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メタフィクションの「先鋭性」について――由良君美『メタフィクションと脱構築』を読む

 由良君美の『メタフィクションと脱構築』を読んだ。まあ、由良君美と言えば、最初からひとまとまりに構成された単著をほとんど書かなかった人であるので、死後に出版されたこの書物にしても様々な雑誌・新聞に発表された短い書評の類を集成したものなのであって、体系的なまとまりがあるわけではない。
 ただしこの書物の場合、「英語青年」に連載された「メタフィクション論試稿」が収録されており、(それだけで一つの書物になるほどの分量はないけれども)主に十八世紀英文学の展開を参照しつつメタフィクションの原理論が展開されているので、私としては非常に興味深く読むことができた。ちょうど私自身がメタフィクションの原理について考えていた折りでもあるので、このエントリでは、主にこの「メタフィクション論試稿」を読み解いてみたい。


 さて、由良君美の「メタフィクション論試稿」が目指しているのは、欧米の文学史におけるメタフィクションの歴史的展開をたどりつつ、思想・哲学の分野における同時代的な問題意識をも解きほぐし、二十世紀後半以降においてなぜメタフィクションが隆盛したのかという現代的な問題にまで接続することである。……つまり、メタフィクションの問題を全体的に概観することが目指されているわけだが、しかし、連載の最終回の部分は突如として対話篇の形式で記述され、実質的に未完のままに終了している。
 以上のような性質を持つ「メタフィクション論試稿」において十八世紀英文学が特権的な参照先となるのは、もちろん、十八世紀のごく短期間の内に近代小説の発生・発展・その超克までが出尽くしているからだ。……しばしば近代小説の最初の作品とされるのはセルバンテスの『ドン・キホーテ』であるが、突出した作品が単独で現れるという現象ではなく、ジャンルとしての確かな成立を見る――ということになると、「小説」という訳語が当てられることになった'novel'の起源は、十八世紀イギリスにある。
 韻文のような明確に形式化されたルールを持たず、いかなる対象をどのように書いてもよいというアナーキーぶりにこそnovelの本質はある。……しかし、ではなぜそのようなnovelが商品として広く流通したのかと言えば、勃興してから進展しつつあった資本主義の価値観と親和的であり、資本主義を肯定した上でその内部の社会での処世術を読者に共有させうる――言い換えれば、内容的に資本主義のイデオロギーを補完しつつ、それ自身が一つの商品でもあったからこそ、novelはジャンルとして拡大することになった。
 1720年頃に現れたダニエル・デフォーの『ロビンスン・クルーソー』、またそれからしばらく後に現れたサミュエル・リチャードスンの『パミラ』は、このような意味での最初期のnovelの成功例である。この時点で、リアリズムによって過不足なく物語を円滑に伝達する装置としての近代小説はいったん完成しているわけだが、イギリスの場合、起源からわずか四十年後の1760年の時点で、近代小説のあらゆる定型を脱臼し尽くし、リアリズムによるフィクションを飲み込んでメタフィクションを構築した怪物的作品である『トリストラム・シャンディ』を産み落とすに至るわけだ。
 以上のような文脈を踏まえた上で、由良は、ローレンス・スターンによる『トリストラム・シャンディ』は、何の前触れもなく突如として現れた奇形的な作品ではないことを強調する。特に重要なのは、しばしばオーソドックスな近代小説の範疇に組み込まれがちなヘンリー・フィールディングが、スターンの先行者として大きな役割を果たしたことである。……そもそも、リチャードスンの『パミラ』とは、主人公の女中が不品行な主人の誘惑をいかにいなしつつ正式な結婚にこぎ着け自らの階級を上昇させるか……という内容を持つものであった。それが同時代的な価値観におもねった偽善に過ぎないことを喝破したフィールディングは、『パミラ』が人口に膾炙していることを前提とした自作『シャミラ』によって、その体制順応的な価値観を徹底してパロディ化し笑いのめしてみせる。……既に先行して存在している小説を前提とした上でそれをパロディ化し転倒するということが、メタフィクションをもたらす萌芽になりつつある、ということだ。
 そして、先行する作品を前提としてパロディ化することを基盤にしたものこそ、セルバンテスの『ドン・キホーテ』にほかならなかったわけだ。では、その『ドン・キホーテ』は、どのような時期に英国にもたらされたのか。


 重要なのは一七五五年にスモレットによるDon Quixoteの全訳が現れたことであろうか。(中略)騎士道小説の体裁をとったものが、騎士道小説そのものをからかうことに、そのテーマと内容を得る。つまり一つのジャンルがその富の開発を一通り究めたと考えられる段階で、おのれ自身をパロディすること以外に方法を見つけられなくなるということーー枯涸の果ての対極の算出が、極度に自意識的で、また同時に自己環帰的な、さらには相関テクストのタピストリーのような作品を生むという点で、騎士道小説ジャンルに対する『ドン・キホーテ』の位置と性質は、たしかに<小説>(Novel)に対して『トリストラム・シャンディ』のもつものに似る。意識するジャンルへの対し方がもつ、ある共通の<メタ性>のために。(由良君美『メタフィクションと脱構築』、p18)


 『ドン・キホーテ』がしばしば「最初の近代小説」と見なされるのは、先行する騎士道物語を相対化しメタ化した視線を持ったことに依っている(「小説」という言葉はもともと'novel'の訳語であるのだから、『ドン・キホーテ』の参照元の作品群を「騎士道小説」と呼んでしまうのはおかしいと思う。これは、物語内容を伝達する媒体の透明性が目指される近代文学のリアリズムを自明の前提とみなした結果、「小説」とはすなわち「物語」なのであると考えてしまうような愚かな先入観によって、「小説」という言葉がいつの時代にも普遍的に当てはまる概念であるかのように拡大されてしまっている用例だからだ。……要するに、私は、'novel'の訳語として当てられた「小説」という言葉が、なんとなく曖昧に意味が拡大され、'romance'をも含んだような意味で用いられてしまうことが非常によくないと考えているわけだ。ただし、そもそもの初めに'novel'に「小説」を当てた坪内逍遥からして、「小説」という言葉の用い方が一定でない例も見られるのも事実ではあるのだが。そしてまた、そもそも'novel'と'romance'の区別は英語以外の言語においては必ずしも自明のものではないということもあり、'novel'という言葉を十八世紀よりも前の物語形式を持つ文学作品を指示する言葉として遡及的に用いても問題ないとする立場の文学研究者が存在することも事実ではある。しかし、ここで確認しておきたいのは、そんなことよりはるか前の段階の大前提となること――そもそも'novel'と'romance'の区別が存在するということ自体すら知りもしないような者は単に論外なのであり、文学に関して知ったような口をごちゃごちゃ叩くべきではないということだ。……いずれにせよ、由良の「メタフィクション論試稿」はまさに近代における「小説」の誕生と変遷を検証するものであるのだから、ここについては、自分が依って立つ文脈に則った用語の選択をして欲しかったのだが……)。
 そのような性質を持つ『ドン・キホーテ』が英国に翻訳・紹介されたこと、そして、フィールディングという近代小説のリアリズムをパロディ化する先行者を持ったことによって、スターンにる『トリストラム・シャンディ』の登場が可能になった、というわけだ。……そして、英国において勃興した近代小説のリアリズムの渦中から『トリストラム・シャンディ』のごとき作品が現れたことを、突発的な突然変異と見なしてはならないのだと、由良は述べる。


ただし、本稿の文脈で言えることは、従来のヨーロッパ文学史ないし小説史の扱い方では、<近代的長編小説>(Novel)の発祥を一七世紀スペインのセルバンテスに置きながら、その後のヨーロッパ型小説の常套を一八世紀市民社会風俗小説と一九世紀型長編小説を結ぶものに認め、したがって『トリストラム・シャンディ』は小説史上の<奇書>の扱いをうけ、<フィクション>としての『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』とを結ぶ美学的共通要素が不明になったばかりか、ヨーロッパ小説史上の両書の出現の必然性まで宙に浮いてしまったという欠陥であろう。
 無理もないことであって、文学理論上『トリストラム・シャンディ』が、美学上最初に正当な評価をうけたのは一九二一年のヴィクトル・シクロフスキー論文「スターンの『トリストラム・シャンディ』と小説の理論」であって、これが英訳によって普及をみたのは一九六五年のことであったのだから。もちろん、その後の英米のスターンないし『トリストラム・シャンディ』評価の急速な変貌については、ここに述べるまでもなく、全く面目を一新して現時点に至っている。(同、p30~31)



