでもってアイルランドの全体像を浮かび上がらせるに至る。
 ジョイスの作品がそのような性格を持つことになったのには、おそらく、アイルランドにはカトリックが根強く浸透していることが非常に大きな理由になっていると思われる。というのも、近代ヨーロッパの文化全体が、カトリックに反発したプロテスタントによって形成されたものである以上、カトリックの信奉者は周縁に追いやられるほかないからだ。
 言い換えれば、プロテスタントを奉ずる勢力に支配されながらも現地の人間はカトリックを信仰している土地においては、ヨーロッパの近代的価値観が全土を覆い尽くしているわけではない。近代的価値観が社会の基調となり古代的・中世的価値観を抑圧し排除しようとしているにしても、完全に排除しきれるはずもなく常に抵抗は続いている、ゆえに、古代・中世と近代とが入り混じり合い同時に共存してしまう周縁として、アイルランドは存在している。
 だからこそ、そのようなアイルランドの有様を完全に把握しきるためには、単に現在時のことのみならず、ヨーロッパの歴史全体を捕捉しなければならないことにもなる。古代から中世を経て近代に至るヨーロッパの変遷をとらえ、カトリックとそこから派生したプロテスタントとを同時にとらえ、カトリックが駆逐されながらも残存し、それゆえに被抑圧者の側に回らざるをえないアイルランドの立ち位置に焦点を当てる――そしてそれを、ヨーロッパの正統的な価値観の本丸に入り込み、正統を完璧に理解していることを示して見せた上で、正統からは捕捉しきれない限界点として周縁を逆説的に暴き立てるということ、それこそが、ジョイスが成し遂げたことであるわけだ。
 ジョイスが真に怪物的な作家であるのは、以上のようなことを、文学の形式性の側面においても実践しえているからだ。本来ならゲール語が話されていた土地であるはずのアイルランドにありながら英語を用い、その上で近代小説のリアリズムの技法を、それこそヨーロッパの文学史上でも最高クラスの水準で完璧に駆使してみせ――さらにその上でリアリズムの限界点を暴き立て、リアリズムを完璧に破壊するモダニズムを完成させる、だからこそ、ヨーロッパの近代的価値観で捕捉しきれない場所としてのアイルランドを描くにあたって、近代の限界点をあぶりだし、その破れ目から古代や中世の価値観をも召喚してみせる……。
 ごく大ざっぱに言うならば、ジョイスがなしたことは、同時代的に絵画においてピカソやマティスがなしたこととも対応しているのだろう。もともと遠近法とはヨーロッパ近代において発明された局地的な技法であった、だからこそ、時を経るとともに遠近法への批判・再検討が進み、遂には、近代的な遠近法を破壊した上で、遠近法以前の技法を再利用したり全く異なるコンテクストの文化の価値観を取り入れたりする方向が進んだ……と。
 以上のように考えれば、ジョイスと同じくアイルランド系の出自を持ちカトリックでもあるラファティがいかにして小説を書いたのかは、比喩的にならば、ごく簡単に表現することができるだろう。……ラファティは、そもそも遠近法自体を無視して絵を描いているのである。


 近代絵画の前提となる遠近法がヨーロッパという局地的な場所で特定の時代に発達した技法に過ぎず、そこにあるかに見えた普遍性は装われたものでしかなかったのと同じく、近代小説のリアリズムもまた、自明的・普遍的なものではない。
 ある特定の言葉が外界の対象をニュートラルに指示しているという制度・共通了解が成立するためには、認識する主体と認識される外部との区別が前提となるのと同時に、その媒介となる言語が純粋な記号としての機能を担保される必要がある。
 ところが、言葉が純粋に対象を指示する記号としてのみ働くものと見なされるのは、歴史的に見ればむしろ例外的な事態である。近代以前のほとんどの文明においては、言葉、とりわけ詩の言葉は、純粋な記号などではなく、むしろ呪術に近いものなのであった。……それがなぜかと言えば、記号と指示対象・認識主体と外部の世界の明確な区別が自明のものではなかった以上、言葉そのものもまた世界の内部に存在する物であるという意味では他の事物と同等の存在であったからだ。したがって、詩を詠むこととは、世界の一部に干渉し世界の一部を改変することである。つまり、詩を詠むこと自体が呪術そのものなのである。例えば風景を詩に詠むときになされているのは純粋に風景を透明な言葉で描写することなどではなく、詠まれる情景と詠む者の心情とが不可分に一致した出来事であったりするわけだ。
