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3Dで白黒映画を撮ること――『シン・シティ:ア・デイム・トゥ・キル・フォー』

 フランク・ミラーとロバート・ロドリゲスの共同監督による映画『シン・シティ:ア・デイム・トゥ・キル・フォー』を見てきた(一応、邦題は『シン・シティ 復讐の女神』となっているのですが……もの凄くかっこわるい上に、今回は脇役に過ぎないジェシカ・アルバをフィーチャーしたタイトルになっていてムカついたので無視することにします。……しっかし、元々のタイトルがジム・トンプスンとかのノワールっぽい雰囲気を狙ってつけられているのだから、邦題でもそれを活かそうとする気はないのだろうか……あるわけねえか……)。
 ……それで、まあ、内容は面白かったんですが……内容を云々する以前のこととして、今回の上映の扱いは酷いことになってますなあ……。私の場合、最寄りのシネコンで公開二週目には既に一日一回の上映になっていたのでこれはヤバいぞと思っていたら、その週末には既に上映終了……。というわけで、致し方なく遠出して見てきたのであります。


 さて、肝心の内容の方ではありますが……正直なところ、見る前の段階では、それほど期待してもおりませんでした。と言うのも、もともと『シン・シティ』というのは、フランク・ミラーによるオリジナルの同名コミックを原作に忠実に映画化した作品であったわけです。そして、シリーズの中でも、主に「ハード・グッドバイ」「ビッグ・ファット・キル」「ザット・イエロー・バスタード」の三作からピックアップして、オムニバス的に製作されていました。
 フランク・ミラーという人は、若い頃からフィルム・ノワールや犯罪小説を愛好していた人です。そういう人が、アメコミの世界では比較的珍しい白黒でコミックを描くことで、線を描くというよりは光と闇のコントラストでコマを作ることで、いかにも典型的なノワールの世界が構築されていました。その際、歴史的時期が特定されるよな要素は抜き取られ、またノワール的な視覚的要素がつぎはぎされることで、ノワールの世界そのもののカリカチュアとなっているような、非・歴史的にして無時間的な都市空間が築かれることになったわけです。
 そんな都市空間を描いたコミックを、可能な限り原作コミックに忠実に再現したのが、前作の『シン・シティ』でした。そして、これはかなり高い水準で成功している……ということだったわけですから、私としては、「じゃあ、もうここに付け足す新規な要素はないじゃん……」と考えていたんですね。
 実際、今回の『デイム・トゥ・キル・フォー』の中核を占める同名のエピソード「デイム・トゥ・キル・フォー」は、シリーズ第一作の「ハード・グッドバイ」の直後、「ビッグ・ファット・キル」や「ザット・イエロー・バスタード」よりも以前の段階で発表されています。つまり、原作に忠実な映画化をしている限り、新たな要素が付け加えられて進化していくようなことは、ありえないわけです。
 さらに、今回は3D作品になっているということが、私の不安を加速化させました。光と闇だけで構築された平面的なコミックの世界を忠実に再現するというコンセプトの映画だったはずなのに、3Dにしてどうするんだ……としか思えなかったわけです。


 ところが、です。いざ実際に見てみると、今回の『デイム・トゥ・キル・フォー』は、まさに3Dで製作することにこそ意味がある作品になっていたのです。……というのも、前作の『シン・シティ』は、既に述べたように、実写で撮られた画面を平面へと近づけるという試みでした。一方で、『デイム・トゥ・キル・フォー』は、平面によるコミックの世界と、実写による立体の世界とを、シームレスに往復する……その二つの世界の間隙を埋め合わせ、自由自在に行ったり来たりすることを可能にするために、3Dの効果が使われていたのです。
 3Dにこういう使い方があったのか――と感心するという意味では、一見の価値がある映画である、と言えるでしょう。……しかし、実はこの映画の場合、3Dの効果が目を引くような凄い画面が現れるのって、冒頭あたりのごく短い場面に限られてるんですよね……。
 例えば、ミラーにとって重要な参照先の一つであるだろうムルナウがハリウッド時代に撮り上げた『サンライズ』なんかにしても、サイレント時代にもかかわらず凄い合成画面を作中に含んでいます。あるいはフィルム・ノワールで言うと、オースン・ウェルズの『上海から来た女』のミラーハウスの場面なんかも凄い。……しかし、それらの映画にしても、当時の技術でこんなことができたのかと思わせるような場面は、作品全体の中でもほんの一部に限られてしまっていたわけです。
 一方で、スピルバーグの『タンタン』なんかは、その全篇に渡って実験的な画面を維持し続けていたわけで……まあ、身も蓋もないことを言ってしまえば、結局は資金力の差なんでしょうなあ……。