 由良が問題視する、『トリストラム・シャンディ』の歴史的な「出現の必然性」を理解せずに突然変異の「奇書」と見なしてしまうような状況というものがどのようなものであるのか、少し敷衍して考えてみよう。
 資本主義の価値観を肯定し、それが「自然」なものであるかのように感じさせる透明な物語を備え、なおかつそれ自体が資本主義を構成する一つの商品であるものとしての「小説」が十八世紀にまず英国で勃興したのは、もちろん、英国こそが最も資本主義が進展した国家であったからだろう。そして、そのような英国であったからこそ、「小説」そのものも進展しその果てに既存の価値観を転倒し笑いのめすようなフィールディングが現れ、リアリズムの前提を根本的に覆しメタフィクションを構築するスターンが現れるに至った。
 では、リアリズムの基本前提が解体された後であるはずの十九世紀において、なぜヨーロッパ各国でむしろリアリズムに基づく近代小説こそが発達することになったのかと言えば――それは、英国以外においても資本主義が発達し、十八世紀英国の文脈を多くの国が共有できるようになったのは、むしろ十九世紀においてのことであったからだろう(……そういう意味では、日本の状況は、それよりさらに遅れていたことになる。十九世紀ヨーロッパ、とりわけフランスの近代小説こそが「小説」であるのだという状況が、明治維新後に至ってようやく持ち込まれることになったわけだ)。そのような文脈において、いざこれから近代小説を構築しようとするに際して、既にそれを解体していたフィールディングやスターンの仕事が理解されるはずもなかった、と。
 したがって、十九世紀のヨーロッパ各国で支配的になった近代小説に対する再検討、その解体は、二十世紀にまでズレ込み、改めて再演されることになった。だからこそ、スターンの先進性がシクロフスキーによって発見された1920年頃の時期は、近代小説に対する反発であるモダニズムと同時期のものであった……というより、モダニズムに属する小説家の多くは、そもそもスターンの多大な影響下にあるのであった。


 以上のようなことは、要するに、十八世紀英国の四十年程度の短期間に起きた「リアリズムに基づく近代小説の勃興~近代小説のパロディ化~メタフィクションによるその解体」という一連の出来事が、ヨーロッパ全体の文脈においては、十九世紀から二十世紀にかけてより大規模な形で反復された……ということだろう。
 そして、二度目の反復と言っても、全く同じことが繰り返されたというわけでもなかった。十九世紀のリアリズム小説の多くは、十八世紀英国に勃興した初期のリアリズム小説に比べればより高度に洗練され、密度の高いものになりえている。同様に、モダニズムによる近代小説の解体は、フィールディングとスターンによるそれに比べれば、より徹底した破壊的なものになりえている(これは要するに、十八世紀と十九世紀の状況の違いによるものでもあるのかもしれない。十八世紀の英国において小説が成立した前提として、名誉革命を経た立憲君主制の社会があった。一方、より先鋭的なアメリカおよびフランスの市民革命を経た後の社会で成立したものが、十九世紀の小説であったわけだ)。
 「メタフィクション論試稿」における由良も、モダニズムによるリアリズムの再検討について、かなり細かく述べている。由良は、そもそもリアリズムが成立した前提が何であったのかに関して、次のように述べている。


 透明な媒体を介しての外界の客観像のソックリの転写という考え方は、言語を神的起源をもつロゴスと考えるキリスト教の伝統と合して、言語をも理想的に外界を転写しうる透明な媒体とする前提を造ることに寄与してきた。
 そこから<物語>・<フィクション>というものと<外的現実>・<リアリティ>とを安易に一枚のものとみて、両者の距離が<科学的>に狭められれば狭められるほど、より<リアリティ>に近づくという考え方が生まれる。今日でも<事実>ということを単純に考える人たちの間では、この前提が抜き難く牢固として存在する。百歩譲って<物語>が<フィクション>であることを認めても、それでも<ノンフィクション>は<事実>により近いのだと考えようとする。<ノンフィクション>も<フィクション>であって、ただ<フィクション>と違う点は、社会的事件として調査された資料や外的データをそのまま素材化した程度の差であって、構成し、推理を交え、解釈を加え、言語化した点で、すでに立派にフィクション化されていることを信じようとしない。
 何か優秀な透明な媒体があって、それを通じて外界の事象は、あたかも透明な窓からみるように正しく歪みなく見通され、かつ唯一正確に定着されるかのように考えがちなのである。(同、p58~59)



 外部に存在する客観的な対象を、「何か優秀な透明な媒体」によって「リアルに」認識できるはずである――そして、例えば言語はそのような媒体になりうる――という、それ自体は実は無根拠な信仰には、自明のこととして疑われていない前提が、少なくとも二つある。まずは、外部の客観的な対象と内部の認識主体とが、明確に区別されているということ。そして、客観的な対象を指示する媒介としての言語は、それぞれが指示する対象と堅固に結びつけられて対応しており、言語そのものの水準で意味がブレるようなことがないということ。


 <内>の事柄は話者自身、すべてを見究めることができないことは、ちょうど、<外>の事柄も、すべてを予測し、すべてを残りなく自己の操作の対象にすることができないのと同様である。ということは、<外>のリアリティの在りようは、<内>のリアリティの在りようと、その把えられかたの違いから、同一の存在論的ステイタスはもたぬにしても、やはり<内>にも<外>と似た<客体性>を与えねばならない、ということなのだ。
 <外>とは異なるにしても、<内>に同じくらい重い<客体性><実在性>を付与してかからないことには、何ごとも始まらないというところに、恐らくモダニズムの提起した一つの問題点がある。(同、p21)



 このような<内>の客体性の承認は、かえって古代的な世界認識の基本にあったものと言うこともできよう。一八世紀市民社会風俗小説が、その擡頭する市民の世界の風俗のリアリスティックなミメーシスによって、力強い一群のノヴェルを創造することができたとすれば、それはまた逆に、リアリズムの前提とするものの致命的限界を露呈させる作業にほかならないものであった。
 前節にその極く駆け足のスケッチを示した、一八世紀イギリス市民社会風俗小説の驚異の四〇年間の業績は、近代リアリズム文学の方法的認識が前提する近代的ミメーシス理論のなしうるものとなしえないものとを、ある意味ではっきりさせてしまったのである。(同、p22)



 近代小説が自明の前提とするリアリズムを徹底して解体するモダニズムにおいて「意識の流れ」が前景化するのは、まさに上記のことが理由であるだろう。内部の認識主体は、外部の客観を透明に映し出す自明のものではないがゆえに、認識主体そのものを描こうとすること、またそこに潜在している言語の極度の混乱そのものを顕在化することこそが、描くべき主題となる。
 モダニズムの「意識の流れ」は、『トリストラム・シャンディ』の多大な影響下にあることはつとに知られている。しかしそれは、単に『トリストラム・シャンディ』を模倣することによって成立したものではない――むしろ、スターンの先進性、そのリアリズムに対する破壊は、より徹底的なものとして押し進められているのである(そしてまた、フッサールやハイデガーの哲学が同時代のモダニズムと同じ問題圏にあることを由良が指摘しているのも、妥当なことであるだろう。由良はそこまで踏み込んではいないとはいえ、主体と客体の明確な区別を前提とする近代哲学を批判したハイデガーが主体・客体の分化以前の古代ギリシャの哲学に目を向けたことは、モダニズムによる近代小説批判と重なるものでもあるだろう)。


 さて……以上のように整理してみると、私は、由良君美がこの「メタフィクション論試稿」を完成させることが遂にできなかった理由がわかったように思えるのだ。
 例えば由良は、『メタフィクションと脱構築』に収録されている大泉黒石『人間廃業』の書評において、メタフィクション的な傾向を持つ作家全般に対して肯定的な文脈において、次のように書いている。


総じてリアリズムの前提を疑い、これを超えようとする文学を広くメタフィクションへの志向として捉えるならば、一つは純粋の虚構または幻想の文学となり、他はリアリティーにある程度依拠しながらこれからワン・クッション置いた地点にたって、己も世界も自在に操り・からかい・デフォルメする文学とならざるをえない。後者に著しいのは、<自己言及性>と<読者志向性>の特徴であり<年代記破壊>もまた、その必然の特徴なのである。メタフィクションの鼻祖であるロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』以来、この傾向は現代世界文学に著しい。(同、p168)


