Latest Entries

前回のエントリの続きの続き

 さて、いよいよ福嶋大先生のご専門であらせられるところの、文学についてのありがたいお言葉を再検討してみましょう。

 まず、くだんの書評での大先生のお言葉は、次のようなものでした。


あるいはマジック・リアリズムは、中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界を浮かび上がらせた。複雑で多様な世界を把握するのに、もはや旧来の読書人=穏健な市民の視線は役に立たなくなった。ゆえに、ガルシア・マルケスやレイナルド・アレナスは、19世紀の文学には決して出てこないようなマージナルな登場人物を通じて、情報を「魔術的」に再構成することを狙ったのである(ついでに言えば、こういう企図は、異星人や未来人、非人間を扱ってきたSFとも共振するものだろうし、日本のキャラクター文化とも無縁ではない)。マジック・リアリズムもまた、「芸術を統制する芸術家」(バース)への不信を反映させたインターメディア的な文学現象であった。


 これに対する私の疑問は、「十九世紀の文学には、そもそもマージナルな存在なんていっぱいいるんじゃないの?」ということです。これについて、大先生は次のようにツイートしていらっしゃいました。


あと、僕が書いたのは「十九世紀の文学は、マージナルな存在を決して書くことはなかった」という意味ではなく「19世紀の文学には決して出てこないような”タイプの”マージナルな登場人物」という意味です。変なブログに惑わされないでください(笑)@tamanoirorg


 大先生の説明でもわかり辛いのですが、要するに、「十九世紀のマージナルなキャラクターとは異なったタイプのマージナルなキャラクターをガルシア=マルケスやアレナスは登場させた」ということでしょうか。もし最初からそれを言いたかったのだとすれば、はっきりいって大先生の日本語はヘタすぎます。初読の段階でそのような解釈が出来る人はほとんどいないものと思われます。

 まあ、正直なところ私は、大先生は後出しジャンケン野郎だと思い始めています。普通、「超越論的」となにも注釈を付けずに言ったら、いまどき誰もそれがフッサールの言う意味での用語だなんて思いませんからね。まあ、後出しでフッサールと言い出しても、それもまたおかしかったわけですが。

 「19世紀の文学には決して出てこないようなマージナルな登場人物」という表現を、大先生のおっしゃっている意味のこととして解釈すると、そもそも立論の前提が崩壊することには気づいていないようです。だって、十九世紀の文学には、「中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界」などというものがあったんですよね? 「複雑で多様な世界を把握するのに、もはや旧来の読書人=穏健な市民の視線は役に立たなくなった」んですよね?

 ところが、十九世紀の文学には、既にマージナルなキャラクターからの視点があった。逃亡した黒人奴隷やら、学校教育からドロップアウトした子供やら、極貧の娼婦なんかの視点もあったんですよね? ならば、「中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界」を相対化する視点は、既に十九世紀文学に書き込まれていたことになるんじゃないですか? なんでそこから、「ゆえに」という一言で、いきなり二十世紀後半まで飛ぶんですかね? マジック・リアリズムよりはるかに昔の時点で、「中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界」は浮かび上がっていたということに、当然なるんじゃないですか?

 ガルシア=マルケスやアレナスのマージナルなキャラクターは、十九世紀のマージナルなキャラクターとは異なる機能を果たしたことになりますよね? それはなんなんですかね? 正直、私にはさっぱりわかりません。


 まあ、大先生が「マジック・リアリズム」とか「メタフィクション」という用語を玩びながら、それらの用語の歴史的背景はご存知無いことは既にバレバレです。次は、メタフィクションについての大先生の発言を検討してみましょう。


 文学もまた同様である。20世紀中葉以降の作家は、19世紀の大作家――ドストエフスキーであれフローベールであれ――とは、根本的に異なる書き方を発明しなければならなかった。その際に鍵となるのも、やはり情報の問題である。情報の概念がなければ、ナボコフもボルヘスもピンチョンもバロウズも、バラードもディックもギブソンもイーガンも、あるいはメタフィクションもマジック・リアリズムも理解することはできない。彼らは、情報の概念の台頭を、個人の好き嫌いでどうこうなる問題とは思っていなかった。

