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小説における「会話」の問題について

 昨年末に書いたエントリで、由良君美の『メタフィクションと脱構築』を読みつつ、そこでメタフィクションの観点からすると共通点を持つ『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』にも、根本的に異なる部分があると書いたのだった(……と、いうような話を受けてその続きとなるのがこのエントリであるのだが、前回書いたことをそのまま引き継いでいるような部分はあまりないので、実質的には独立したエントリになっている)。
 さて、ともに高度なメタフィクションである『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』は、いざ一読してみれば小説としての性質はまるで異なる……では、いったい何が異なるというのだろうか。
 私の考えでは、両作において決定的に異なるのは、作中における「会話」のあり方である。一言で言えば、『ドン・キホーテ』という小説は、異なる価値観・異なる世界観を持つ人々が長大な会話を繰り広げ互いの立場を時に争わせ時にすりあわせる、その長大なプロセスこそが作品の大部分を占めている。一方で、『トリストラム・シャンディ』においては、そのような意味での「会話」は作中に存在していない。
 とはいえ、もちろん、『トリストラム・シャンディ』という小説が会話を含まないというわけではない。登場人物は確かに会話する、しかしそれは、本質的に単一の独白が分岐し変奏されて複雑化されたものにすぎない。……『トリストラム・シャンディ』という小説の話者とされているトリストラム・シャンディは、自叙伝の筆者という名目で、読者に向かって途方もなく饒舌な語りを展開する。そして、その語りの中に現れる登場人物の中でも特に多くの分量を占めるのは、トリストラムの近親者たちであり、言ってみれば、トリストラムの分身ばかりなのである。つまり、トリストラムという奇妙な語り手が異なる価値観の持ち主との間で会話をするのではなく、無数のトリストラムの分身たちが一つの語りを分裂させる、そのような意味で入り組み多重化された語りこそが作品を形成しているのである。
 ……以上のように、『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』の両作における「会話」の機能および意味は、それぞれが全く異なるものとなっている。にもかかわらず、なぜ由良君美はこの両者を「メタフィクション」という観点のみから見て、その共通性にしか言及しなかったのだろうか?


 哲学史の教科書・概説書の類を読んでいると、しばしば見かける決まり文句がある。それは例えば、プラトンの対話篇やニーチェの『ツァラトゥストラ』に関して述べられるもので、「この書物は哲学史上において重要であるのみならず、文学的価値をも備える」というものだ。
 なるほど、そのような決まり文句自体には、特におかしいこともないように思える――プラトンやニーチェのその種の著作に文学的価値が認められるのは、これらの書物の大部分が会話によって占められているからであろう。そして、既に述べたセルバンテスの『ドン・キホーテ』、さらにはマーク・トゥウェインの『ハックルベリ・フィン』やドストエフスキーの五大長篇などについても、そこで展開されている長大な会話を読み進めることの面白さこそが、文学史上においてそれらの作品が確固たる地位を築いていることの大きな理由になっているだろう。
 しかし、ならばなぜ「会話」には文学的価値があるのか、そして、いかにして「会話」の価値の善し悪しを判定できるのか……というと、そもそもその分析を可能にするような装置は、既存の文学理論には存在していないのである。
 小説における「会話」には確かに文学的価値があると言わざるをえない、しかし、ではどのような場合にどのような価値があるのかを理論的な分析の俎上に乗せ、精密に分析することはできない――というのが、既存の文学研究の現状であるということになってしまうだろう。……だからこそ、『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』をメタフィクションの観点から見たときにその共通性を強調した由良君美が、両者の根本的な相違には言及することさえないようなことも起きたと私は思うのだ。


 二十世紀に発展した文学理論の主たる方向性は、文学作品を「作者」から「読者」へと伝達される媒介としてとらえた上で、そこに生じる単線的なコミュニケーションの内実を精密に理論化するものであったのだと言える(……もちろん、より正確に言うならば、作品にとって外部の存在である現実の「作者」を素朴に措定することを否定したり、「作者」ではなく「話者」の機能にこそ着目したり、「話者」の範疇に収まらない審級の分析を可能にするために「内包された作者」の概念が提出されたり――というような様々な立場があったわけだが、いずれの場合も、作品を発する側と受容する側の間に成立する単線的なコミュニケーションが前提されていることについては共通している)。
 しかし、小説として書かれたどんなタイプの作品を取り上げてみたところで、コミュニケーションは作者と読者の間に単線的にしか存在していないなどということはありえない(……とりあえずこの際、一般論の話をしているので、ベケットの後期作品のような極めて特殊な例外は除外して考える)。作中で登場人物が会話をしている限り、「作者ー読者」の一直線のみならず、複数の方向性を持つ複数のコミュニケーションが成立し、複雑に交錯し、作中に何らかの社会性をもたらしているはずである。……言ってみれば、作品が作者から読者へ向かう一本の巨大な線として垂直に存在しているならば、その線と交錯する水平な線もまた何本も同時に存在しているはずなのである。
 しかし……例えばナラトロジーにおいて典型的に見られるように、従来の文学理論は、文学作品をあくまでも作者から読者への伝達の経路としてのみとらえており、作品の内部において作者とも読者とも直接的な関係のない第三者同士のコミュニケーションが成立していることにはあまり焦点が当たらない。まさにそれこそが、小説における「会話」の価値を判定する理論が構築されないことの理由であるように思える。
 もちろん、これは、文学作品の分析に社会性が欠落しているという意味では全くない。作品が置かれた文脈、作品の外部の社会状況との相関関係の検討は、フェミニズムなりポストコロニアリズムなりの知見の文学研究への流入に伴い、急速に進展することになった。しかし、それは作品が総体として置かれた文脈の分析のための議論である以上、作品そのものの内部における複線的なコミュニケーションの有り様を、ナラトロジーが作品のナラティヴの検討でなしているような精密な水準で可能にするものではない。……言い換えれば、文学研究において、作品が存在する文脈を前提とした検討と、作品そのものの美学的構造を解析する形態面での検討とは乖離しており、作品内部でのコミュニケーションの有様を分析する装置が存在していないのだ。
 とはいえ、以上のような大ざっぱな総括には、あまりにも巨大な例外が存在する。……言うまでもないだろうが、ミハイル・バフチンのポリフォニー論、そこで提起された「ダイアローグ」の概念である。
 バフチンの著作の中でも特に影響力の強いドストエフスキー論は、ドストエフスキーの小説の内部に見られるポリフォニー性を重要な問題として取り上げている。ドストエフスキーの小説においては、作者の考えがそのまま登場人物の言葉に反映されているモノローグではなく、異なる立場の登場人物がそれぞれに首尾一貫した考えの元にそれぞれの言葉をぶつけあうという意味でのダイアローグが展開されている。したがって、ドストエフスキーの小説にはそれぞれに異なる体系が複数共存しており、作者自身の思想の元に一元化されることがない。
 そして、バフチンのそのような「ポリフォニー」の考えは、そのまま、バフチンによる文学のジャンル論と対応しているものでもあるだろう。古典的な意味での詩とは、自律した言葉を磨き上げて組み合わせることによって、独立した単一のシステムを作り上げることを志向するものだ。それは、作品として完璧に近づけば近づくほど、閉じた圏域を構築することになる。……一方、小説とは、社会の中に流通する様々なあり方をする言葉を寄せ集めてできるものであるゆえに、そもそも閉じたシステムを構築すること自体が不可能である。
 そういう意味では、バフチンが論じている「小説」の問題は、そもそもナラトロジーの問題系とは、見据えている水準そのものが異なる地点にあるのだ。バフチンは、「作者-作品-読者」の閉じた単一システムが形成不可能なジャンルとしてこそ「小説」をとらえている――一方で、ナラトロジーにおけるたいていの論者は、近代小説が成立したそのあとの時点において、その内部における小説の機能を分析することにしか興味がないように見える。例えば、ここなんかを読んでいても、バフチンのダイアローグ性に関する議論は、ナラトロジーの体系とはうまく整合性が取れないことが、ごくあっさりと書かれてしまってているのであった……。こういう部分で理論の接合がうまくいかないのは、バフチンが見据えているスパンよりも遙かに狭い範囲内のことにしかナラトロジーが目を向けていないということでしかないだろう(……とはいえ、私自身はこのあたりのことについて最新の研究を細かく追っているというわけでもないので、既にそのような議論がなされているというのであれば申し訳ないが)。
 もともと、二十世紀の文学理論における形式化・体系化の志向は、ニュー・クリティシズムによる詩の分析によって先鞭がつけられたものなのであった。おおざっぱに言えば、そのような志向が小説の分析にも伝播することによってナラトロジーなどが成立することにもなったわけだが……しかし、これまで述べてきたようなことをふまえれば、実は文学理論における小説の分析は、詩の分析の影響下からいまだ完全に脱しきってはいないようにすら思える。
 一つの作品が単一の完全なシステムを構築しているのではなく、無数の社会的なネットワークが交わりあい混淆しあう結節点としてあるもの、そのようなジャンルとしてバフチンは小説をとらえる。……そして、まさにこのようなバフチンの姿勢が既存の文学理論のあり方から逸脱し、そこにある齟齬は統合されないままに残されているということにこそ、問題がある。というのも、バフチンはモノローグとは異なるダイアローグの概念を基盤に据えて「小説」のあり方を検討したのだが、それはあくまでも大まかな見取りを提示したものにすぎず、個別の作品に即した各論を細かく展開したわけではなかった。その結果として、バフチンの偉大さが賞賛され称えられ続けているにもかかわらず、その議論を継承しより精密に理論化するようなことは、特になされていないのである。
 例えばドストエフスキー論におけるバフチンは、従来の小説におけるモノローグとは異なるダイアローグは、ドストエフスキーの小説家としてのキャリアを通じて一貫して見られるものだという。もちろんこれは、バフチン独自のドストエフスキー観を確立するために、いくら強調しても強調しすぎるということはなかったのだろう。……しかしこれは、逆に言えば、おしなべてダイアローグ性を有するとされたドストエフスキーの諸作の中で、ダイアローグ性という観点で見た際の質の高低をどのように決定するのかという基準が全く提示されていないということでもある。
 つまりバフチンは、小説の本質を検討する限り、作中の会話においてダイアローグはモノローグより優れていることを明確な形で提示したのだが……これは同時に、価値判断の基準として単純な二分法以上のものではなかったということでもあるのだ。
 『バフチン以後』におけるデヴィッド・ロッジは、このことをはっきりと指摘している。小説の価値を判断するのに「会話」の問題に焦点を当てたバフチンの仕事は重要である、しかし、バフチン自身は小説の「会話」の具体的な分析を綿密に展開したわけでもなかった――そのことを前提とした上で、ロッジは、小説の「会話」の具体的な批評的検討を実践してみせる。
 しかし、ここにもまた問題がある。なるほど、ロッジによる「会話」の分析は、そこで取り上げる作品のていねいな精読に基づいており、なかなかに高度な批評的達成である――しかし、それは自身がそれなりに優秀な実作者でもあるロッジの言わば個人技によって可能になる読解にとどまってもいるのだ。言い換えれば、それはあくまでも個々の作品の場面場面に即した読解なのであって、小説全般における「会話」の価値を判定しうるような理論化は望むべくもないようなものにとどまってもいるのだ。


