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大人の時間と子供の時間――ガイ・リッチー『コードネーム U.N.C.L.E.』

 ガイ・リッチーの監督による『コードネーム U.N.C.L.E.』を見た。作品が描く時代としては冷戦期に設定されており、冒頭部分では、ベルリンの壁を越えて西側へある人物を送り込もうとする作戦に関するCIAとKGBのそれぞれのスパイの暗闘が展開されている。
 そんな事件を発端としつつ話の本筋となるのは、核兵器の技術が広く流出しかねない事態が生じた結果アメリカとソ連が一時的に手を組まねばならないことになり、その作戦に関して、冒頭部分では死闘を繰り広げていたCIAのスパイであるナポレオン・ソロとKGBのスパイであるイリヤ・クリヤキンとがチームを組んで任務に従事することになる……というものだ。資本主義にどっぷりつかって享楽的な生活を送り、凄腕の泥棒だったのがCIAで働くことになったソロと、共産圏の質実な生活に慣れたコチコチの堅物のイリヤの文化的ギャップを描きつつ、スパイもののフィクションにとっては定型である、虚実入り乱れ複雑に入り組んだプロットがさくさくと整理されつつ展開する。
 そういう意味では、今回の『コードネーム U.N.C.L.E.』の、全体としての完成度は高い。ストーリーは各キャラクターの特徴を織り込みつつも巧みに進行し、それぞれのシーンごとの演出にしても、どのような要素を省略し、何を画面に映さないことによって作品を構成するのかという部分がきちんとできている。スパイ映画の場合、どうしても人間関係が入り組んだ複雑な展開になるので、全てを画面に写さずとも観客にきちんと伝わる部分をきちんと調整してストーリーの経済効果を高めなければ、どうしてもかったるくなるわけだ。
 ……というわけで、既存のスパイ映画の枠組みの中でそれなりに完成度が高く、安心して楽しめる映画になってはいるのだが……私の印象に残ったのは、むしろ、スパイ映画の枠組みを部分的に逸脱する細部の方であるのだった。
 何らかの仕事に従事するとき、人は、自分の身体を、何らかの目的の達成に向けて最適化された状態にする(もしくは、少なくともそれを目指す)。このようなことは、任務を遂行中のスパイにあっては、より徹底した形で表れる。ひとたび自分の身分を偽装すれば、その役割を演じ続けなければならない。身分を偽装し嘘をついているのは自分だけではない可能性は常にあるゆえに、周囲の誰の発言も信じきることができず、常に懐疑的であり続けなければならない。それが敵地に潜入している期間のことででもあればなおさらで、それこそ四六時中、プロフェッショナルとしての緊張を保つことから解放されるようなことはほとんどないことにもなる。
 言ってみれば、スパイとは、完全に目的化された時間の中を生きている人々なのである。そして、自身の目的達成に向けて最適化された状態に身体を統御した人々が謀略をかけあい、騙しあい、虚実入り交じった駆け引きを繰り広げるからこそ、それを題材としたフィクションは、高度にコントロールされたプロットを備えることも可能になる。
 ……しかし、登場人物が自分のプライヴェートな領域を完全に殺し去り目的達成のためだけに奉仕することによって完成する複雑な作品が存在する一方で、まさにそこから逸脱してしまうものも、しばしばスパイもののフィクションで取り上げられてきた。スパイは任務の達成に向けて自分の元々のあり方を殺さなければならない、しかし、過酷な状況の中で完全に殺しきることもできず、プロとしての任務の狭間で噴出してしまう、もともとの実存――そんなものも、しばしば描かれてきたのだ。