 言葉の純粋な機能を抽出し透明な描写を完成させるのがリアリズムなのだとして、それはたかだかヨーロッパ近代において成立した歴史の浅い制度であるのに過ぎない。そして例えばジョイスであれば、アイルランドを征服した者どもが用いる英語の世界に異人として参入し、完璧にリアリズムを使いこなした上で、その限界点としての破れ目を逆説的に提示してみせた。……一方、ラファティは、最初からリアリズムを単に無視して小説を書くのである。
 そのように考えれば、『地球礁』のような小説における詩の言葉の扱いがどのようなものであるのか了解することもできるだろう。


 簡単な答えがある。すでにそうなっていると想像してやればいい。地球人の子供なら子供っぽいと思うだろうが、プーカ人の子供には空想を現実化する手段がある。バガーハッハ詩を詠んで、成ったも同然とすればいい。(『地球礁』、柳下毅一郎訳、単行本版、p36)


 『地球礁』や、それと同時期に書かれた『宇宙舟歌』に共通しているのは、ラファティの作中においては依然として詩の言葉は現実そのものであるということだ。そしてラファティの場合は、リアリズムに反発したとかリアリズムを改変したとかいうのではなく、リアリズムをその内部で制度として確立した文化が支配的であるという歴史的推移を、単に無視しているのである。
 実際、『地球礁』の主な登場人物であるプーカ人とは、地球に訪れて何となくその内部に紛れ込んで暮らしている宇宙人であるのだという。そして、プーカ人は地球とは全く異なる文化を持ち、その視点によって地球の文明を眺めるため、地球人にとっての自明の事態は常に相対化されることにもなる。


 プーカのドラマは地球人のものとはペースもクライマックスも異なっている。上古典形式では、必ず(結末にほど近いところで)すべての血なまぐさい要素がひとつに積みかさなり、きわめて便利かつ楽しい場面が出来あがる。それは過激かつ法外だ。大げさな茶番劇であり悲劇的かつ喜劇的だプーカの肝臓と臓物と心臓を揺すぶる。そして地球人には、いささか乱暴でやり過ぎのようにも見えるだろう。(同、p224)


 ……だがなぜ、ラファティはここまで「支配的な文化」の文脈を無視して好き勝手に書けるのか。おそらくそれは、ラファティがアイルランド系とはいいながらもアメリカに生まれたアメリカ人であったことが大きな理由の一つであるように思えるのだ。
 アイルランドに生まれヨーロッパの内を遍歴したジョイスにしてみれば、アイルランドを描くのに際してヨーロッパの積み重ねてきたその歴史、きらびやかでありながらも同時に厳格で抑圧的な主流文化を無視することなどできなかったであろう。……しかし、だだっ広い空間がどこまでも広がっているアメリカにおいては、主流の文化など無視し、自分の属する文化を気ままに保存して周囲の干渉を寄せ付けないようなことも、比較的容易であろう。その広大な空間の内部で、それぞれがてんでんばらばらの文化がテキトーにごちゃごちゃと同時に共存するようなこともできうる。
 だからこそ、『地球礁』におけるラファティは、プーカ人の一族の生態を、古の知恵を継承するインディアンの部族やら、いかにも西部劇に出てきそうな保安官の一味やらなどと同時に、現代的なテクノロジーも存在する現代のアメリカにごった煮状にぶち込むようなこともできてしまう。
 そして、そんな作品世界だからこそ、常識的な歴史の進行を無視して、次のような記述をすることも可能になるのだろう。


(大洪水の前、インディアンは世界最速の車を持っていたという言い伝えがある。人類が自動車を再発見したときも、インディアンは他よりもよく自動車のことを覚えており、他の人種よりも自動車の扱い方をよく知っていた)(同、p199)


 ……ラファティの出自にあるアイルランドやカトリックの文脈を確認しつつどのようなことがなされているのかを確認していくと、なぜラファティがいかにも奇妙な小説を書いていたのかということについて、おおよそ以上のような整理をしていくことができるかと思う。