 ミハイル・バフチンのポリフォニー論は、単一システムの内部にとどまる文学理論にとっての外部を提示した。しかし、バフチン自身は示すのにとどまった外部が具体的にどのようなものであるのかを探索することは引き継がれておらず、未踏の地はそのままに残されてしまっているように思える。……そこで、補助線を引く意味で、バフチンの議論とアナロジーが成立するように思える、他の領域での議論をいくつか参照してみたい。
 例えば、ウィトゲンシュタインのキャリアにおいて言語がどのように使用されていたかを見てみると、そこには、バフチンが意識していたのと同様の問題があるように思える。……よく知られているように、初期のウィトゲンシュタインは、言語によって語りうるものと語りえないものとを峻別し、哲学上の問題は「語りうるもの」についての議論に絞り込んだ上で、厳密に定義された言語による体系として『論理哲学論考』を執筆した。この体系に含まれていないことはそもそも本質的に「語りえないもの」である以上、哲学の問題はこれで全て終わったのだと称したウィトゲンシュタインは、学会から身を退けた。……しかし、のちに「哲学は終わってなどいなかった」と考えを変えたウィトゲンシュタインは、改めて哲学に復帰すると、言語が交換される際に生じるコミュニケーションの問題、「言語ゲーム」と呼ばれる問題に取り組み、『哲学探究』などの著作を残すことになったのだった。
 そのような意味で、初期のウィトゲンシュタインと後期のウィトゲンシュタインは、全く異なる質の言葉を用いて著作を書いている。そして、ここにバフチン的な見方を導入するのであれば、『論理哲学論考』は「詩の言葉」で書かれており、『哲学探究』などは「小説の言葉」で書かれている――と、言うことができると思うのだ。
 ある言葉の意味を厳密に定義づけた上で、その言葉を素材として単一の閉じた体系を完成させる。そのような言葉の使用は、バフチンが古典的な詩が目指すものとして提示したものと等しい。……しかし、ここで興味深いのは、ウィトゲンシュタインが、厳密に定義づけられた言葉による体系の完全性を目指しながらも、それが原理的に完成しえないことを明らかにしている点にある。言葉によって全てが語りうるわけではない、ゆえに、「語りえないものについては沈黙しなければならない」。
 バフチンの議論においては、「詩の言葉」と「小説の言葉」は、単純に、異なるジャンルにおいて異なる性質を持つものと見なされている。一方、ウィトゲンシュタインにとっては、それは単に別の問題として並列できるようなものではなかった。言葉によって作品を構築するという点に注目し、ウィトゲンシュタインが哲学者ではなく文学者であるとしたならば――彼は、完全な言語による完全な詩を構築しようとした果てにその限界に突き当たり、複数のコミュニケーションの結節点としての言語を取り上げるという意味での小説家へと転向した……そんな存在であるのだ。
 バフチンにおいては単に異なるジャンルのことであった「詩の言葉」と「小説の言葉」の差異は、ウィトゲンシュタインにおいては、自身の思考を構成する言葉を練り上げる過程で必然的に横断しなければならない、連続的な問題としてとらえられていたはずだ。
 そして、以上のような問題意識は、ウィトゲンシュタインと比較的近い時期に、まさに小説においても展開されていたのだと私は考える。それこそが、探偵小説におけるエラリー・クイーンの仕事に他ならないのだ。