 『コードネーム U.N.C.L.E.』という映画には、スパイがスパイとしての任務に忠実に従事し、目的の達成に向けて単線的な時間の中を駆け抜けるその渦中にありながらも、いかなる目的のためにも組織されていない、弛緩しきった淀んだ時間が描かれるという、他の部分から突出した異様な場面がいくつかある。
 例えば、ソロとイリヤが敵に追われ、ボートで海上を逃げる場面。イリヤの激しい運転によってボートから振り落とされたソロは、単身泳いで陸に上陸すると、無人のまま駐車されているトラックに勝手に乗り込み、持ち主の荷物をあさる。そうしてサンドイッチを見つけたソロは、依然として追われるままに海上を駆けるイリヤのボートを遠目に眺めつつ、閉め切った車内に音楽をかけると、ゆうゆうとサンドイッチをぱくつき始める。
 車内に音楽を流すソロの周囲にゆったりとした時間が流れているだけに、車外で絶体絶命の窮地にあるイリヤとあまりにも対照的な出来事が同時進行する様が強調される。言い換えれば、スパイとしての能力をフル稼働しなければならない状況に追い込まれたイリヤの時間と、何の目的もなくただのんびりとしていればよいソロの時間とが、それぞれ全く異なることが示された場面になっているわけだ。
 この作品において、プロフェッショナルとして自分の身体を統御することに関して最も優れた能力を見せるのは、ほかならぬナポレオン・ソロである。そして、潜入任務に従事している期間は偽装した姿を徹底して保たなければならないからこそ、任務の合間のほんのわずかな隙間を見つけるやいなや、目的意識を完全に放棄して、弛緩した時間の中でゆうゆうとリラックスすることができる。……つまり、プロフェッショナルとしての能力が高い者だからこそ、プロフェッショナルとしての姿勢を放棄できる時間をやりくりすることができるのだし、緊迫した時間と弛緩した時間とを自由自在に切り替えることもできる、ということだ。


 『コードネーム U.N.C.L.E.』がそのような映画であったと考えてみると、ガイ・リッチーの初期作品には、そのような要素は全く見られなかったことに気づく。……なるほど、『スナッチ』のような作品も、数多くの犯罪者たちの利害が絡み合い、騙し合いが横行し、複雑なプロットが展開してはいる。しかし、そこに登場する犯罪者たちは、ナポレオン・ソロのような、プロフェッショナルとしての緊迫した時間の中にいることはなかった。
 ガイ・リッチーの初期作品に登場する犯罪者たちは、しばしばそれなりに大がかりな犯罪計画をもくろみ、実行に移す――しかし、彼らの計画は基本的に緩いものであり、実行の過程で様々な偶然によって翻弄され、それを途中で修正するような手際の良さもなく、にっちもさっちもいかなくなり、任務の途中でもダラダラと雑談を始めたりもする。
 言ってみれば、ガイ・リッチーの描く犯罪者とは、大人の世界に参入することを拒絶した人々なのだ。目的を達成するためにコントロールされた緊迫した時間の中で仕事をすることができず、子供の時間の過ごし方から変わらぬままに成長した人々。彼らは、子供の世界から抜け出さずにすますためにこそ、法を踏み越え犯罪を犯す(このことを最も明確に体現しているのは、『スナッチ』においてブラッド・ピットが演じているミッキーだろう)。
 もちろん、法を踏み越えることまではしなくとも、業務の達成に支配された大人の世界に進んで参入したがるような人はあまりいない。誰だって、子供の頃のように、何者にもせかされず気ままに時間を過ごしたいだろう。しかし、それはできない……だからこそ、人は、目的化された時間の中で業務に従事し続けながらも、自分を解放できる弛緩した時間を捨てきることもできない。そしてそのような弛緩した時間は、プロフェッショナルとして最適化された動きをできる者こそが、かえって効率的に見つけていくことができるということを、『コードネーム U.N.C.L.E.』は示しているのだ。


 当然のことながら、このようなことは映画製作の現場においても当てはまることであるだろう。低予算の映画であれば、自分の好きなように製作できる……しかし、様々な利害が絡んだ大作映画ともなれば、そうもいくまい。商業的な一定の成功が要求される以上、好き勝手に定型から逸脱することもできず、特定のジャンルの枠組みの内部で要求されることを巧みに語りきることも求められる。
 だからこそ、そのような中で「本来なら自分のやりたいこと」を刻印するためには、目的の達成に向けて最適化された行動を取って周囲からのあらゆる要求に応えつつ、その隙間隙間に、自分が好きにできる時間をこじ開けて確保していかなければならない。……『コードネーム U.N.C.L.E.』という映画は、そのことに完全に成功したものであるように思えるのだ(そして、今にして思えば、『リヴォルヴァー』という映画は、そのようなことをやろうとして無惨に失敗した作品であったのかもしれない)。
 どれほど高度なスパイであっても、完全に自分の実存を殺しきり、任務の達成のためだけに従事する空っぽの存在にはなりきれない――しかし、殺しきれない自我の残余にどこで息をつかせるのかということは、うまくやれば自ら選ぶことも可能であるのだろう。







