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テクストとしての探偵――ロバート・クーヴァー『ノワール』

 少し前のことなのだが、ロバート・クーヴァーによる短めの長篇小説『ノワール』を邦訳で読んだ。この小説は、ハードボイルドものの探偵小説や、その影響下にあるフィルム・ノワール全般に共通するようなイメージ・定型を踏まえた上で、それをパロディ化するような作品になっている。
 まあ、主人公の名前が「フィリップ・M・ノワール」という点で、既にそれは明らかだ。これはもちろんチャンドラーの創造した探偵であるフィリップ・マーロウを踏まえた上で、「ノワール」というジャンルそのものの名前をそのまま主人公に張り付けているわけだ。そして、「ノワール」とはフランス語で「黒」を意味する言葉であるわけだが、反対の「白」を表す「ブランチ」を探偵の秘書の名前につけ、探偵と関わりのある刑事には「ブルー」とつけ、事件の黒幕とおぼしき裏社会の大物には「ミスター・ビッグ」とつけ――というような具合に、そのまま属性自体を表しているような言葉を、わざわざ記号的に作中に配置していく。
 フィルム・ノワールと呼ばれる作品群は、しばしば無時間的・非歴史的な内容を持っているわけだから、そこからストーリーを抹消し、定型と化したクリシェだけを抽出してくることはたやすい。ということは、起源を失った記号の集積として、記号のみで形成される閉じた空間を迷宮と化す……というようなタイプのポストモダン小説を、その素材となるパーツとして「フィルム・ノワールにありがちな定型」を意匠として当てはめて作品世界を構築するというのも、まあお手軽にできてしまうことではあるわけだ。
 そういう意味では、この『ノワール』にしても、決まりきったルーティンに沿っていれば一丁上がりでできてしまうような、「ありがちのいわゆるポストモダン小説」と同じ範疇にあるものではある――のだけれど、そこはさすがに書いているのがロバート・クーヴァーなだけあって、さらにひとひねりを加えることによって、特定の様式に従っていれば誰でも作れてしまうようなスタイルの範疇からは逸脱する作品になりえているのであった。


 この『ノワール』がポストモダン小説の単にありがちな作品から逸脱しているのは、一言で言えば、その細部の書き込みの充実ぶりによっている。そしてそれは、単に細部が充実しているというだけのことではなく、作品全体の読解に変容を迫るようなものが、そこかしこに書き込まれているということだ。
 具体的に見てみよう。例えば、冒頭近くの段階で、ミチコなる日本人女性に関するエピソードが登場する。ミチコは元々とあるヤクザの情婦であり、そのヤクザが自分自身を誇示するような内容を持つ刺青を入れられていた。ところがあるとき、ミチコは敵対するヤクザに誘拐され、刺青の内容が上書きされ、ミチコの愛人のヤクザが侮辱されるものへと意味が変えられる。これ以降、ミチコの身体は敵対する二つのヤクザの勢力の間を行ったり来たりし、その都度ミチコの全身の刺青は拡大し、遂にはその全身を覆うにまで至る。
 この時点では、ストーリーの本筋とは一見してほとんど無関係にまで見えるにもかかわらずグロテスクに肥大したミチコのエピソードは、次のような経緯をたどることになるのだ。