 小説の内部にジャンル・フィクションがあまたある中でも、ナラトロジーの問題系がほとんど剥き出しの形で作中に現れるような領域は、探偵小説を措いて他にないだろう。それはもちろん、作品を「作者-読者」の単一のコミュニケーションとしてとらえるナラトロジーの論理と、作品の本質そのものが「犯人ー探偵」の間での単一のコミュニケーションとして成立する探偵小説との間に、明確なアナロジーが成立しているからだ。……さらに言えば、例えばアガアサ・クリスティのいくつかの作品に見られるように、「犯人-探偵」の間で展開されるトリックが、ナラトロジーで問題となるような語りの構造そのものの水準で成立することによって、問題自体が同一水準で一致するような場合すら存在する。
 そのような意味では、ジャンル・フィクションとしての特徴によって登場人物のパターンが類型化されているぶん、作品を構成する論理が剥き出しになっているわけだが、そんな中でエラリー・クイーンが取り組んだ問題にウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と類似するようなことすらあることを私が知ったのは、法月綸太郎によるエラリー・クイーン論を読んだからだった。……「初期クイーン論」「一九三二年の傑作群をめぐって」などの評論の中で、法月は、エラリー・クイーンの初期の作家活動に見られる特異な特徴と、そこからの明確な変化が見られる後期の活動との差異を論じている。法月によれば、クイーンの初期の作家活動とは、探偵小説の内部で展開される論理の厳密性をつきつめ、その形式化をなすことにあったのだという。
 通常の小説における「作者-作品-読者」の関係が、探偵小説における「犯人-死体-探偵」の関係と類比されているわけだが、法月によれば、初期のクイーンはこの「犯人-死体-探偵」という回路のコミュニケーションを、それまでの探偵小説の水準をはるかに越える形で形式化し、厳密なものにしたのだという。
 そして、探偵小説を構築する上での厳密な形式化こそが、探偵小説の論理の限界点を逆説的な形で暴き立ててしまうことにもなる。例えば、クイーンの初期の「国名シリーズ」の一作である『ギリシア棺の謎』に、形式化しえない限界点、その破れ目が表れている。『ギリシア棺の謎』において、「犯人-探偵」の回路に、メタ化する作用が導入されている――探偵である(作中人物としての)エラリー・クイーンは、手に入れた証拠を元に、そこからの推理によって必然的にたどりつく事件の真相を解読する。しかし、犯人が名指されたそのあとになって、実はクイーンが手に入れた証拠そのものが、真犯人によって捏造された偽の証拠であったことが明らかになるのだ。
 推理によって真相にたどり着くためには、殺人事件の結果として存在することになった死体の周囲にある証拠を手がかりにしなければならない。しかし、その証拠そのものが偽の証拠であり、真犯人とは異なる者を犯人として示すために捏造されたものであるのならば、探偵が真相にたどり着く道筋は存在しないことになる。真犯人は、探偵が手にしている「証拠」と同一の水準にはおらず、メタ的な立場を確保している。
 そして、このような「真犯人」による「偽の証拠」の提示は、原理的には無限に上昇することが可能である。「偽の証拠」を廃棄して手にした新たな証拠が、やはり「偽の証拠」であり、「真犯人」はそのさらに上の階層に存在している可能性は、常に否定できない。
 だからこそ、エラリー・クイーンの初期の作品においては、「読者への挑戦状」の存在は作品として成立するために必要不可欠だったのだと、法月は指摘する。作品を読み進め、真相が明かされる直前の「読者への挑戦状」の部分にまでたどり着いた読者に対して、作中で読者が既に読み進めた部分の中だけに、真相を解読するのに必要十分なだけの証拠が既に出尽くしていることを保証する――逆に言えば、既に登場した証拠が「偽の証拠」へと反転するような機会がそれ以上存在しないことが確定されるからこそ、読者のみならず探偵も、論理的に「犯人」を特定することが可能になる。
 つまり、作品に対して超越的な立場にある「作者」としてのエラリー・クイーンが作品世界に介入し、形式化された推理ゲームが展開される論理空間の境界を「読者への挑戦状」によって確定するからこそ、論理的に筋が通った推理が可能になる。そして、作品の内部が厳密な論理によって形式化されているからこそ、「作者」による介入、境界の設定それ自体は、恣意的なものであることを否定できないということにもなる。
 ……以上のような形で、探偵小説の論理空間の厳密化の果てにその限界地点までをも逆説的に明らかにしてしまったのがエラリー・クイーンの初期作品なのであり、後期の作家活動は、必然的にここから移動したものになる――というのが、法月の立論だ。そして、エラリー・クイーンの変容は、例えば、『Yの悲劇』と『災厄の町』の比較を通して明らかにされることになる。
 『Yの悲劇』と『災厄の町』という、それぞれが異なる時期に書かれた別々の作品は、その実、作品を構成する要素にまで分解してみれば、ほとんど同じパーツが組み合わされることによって成立しているのだと、法月は言う。……そして、『ギリシア棺の謎』と同時期に書かれた『Yの悲劇』ではやはり探偵小説の形式化の問題が展開されており、「犯人」の水準のメタ化が扱われている(ついでに付言すると、ナラトロジーとのアナロジーで考えるならば、『Yの悲劇』における「犯人」の位相は、「作者」と「話者」の二重性と考えることもできるのが興味深い)。その一方、『災厄の町』においては、そのようなメタ化の契機はなく、一読した限りでは『Yの悲劇』と全く異なる印象を読者に与えることになる。
 法月の説明によれば、プロットにおいて同じ要素を垂直に配置したのが『Yの悲劇』であり、水平に配置したのが『災厄の町』であるのだという。『Yの悲劇』と同じ要素を持ちながらもそのパーツはあくまでも水平に組み上げられているゆえに、作中におけるコミュニケーションは横にずれ、支配関係が存在せず、結果として作品そのものを俯瞰する超越的な視点が作中の水準に現れてメタ化が起きるようなこともない、と。
 なるほど、実際に『Yの悲劇』と『災厄の町』の両作をそのような観点から比較して読み比べてみる限り、法月の説明は確かに筋の通ったものである。しかし、法月の議論の中心が、あくまでもエラリー・クイーンの初期作品の特異性を分析することにあり、その限界が示されたあとでのクイーンの必然的な変容を示すために引かれたのが『災厄の町』である以上、当の『災厄の町』の内容が詳細に分析されているわけではないのである。
 法月は、『災厄の町』を評して「探偵小説をシステムの全体性という呪縛から解放し、微視的なコミュニケーションの一回性に向かって新たに開いていく回路の可能性が密かに示されている」と述べる。そのこと自体は、もっともなことだと思う――しかし、ではここで言う「微視的なコミュニケーション」とはいったいなんなのか。そして、垂直の構造を水平に組み直すことによってメタ化を解消するとは、作品の内実に照らし合わせてみれば、いったいいかなる事態のことを指し示しているのか。
 ミハイル・バフチンによるポリフォニー論は、ナラトロジーの分析装置の閉域の外部を指し示したが、そこで示された外部の内実が詳細に示されたわけではなく、未踏の地が残されたままであると、私は既に書いた。そのような問題のアナロジーとしてエラリー・クイーンの探偵小説を分析する法月綸太郎の議論を参照したわけだが、話はふたたび振り出しに戻った、かに見える。


 ジャンル・フィクションとしての探偵小説の専門家としてではない視点でエラリー・クイーンを読む論者が、ジャンル内の問題にこだわった国名シリーズやドルリー・レーンものよりも『災厄の町』のような後期作品を「小説として」より高く評価しているのを、いくつか目にしたことがある。
 そのこと自体はもっともであるし、私自身もそう思う。……しかし、既存の文学理論によって分析可能なのはむしろ国名シリーズのような作品なのであり、「文学的価値がある」はずのプラトンの対話篇やニーチェの『ツァラトゥストラ』を評価するための枠組みがないのと同じく、『災厄の町』の「小説として」の価値を判定しうるような装置は実は存在しないのだ。『災厄の町』の問題は、ナラトロジーの問題圏の外部にある。
 ……以上のようなことを考えていた私が、この問題に別の角度から検討することが可能であることを気づいたのは、ある批評家が全く異なる文脈でしていた議論がこの問題に接続可能であることに思い当たったときのことだった。
 既にだいぶ以前のことであるが、批評家の鎌田哲哉が「早稲田文学」に連載していた「進行中の批評」に、その議論はあった。絓秀実の批評に頻出する同型の問題に分析を加え批判的に論評していた鎌田は、絓の盲点になっているのが小林秀雄と坂口安吾の姿勢の違いであるとした上で、次のように書いている。


たとえば、坂口はクリスティや横溝正史を評価し、や笠井潔とは逆に、ヴァン・ダインや小栗虫太郎を馬鹿にしていた。たぶんこの理由は、彼が法的「議論」(平井宜雄『法律学基礎論覚書』)の性質を理解していた例外的な文学者であった事実と切り離せない。(「早稲田文学」2001年7月号所収「進行中の批評③」、p71)


 坂口は「証拠」が万能だと言ってはいない。たとえば、彼自身がその古代史分析で証拠として提出する、日本書紀の「テンカン的でヒステリイ的」な「文章の調子」(坂口「飛鳥の幻」)が、当時の歴史学者に即座に承認されたとは思えない。証拠が「証拠」になるにはある前提=決意の共有が不可欠であり、「証拠」の闘争とみえるものはしばしば通約不可能な諸決意の闘争と抵抗の過程である。だが、だとしても諸決意の通約不可能性と限界自体を我々は依然討論において示しうる。「争う」必要はないが、「争いうる」必要がある、と坂口が書くのはそのためだ。この感覚は、警察/探偵という分割が陥っている盲点を明確にする。小栗虫太郎や秀実の発想には、「法廷」=「議論」の介在する余地が全くないのだ。(同、p71~72)