 

今後の読書計画

 来年以降、しばらくの期間に渡っての読書傾向の大きな流れについて検討していたので、大まかに整理してメモ代わりのエントリを立ててみる。


 最近個人的に考えていたのは、文学におけるモダニズムの問題をより広い文脈で捉え直していくことだ。これは以前にも書いたことだけれど、例えば、モダニズムの中枢にある「崇高」の問題は、英文学の文脈では、モダニズム以前にもゴシック・ロマンスにおいて展開されていた。ゴシック・ロマンスの文脈を引き継ぐ怪奇小説は、近代的な価値観の内部では低俗で一段劣るものとされるほかなかったんだけれども、しかし、そもそもその起源にはバイロン卿やらP・B・シェリーやらのようなイギリス・ロマン主義の中枢にあった人々が関わっていたのだし、なおかつそれをアメリカへ橋渡ししてその後のジャンル・フィクション、二十世紀のパルプ・フィクションへの流れを生み出したのはエドガー・アラン・ポウである。つまり、これらの人々はハイカルチャーの精髄と見なされたものと低俗の極みと見なされたものとにまたがって活動していたんだけれども、その二つの領域の相関関係は特に省みられることもなく分裂したままに捨て置かれているように思えるのだ。
 私自身は、ポウ以降の怪奇小説をあまりきちんと読んでこなかった……アーサー・マッケンやらアルジャーノン・ブラックウッドなんかでさえ、短篇をちょこちょこ読んでいる程度のものだった(とはいえ、さすがに、代表的な短篇を読んでいるだけでも彼らの重要性はわかるのだが)。どうも怪奇小説というジャンルそれ自体にそれほど興味が無かったからなんだけど、意識的にこのあたりをきちんと体系的に読み込んでいこうと思っている。
 で、いざ十九世紀以降の怪奇小説を読み進め始めてみてわかってきたことなのだが……私の考えでは、十九世紀においてモダニズムの先駆けとなっているような存在は、小説で言うとホフマンやポウやエミリ・ブロンテやドストエフスキーといったあたりの人々だ。なのだが、いざ同時代の怪奇小説と同じ問題意識の元で読み比べてみると、書かれている内容のみならず小説の技法面でも、かなり共通する部分があるのだ。
 例えばドストエフスキーの場合、『カラマーゾフの兄弟』においてイワン・カラマーゾフは悪魔と遭遇することになる。しかし、この悪魔は錯乱したイワンが見た幻想にすぎないのか、作中での水準では事実として起きていることなのかは、確定的な記述は存在しない。……というか、むしろ、両者のいずれであるのかが確定できないように注意深く構成されているように私には思えるのだが、専門のロシア文学者なんかでも、「錯乱状態のイワンは悪魔の幻想を見た」という風に単純なリアリズムの水準に平然と一元的に確定して要約してしまうのを目にする。……このようなドストエフスキーにおける「現実」と「幻想」の不確定な記述方法がホフマンの影響下にあること自体は明らかなのであるが、しかし、長い間まともな文学だとは見なされてこなかった怪奇小説の領域には、同様の記述法が同時代的に存在していたわけだ。……では、両者の相関関係はどうなっていたのか。
 そう考えてみると……ヘンリー・ジェイムズなんかにしても、モダニズムにおける「意識の流れ」の先触れとなるような精細極まりない心理描写をなした作家であると一般に見なされている。そして、そんなヘンリー・ジェイムズが怪奇小説をも執筆しているというのは、単に高度な純文学作家が手すさびでなした趣向にすぎない、もしくは、あくまでも生活のために時代の流行に乗って書き飛ばしたものでしかない、などとして片づけることのできないことなのではなかろうか。……むしろ、言語による通常の表現の枠組みを踏み越えた、恐怖をもたらす超常的・超越的な存在をそれでもなお言語で記述するためにはどうしたらよいのか――ということ自体が、まさにモダニズムの中枢にある問題そのものなのではないかと。ならば、ヘンリー・ジェイムズにしても、純文学作家としての側面と通俗作家としての側面をたまたま両方持っていたというような話なのではなくて、怪奇・幻想の記述法を突き詰めることまで含めてモダニズムの先触れたりえているのではないか?