このように彼女は二人のヤクザの親分のあいだを、一種のメッセージボードとして行ったり来たりさせられ、ついにヤクザたちは互いの技術を称え合うほどになり、彼らの敵対関係は――すべての子分たちの不興を買ったのだが――純粋に芸術的な書簡の応酬となった。彼らはミチコの体を有名な傑作風景画や性愛画からの抜粋で覆いつくし、そこに暗示的な、あるいはあからさまな脅迫や侮辱を常に添えた。黄道十二宮を彼女の適切な場所に焼きつけ、少しでも空白があれば四世紀に及ぶヤクザの歴史を書き記し、彼女の足の裏、唇や頭皮、目蓋や脇の下までも埋め尽くした。あまりに夢中になっていたので、このまま続けば彼女の内蔵にも刺青を入れ始めたかもしれない。ところがちょうどその頃、親分の片腕たちがミチコの体を街の近代美術館で展示しようともくろんだ。そして、親分たちがまさに和解しようとしたとき、刺青の針を耳に撃ち込んで二人を始末したのである。ミチコは結局、頭から爪先まで何重にも刺青を入れられる結果となった。エキゾチックな落書きのうえにまた落書きが描かれ、ヤクザの公式の歴史書のようでも俗語辞典のようでもあり、画廊のようでもあった。これは、彼女の所有権を主張する近代美術館との契約が終わってからあとの、彼女のキャリアに役立った。彼女は図書館に一時間展示されるだけで百ドルの価値をもつようになったのである。その刺青も今はみな色褪せてしまった。輪郭がぼやけ、明晰さがなくなり、さまざまな色が混じっている。皺が絵や文の連続性を絶ち、詳細を曖昧にした。すべての歴史と同じ運命をたどっているのだ――歴史は崩れていく記憶にすぎないのだから。時の流れとともに変わらないものはない。悲しいことだ。彼女の体のどこかに書かれた俳句が、まさにそのことを詠っている。(『ノワール』、上岡伸雄訳、p23~24)


 一人の人間でありながら、際限なく書き加えられ書き換えられ時には抹消されさえする、その全体の意味を確定し難いテクストそのものになってしまっている――そして、そのようなテクストとしての身体は、たびたび交換されることによってコミュニケーションの媒体としての機能を担わされ、やがて媒体としてのテクストそのものに価値が見出された結果、商品としての機能さえ持つことになる。
 これだけでも、非常に充実した細部である。……だが、上の引用部が本当に興味深いものになっているのは、その最後の部分にさりげなく書き込まれたことがあるからだ。ミチコの身体がたどることになった数奇な運命を叙述したその果てに、この小説の話者は、「時の流れとともに変わらないものはない。悲しいことだ」という詠嘆を語り、小説の地の文の審級で自らの主観を読者に語りかけてみせる――ように思えたのが、実は、それはミチコの身体に俳句として書き込まれた言葉の内容をそのまま引用していたのにすぎなかったのである。
 もちろん、クーヴァーによる原文は英語で書かれたものであり、日本人ヤクザによる俳句自体は、おそらくは日本語で書かれている。その意味では、ここでの話者は直接的に言葉を引用しているわけではなく、「翻訳」の機能を担うことによって、かなり特殊な形ではあるが、実質的に自由間接話法を用いていることになるのだが、ここではその問題はひとまず措いておこう(内容が等価なものであっても話者による変形が引用文全体に加えられている以上、これは間接話法であると考えることもできそうだから、かなり微妙な問題だ)。というのも、この部分で非常に重要なのは、「作中の世界で物理的に存在している言葉」と「読者が、自分の属する現実世界の存在として接している言葉」とが、全く同等のものとされてしまっていることであるからだ。
 小説を読むとき、ふつう読者は、作中世界に存在しその一部を構成するものとしての言葉と、現実世界に存在する作品そのものの本体である地の文とは区別する。しかし、クーヴァーはそのような区別を突き崩し、言葉が存在している審級の階層差を無化してしまっているわけだ。
 そのようなことは、『ノワール』の他の部分を見ることでも確認できる。例えば、探偵に依頼人として訪れた謎の女性は、自身の過去について語る中で、次のように述べる部分がある。


 まだほんの子供だった頃のことよ、フィル。私はある男の庇護を受けることになったの。トラブルを招く男だっていうのはわかっていた。体中にbad boyって書いてあるのよ――これは、文字どおりの意味なの。両方の乳首のまわりとか、臍のまわりとかに書いてあって、目の窪みみたいに見えたわ。(同、p86)