 そして、そんなことを考えていると、個人的にもう少し掘り下げたいのは、ラファティとアメリカン・コミックスの関係なのであった。以前から、ラファティの小説を読んでいるとどうにもアメリカン・コミックスからの影響関係が感じられてしょうがないような部分がいくつもあったのだけれど、以上のようなことをふまえれば、むしろラファティがアメリカのコミックブックに深い興味を寄せていたとしてもなんらおかしくはないように思えるのだ。
 というのも、出自であるアイルランドの文化から切り離されたアメリカ人としてSFを書いたのがラファティであったのならば、同じような経緯で自身のルーツから切り離されたユダヤ人の生み出したものがアメリカのコミックブックであったからだ。ユダヤ文化の残響と、資本主義下で成立する現代的な出版文化とが奇妙に結合した歪な存在としてのコミックブックを、その歪さゆえにラファティが愛したとして不思議はないように思える。
 そういう意味では、ファンダムが形成されマニアックな内輪の共同体が形成されることになった七十年代以降くらいのコミックブックになってくるとラファティの嗜好とは異なってくるのかもしれないように思えるのだが……その一方で、後にアメリカン・コミックスのど真ん中で新たな潮流を生み出したアラン・ムーアとニール・ゲイマンの両名がラファティの深刻な影響下にあることを考えると、やはりこのあたりのことは結構根深く絡み合っているのよねえ。しかしそのあたりのことはまた改めて検討してみたいことでもあるので、また別の機会にということで。






『バットマンvsスーパーマン』を見て、ジャンル内での傑作と凡作のあり方について考えた

 映画『バットマンvsスーパーマン』を、2D・字幕の上映で見てきた。
 ……う~ん……う~~ん……う~~~~ん……とりあえず、見終えた直後の感想を一言で言うならば、「ジェフ・ジョンズの権力が足りなかった……」ってことですかね……。
 映画が始まってすぐの冒頭部分で語られるのは、この映画に登場するヴァージョンのバットマンのオリジンです。クライムアレイで強盗に射殺されるウェイン夫妻が描かれる中で、そこに不可欠の要素として存在しているのが「怪傑ゾロ」と「飛び散る真珠」であったという時点で、劇場の中で涙腺がゆるみ始め、「……お、おれはこの映画を絶対に否定しないぞ!」という断固たる決意が芽生えたのではありましたが……正直なところ、個人的に盛り上がったピークは、その最初の部分だけだったのでありました……。
 それから、映画を見た後に監督のザック・スナイダーの発言を見てみたら、冒頭近くでロイス・レーンがアフリカに取材に赴いた際、同行していたカメラマンがあっさりテロリストに射殺されるという描写があるんですが……「あれは実はジミー・オルセンなんだ」とか言っていやがったので、即座に、バットマンのオリジンが帳消しになってプラマイゼロになってしまいました。
 映画の全体としての印象は、サム・ライミの『スパイダーマン3』に近いものがありました。……と言うのも、「全体として内容を詰め込みすぎであるため、元ネタ知らんで見る人にはわけわからんじゃないの?」っつーことですね。
 とはいえ、なぜ「内容詰め込みすぎ」になったのかという原因に関しては、両作で異なるのではないかとも思います。『スパイダーマン3』に関して言うと、私の予想というか妄想としては、サム・ライミの巨大な勘違いによるものなのではないかと。スパイダーマンの映画化の大成功に気をよくしたサム・ライミ、「なんだ、やっぱみんなスパイディ大好きなんじゃん! ということは、宇宙からぶよぶよした黒い物体が飛来した時点でエイリアン・コステュームのオリジンまで誰でもわかるし、そこから新聞記者エディ・ブロックが出てきた時点でヴェノム登場までは誰でも展開を読めちゃうんだから、そんなに細かく描写する必要ないよな~。だったらアレもコレも入れられるぞ!」とか思ったんじゃないでしょうか。実際あの映画、詰め込みすぎだと言われるのはその通りだと思うのですが、元ネタ知ってると別に混乱することもなくふつうに見られるんですよね……。