 ……というわけで、『デイム・トゥ・キル・フォー』は、3Dの効果が特に意味を持っていない部分に関しては、前作とあまり変わりのないものになってしまっています。とはいえ、作品の中枢を占める「デイム・トゥ・キル・フォー」はさすがに元のコミックがよくできているということもあり、それこそ、フィルム・ノワールの名作たる『サンセット大通り』や『深夜の告白』なんかとも比肩しうる出来映えなんじゃないかと。
 ……しかし、今回の映画化に関してミラー本人が新たに書き起こした「ナンシーズ・ラスト・ダンス」は……正直……なくてよかった……。
 ……その~、『シン・シティ』のシリーズ全体の中でも最高傑作の呼び声が高いのが、前作の元ネタの一つとなった「ザット・イエロー・バスタード」であるわけですが……あれが面白かったのって、『ダーティハリー5』に納得がいかなかったミラーが、ダーティハリーの最終回を勝手に作ってしまったからなのであって……そのさらに後日談を付け足すというのは、完全に蛇足に過ぎないと言うか……。
 それでもとりあえず見ていられるのは、ブルース・ウィリスが出てるな~と思ったら、まさかの『シックス・センス』オマージュが展開されること、それから、前作ではチョイ役に過ぎなかったパワーズ・ブースが演じるロアーク上院議員の悪役としての存在感……などのような要素に助けられたことが大きいんじゃないかと。正直なところ、そういった要素を抜き取って比較してみると、既に衰え始めていたとはいえミラーが全盛期のエネルギーをまだまだ保ってはいた頃に描かれた「デイム・トゥ・キル・フォー」と、「現在のミラー」による「ナンシーズ・ラスト・ダンス」では、その落差が酷すぎるなあ、という印象ばかりが残ってしまうのでありました。


 ……とまあ、そんな感じで、不満が残るところもありつつも全体としては楽しめた映画であったのですが、話はここで終わりませんでした。……というのも、劇場でパンフレットを購入したわけですよ。それで、いざ買ってから、そういや前作のパンフレットも間違いだらけの文章が平然と掲載された酷いものだったなあ……などと思い出してしまったわけです。そう思いつつパンフレットをぱらぱらめくってから執筆者を目にすることになって、あちゃ~……と思ったわけですが、いざ文章を読んでみると、頭を抱えることになりました。
 これはさすがに酷いと思ったので、パンフレットに載ってた文章のどこがどう間違っているのかを、エントリを改めて書いてみたいと思います。








読むことの地獄――フラン・オブライエン『第三の警官』

 アイルランドの小説家であるフラン・オブライエンの手になる作品は、極めて奇妙なものである。とりわけ、彼の長篇第二作でありしばしば最高傑作とも評される『第三の警官』は……なんというか、常軌を逸している。
 例えば、主人公でもある名前のない話者が警察を訪れた際、そこで初対面の警官と交わす会話は、以下のようなものだ。


 「こちらに伺ったのはぼくのアメリカ製金時計について正式の盗難届を出すためなのです」
 彼は激しい驚愕と疑惑の念を満身に漲らせてぼくを見すえました。眉は殆んど髪の生え際まで引き上げられています。
 「こいつは驚くべき申し立てだ」やっとのことで彼は言いました。
 「なぜでしょうか?」
 「けっこう自転車が盗めるというのに時計なんぞに目をつける奴がいるものだろうか?」
 冷静ニシテ仮借ナキ彼ノ論理ニ耳傾ケヨ。
 「さあぼくにはとんと分かりかねますが」
 「時計に乗って外出し、泥炭袋を時計に載せてわが家に運びこむ男の話なぞいまだかつて聞いたこともない」
 「犯人はぼくの時計に乗るのが狙いで盗んだわけではありますまい」とぼくは噛んで含めるように言いました。「彼が自分の自転車を持っていたのはまず間違いのないところです。だからこそ深夜ひそかに姿をくらませたのです」
 「健全な精神を持ち合わせていながら自転車以外のものの盗みを働く者がいるなんてことは生まれてこのかた聞いたためしがない」と巡査部長が言いました。「――もっとも空気ポンプ、ズボンの裾留め、ランプといったものなら話は別だが。あんたはまさかこのわたしに向かって世の中が変りつつあると言ううもりではないんだろうね」
 「ぼくが申し上げているのはただ一つ、ぼくの時計が盗まれたということだけです」ぼくは仏頂面で言いました。(『第三の警官』、白水Uブックス版、大澤正佳訳、p99~100、割注は省略)



