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大人の時間と子供の時間――ガイ・リッチー『コードネーム U.N.C.L.E.』

 ガイ・リッチーの監督による『コードネーム U.N.C.L.E.』を見た。作品が描く時代としては冷戦期に設定されており、冒頭部分では、ベルリンの壁を越えて西側へある人物を送り込もうとする作戦に関するCIAとKGBのそれぞれのスパイの暗闘が展開されている。
 そんな事件を発端としつつ話の本筋となるのは、核兵器の技術が広く流出しかねない事態が生じた結果アメリカとソ連が一時的に手を組まねばならないことになり、その作戦に関して、冒頭部分では死闘を繰り広げていたCIAのスパイであるナポレオン・ソロとKGBのスパイであるイリヤ・クリヤキンとがチームを組んで任務に従事することになる……というものだ。資本主義にどっぷりつかって享楽的な生活を送り、凄腕の泥棒だったのがCIAで働くことになったソロと、共産圏の質実な生活に慣れたコチコチの堅物のイリヤの文化的ギャップを描きつつ、スパイもののフィクションにとっては定型である、虚実入り乱れ複雑に入り組んだプロットがさくさくと整理されつつ展開する。
 そういう意味では、今回の『コードネーム U.N.C.L.E.』の、全体としての完成度は高い。ストーリーは各キャラクターの特徴を織り込みつつも巧みに進行し、それぞれのシーンごとの演出にしても、どのような要素を省略し、何を画面に映さないことによって作品を構成するのかという部分がきちんとできている。スパイ映画の場合、どうしても人間関係が入り組んだ複雑な展開になるので、全てを画面に写さずとも観客にきちんと伝わる部分をきちんと調整してストーリーの経済効果を高めなければ、どうしてもかったるくなるわけだ。
 ……というわけで、既存のスパイ映画の枠組みの中でそれなりに完成度が高く、安心して楽しめる映画になってはいるのだが……私の印象に残ったのは、むしろ、スパイ映画の枠組みを部分的に逸脱する細部の方であるのだった。
 何らかの仕事に従事するとき、人は、自分の身体を、何らかの目的の達成に向けて最適化された状態にする(もしくは、少なくともそれを目指す)。このようなことは、任務を遂行中のスパイにあっては、より徹底した形で表れる。ひとたび自分の身分を偽装すれば、その役割を演じ続けなければならない。身分を偽装し嘘をついているのは自分だけではない可能性は常にあるゆえに、周囲の誰の発言も信じきることができず、常に懐疑的であり続けなければならない。それが敵地に潜入している期間のことででもあればなおさらで、それこそ四六時中、プロフェッショナルとしての緊張を保つことから解放されるようなことはほとんどないことにもなる。
 言ってみれば、スパイとは、完全に目的化された時間の中を生きている人々なのである。そして、自身の目的達成に向けて最適化された状態に身体を統御した人々が謀略をかけあい、騙しあい、虚実入り交じった駆け引きを繰り広げるからこそ、それを題材としたフィクションは、高度にコントロールされたプロットを備えることも可能になる。
 ……しかし、登場人物が自分のプライヴェートな領域を完全に殺し去り目的達成のためだけに奉仕することによって完成する複雑な作品が存在する一方で、まさにそこから逸脱してしまうものも、しばしばスパイもののフィクションで取り上げられてきた。スパイは任務の達成に向けて自分の元々のあり方を殺さなければならない、しかし、過酷な状況の中で完全に殺しきることもできず、プロとしての任務の狭間で噴出してしまう、もともとの実存――そんなものも、しばしば描かれてきたのだ。


 『コードネーム U.N.C.L.E.』という映画には、スパイがスパイとしての任務に忠実に従事し、目的の達成に向けて単線的な時間の中を駆け抜けるその渦中にありながらも、いかなる目的のためにも組織されていない、弛緩しきった淀んだ時間が描かれるという、他の部分から突出した異様な場面がいくつかある。
 例えば、ソロとイリヤが敵に追われ、ボートで海上を逃げる場面。イリヤの激しい運転によってボートから振り落とされたソロは、単身泳いで陸に上陸すると、無人のまま駐車されているトラックに勝手に乗り込み、持ち主の荷物をあさる。そうしてサンドイッチを見つけたソロは、依然として追われるままに海上を駆けるイリヤのボートを遠目に眺めつつ、閉め切った車内に音楽をかけると、ゆうゆうとサンドイッチをぱくつき始める。
 車内に音楽を流すソロの周囲にゆったりとした時間が流れているだけに、車外で絶体絶命の窮地にあるイリヤとあまりにも対照的な出来事が同時進行する様が強調される。言い換えれば、スパイとしての能力をフル稼働しなければならない状況に追い込まれたイリヤの時間と、何の目的もなくただのんびりとしていればよいソロの時間とが、それぞれ全く異なることが示された場面になっているわけだ。
 この作品において、プロフェッショナルとして自分の身体を統御することに関して最も優れた能力を見せるのは、ほかならぬナポレオン・ソロである。そして、潜入任務に従事している期間は偽装した姿を徹底して保たなければならないからこそ、任務の合間のほんのわずかな隙間を見つけるやいなや、目的意識を完全に放棄して、弛緩した時間の中でゆうゆうとリラックスすることができる。……つまり、プロフェッショナルとしての能力が高い者だからこそ、プロフェッショナルとしての姿勢を放棄できる時間をやりくりすることができるのだし、緊迫した時間と弛緩した時間とを自由自在に切り替えることもできる、ということだ。