 おそらく鎌田自身は全く意識していないことであろうが、このあまりにも大ざっぱに過ぎ身も蓋もない探偵小説の類型の二分類は、他ならぬエラリー・クイーンには適用できない。ヴァン・ダインの決定的な影響下に作家活動を開始して探偵小説の形式を発展させ、ある時期以降からは作中に「法廷」の場面を大きく取り込むことになる――そんな経歴を持つのが、エラリー・クイーンという探偵小説家であるからだ。
 しかし……逆に、まさにその「法廷」の概念の導入こそが、クイーンの作風の根本的な変化がダイレクトに反映している結果だとしたら、どうなるだろう?
 初期クイーンを論ずる法月の議論によれば、犯人が残した「証拠」を手がかりに真相を解読しようとする探偵は、犯人が「証拠」の真偽を覆して自身は上位の階層へと移動する、そのメタ化の契機を防ぐことはできない。……しかし、あまりにも身も蓋もないことではあるが、犯人が残した「証拠」を「法廷」での審議にかけ、複数の立場からの複数のコミュニケーションに照らし合わせて検討するならば、その真偽が決定不可能に陥ることなどない。したがって、事件がメタ化することはない(……殊能将之の『黒い仏』のように、犯人が文字通りの意味でメタ的な存在として設定されているのでもない限り……)。
 言い換えれば、探偵が犯人のメタ的立場への逃走を防ぐことができないのは、「犯人-探偵」という単一の回路でのコミュニケーションしか、あらかじめ想定されていないからだ。「証拠」が単一の垂直的回路の内部でのみ検討されるのではなく、水平的コミュニケーションが交錯しあう結節点としてとらえられるならば、事件そのものがメタ化するようなことはありえない。
 しかし、そのとき、「探偵」は事件の全体像をただ一人で描き出す絶対的な超越者のような立場を確保することはできないだろう。複数の立場・複数の視点が複雑に入り組む中で、あくまでも一つの視点から事件に立ち会うというだけのことになる。言い換えれば、もはや「犯人ー探偵」の単一の回路が特権化されるようなこともない。……そして、『災厄の町』において法廷に証人として出廷したときのエラリー・クイーンは、まさにそのような状況に身を任せていたのではなかったか。


 ……法月綸太郎のエラリー・クイーン論を手がかりにしておおよそ以上のようなことを考えていた私は、このような議論をナラトロジーの問題へとスライドさせれば、由良君美が解き忘れて残した宿題であるとも言える「メタフィクション」と「脱構築」との関係性についても、うまく説明ができると思えるようになった(ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のクライマックスで展開されるのがあの長大な法廷闘争であったことを思い起こせば、これは単に無関係な議論を結びつけた類比ではないことも明らかであると思う)。
 事件の中心に置かれた死体の周辺に存在する「証拠」の真偽を自由に反転させることによって、事件そのものをメタ化する――「犯人」にとってそのようなことが可能になるのは、「犯人ー探偵」という単一の回路のコミュニケーションしか想定されていないからだ。これと全く同じように、「作者-読者」という単一の回路しか想定されていないからこそ、「作者」は「作品」をメタ化することができる。
 当たり前のことではあるが、文学作品を構成する素材となる言葉は、本来、何らかの対象を指示する機能と、それ自体が交換されてコミュニケーションの媒体となる機能、その両方を備えている。……しかし、制度として確立した近代小説の内部では、コミュニケーションの機能がいったん剥奪され、言葉が純粋に対象を指示するためだけに機能している、かのような仮構が成立している。
 近代小説の作中で地の文として記述される「描写」は、はっきりと存在している主体同士の間で取り交わされるコミュニケーションではなく、ニュートラルな空間の内部で純粋に対象を指示している、非人称的な言葉である、ことになっている。……しかし、本来ならコミュニケーションの機能を持つはずの言葉がなぜ非人称的に機能しうるのかと言えば、近代小説そのものが、制度として「作者-読者」の単一の回路のコミュニケーションのみを特権化し、それを「自然なもの」として固定しているからだ。
 メタフィクションとは、自らの足場であるフィクションそのものが「自然なもの」ではなく、どのような制度として成立しているのかを俯瞰的な立場から自己言及的に提示してみせる技法のことだ。……言い換えれば、当たり前のことであるが、そもそもそこに制度としてのフィクションの世界が既に成立し存在していることを前提としなければ俯瞰的な立場を取ることできないということだ。「作者-読者」の回路が揺るがずそこに存在しているからこそ、作者=犯人は容易く自身をメタ的立場に置くことができる。
 そのように考えれば……一見すると、文学作品の意味を俯瞰的立場からずらし変容させるがゆえに類似しているかのように見えた「メタフィクション」と「脱構築」とは、実は全く異なる概念であることがわかる。
 あらゆる文学作品は、言葉を素材として構成されている。そして、言葉は複雑な社会のネットワークの中で交換され続ける結節点として機能しており、必然的に、どれほど単純に見えるものであっても常に多義的な意味のブレをはらむ。……だから、リアリズムに基づく「描写」によってニュートラルに物語を表象した近代小説であろうが、完璧なポエジーを志向して単一の意味の閉域を構築した詩であろうが……いかなる文学作品であれ、「作者の意図」や「既に成立している社会制度によって固定された、作品に接する態度」などのもろもろを無視し、素材としての言葉が本来持っている多義性を常に念頭に置きつつ読み解くのであれば、どのように読みどのように解釈することもできる。
 脱構築とは、そもそも原理的に、あらゆるテクストを対象として実践することが可能なことのである。……そして、犯人が残した「証拠」を「法廷」での審議にかけて多種多様な観点からその真偽を判定しにかかるのと同じく、作者が残した「作品」、それを構成する言語が単一の意味に固定されていることを認めず社会のネットワークに向けて開かれた多義性を解放する「脱構築」を読者=探偵が実践したとき、作者=犯人はメタ的立場に逃げ込むことなどできなくなる。


 念のために付け加えておくが、脱構築は原理的にあらゆるテクストを対象に対して可能であるということは、それがいい加減なものであることを示しているのでは全くない。どのような文学作品であれ、作品そのものの全体が全体として流通するなどということはありえず、その題名であったり要約であったり通説・評価の類の方こそが流通する。……その意味では、前提となる先入観をふまえた上で作品そのものに向かい合いテクストをていねいに読み解くのであれば、具体的なテクストの細部には先入観と合致しない齟齬が発見されることになり、結果として人は多かれ少なかれ脱構築的な姿勢を取らざるをえないという、ただそれだけの話なのである。
 「脱構築」という言葉自体は、よかれあしかれ、何物をも担保しない。「脱構築」が一つの方法として一時的に流通しようとも、それは、体系的に修得しうる方法論として形式化された結果としてひとたび修得すれば自動的に使用者の知的水準を上昇させてくれるような魔術なのではない。逆に、「脱構築」という言葉が一時的に流行しそれに飛びつく人間が次々に現れたというだけの理由で、自分がその内実をろくに知りもしないがままにそれを小馬鹿にできるものだと思いこむような愚か者は、まさに当の自分がズブズブに漬かり込んでいるような類の愚かさを撃ち抜くものこそが脱構築であるということすらわからない、徹頭徹尾間抜けな存在であるということでしかない。
 ポール・ド・マンとは、詩すらをも含めたあらゆるタイプのテクストを、バフチンが言う意味での「小説」として読み解いてみせる――そんな姿勢を貫いた批評家だったのである。