 「体中にbad boyって書いてある」という言葉を聞けば、ふつう聞く側はそれを比喩表現として受け取り、ある人物が悪童であることをやや婉曲的に示しているのだと解釈するだろう。しかしここではそれは、「文字どおり」、身体に「bad boy」という言葉が書き込まれていることを意味する。……ここで明らかにされていることは、比喩表現が担う機能は、実際のところ、その表現を受容する側の解釈に依るところが大きい、ということであろう。
 例えば隠喩であれば、「AはBである」と述べることによって、二つの異なる対象を類比によって結びつけ、何らかの新たなイメージ・新たな解釈・新たな世界観を創造する。「あの人は虎である」と言えば、ある人物が虎のように怖ろしく猛々しい様子をしているイメージが形成される。……しかし、これは改めて考えれば、そのようなイメージを形成する受容者の側が、「あの人」の存在する現実と「虎」の存在する現実とをひとまず異なる水準に存在しているものとしてとらえた上で、別物としてのイメージを重ね合わせているという事態が起きているからだ。
 そして、クーヴァーがやっているのは、このような構図を根本から転倒することなのである。というのも、文学作品において隠喩を用い二つの異なるイメージを結びつけようとしたところで、実際に作中に存在しているものはと言えば、例える項も例えられる項も等しく言葉であるからだ。文学作品の実体とは言葉そのものでしかなく、その「言葉そのもの」の水準だけを見るならば、階層の差異などというものは存在しない。そこからはみ出る過剰な部分、言語が指し示すイメージは、実は表現の受容者の方こそが自ら創造しているものであるのにすぎない。文学作品の内実としては、ただ単に言葉が一直線に並んでいるという以上のことはない。「深層」は、読者の頭の中にしか存在しないのだ。


 そういう意味では、ミチコの身体が刺青に覆われ尽くしたエピソードを、この『ノワール』という作品そのものの全体像を示す「象徴」としてとらえてしまうのは、おそらく間違っている。統一された全体像を明確に指し示し体現する象徴化の機能を特定の部分が担っているのではなく、作品のどこをとっても偏在している特徴が、ある特定の部位でたまたま露出して読み取りやすいものになっているような事態が、この作品では起きているのだ(つまり、この作品の内部に存在しているのは、symbolではなくsymptomである……と、言えばいいのだろうか)。
 だから、『ノワール』という作品の舞台となる都市は、それ自体が「文字どおり」の意味でテクストなのである、比喩ではなく。ミチコの身体を覆い尽くした刺青が時に上書きされ時に抹消されたのと同じく、フィリップ・M・ノワールが最初に遭遇した事件のその痕跡、殺人事件の現場の地面に死体の跡を示すために書き込まれたチョークの輪郭は、たびたび抹消され書き換えられることになる。
 だからこそ、探偵が都市の中を移動することは、次のように書かれることにもなる。


君は身を屈めながら路地を走り、その行き止まりで、煉瓦作りの塀をよじ登る。塀を乗り越え、誰かの家の裏庭に着地する。ブラインドを降ろした窓に、服を脱いでいる一人の女の影が映っている。あのブラインドの向こう側には別の物語がある。おそらく君がいま巻き込まれているのよりもましな物語。君がここで一息ついて、ちょっとした魅力のあるゴシップ記事として読みたいと思うような代物だ。しかし、君はまず窓の灯りでミチコに手渡されたメモを読む。(同、p24~25)