 果たして、本当にそうだろうか? ……なるほど、近代小説の前提としてのリアリズムを疑う立場としてのメタフィクションは、スターンの『トリストラム・シャンディ』によって完成した。しかし、その傾向をさらに徹底して押し進めることになったモダニズムに属する諸作は、ふつうメタフィクションとは呼ばれないのである。
 改めて考えてみればこれはもっともな話で、既存のフィクションが存在していることを前提とした上で、フィクションの地平に対して超越的なメタ的立場をも作中に同時に織り込むのがメタフィクションである。……一方、既存のフィクションが前提とするリアリズムの基盤そのものを解体するのがモダニズムである以上、当然のことながら、言語の水準においてすら、メタレヴェルとオブジェクトレヴェルの区別などというものは消滅しているわけだ。
 ……ならば「現代世界文学に著しい」というメタフィクションの流行とは、本当にスターンの立場を受け継ぐ、肯定されるべき立場であるのだろうか? ……それはむしろ、モダニズムの立場から撤退した、臆病な後退にすぎないのではないのか。
 リアリズムが破壊され、既にモダニズムが存在するその後の時点で、改めてメタフィクションを構築することとは――そこで前提とされているフィクションの世界が実は自明なものではないことを自分は理解していることのアリバイとしてメタ的な立場を誇示した上で、擬制としてリアリズムを生き延びさせ温存するという、極めて保守的な立場なのではなかろうか(この具体例としては、ボルヘス一人を挙げさえすればすむだろう)。
 例えばこのような立場の悪質さは、日本の現実の状況に置き換えてみればわかりやすいと思う。……天皇制は擬制にすぎないことは十分に理解している、だからこそ、天皇制があくまでもフィクションであることが周知・共有されていることを前提として社会設計をしよう……などというような立場と、「天皇制を解体して共和制へ移行しよう」という立場、果たして本当に「先鋭的」なのはどちらなのか(私見によれば、日本語で書かれてモダニズムの達成が再現された小説は、ただ一つしか存在しない――大江健三郎の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』である。おそらく大江が、読者がついてこれるかどうかなどをいっさい考えず、その時点での自分の持てる技術を完全に発揮したのは、あの作品を書いたときだけであったように思える。そして、サミュエル・ベケットの『マロウンは死ぬ』を参照したあの小説において天皇制解体が明言されていたことは、大江が日本語の依って立つ前提をモダニストと同等の水準で分析・検討していたことを意味するだろう)。


 おそらく、「メタフィクション論試稿」を書き始めるに当たって、由良君美は、現代の世界の文学におけるメタフィクションの流行が、スターン以来のメタフィクションを継承する、肯定すべき潮流であるように考えていたのだろう。……しかし、メタフィクションの原理とその歴史展開を具体的に検討する限り、それはモダニズムに引き継がれ、その内部に発展的に解消されたことは明らかなのだ。だからこそ由良は、モダニズム以降の展開を記述すること、言い換えれば、二十世紀後半のメタフィクションがモダニズムとどのような関係を持ったのかを分析し、それをもって「メタフィクション論試稿」を完結することができなかったのではないだろうか。
 しかし私には、由良には言えなかったことがはっきりと言える。……二十世紀後半におけるメタフィクションの流行とは、モダニズムの達成を消化しまともに理解することのできなかった愚か者どもによる、無惨で臆病で保守的な後退にすぎないのだ、と。
 だとすれば、これは、二十世紀後半の文学は前半に比べれば取るに足らない低調なものであるというごく当たり前のことが裏書きされる例がまた一つ増えたというだけのことでしかないのかもしれない。フォークナーが記憶の拠り所となる場所を設定して小説を紡ぎつつそのような場所の不可避的な解体までを書いた後になって、その解体はとりあえずなかったことにしつつ内容は通俗的に読みやすく水増しして薄めつつ終わったはずのものを量産するというラテンアメリカ文学の「ブーム」なるものが言祝がれ、ベケットが言語そのものが発される水準を解体したその後でなお、小説の不可能性を忘却し平然と類似物が量産され続けたヌーヴォー・ロマンが称賛され……そして、リアリズムの前提そのものが突き崩された後でなお、平然とメタフィクションを書ける者が続々と現れるというわけだ。
 そもそも、ジョイスやらヴァージニア・ウルフやらフォークナーなどの英語圏のモダニストと同等の問題を共有しつつもそれほど先鋭的でもなくはるかに穏健なプルーストでさえリアリズムの前提は徹底して批判していたのにもかかわらず(……まあ、『失われた時を求めて』でも最終篇にあたる『見出された時』に書かれていることなので、そもそも読んでいる者がほとんどいないのだろうが……)、なぜ、それら全ての後で、リアリズムの前提を疑いもせずに小説を読んだり書いたりするなどということができるのか?
 私の言うことが間違いである、ラテンアメリカ文学もヌーヴォー・ロマンもメタフィクションも素晴らしい……と言う者がいるのであれば、由良君美が遂に書きえず「メタフィクション論試稿」を中座させるに至った部分の、そうであるべきであったはずの理路を改めて明らかにし、モダニズムの成果を前提としてさらに改良が加えられたものとしてのラテンアメリカ文学なりヌーヴォー・ロマンなりメタフィクションなりの優れた美点を具体的に提示してもらいたいものだ。例えば二十世紀後半に出たメタフィクションを一瞥しても、技法的な部分で『ドン・キホーテ』や『トリストラム・シャンディ』を乗り越えたり刷新したりしている作品はただの一つもないように見えるのだが、これがモダニズムからの後退ではなく進歩であることを示す反証はありうるのか。
 あるいは、ラテンアメリカ文学について。その特質、美点として挙げられる「マジック・リアリズム」なるものが厳密に言えばどんなことであるのか、依然として明確な理論化はなされていない――しかし、改めて考えてみれば、一つだけ確かに言えることがある。それは、マジック・リアリズムの実態とは、言葉が指示するその対象として従来のリアリズムでは扱われなかったようなものまでもが含まれることになったという意味でリアリズムが拡張された、もしくは乗り越えられたとされる技法であるだろう。……ということはつまり、言葉と指示対象とが緊密に結びつくこと自体は疑われていないという、モダニズムによって破壊されたリアリズムの前提が、ここでも延命させられているということである。
 以上のような私の疑問は、少し前に、ラテンアメリカ文学研究者の寺尾隆吉が書いた『魔術的リアリズム』という書物を読むことによって、より一層裏付けられることになった。この書物において、寺尾は、ラテンアメリカ文学における「魔術的リアリズム(マジック・リアリズム)」という用語が混乱し明確な定義ができないことを認めた上で、具体的な有名作品に即した定義付けを与えようとしている。そして、そのような文脈において、例えば次のような記述が見られるのである。


 すでにルイス・レアルが着目していたとおり、作家が現実世界と向き合う姿勢は魔術的リアリズムの文学において重要な意味を持っている。すなわち、魔術的リアリズムの第一歩は、「正常」とされる日常的視点を離れて、「異常」・「非日常的」視点から現実世界を捉え直すことにある。日常生活において我々は、基本的に特定の見方に固定されているもので、現代世界では多くの社会において、西欧科学と論理性に規定された合理主義的視点が支配的であるが、魔術的リアリズムはこれを打破、超越しようとする。(寺尾隆吉『魔術的リアリズム』、p128)


逆説的に聞こえるかもしれないが、小説内に作り上げられる空想世界が自律した世界であるからこそ、日常的現実世界を新たな視点から捉える拠り所となる。「異常」が「普通」と化した世界を作ることで、日常世界の「普通」が「普通」に見えないようにするのだ。小説内に描かれた(一見すると)常軌を逸した事件は、象徴的に現実世界を照射し、普通には見えない現実世界の隠れた側面を明らかにする。魔術的リアリズムは、この意味でやはり「リアリズム」なのである。(同、p129~130)


 マジック・リアリズムとは、既に存在していたヨーロッパのリアリズムを前提とし、その限界を打ち破ることを目指すものであるだろう。しかし、寺尾が述べるように、そこで前提とされているリアリズムの特質とは、認識主体が対象を知覚するのに際して、近代ヨーロッパで支配的な理性的・合理的な世界観を当てはめるということでしかない。……そして、もちろんこれは、認識主体が自身の内部の言語と外界の対象とを結びつけ対応させることによって初めて可能になる、リアリズムの根本的な大前提は微塵も疑われていないということでもある。言い換えれば、マジック・リアリズムとは、リアリズムの土台は遵守しその枠組みを守ることで初めてその内部に成立する世界観の意匠を変えることによって新奇な持ち味を出したものでしかないということだ。
 そしてそのようなことは、リアリズムの大前提となる土台そのものを掘り崩すモダニズムの運動があったその後で、なおかつモダニズムの諸作を読み込み多大な影響をこうむった作家たちによってなされていることなのである。……ならばここには、いったいどのような点で文学的価値があると言うのか。作品を発表する側もそれを喜んで受け取る側も、そもそもモダニズムにおいて何がなされているのかわからずついていけていなかったという以上のことがあるのか。
 寺尾隆吉の『魔術的リアリズム』を読んでいると、そのような疑いはさらに強いものになる。……なにしろこの書物においては、マジック・リアリズムの技法としての革新性は、ヨーロッパの十九世紀までの近代小説との比較においてしか検討されないのだ。ラテンアメリカの多くの作家がジョイスやフォークナーの影響を受けていたこと自体は言及される(さすがにそれは隠しようがない)、しかし、ではマジック・リアリズムがモダニズムから具体的にどのような影響を受け技術面でどのような相関関係があるかということは、いっさい触れられないのだ。
 そのことが特にはっきりとした形で現れているのは、いわゆる「独裁者小説」について検討した部分だろう。寺尾は、ロア・バストスの『至高の我』、カルペンティエールの『方法再説』、ガルシア=マルケスの『族長の秋』の三作を「三大独裁者小説」とした上で、次のように書いている。