たとえば、ボルヘス的メタフィクションは、「作家はあらかじめ存在するテクストの注釈者である」というコンセプトに基づいている。かつてジョン・バースが“The Literature of Exhaustion”で述べたように、ボルヘスのコンセプトは「インターメディアの芸術」としての側面を持っていたと言えよう。架空の書物の注釈を書いたボルヘスは、いかなるテクストもメディア上の伝承のなかで手垢のついた情報にすぎない、という状況そのものをカリカチュア的に描いてみせたのだ。それは当然、ルターやムハンマドによる唯一絶対の「聖典」の読書行為からは遙かに隔たったところにある。


 ここでの文脈を整理すると、ボルヘスが書いたようなメタフィクションは、十九世紀の小説とは「根本的に異なる書き方」をしていた、ということになります。

 では、文学史上、「『作家はあらかじめ存在するテクストの注釈者である』というコンセプト」を最初に書いたのは、ボルヘスなのでしょうか。大嘘です。それがセルバンテスであることは、文学史上の常識中の常識です。そして、ボルヘスはそれを熟知していたからこそ、最初の小説とみなされる「『ドン・キホーテ』の著者ピエール・メナール」において、セルバンテスの築いた基礎を拡張するメタフィクションを構築したわけです。「根本的に異なる書き方」などしていないわけです。

 しかし、セルバンテスは十九世紀ではない、という声が上がるかもしれません。しかし、十九世紀の段階で、のちにボルヘスがしばしば踏襲したようなメタフィクションを展開していた人がいます。カーライルです。「架空の書物の書評や序文」というようなメタフィクションの技巧は、既にカーライルによって確立していました(これはうろ覚えなのではっきりとは言えませんが、そもそもボルヘス自身がどこかでカーライルを自分の先行者として言及していたはずです)。

 別に、「情報」という概念が注目を浴びた時代に、メタフィクションという形式が好んで取り上げられたことを指摘するのは、間違いでもなんでもありません。しかし、それが既存の文学にはなかった「根本的に異なる書き方」であるなどと断言した瞬間、それは嘘になります。ただ単に、多くの作家が、必要に迫られて、既存の文学で積み上げられたメタフィクションの技法に再注目し、改良できるところは改良しているだけです。まともな小説家や文学研究者であれば、メタフィクションの技法は、セルバンテスとスターンとカーライルくらいで既にほとんど出尽くしていることくらい承知しています。

 さて、最後に書いておきたいのは、そもそも大先生の知識人としての姿勢のまずさです。大先生は、こんなことをツイートしています。


 もうねー、偉そうに批判するならフッサールくらい読んどいでくれよ…。単純にいい迷惑なんだよ…。


 これはなんなんでしょうか。プロの物書きが、「商業誌に載せたこの情報は間違っているのでは?」と指摘されたら、「いい迷惑」などと言っていることはできないはずです。私は、不本意ながら、大先生の執筆した雑誌に料金を払ってしまいました。おそらく大先生は、自分が原稿の対価を受け取っているプロであるという自覚がまったくありません。こういうプロフェッショナリズムが欠如した人間には、そもそも批評家などというものは務まらないと私は考えています。


付記(8/5)


 しばらく経ってから冷静にこのエントリを読み直したところ、「普通、「超越論的」となにも注釈を付けずに言ったら、いまどき誰もそれがフッサールの言う意味での用語だなんて思いませんからね。」という部分は、われながら迂闊なことを書いているなあ、という気がしてきました。

 私が言いたかったのは、「フッサールが哲学全般に対して広範な影響を有しているわけでもない今の時代で、「文芸誌での、スピノザの本の書評」というコンテクストでいきなり「超越論的」という用語を使っておいて、事後的にそれが「あれはフッサールの言う意味」とか言っても伝わるわけねーだろ! 現象学とは何の関係もないコンテクストなんだから」ということでした。

 しかし、この福嶋亮大という人物のデタラメな発言に対して頭に血が上っていたためか、言葉足らずの発言になってしまっていたようです。もし、まともにフッサールを研究していて、不愉快な思いをされたという方がいたのなら、謝罪します。申し訳ありませんでした。

 ついでに書いておくと、『スピノザの方法』と『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を両方とも通読してからだいぶ経った現在の視点からすると、福嶋亮大の言っていることは、もっと根本的な部分でおかしいと思えてきました。