 都市そのものがテクストである、ゆえに、その内部を移動する探偵は、それぞれがそれぞれに共存している多種多様な物語に接している。そして、「読む者」としての探偵が、焦点を当てられるべき物語が何者であるのかを指定することによって、作品の内部で優先されるべき物語が特定されることにもなる。
 そのような意味で、「探偵」が作品の内部で果たす役割は、「読者」のそれと重なることになる。主人公である探偵が「君」という二人称で記述されることによって、「探偵」と「読者」が重ね合わされることは、さらに強調されてもいる。……しかし、そのような構図自体は、当然のことながらほとんど全ての探偵小説について言えるようなことでしかない。むしろ、『ノワール』という小説の焦点は、「探偵」=「読者」という構図をいったん採用しながら、その構図を突き崩していくことにある。
 まずは、「都市そのものがテクストである」ということは、都市内に物語が無数に蠢いていることと等価ではない……そのことが明らかになる。都市そのものが無数に存在し相互に書き換えあう言語の集合体だとしても、物語が存在することが自明であるわけではない。物語は、言語に接してそこから何かを読みとる者の方こそが能動的に創造してしまうものだ。……だから、例えば、次のように語る、物乞いの老人がいる。


ある日、わしはあそこのビルから人が飛び降りるのを見た。それからわしはまたそれを見た――あそこのビルから人が飛び降りた。だが、わしにはわからん。わしは二人の人間が飛び降りるのを見たのだろうか、それとも一人が飛び降りるのを見て、それからわしの脳がそのことについて考え、二人の違う人物を作り出したのだろうか? 次にそれについて考えたとき、わしはまた別の人間が飛び降りるのを見た。あるいは、別の人間が飛び降りるのを見て、それがほかの二人のことを考えさせた。脳ってのはおかしなもんじゃないか? で、どう思う? わしは三人の人間が飛び降りるのを見たのか? それとも、飛び降りるのは一人しか見ていないが、わしの脳が思い出すことで、三人見たような気になっているのか?(同、p56)


 あるいは、禁酒を貫き通す男が、自分が酒を断つことになったきっかけとなった過去の出来事を語る中で、次のように述べる。


もちろん、ほとんどの場合、私はへべれけになってもいましたから、何が現実で何がそうでないかもわかっていませんでした。ただ、ある意味では、すべて現実だったんです。だって、すべてを想像しているだけだったとしても、それは現実だったのですから。少なくとも、私の心のなかでは現実でした。(同、p193)


 さらには、信用できない語り手の群れに苛立つ探偵に対して、依頼者の女性が次のように語る。


物語をでっち上げて、そのなかにギャップがあるとね、ミスター・ノワール、みんながしゃしゃり出て、ギャップを埋めようとするのよ。そうせずにいられないの。(同、p225)


 ……都市そのものがテクストである、だから、テクストを読み取る者の方こそが、テクストの集積から物語を生み出してしまう。……しかし、既にミチコのエピソードが明らかにしていたように、都市の内部に生きる住民そのものもまた、「文字どおり」の意味で書かれた言葉であることによって、都市の一部をなしているわけだ。
 文学作品は言葉で書かれているからこそ、その内部に登場するあらゆる要素は、書かれた言葉である。だから、都市は言葉の集積であるのと同時に、その内部において都市を読み取る無数の住民もまた書かれた言葉であるのであり、無数の主体が相互に読み取り合い書き換え合い行間を創造して妄想としての物語をでっち上げ合うことによって、作品そのものが、まさに織り成されることになる。
 そして、そのような『ノワール』の作品世界のあり方は、主人公である「探偵」にすら当てはまる。ここにあるのは、あまりにも身も蓋もない事実だ……探偵小説における「探偵」は、しばしば「読者」の立場と重なり合うのと同時に、書かれた言葉でもあるわけだ。
 だからこそ、意識を失った探偵は次のような状態に陥ることにもなる。


君の精神を守っていた外殻が破壊され、精神が痛めつけられて、考えることなどできない。それよりも、苦痛と都市に関する、映像のない夢を見ているようだった。映像のほとんどない夢。君は古い映写機のなかを引きずられている。そして、犯罪のはびこる迷路のような君の腸が、どこかに映し出されている。君の送り穴がどこかで引っかかり、裂けていく。君の頭は機械のなかで動けなくなる。映像が消える。(同、p45~46、ルビは省略)