 そもそも、一人の人間が一社会全体を思いのままに動かすほどの力を備えるという設定は、西欧近代小説の伝統からすればまったくの異色だと言えるだろう。先にも名を挙げた小説論の古典的作品『小説の理論』において、近代小説を英雄(=主人公)と共同体(=社会)との関係から分析したジェルジ・ルカーチの小説類型論と照らし合わせてみれば、三大独裁者小説の特異性は明瞭に見えてくる。(同、p162)


だが、独裁者を主人公にして小説を書く作家たちは、西欧近代小説の枠組みを打ち破って、未知の領域へ踏み込まざるをえない。独裁者とは、西欧近代市民――民主主義的――社会を基盤に生まれた文学ジャンルである小説にとって、前近代を体現する異分子であり、むしろ神話の領域に属すべきもの、言うなれば過去の遺物にほかならない。独裁者小説全体を貫く独特の緊張感は、小説と独裁者の間に存在するこの根源的矛盾に起因する。すなわち、小説の殻を破って作品を神話に変えようとする独裁者と、これを小説の枠組みに封じ込めようとする小説家と、両者の必然的な衝突が作品を緊張で満たすのである。(同、p164)


 ……以上のごとき記述を読んだ私は、まさに絶句することになった。近代社会の類型には収まりがつかないような独裁的な人物を描くことによって神話性を呼び込み、近代小説の枠組みそのものをゆるがす……って、まさにそのことは、フォークナーがヨクナパトーファ・サーガの中心人物の一人たるトマス・サトペンの人物造形においてやっていたことではないか。
 私の認識で言うと、フォークナーが神話的独裁者像を既に描き出していたからこそ、それを読んだ後続のラテンアメリカの作家たちがそのモデルを自分たちの周囲の現実の状況に当てはめ、独裁者小説を創造することができたのだとばかり考えていた。……ところが、寺尾は次のように書く。


すなわち、ラテンアメリカの三大独裁者小説は、西欧近代文学にとって完全に想定外であり、欧米文学の歴史からこれに比肩する作品を見つけることは難しい。(同、p163)


 ……フォークナーの仕事、なかったことにされちゃったのか……。
 というか、そもそもそれ以前の話として、ルカーチの『小説の理論』が扱っている小説の対象は十九世紀までのものでしかないのだから、別にラテンアメリカに限らずとも、多くの二十世紀の小説がその限界を越え出ているというのはどう考えても当たり前のことである。さらに言うと、近代小説の枠組みを踏み越えて神話性を呼び込むことによって作品に緊張がもたらされる……というのも、まさにジョイスが『ユリシーズ』でやっていたことではないか。だいたい、ジョイスがヨーロッパの近代小説の枠組みに収まらないようなことをやっていたのって「神話性」という側面だけでもないのだから、ジョイス理解が相当ヤバイことになってしまっている。
 改めて繰り返すが、ヨーロッパの近代小説の限界は既に二十世紀前半のモダニズムによって徹底的に批判・解体されていたのだから、それより後にきて、なおかつその成果を目にしたラテンアメリカ文学がモダニズムよりもはるかに後退した水準でしか近代小説批判を成し得ていないのであれば、そこに文学的価値を見出すことなどできはしない。……結局、ラテンアメリカ文学の独創性や革新性を強調しようとするには、ジョイスやフォークナーなどいなかったことにしなければならないということなのだろう(……念のために断っておくと、ここではひとまず「マジック・リアリズム」と呼ばれる潮流の全般的な話をしているので、個別に作品を見ていくと、ルルフォやドノソあたりの仕事には、リアリズムの基盤となる言語そのものを揺るがすような契機もあるとは思う)。


 やや話は逸れるのだが……私は、ヨーロッパ型の国民国家を前提として成立する近代小説は、それ以上どうしようもないデッドエンドに既に行き当たっていると思う。近代小説はモダニズムによって解体され尽くして死に、さらにその後でサミュエル・ベケットによって完膚なきまでにとどめを刺されたのだ。
 しかしそれは、あくまでも「ヨーロッパ型の国民国家を前提として成立する近代小説」の進化の道筋のことであるのだから、そもそも出発点からして異なるオルタナティヴは存在し得ると思う。……そしてそれは、例えばアメリカにあるだろう。
 これは由良君美は記していないことなのだが、近代小説のリアリズムを成立させる前提条件は、客体と区別された認識主体の他に、もう一つあるはずだ。国民国家の内部で国民を単一の言語によって統合することを可能にするもの――すなわち、百科全書である。
 近代小説を書き作中で描写をなす小説家は、そもそもの前提として、国民国家によって準備された百科全書が作品の外部に存在していることを必要とする。ある言葉がいかなる対象を指示するのかが固定され、その国民国家の内部で合意が形成されており安定して流通することが自明の条件となっているからこそ、小説家は言葉によって描写をすることができる。
 十九世紀、ヨーロッパ各国で近代小説が確固たるものに形成されゆくその渦中で、例えばメルヴィルは『白鯨』のごとき異様な小説を書いた。……これはつまり、メルヴィルは国民国家によって事前に準備された百科全書を自明の前提としなかったがゆえに、自ら鯨に関する百科全書を編纂してゼロから文脈を形成するそのプロセスをも含み込む形でしか小説を書くことができなかったということではないかと思うのだ。そして、まさにそのような立場こそが、同じく百科全書的な小説をものしたジョイスやピンチョンに継承されているのではなかろうか。
 アメリカは単一民族・単一言語の国民国家を形成することが不可能な場所であったからこそ、ヨーロッパ型の近代小説にとって完全なオルタナティヴとなるメルヴィルのような存在を生み出し得たのではないか。……そして、仮にこれが正しいのであれば、さらに異なるオルタナティヴを生み出し得る可能性は、ロシアなり中国なりにも常にあることになるのだろう。
 しかし、そのような可能性は、マジック・リアリズム的なものの変奏の内には断じてないことをはっきりと言っておかなければならない。ヨーロッパの近代小説の根本的な前提を踏襲した上で表面上の装飾だけを取り替えるのならば、新奇な作品などいくらでも量産することができるからだ。
 ……以上のように考えてみると、近年の文学研究において多くの論者が用いる「世界文学」なるものの実態がなんであるのか、掴めてくるように思える。……当然のことではあるが、世界のほとんどの領域でヨーロッパ的な近代国家が成立しようとも、各地域の文脈によって状況は少しずつ異なる。ならば、近代小説のフォーマットを踏襲しつつ、各地域ごとの文脈によって少しずつ表面上の意匠だけ取り替えれば、その地域にしかありえない「個性」が成立することになる。
 各地域には各地域なりの文脈があり、文化があり、それぞれの個性がある、ゆえに、異なるものは異なるものとして尊重されなければならない――そんないかにも耳に心地よい建前の元、ポリティカル・コレクトネスに居直ることをも合わせれば、作品の前提、その核心部分に対する根本的な批判をシャットアウトすることもできる。そして、異なる文化の異なる「個性」のそれぞれをそれぞれとして肯定した結果、それら全てを縫合した全体像としての「世界文学」を構想することも可能になるのだろう。そしてそこにあるのは、調和の元に見渡すことのできる全体性に奉仕する――逆に言えば、全体の調和を乱しかねない異物はあらかじめ排除された――「穏やかな多様性」にすぎまい。
 なんとも生ぬるい話である。「世界文学」なる言葉がもともと(単に無批判に)ゲーテから引かれたものだというのも、おそらくは、統一した国民国家が形成される以前のドイツにあったゲーテの周囲の状況が意識されないままに反復されつつあるということなのではないか。このままいけば、現代の文学研究の道筋は、単に素朴に、ひたすらナイーヴに、ドイツ・ロマン派のごときものへと全く無自覚の内に回帰していくようなことになるのではないかと私は予想している(……とはいえ、私自身もこのあたりのことについては文献の読み込みが甘いので、あくまでも仮説的な印象の域を出るものではない……のだが、いずれきちんとした形で改めて検討することは記しておく)。