 『危機』においてフッサールは、超越論的な認識主観についての検討がヨーロッパ哲学の本流であるとみなし、デカルトから発してカントを経由し、そして自身の現象学に到達する、という目的論的な歴史観を展開しています。ゆえに、デカルトは超越論的という言葉を使っていなくとも、超越論性の検討の先行者であるのだ、と。

 ここでフッサールが言っているのは、デカルトのコギトのことでしょう。しかし、そもそも國分功一郎の『スピノザの方法』でのコギトに関する議論を考えれば、『危機』での議論をそのまま適用することはできないのです。だって、『スピノザの方法』では、スピノザはデカルトの哲学を整合的に解釈するためにはコギトの検討を基盤に据えて議論を展開したが、スピノザ自身の哲学を展開するためには、コギトを基盤に据えていてはできないので、コギトの検討を放棄し、神の概念を基盤に据える方向に移行した、そうして『エチカ』を書いた、とはっきり書かれているのですから。

 『スピノザの方法』と『危機』の両方を通読していれば、『スピノザの方法』で國分功一郎のやったことが、『危機』でのフッサールが言った意味で超越論的である、などという評価は出てきません。ここからわかることは、福嶋亮大という人物は、『スピノザの方法』と『危機』のどちらか片方を(もしくは、その両方を)通読していない、ということです。



前回のエントリの続き

 このエントリは、前回のエントリの続きになります。前回書いたことだけで十分かと思ったんですが、「批判された著名人が、まともに論理的に応答せず話をすり替えて逃げる」というのには正直うんざりしたので、容赦なく続きを書きます。

 というのも、前回のエントリで多くの間違いを指摘した福嶋亮大という人が、自分のtwitterのところでこのブログに関すると思われることを色々とつぶやいていたからです。以下に、このブログに関係あると思われるツイートを引用します。


 (1)佐藤さん、はじめまして。フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」第二六節を読み返していただければ。RT @tamanoirorg うん、全くその通りだ。 http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/20110408

     ※これは、佐藤亜紀氏に対してのツイートです。

 (2)あと、僕が書いたのは「十九世紀の文学は、マージナルな存在を決して書くことはなかった」という意味ではなく「19世紀の文学には決して出てこないような”タイプの”マージナルな登場人物」という意味です。変なブログに惑わされないでください(笑)@tamanoirorg

 (3)あと、Googleを哲学的ないし認識論的問題として捉えられない哲学者は全然ダメだと思うがねぇ。そもそも、ITの源流だって遡ればライプニッツにあるわけだから、フーコーの言う「エピステーメー」の問題と(ということは西洋のある種の理想と)直結してる。好き嫌いで排除できるものではない。

 (4)もうねー、偉そうに批判するならフッサールくらい読んどいでくれよ…。単純にいい迷惑なんだよ…。


 あんな「変なブログ」での批判なんて読む意味ないのだというイメージを身の回りの信者的人たちにばらまいて逃げる気なのでしょうが、残念でした。きちんと論理的に反論します。というか、福嶋大先生、さらに傷口が広がっちゃってます。


 まず、そもそも指摘された間違いの中でも、最も致命的なことにはだんまりを決め込んでいるらしいことが一番まずいと思います。私、ド文系なもので、ピンチョンの小説をまとめて読もうとしていたときに、文系でも読める程度の「情報理論」の入門書を読んだ程度の知識しかないのですが。その程度のレヴェルでも、大先生の「情報についての議論」と「情報理論」の混同については首を傾げざるをえないのですよ。これについては完全スルーですか。ああそうですか。

 (2)に関しては、別に言うことはありません。そもそも、福嶋大先生の意見には別に賛成でも反対でもないと明言していますからねえ。すばらしいご意見だと思います。

 で、(1)と(3)に関してです。ここで福嶋大先生がおっしゃっていることからすると、私の、大先生は「超越論的」という言葉を誤用しているのではないかという指摘は、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』と表記)の第二十六節を読みさえすれば、即座に誤った指摘であったと判明するはずです。