 テクストの集積としての都市から様々な物語を読み取る「読者」としての探偵は、同時に、自身もまた「送り穴(スプロケット・ホール)」を持ち映写機にかけられる、映画のフィルムである。フィリップ・M・ノワールもまた、映画のフィルムという、それ自身が読み取られるもの、テクストである――その一方で、映像が消える時点があることが明言されるのと同時に、それは「映像のない夢」であるとも表現されている。……これはもちろん、「なんらかの映像が存在する」という出来事自体が、映像なしに言葉のみで書かれているからだ。
 探偵の腸の内部が「犯罪のはびこる迷路」として表現されることが、この作品のスタイルをさらに決定づけてもいる。テクストとしての作中世界は全てが言語の集積であるがゆえに階層の区別などというものは無化されているからこそ、都市は探偵の身体の外部にあるのと同時に、その内部にあるとも言えるということだ。
 もともと、ハードボイルド小説とは、探偵が事件を超越的に俯瞰する立場にいるという従来の探偵小説の構図を突き崩し、探偵もまた事件の渦中に巻き込まれずにはいないようなタイプの小説として成立した。そういう意味では、クーヴァーは、そんな探偵のあり方をさらに過激に押し進めているのである――探偵は、犯人ともその他の人物とも周囲の都市全体とも同じく、書かれた言葉という意味では全て等しく、同じ水準にある。


 ……さて、以上のように『ノワール』という作品を読んだ私は、そこで展開されていることを非常に高く評価する一方で、ある種の物足りなさを感じてしまったことも事実なのである。この小説は、「現代において文学に何ができるか、もしくは何をなすべきか」ということに関してほとんど模範解答を与えているような作品でもあるし、技術的にはほとんど非の打ち所がないと言ってもいいのだが……しかし、「いやいや、そりゃあロバート・クーヴァーだったら、これくらい余裕でできるだろ~!」などとも思えてしまうのだった。
 既に述べたように、この『ノワール』という作品は、「テクストそのものが既存の記号の集積のみで構成されている」というようなポストモダン文学にありがちなスタイルを踏襲した上で、そこからさらにひとひねりを加えて言語そのものの水準の原理的な検討・分析にまで到達している。……のではあるが、例えばクーヴァー自身の『ユニヴァーサル野球協会』のような小説においては、野球ゲームの閉じたルールの内部の法則のみで作品世界全体が構築されてしまうような事態が示されたその後で、そんな記号的世界が存在しているそもそもの起源としての、閉じたテクストの世界の外部にあるアメリカの現実なり、そのアメリカの内部にあるユダヤ文化の問題……といったところにまで到達していたのであった。それが『ノワール』においては、フィルム・ノワールのクリシェは作品にある種の意匠を与えるだけで、それ以上にまで掘り下げられることはなされていないのだ。
 ……まあ、そうは言っても、もちろん『ノワール』と『ユニヴァーサル野球協会』では、作品の分量自体がかなり異なる。私は『ノワール』のことを「短めの長篇」と書いたが、これはむしろ「長めの中篇」と表現するべきであるのかもしれない。そして、これが中篇であるのだとすれば、確かに、長篇がはらむ過剰性をカットした、中篇としては過不足ない形式に収まった作品であるのだとも言える。
 そういう意味では、ポストモダン文学のありがちなスタイルを洗練させた上で、短篇においても中篇においても長篇においても、それぞれ異なる形式の内で異なるタイプの技術を使い分けてみせるクーヴァーの技量はとんでもない水準にあるのだが……それでもなお、釈然としない気持ちが残ってしまうのであった。こういうことができてしまうような作家は、ほんとは、長篇だけ書いていればいいと思うのよねえ。
 とは言え、『ノワール』という作品が非常に高度な文学的達成であること自体は、疑いようもない。そして、それが高度であるがゆえに、ここで何がなされているのかをある程度でも嗅ぎつけられるような読み手が限られてくることもまた、確かであろう。
 全身が刺青で覆い尽くされたミチコの身体を前にした敵対する二人のヤクザの振る舞いは、言ってみれば、「鈍感な読者」の姿と重なるものであるだろう。書く者は一方的に書かれる者を支配する、あるいは、読む者は読まれる者を一方的に支配する。二人のヤクザは、この静的な構図を微塵も疑っていなかった。……それと同様に、話者によって「君」と呼びかけられることで読者と重なる立場を持つ「探偵」がそれ自体言葉でしかないことに鈍感である者、あるいは、読み手としての自分が読まれるものの側から撃ち抜かれるという経験におよそ無縁である者。そのような人々は、高度な文学作品のテクストの表層において何が起きているのかなどということは、およそ理解できるはずもないのである。