 『コードネーム U.N.C.L.E.』がそのような映画であったと考えてみると、ガイ・リッチーの初期作品には、そのような要素は全く見られなかったことに気づく。……なるほど、『スナッチ』のような作品も、数多くの犯罪者たちの利害が絡み合い、騙し合いが横行し、複雑なプロットが展開してはいる。しかし、そこに登場する犯罪者たちは、ナポレオン・ソロのような、プロフェッショナルとしての緊迫した時間の中にいることはなかった。
 ガイ・リッチーの初期作品に登場する犯罪者たちは、しばしばそれなりに大がかりな犯罪計画をもくろみ、実行に移す――しかし、彼らの計画は基本的に緩いものであり、実行の過程で様々な偶然によって翻弄され、それを途中で修正するような手際の良さもなく、にっちもさっちもいかなくなり、任務の途中でもダラダラと雑談を始めたりもする。
 言ってみれば、ガイ・リッチーの描く犯罪者とは、大人の世界に参入することを拒絶した人々なのだ。目的を達成するためにコントロールされた緊迫した時間の中で仕事をすることができず、子供の時間の過ごし方から変わらぬままに成長した人々。彼らは、子供の世界から抜け出さずにすますためにこそ、法を踏み越え犯罪を犯す(このことを最も明確に体現しているのは、『スナッチ』においてブラッド・ピットが演じているミッキーだろう)。
 もちろん、法を踏み越えることまではしなくとも、業務の達成に支配された大人の世界に進んで参入したがるような人はあまりいない。誰だって、子供の頃のように、何者にもせかされず気ままに時間を過ごしたいだろう。しかし、それはできない……だからこそ、人は、目的化された時間の中で業務に従事し続けながらも、自分を解放できる弛緩した時間を捨てきることもできない。そしてそのような弛緩した時間は、プロフェッショナルとして最適化された動きをできる者こそが、かえって効率的に見つけていくことができるということを、『コードネーム U.N.C.L.E.』は示しているのだ。


 当然のことながら、このようなことは映画製作の現場においても当てはまることであるだろう。低予算の映画であれば、自分の好きなように製作できる……しかし、様々な利害が絡んだ大作映画ともなれば、そうもいくまい。商業的な一定の成功が要求される以上、好き勝手に定型から逸脱することもできず、特定のジャンルの枠組みの内部で要求されることを巧みに語りきることも求められる。
 だからこそ、そのような中で「本来なら自分のやりたいこと」を刻印するためには、目的の達成に向けて最適化された行動を取って周囲からのあらゆる要求に応えつつ、その隙間隙間に、自分が好きにできる時間をこじ開けて確保していかなければならない。……『コードネーム U.N.C.L.E.』という映画は、そのことに完全に成功したものであるように思えるのだ(そして、今にして思えば、『リヴォルヴァー』という映画は、そのようなことをやろうとして無惨に失敗した作品であったのかもしれない)。
 どれほど高度なスパイであっても、完全に自分の実存を殺しきり、任務の達成のためだけに従事する空っぽの存在にはなりきれない――しかし、殺しきれない自我の残余にどこで息をつかせるのかということは、うまくやれば自ら選ぶことも可能であるのだろう。







 

『シン・シティ:ア・デイム・トゥ・キル・フォー』の劇場用パンフレットが間違いだらけだったので逐一指摘してみました

 ということで、前回の続きです。
 『シン・シティ:ア・デイム・トゥ・キル・フォー』を見に行った際に劇場用パンフレットを購入したわけですが……映画の理解のために提供されているはずの情報が、恐ろしいまでに間違いだらけだったので、逐一指摘してみよう、というエントリです。
 問題の文章は、「ライター/翻訳家」という肩書きになっている光岡三ツ子という人が書いた、「F・ミラー:「シン・シティ」に至る道程」と題された文章です。……これはつまり、『シン・シティ』の原作コミックの作者たるフランク・ミラーの来歴を書いた文章なんですが……短いイントロダクションの後に、三つの小見出しがついた文章があるんですが……その三つの部分の三つが全部、致命的に間違いだらけなんですが……。
 ということで、一つずつ見ていきましょう。