 私自身は、前回のエントリでこう書いていました。


 もちろん、「超越論的」という言葉自体は、時代を経るとともに、多くの人々が使っているし、それとともに多少の意味のブレも含むだろう。しかし、「思考はいかに可能か」という問いが、常に超越論的であるはずはない。

 なぜかというと、例えばこのような問いは、いっさいの超越性を認めない、イギリス経験論においても提起されているからだ。あるいは、まさにスピノザの哲学がそうである。スピノザにおいては、あらゆる概念は「唯一にして無限の実体=神」に内在するものとしてとらえられるのだから、超越的なものであろうが超越論的なものであろうが、神を超出するものなどあるはずがないのである。つまり、スピノザにおいては、「思考はいかに可能か」という自己言及的な問いもまた、内在的なものであるのだ。


 上で書いた「多くの人々」には、当然のことながらフッサールやメルロ=ポンティが含まれます。ただ、後期フッサールの提起した多くの概念に対しては、膨大な量の批判が積み上げられているので、きちんとフォローできている専門家以外にとっては地雷がいっぱいあるわけです。私はそれをわかっているのでフッサールの名は挙げなかったのですが、大先生は自信満々のようですね。さすがです。

 私自身はこれまで現象学にあまり興味が無かったので、概説書のような二次文献を通しての通り一遍の知識しかなく、フッサール自身の主著もあまり読んでいません。まあ、フッサールを読んでいるか読んでいないかと言われれば、読んでいますが。『危機』を読んでいないというのは事実です。

 そんなわけで、今日は休日だということもあるので、フッサールの『危機』を読み始めました。すると、驚くべきことがわかりました。まだぜんぜん途中なのですが、既に福嶋大先生の言うことはおかしいことが判明してしまったのです。

 まず、福嶋大先生イチオシの、第二十六節を見てみましょう。なお、私の持っている邦訳では「先験的」と訳されているので、それはすべて「超越論的」に置き換えます。


 わたしはここでまず、次のことを注意しておこう。「超越論的哲学」という語は、カント以来普通に用いられるようになっているが、そのさいその概念は、カント哲学の型に方向づけられている普遍的哲学の一般的名称として用いられている。わたし自身は、この「超越論的」という語を、最も広い意味にとって、デカルトを通じてあらゆる近世哲学に意味を与えるものとなっており、いってみればそこで自覚され、真正で純粋な課題の形態をとり、体系的に展開されようとする、あの上述した原初的な動機に対する名称として用いている。それは、あらゆる認識構成の究極的な源泉へと立ち帰ってそれに問いを向けようとする動機であり、認識者が自己自身ならびに自己の認識する生へ自己を省察しようとする動機なのである。


 なるほど、ここだけ見ると、いかにもフッサールは「超越論的」という用語をヨーロッパ近代哲学の認識論全般に使えるかのように定義している、ように見えます。しかし、『危機』という著作を冒頭からここまで読み進めたならば、あるいは後期フッサールの哲学史上の位置づけを知っていたならば、そのような解釈は間違っていることもわかります。というか、ここだけ文脈から切り出して人に勧めるのは、「超越論的」という用語への誤解を広めることにしかならないと思います。良心的知識人であればまずできない振る舞いであると言えるでしょう。

 さて、『危機』でフッサールが言っている普遍性とは、かなり偏ったものです。例えば六節においては、フッサールは次のように書いています。


すなわち理性が実際にじゅうぶんな自覚をもって、自己本来の形であらわになったのであるならば――理性が整合的で必当然的な洞察において進行し、必当然的な方法によって自己を自己自身によって規制する普遍的哲学という形であらわになったのであれば――、上述したことは現実的といえるであろう。そのことによってはじめて、ヨーロッパ的人間性が、絶対的な理念をうちに担っており、たとえば「中国」だとか「インド」だとかいった単なる経験的な人類学的な型ではない、ということが決定されるであろう。さらにまた、あらゆるほかの人間のヨーロッパ化という現象は、それ自体のうちに絶対的意味が支配していることを告げているのであって、それこそ世界の意味であり、世界の歴史が偶然そうなったという歴史的無意味ではない、ということが決定されるであろう。


 要するに、フッサールの言う意味での「普遍性」や「理念」や「世界の意味」とは、ヨーロッパ近代においてスタンダードであったタイプの思考が絶対的に上位におかれることによって成立しているわけです。