 さて、話が逸れてしまったので、由良君美の「メタフィクション論試稿」に関する私の考えを、改めて整理してみよう。
 十八世紀英国において勃興した近代小説の基本前提となるリアリズムの原理は、スターンの『トリストラム・シャンディ』のごときメタフィクションによって批判され、解体されつつあった。そのような流れと、改めてヨーロッパ各国で近代小説が整備されそれが広まるような流れが混在したあげく、メタフィクションの原理が発展的にその内部に解消されるものとして、外部の対象と認識主体を言語によって媒介するという構図そのものを完全に解体するモダニズムが現れた。
 ……以上のようなことを由良は明晰に記述しているのだが、しかし、ならばなぜモダニズム以降の二十世紀後半においてメタフィクションが流行したのかを分析するという、「メタフィクション論試稿」が書かれることになったそもそもの目標に到達することはできず、この原稿そのものが中絶し完結には至らなかった。
 ゆえに私は、由良によるメタフィクションの原理的な分析は、メタフィクションの影響下にモダニズムが現れることは歴史的な必然性であることを示しており、結果として、由良自身の目標とはおそらく反対に、現代においてメタフィクションの技法を用いることはモダニズム以前への撤退にすぎないことを逆説的に暴き立ててしまったのだと考える。
 例えばこれが哲学史においてならば、文学のモダニズムと同時期にハイデガーの提起した問題がどのような経路を経て二十世紀後半のポスト構造主義に至ったのかということは、極めて明快に理解することが可能である。一方、私の知る限り、モダニズムの成果がいかにしてメタフィクションなりマジック・リアリズムなりに接続されたのかということに関して、説得力のある説明は文学史において提起されていない。
 まれに目にするのは、モダニズムによる前衛的な実験が「行き過ぎ」なものであったがゆえに、行き過ぎた実験に対する反省が起こり、豊かな物語性を回復する流れがラテンアメリカなどに生じた――などというものだが、これなどは端的に言って、何の分析にもなっていない。広くモダニズム的な潮流の中でのリアリズム批判が「行き過ぎ」なものであったというのであれば、例えばプルーストによる徹底したリアリズム批判のどこが間違いであったのかが論証されなければ、それを文学史の中で継承し「間違いを正す」ことなどできるはずもない(というかそれ以前の問題として、「行き過ぎ」であるはずのリアリズム批判の前提に立つプルーストの作品は、別に読めないようなものになっているわけでもない)。
 あるいは、モダニズムによるリアリズム批判がなぜ生じたのかということについては、例えば由良の議論がそうであるように、文学史と照らし合わせつつ明晰に記述することができる。ならば、モダニズムの「行き過ぎ」からの後退が正しいのならば、そのような由良の説明が間違いであること、もしくは、そのように説明されるモダニズムの指針そのものが間違いであることが論証されなければならない。むろん、そのような議論が今後出てくる可能性はあるものの、モダニズム以降にメタフィクションやマジック・リアリズムの技法を用いる作家なりその支持者なりによってまずそのような議論がなされた上で、新たな潮流が確立されたというわけでもない(この点に関しては――私自身には、そこでなされた議論に異論があるものの――とりあえずヌーヴォー・ロマンは除外しなければならない)。
 そして、こういう場合に常套手段となるのが、「モダニズムの実験的・高踏的作品は一般の読者には読めない」などと言って、突然、読者の側の受容の話にすり替えることである。端的に言って、それは文学的・芸術的価値とは関係がない。
 メタフィクションやマジック・リアリズムを広くポストモダニズムの問題と捉えた上で、モダニズムからポストモダニズムへの移行を小説の技術的問題の水準で検討するような分析も、ごくまれにではあるが、ないわけではない(例えば、最近たまたま私が読んだ書物の中だと、デヴィッド・ロッジの『バフチン以後』の中にそのような記述が見られた)。しかしそのようなものも、議論の前提となるモダニズムの文学史上の位置づけが、由良がやっているような水準で精密なものになってはいないのである。
 要するに、モダニズムの問題がなんであるのかを精密に位置づけようとすればするほど、二十世紀後半以降の小説が何らそれを継承しえておらず、前の時代の成果をきちんと消化して発展させた潮流だと言うことができなくなってしまうのだ。例えば、先述した寺尾隆吉の『魔術的リアリズム』が、ラテンアメリカ文学の創造性・独自性を強調するに際してはジョイスやフォークナーの成果をまるまるなかったことにしてしまうということも、私の見解を裏付ける例証の一つになっているように思われる。
 由良君美の死後に編集され出版された遺稿集は『メタフィクションと脱構築』と題されていたわけだが、むしろ由良自身は、「メタフィクション」と「脱構築」の関係性を描き出すことに失敗したのだと言うほかないのである(……しかしまあ、それは由良自身の問題というわけでもなさそうなのではあるが……)。


 ここで改めて繰り返して述べておきたいのは、私が間違っているというのであれば、由良の分析なり私自身のそれに対する読解なりのどこがおかしいのか、文学史なり文学理論なりに即した説明をきちんと提示してもらいたいということだ。
 モダニズムの作品は一般の読者層にはそもそも読めないようなものになってしまっているからダメ……というのは、むしろ、自分が読めない、ついていけていないということを率直に述べるのをはばかられる者のエクスキューズに過ぎないのではないかと思えるのだ。
 これが例えば絵画においてならば、セザンヌやらゴッホやらマティスやらピカソやらの代表作を見たことすらない者が芸術的価値の先端にいて実作したり批評・研究をするなどということはまずありえないだろう。……ところが、これが小説になると、難解な大作を物理的に読み通せない者が続出する結果、読んでいない者がなんとなく読んだふりをし、特に追求されることもないままにのうのうと実作者なり批評家なり研究者なりとしてやっていけることになっているのである。だからこそ、文学史上のかなり長いスパンで見たときでさえ、ここで既に述べたような不毛なことが起きているのだと私は思う。……この状況を改善しようとするならば、解決策を提示することだけなら非常に簡単だ。例えば小説ならば、『ユリシーズ』やら『失われた時を求めて』といったあたりを通読できているのかどうかをチェックする……要はセンター試験のごときものを実作者なり批評家なり研究者なりに実施して、基準を満たさない者を排除すればよいのである。そもそもこの程度の前提条件を満たさなければ、文学史の最先端の位置で文学的価値を云々することなどできるはずもないのだから。マークシート方式のセンター試験で基礎能力を示さなければ、応用的な記述能力まで含めてチェックされる方式の試験には進めないのと同じことである。
 もちろん、私が言っているのは、既存の文学史の全てを消化した上で最先端での技術を競うような文学作品以外の価値を認めないなどという話ではない。従来の文学史の中からしかるべき技法を持ち出し、アレンジを加えて、人目を引きやすく読みやすく面白い娯楽作品を作り出して人を楽しませること自体には価値がある。しかし、そこには文学的価値は特にない。当たり前の話である。
 何で、文学のことなどよくわからんような連中が、「村上春樹にはノーベル文学賞をもらうだけの文学的価値がある」だの「従来見過ごされてきたが、マーガレット・ミッチェルには優れた文学的価値があり、フォークナーすらしのぐかもしれない」などという愚にもつかないことを言いたがるのだろう? あるわけねーだろそんなもん。
 非常に面倒なのは、人文学全般においてポリティカル・コレクトネスの意識が浸透した結果、どのような局面でも迂闊な批判は出しづらいような状況があるということだろう。精神分析なりフェミニズムなりポストコロニアリズムなりの知見が文芸評論にも流入した結果、従来見過ごされてきた被抑圧者・マイノリティの立場をきちんと検討する態度が広く確立した。性差・人種・宗教・社会格差に基づいて偏見を垂れ流す立場は即座に否定されるがゆえに、それらを告発するような内容を含む作品は批判しづらい。……とはいえ、貧しい黒人女性が裕福で社会的権力を持つ白人男性の横柄な抑圧を打ち破るような内容を持つ作品があったとして、その内容そのものの正しさは美学的価値の評価とは無縁である。どれだけ正しかろうとも、ゴミはゴミだ。
 世の中には多くの社会的立場が複雑に入り組んでいるからこそ、様々な局面において「正しさ」を侵害しかねない事態はすぐに生じる。このような状況であれば、もちろん、常に価値判断を留保し批判をしないことこそが最も安全である。そして、「批判をしない臆病さ」は、「多様性を認める寛容性」へと、たやすく擬装することができるーーだからこそ、それぞれがそれぞれに異なる個性を認めなければならない! どれもこれもがそれぞれなりに面白く、すばらしい! 多様でどれもがすばらしい作品の総体こそ、そんな僕らの世界文学! みんなちがって、みんないい! ……などというようなことをさも嬉しそうに言い募る連中の愚にもつかない寝言が流通することになるわけだ。
 例えば中華料理とフランス料理であれば、調理する食材も歴史的文脈も技術体系も好まれる嗜好も、何もかもが異なる。なるほど確かに、どちらか片方が好みであるゆえにもう片方の領域全体を否定するのはおかしい。しかし一方で、ド素人の作った中華料理と一流シェフの作ったフランス料理の間にある絶対的な落差がなくなることはない。一流シェフの料理を食べた後ではド素人の料理など食えたものではないと言うことが、多様性を否定し個性を抑圧する悪しき振る舞いなのだと本気で信じているような者は単にわけがわかっていないのだから、料理を語ることなど即刻やめるべきなのだ。
 何もかもがそれぞれなりにすばらしい、個性を尊重し否定・批判を排除することが多様性を認めることだなどという風潮が広まれば、「その領域に属する誰もが絶対に触れておくべき古典」のようなものも相対化され、消滅に向かうだろう。何しろ、どれもこれも同じように価値があるのであれば、絶対的に優れたものもないということになるのだから。……このようなことに関して、最近、さすがに日本の出版業界の底が抜けたと思えたことがある。一応プロの小説家なり翻訳者なりであることになっている人々が、「自分たちは誰もドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがない」ということを題材にして書物を出したというのだ。
 そこで言い訳として掲げられている言葉がまた愚の骨頂で、「ドストエフスキーを愛しているみなさま、すみません」などというものだ。……改めて書いておくと、ドストエフスキーを愛している者だから『罪と罰』を読んでいるのだろうなどという認識そのものが根本的に間違っている。仮にもプロとして文学に携わっているのなら読んでいるのが当然なのであって、「愛している者は読む」し「愛していない者は読まない」というような個人的な好みに還元されるような水準の話ではないのだ。この愚かな書物の企画に際して周囲にいる出版業界の関係者に色々と聞いたところ、『罪と罰』を読んでいても内容をきちんと覚えて把握している者は一人もいなかったから、既読と未読の落差などないという結論に達したというのだが、要は、企画者の周囲にいるのが揃いも揃って愚か者ばかりという話でしかない。『罪と罰』すら読んでいないというほど文学史全般の基礎中の基礎すら身についていないような者が、例えば外国のそれなりにまともな文学作品の翻訳・紹介などできるはずもない。もはや、「『罪と罰』を読んでいないこと」は、仮にそうだとしても恥じて隠すべきことですらなく、堂々と居直って商売のネタにすることすらできる「個性」の一つになってしまったのだ。
 ……などというような風潮を絶対に認めず全否定する私のごとき者は、反動的で抑圧的で不寛容で政治的に正しくない極悪人である、ということになるのかね?