 しかし、そのように考えてみるのであれば、バフチンによる「詩」と「小説」の区分はそもそも妥当なものであったのか、という疑問が出てくることも確かである。……実のところ、他ならぬド・マンがバフチンについて検討した短い論説において、修辞的な文彩の問題と会話の言葉の問題とをバフチンが区別していることに疑義を呈していたのでもある(『理論への抵抗』所収「ダイアローグとダイアローグ性」)。……そして、修辞的な文彩の分析が社会的に流通する言葉の多義性を前提とするのであれば、現在では認知物語論のような展開もある以上、ナラトロジーを閉じた単一システムとして見なした私の前提も検討され直さなければならないのかもしれない。
 いずれにせよ、文学理論が分析するその対象はあまりにも複雑であるゆえに厳密な形式化が発展しきっていないことは確かなのであり、ウィトゲンシュタインやエラリー・クイーンが単純なモデルの内部で形式化の不可能性に逆説的に行き着いたようなところにまで理論化が達していない……ということなのではなかろうか。
 そういう意味では、法月綸太郎によるエラリー・クイーン論をナラトロジーの文脈にアナロジーで接合することによって明らかになることとは――仮に文学理論の形式化がどれほど精密なものにまで発展しようとも、「小説」というジャンルから「会話」という契機を排除することは原理的にできない、ということであるだろう。
 そもそも、完全な閉域として成立している単一の論理空間の構築自体が不可能であるのならば、言語を素材とする構造物である小説においては、形式化しえない残余としての裂け目は、複数の主体間のコミュニケーションを担う「会話」の形で必然的に表象されることになるはずである。
 そして、このことは、「会話」が必ずしもそのままの形で小説の中に書き込まれていなければならないということを意味しない(バフチンがドストエフスキー論において、モノローグの手記という体裁を持つ『地下室の手記』にすらダイアローグ性を読みとっていたことを想起しよう)。むしろ、社会的なコミュニケーションの結節点としての言語が多義性を持ってしまうということにこそ主点がある。
 だから、バフチンによる修辞的な文彩の問題と会話の言葉の問題との区別にド・マンが疑義を呈したことは、実はヨーロッパ精神史の全体像にすら関わってくるような大問題なのではないか……と、私には思えるのだ。
 修辞的な文彩、レトリックの問題は、ヨーロッパにおいては抑圧され取るに足りないものだとされる時期が長かったことである。……だからこそ、言語を分析するに際して形式化・普遍化を押し進める生成文法の問題意識は、文学作品の具体的な細部の読解には全く応用できないように思える(から個人的に全然勉強できていないのだ)が、そういうタイプの議論で取りこぼされる問題へ注意が向いた結果として認知言語学が派生してきたという事実は、私としては非常に興味深い。
 そして、言葉がその最も表層的な部分で担う修辞性をいったん切り捨てて普遍的に適用しうる論理性を追求する傾向、および、そのような潮流全般に対する反発――という問題は、実は、ヨーロッパの歴史において初めて起きたことでもないのだ。というのも、デカルトによって近代哲学の基礎が築かれ、人類全般に共通する普遍的な理性の存在が想定され哲学的な問題が論理的に処理しうるという潮流が成立したとき、それに対して、ルネサンス以降の人文主義を継承するヴィーコによる激しい反発が存在したわけだ。
 つまり、ロジックによる全体化・普遍化を押し進めることと、そこで切り捨てられるレトリックをどう処理するかという問題はヨーロッパに持続的に存在していたわけだが……より広いスパンで見ると、レトリックの問題そのものの内部にも、抑圧されてきた領域があるのである。……というのも、もともと古代のギリシャおよびローマにおいて重要な学問の分野として確かな地位を得ていた「レトリック」とは、日本語に訳す場合、「修辞学」と「弁論術」の二通りの訳語が存在しているのである。言い換えれば、本来「レトリック」とは、「修辞学」と呼ぶしかないような問題と「弁論術」と呼ぶしかないような問題との双方が入り交じって存在していたような分野なのである。そして、レトリックの中でも「弁論術」的な側面は、「修辞学」的な側面よりもさらに徹底的に凋落した。
 そしてそのことは、小説を対象として成立する文学理論においてすら、「会話」の価値を判定する基準がいっさい存在しないままに放置されている――ということにまで尾を引いているのではないかと、現在の私は考えているのだ。どのような「会話」がなされるべきであるのか、またそこでなされる修辞的な要素はどのような基準で価値判断がなされるべきか……という主題は、元々は学問の分野として確固なものとして成立していたのである。
 ただ、そのようなことは、小説における「会話」の問題について検討していて初めて思い当たったことでもあるので、私自身、ギリシャおよびローマの弁論術などは特に重要性を感じることもなく見過ごしてきてしまった分野であるので、そのあたりをきちんと検討するためには、アリストテレスやキケロなんかの弁論術をきちんと一から勉強する必要があるのであった……。
 また、以上のような議論をふまえれば、エラリー・クイーンが探偵小説の内部でやったのとはまた異なるやり方であったのだろうが、『トリストラム・シャンディ』にいてスターンがいかにしてメタフィクションを構築できたのかは、おおよそつかめてきたように思える。……しかし、『ドン・キホーテ』の方はといえば、「会話」を徹底的に作中に書き込むことによって極めて複雑な言語空間を成立させているのにもかかわらず、なおかつ作品全体をメタ化してひっくり返すようなこともしているわけで、そのあたりはどのようにとらえたらいいのか……。改めて、尋常な分析の範疇には収まりきらない、あの小説の怪物性が思い知らされることにもなってしまったのであった。











映画『バットマンvsスーパーマン』の公開に際して予期しておくべきこと

 映画『バットマンvsスーパーマン』の公開もいよいよ近づいてきた今日この頃ですが、アメリカで公開された三番目の予告編を見て、「ふむ……!?」と、それまで死んだ魚のようだった私の目に活力が取り戻されるということがありました。
 まあ、私のようなDCコミックスのファンにしてみると、ノーラン=ゴイヤー体制によってワーナーのDCヒーロー映画が製作されてきた期間は終わりのない悪夢であり、もはやワーナーのヒーロー映画に対して何一つ期待するようなことなどありませんでした。
 ところが……という話をしたいんですが、ちょっとその前に、何年も前に書いたエントリにわざわざリンクを張って、どういう状況のものだったのかとかその後のやり取りとか全部無視して、ただでさえバカ丸出しな上にそれ何周目だよというような失笑ものの「ツッコミ」を罵詈雑言混じりでやるというような輩がまたぞろ現れたので、ノーラン版バットマンとかのことにいついてはこのブログでは書かないと言ってたんですが、少し前提となる補足をば。


 ノーランとかゴイヤーによるスーパーマンとかバットマンの映画化に対して激怒するファンがアメリカなんかにも大量に存在する理由ってのは非常に単純で、「原作の使い方がめちゃくちゃだから」というのにつきる。
 例えば、原作のよい部分を十分に理解しリスペクトした上で映画の方に大幅に取り込んで成功するようなコミック映画がある(サム・ライミ版スパイダーマンのように)。
 あるいは、原作とはほぼ無関係に、基本設定だけ使って実質的に独立した別物として成功したコミック映画がある(ティム・バートン版バットマンがそうであるように)。
 そして、原作から本来の文脈も無視してめちゃくちゃなテキトーきわまりないコピペをしてきて継ぎ接ぎだらけの映画を作り、原作を踏みにじって肥溜めに突き落として唾を吐きかけるようなコミック映画もある。
 これらいずれの場合でも、「原作と映画の関係」はそれぞれ異なるので、映画化する前の元ネタとの比較が無意味なのかどうかは、それぞれの場合によって異なるというのが、極めて当たり前のことだ。
 ……で、ノーランとかゴイヤーによる元ネタの扱いがおかしいという話を私は最初からずっとしているわけだが、なぜか、別に実際に原作との比較をしたことなどないのに「原作とは関係ない! 映画とコミックは別物! 原作と比較するな!」などと連呼する愚か者が次から次へとひっきりなしに現れてくるわけだ。
 アメリカのコミックのことなどまるでピンとこないのであれば、日本のマンガに置き換えてみると、どういうことなのだろうか。例えば、『ドラゴンボール』をハリウッドで実写映画化したとする(……いやまあ、実際にそれもあったんだけれども、それはいったんおいといて、架空の話として)
 出来上がった映画を見ていると、例えば、クリリンがフリーザに殺される場面なんかは、途中のアクションでの細かい構図まで含めて、コミックで描かれたのをそっくりトレースしたような感じで作られている、と。……そんで、いざ話が進み、死んだクリリンを小馬鹿にしているフリーザと最終決戦に挑むぜ~というような場面で、悟空が、「オ、オラ……フリーザと闘うなんて怖くてできねぇ~」とか言って泣き出しちゃう。
 こんな実写映画を見せられた『ドラゴンボール』の読者が、「なにこれ! ふざけんな!」「こんなことがやりてーんだったら、そもそも原作からの引用なんてすんなよ!」と激怒する。すると、次のような罵声が浴びせかけられることになるわけだ……
 「原作なんて関係ない! 原作との比較なんてするな!」
 「マンガと映画は別物なのに、映画を見たときにマンガの話を持ち出すなんてアホだろ!」
 「自分が気に入る悟空じゃないからってなんで映画が悪いことになるんだよ!」
 「おれはマンガファンだけど、こいつ頭おかしいよ! まあおれは『ドラゴンボール』は読んだことないけど!」
 「こいつ、そもそも『ドラゴンボール』のこと知らなすぎw 『ドラゴンボール』は初期はギャグマンガだったことを知らんのかw」
 「そうだそうだ! 悟空のイメージなんて時期によって全然異なるのに、特定の時期の悟空と違うからって映画を責めるのはお門違いだろ!」
 ……DCコミックスの読者というのは、こういうディストピアを生きているわけだ。