 それにしても、『危機』でのフッサールの記述は本当に反動的ですねえ。まじめに中国やインドの研究にいそしんでいる方々を侮辱しているとしか思えませんね。

 さて、そんなわけですから、フッサールの言う意味での「普遍性」は、実はヨーロッパ自体の中でも全てにあてはまるわけではないということになります。ゆえに、『危機』の二十六節で「超越論的」という用語を予備的に定義する前の段階で、フッサールはイギリス経験論について詳細に検討しなければならなかったわけです。「超越論性はヨーロッパ近代哲学において普遍的」などといった瞬間、どこからどう考えてもイギリス経験論が例外になるからです。ゆえにフッサールは、イギリス経験論者に対しては、立論上、かなり否定的に言及しているわけです。

 例えばフッサールは、二十七節では次のように書いています。


もしわれわれが、ヒュームのような否定主義的、懐疑主義的哲学を別にするならば、事実上カントの体系こそ、高い学的良心によって遂行された、真に普遍的な超越論的哲学の試みなのである。


 いや~、フッサール自身が「超越論性」という言葉を使えない対象を明示してくれているので、実にわかりやすいですね~。

 では、フッサールはスピノザについてはどのように考えているのでしょうか。『危機』の二十一節には、スピノザに関して次のような記述があります。


 さてわれわれは、デカルトから発する発展方向の跡をたどってみよう。そうすると「合理主義的な」一つの発展方向は、マルブランシュ、スピノザ、ライプニッツを経て、ヴォルフ学派を通過し、転回点としてのカントにいたっている。この方向においては、デカルトによって植えつけられた新しい性質の合理主義精神が熱心に受けつがれ、大きな体系として展開している。ここに支配しているのは、「幾何学的精神」の方法によって、超越的な「即自」として考えられた世界についての、絶対的に基礎づけられた普遍的な認識を実現できるという信念である。


 現代の哲学研究者で、ここでのフッサールの記述を肯定する人はほとんどいないものと思われます。そもそも、デカルトからカントまでをひとつなぎで捕らえてしまうことが粗雑で、乱暴すぎます。そして、後半の要約部分は、多くの哲学者をひとからげにまとめあげてしまっているので、スピノザ自身の哲学の要約としては適切でありません。

 私がその記述に信頼を置いている哲学研究者であるところの木田元先生が、どこかで「フッサールはハイデガーなどとは違って、哲学史への素養はあまりなかった」などということを書いていた理由がよくわかりました。もともとフッサールは数学基礎論の方から哲学に近づいていった人ですしね。

 さて、ここで改めて、私の前回のエントリでの記述を確認してみましょう。


 もちろん、「超越論的」という言葉自体は、時代を経るとともに、多くの人々が使っているし、それとともに多少の意味のブレも含むだろう。しかし、「思考はいかに可能か」という問いが、常に超越論的であるはずはない。

 なぜかというと、例えばこのような問いは、いっさいの超越性を認めない、イギリス経験論においても提起されているからだ。あるいは、まさにスピノザの哲学がそうである。スピノザにおいては、あらゆる概念は「唯一にして無限の実体=神」に内在するものとしてとらえられるのだから、超越的なものであろうが超越論的なものであろうが、神を超出するものなどあるはずがないのである。つまり、スピノザにおいては、「思考はいかに可能か」という自己言及的な問いもまた、内在的なものであるのだ。


 あれ? ……フッサールを読むことによって、むしろ私の記述の正しさが強化されたような気がするんですが、気のせいでしょうか?

 さて、ここで少し問題としたいのは、フッサールの立ち位置への後の時代からの批判的検討です。フッサールの『危機』や『幾何学の起源』には、デリダなどによる批判的検討があるわけです。そして、まさにフッサールが依拠しているような、一昔前の哲学史への認識によってその可能性が過小評価されてしまっていたスピノザやヒュームの読み直しが、ドゥルーズなどによって行なわれたわけですね。

 そして、ドゥルージアンとして知られている國分功一郎が、デカルト的なヨーロッパの中心的立場からのズレを含む可能性をスピノザの中に詳細に検討したのが、『スピノザの方法』という書物だったわけです。そして、福嶋大先生は、『スピノザの方法』が、フッサール的な意味での「超越論的」な試みである、と。……え? もしかして、壮大な哲学史の背景に裏打ちされた嫌味ですか?