 さて、由良君美の「メタフィクション論試稿」を読んでおおよそ以上のようなことを考えたのだけれど、議論の本筋とはあまり関わりのない部分で、一つ気になったことがある。それは、夏目漱石が『トリストラム・シャンディ』の影響を受けつつ『吾輩は猫である』を書いたことが、手厳しく批判されているところだ。
 由良は、次のように書いている。


 一体、漱石ごときに、なんでMetafictionが分ったろうか。いな、Metafictionを実践する能力と勇気とがあったであろうか。いずれ、漱石のホフマン理解の程度について、詳しく述べるときにゆずるが、漱石の『猫』のごとき愚作が、一九世紀ドイツ・ロマン派のホフマン作品の遙か後の日本において出現し、しかも喝采を博したという史実自体まことに不思議である。ホフマンの『牡猫ムルの人生観』を知り、その影響下に漱石は『猫』を書いたに違いないとするのが、大昔、板垣直子女史によってだされた所説であった。私見によれば、この板垣理論は全く駄目である。ひとつには、漱石は、スターン『トリストラム・シャンディ』を好み、それに言及しながらも、私見によれば、そのMetafictionとしての特性は分っていなかったのであり、またしたがって漱石作品はMetafictionalな性格を持つものに全くなりえなかった、と考える。
 漱石が『トリストラム・シャンディ』を本当に理解し、そのMetafiction性を己の創作にとり入れることができたのであれば、わたしは漱石を評価するだろう。しかし、現在のところ、そのように考えることはできず、漱石を日本近代文学の偉人と踏む人びとの評価に同ずることはできない。
 MetafictionまたはMetafictionalな精神的志向が、どこから生じ、なにを生む可能性があるものか? この大問題が漱石に分っていたならば、漱石はあのような作品を生まなかったであろう。(『メタフィクションと脱構築』、p24~25)



 私自身は、由良がもともと漱石嫌いであることは十分承知していたから、上記の記述を読んでも特に驚くことはなかったのだが……しかしそれ以前の問題として、これはいくらなんでも、漱石批判として悪手であろう。
 当たり前のことであるが、英文学者としての夏目金之助のスターン理解がおかしかったというのならば、その具体的記述を引いて分析しつつどしどしやればよい。しかし、先行作家の理解を実作者の実作に即してやるというのならば、おのずと話は異なってくる。
 なるほど、『猫』は確かに『トリストラム・シャンディ』の影響下にあるし、また、『猫』は『トリストラム・シャンディ』に比べてしまえばかなり劣る作品であるし、そしてまた、『トリストラム・シャンディ』はメタフィクションである一方で『猫』はメタフィクションではない――私はこれら全ての点に同意するのだが、しかしだからといって、これは漱石を批判する理由にはなりえない。
 実作者が先行する作品から影響を受けて自作をものにするとき、先行作品の前提を全て踏襲しなければいけないなどという決まりはないのである。つまり、『トリストラム・シャンディ』というメタフィクションの影響を受けた者は必ずメタフィクションを書かなければならないなどということはない。後続する者は、先行者による先行作品の中から好きな部分の影響を受け、好きなように変形し、好きなように利用すればよいだけなのであって、そこに何らかの制約などあるはずもない。……というか、まさに『トリストラム・シャンディ』の影響を受けたモダニズムの潮流、そこにある「意識の流れ」の技法は狭義のメタフィクションと呼べるものではなく、そこから逸脱したものだった。ということは、言い換えれば、由良の理屈で『猫』が批判されなければならないのであれば、全く同様の理屈で、狭義のメタフィクションではない『ユリシーズ』や『失われた時を求めて』もまた批判されなければならないことになるわけだ。
 既にここまで述べてきたように、私は、モダニズムの登場とともにメタフィクションはその文学史上における歴史的役割を終えたのだと考えている――そして、ヘンリー・ジェイムズの作品なんかも読み込んでいた漱石がスターンの影響を受けつつもメタフィクションではない『猫』や『坑夫』のような作品を書いていたということは、漱石がモダニズムの胎動を感じ取っていたことを示しているように思えるのである。……むしろ、モダニズムの後になってもなおメタフィクションの技法を用いつつ、あたかも自分が現代文学の先端にいるかのように考えている者の方こそが愚かなのだ。メタフィクションの後に来た者がメタフィクションを書かないことは、必ずしも保守的な後退ではない。
 仮に漱石がスターンの影響を受けてメタフィクションの技法を用いていたとするのであれば、その部分の分析によって、漱石がスターンをいかに読みいかに継承したのかを明らかにすることもできるだろう。しかし、漱石はそもそもメタフィクション的なものには触れてもいないのだから、その局面においてはスターンとの比較で検討すること自体ができないのだ(念のために確認しておくが、二十世紀後半に現れたメタフィクションなりマジック・リアリズムなりの技法は、リアリズムにどのように対処するかという同一の局面においてモダニズムからの明らかな後退が見られるからこそ、私は批判の俎上に乗せたわけだ)。
 ついでに付言するならば、まさにこのような部分に、由良の議論の本論の方で死角になっていることも同時に表れているように私には思える。由良が『猫』にメタフィクション性がないことを批判するのは、『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』の両作が文学史上果たした役割が強調されたゆえにであった。そして、確かにこの両作はともに高度なメタフィクションであるし、後続するスターンは先行者セルバンテスの影響を受けつつ、『トリストラム・シャンディ』の作中でも何度も『ドン・キホーテ』に直接言及してもいる。……しかし、である。「メタフィクション」という観点から見れば確かに共通点が見られるこの両作も、全体としてみれば、全く似ても似つかないものになっているではないか。
 要は、当のスターン自身が、セルバンテスからメタフィクション性は引き継ぎつつもその他の部分では全く異なることを展開していたからこそ、『トリストラム・シャンディ』という特異な作品が成立することになったわけだ。……そして、今の私が気になっているのは、「では、『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』の本質的な差異とは何なのか?」という部分にある。
 ……とはいえ、これはまた、由良君美の「メタフィクション論試稿」の文脈とは全く異なる話であるので、改めて別のエントリを立てることにしよう。