 そもそもの話として、この手の連中は、なぜ自分が口にしている支離滅裂な寝言が他人に対する批判として成立していると思えるのだろうか? ……要するに、話のまともな筋道もわからない、論理的思考もできない、そんな頭の弱い自分ですら、二言三言の単純極まりない罵声を吐くだけで他人に対して有効な打撃を与えて優位に立つことができるなどと言うことを本気で信じてしまうことができてしまうまでに、救いようもなく致命的に頭が弱いということなのだろうか。
 この手の連中が金科玉条のごとく連呼するのって「映画とコミックは違うのだから一緒にするな!」ということだけど、それを主張すれば主張するほどぶっ刺さってしまうのって、他ならぬノーラン自身よね。……うん、映画とコミックはそれぞれ特性が違うメディアである、ということは、コミックとして描かれたシーンをまるまる引っ張ってきて、構図まで含めてそのまんま再現して映画を製作しているような奴のやっていることは、映画監督としておかしいということになるよね。
 例えば、サム・ライミやジョス・ウィードンのように原作コミックに対してリスペクトをもって接している人々は、原作コミックの良い部分を映画で再現するにはどうすればいいのか、という点に労力を割いている。彼らはそのために映画の技術をどのように用いればいいのかに工夫を懲らすから、元ネタのコミックから単純にコピペしてできたような場面は撮影することは、当然ないわけだ。
 それから、なぜかわからんけれどもこれまた何度も何度も何度も何度も言われることとして、「バットマンはギャグ路線の時もあったことを知らないのか!」とかいうことだ。自分が実際に読んだわけでもなく、ただそういうのがあるらしいとうっすら伝聞で得ただけの知識を振りかざすことが、実際に40年代や50年代のアメリカのコミックも読んでる私を叩くことにつながるとなぜ思えちゃうんだろうね。
 それ以前の話として、バットマンがシリアス路線からギャグ路線まで幅広い描かれ方をしてきたキャラクターだとして、なぜそれが「シリアス路線でダメなもの」を受け入れなければならない理由になるんだろうね。シリアス路線で優れたものもあればダメなものもある、ギャグ路線で優れたものもあればダメなものもある、ただそれだけの話なわけだが。だいたい私は、ジム・キャリーがリドラーを演じていたときの映画版なんかは、シリアス路線ではなくギャグ路線であることを理由に批判したようなこともないんだけどね。
 ノーランとゴイヤーの場合、スーパーマンとバットマンのシリアス路線の時期のコミックからばかり引用して映画に入れていたわけだけど、そこで全く参照されていない原作にギャグ路線の時期があったことが、いったい何の関係があるんだろうね? ……それともあれか、私が根本的に勘違いしていただけで、ノーランとゴイヤーによるスーパーマンとバットマンって、全部コメディだったのかね? 悟空に「オラ、フリーザなんかに勝てるわけねぇ~」と言わせるのと同様のことを延々繰り返してきたのって、もしかして、笑うところだったのか?
 なるほど、もしそういうことなのであれば、私が根本的に勘違いしていたことを認めよう。……とはいえ、仮に全部ギャグだったのだとしても、全く面白くもなんともないのではあるが。


 ……と、いうように論理的に話を進めてきて、知識で勝てると思ってたのは勘違いだったし、理屈で間違いを指摘することもとてもできなさそうだということになると、いよいよ人格批判のみに専念することになるわけね。
 で、原作ファンは寛容じゃない! 視野狭窄! とか言いがかりをつけることが始まるわけだけど、これもまあおかしいわな。自分にとっては痛くも痒くもない局面で、他人に対しては無限に寛容であることを当たり前のように要求しつつ、自分が「寛容」でないと認定した他人に対して自分の側はいくらでも罵詈雑言を浴びせかけてもいいという、無惨なまでにあからさまなダブルスタンダード。他人は「寛容」じゃなければいけないけれども、同じ基準は自分自身には絶対に適用しないわけね。
 どんな物事でも多数派・勝ち組に入りたがり、周囲の顔色をうかがいつつ数に任せて少数派を侮辱し続け、反論されたら「寛容じゃない」認定してさらに生卵やら生ゴミやらを投げつける。……こんなことをやりたがる人間ばかりがどんどん増えていくような世の中なら、そりゃあ、罵倒されっぱなしの側の人間の中からテロリストが続々と出てくるようなことになってもなんの不思議もないですわなあ。
 まあそれ以前の話として、俺はガチガチのECWファンなんだからそもそも寛容なわけねーだろバカ野郎! ってことなんだけれども。ノーランやゴイヤーなんぞにスーパーマンやバットマンを好き勝手にいじられたような日にゃあ、ECWワンナイト・スタンドでジョン・シナが入場してきたときの我が同志のみんなと同じ反応をすることにもなるわけだ(試合が始まってからもこれですよ)。


 ……とまあ、そんなこんなで、すっかりやさぐれた気分で過ごしていた昨年末だったわけなもんで、もうすぐ公開される『バットマンvsスーパーマン』にしても、特に意識的に情報を集めるようなこともしていませんでした。
 それでもなんとなく耳に入ってくることとして、作中でゴッサム大学でアメフトをするシーンがあるとか。……すわ、ブースター・ゴールド登場か!? などと一瞬だけものすごく血圧も急上昇したわけですが、ワーナーが俺の喜ぶようなヒーロー映画を製作するわけがない……と、すぐに落ち着きました。
 だって、映画『マン・オヴ・スティール』を見てからだいぶ後で知ったことなんですけど、あの映画でスーパーマンが意味不明な殺人に手を染めるシーンがあるじゃないですか。あの場面、撮影する前の段階で、「こういう状況下でスーパーマンが殺人をすることはありえるか?」と、わざわざDCコミックスに問い合わせたらしいんですな。……で、「それは絶対にありえない!」というDCの側からの返答があった上で、とりあえずそれは無視して当初のプラン通りに撮影するという、自民党の憲法審査会ばりの茶番が展開されていたらしいのですな。
 そもそもそれ以前の話として、『バットマンvsスーパーマン』ってなんやねん! 『スーパマンvsバットマン』やろうが! ってことじゃないですか。
 はっきり言って、私自身は圧倒的にバットマン派であるわけです。……しかし、にもかかわらず、私もこのブログでこの両者を単純に併記する場合には「スーパーマンとバットマン」という書き方しかしたことがありません。この二人は完全に同格ではないので、この順序をごっちゃにしてはいけないんです! 言い換えれば、あの二人はハンセン・ブロディの関係ではなくて、馬場・猪木の関係なんです!
 まあ一つDCファンとしても苦しいこととして、現在DCコミックスから発行されている両者の共演タイトルは「バットマン/スーパーマン」である、ということもあるんですが……。これについても、既に七十年以上もの長きに渡って両者の共演が繰り広げられ続け、「ワールズ・ファイネスト」とか「スーパーマン/バットマン」などといったタイトルで発行され続けた挙げ句、ここ数年に至って初めて「バットマン/スーパーマン」というタイトルになったわけです。それがなんですか、両者が初めて実写映画で共演するのが『バットマンvsスーパーマン』って、そりゃあねえだろう!(……ていうか、コミックの方にもいまだに納得がいっているわけではないので、とりあえず休刊して「スーパーマン/バットマン」でやり直せと依然として思ってるのですが……)
 ……そんなことを思い続けてきたわけですから、当然のこととして、公開が近づいてきてもテンションが上がるわけでもなく、どういう状況でどんなスタッフによって製作されているのかに興味を持つこともなく、公開されても見るかどうかすらわからない……というような感じでした。
 そんな私が、ふと、『バットマンvsスーパーマン』の予告編を見ることになる……。
 ……おや?
 ……ふむ……
 ……これは?
 う~む……前作『マン・オヴ・スティール』において、スーパーマンは、周囲の一般人が巻き込まれるかどうかなどいっさい省みることなくメトロポリス内を破壊しまくっていたわけですが、その大破壊の渦中で、実は地道に人命救助に取り組むブルース・ウェインの姿があった……。
 破壊されつつある都市の粉塵の中で、逃げまどう人々とは完全に逆方向に、破壊の中心へと向かって何の迷いもなく突っ込んでいくブルース……。そう、それが見たかったんだよ! ブルースならそうするはずなんだよ!(こういうことを書くと、またぞろ「原作コミックのことしか認めないのか~」とか言い出すアホが出てくるので先に言っておくと、そもそもの前提として「幼い頃に強盗に両親を殺害され、自分と同じ境遇に陥る人をなくすことを決意した」という絶対的な大前提を持つ人物であれば、細部の人物造形の違いを越えて、こういう状況でどんな行動を取るかは一択で、選択の余地なんてねーだろって話。逆に、基本的な前提からしたらありえないような行動をわざわざ取らせるんだったら、そもそもなんでこのキャラクターを使うことにしたんだってことになるわけだ)
 ……いや、これは、どうしたことだ。今までのワーナーのヒーロー映画がどんなものであったかを考えてみれば、ヒーローの本来のあり方を真摯に反省するようなことを盛り込むはずなどない……しかし、ならばこれはいったい……?
 そんな不可解な疑念にとらわれた私は、『バットマンvsスーパーマン』の関係者のリストをチェックしてみたのです。すると……
 おいおいおいおいおい。
 いやいやいやいやいや。
 待て待て待て。落ち着け、俺!
 この映画の関係者として名前を連ねている中で、そんなことを考え出して、それまでの話の前提を再解釈によって土台から書き換えてしまうようなことをするのって……どこからどう考えても、ジェフ・ジョンズしかいないやろうがーーーーっっっ!!!
 ……っていうか、ジェフ……いつのまに、この映画の「製作総指揮」なんてポジションについてたのーーーっ!?(……いや、私が興味を持ってなかっただけか……)


