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『ボルヘスの「神曲」講義』を読み返したのだが……

 少し前の『第三の警官』に関するエントリを書くためにベケットの「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」を読み返したのだけれど、その流れで、ついでと言ってはなんだが、『ボルヘスの「神曲」講義』をも読み返してみた。……のだが、これが、ちょっと驚くほどつまらなかったのである。
 もともと私にとってホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家がどのような存在であったのかというと……学生時代にその存在を初めて知ったころには夢中になって読み進めたのだが、時を経るごとに評価が下っていき……最近では、その著作を改めて手に取ることも少なくなっていたのであった。
 もっとも、ボルヘスを知った当初の時点から既に、ボルヘスに対する懐疑がなかったわけではない。……というのも、この人の場合、思想・哲学への言及を読んでいると、恐ろしく保守的な凡庸極まりないことを平気で述べていたりしたからだ。古典的で広く読まれたような哲学書であればあるほど、実に多種多様な読解が展開され、その書物の持つ意味の多様性・豊穣さが明らかにされる。しかしボルヘスという人は、その道の専門家であればもはや誰一人述べないような、古びて黴臭い、しかし専門外の通俗的な常識としては依然として通用してしまっているようなイメージと同様のものを、特に疑問も持たないままに口にしていたように見える。
 要するに、ボルヘスは非常にブッキッシュではあるものの、読解自体に独創性のあるような存在ではなく、単にディレッタントに過ぎないのではないか……という思いがあったのだ。そして、私のそのような疑いは、時を経て再読を重ねるとともに、ボルヘスが文学について論じた評論や、小説の実作の方面にまで広がっていったのだった。
 今回、ベケットの評論を改めて読み返したのだが、その鮮烈な印象は初読の時と比べても劣るところはなく、よくもまあ二十代前半でこんなもん書いたなあ、と感じさせられるものだった。一方、ボルヘスがダンテについて論じている書物は……長年に渡ってダンテを読み込んできたという高名な作家がその中年に至って書き記したとは思えないほど、凡庸で退屈なものであったのだ。


 さて、『ボルヘスの「神曲」講義』は、ボルヘスがダンテの『神曲』について論じた十の評論をまとめて、一つの書物の体裁とした著作である。ボルヘスは、『神曲』を多くの版で読み込んでいくとともに無数の研究や注釈にも目を通したらしく、この著作は、彼が多大な労力を注ぎ込んだ『神曲』の読解の集大成となっているのだろう。
 ダンテによって書かれた『神曲』は、地獄と煉獄と天国を巡っていくその遍歴を書きつづる過程で、三つの世界の構造を堅固な形で描き出すという、緊密な構造を持つ作品である。そしてボルヘスは、この書物の冒頭近くで、『神曲』を次のように評してみせる。


かつてあったもの、現にあるもの、これから存在するもの、過去の歴史、未来の歴史、私が昔持っていた品々、今後持つであろう品々、こういったもの一切が、この静止した迷宮のどこかでわれわれを待ち受けている……。私が空想してみたのは魔法の作品、ひとつの小宇宙でもあるような版画である。ダンテの長詩は、宇宙にまで舞台を広げたこの種の版画なのだ。しかしながら、思うに、彼の詩が無邪気に読めるならば(だが、そのような幸福はわれわれには禁じられている)、われわれが最初に気づくのは宇宙的な広がりではあるまいし、ましてや崇高さとか壮大さではないだろう。(『ボルヘスの「神曲」講義』、竹村文彦訳、p11~12、ルビは省略)


 これは、ボルヘスの読者にとってはいかにもなじみ深いような、華麗な比喩表現で描き出されたイメージであるようにも見える。……しかし一方で、『神曲』という作品の全体像に関してボルヘスが提示してみせるのは、冒頭近くでのこの部分だけのことであるのに過ぎないのだ。引用部に続く議論においては、ただひたすら、部分部分での細部の表現だけが問題とされ検討に付されることになる。
 もちろん、具体的な細部の検討こそが文学作品の読解において最も重要なことではある。しかし、無数の先行研究を逐一参照し、それぞれの解釈の妥当性に評価を与えながら展開されるボルヘス自身の読解には、斬新なものもなければ、『神曲』の見落とされていた価値が発見されるような閃きもない。
 これは、いったいどういうことなのだろうか。