 由良君美なんかは、イギリスのロマン主義、とりわけウィリアム・ブレイクなんかの理解に関して、神秘主義との関わり合いをきちんと検証しなければ正確な理解に到達しえないことを口を酸っぱくして強調していたけれども、それがどういうことなのか、私個人としては最近になってようやくわかってきたというところがある。例えばイギリスのみならずドイツのロマン主義を見ても、ノヴァーリスのいわゆる「魔術的観念論」なるものは、文字通りノヴァーリス自身の西洋魔術の研究が取り込まれているのだけれども、たいていの文学研究者はあまりそのあたりを真に受けているようには思えない。
 しかし、そもそもロマン主義とは、ヨーロッパ近代における理性と啓蒙が支配した合理的な世界観に対する反発として噴き出したものだ。そのような潮流において、ヨーロッパの歴史の中で異端として抑圧された価値観が参照されるというのは、よくよく考えてみればもっともな話である。……そして、もちろん魔術やらオカルトやらのような分野はインチキなものが大半なのだけれども、同時に、正統から外れた価値観であるゆえに抑圧され、そのようなカテゴリーの内部に一緒くたに放り込まれてしまったようなものも存在する。
 ヨーロッパの魔術やオカルトにどんな潮流があるのかを見ていくと、多くの方面に影響を与えているものとして、例えば古代ローマのネオプラトニズムがある。ネオプラトニズムの汎神論的・一元論的な志向は明らかにキリスト教の正統的な価値観とは異なるものだけれども、にもかかわらず完全に滅びきることなく後代の様々な領域に影響を与えてもいる。あるいは、ユダヤ教の理論がマイモニデスによって整備された際、神秘主義の類は正統から排除され、結果としてカバラと呼ばれることになった。そして、カバラ的な思考もまた多くの領域に伝わり、キリスト教の正統から外れた神秘主義の中にすら流れ込んでいたりもする。……そして、さらに時代が下って近代以降の世俗的なオカルトになると、ネオプラトニズムもカバラもキリスト教神秘主義も錬金術もごちゃごちゃになって一つの教義の中に放り込まれていたりもするわけだ。
 近代的な価値観への反発を含むロマン主義がそういう抑圧された潮流と結びつくのは自然なことでもあるし、文学者のような存在が結構なところまで深入りしてしまうのもまた、よくよく考えてみれば当然の話であるように思える。……なのだが、魔術や神秘思想に深入りした文学者が消しようもないほどに偉大な存在である場合にはとりあえずそういう側面は無視され(例えば、ゲーテの魔術への傾倒やフリーメーソンへの参加を特に重要なものとして声高に論じる文学研究者はあまりいない)、一方、むしろそれこそが主眼になっている、オカルト的な志向を前提とした怪奇小説なんかになると、そもそもジャンル自体が低俗なものとして文学的価値を認められないことにもなる。
 例えば、扇情的な怪奇小説の書き手として非難・軽蔑の対象となっていたというアルジャーノン・ブラックウッドなんかは、自身も黄金の夜明け団に入団して実践魔術に携わってもいる。……しかし、それと同時に、二十世紀を代表する詩人の一人でありノーベル文学賞も受賞しているW・B・イェイツもまた黄金の夜明け団の団員であり、それどころか幹部まで務めてるのよね。……つまり、ブラックウッドの怪奇小説とイェイツの詩作には、同じものが異なる形で表れているという部分も確実にあるにもかかわらず、異なるものとして分裂した受け取られ方をされるのが常態になっているわけだ。
 二十世紀で言えばパルプ・マガジンのような媒体は、低俗の極みとされ、実際、しょうもないクズが大量に集まってもいた――しかし、正統から排除されるしかない異端に属するものがそういう場にしか存在できず、結果としてクズの山の中から後代に再発見されるようなことも、たびたび起きているわけだ(……こういうようなことは文学史上しょっちゅう起きてきたわけなので、今さら「ラノベは文学か」とか言い出しちゃうほどに文学史を知らん人々がよりにもよって文学の代表ヅラしてるのを見かけると、頭が痛くなってくるのであった。……まあ、もちろん、そんなのをまともに批判できない方にも、同様に文学史の知識がないということなんだけどね……)。