『スタートレック/グリーンランタン:ザ・スペクトラム・ウォー』を読んだ

 DCコミックスとIDWが協力して実現したクロスオーヴァーの『スタートレック/グリーンランタン』が完結しましたので、紹介してみようかと思います。
 これはまあ、その名の通り、DCコミックスのグリーンランタンと、IDWがコミック化しているスタートレックのクロスオーヴァーであるわけですが……両社の協力が初めてというわけではなく、実は数年前に『スタートレック/リージョン・オヴ・スーパーヒーローズ』も既に実現していたのでありました(……しかし、個人的にリージョンのことはあんまり詳しくない上に、『スタートレック』もドラマ版だと一番最初のシリーズくらいしか見ていないもんで、これはスルーしてしまっていたのでした)。
 グリーンランタンの方の設定は、『ブラッケストナイト』の直後くらいの時期にあたるようですが、正史として起きたこととは微妙に異なる状況になっている、今回のクロスオーヴァーのためのオリジナル設定のようです。一方のスタートレックの方は、まあ主要キャラの描かれ方を見れば一目瞭然であるように、現行の映画版を踏まえた設定になっています。
 ……そうか、ということは――サラークさんと技術方面の話で盛り上がるサイモン・ペグ……じゃなくてスコッティ、とか、キロウォグさんにプーザー呼ばわりされるサイモン・ペグ……じゃなくてスコッティ、なんて場面が読めるんですね! などと予想し、読む前からすっかり盛り上がっていたのであります。





 『スタートレック/グリーンランタン:ザ・スペクトラム・ウォー』(TPBとkindle版)