私は、リブート後の「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌を全面的に支持します

 マーヴル・コミックスの大規模なリブートにともなって「キャプテン・アメリカ」誌もリニューアルされてナンバリングもリセットされた今日この頃ですが、その「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌がしょっぱなの第1号からいきなりアメリカで物議をかもしているようです(それにしても、副題の「サム・ウィルスン」も込みのタイトルになっていますが、これは「キャプテン・アメリカ」誌の第9シリーズ扱いということでいいんでしょうか。まあ、ストーリー自体は普通に第8シリーズから続いていますが……)。
 オリジナルのキャプテン・アメリカことスティーヴ・ロジャースに変わって新たにキャプテン・アメリカになったのは、長い間ファルコンとしてスティーヴのパートナーを務めてきた黒人男性のサム・ウィルスンでした。と言っても、第9シリーズの開始という切れ目でサムがキャプテン・アメリカになったというわけではなくて、第7シリーズの終盤で既にスティーヴからの交代はなされており、その引き継いだままの状態でリブートがなされたということです。……しかし、第7シリーズ読んでたとき、とある事件でスティーヴの超人血清の効果が切れてしまったのですが、「ほえ~、キャップがお爺ちゃんになっちゃった……まあ、どうせ2、3号で元に戻るだろ」くらいに思っていました。それが、「キャプテン・アメリカ交代!」というニュースが流れたもんで、「え、あのまま元に戻らないの!?」と後から衝撃を受けるという、個人的に不意をつかれた展開なのでした。……しかし、お爺ちゃんになった直後のスティーヴはほんとにヨボヨボで、「これはもう隠居するしかないわ……」という印象だったのですが、なんかその後も老体に鞭打って無理矢理活動しており、どう見てもだんだん若返ってきており、なんだかんだでジジイのまま結構露出しておりますねえ。
 さて、そんなこんなで始まった「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」なんですが、その第1号が物議をかもし、FOXニュースなんかのアメリカの右翼系メディアでバッシングされるという事態が起きておりました。その内容はどんなものだったのかというと……キャプテン・アメリカとしての新たな活動をどんなものにするのか明確な姿勢を取ることにしたサムは、記者会見を開きます。そこでサムが宣言したのは……前任者たるスティーヴ・ロジャースは、自分の存在がどのように受け取られるのかを鑑みた結果、特定の政治問題について自分の態度を公的に表明することはせず、中立を守ろうとする姿勢を取っていました。しかし、新たなキャプテン・アメリカとしてのサムはこのような姿勢を放棄し、いかなる問題についても、自分が正しいと思う意見を常に明らかにし、自分の信じる正義を表明すると宣言したのです。
 このことは、アメリカ中から猛反発を呼び起こします。そんな中、S.H.I.E.L.D.とも合衆国政府とも関係を絶ったサムは、独自のホットラインを開設し、民間のアメリカ人から直接寄せられた情報を元に個人として活動していくことになります。そして、ホットラインからの情報に基づいてサムが向かったのは、アリゾナ州の南端の国境地帯でした。メキシコからやってきた不法移民に対して「我々の職を奪うな! 我々の税金で生活保護を受けるな!」と罵声を浴びせて襲撃するような連中が現れていたのです。で、これに対してサムが「非武装の女子供を襲うな!」と止めに入り相手を叩きのめすことになる、と。
 ……と、いうコミックの内容を受けて、FOXニュースなんかが、「新たなキャプテン・アメリカは、ナチスやら犯罪者やらと戦うのではなく、アメリカの保守層を敵視し攻撃している!」というバッシングを展開したのですな。
 まあ、実際にコミックの内容を読んでみれば、この種の批判は非常に浅薄なもので、およそフィクションの接し方に慣れていない人々によるものであることは明らかです。……だって、そもそも作中においても新キャップとしてのサムの言動はアメリカで世論を真っ二つに分裂させるようなものであることがはっきりと描かれており、サムが「キャプテン・社会主義!」「キャプテン・反アメリカ!」「裏切り者!」などと罵声を浴びせかけられた挙げ句、支持率も50パーセントを割り込み、飛行機に乗ったら添乗員に「あなたは私のキャプテン・アメリカじゃない!」とか言われ、オレンジジュースをもらおうとしても拒否されるような目にすら遭っているのですから。……つまり、ある特定の政治的態度をとる人間と、賛否両論の周囲の状況までを同時にフィクションの内部にきちんと取り込んで構成しているわけなので、「左翼を持ち上げるために右翼を叩いている!」などと単純化できるようなものにはなっていないわけです。
 そして、アメリカのコミックファンの反応なんかも読んでたんですが……まあ「キャプテン・アメリカ」誌をある程度以上読んでりゃそうなるよなあと思ったのが、「新しいキャプテン・アメリカがキャプテン・アメリカらしく振る舞っただけで、なぜか怒り出す人がいっぱいいるよ」というものでした。そもそも、「キャプテン・アメリカ」誌では昔からアメリカの同時代的な状況なんかも盛り込んで政治的に生々しい内容が描かれることはさんざんやられてきたわけですから、今さらそんなことに怒ってもしょうがないわけです。確かに、比較的近年のスティーヴは「キャプテン・アメリカとしてはいかなる政治的立場への支持も表明しない」というスタンスを保ってはきました。……とはいえ、それは例えばキャプテン・アメリカとしては選挙に際して特定の候補を支援したりしない、というようなことなのであって、(本名を公表する以前には)素顔のスティーヴ・ロジャースとしてある候補の選挙活動に協力したりしたこともありました。
 要するに、キャプテン・アメリカというシンボルは中立を保とうとされてきたというだけのことなのであって、「キャプテン・アメリカ」というコミックそのものが政治性を排除しようとしてきたわけではないのです。……それでもまあ、最近のキャップの政治的立場はどっちかというと『シヴィル・ウォー』なんかの巨大イヴェントで明らかにされることが多く、第5シリーズ以降くらいの「キャプテン・アメリカ」個人誌の方ではあまり政治的なテーマが取り上げられることもなかったので、そういう意味では今回の「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」は、私としては新鮮な感覚で読むことができました。
 とにかく、強調しておかなければならないのは、この「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」は、その政治的な生々しさも含めて、キャプテン・アメリカの歩んできた歴史をきちんと踏まえた上で製作されているということです。最初の3号ほど読んでみたところ、「キャプテン・アメリカ」誌のバックナンバーからかなり細かいマニアックところまで拾ってきており、むしろ、「キャプテン・アメリカの過去のネタをリミックスした上で、いかにアレンジして現在のコミックとして語り直すか」ということしかしていません(キャップが人々の声に直接耳を傾けるためにホットラインを開設するというのも、過去の「キャプテン・アメリカ」誌で既にあったネタのリヴァイヴァルですぞ)。
 私個人は、ライターのニック・スペンサーの仕事はちょこちょことしか読んでおらず、特に印象にも残っていませんでした――しかし、今回の仕事を一読してみれば、この人はキャプテン・アメリカ道においてかなりの高段者であるのは間違いないことなのであります。ニック・スペンサーの今回の仕事によって明らかになったのは、「キャプテン・アメリカ」のバックナンバーを熟読していさえすれば、そこで得られた知識を引用しサンプリングし直すだけで、現在のアメリカが直面する問題に立ち向かうことも可能! という事実に他ならないのです。ニック・スペンサーが自分の政治的主張のためにキャプテン・アメリカというキャラクターをねじ曲げ私物化しているなどというのは、てんで的外れな言いがかりにすぎないのです。だからこそ、私は言いたい――アメリカの右翼よ、日本人より「キャプテン・アメリカ」誌のバックナンバーを読み込んでなくてどうする!