 よくよく考えてみれば、上記の引用部分においてボルヘスが『神曲』に対してなしていたこととは、あくまでも一つのイメージを提示して見せたというだけのことなのであって、論理的な読解・解釈がなされていたわけではなかったことに気づく。
 そして……そこで提示されたイメージ、ボルヘスなりの『神曲』に対するヴィジョンを検討してみれば……そこに存在しているのは、過去・現在・未来の全てを内包した上で、既にいかなる角度からも完全に完成したものとしての「版画」なのであり、「静止した迷宮」とも称される「ひとつの小宇宙」である。言い換えれば、これは既に完成し動くことのない対象であるのだから、解釈によって内容が根本的に変動しかねない、というような意味での不確定性はあらかじめ排除されている……ということでもあるわけだ。
 つまり、そこでは対象となっているのはあくまでも静止した「版画」であるのだから、これを読み解いていく作業とは、既に固定されているものを拡大していくというだけの作業に過ぎず、対象に変容を迫るような読解ではありえないということになる。
 この書物に収録されている「スィーモルグと鷲」という評論は、そのような私の疑念を裏書きする内容を持っている。そこでは、『神曲』の天国篇のとある着想に先行するものとして、ファリード・ウッディーン・アッタールの詩が引かれているのだが、それは、次のような内容が語られるものだ。


 遠方の地の鳥の王スィーモルグが、中国のまん中に一枚の鮮やかな羽を落とす。昔からの秩序に嫌気がさしていた鳥たちは、王を探し出す決心をする。王の名前が、三十羽の鳥を意味することは知っており、どの宮殿がカーフという名の、大地を取り巻く環状の山脈にあることも心得ている。(中略)苦難によって清められた三十羽が、スィーモルグの山に舞い降りる。ついに王の姿を目の当たりにした彼らは、自分たちがスィーモルグであり、スィーモルグとは自分たちの一羽一羽で、また全員でもあることを悟る。スィーモルグのうちに三十羽の鳥がいて、おのおのの鳥にスィーモルグがいる。(プロティノスもまた『エンアネデス』Ⅴ・八・四で、同一性の原理の天国的な広がりを明言している。英知界にあっては、一切があらゆる場所にある。一個の物はどんな物でも、あらゆる物である。太陽はすべての星であり、個々の星はすべての星であり、また個々の星はすべての星で、かつ太陽である)。(同、p100~101)


 巨大な鳥の王の姿を探し求めたところで、それを構成するところの実体は、個々の鳥たちである。つまり、巨大な鳥の王の全体像は、その全体を構成する細部の鳥の姿と一致する。……逆に言えば、個別の要素を把握しさえすれば、それが拡大したものとして、容易にその全体像へと到達しうる。
 以上のようなフィクションが肯定的に語られているのであれば、ボルヘスにとっての『神曲』読解が、ただひたすら細部を拡大することに過ぎないのにも納得がいく。全体と個別とが一致した完璧な構造物にあっては、細部を語りさえすれば、全体を提示したのも同然であるからだ。……逆に言えば、ボルヘスが進める読解作業においては、細部の読みを徹底されることによって新たな解釈が浮上したり、それにともなって作品の全体像が変容されるようなことはそもそも存在しえない、ということになる。完璧な作品とは、既にして過去・現在・未来の全てを含む、「静止した」存在であるからだ。


 そのように考えてみれば、ボルヘスの言葉の端々から、おそろしく保守的な好みがただよってきたことも了解される。ボルヘスが肯定しているような作品像とは、全体として端正に均整がとれ調和が保たれている……という意味での、最も素朴な意味での「美」の感覚に過ぎないからだ。
 単にバランスが保たれているから美しい、などという素朴な美意識は、マニエリスムなりモダニズムなりの展開によって、粉々に叩き潰されたはずである。……そして実のところ、ボルヘスとは、既に否定されたはずの素朴な美意識に依っているような素人趣味を好む存在でしかなかった……というのが実態であると思うのだ。この文章の最初に引用した部分の、最後のあたりをもう一度引用してみよう。


しかしながら、思うに、彼の詩が無邪気に読めるならば(だが、そのような幸福はわれわれには禁じられている)、われわれが最初に気づくのは宇宙的な広がりではあるまいし、ましてや崇高さとか壮大さではないだろう。