 いかにもかみ合わない、ただすれ違いだけがひたすら続く会話である。このかみ合わなさが、何ともいえないおかしみを醸し出している……のではあるが、ただ単におかしいというだけではなく、どことなくすわりの悪いような気にさせられもする。
 ここで登場する二人の人物の会話は、かみ合ってはいない。しかし、かみ合ってはいないのだが、一応は、会話としての体裁を保ったままにつつがなく進行してはいる。だが……改めて考えてみれば、両者が発するそれぞれの言葉が、全く同一のものとして双方に正確に認識されている保証はどこにもない。
 話者と警官の両者は、例えば、「自転車」という単語を当たり前のようにやり取りしている。しかし、両者が「自転車」という言葉が指示する内容として想定するものは、全くの別物であるのかもしれない。……そして、そうであるにもかかわらず、とりあえずは通じたものとして、会話は進行してしまうのである。
 だが、よくよく考えてみれば――我々が日常生活の中でやり取りする会話の中にも、この話者と警官のそれほど異常なものでなくとも、これと似たような局面はしばしばあるはずだ。自分が伝えたかった内容とは違うことを、相手が自分の言葉から汲み取ってしまっている……その意味で、自分の言葉と相手の言葉とは乖離してしまっているのにもかかわらず、とりあえず話は通じ会話が成立したことになってしまう。
 言葉がまともに通じなかったとき、人は、言葉を扱うことの困難さを実感する。しかし一方で、言葉とはひとたび発されるやいなや社会のネットワークの中に投げ出されてしまうものなのだから、「通じていない」のにもかかわらず「通じた」ことになってしまうような局面もある。そのような局面における、またタイプの異なる困難さは、会話の渦の中で見失われ忘却されてしまう方がふつうだろう。
 フラン・オブライエンという小説家は、言語のそのような局面を取り上げ、そこにある異常性が誰の目にも明らかなまでに、言葉を肥大化させ奇形化させる。そして、恐るべきことに、そのような言葉の巨大な集積として、異様な長篇小説を構成してみせるのだ。


 フラン・オブライエンは、1911年にアイルランドに生まれた。長じてから、ジェイムズ・ジョイスと同じくダブリンのユニヴァーシティ・カレッジを卒業することになった。そして1939年、最初の長篇である『スウィム・トゥー・バーズにて』を出版した――しかし、この奇妙な小説は全くと言っていいほど売れなかった。結果として、1940年の時点で書き上がっていた第二の長篇『第三の警官』の出版はどの出版社からも拒否されることになり……オブライエンの死後の1967年になって、ようやく日の目を見るに至ったという。
 さて、その『第三の警官』であるが……既に述べたように、これは非常に奇妙な小説である。例えば、主人公でもある話者は名前を持たないのだが……しばらく小説を読み進めると、これは、「話者の名前が不明であり読者に伝えられることはない」という比較的ありがちな設定ではなく、そもそも話者自身が自分の名前をどうしても思い出せずにいることが明らかになる(その一方で、話者と会話を繰り広げる話者自身の自我、その内面の声には、なぜか「ジョー」という名前がついている……)。
 この名前のない話者は、若い頃から、ド・セルビィなる人物の著作を読み込むことに熱中している。とはいえ、このド・セルビィなる人物は、ほとんど常識レヴェルの科学的知見にすら異を唱え、珍妙な理論を提唱し続けているような人物であり、学術的な信憑性は全くないらしい。そのため、話者によるド・セルビィ研究もまた独学にとどまるのではあるが……話者は、何もしなくても生活できるだけの遺産を得たため、その管理・運用を他人に任せた上で、ひたすらド・セルビィ研究にのめりこむことになる。
 そうしてしばらくの歳月が過ぎたのち、話者は、自分の入念なド・セルビィ研究の出版を望むようになる。そして、その出版費用を捻出するために、殺人事件に巻き込まれることになる……。