アメコミは基本的に、脚本と画を別々の人が担当する分業システムだ。彼は最初、他の作家がストーリーを描いた(原文ママ)「スパイダーマン」などで画を担当し、それから「デアデビル」を任された。それ以前にミラーは日本の漫画、特に小池一夫原作/小島剛夕画の「子連れ狼」に大きな衝撃を受けて(日本語がわからないまま掲載誌を見ていたという)、劇画タッチの作風を取り込んでいた。それはデアデビルというキャラとよくマッチした。ニンジャの集団や、美しきくの一・エレクトラなどのキャラクターが現れて、オリエンタルで妖艶な匂いをまとったシリーズは一気に注目を集めた。ミラーを早々に天才と認めたマーベルは脚本と画の両方を任せたため、彼は自分の愛するノワール風の美的感覚やハードボイルドな語り口をいかんなく発揮し始めた。


 う~ん……この文章、ミラーが担当していた時期の「デアデヴィル」をきちんと読んだ上で書かれてるんですかねえ?
 確かに、初期のフランク・ミラーは、「デアデヴィル」誌のアーティスト(と言っても下書きのペンシルのみ)に就任しています。……で、しばらくアートのみを担当した後、当時担当編集だったデニス・オニールの判断もあり、ライティングとアートを兼任するようになった、という経緯があります。
 で、上の文章でおかしいのは、その前後関係なんですね。これは要するに、


 ミラー、劇画タッチの作風を導入
 → 作中にオリエンタルな要素が登場
 → マーヴル、ミラーを天才と認める
 → ライティングとアートを兼任に


 ……と、いうことでしょ?
 しかし、違うんですよ。……だって、ふつうに考えればわかると思うんですが、「デアデヴィル」誌のアーティストに就任した当時のミラーは、ライターのロジャー・マッケンジーが考えたストーリーから絵を起こしていただけですよ? それがなんで、ミラーの独自の判断で、オリエンタルな要素を作中に持ち込めるんですかね?
 「デアデヴィル」誌のストーリーをも自分で考えられるようになったミラーが、その最初の号で登場させたのが、そのためにオリジナルキャラとして用意したエレクトラだった。……で、それ以降というもの、ニンジャ集団のようなオリエンタルな要素が作中に登場するようになる――というのが正解です。
 今回、念のためミラーがアートのみを担当していた時期の「デアデヴィル」誌を改めて確認してみたのですが、やはり、オリエンタルな要素なんて皆無でした。
 ……あの~……、正直なところ、この文章書いてる人、自分が紹介しているはずの当の対象を読まないで書いてますよね?



 当時のアメコミには「コミックス・コード」と呼ばれる倫理規定があった。過度のホラーやバイオレンス、セックス描写を禁止し、長年コミックスの表現を制限していた悪名高い規定だったが、ノワールに慣れ親しみ、劇画やフランスのコミックスを研究したミラーにはなんの意味も感じられないものだっただろう。彼は意に介さず描き続け、最初は議論を呼んだものの、その人気が高まり続けたため、やがてはコードが譲歩する形になった。こうした経緯がきっかけで、その後コードは公的に緩和された。ミラーはバイオレンスやセックス描写でまず注目を集めたが、「シン・シティ」を見てもわかるように、その人気の本質はそうしたダークな描写だけではなく、リアリティとファンタジーの巧みな合成にあった。