 そう、ボルヘスには、「崇高さ」の感覚がわからなかったのだ。これは言い換えれば、「崇高」をその基盤に据えるモダニズムの問題系がまるでわかっていなかったことをも意味する。……ならば、ダンテの読解を、モダニズムにおいて現在進行形で存在している問題系へと直に接続してみせるベケットの豪腕などというものは、ボルヘスには望むべくもなかったのだ。
 だが……ならばなぜ、ボルヘスは、二十世紀における最大の作家の一人とまで目されるに至ったのだろうか?
 私の考えでは、その理由は、ボルヘスが注意深く短篇作家にとどまったことにある。……というのも、全体と個別とが同一のものとしてシームレスにつながってしまうようなボルヘス的な世界においては、長大な作品の細部の描写など、読むに耐えるものになるはずがないからだ。だからボルヘスは、およそ現実には存在しないかのように思える幻想的な世界を想定した上で、そのような世界の全体像を短い作品で描ききり、細部には一切立ち入らない……というやり方で小説を構築した。
 そこで書かれている内容には目も眩むような新規さがあり、なおかつ、その作中世界の奇妙なあり方の全体像が提示された上で、作品はすぐさま終わる。細部の描写が存在せず潔く作品が断ち切られているからこそ、読者は、語られていない部分にも果てしのない奥深さを備える巨大な作品に接したという印象を持つ。……だがその実態はと言えば、細部を「書かない」のではなくて、「書けない」のに過ぎまい。
 そして、短篇小説であるからこそ、作品を構成する文章に何の淀みもなく、ただするすると読みやすいという、ごく通俗的な意味での美文であることも、問題とはされない。二十世紀に至っては、ただ単に素朴に対象を記述するという意味での文章にとどまるような作家は、本来であれば「文学」の範疇に入るわけもないのにもかかわらず、だ。
 つまり……ホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家は、その作品の書かれた内容で読者を幻惑することによって、本来ならあまりにも前時代的に過ぎ、素朴な美意識の範疇から一歩も出ていないはずの素人趣味が、あたかも最先端のものであるかのように信じさせて流通させることに成功したのである。結果として、誰もが高度な達成であると信じている上に、読めば読んだでするすると読みやすく、また作者の大量の読書経験に裏打ちされた衒学趣味も明らかなため、批評家・研究者の類も諸手をあげて飛びつくに至ったわけだ。
 ボルヘスの作品が読みやすいのは、その見かけとは裏腹に、キレイに整ったものは美しい……という素朴で常識的な美意識に基づいているからだ。そして、そのような代物があたかも現代文学として成立するかのような体裁を整えたことによって、常識的な美意識の範疇に収まることなどできない、マニエリスムやモダニズムの問題など存在しないかのような空気を醸成し、そのような空気の内部で作品の制作が可能であるかのように思わせることに成功したわけだ。


 以上のようなことをどうして考えるに至ったのかというと……たまたま私は、最近になって、改めてポストモダン文学のことを考えて直していたからだ。
 「ポストモダン文学」という言葉自体は広く流通しているし、どういうタイプの作品のことを指し示しているのかもおおよそわかる。しかし一方で、ある作品が「ポストモダン文学」であると言える、その厳密な定義は今一つよくわからず、あいまいなままに言葉だけが流通しているように見える。
 もともと、文学・芸術におけるポストモダニズムについてはきちんとした議論もなされていた。モダニズムの問題系が既に成立しなくなったような後期資本主義下の状況において、モダニズムとの緊張関係を保持しつつその後にくるものを探る……というのがポストモダニズムであろう。一方で、後期資本主義下で成立するような、記号が記号だけで自律性を獲得し、幻想的な閉じた世界が形成されうる……もしくは、そのような世界観を可能にしうる消費社会の実態……などといった対象を単純に楽天的に肯定し褒め上げるという意味でのポストモダニズムも存在する。が、そういう安直な意味でのポストモダニズムは、単にダメなものだと、とっくの昔に否定されていたわけだ。
 例えば小説で言えばトマス・ピンチョンの作品に典型的に見られるように、モダニズムとの緊張関係を保持したままで展開されるという意味でのポストモダニズムは、ぐちゃぐちゃと混乱した記述を持ち、すっきりとわかりやすい見取り図を描けるはずもないようなものだ。……逆に言えば、モダニズムの問題系があたかも存在しないかのように(もしくは、既に解決済みのことであるかのように)振る舞うという虚偽のもとに、安易な意味でのポストモダニズムは成立する。
 そういう意味では、これはとっくの昔に話がついた問題であるはずなのだが……依然として、モダニズム抜きであるゆえに読みやすくソフトに仕上げられ、後期資本主義下の消費社会を肯定的に歌い上げてくれたり、メタフィクショナルに記号の戯れを演じて見せてくれたりするような、なんか洗練されているっぽい「ポストモダン文学」を喜んで絶賛してしまうような批評家・研究者の類もしぶとく残存しており、なかなか絶滅しない。……一方で、安直な意味でのポストモダニズムを批判することに執念を燃やし……まあそれ自体は別にいいのだが、なぜか、ポストモダニズムと呼ばれる領域の全体が否定されうるという謎の主張を展開する人々も後を絶たない(……だから、日本の文脈で言うと、そもそも「ポストモダン文学」などというものは存在したことがないので、批判すること自体が無意味なわけだ。……いや、厳密に言うと、唯一、無名時代に高橋源一郎が書きためており後に日の目を浴びることになった初期作品には、その可能性は胚胎していたかもしれない。しかし源一郎は、職業作家になれたとみるや、即座に、安易な意味でのポストモダン文学に遁走した――というのが、私の考えだ)。
 まあそれはともかく、細部の意味が存在しないがゆえにばっさりと省略することによって成立していたのが、ボルヘスの短篇小説なのであった。ボルヘス自身は聡明であったため、これを水増しして細部の無惨さを曝してしまうようなことはなかったのだが、ボルヘスの影響を受けた後続者たちは、喜んでこれを引き延ばし、存在意義のない細部が延々と続くという、ひたすらしょうもない「ポストモダン文学」が量産されることになったわけだ。
 今まで、私としては、そんな潮流の元祖であると言えるボルヘスだけは、読むに耐える範疇の小品に留めたという意味で免罪されるのでは……と、考えてきた。しかし、今回『ボルヘスの「神曲」講義』を読み直すことで、その考えが変わった。むしろ、ボルヘスの筆致が洗練されており隙がないものであるがゆえに、そもそもその作品がモダニズムの問題などあたかも存在しなかったかのような詐術を弄していること自体が隠されきってしまっているのだと、今となっては思えるからだ。