 ……そんなことがありまして、いざ、最近公開された予告編の第三弾を見てみると、ですよ。「偽りの神」として糾弾されたスーパーマンが、バットマンと対立するようなことになると予告されている……はずなのに、そこには、互いに軽口を叩き合いつつ共闘し、立ちはだかった圧倒的な強敵(ドゥームズデイ)に立ち向かっていくスープスとバッツの姿が……!
 ワーナーのDC映画にコミカルな要素が取り込まれそうな気配など、もうず~っとなかったのに、これはいったいどうしたことだろう?
 そして、予告編の中で最も気になるのは……スーパーマンが、発射に失敗したらしき宇宙ロケットの事故を救っている場面。
 ……そう、これは……「宇宙船を事故から救うスーパーマン」、それは、ジョン・バーンが『マン・オヴ・スティール』においてスーパーマンの生誕を語り直した際、スーパーマンがスーパーマンとして人々に知られることになる最初の事件として描いたものであり、その少し前に現実のアメリカで起きていたチャレンジャー号爆発事件をコミック内に取り込んだものだった。それをわざわざ改めて映画の方にも取り込むということは……そ、そうか! ジェフ、わかったよ!
 映画の『マン・オヴ・スティール』におけるスーパーマンは、スクールバス一杯の子供たちの命を救っても「正体がばれるかもしれないようなことはやめなさい!」とか言われたらあっさりその後の人命救助を断念し、育ての親の命も言われるがままに救わずに見捨て、テンパったらあっさり殺人によって事件を解決し、戦闘によって巻き込まれる一般市民への二次被害にはいっさい注意が向かない……そんなヘタレとして既に描かれてしまっていた。
 そんなヒーローが実際にいたら、巻き込まれた人々によって「偽りの神」として糾弾されてもしょうがない。……というか、そんな方向性を捨てて新たなヒーロー像を確立するためには、いったんそのイメージを粉々にぶち壊すしかない。ぶち壊さなければ、次に進めない。そしてジェフは、今までの映画版にすっかり打ちひしがれてきたようなDCファンに向けて、きっとこう語っているんだ……「みんな、もう大丈夫だ! みんなわかってると思うが、仮にも『マン・オヴ・スティール』と名付けられたストーリーにおいて、スーパーマンが真にスーパーマンになるのは、「宇宙船の爆発事故を救った事件」が起きた時点だ。だから、それまでに起きたことは、全部ノーカンだ!」、と。
 ……そうかあ~……ジェフ、さすがだぜ!


 いや~、それにしても、かつて映画化に際して権利関係がぐっちゃぐっちゃに入り乱れおかしな脚本が上げられたりする中で「スーパーマンは俺が守る!」と宣言した上でクリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』を監督したリチャード・ドナーその人の弟子にして、DCコミックスのお偉いさんであるのにもかかわらずなぜか映画『マン・オヴ・スティール』に対して孤独に喧嘩を売っていた男ことジェフ・ジョンズが改めてスーパーマンの神話を救うことになるのであれば、これほど痛快なこともないですなあ。
 もともとリチャード・ドナーが『スーパーマン』を監督したときも、「こんな脚本は使えん!」とか言ってドナー自身が友人のトム・マンキーウィッツとともに脚本をリライトしたんですが、権利関係の問題で二人とも脚本家としてはクレジットされていません。……というようなこともかつてあったことですので、今回の『バットマンvsスーパーマン』にも脚本家としてのクレジットはないですが、間違いなくジェフ・ジョンズが脚本に手を入れた部分があると私は確信するに至りました。
 ……と、いうことはですよ? いやこれ、マジでブースター・ゴールド登場もワンチャンあるぞと。
 それにしても、ジェフ、結構本気でワーナー内での権力を取りにいってたんですなあ……ジェフがDCコミックスの要職についたようなときには、かつてマーヴルのエディター・イン・チーフに就任こそしたものの、「こんなことしてたらコミックのライティングができねえ!」とか言ってあっさり辞めちゃったロイ・トマスみたいになるんじゃないかと思ってたんですが、ちゃんと権力持てる方にいってくれたのは結果的に良かったですな。……まあ、ぶっちゃけた話、アメリカではもはやシリアス路線のダークヒーローものは飽きられてて、マーケティング的にも将来性は全くないことが明らかになってるんで、コミカル路線も交えつつ王道ヒーローのチューニングができる人材が求められてるところにうまくはまったということなんでしょうけれども。ことそういう点に関してはアメコミ業界で現役最強の男をDCコミックスはもともと擁していたわけですから、マーヴルにいいようにやられる必要も本来ならなかったわけです。
 あと、非常にいい傾向だと思えるのが、ベン・アフレックとジェフ・ジョンズの間で信頼関係が築かれつつあるらしい、ということ。というのも、『バットマンvsスーパーマン』を受けてベン・アフレックの監督・主演で製作する新たなバットマン映画の脚本をジェフが書き下ろすに当たって、「バットマンとはいかなるなキャラクターなのか」という点についてミーティングした際、両者の意見は完全に一致したらしいのです。
 おそらく、現在のアメリカで原作リスペクトをベースにした実写版バットマンを製作するのならば、それができるような監督はまさにベン・アフレックしかいないでしょう。そこに共同脚本としてジェフが加わるとか……正直なところ、私が何かの間違いで石油王とかになって、何でもかんでもやりたい放題に好き勝手に金を使えたらやるであろうような企画なんですけど!


 ……以上のようなことを考え合わせるにつけ、今回の『バットマンvsスーパーマン』という映画は、「ノーラン=ゴイヤー体制」と「ベンアフ=ジェフジョン体制」という、根本的な部分から異なるヒーロー観を持つ異なる体制が相互に乗り合わせたものになっているのではないか、と。……まあ、従来の体制から新たな体制へと切り替わるような転換点が作品内にも取り込まれるのであれば、新たな体制の方がポジティヴに描かれることになるだろうとは予想できますが。
 結局、全ては、「ジェフ・ジョンズはいったいどこまで手を入れているのか」ということにかかっているということに尽きるでしょう。私が喜ぶようなシーンが多ければ多いほど、ジェフの権力が大きいということになるわけです。
 例えばその指標の一つとなるのが、「ゴッサム大のアメフトチームが登場するのならば、そのクォーターバックはどんな人物なのか?」ということですね。花形クォーターバックのファーストネームが「マイケル」である(もしくは、そのニックネームが「ブースター」である)ならば、「いやそれ、ジェフの仕業やろ」と。
 あるいは、経験を積んだ熟練ヒーローとしてのバットマンが、経験の浅さゆえに無駄な動きをしたり無様な醜態をさらしたりしたスーパーマンに対して「このアマチュアがぁ!」と罵る場面があれば、「いやそれ、ジェフの仕業やろ」と。
 ……などというようなチェックポイントは無数にあると思うのですが、そもそもの問題として、ジェフが全体の構成にもタッチしているのであれば、予告編などで既に明らかになっている要素の作中での順番は特定されてくるように思えます。すなわち、


 「偽りの神」として糾弾されるスーパーマン
 → スーパーマンの未熟な点をあげつらう先輩ヒーローのバットマン、「君、ヒーローたるものそんなことしてたらアカンやろ。人助けって、そんな甘いもんとちゃうんやで?」などと説教して対立する
 → スーパーマン、反省
 → 再生したスーパーマン、宇宙船の爆発事故を救う(←スーパーマンの真のオリジン)
 → スーパーマンとバットマン、軽口を叩きながら共闘できるような対等の仲に
 → 圧倒的に強力なドゥームズデイの脅威が迫る
 → 続々と結集する、その他のヒーローたち
 → ジャスティスリーグ爆誕!