 この『第三の警官』という小説は、冒頭近くに関して言えば、以上のように要約できるような、ある程度は整理された記述を持つ。しかし、これより先に進むにつれて、記述は錯綜し、混乱の度合いを強めることになる。
 そこには、二つの要因がある。まずは、話者によるド・セルビィ研究の成果が、かなりの分量で挿入されるようになるということ。その上、他のド・セルビィの研究者やら注釈者やらへの引用や言及が、数多くの脚注とともに作中に盛り込まれることになる。
 一方、話者が経験することになる物事や出会うことになる人々の言動が、そろいもそろって不可解なものばかりであるようになるのである。……この両者の記述が絡み合うことになった結果、作品の記述は、脱線というか、そもそもどこに本線がありどこに向かっているのかすらよくわからないものとして積み上げられることになるのである。
 では、作中で多くの分量を占めるド・セルビィ研究とは、どのようなものなのだろうか。話者は、例えば次のように語る。


 ド・セルビィが公にした数多くの衝撃的見解の中でも、「旅とは幻覚なり」という主張ほど秀逸なものは他に例をみない。(中略)ド・セルビィの定義によれば、人間存在は「それぞれ無限の短時間裡に存在する静的経験の累積」である。彼がこの着想を得たのは、おそらく彼の甥の所有にかかると推定される古い映画フィルムを綿密に調査した結果であるとされている。右の定義を前提として、彼はいかなる形にもせよ人生における継続あるいは連続の概念の真実性を過小評価し、一般に認められている意味での時の経過を否定し、たとえばある地点から別の地点へ移動する場合とか、あるいは単に「生きゆく」過程において何びとにもせよごく普通に味わう連続的進展感覚は幻覚に由来すると喝破している。(『第三の警官』、p81)


 あるいは、地球の形状は球状ではなくソーセージ状であると主張するド・セルビィの議論は、次のようなものだ。


 自明のこととして球体と見なされている地球上の一点に立つとき人は移動可能な四つの主方位を与えられているように思える、と彼は述べる。すなわち、北、南、東そして西である。しかし大して考えるまでもなく明らかなように、実際には二つの方位があるだけのようである。なぜなら北と南は回転長円体に関しては無意味な用語にすぎず、内包的には単一方向の運動を意味しうるからである。西と東についても同断である。北・南帯上の任意の地点に到達するには北・南のうちいずれか一つの方角に移動すればよいのである。この二つのうちどちらかの道筋をとるかによって生ずる唯一の相違点は時間および距離という偶有的な問題であって、既述のようにこの両者は錯覚に基づく現象にすぎない。したがって北・南で一つの方位をなすのであり、そして言うまでもなくもう一つの方位は東・西である。実際に存在するのは四方位ではなくて二つの方位だけなのである。ここで次の推論が成立するとして差支えはなかろう、とド・セルビィは述べている。すなわち、この二方位説にも同様の誤謬が内在しており、厳密な意味での方位は実はただ一つ存在するのみなのである。なぜなら地球上の任意の一点から出発して任意の方向に移動しつづけるならば、終局的にはその出発点に到着することになるからである。(同、p155~156、ルビは省略)


 ……以上のようなもの以外でも、作中で言及されるド・セルビィの議論は、科学的な知見に基づいた常識をことごとく無視した上で成立する、珍妙極まりないものばかりである。
 そして、『第三の警官』を読み進めてわかることは……この作中世界が一見して奇妙な有様を持っているのは、実は、およそ机上の空論にしか見えないようなド・セルビィの議論が投影され、その原理として具現化されていたからだ、ということだ。……つまり、名前のない話者がド・セルビィの珍妙な著作を読み込むことと、不可解な世界の有様に遭遇することとは、シームレスにつながって作品世界の根本的な原理をなすことであったのだ。
 ド・セルビィの見解は拡大し、作品世界の全域を覆っているのだと言える。……ならば、その理論、そのあり方が異様であるからこそ、フラン・オブライエンは唯一無二の特殊な作品を構築した作家であり、比較を絶した存在であるのだろうか。
 私は、そうは思わない。むしろ、ド・セルビィの議論が作品の中枢の根幹と関わっているからこそ、『第三の警官』という作品がどのような文脈に置かれているのかが見えやすくなると思うのだ。
 ここで参照したいのは、若き日のサミュエル・べケットが書いた評論だ。ジェイムズ・ジョイスの最後の大作である『フィネガンズ・ウェイク』が執筆の途上にあり、単純に「進行中の作品」とだけ呼ばれていた頃、べケットはこれについて論じているのである。
 「進行中の作品」の異様な作中原理について、ベケットは「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」と題された評論の中で、ダンテやブルーノやヴィーコが影響をもたらしたものがどのようなものであったのかを明確にしている。とりわけ、『神曲』を書き、地獄・煉獄・天国を明確な形で構造化したダンテの世界とジョイスの世界との相違について、ベケットは次のように述べる。