 しかし、改めて考えてみると……文学・芸術には最終的にはモダニズムしかない、しかし後期資本主義下の現在においてはモダニズムは成立しようがない、ではどうするか――といったことをねちねちねちねちと延々と言い続けているような私のような者こそが真のポストモダニストであるということになるのだろうか? ……などと考えてみてはみても、あまり自分から申告する気にはならないのであった……。











『シン・シティ:ア・デイム・トゥ・キル・フォー』の劇場用パンフレットが間違いだらけだったので逐一指摘してみました

 ということで、前回の続きです。
 『シン・シティ:ア・デイム・トゥ・キル・フォー』を見に行った際に劇場用パンフレットを購入したわけですが……映画の理解のために提供されているはずの情報が、恐ろしいまでに間違いだらけだったので、逐一指摘してみよう、というエントリです。
 問題の文章は、「ライター/翻訳家」という肩書きになっている光岡三ツ子という人が書いた、「F・ミラー:「シン・シティ」に至る道程」と題された文章です。……これはつまり、『シン・シティ』の原作コミックの作者たるフランク・ミラーの来歴を書いた文章なんですが……短いイントロダクションの後に、三つの小見出しがついた文章があるんですが……その三つの部分の三つが全部、致命的に間違いだらけなんですが……。
 ということで、一つずつ見ていきましょう。


アメコミは基本的に、脚本と画を別々の人が担当する分業システムだ。彼は最初、他の作家がストーリーを描いた(原文ママ)「スパイダーマン」などで画を担当し、それから「デアデビル」を任された。それ以前にミラーは日本の漫画、特に小池一夫原作/小島剛夕画の「子連れ狼」に大きな衝撃を受けて(日本語がわからないまま掲載誌を見ていたという)、劇画タッチの作風を取り込んでいた。それはデアデビルというキャラとよくマッチした。ニンジャの集団や、美しきくの一・エレクトラなどのキャラクターが現れて、オリエンタルで妖艶な匂いをまとったシリーズは一気に注目を集めた。ミラーを早々に天才と認めたマーベルは脚本と画の両方を任せたため、彼は自分の愛するノワール風の美的感覚やハードボイルドな語り口をいかんなく発揮し始めた。


 う~ん……この文章、ミラーが担当していた時期の「デアデヴィル」をきちんと読んだ上で書かれてるんですかねえ?
 確かに、初期のフランク・ミラーは、「デアデヴィル」誌のアーティスト(と言っても下書きのペンシルのみ)に就任しています。……で、しばらくアートのみを担当した後、当時担当編集だったデニス・オニールの判断もあり、ライティングとアートを兼任するようになった、という経緯があります。
 で、上の文章でおかしいのは、その前後関係なんですね。これは要するに、