 ……と、今年の初め頃にはそんなことを考えつつ、それに沿った体系的読書をしていこうとしていたのだけれども、ふと思いついたことがある。――アラン・ムーアの新作『プロヴィデンス』って、まさにこういうことをテーマにした作品になるんじゃないか?
 1920年代頃のヨーロッパにおいて近代的価値観への反発・再検討が一挙に噴き出したものがモダニズムの潮流だとすると、これと同時代的に代表作を書いていたのがラヴクラフトだ。ラヴクラフトの小説は、エドガー・アラン・ポウの大きな影響下にある――そして、イギリスのロマン主義とゴシック・ロマンスの双方の影響を受けたポウは、フランス象徴派を介してモダニズムの源流になったのと同時に、ラヴクラフトが活動したようなアメリカのパルプ・マガジンで栄えた種々の低俗なジャンル・フィクションの祖でもある。……このような、ポウの影響下にある異なる潮流を分裂したものとしてではなく、同じものの異なる側面の発現として包括的に捉えることこそが試みられているのではないか、と。
 で、いざ『プロヴィデンス』の連載が始まって序盤のあたりを読んでいると、まさにそのようなことが展開されているのであった。
 まず私の目を引いたのが、ポウの創作態度が、カバラの中のある種の傾向と重なるものがあると指摘されているところだった。これはつまり、ポウの立ち位置が、ヨーロッパの支配的な価値観において抑圧され排除された側の思考に入る、ということであろう。
 あるいは、ラヴクラフトのクトゥルー神話が実際に存在している作中世界において超常現象に遭遇した人物は、自分は夢を見ていただけだと結論づけるに至る。そして、作家志望のこの男は、自分が見た夢にストーリーの形式を与えて言語化することは不可能だろうが、ストーリーの水準ではなく言語そのものの操作によって作品化するならば、ガートルード・スタインやT・S・エリオットの詩のようなものになるのではないか、と考える。……これはもちろん、ストーリーの形式を与えたらラヴクラフトのクトゥルー神話になるということであろうし、それがモダニズムの詩作と同じ根を持つものとして捉えられているということだ。


 ……でも、『プロヴィデンス』にどういう内容が盛り込まれているのかを検討していると、実はこういうことって全て、今までのアラン・ムーアの活動でも一貫して追求されてきたことだということに気づく。
 例えば、ヨーロッパの歴史を通じて魔術がどのようなものであったのかということを考えるとき――正統から外れた異端であるゆえに抑圧され排除された魔術のような思考は、建前としては抹殺されるべきものであっても実は多くの者にとっては魅惑的でもあるゆえに、二十世紀においてならば、低俗で下品だとされる(しかし良識的な大人も隠れてこっそり読んでいたりする)パルプ・マガジンのような場で繁茂することになる……というのは、『プロメテア』において既に描かれていたことだ。
 もちろん、『スワンプシング』においてコミックにおけるホラーのあり方が追求されていたわけだし、アメコミ的にはオカルト探偵と言えばジョン・コンスタンティンだが、それもよくよく考えてみればオリジンはムーアの『スワンプシング』にある。……そして、オカルト探偵ものの元祖と言えばアルジャーノン・ブラックウッドであるわけだが、既に述べたようにブラックウッド自身も黄金の夜明け団で実践魔術に携わっていた。だから、改めて考えてみると、ブラックウッドを参照してジョン・コンスタンティンを創造したムーアが魔術師になったというのは、実はきちんとムーア自身の作家活動の中で一貫性のあることだったのだ(いきなり頭がおかしくなったのかとばかり思っていて、正直スマンかった)。
 ということは、神秘主義の発現を描いた『フロム・ヘル』がイギリスのロマン主義との兼ね合いにも触れ、ブレイクやイェイツが作中に登場するのも当然のことであったわけだ。代表作と見なされる『ウォッチメン』がむしろ独立性が強く単発で読めるものであるだけにかえってわかりづらくなっていたのかもしれないが、ムーア先生のこれまでの活動って、実は、ほぼ全部がきちんとつながっていたのね……。
 そして、以上のようなアラン・ムーアのこれまでの活動と密接に結びついたものとして今回の『プロヴィデンス』を捉えようとしてみれば、ヨーロッパ精神史(の裏街道)で脈々と受け継がれた魔術やオカルトの総体が、ヨーロッパからアメリカが分岐し現代化していく渦中に置いて一挙に噴き出した場所として、ラヴクラフトのクトゥルー神話を捉え直す……ということであろうか。……ムーア先生……アンタ、スゲーよ!
 ……ラヴクラフトのコズミック・ホラーこそが、真のアメリカン・サブライムであるということになるのだろうか?