 そして、『バットマンvsスーパーマン』にもそういう場面はありまして、例えば「少し未来の時点のバリー・アレンが時空を越えてバットマンの元を訪れてこれから起きる出来事に警告を与える」という『クライシス』オマージュがありましたが、あれなんか、この映画の観客の99パーセント以上はわけわからずポカーンとするだけなんじゃないでしょうか。そもそもこの映画の中ではブルースとバリーはまだ出会ってもいないわけで、その時点で「近未来のバリー」をいきなり出すのはどうなのか……。とはいえ、この映画のその後の展開を照らし合わせてみると、ジャスティスリーグ結成の根本的な起源となるのは時空を越えたバリー・アレンであるということになり、「……そ、それは、DCコミックス的には非常に正しいぞ! うふふ」などと思わず頬が緩んでしまうのでもありました。
 ただし、『バットマンvsスーパーマン』の脚本の内容詰め込めすぎによる混乱は、単に情報量が多いということだけによるのでもないように思えます。というのも、そこで語られる内容のテーマ面を整理してみると、明らかに相互に矛盾するような場面がいくつも出てきているのです。と、いうことは、製作総指揮や脚本に数多くの名前がクレジットされているこの映画、全く異なる全体の方針が統一されずにごちゃごちゃのまま無理矢理盛り込まれてしまったのではないでしょうか。……そう、私の脳裏には、既にありありとイメージが浮かんでいます……会議室で机を両手でバンバン叩きつつ、異様なテンションのジェフ・ジョンズが「ちがうんスよ! ちがうんスよ! バットマンのオリジンには、絶対に何が何でも「怪傑ゾロ」と「飛び散る真珠」がないとダメなんスよ! というかそれ以前の話として、前の映画版だと「怪傑ゾロ」がカットされてウェイン一家がオペラに行ってたことになってましたけど、あれいったいなんだったんスか! なんスかオペラって! もともとコミックの方でなんで「怪傑ゾロ」が出てきたかって言ったら、バットマンの発想源の一つに対するオマージュだったわけじゃないスか! アクション映画へのオマージュを持ったコミックを映画化するにあたって、なんでわざわざそのオマージュをカットしなきゃいけないんスか! わけわかんないじゃないスか! んなことしてる時点で、既に敵を作ってるってことがなんでわかんないんスか! そう、だからこそ! それを変えるだけで! ちゃんとバットマンのオリジンを「怪傑ゾロ」に戻して冒頭に置く、ただそれだけのことで、おれら……じゃなくてDCコミックスのファンのみんなはとりあえずおおっぴらに文句は言わなくなるんスよ! 簡単なことじゃないスか!」などと口角泡をとばしつつしゃべり倒すという一幕が演じられていたはずなのです。
 そう、間違いない! バットマンのオリジンを「怪傑ゾロ」と「飛び散る真珠」に戻した上でわざわざ映画の冒頭にねじ込んだのは、ジェフの仕業です! それから、『マン・オヴ・スティール』でのスーパーマンが二次被害のことなどまるで気にせず都市を大破壊していたその陰でブルースが奔走していたことをその直後に置いたのも、たぶんジェフです! ……しかし、悲しいかな、ジェフの権力では、その程度のことをねじ込むのが限界だったのです……(涙)。
 実際のところ、『バットマンvsスーパーマン』という映画は、「漠然とした全体の正義のために細部での個人の犠牲に目がいかない」というスーパーマンの姿勢を危険視したバットマンが対立する……という前提の元始まったはず、なのに、そのテーマが深められたりストーリーの中心で展開されるようなことがありません……。というかそれ以前の問題として、映画公開の少し前に何かの記事で監督のザック・スナイダーのインタヴューを読んでたら「スーパーマンのような強力な存在を前にすると、バットマンも、銀行強盗のような小さな事件はどうでもよくなってしまうんだ」とか言ってて、「やっぱこの人、なんもわかってねえ……」と痛感させられることがあったのでした。そもそもの話として、自分が監督する映画に出てくる主要なキャラクターの行動として既に予告されているような部分に関して、根本的な部分からよくわかってないではないかと。……というかさ、今更ですが、ザック・スナイダー、こんなこと言ってるってことは、『ウォッチメン』を監督しておきながら、ロールシャッハの姿勢とかもまるっきりわかってなかったってことよね……。