 ……これもねえ……。上に引用した部分以上に、前後関係が根本的におかしいですね……。
 まず、コミックス・コードに関する説明が致命的におかしいですね。コミックス・コードに従わない内容であるゆえにその認可を受けないコミックブックが出版される……という出来事は、既に70年代に起きているんですが……。もちろん、コードの内容が改定されるということも、70年代に起きています。
 つまり、上の文章では、ミラーの作家活動が「きっかけ」となり、「その後」コードは緩和された……なんて書いてますが、そんなことは、そもそもミラーが業界入りする前の時点で既に起きていたことなんですね。
 しかし、おかしいのはそこだけではありません。「ミラーはバイオレンスやセックス描写でまず注目を集めた」……って、ホントですかあ? 初期の、マーヴルとDCで仕事をしていた頃のミラーって、過激な描写なんてほぼ全くと言っていいほどしていないと思うんですが……。
 暴力描写に関しては、『ウルヴァリン』とか『ローニン』なんかではそれなりにあったかとは思いますが、あの当時のアメコミ業界で「議論を呼」ぶような過激なものとはとうてい思えないんですが……。
 というか、それ以前の問題として、マーヴル・DC時代のミラーは、あからさまなセックス描写なんて全くやってないでしょ。例えば『イヤー・ワン』には売春行為の描写は出てきますが、直接的な描写は皆無で、ほのめかしにとどまるものでしかなかったわけですね。
 いったい何を根拠にして「最初は議論を呼んだ」とか書いているのか、ほんとにわからないんですが……。だいたいねえ、ミラーのコミックス・コードに関する見解が述べられた資料なんて、山ほど出ているわけじゃないですか。ミラーがこういったことに関して口をつぐんでいるのならともかく、本人がバンバンしゃべっていることに関して、「ミラーにはなんの意味も感じられないものだっただろう」……なーんて、推測形で書くのはなぜなんですかね?
 フランク・ミラーという人は、表現の自由に関する問題について精力的な活動をも展開し、コミック史の過去の出来事についても多くを述べています。……が、ミラーが活動を始めた時代は、既に、コミックス・コードとの衝突が問題になるような時期ではなかったわけです。
 しかし、ミラーが表現の自由の観点から衝突を起こしていない、というわけではありません。80年代末に至って、DCコミックスが、自社内で独自のレーティング・システムを採用することを検討していました。これに関して、フランク・ミラーとアラン・ムーアを含む一群のクリエイターが大揉めに揉める、ということがありました。結果として、これ以降、ミラーもムーアもDCコミックスで仕事をすることをやめました(その後ミラーは、2001年に『ダークナイト・ストライクス・アゲイン』でDCに復帰し、散発的にちょこちょことDCで仕事をするようになる。一方のムーアは、ことあるごとにDCをこきおろし続けて、現在に至る)。
 そして、そういう経緯を経た上でミラーがダークホース・コミックスで一切の規制なしに始めたオリジナル作品が『シン・シティ』であったため、この時点に至って、「ミラーが自主検閲的なものと一切関係なく完全に自由にコミックを描いたらここまで過激なものになるのか」というショックを呼び起こした、という順序だと思うのですが……。
 ていうか……そもそものこととしてですねえ、コミックス・コードが有名無実化してなかったら、DCコミックスが自社用の独自規定を検討するなんてこと自体がなかったのでは、と思うのですが……。


通常のアメコミは、現在でもそうだが、24~32ページほどの薄い中綴じ小冊子である。昔は雑誌スタンドが主な販売場所だったため、このスタイルが定着したという経緯がある。対してグラフィック・ノベルはボリュームを増やして背表紙をつけたスタイルの出版物だ。フランク・ミラーが敬愛する巨匠ウィル・アイズナー<フランク・ミラー監督『ザ・スピリット』(08)の原作者>はこのフォーマットをメインの舞台に据え、従来のコミックスのイメージをくつがえす文学的な作品を次々に発表した。ミラーはこれに深い啓示を受け、ストーリーにいっそうこだわるようになった。そして「デアデビル:マン・ウィズアウト・フィアー」、そして「バットマン:イヤーワン」「バットマン:ダークナイト」などのグラフィック・ノベルで、読者の驚きと賞賛を浴び続けた。その賞賛のこだまはコミック読者の枠を超え、世間に響き渡った。同時期に「ウォッチメン」のアラン・ムーアや「サンドマン」のニール・ゲイマンといった次世代の革新的作家たちが台頭したのと相まって、コミックスの文学性は次第に広く認められるようになっていった。