ダンテの浄界は円錐形をなし、したがって最高地点を内包する。ジョイス氏の浄界は球形をなし、最高地点を含まない。前者には、ほんものの徒食(浄罪界前域)から理想的徒食(地上の楽園)への上昇があり、後者は上昇もなく理想的徒食もない。前者には、絶対的前進と保証された成就があり、後者には、流動(前進あるいは後退)と表面的な成就がある。前者においては、運動は一方向、一歩を前へ出すことは額面どおり一歩前進であり、後者においては、運動は無方向(あるいは多方向)、一歩前に出すことは、定義によって、一歩後退である。(中略)それでは、いかなる意味でジョイス氏の作品が浄罪的であるのか? 《絶対》の絶対的不在においてである。地獄はいまだ解放されざる邪悪の静的無生命であり、天国はいまだ解放されざる純潔の静的な無生命であり、浄罪界はこれらの二つの要素によって解放された運動と生命力の洪水である。(「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」、『ジョイス論/プルースト論』所収、川口喬一訳、p116~117)

 あるいは、ブルーノの思想の中でもジョイスに影響を与えたような部分ついて、ベケットは次のようにまとめてみせる。


ブルーノによれば、可能なかぎり最小の弦と可能なかぎり最小の弧との間にはなんらの相違もなく、無限大の円と直線との間にもなんらの相違もない、と言う。ある特定の反対命題の最大と最小は一つにして無相違である。最小の熱気は最大の冷気に等しい。したがって、変質変形は循環運動をする。一個の反対命題の原理(最小)はもう一個の反対命題の原理(最大)によって運動を開始する。それゆえ、単に最小が最小と一致し、最大が最大に一致するばかりでなく、変質変形を重ねるうちに、最小はまた最大に一致する。最大の速度は一種の休止状態となる。最大の崩壊と最小の発生は一致し、原理的に、崩壊はすなわち発生である。(同、p96)


 絶対的な最高地点を欠くゆえに明確な構造化がなされていない、そのため、運動の方向性を規定できないような世界。無限が前提とされるときに正反対の概念の相違が消滅させられ、運動と休止の区別すらつかない世界。……ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』がベケットによって以上のように整理されたのを見てみれば、ド・セルビィの珍妙な理論は、実はこれに非常に類似するものであったことは明らかだろう。
 ダンテにとって、『神曲』の作中世界、とりわけ地獄と煉獄は、明確な頂点を持つ円錐形として整然と構造化できるようなものだった。それがジョイスに至って、言語が何らかの他の対象を指示しつつ建造物のパーツとなるのではなく、言語それ自体の指示する内容とそれを担う形式とを区別することすらできないような地点にまで到達しているわけだ(ただし、ベケットは、ダンテによる言語の使用がそれほどまでに単純なものであったと言っているわけではない。ラテン語ではなく一般的な俗語を使用したダンテは、しかし、俗語を俗語のまま使うのではなく、多くの俗語を組み合わせ鍛え直した上で使用したのだとベケットは指摘する。そのような言語の混淆性は、むしろジョイスの英語の使用に影響を与えている部分だというのだ)。
 つまり……おおざっぱに言ってしまえば、近代的な小説の持つ約束事、その言語的構造物の礎となる原理自体が、ジョイスによって粉々に破壊された、ということだ。もはや言語は、何かを指示するためのパーツであるのではなく、それ自体が絶え間なく蠢き脈打つ対象物となっている。
 そして、フラン・オブライエンという作家は、ジョイスと同じ場所で、それらを目撃した後から書き始めなければならなかったがゆえに、それに対して見て見ぬふりをしたりなかったことにすることができなかった……ということだったと思うのだ。
 小説の言葉は、既に破壊されてしまっている。小説の言葉が静的な建造物に奉仕しそのパーツとなるようなことは、もはやできない……にもかかわらず、言葉を発すること自体はできるし、出せば出したで、言葉は、従来の言葉と何の変わりもないままに、とりあえずは通じてしまう。
 言葉が、明確な対象を、確定的に指示する……そんな保証はどこにもない。にもかかわらず小説を書こうとすれば、それはどうなるか。言葉が、それが指示している対象を本当に指示しているのかどうかは不確かであるままにーーそして同時に、とりあえずは言葉が発せられ組み合わされた結果として言語的構造物が構築されていってしまっているという状況をも見据えつつ、その両者の間隙を縫合し、あるかどうかもわからない足場を進むしかない。
 以上のように考えると、腑に落ちることであるだが……実は、『第三の警官』の名前のない話者は、作品が始まってからの早い段階で、既に死亡しているのだ。そして彼は、自分が死んでいることに気づかないままに、延々と饒舌に言葉を重ね続けるわけだ。……私としては、ここに、ジョイスによって小説が死んでしまってからでもなお積み上げられ続ける小説の言葉のあり方が、非常にストレートな形で表れていると思うのだ。
 そして、そのような観点を持った上で、改めて、この話者がド・セルビィの著作とどのように取り組んでいたのかを見てみたい。彼は、例えば以下のように書いてもいるのである。