 まあ、おそらくはそんな感じでてんで異なる見通しが一つの映画製作の中に相乗りした結果、「スーパーマンのヒーローとしての姿勢に対する疑問が投げかけられる」→「その後の話の本筋には特に影響なし」とか、「スーパーマンの立場に対する説明を求める公聴会が実現」→「爆破事件でとりあえずウヤムヤ」などという風に、あるテーマの元で描かれた場面がその後の展開で打ち消され無意味になるようなことが繰り返されてしまったのではないかと。
 おそらくこの映画の製作にあたって、情報量が詰め込みすぎであるということは製作側もわかっていたんではないかと思うのですよ。というのも、冒頭あたりのスーパーマン関連の描写などを見ていると、ハリウッドの古典的な脚本術の省略テクニックが使われているのです。前作『マン・オヴ・スティール』においてはクラーク・ケントとロイス・レーンの関係はそれほど掘り下げられることはありませんでしたが、今作になると、ロイスが自宅で入浴している最中にクラークが自然に入ってくるような描写を盛り込んでいくことで、前作からある程度時間が経過した時点でクラークとロイスの関係がどのように変化したのかということを、ロイスがスーパーマンの正体を知っているということまで含めて、直接的な説明がなくとも自然な展開の中で観客がわかるように構成されているのですな。
 で、そのあたりの描写を見ていて「なかなかよく考えてあるな~」などと思っていたんですが、途中からはもう、脚本面での工夫ではどうにもならんほどに情報量が溢れすぎて説明不足・消化不良のままにストーリーがどんどん展開していってしまうのでありました……。
 「各場面ごとのつながりは消化不良なまま、とりあえず編集でつないじゃったんだろうな~」と思えるようなことは、結構いろいろありまして……。個人的に一番納得いかなかったのは、ゴッサム大学でアメフトする場面があり実際の撮影も済ませたという情報まで明らかになっていたのにもかかわらず、結局画面の片隅に一瞬チラッと写っていただけ……ということでした。それって間違いなくブースター・ゴールドを今後登場させるための伏線だったはずなんですが、できあがった映画を見ているとクラークが頑としてアメフトの取材に赴かず、思わず画面の中のペリー・ホワイトが激怒するごとに同調し、「まさにチーフの言うとおり! クラーク、アメフトの取材しろやあ~!」と腹を立ててしまったのであります(……それにしても、これは、ジェフが会議室で机バンバンしながら「今後のDCヒーローの展開を考える上で、ブースター・ゴールドは絶対の絶対に必要なんスよ~!」とか熱弁しても、「誰だよバスター・ゴールドって」ですまされてしまったんでしょうか……「だいたいグリーンランタンの映画化なら既に失敗したじゃないか」「だからグリーンランタンじゃねえッ!」みたいな)。
 その他にも、スーパーマンがロケットを救出する場面とか、明らかに結構な手間も費用もかけて撮影してあるっぽいのに、回想でほんの一瞬だけ写るだけとか……。あるいは、スーパーマンの起こした二次災害で半身不随になったブルースの元部下の人とか、スーパーマンと直接やり取りするために人前に出てきたのに、結局一言も会話することなし、とか……。結局のところ、いろんな人がいろんな構想の下に考えたそれぞれが独立して関連性の薄いようなシーンが無数にあり、それを全部つなげていくととてもではないが一本の映画にはまとめきれないので、それぞれのシーンをそれぞれ中途半端なところにまでカット、そのため、どのシーンもそれぞれ消化不良に……みたいなことになっちゃったんではないでしょうか。……これが、船頭多くして船山に登るというやつなのか……。
 そういえば、公開直前くらいに漏れ出てきた情報として、撮影現場で「こんな脚本が使えるかぁ!」とかキレ出したベン・アフレックがバットマンの衣装を着たまま脚本を書き直しだした……などという出来事があったことが伝えられていました。……まあ、それ自体は、むしろバットマンぽい感じがするエピソードではあると思えるんですが……。