 ……あ、頭が痛くなってきた……。どこから間違いを指摘したらいいのか……。
 そうですねえ、まずは時系列からいきましょうか。ミラーの『マン・ウィズアウト・フィアー』は1993年の作品である上に、ミラーが担当したデアデヴィル関連の中では最底辺の部類に入る凡作なので、80年代に新しい潮流を生んだ作品の一つとして挙げるのは、どう考えてもおかしいですよねえ……。
 そして、ニール・ゲイマンの「サンドマン」の初期のあたりは明確にアラン・ムーアの影響下にあると思うんですが、それをいっしょくたにして「同時期」とか言っちゃっていいんでしょうか……。だいたい、80年代のアメコミにおけるイギリス勢の活躍は「ブリティッシュ・インヴェイジョン」なんて呼ばれるわけですが、ムーアより少し遅れてゲイマンなんかが登場してきた現象を指して、わざわざ、ブリティッシュ・インヴェイジョンの「セカンドウェーヴ」などと呼ぶ場合もある(これも音楽の方の「ブリティッシュ・インヴェイジョン」に倣った言葉のようですが)くらいなのに、「同時期」なんですかねえ……。
 つまり、「ミラーやムーアが新しい潮流を生む」→「それに呼応して、ゲイマンのような次世代のクリエイターも登場する」→「それら全てが一段落ついた後で、ミラーが『マン・ウィズアウト・フィアー』を発表」……という出来事が、十年くらいのスパンで起きているんですが……。
 しかしまあ、これは主観的判断の範疇に入るのかもしれません。ものすご~く巨視的な視線で見るならば、十年くらいの内に起きた出来事は、「同時期」と言っても間違いではない! と、いうことに、なるのかなあ……(でもそうすると、例えば日清戦争と日露戦争も「同時期」だし、太平洋戦争と朝鮮戦争なんかも「同時期」だ、ということになるのか……)。
 という風に無理矢理納得してみても、更に、根本的に間違っていることがあるのですよ。……それは、「グラフィック・ノベル」に関することです。
 一応断っておきますと、グラフィック・ノヴルという用語自体は、非常に曖昧な言葉です。それは、従来のコミックブックから内容面で一線を画したものとして使われることもあれば、上の文章にあるように、単に出版上のフォーマットの一つとして使われることもあります。その意味で、使い方を明示しているわけですから、この用語の使い方自体は間違っていません。
 しかしですねえ……『マン・ウィズアウト・フィアー』も『イヤー・ワン』も『ダークナイト』も、三作が三作とも、ハードカヴァーの描き下ろし長篇という意味での「グラフィック・ノベル」じゃないんですよ!
 まあ、『ダークナイト』に関しては、「プレスティージ・フォーマット」という豪華な作りで四分冊で刊行された特殊なコミックですから、なんとかギリギリ、こういう文脈で言及されるのもわからなくはないのですが……一方で、『イヤー・ワン』は「バットマン」誌の404~407号で連載されたものですし、『マン・ウィズアウト・フィアー』は、同名で全5冊で刊行された限定シリーズです。つまり、どちらも、この筆者自身が言うところの「通常のアメコミ」なんですが……。


 ……ということで、全体で2500字程度の短い文章のおかしいところを指摘するために、全体の半分以上を引用してしまいました。もちろんこれは、必然性のあることです。……というのも、筆者の誤解が文章の作る文脈全体に及んでしまっているので、長めに引用しないと、筆者の言おうとしていることが文脈全体として根本的におかしいことが指摘できないからです。
 というかですよ、素朴な疑問として、仮にもアメリカン・コミックスに興味があり、識者であるというスタンスでプロとしての対価を受け取った上で原稿を書くような立場にいるのにもかかわらず、フランク・ミラーのようなビッグネームがどのころの時代にはどんな作品を描いていたとか、代表作の初出のフォーマットはなんであっただとか、暗記してないんでしょうか……。
 そもそも覚えていないことがおかしいと思うのですが、それ以前の問題として、あやふやにしか覚えていないことなのに、原稿書く前に調べないんですかねえ……?
 結局、もともと断片的であやふやな知識しかない人が、最低限の資料を調べる手間すら省略して原稿を書いてしまうため、情報が抜け落ちている部分は何の根拠もない主観的な推測で文脈を捏造してしまうから、一見すると辻褄が合っているかのように見えるが、その実、根っこの部分からデタラメ……というような原稿が仕上がってしまう、ということなんでしょうか。


 実は、今回このような文章を書くことになったのは、以前から、少し思うところがあったからなのですね。それは何かというと、この光岡三ツ子という筆者もしばしば寄稿している、映画秘宝という雑誌がしばしば実施しているアメコミ特集です。以前から、書店で見かけるたびに一応手に取り、中をぱらぱらとめくってみては、ちょろっと読んだだけで「あれも違う……これも違う……これも間違い……これもデタラメ……」などという感じになり、そっと雑誌を棚に戻す……ということをたびたび繰り返してきました。
 たぶんあの雑誌でアメコミに関して書いているライターで、自分が書いている対象についてまともな知識を持った上できちんと調べて書いているのって、てらさわホークさんくらいのことで、それ以外のライターが書いている記事は、ほとんどの場合誤りを含んでいると思います。しかしまあ、間違いを見つけたから買わない……ということを繰り返してきたので、私個人が誤りを指摘するようなことも特にしてこなかったわけです。
 しかし今回、パンフレットを買ったら中にこんな酷い文章が掲載されていたため、不本意ながら金を出してしまったということで、どこがおかしいのかを逐一指摘してみた次第であります。