 ……などというように、たまたま自分が興味を持って改めて勉強しようとしている分野と重なったこともあって、ようやく、アラン・ムーアの作家活動の全体像が見えてきた。
 もうだいぶ前のことだが、以前私は、ムーアの『フロム・ヘル』を「スピノザ的世界」という言葉で表現した。今になってわかったのは、そのこと自体は間違いではないけれども、より広いパースペクティヴで捉え直す必要があったということだ。
 元々私は、スピノザという哲学者の独自の思考方式がうまく飲み込めず、そもそもなぜそのような考え方をするのかということ自体が腑に落ちなかった。改めて考えてみると、ここには、正規の哲学教育の範疇で把握される哲学史の限界のようなものがあったように思える。……スピノザは、中世のスコラ哲学とは区別される近代哲学の祖と見なされるデカルトの後に連なる者であるとされるし、それも間違いではない――しかし一方で、ユダヤ人たるスピノザはユダヤ教の神秘主義に触れていることもまた事実なのである。このあたりはまあオカルトとすれすれのところであることもあり、正規の哲学史を生真面目に学んでいる限り、ほぼ触れられることはない。
 しかし、スピノザの独特の思考のスタイルに、ネオプラトニズム以降のヨーロッパにおいて抑圧された神秘主義も流れ込んでいるのならば、ヨーロッパの歴史の総体の中から神秘主義のあり方を汲み上げようとする『フロム・ヘル』という作品に、スピノザ的なものと類似した部分が出てくるのは、当然のことであったわけだ。


 ……で、そんなことを考えていて改めて思ったんだけど、今回の『プロヴィデンス』、きちんとムーアが参照している文脈を全部押さえた上で丁寧に正確な翻訳ができる人って、今の日本にはそもそも存在しないんじゃなかろうか?
 ラヴクラフト関連のことを、幻想小説・怪奇小説の歴史を全て踏まえた上で翻訳できる人ならいるんだろうけど、そういう人が、ネオプラトニズムや神秘主義なんかの展開の思想史上の問題をもきちんと理解し、なおかつヨーロッパ各国のロマン主義との関連といった文学史上の問題をも全て同時に踏まえているかというと……正直なところ、まず無理だろうなと。
 それ以前のそもそもの問題として、日本におけるジャンル・フィクションの愛好家って、ほとんどの場合その特定のジャンル内のことにしか興味を全く持たず、越境したり他ジャンルの価値観を持ち込まれたりすると罵詈雑言を浴びせかけて追い出しにかかるというのを、私も色んなところでさんざん見てきたからねえ……。
 以前にも書いたけど、ムーアの『ネオノミコン』にしても、ラヴクラフトに詳しい人にきちんと注釈をつけて邦訳して欲しいとか考えていた……のだけれど、出版の話が流れてかえってよかったのかもと最近では思っている。ラヴクラフトや怪奇小説以外の文脈をもムーアが参照しているのがわかると、「高尚で難解な文学やら哲学やらにおもねっている!」とかいう見当外れの非難が向けられることになるだろうしねえ。
 別に、高度に洗練されたハイカルチャーにしても、低俗で猥雑なパルプ・マガジンやコミック・ブックの世界にしても、相互に影響を与え合っているし明確な境界線などというものもないのだけれど、広い領域をカヴァーするだけの度量がない人々こそが、勝手に境界線を引いて分裂させてしまっているわけだ。……まあ、ハイカルチャーだけを認めて大衆文化をいっさい認めないエリート主義というのも問題だけれど、こと日本の場合、自分には理解できない高度な文学や芸術が存在しているだけで、お高くとまっただけで内容のないインテリ気取りのスノッブのものだ! などと、自分がその内実をまるで知らない対象に対して特に根拠もない罵詈雑言を浴びせかける、「反権威のオレスゲー」症候群に染まっているような輩の声の方が、はるかにでかいしねえ。そもそも日本ではハイカルチャーの圧力などというものはほぼ全くと言っていいほど存在しないのに、自分が中身も知らないハイカルチャーを勝手に権威に見立てた上で反権威ポジションを確保した上で暴れてみせるのは非常に楽チンなわけね。
 逆に言うと、無用な偏見を取り払って領域横断的に文化に接するならば、アメコミをきちんと理解するためには、ゲルショム・ショーレムのカバラ論なんかもきちんと勉強しないとダメ、ということになるわけだ。
 私のこのブログにしても、多岐に渡る話題を取り上げてはいるものの私の中では全部つながっているので、勝手に腑分けしてもらいたくはないものです。特に、今年アップしたエントリの、映画評を除くほぼ全てのものは、今年書いていた長い文章のためのノートであるので、一見するとバラバラでも、実は全部つながってるんですよ。