 ミラー、劇画タッチの作風を導入
 → 作中にオリエンタルな要素が登場
 → マーヴル、ミラーを天才と認める
 → ライティングとアートを兼任に


 ……と、いうことでしょ?
 しかし、違うんですよ。……だって、ふつうに考えればわかると思うんですが、「デアデヴィル」誌のアーティストに就任した当時のミラーは、ライターのロジャー・マッケンジーが考えたストーリーから絵を起こしていただけですよ? それがなんで、ミラーの独自の判断で、オリエンタルな要素を作中に持ち込めるんですかね?
 「デアデヴィル」誌のストーリーをも自分で考えられるようになったミラーが、その最初の号で登場させたのが、そのためにオリジナルキャラとして用意したエレクトラだった。……で、それ以降というもの、ニンジャ集団のようなオリエンタルな要素が作中に登場するようになる――というのが正解です。
 今回、念のためミラーがアートのみを担当していた時期の「デアデヴィル」誌を改めて確認してみたのですが、やはり、オリエンタルな要素なんて皆無でした。
 ……あの~……、正直なところ、この文章書いてる人、自分が紹介しているはずの当の対象を読まないで書いてますよね?



 当時のアメコミには「コミックス・コード」と呼ばれる倫理規定があった。過度のホラーやバイオレンス、セックス描写を禁止し、長年コミックスの表現を制限していた悪名高い規定だったが、ノワールに慣れ親しみ、劇画やフランスのコミックスを研究したミラーにはなんの意味も感じられないものだっただろう。彼は意に介さず描き続け、最初は議論を呼んだものの、その人気が高まり続けたため、やがてはコードが譲歩する形になった。こうした経緯がきっかけで、その後コードは公的に緩和された。ミラーはバイオレンスやセックス描写でまず注目を集めたが、「シン・シティ」を見てもわかるように、その人気の本質はそうしたダークな描写だけではなく、リアリティとファンタジーの巧みな合成にあった。



 ……これもねえ……。上に引用した部分以上に、前後関係が根本的におかしいですね……。
 まず、コミックス・コードに関する説明が致命的におかしいですね。コミックス・コードに従わない内容であるゆえにその認可を受けないコミックブックが出版される……という出来事は、既に70年代に起きているんですが……。もちろん、コードの内容が改定されるということも、70年代に起きています。
 つまり、上の文章では、ミラーの作家活動が「きっかけ」となり、「その後」コードは緩和された……なんて書いてますが、そんなことは、そもそもミラーが業界入りする前の時点で既に起きていたことなんですね。
 しかし、おかしいのはそこだけではありません。「ミラーはバイオレンスやセックス描写でまず注目を集めた」……って、ホントですかあ? 初期の、マーヴルとDCで仕事をしていた頃のミラーって、過激な描写なんてほぼ全くと言っていいほどしていないと思うんですが……。
 暴力描写に関しては、『ウルヴァリン』とか『ローニン』なんかではそれなりにあったかとは思いますが、あの当時のアメコミ業界で「議論を呼」ぶような過激なものとはとうてい思えないんですが……。
 というか、それ以前の問題として、マーヴル・DC時代のミラーは、あからさまなセックス描写なんて全くやってないでしょ。例えば『イヤー・ワン』には売春行為の描写は出てきますが、直接的な描写は皆無で、ほのめかしにとどまるものでしかなかったわけですね。
 いったい何を根拠にして「最初は議論を呼んだ」とか書いているのか、ほんとにわからないんですが……。だいたいねえ、ミラーのコミックス・コードに関する見解が述べられた資料なんて、山ほど出ているわけじゃないですか。ミラーがこういったことに関して口をつぐんでいるのならともかく、本人がバンバンしゃべっていることに関して、「ミラーにはなんの意味も感じられないものだっただろう」……なーんて、推測形で書くのはなぜなんですかね?
 フランク・ミラーという人は、表現の自由に関する問題について精力的な活動をも展開し、コミック史の過去の出来事についても多くを述べています。……が、ミラーが活動を始めた時代は、既に、コミックス・コードとの衝突が問題になるような時期ではなかったわけです。
 しかし、ミラーが表現の自由の観点から衝突を起こしていない、というわけではありません。80年代末に至って、DCコミックスが、自社内で独自のレーティング・システムを採用することを検討していました。これに関して、フランク・ミラーとアラン・ムーアを含む一群のクリエイターが大揉めに揉める、ということがありました。結果として、これ以降、ミラーもムーアもDCコミックスで仕事をすることをやめました(その後ミラーは、2001年に『ダークナイト・ストライクス・アゲイン』でDCに復帰し、散発的にちょこちょことDCで仕事をするようになる。一方のムーアは、ことあるごとにDCをこきおろし続けて、現在に至る)。
 そして、そういう経緯を経た上でミラーがダークホース・コミックスで一切の規制なしに始めたオリジナル作品が『シン・シティ』であったため、この時点に至って、「ミラーが自主検閲的なものと一切関係なく完全に自由にコミックを描いたらここまで過激なものになるのか」というショックを呼び起こした、という順序だと思うのですが……。
 ていうか……そもそものこととしてですねえ、コミックス・コードが有名無実化してなかったら、DCコミックスが自社用の独自規定を検討するなんてこと自体がなかったのでは、と思うのですが……。