 私は、このエントリを、現行の「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌への支持を表明するために書きました。しかし、くれぐれも断っておかなければならないのは、その理由は、ここまで書いてきたようなバッシングを巡ることではないということです。……だって、このタイトルの内容は、どこからどう考えても「キャプテン・アメリカ」誌にとっては通常営業の範疇にあるわけですから、キャップファンとしては今さら支持するもクソもないわけなのであります。
 私がこのタイトルを強力に推したい最大の理由は、別にあります――このコミックには、あまりにも感動的な場面があったのです。第1号を読んでいたところ、S.H.I.E.L.D.から離れて独自に活動を開始したサムをサポートしている仲間として、一人の男の姿が描かれていたのです。
 ……こ、これは……まさか……!?
 ……でぃ、D~~~~マーーーーーーン!!!!!
 まさかまさかの、Dマン復活キタ!
 そんなバカな……Dマンはあの陰惨な事件の果てに死に、その存在自体が闇へと葬られたんじゃなかったのか……と思いきや、よくよく考えてみると、リブート後の現状のマーヴル・ユニヴァースって、『シークレット・ウォーズ』から八ヶ月後の時点が現在時。しかし『シークレット・ウォーズ』そのものはまだ刊行中で完結していないので、その間に起きたことはまだ不明ってことか……と思って少し調べてみたところ、現物はまだ読んでいないんですが、どうも『シークレット・ウォーズ』のタイインタイトルの一つで、Dマンの復活が描かれていたようですね。
 ここで一つ、はっきりと宣言しておかなければならないことがあります。……それは、あの大変すばらしいエド・ブルーベイカー担当期の「キャプテン・アメリカ」に関することです。ブルーベイカー期がキャプテン・アメリカ史に残る傑作揃いであることには、私も何の異論もありません――しかし、ブルーベイカー期には、唯一にして最大の欠点があります。それは、ノマド(ジャック・モンロー)とDマンの扱いがいくら何でも酷すぎる、ということなのであります。
 ジャック・モンローの場合は、もともと50年代のキャプテン・アメリカのサイドキックである「50年代のバッキー」として赤狩りに荷担し、後にキャップ&ファルコンとも戦い、さらに後に改心してノマドの座を継承しキャップとも共闘していた……というようなキャリアを持つわけですから、『キャプテン・アメリカ:ウィンター・ソルジャー』において、生き延びていたオリジナルのバッキーことウィンター・ソルジャーに暗殺されてしまうというのは、話としては筋が通っているわけです。
 しかし……しかしですよ!? ジャック・モンローの方は何とか納得しても、それに輪をかけてDマンの扱いが酷すぎるのです。ブルーベイカー担当期の末期に、正体不明の、錯乱した凶悪なヴィランが現れてキャップの前に立ちふさがるが……な、なんと! その正体は、Dマンだったのだー! という展開があったのでした。……うん、この展開、Dマンのことを知らない読者はポカーンとするだけだし、Dマンを知ってるようなキャップファンならがっかりするだけだよね……という、誰が喜ぶんだか全くわからないような展開でした。そして、錯乱気味のDマンは割とさくっと死亡し、「キャップのかつての協力者が犯罪者に!」みたいな報道も公に出回ることになったのでした。
 補足して説明しますと、Dマンことデモリションマンとは、80年代のマーク・グルーエンウォルドがライティングを担当していた時期に創造され、キャップの協力者となったキャラクターです。キャップが合衆国政府と対立した結果「キャプテン・アメリカ」の名称と装備一式の返上を余儀なくされたときには、「ザ・キャプテン」と名を改めてヒーロー活動を継続することになりましたが、そうして心機一転出直しを計った際に、ファルコンやノマドとともにDマンも表紙を飾っています。
 この、スティーヴ・ロジャースと愉快な仲間たちのカヴァーアートを見れば、第二次大戦末期に行方不明になったスティーヴがアヴェンジャーズに発見されて復活した際のカヴァーアートのオマージュになっていることは明らかです。……しかし、ここには、単にオマージュという以上の意味があるように思えるのです。というのも、「アヴェンジャーズ=キャプテン・アメリカ+その他大勢」という普遍の真理が存在するわけですから、言ってみれば、スティーヴと愉快な仲間たちも名称とかはともかく実質的にはアヴェンジャーズ同然なのであり、ましてや戦力面では同等であることには疑問の余地がないわけなのです。
 そんなことを考えてから、改めて二つの表紙を比べてみると……スティーヴが同じ構図に収まっているのは当然ですが、ファルコンはアイアンマンと重ね合わされています。同様に、レッドウィングはワスプに、ノマドはソーに重ねられているわけです。……と、いうことはですよ? Dマンは、ハンク・ピムと同等の戦力であるということになるわけです。……そう、ファルコンとハンク・ピムと言えば、今年公開された映画『アントマン』においても大きな役割を果たしていました。ということは、彼らと同格であるDマンが、『キャプテン・アメリカ』の映画版において、『アントマン』におけるハンク・ピムと同等クラスの大活躍を見せる日もそう遠くはないのかもしれませんね。
 ことほどさように、Dマンと言えば、「キャプテン・アメリカ」の歴史において欠くことのできない重要な存在なのです。政府と決別し日々の資金にも事欠くことになった頃のキャップは、元プロレスラーのDマンの貯金から支援を受けていたほどなのです(……でも、そう考えると、Dマンと行動をともにしなくなった90年代には「ヒーロー活動とプロレスを一緒にするな!」とか言ってたんだから、キャップもヒドイよ!)。……しかし、にもかかわらず、その後のDマンがたどった歴史は、非常に無惨なものであるのでした。
 例えば、『ヒーローズ・リボーン』終結後に「アヴェンジャーズ」第3シリーズがスタートした際には、アヴェンジャーズに在籍したことがある者が同時刻に世界中で何者かの襲撃を受けるという事件があり、そのほぼ全員がアヴェンジャーズ・マンションに集結するということがありました。もちろんその中にはDマンもいたんですが、ホームレス同然の惨めな姿で、「なんであんな人がここにいるの?」などと陰口を叩かれる有様。当時のDマンはゼロタウンという場所の守護者をしていたのですが、日々の水にも事欠くような厳しい環境で満足に入浴もできず、体臭がキツかったらしいんですな。そのため、全員集合で着席すると、こんなことになっています。完全にイジメです。この前後の状況も、Dマンを気にかけて声をかけているのはスティーヴとジャーヴィスだけ……そう、もちろんファルコンも同席していたのにもかかわらず、Dマンと話しているようなところはいっさい描かれていないのです。サム……アンタ、復活後のDマンとはさも親しげにしてるけど、このときは、Dマンがアヴェンジャーたちからキモがられてるのを見て、他人のふりしてたやろ!
 それから、この号のカヴァーアートはこんな感じで全員集合になっているのですが……Dマン、見つけられますか。よく見ると、真ん中の最下段に、ものすご~く小さく描かれています。胸に大きくDの文字があるからかろうじてわかるという程度です。……実はこのカヴァーアートがもともと描かれたとき、Dマン、ガチで描き忘れられ、急遽隙間に描き足された結果、こんな感じになったらしいんですな……(涙)。
 ……とまあ、その後登場することはちょこちょこあっても、たいていは惨めな扱いで描かれ続けた挙げ句、とどめを刺したのがブルーベイカー期の「キャプテン・アメリカ」であったわけです。……しかし、Dマンもジャック・モンローもあんなに酷い仕打ちを受けるとは、ブルーベイカー、グルーエンウォルド期の「キャプテン・アメリカ」に何か含むものでもあるんでしょうか……(しかし一方で、同じくグルーエンウォルド期にスティーヴに惚れちゃった結果としてヴィランから足を洗ったダイアモンドバックなんかは、割とまともな扱いを受けてるんですよねえ)。
 そんなあまりにも無惨な長い長い年月が過ぎたその後で、遂にDマンが復活し、キャプテン・アメリカを支援する役割を正式に務める日が再び巡ってきたのです。これは、涙なくしては読めません。……それにしても、最後にまともな扱いを受けたのがゆうに二十年以上前というようなキャラクターがいきなり復活したりするんですから、やはりアメコミというのは、継続して読んでると何が起きるかわかりませんなあ。ニック・スペンサーがバックナンバーから拾ってくるネタはグルーエンウォルド期からが多いので、この人はその頃の「キャプテン・アメリカ」誌への思い入れが強いんでしょうね。
 それにしても、スティーヴにはジジイになってわき役としてちょこちょこ出ているだけであるのにもかかわらず、これだけキャップ愛を詰め込んだライティングをしているニック・スペンサーは大したものです。こうなると可能な限り長く担当して欲しいですし、できれば、スティーヴがキャプテン・アメリカに復帰した状態での作品も読んでみたい。
 ……ということで、私は、ニック・スペンサー&ダニエル・アクーニャの手になる「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」誌を、全面的に支持します。何より、その第1号において、元々のコステュームのカラーリングや全体のイメージを残しつつも現代風にアレンジされた姿で登場したDマンが次のように言ったとき、思わず知らず、私の目頭は熱くなっていたのでした。


 I finally look cool.
 遂に、おれの見た目もクールになったよ。




 付記 このエントリでは「スティーヴの超人血清の効果が切れたのが第7シリーズ、現行は第8シリーズ」という前提で書いていましたが、間違いに気づいたので訂正させていただきます。キャプテン・アメリカの座がスティーヴからサムに交代されてから、タイトルが「オールニュー・キャプテン・アメリカ」になってナンバリングもいったんリセットされたことを忘れておりました……。これは6号しか出ていないんですが、『シークレット・ウォーズ』の影響でリセットされたから休刊になっただけで、別にもともと6号限定のリミティッド・シリーズだったとかいうわけではありません。……ということなので、現行の「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」は、正式なものと見なして数えるならば第9シリーズということになるわけですね。キャップファンとしてあるまじき大失態を犯してしまい、大変申しわけありませんでした。この失態を心に刻み、さらにキャプテン・アメリカ道を邁進することを誓う次第であります。










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