 私自身には、福嶋大先生が『スピノザの方法』に対して悪意のある嫌味を展開しているのか、それとも単に二十世紀後半の哲学で重要なトピックになっていた議論を知らないだけなのか、判断はつきません。まあ、「フッサールくらい読んどいでくれよ」などとおっしゃる方に限って、後者のようなことはありえないとは思いますが。


 あー疲れた。それにしても、私、フランス現代思想なんて大ざっぱな知識しかないんですがねえ。そんな私の目から見ても、福嶋大先生のありがたいお言葉は、粗が見えすぎてしょうがありません。というか、休日の昼間に何時間か勉強しただけで次々にボロが明るみに出る福嶋大先生に対しては、失笑を禁じえません。本当は、付け焼刃の知識に基づいて何かを書くことはあまりしたくないんですが、大先生のおかしさを指摘するためには、付け焼刃で十分でした。

 まあ、私自身は大学時代にヒュームを一生懸命勉強したつもりではありましたが、フッサールによるイギリス経験論の検討には目を通していなかったので、いい勉強にはなりました。

 今日は完全にヒマなので、とりあえずここまででアップしますが、このあと文学についての反論もアップするつもりです。



無知な人が知ったかぶりをすることのみじめさについて

 國分功一郎の『スピノザの方法』を先日読み終えたので、この書物に関する書評の類をいろいろ読んでいたのだが、その中で、とんでもないものにぶちあたってしまった。そこで論じられている内容がどうこうという以前に、ごく単純に間違った理解に基づく記述が見られるのだ。

 その書評は何かというと、『新潮』4月号に掲載されている、福嶋亮大という人が書いたものだ。「内容がどうこうという以前に」と書いたが、はっきりいって内容もひどい。とりあえず『スピノザの方法』の内容を祖述し、それが終わったら、『スピノザの方法』とは何の関係もない、自分が書きたいことだけを書くという、書評としては最低水準のシロモノなのだ。

 そこで書かれていることも、はっきり言って痛い。さらに言うと、日本語がヘタなので何を言いたいのかはっきりとはわからない部分もある。例えば、こんな風に書かれている。


まさにデカルトらが夢見た普遍言語にも通じる「明晰判明」なサービスを、グーグルは提供している。この強力な教育メカニズムを前に、果たしてスピノザ平行論という思考様式は、いかなる地位を占められるだろうか? それともそれは結局、狭義の哲学的エピソードに留まるだけなのだろうか?


 「狭義の哲学的エピソード」って、いったい何のことだろう? こんな言い回し初めて聞いたぞ。要するに、「哲学研究の専門内でのみ流通する言説」ということを言いたいのだろうが、なぜそれを「エピソード」などと呼ぶのかよくわからない。

 この書評の後半を読んでいると、この福嶋という人の言いたいことは、「専門内でのみ流通する言説はダメで、ネットが流通する現在の状況に対応できているものが素晴らしい」ということらしい。ああそうなんですか、凄い凄い。

 まあそう思っている人はそれでいいとして、私がびっくりした記述は、『スピノザの方法』の内容を祖述している部分にある。この福嶋という人は、こんなことを書いているのだ。


 観念がいかに獲得されるかという問いは、平たく言えば、人間はいかに思考するかという問いと同じである。したがって、國分の試みは「そもそも思考するとはどういうことか」「思考はいかに可能か」という超越論的問題に、スピノザを手がかりにアプローチしたものだとも言い換えられるだろう。


 言い換えられません。……うわ~、なに言ってんだこの人。この文脈で「超越論的」などという言葉は使えないだろうに。意味わかって使ってんのか?