通常のアメコミは、現在でもそうだが、24~32ページほどの薄い中綴じ小冊子である。昔は雑誌スタンドが主な販売場所だったため、このスタイルが定着したという経緯がある。対してグラフィック・ノベルはボリュームを増やして背表紙をつけたスタイルの出版物だ。フランク・ミラーが敬愛する巨匠ウィル・アイズナー<フランク・ミラー監督『ザ・スピリット』(08)の原作者>はこのフォーマットをメインの舞台に据え、従来のコミックスのイメージをくつがえす文学的な作品を次々に発表した。ミラーはこれに深い啓示を受け、ストーリーにいっそうこだわるようになった。そして「デアデビル:マン・ウィズアウト・フィアー」、そして「バットマン:イヤーワン」「バットマン:ダークナイト」などのグラフィック・ノベルで、読者の驚きと賞賛を浴び続けた。その賞賛のこだまはコミック読者の枠を超え、世間に響き渡った。同時期に「ウォッチメン」のアラン・ムーアや「サンドマン」のニール・ゲイマンといった次世代の革新的作家たちが台頭したのと相まって、コミックスの文学性は次第に広く認められるようになっていった。


 ……あ、頭が痛くなってきた……。どこから間違いを指摘したらいいのか……。
 そうですねえ、まずは時系列からいきましょうか。ミラーの『マン・ウィズアウト・フィアー』は1993年の作品である上に、ミラーが担当したデアデヴィル関連の中では最底辺の部類に入る凡作なので、80年代に新しい潮流を生んだ作品の一つとして挙げるのは、どう考えてもおかしいですよねえ……。
 そして、ニール・ゲイマンの「サンドマン」の初期のあたりは明確にアラン・ムーアの影響下にあると思うんですが、それをいっしょくたにして「同時期」とか言っちゃっていいんでしょうか……。だいたい、80年代のアメコミにおけるイギリス勢の活躍は「ブリティッシュ・インヴェイジョン」なんて呼ばれるわけですが、ムーアより少し遅れてゲイマンなんかが登場してきた現象を指して、わざわざ、ブリティッシュ・インヴェイジョンの「セカンドウェーヴ」などと呼ぶ場合もある(これも音楽の方の「ブリティッシュ・インヴェイジョン」に倣った言葉のようですが)くらいなのに、「同時期」なんですかねえ……。
 つまり、「ミラーやムーアが新しい潮流を生む」→「それに呼応して、ゲイマンのような次世代のクリエイターも登場する」→「それら全てが一段落ついた後で、ミラーが『マン・ウィズアウト・フィアー』を発表」……という出来事が、十年くらいのスパンで起きているんですが……。
 しかしまあ、これは主観的判断の範疇に入るのかもしれません。ものすご~く巨視的な視線で見るならば、十年くらいの内に起きた出来事は、「同時期」と言っても間違いではない! と、いうことに、なるのかなあ……(でもそうすると、例えば日清戦争と日露戦争も「同時期」だし、太平洋戦争と朝鮮戦争なんかも「同時期」だ、ということになるのか……)。
 という風に無理矢理納得してみても、更に、根本的に間違っていることがあるのですよ。……それは、「グラフィック・ノベル」に関することです。
 一応断っておきますと、グラフィック・ノヴルという用語自体は、非常に曖昧な言葉です。それは、従来のコミックブックから内容面で一線を画したものとして使われることもあれば、上の文章にあるように、単に出版上のフォーマットの一つとして使われることもあります。その意味で、使い方を明示しているわけですから、この用語の使い方自体は間違っていません。
 しかしですねえ……『マン・ウィズアウト・フィアー』も『イヤー・ワン』も『ダークナイト』も、三作が三作とも、ハードカヴァーの描き下ろし長篇という意味での「グラフィック・ノベル」じゃないんですよ!
 まあ、『ダークナイト』に関しては、「プレスティージ・フォーマット」という豪華な作りで四分冊で刊行された特殊なコミックですから、なんとかギリギリ、こういう文脈で言及されるのもわからなくはないのですが……一方で、『イヤー・ワン』は「バットマン」誌の404~407号で連載されたものですし、『マン・ウィズアウト・フィアー』は、同名で全5冊で刊行された限定シリーズです。つまり、どちらも、この筆者自身が言うところの「通常のアメコミ」なんですが……。