 ……そんなこんなで、泥縄式に色々な文献を読み進めることで、ムーア先生の『プロヴィデンス』にかろうじてついていっている今日この頃なのですが、これを読み進めることで、ようやくアラン・ムーアの作家活動の全体像がおぼろげに見えてきたわけだ。
 それで、改めて思ったんだが……既にムーアって、コミックなのになぜかヒューゴー賞を受賞したり、コミックなのになぜかブラム・ストーカー賞を受賞したり、コミックなのになぜか「TIME誌の選ぶ、二十世紀に英語で書かれた小説ベスト100」などというエラいものに選出されたりしてきたわけだけど……それでもなお、現時点でそう思われているよりも五十倍くらい偉い人なのではなかろうかと思った。
 ロマン主義を継承しつつもそれに対する反発をベースとするのがモダニズムであり、モダニズムを継承しつつもそれに対する反発をベースとするのがポストモダニズムであり、ポストモダニズムにおいてはロマン主義への回帰しての共振・再評価が含まれる――というようなことを考えると、イギリスのロマン主義に対する再評価・文学史の読み直しをしつつ現代の消費社会の状況をも踏まえる、という、二十世紀後半以降における「イギリスのポストモダニズム」というものは、その領域を問わず、アラン・ムーアとニール・ゲイマンの両名に代表されるのではないか……と思えてきたのだ。
 ……ということで、現在の自分が興味を持っている領域と、アラン・ムーアの『プロヴィデンス』で追求されているテーマがうまいこと重なっているので、このエントリで書いてきたような線に沿って体系的に学習を進めていきたいと考えている。来年にはムーアの大作小説『イェルサレム』も出ると言うけど、この作品にしても、おそらくはユダヤ文化の問題について触れつつ、ブレイクの同名の詩も参照しているんでしょうなあ。小説の内容についてムーア自身が語っている言葉を読んでいると、まるまる一章ぶんを使ってルチア・ジョイスに焦点を当ててその「意識の流れ」を書いた部分があるとか、「マジかよ!?」と愕然とするようなものになってるようだし。いやそれ、文学のモダニズムの総体を根本からひっくりかえそうとしてるってことだよね……。そんなん思いつく、あるいは、思いついてもやろうとするような蛮勇を持ってる人は、今の英語圏の文学者にはたぶん一人もいないわ……。文学の世界では現状ノーマークなんだろうけれど、これ、二十世紀後半以降くらいで最大の文学作品ということになっても全くおかしくないっスね……。
 私としても、『プロヴィデンス』と『イェルサレム』の両方を読み終えたら、本格的な長いアラン・ムーア論を書くつもりでいるんですが、公表する当ては全く微塵もないですなあ……。さすがにそれだけの労力を投下したものになると、ブログに無料で公開する気にもなれないですしねえ……。






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