 バットマンぽいと言えば……まあそんな感じの映画だったということもあり、全体を通してその首尾一貫した整合を追求してみれば、バットマンの行動が支離滅裂であることは一目瞭然ではあるわけですが……しかし、しかしですよ? 自分が追求しているヒーローのあるべき姿の理念をゴリゴリに唱え、理知的なアルフレッドにどれほど諭されようとも執拗にスーパーマンを非難し、それでいていざ自分個人の身内にまつわる主観的な感傷を刺激されるような事件があったらあっさり手の平を返して百八十度異なる態度を突然取り始めながらも何ら悪びれることなく堂々と居直ってみせ(「え、お前の母ちゃんもマーサなの? マジで?」)、挙げ句の果てにはマーサ・ケントを救出すると「いや~お母さん、実は僕、お宅の息子さんの友達なんスよ~」などといけしゃあしゃあと言い出し始める、死ぬほど頭がいいくせに感情の赴くままに行き当たりばったりに行動するからかえって無駄に大勢の周囲を巻き込みまくって迷惑すぎるその姿を見るにつけ、むしろ、「いや~……これは、バットマン全開だなあ!」などと思ってしまったのであります。


 ……しかしですねえ、いざ、「このくらいデタラメやりまくって傍迷惑な人の方が、かえってバットマンらしいな~」と思ってみると……この『バットマンvsスーパーマン』は、一本の映画としては、内容がとっちらかってしっちゃかめっちゃかなダメな作品だとは思いますが、「でも、アメコミの世界で社運をかけた規模の超大作なんて、たいていの場合、こんな感じのばっかだよな……」と思えてきました。最近だと、DCコミックスの『コンヴァージャンス』にしてもマーヴル・コミックスの『シークレット・ウォーズ』にしても、話の大筋について行くために読者は膨大な量のコミックの購読を要求され、そのために大量の費用と時間をはたいてなんとかついていっても、読み終えてからいざ冷静に振り返ってみると「……これ、そこまで苦労してつきあうようなものだったのだろうか……?」と自分の生き方に疑念が生じるようなイヴェントだったではありませんか(『エイジ・オヴ・アポカリプス』とか『ノーマンズ・ランド』のような「内容的にも成功した巨大クロスオーヴァー」なんて、例外中の例外ですからね……)。
 要するに、「アメコミだからいい」ということも、逆に「アメコミだから悪い」ということもないのです。ヒーローコミックだけに限定してみても、多くの人間が関わって多くの作品が送り出されているわけですから、当然のことながらピンからキリまであるわけです。いいものもあれば悪いものもあり、多数の人間の利害が絡んだ超大作では意思統一が計れずに混乱が生じるようなこともあり、逆に、小規模な作品が少人数のスタッフに自由裁量が与えられたゆえに予想外の成功を収めるようなこともあるのです。
 そういう意味では、『バットマンvsスーパーマン』という映画のダメな部分は、ヒーローもののアメコミを題材としている限りうまくいかなかったケースだと当然陥るような罠にはまっているという意味で「割とありがちな失敗作」なのであり、それ以上でもそれ以下でもないように思えてきました。今回の映画化では、元ネタとなる原作を読んでたら怒り出すようなテキトーな引用もなかったと思います……それはまあ、ジェフが水面かで奔走して防いでくれたんだと思いますが、それでも防げなかったのがジミー・オルセンの件だったということなのでしょう(……というか、作中ではジミー・オルセンという役名自体は作中に出てきていなかったので、ザック・スナイダーが映画の公開後に独断で「実はあれはこうだった」という裏設定として言い出した可能性もあるとは思いますが)。
 アメコミもまた一つのジャンルとしてある程度の広がりをもっている以上、傑作から凡作まで質にムラがあるのは当然のことであるわけです。ジャンルの定型にしたがってはいるもののうまいこと処理できずに凡作が生まれてしまうような機会もある、そんな間口の広さがあるからこそ、傑作が生まれてきうる土壌も存在しうるわけで。特定の様式を持った特定のジャンルから傑作だけがボコボコ生まれるはずもなく、凡作や駄作の存在も認めなければ傑作が出てくる余地はありません(むろん、だからといってなんでもかんでも認めるべしというわけではなく、読んだら怒り出すようなタイプの凡作・駄作も当然あるわけですが)。