 この際ついでに書いておくと、「事実誤認に基づく間違った情報を広めること」よりさらに酷いことがあるわけです(いやもちろん、プロとして原稿書いといて、間違ってたらダメなわけですが)。それは何かというと、「自分がろくに知りもしないものについて偏見を垂れ流し、踏みにじること」です。
 というのもですね……実は私、少し前に、見つけてしまったんですよ。この映画秘法という雑誌の、アメリカでドラマ版フラッシュが始まるということを紹介してある記事で、主人公であるところのバリー・アレンが、正直垢抜けてはいない衣装を着ている写真があったんですが……そこについてるキャプションに、「これなら僕でも勝てそう」とか書いてあったのを……。
 ……ハァ~~~~ッ!? バリーに勝てる、だと……!? するとアレか、キャプションの文章だから誰が書いたのかわからんけれども、少なくとも映画秘宝の関係者の中には、本気を出したら光速を突破して運動したり、コズミック・トレッドミルで自由自在にタイムトラヴェルをしたり、全身を超高速で振動させてパラレルワールドに転移したり、多元宇宙の内いくつもの宇宙を丸ごと壊滅させた反物質宇宙の怪物ことアンチ・モニターの反物質砲を破壊して宇宙の危機を救うくらい余裕でできるような者がいるってことなんだな!?
 ……まあそれはともかく、バリー・アレンを小馬鹿にする、あまつさえ、あたかもそれが面白いことであるかのように振る舞えるような輩が、プロとしてアメコミを紹介してま~す、などというスタンスを取ってるとか、マジでふざけんな!
 いいですか!? 二代目フラッシュことバリー・アレンは、一度は壊滅したヒーローコミックが復活する先駆けとなったキャラクターなんですよ!? バリーの登場とともにヒーローコミックのシルヴァーエイジが始まったからこそ、その流れに追随する形で、ファンタスティック・フォーやスパイダーマンやアヴェンジャーズが登場することも可能になったんですよ!?
 だからこそ、現在DCコミックスのチーフ・クリエイティヴ・オフィサーを務めているところのジェフ・ジョンズは、二十年以上ぶりにバリーが復活することになった企画『フラッシュ:リバース』の設定資料の冒頭において、次のように書き始めているわけですよ。


 Barry Allen's first appearance in SHOWCASE #4 was the original "rebirth" of the DC Universe. Barry Allen ushered in the Silver Age. His success arguably saved super-heroes.
 「ショーケース」4号でのバリー・アレンの初登場が、DCユニヴァースにおけるオリジナルの「リバース(再生)」だ。バリー・アレンは、シルヴァーエイジの先駆けとなった。疑いなく、彼の成功こそが、スーパーヒーローたちを救ったのだ。



 な、なんていいことを言うんだ……そして、まさにこのジェフが全面的に関わることになったフラッシュのドラマを、内容を見る前から、ぱっと見の見た目だけで馬鹿にするとは……謝れ! 『宇宙人ポール』の冒頭において、生まれて初めてアメリカに上陸しコミコンに参加するという人生最良の日に、わざわざバリー・アレンのTシャツを着て出かけていったサイモン・ペグに謝れ! ……それからあれだ、信じられないほど最高の映画であるところの『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』において、詐欺と逃亡を繰り返す主人公に、偽名として「バリー・アレン」と名乗らせ、最終的に、主人公が本当の意味でバリー・アレンになるまでを描ききったスピルバーグにも謝れ~ッ!
 ……えーと、少し取り乱してしまいましたが……要はですな、アメリカン・コミックスの歴史におけるバリー・アレンの重要性をわかっていないという時点で論外であるわけですが、それのみならず、必要最低限の知識が欠けている自分に居直って、自分がろくに知りもしないバリー・アレンを馬鹿にする……そして、そんなことを平然とできるような者が、プロとしてアメコミの紹介者であるという立場を取っている、と。……おかしいと思わないの?
 結局、アメコミがどんな歴史を持ったどんな分野なのかを誠実に理解するような気なんかさらさらなくて、自分たちがその場のノリで面白がれるようなものだけを切り取ってる、ということですか。アメコミの中でどれほど大切にされリスペクトされているものであろうが、ノリで小馬鹿にできるというわけですか。……とまあ、冷静に書いたつもりではいますが、要は私自身、「バリーなめてんじゃねえ!」というプリミティヴな怒りのみに突き動かされておるわけですな。
 ……ということで、最後にもう一度だけ、言わせていただいてよろしいでしょうか。


 …………


 …………


 バリーなめてんじゃねえ~ッ!!!