 ……という順番に、ジェフが手がけていれば間違いなくなっているはず!
 まあ、いずれにせよ……スーパーマンとバットマンのキャラクター造形がめちゃくちゃなことにされ、それまでそれぞれのキャラクターがたどってきた長い歴史とかどうでもよくてその場のノリで楽しめて消費できればいいだけのファッションアメコミファンがはしゃぎ回り、さんざん踏みにじられコケにされたその後でもなお、スーパーマンとバットマンというキャラクターが本来持っているポテンシャルが消えることはないということです。
 よくよく考えてみれば、ジェフ・ジョンズという人は、様々な状況や思惑の絡み合いの結果としてぶち壊されてしまったキャラクターを奇跡的に復活させ再生するようなことばかり繰り返して、現在の地位を確立してきたわけです。……正直、映画の『マン・オヴ・スティール』が既に語られてしまったその後でなお、そこから話が続いている後日談という前提を守った上で、誰もが素直に尊敬できるヒーローとしてスーパーマンを再生できるような道筋もありうるなどということは、考えてもみませんでした。
 もうこうなったら、『バットマンvsスーパーマン』を見た後どう反応するかは……これに関してだけは、先に決めておきます。面白かったら「全部ジェフのおかげ!」、つまんなかったら「ジェフに全部任せなかったせい!」、っつーことです!


 とはいえ、現時点で、いくつか不安要素もあるのも事実。……まずは、今回の『バットマンvsスーパーマン』よりもむしろその後のバットマン映画に関することで、「果たして、ジェフ・ジョンズはバットマンのストーリーでも優れた仕事ができるのか?」ということですね。
 私の考えでは、スーパーマンとバットマンの両方のストーリーを語るに関して、どちらにおいても優れた仕事をできる人というのはそもそもいません。スーパーマン派にはバットマンの魅力は描けず、バットマン派にはスーパーマンの魅力が描けないものなのです。例えばアラン・ムーアなんかでも、一見するとスーパーマンとバットマンの両方で歴史に残る仕事をしているように見えますが、実は『キリング・ジョーク』の場合は実質的にジョーカーの話で、バットマン自身の描写はほとんどないからこそうまくいっていたのだと思うのです。
 とはいえ、例外もないわけではなく――本当に限られた例外の一つだと思えるのが、カート・ビュシークによる『アストロシティ:コンフェッション』です(まあこれは実はバットマンではなく別キャラによるバットマンパロディなんですが、実質的にはバットマンの話であるということで)。どう考えてもスーパーマン派であるカート・ビュシークがあれほどまでのクオリティのバットマンのストーリーを語ることができたというのは奇跡的なことだと思うんですが……明らかにスーパーマン派でありつつ、明らかにビュシークの仕事の影響も受けているであろうジェフ・ジョンズが、ああいうクオリティのものができるのかどうか、ということですね。ただこれに関しては、ジェフ単独の脚本ではなくベン・アフレックも共同脚本に参加するとのことなので、犯罪ものやノワールものには強いであろうアフレックが、むしろジェフの弱点を補強してくれることにもなるのかもしれないなあ、と。あまり認知されていないかもしれないですが、ベン・アフレックの脚本に関する能力は実はめちゃくちゃ高いので、あまり心配もいらんのかなあ、と。
 それから、これは日本ローカルの話として、アメリカン・コミックスに関して別に識者でもない人々が識者ヅラして誤解や偏見をまきちらすのはいい加減やめて欲しい、ということもあります。……既に、ちらほら見かけるんですが……今回の『バットマンvsスーパーマン』、どうも、「スーパーマンを信仰する新興宗教」のようなものが登場するらしいんですな。で、それを紹介する「アメコミ情報通」が、そういう要素に「(?)」とか「(笑)」なんかをつけて、さも不思議なことであったり奇妙なことであったりするかのような記事を商業誌上に書いているのを、複数目にしました。
 
 いや、あのね……スーパーマンを信仰するカルト集団って、それ何年か前にコミックの中でふつうにあったネタだからね(正確には、あれはスーパーマンではなくスーパーボーイが信仰の対象でしたが)。こういうことも何度も言ってますが、それでも改めて繰り返しますけど、


  「スーパーマン(スーパーボーイ)を信仰の対象とするカルト集団」が原作コミックの既出ネタであることを知らない
  → アメリカン・コミックスの「識者」ではない


  自分が知らなかったネタの詳細を調べる手間を省いて、さもそれが奇妙なことであったり嘲笑えるものであったりするかのような誤解・偏見を拡散する記事を平気で書けちゃう
  → そもそもの前提として、プロの物書きとして失格


 ……と、いうことですね。こんなんで金とってプロとして仕事しちゃうのはおかしいんで、廃業しましょうよ、廃業。


 しかし……ここに、私個人にとってはそんなことよりさらなる圧倒的な不安要素があるのです。と、いうのもですね……コミック以外の仕事忙しすぎるであろう現在のジェフは、月に一本の「ジャスティスリーグ」しかライティングをしていません。で、その「ジャスティスリーグ」で現在進行中の『ダークサイド・ウォー』が超絶的にすばらしく、毎月万歳三唱しながら読んでいるのですが……ジェフがこれまでのライターとしてのキャリアで手がけてきたあらゆる要素が集大成されるような作品になっており、これ最高傑作なんじゃないかなどと思っていたところ、ふと、「もしやジェフ、この作品で自分のキャリアをいったん総括して、ライターとしての仕事に一区切り就けて現場から退くつもりなんじゃ……?」などと思えてきたのです。
 ……そ、それだけは困る! だいたい、「ジャスティスリーグ」にしても、バットマン&レックス・ルーサー&キャプテン・コールド&ブルービートル&ブースター・ゴールドによる愉快な路線をジェフにやってもらうのをこっちはずっと待ってるんです! もし万が一、ジェフ・ジョンズがヒーローコミックのライティングを辞め、ジョー・ドーリングも全日本プロレスに来日しない……などということになったら、日々の生活を生きる気力が微塵もわきません……。
 こちらにとっては死活問題となるため、いろいろ考えたのですが……今後、ジェフにはこういう道筋をたどってもらうのはどうでしょうか。


 ワーナーのヒーロー映画で好き放題やりまくる
  → 師匠のリチャード・ドナー同様、ワーナーと揉めた挙げ句追放される
  → ついでにDCコミックスの役職も解任
  → 一介のフリーランスに戻り、月に5~6本はライティングをするように


 ……こ、これだ! それに、たぶんジェフの場合、DCコミックスを辞めた瞬間にワーナーのことをボロクソ言いまくるであろうと私は踏んでるので、早いとこそれを耳にしたいというのもあるのですが。


 ……というわけで、いろいろと書いてしまいましたが、最も重要なのは、おそらくは今回の『バットマンvsスーパーマン』において、前作の『マン・オヴ・スティール』にかなり大がかりなレトコンがかまされるのではないか……ということですね。
 というか、以上のように整理してみると、私は非常に大きな勘違いをしていたのかもしれません。……いや、私だけではなく、二年前に映画の『マン・オヴ・スティール』を見た観客の全員が、あまりにも巨大な勘違いをしていたのかもしれないのです。
 そう、我々観客は、劇場でそれなりの長時間を過ごし、エンドクレジットを目にし、それから劇場から出てくるという経験を、確かにしました――しかし、しかしです。『マン・オヴ・スティール』と名付けられたストーリーにおいて、「スーパマンが真にスーパーマンになる時点」は「宇宙船の爆発事故を救う事件」の時点においてのはずなのにもかかわらず、そのような場面はありませんでした。しかし、その続きの『バットマンvsスーパーマン』にはそのような場面がある……。さらには、『マン・オヴ・スティール』には、ジミー・オルセンもレックス・ルーサーも登場しません。さらにさらに、スーパーマンが自らスーパーマンと名乗るわけでもなければ、世間一般の人々からスーパーマンとして認知されることすらないのです。
 ……な、なんということでしょう……。そう、我々観客は、一本の独立した映画を既に見終えたものだとばかり信じていました。しかし、そうではなかったのです。ワーナーでどういう事情があってそのようなことになったのかは私にはさっぱりわかりませんが……あの映画ではそもそもまだ本編が始まってすらおらず、ある程度の長さを持ったプロローグの部分だけが、なぜかそこだけ抜き出して先行公開されてしまっていたのです(……そういえば昔、アニメの『エヴァンゲリオン』の劇場版でなんかそんなことが起きてませんでしたっけ?)。
 以上のような衝撃の事実が明らかになりましたので、今年の一発目のエントリでは、謹んで、次のような説を提唱させていただきたいと思います――すなわち、「映画『マン・オヴ・スティール』、そもそもまだ本編が始まってすらいなかった説」、を。










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