 で、もちろん、なんらかのフィルターで選別されたあとの傑作・秀作にしかふれるつもりはない、そういうものにしか金を落とす気はない……というのもわかるんですが、そういう人が、同時に、自分が傑作・秀作にしか触れてこなかったジャンルの「ジャンルとしての全体像」について大上段で語り出すのは違うんじゃないですかねえ。アメコミの場合、商業的もしくは批評的成功を収めた作品しか邦訳というフィルターは通らないですし……ごく一握りの上澄みにしか接するつもりもなくジャンルの全体像の大部分を占めるゴミの山と根気よくつきあう気もないような手合いほど、的外れな「ジャンルの全体論」を語りたがるように見えるのはなんでなんでしょうかね。


 とはいえ、私自身、「ジャンルの全体像を把握しようとするならば、凡作・駄作にも接しなければならない」という己への戒めを、割と最近まで忘れていたような気がするのです……そしてそれは、まさに今回の『バットマンvsスーパーマン』の製作総指揮の一角に名を連ねているジェフ・ジョンズによって引き起こされていたことだったのです。
 テキトーに扱われてストーリーラインがぶち壊されたようなキャラクターを引き継いでは奇跡の復活を遂げさせ、「グリーンランタンがDCコミックスで一番人気のヒーローに」とか「アクアマンが売り上げでスパイダーマンを抜く」などという意味不明のミラクルを次々に実現させ、ジェフはアメコミ界のトップライターとして君臨するに至りました。そういうわけで、ここ十年くらいのDCコミックスの巨大イヴェントの多くはジェフがライティングを担当する事になった結果、その手の巨大イヴェントで箸にも棒にも引っかからないようなしょーもない代物にあたる率が激減していたわけです。
 だからこそ、そんなジェフが『バットマンvsスーパーマン』の製作に食い込んだことで、「ジェフならここから奇跡の大逆転を見せるのではないか」などと期待してしまっていたわけですが……いざ蓋を開けてみるとジェフがコントロールできているような部分がわずかであることは明らかであるのとともに、「でもアメコミ業界で鳴り物入りの超大作がこんな感じであることって、そういやふつうのことだよなあ~」と我に返るに至ったのでした……。
 しかし……しかし、であります。まだ、希望の光は消えてはいないのです……『バットマンvsスーパーマン』をめぐる一連の動きの中で、ジェフのことを高く評価し始めた人物が存在するのです。
 そう、我らがベン・アフレックは、リサーチのために結構細かくDCのコミックを読み込んでたらしいのですが……そのことについて、ジェフと色々と話し合っていたらしいのです。そんで、「そういやあのコミックは面白かったな」「あ~、それ書いたの俺だわ」「また別のあれも面白かったよ」「それも書いたの俺だわ」「俺の気に入るコミックはみんな君が書いてんのか~い!」などとじゃれあうようになったみたいです。
 そうか、と、いうことは……ベン・アフレックも、『フラッシュポイント』の結末で涙したり、『グリーンランタン:リバース』を読んで「ハル、ふっかぁ~~~つ!!!」などと絶叫したり、トレヴァーさんの財布をすったらワンダーウーマンの写真が出てきちゃって自分とバッツの関係を思い出してしんみりしちゃったキャットウーマンを見て切なくなったり、「そりゃメラが怖いのはわかるけど、アーサー、目ェ泳いでるゥ!」とか言ってみたり、「聖ウォーカーの決め台詞'All will be well.'を拝借していいのは、世界広しといえどもバリーだけ!」などと断言してみたり、「ブースター・ゴールドの世紀の大発見たる「シネストロには褒め殺しが効く」という衝撃の事実をいつの間にか認識した上で易々と使いこなしてまでいるとは、やっぱルーサーさすがだな!」とか言ってたりするわけか~。……ベン・アフレック、最高だな!
 挙げ句の果てには、きたるべき企画に向けての共同作業についてジェフのことを聞かれたベン・アフレック、'I love him. He's the best.'などと公に愛を表明しだしたりまでしちゃってますからねえ。
 ……と、いうわけで、今回の『バットマンvsスーパーマン』に関しては、もうこうなっちゃったものはしょうがないとは思いますが(ただしジミー・オルセンの件は除く)、ベン&ジェフの真価が発揮された暁には、まだまだ優れたヒーロー映画が出てくる期待は残しておいてもいいように思えるのでありました。





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