 ……なんてことを言っていたその折に、ちょうど、ダーウィン・クックの『ニュー・フロンティア』の邦訳が出てるんですねえ(まだ上巻だけみたいですが)。これは、DCコミックスのシルヴァーエイジの展開を、アメリカの現実の情勢と絡み合わせて語り直すというコンセプトの名作です。
 あまり邦訳に恵まれていないフラッシュですが、これに出てくるバリーは最高! それから、火星人なのにひょんなことから地球に来てしまい、アメリカ文化に適応しようとするマーシャン・マンハンターさんの姿にもほのぼのとします。……やがて、ようやくささやかな安らぎを見出したマーシャン・マンハンターさんに、忍び寄る闇があり……平穏に暮らしていたところを恐怖のどん底に突き落とす、バットマンの鬼畜っぷりも楽しめます!




 付記 後日、このエントリを読み直していたら少し気になる部分があったので、補足をば。フランク・ミラーが活動を始めたころにはもはやコミックス・コードのことはあまり問題になっていなかった――などと書きましたが、すいません、「デアデヴィル」誌で薬物に関する描写をしたらコミックス・コードの認定を受けられなかった件があったりしたのを忘れていました(とはいえ、その脚本は却下されたのち、コミックス・コードに合わせて改定されてから後日再利用されていたりするので、批判している先の文章は更におかしいというだけの話なんですが)。コミックス・コードが緩和されだいぶ自由な描写が可能になった後も、こういうことはちょこちょこ起きてはいるわけですね。んで、当時のミラーのインタヴューを確認してみたところ、当時のミラーは、メジャーな会社である程度こういう規制があることに関しては仕方の無いこととして、あまり批判的ではないということが以外でした。……結局、コミックス・コードの影響力が徐々に衰えていく一方で、DCコミックスが独自にレーティングシステムを導入しようとしていたような時期の、コミックス・コードとレーティング・システムの相関関係に関する自分の認識が甘いと思いましたので、もうちょい調べなおしていこうと思います。雑誌流通のためにあったのがコミックス・コードで、ダイレクト・マーケットのための要請で検討されていたのがレーティング・システムなので、70年代~80年代のコミック・ブック業界の産業構造の変化と連動していることなんですよね。単に「変化した」というだけでなく、移行期に起きていた軋轢を細かく見る必要がある、と。







3Dで白黒映画を撮ること――『シン・シティ:ア・デイム・トゥ・キル・フォー』

 フランク・ミラーとロバート・ロドリゲスの共同監督による映画『シン・シティ:ア・デイム・トゥ・キル・フォー』を見てきた(一応、邦題は『シン・シティ 復讐の女神』となっているのですが……もの凄くかっこわるい上に、今回は脇役に過ぎないジェシカ・アルバをフィーチャーしたタイトルになっていてムカついたので無視することにします。……しっかし、元々のタイトルがジム・トンプスンとかのノワールっぽい雰囲気を狙ってつけられているのだから、邦題でもそれを活かそうとする気はないのだろうか……あるわけねえか……)。
 ……それで、まあ、内容は面白かったんですが……内容を云々する以前のこととして、今回の上映の扱いは酷いことになってますなあ……。私の場合、最寄りのシネコンで公開二週目には既に一日一回の上映になっていたのでこれはヤバいぞと思っていたら、その週末には既に上映終了……。というわけで、致し方なく遠出して見てきたのであります。


 さて、肝心の内容の方ではありますが……正直なところ、見る前の段階では、それほど期待してもおりませんでした。と言うのも、もともと『シン・シティ』というのは、フランク・ミラーによるオリジナルの同名コミックを原作に忠実に映画化した作品であったわけです。そして、シリーズの中でも、主に「ハード・グッドバイ」「ビッグ・ファット・キル」「ザット・イエロー・バスタード」の三作からピックアップして、オムニバス的に製作されていました。
 フランク・ミラーという人は、若い頃からフィルム・ノワールや犯罪小説を愛好していた人です。そういう人が、アメコミの世界では比較的珍しい白黒でコミックを描くことで、線を描くというよりは光と闇のコントラストでコマを作ることで、いかにも典型的なノワールの世界が構築されていました。その際、歴史的時期が特定されるよな要素は抜き取られ、またノワール的な視覚的要素がつぎはぎされることで、ノワールの世界そのもののカリカチュアとなっているような、非・歴史的にして無時間的な都市空間が築かれることになったわけです。
 そんな都市空間を描いたコミックを、可能な限り原作コミックに忠実に再現したのが、前作の『シン・シティ』でした。そして、これはかなり高い水準で成功している……ということだったわけですから、私としては、「じゃあ、もうここに付け足す新規な要素はないじゃん……」と考えていたんですね。
 実際、今回の『デイム・トゥ・キル・フォー』の中核を占める同名のエピソード「デイム・トゥ・キル・フォー」は、シリーズ第一作の「ハード・グッドバイ」の直後、「ビッグ・ファット・キル」や「ザット・イエロー・バスタード」よりも以前の段階で発表されています。つまり、原作に忠実な映画化をしている限り、新たな要素が付け加えられて進化していくようなことは、ありえないわけです。
 さらに、今回は3D作品になっているということが、私の不安を加速化させました。光と闇だけで構築された平面的なコミックの世界を忠実に再現するというコンセプトの映画だったはずなのに、3Dにしてどうするんだ……としか思えなかったわけです。