 ……ということで、全体で2500字程度の短い文章のおかしいところを指摘するために、全体の半分以上を引用してしまいました。もちろんこれは、必然性のあることです。……というのも、筆者の誤解が文章の作る文脈全体に及んでしまっているので、長めに引用しないと、筆者の言おうとしていることが文脈全体として根本的におかしいことが指摘できないからです。
 というかですよ、素朴な疑問として、仮にもアメリカン・コミックスに興味があり、識者であるというスタンスでプロとしての対価を受け取った上で原稿を書くような立場にいるのにもかかわらず、フランク・ミラーのようなビッグネームがどのころの時代にはどんな作品を描いていたとか、代表作の初出のフォーマットはなんであっただとか、暗記してないんでしょうか……。
 そもそも覚えていないことがおかしいと思うのですが、それ以前の問題として、あやふやにしか覚えていないことなのに、原稿書く前に調べないんですかねえ……?
 結局、もともと断片的であやふやな知識しかない人が、最低限の資料を調べる手間すら省略して原稿を書いてしまうため、情報が抜け落ちている部分は何の根拠もない主観的な推測で文脈を捏造してしまうから、一見すると辻褄が合っているかのように見えるが、その実、根っこの部分からデタラメ……というような原稿が仕上がってしまう、ということなんでしょうか。


 実は、今回このような文章を書くことになったのは、以前から、少し思うところがあったからなのですね。それは何かというと、この光岡三ツ子という筆者もしばしば寄稿している、映画秘宝という雑誌がしばしば実施しているアメコミ特集です。以前から、書店で見かけるたびに一応手に取り、中をぱらぱらとめくってみては、ちょろっと読んだだけで「あれも違う……これも違う……これも間違い……これもデタラメ……」などという感じになり、そっと雑誌を棚に戻す……ということをたびたび繰り返してきました。
 たぶんあの雑誌でアメコミに関して書いているライターで、自分が書いている対象についてまともな知識を持った上できちんと調べて書いているのって、てらさわホークさんくらいのことで、それ以外のライターが書いている記事は、ほとんどの場合誤りを含んでいると思います。しかしまあ、間違いを見つけたから買わない……ということを繰り返してきたので、私個人が誤りを指摘するようなことも特にしてこなかったわけです。
 しかし今回、パンフレットを買ったら中にこんな酷い文章が掲載されていたため、不本意ながら金を出してしまったということで、どこがおかしいのかを逐一指摘してみた次第であります。


 この際ついでに書いておくと、「事実誤認に基づく間違った情報を広めること」よりさらに酷いことがあるわけです(いやもちろん、プロとして原稿書いといて、間違ってたらダメなわけですが)。それは何かというと、「自分がろくに知りもしないものについて偏見を垂れ流し、踏みにじること」です。
 というのもですね……実は私、少し前に、見つけてしまったんですよ。この映画秘法という雑誌の、アメリカでドラマ版フラッシュが始まるということを紹介してある記事で、主人公であるところのバリー・アレンが、正直垢抜けてはいない衣装を着ている写真があったんですが……そこについてるキャプションに、「これなら僕でも勝てそう」とか書いてあったのを……。
 ……ハァ~~~~ッ!? バリーに勝てる、だと……!? するとアレか、キャプションの文章だから誰が書いたのかわからんけれども、少なくとも映画秘宝の関係者の中には、本気を出したら光速を突破して運動したり、コズミック・トレッドミルで自由自在にタイムトラヴェルをしたり、全身を超高速で振動させてパラレルワールドに転移したり、多元宇宙の内いくつもの宇宙を丸ごと壊滅させた反物質宇宙の怪物ことアンチ・モニターの反物質砲を破壊して宇宙の危機を救うくらい余裕でできるような者がいるってことなんだな!?
 ……まあそれはともかく、バリー・アレンを小馬鹿にする、あまつさえ、あたかもそれが面白いことであるかのように振る舞えるような輩が、プロとしてアメコミを紹介してま~す、などというスタンスを取ってるとか、マジでふざけんな!
 いいですか!? 二代目フラッシュことバリー・アレンは、一度は壊滅したヒーローコミックが復活する先駆けとなったキャラクターなんですよ!? バリーの登場とともにヒーローコミックのシルヴァーエイジが始まったからこそ、その流れに追随する形で、ファンタスティック・フォーやスパイダーマンやアヴェンジャーズが登場することも可能になったんですよ!?
 だからこそ、現在DCコミックスのチーフ・クリエイティヴ・オフィサーを務めているところのジェフ・ジョンズは、二十年以上ぶりにバリーが復活することになった企画『フラッシュ:リバース』の設定資料の冒頭において、次のように書き始めているわけですよ。