  ライター:マイク・ジョンスン
  アーティスト:エンジェル・ヘルナンデス


 今回のクロスオーヴァーの発端となるのは、『ブラッケストナイト』後に再度起きたらしい、ネクロン率いるブラックランタンの襲撃です。これによって各色ランタンは全滅、ガンセットは最後の力によって「ラストライト」なるものを発動することになります。その「ラストライト」によって、各色ランタンの隊員一名ずつ及びスペアのリング一つずつが、ブラックランタンの手を逃れて再起を図るため、異なる宇宙に飛ばされることになりました。
 その異なる宇宙というのが、まあ当たり前ではありますが、『スタートレック』の世界。カーク船長率いるエンタープライズ号が、とある無人の惑星の地表で、ガンセットの死体とその周囲にあった六色のリングを発見し、回収することになります。
 その直後、エンタープライズ号はクリンゴン帝国のチャン将軍の乗艦と遭遇し、交戦することになりますが――ここで各色のリングが起動し、乗組員を所有者として選出することに。ブルー(希望)がチェコフを、ヴァイオレット(愛)がウフーラを、インディゴ(憐憫)がマッコイを所有者として選ぶことになりますが、イエロー(恐怖)は敵方のチャン将軍を選んでしまいます。また、その混乱状態に合わせて、生き延びてこちらの世界に飛ばされていたハル・ジョーダンも登場し、エンタープライズ号のみなさんと共闘することになるのでした。
 ……さて、以上のような事件をきっかけに全6号で語られたのが今回の『スタートレック/グリーンランタン』だったわけですが、要は、『ブラッケストナイト』でピークを迎えることになった、各色ランタンの抗争をスタートレックの世界に移して展開するのが全体の大筋になっています。
 前半部分では、レッド(憤怒)はゴーン人のグロコンのものに、オレンジ(貪欲)はロミュラン人のデキウスのものとなり、さらには、DCユニヴァースからシネストロとアトロシタスとラーフリーズもこちらの世界に飛ばされてきており、各勢力の思惑が入り交じった抗争が展開されることになります。……まあ、各色ランタンのリングというのは、要するに所有者の感情のエネルギーと連動しているものなので、スタートレックの世界だとどの勢力にどのリングを当てはめるのかということが大きな見所になっているわけです。
 これが後半になると、ガンセットのラストライトを追ってネクロンもスタートレックの世界に侵入してくることになります。この『スタートレック/グリーンランタン』に関してはやはりこのあたりが最大の見所で、ネクロンの力によって死から蘇りブラックランタン化してしまうことに最も必然性があるようなところが、うまい具合に選ばれています。そしてその上で、各色の感情の力を統合してホワイトランタンの力を生み出してブラックランタンに対抗しうるのが誰でなければならないのかというクライマックスの部分に関しても、グリーンランタンの道具立てをうまいことスタートレックの世界観に接合した上で活用できているなあ、と思える出来映えになっているのでした。


 ……まあ、そういう意味ではよくできてはいるんですが……なにぶん全体として6号ぶんの作品である上に、複数の勢力の複数のキャラクターが入り交じる複雑な展開をきちんきちんと整理整頓しててきぱきと淀みなくストーリーが展開していくので、読む前に私が期待していたような、話の本筋とはあまり関係ないキャラクター描写が展開されるような部分はほとんどないのでありました……。
 例えば、エンタープライズ号に遭遇したハルが「なにこの宇宙船? NASA? 君らNASAなの?」とか言って不審者扱いされたり、「おれだって空軍での階級は大尉なんだから、キャプテン・ジョーダンと呼べぇ!」と言い張ってみたり、なんにも考えないでとりあえず飛び出していくハルを見て「あいつ、行動する前に考えたことがあるのか?」などと言うカーク船長が「それ、私にはなじみ深い疑問ですねえ」とスポックに呆れられたり――と、面白い場面もあるんですが、逆に言うと、主役クラスのキャラクターでないとそこまで掘り下げた描写がないってことなんですよねえ。キロウォグさんは、終盤になってジョンとガイと一緒にちょこっと出てくるんですが、サラークさんなんかの場合、ブラックランタンに殺されたことが回想シーンでさらっと触れられるだけですし……。
 ……などというわけで、話としてはきちんとまとまっており、この種のお祭りとしては特に目に見えた欠点もないようなものとして仕上がってはいるのですが、倍の12号くらいの長いシリーズにして、話の本筋から逸れたキャラクター描写をいっぱい展開してもよかったのですぞ? などという物足りなさが残るのも事実ではあるのでした。
 しかし……しかし、です。まあ話の内容からもわかる通り、この『スタートレック/グリーンランタン』は、IDWの方で製作されたコミックです。ということは、DCコミックスの方で製作されるクロスオーヴァーもあり、現在進行中なのですが……私はこれに関しては完結してからまとめて読もうと思ってるのでまだ読んでいないのではありますが、「こ、この共演が実現した時点で、既に話の内容とか完全にどうでもいい!」と思えるような、並んで立ってるだけで最高な、ほとんどヤケクソ気味の、奇蹟のクロスオーヴァーが実現したのであります。……そう、そのクロスオーヴァーとは……これだーーーーーーッ!!!






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