 ところが、です。いざ実際に見てみると、今回の『デイム・トゥ・キル・フォー』は、まさに3Dで製作することにこそ意味がある作品になっていたのです。……というのも、前作の『シン・シティ』は、既に述べたように、実写で撮られた画面を平面へと近づけるという試みでした。一方で、『デイム・トゥ・キル・フォー』は、平面によるコミックの世界と、実写による立体の世界とを、シームレスに往復する……その二つの世界の間隙を埋め合わせ、自由自在に行ったり来たりすることを可能にするために、3Dの効果が使われていたのです。
 3Dにこういう使い方があったのか――と感心するという意味では、一見の価値がある映画である、と言えるでしょう。……しかし、実はこの映画の場合、3Dの効果が目を引くような凄い画面が現れるのって、冒頭あたりのごく短い場面に限られてるんですよね……。
 例えば、ミラーにとって重要な参照先の一つであるだろうムルナウがハリウッド時代に撮り上げた『サンライズ』なんかにしても、サイレント時代にもかかわらず凄い合成画面を作中に含んでいます。あるいはフィルム・ノワールで言うと、オースン・ウェルズの『上海から来た女』のミラーハウスの場面なんかも凄い。……しかし、それらの映画にしても、当時の技術でこんなことができたのかと思わせるような場面は、作品全体の中でもほんの一部に限られてしまっていたわけです。
 一方で、スピルバーグの『タンタン』なんかは、その全篇に渡って実験的な画面を維持し続けていたわけで……まあ、身も蓋もないことを言ってしまえば、結局は資金力の差なんでしょうなあ……。


 ……というわけで、『デイム・トゥ・キル・フォー』は、3Dの効果が特に意味を持っていない部分に関しては、前作とあまり変わりのないものになってしまっています。とはいえ、作品の中枢を占める「デイム・トゥ・キル・フォー」はさすがに元のコミックがよくできているということもあり、それこそ、フィルム・ノワールの名作たる『サンセット大通り』や『深夜の告白』なんかとも比肩しうる出来映えなんじゃないかと。
 ……しかし、今回の映画化に関してミラー本人が新たに書き起こした「ナンシーズ・ラスト・ダンス」は……正直……なくてよかった……。
 ……その~、『シン・シティ』のシリーズ全体の中でも最高傑作の呼び声が高いのが、前作の元ネタの一つとなった「ザット・イエロー・バスタード」であるわけですが……あれが面白かったのって、『ダーティハリー5』に納得がいかなかったミラーが、ダーティハリーの最終回を勝手に作ってしまったからなのであって……そのさらに後日談を付け足すというのは、完全に蛇足に過ぎないと言うか……。
 それでもとりあえず見ていられるのは、ブルース・ウィリスが出てるな~と思ったら、まさかの『シックス・センス』オマージュが展開されること、それから、前作ではチョイ役に過ぎなかったパワーズ・ブースが演じるロアーク上院議員の悪役としての存在感……などのような要素に助けられたことが大きいんじゃないかと。正直なところ、そういった要素を抜き取って比較してみると、既に衰え始めていたとはいえミラーが全盛期のエネルギーをまだまだ保ってはいた頃に描かれた「デイム・トゥ・キル・フォー」と、「現在のミラー」による「ナンシーズ・ラスト・ダンス」では、その落差が酷すぎるなあ、という印象ばかりが残ってしまうのでありました。


 ……とまあ、そんな感じで、不満が残るところもありつつも全体としては楽しめた映画であったのですが、話はここで終わりませんでした。……というのも、劇場でパンフレットを購入したわけですよ。それで、いざ買ってから、そういや前作のパンフレットも間違いだらけの文章が平然と掲載された酷いものだったなあ……などと思い出してしまったわけです。そう思いつつパンフレットをぱらぱらめくってから執筆者を目にすることになって、あちゃ~……と思ったわけですが、いざ文章を読んでみると、頭を抱えることになりました。
 これはさすがに酷いと思ったので、パンフレットに載ってた文章のどこがどう間違っているのかを、エントリを改めて書いてみたいと思います。








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