 ド・セルビィが唱える理論の窮極的な結論はおおむね要領を得ないのを旨とするのであるが、この場合も例外ではない。かくも偉大な精神の持主が明白この上ない諸事実に疑念を抱き、科学的に立証された諸現象(たとえば昼と夜の循行など)にさえ異議を申し立てるのを常とする一方、その同じ現象に関して彼自身が展開する奇想天外な解釈に全幅の信頼を置いているのは不可思議な謎である。(同、p84)


 これは、いかにも人を食った物言いだし、おかしみを感じさせさえする。……しかし、よくよく考えてみれば、この話者は、子供の頃からド・セルビィの著作に熱中し続けた上、その生涯の後半生はド・セルビィの研究のみに明け暮れたのである。その上でなお、「不可思議な謎」は依然として解決されず、自分が読みとった言葉は「おおむね要領を得ない」とまで、平然と述べ立てているわけだ。
 自分の言葉が本当に自分の思った通りに通じているのかもわからない、しかしとりあえずは言葉を発し他人とやり取りすることはできてしまう……さらには、自分自身を名指す言葉が何であるのかすらわからない――そのような状況に置かれていた話者にとって、一人の人間によって書かれた著作群を詳細に読み込むことだけが、今にも解体しバラバラになりかねない言葉をつなぎ止め安定させる営みであっただろう。……しかし、言葉を発することに関して当てはまることは、読むことに関しても同様に当てはまる。自分が読んでいる言葉のことを本当に理解できている保証はない――しかし、それと同時に、言葉は、読めば読めてしまう。
 ましてや、ド・セルビィの構築する理論は、現実の水準においては単に間違っている、デタラメだらけの代物なのである。しかし、言語の集積としての側面だけを見てみるならば、入念に考えられているだけに、それなりに整合性・一貫性を持ったものになってしまっている。つまり、この理論は、現実との接点を失いながらもそれ自体は空中に浮遊したままに自律する、巨大な迷宮のような代物なのだ。
 そのような理論と、その理論が投影された世界とがシームレスにつながった世界を、既に自分が死んでいることに気づいていない人物が彷徨する――このようなあり方をするこの小説は、しばしば、一種の地獄巡りだと評されてきた。……もちろん、そのような評価は、ある程度は的を射ている。オブライエンのなしたことを辿っていくかぎり、それは、ジョイスによるインパクトを経た後で、改めてダンテのような整然とした世界を訪れなおしたらどのようなことになるか……という類のことであるからだ。
 しかし、それは、そこで描かれているのが新しい様態の地獄である……というような、単純な話ではない。オブライエンにとっては、言葉が既に死んでしまっているからこそ、そこは地獄なのである。……だから、ここで開示されている地獄は、オブライエンの作品を手に取る読者にとっても、無縁のことではなかったのだ。……読むという行為、それ自体の中にこそ、オブライエンの描く地獄はあったのである。











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Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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