 Barry Allen's first appearance in SHOWCASE #4 was the original "rebirth" of the DC Universe. Barry Allen ushered in the Silver Age. His success arguably saved super-heroes.
 「ショーケース」4号でのバリー・アレンの初登場が、DCユニヴァースにおけるオリジナルの「リバース(再生)」だ。バリー・アレンは、シルヴァーエイジの先駆けとなった。疑いなく、彼の成功こそが、スーパーヒーローたちを救ったのだ。



 な、なんていいことを言うんだ……そして、まさにこのジェフが全面的に関わることになったフラッシュのドラマを、内容を見る前から、ぱっと見の見た目だけで馬鹿にするとは……謝れ! 『宇宙人ポール』の冒頭において、生まれて初めてアメリカに上陸しコミコンに参加するという人生最良の日に、わざわざバリー・アレンのTシャツを着て出かけていったサイモン・ペグに謝れ! ……それからあれだ、信じられないほど最高の映画であるところの『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』において、詐欺と逃亡を繰り返す主人公に、偽名として「バリー・アレン」と名乗らせ、最終的に、主人公が本当の意味でバリー・アレンになるまでを描ききったスピルバーグにも謝れ~ッ!
 ……えーと、少し取り乱してしまいましたが……要はですな、アメリカン・コミックスの歴史におけるバリー・アレンの重要性をわかっていないという時点で論外であるわけですが、それのみならず、必要最低限の知識が欠けている自分に居直って、自分がろくに知りもしないバリー・アレンを馬鹿にする……そして、そんなことを平然とできるような者が、プロとしてアメコミの紹介者であるという立場を取っている、と。……おかしいと思わないの?
 結局、アメコミがどんな歴史を持ったどんな分野なのかを誠実に理解するような気なんかさらさらなくて、自分たちがその場のノリで面白がれるようなものだけを切り取ってる、ということですか。アメコミの中でどれほど大切にされリスペクトされているものであろうが、ノリで小馬鹿にできるというわけですか。……とまあ、冷静に書いたつもりではいますが、要は私自身、「バリーなめてんじゃねえ!」というプリミティヴな怒りのみに突き動かされておるわけですな。
 ……ということで、最後にもう一度だけ、言わせていただいてよろしいでしょうか。


 …………


 …………


 バリーなめてんじゃねえ~ッ!!!






 ……なんてことを言っていたその折に、ちょうど、ダーウィン・クックの『ニュー・フロンティア』の邦訳が出てるんですねえ(まだ上巻だけみたいですが)。これは、DCコミックスのシルヴァーエイジの展開を、アメリカの現実の情勢と絡み合わせて語り直すというコンセプトの名作です。
 あまり邦訳に恵まれていないフラッシュですが、これに出てくるバリーは最高! それから、火星人なのにひょんなことから地球に来てしまい、アメリカ文化に適応しようとするマーシャン・マンハンターさんの姿にもほのぼのとします。……やがて、ようやくささやかな安らぎを見出したマーシャン・マンハンターさんに、忍び寄る闇があり……平穏に暮らしていたところを恐怖のどん底に突き落とす、バットマンの鬼畜っぷりも楽しめます!




 付記 後日、このエントリを読み直していたら少し気になる部分があったので、補足をば。フランク・ミラーが活動を始めたころにはもはやコミックス・コードのことはあまり問題になっていなかった――などと書きましたが、すいません、「デアデヴィル」誌で薬物に関する描写をしたらコミックス・コードの認定を受けられなかった件があったりしたのを忘れていました(とはいえ、その脚本は却下されたのち、コミックス・コードに合わせて改定されてから後日再利用されていたりするので、批判している先の文章は更におかしいというだけの話なんですが)。コミックス・コードが緩和されだいぶ自由な描写が可能になった後も、こういうことはちょこちょこ起きてはいるわけですね。んで、当時のミラーのインタヴューを確認してみたところ、当時のミラーは、メジャーな会社である程度こういう規制があることに関しては仕方の無いこととして、あまり批判的ではないということが以外でした。……結局、コミックス・コードの影響力が徐々に衰えていく一方で、DCコミックスが独自にレーティングシステムを導入しようとしていたような時期の、コミックス・コードとレーティング・システムの相関関係に関する自分の認識が甘いと思いましたので、もうちょい調べなおしていこうと思います。雑誌流通のためにあったのがコミックス・コードで、ダイレクト・マーケットのための要請で検討されていたのがレーティング・システムなので、70年代~80年代のコミック・ブック業界の産業構造の変化と連動していることなんですよね。単に「変化した」というだけでなく、移行期に起きていた軋轢を細かく見る必要がある、と。







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