 一応確認しておくと、「超越論的」という用語を哲学の領域で使い始めたのはカントである(当たり前のことではあるが、スピノザはカントよりだいぶ前の時代の人である)。カントは、既存の「超越的」という言葉では論じきれない内容があったからこそ、「超越論的」という言葉をあてたわけだ。

 大ざっぱに確認すると、「超越的」であるということは、オブジェクトレヴェルに対してメタレヴェルが存在するということだ。ごく正統なキリスト教神学では、神がこの世を創造したと考える。ゆえに神は、オブジェクトレヴェルとしての現実世界に対して、メタレヴェルに存在する。このような考えの元では、メタレヴェルがオブジェクトレヴェルを生成した、と考えられる。

 それに対して、カントは、そもそもメタレヴェルの存在自体が、オブジェクトレヴェルの存在抜きにはありえないと考えた。両者は不可分であり、オブジェクトレヴェルの存在が、メタレヴェルの存在の前提となる。これが、カントの言う意味での「超越論性」だ。

 もちろん、「超越論的」という言葉自体は、時代を経るとともに、多くの人々が使っているし、それとともに多少の意味のブレも含むだろう。しかし、「思考はいかに可能か」という問いが、常に超越論的であるはずはない。

 なぜかというと、例えばこのような問いは、いっさいの超越性を認めない、イギリス経験論においても提起されているからだ。あるいは、まさにスピノザの哲学がそうである。スピノザにおいては、あらゆる概念は「唯一にして無限の実体=神」に内在するものとしてとらえられるのだから、超越的なものであろうが超越論的なものであろうが、神を超出するものなどあるはずがないのである。つまり、スピノザにおいては、「思考はいかに可能か」という自己言及的な問いもまた、内在的なものであるのだ。

 「思考はいかに可能か」という問いは、単に自己言及的なだけである。じゃあなぜ、「超越論的」という言葉がこんな風に流通してしまっているかというと、たぶん柄谷行人の悪影響という部分が大きいと思う。柄谷は、ハイデガーの存在論に見られる、現存在の自己言及性に注目する部分を、カント的な超越論性と同等のものとして強引に結びつけた。柄谷自身は、自分が「超越論性」という言葉をどのように拡大解釈して使っていることを明言してはいる。しかし、これは本当に強引な拡大解釈なので、そういう事情をろくにわかってもいない人が「超越論性」などという言葉をデタラメに誤用することが許されるわけはないだろう。

 要するに、くだんの書評では、「超越論的」と書く代わりに「自己言及的」と書いていれば、別に何の問題もなかったのである。というか、そもそもこの文、「超越論的」という言葉を削除しても、全く問題なく文意が通じるんじゃないだろうか? なぜ、わざわざ書く必要もないのに、自分がよくわかってもいない「超越論的」などという言葉を書き足すのだろうか?

 ところがこの著者は、書評の終わり近くのまとめで、またこんな風に書いてしまうのである。


 哲学的思考様式それ自体を超越論的に問い直そうとする本書の企てに、私は基本的に賛同する。


 ああ、そうですか~。……いや~、それにしても、何でこんな文章がプロの仕事として商業誌に載っているんだろう。私がこの号の『新潮』を買ったのは、岡田利規の新しい戯曲が載っていたからなんだけど、こんな文章にも代金の一部を払ってしまっていたのかと思うと納得がいかない。

 そこで、納得がいかないので、この著者の書いている他の文章を探し、おかしい部分があったらいちいち細かく指摘して、晒し者にすることにした。これ以上金を払う気はないので、ネット上で無料で読めるものを探してみた。すると、次のようなものが見つかった。


   http://booklog.kinokuniya.co.jp/fukushima/archives/2010/12/post.html


 うわ~、なにコレ。期待以上にツッコミどころが多すぎる。……え、もしかしてコレ、ソーカル論文的なものですか? しばらくしてから、デタラメなパロディであったことを暴露して、「こんなものがプロの文章として流通する日本の出版業界は……」みたいなパフォーマンスが始まるということですか?

 その疑いもぬぐえないのだが、一応、以下の文章は、「筆者が真面目に書いている」という前提にたって書いていく。

 まずはこの書評、議論の展開がそもそもおかしい部分はあるのだが、ひとまずそれは措くしかない。いやそうは言っても、書評する対象の佐々木中の本の要約が恣意的過ぎるとか、実際には佐々木は明確な東批判なんかしておらず、ほのめかしているだけなのに「中世とポストモダンを短絡させた上でまとめて否定するのは慎重さが欠けていると言わざるを得ない」などと断言するのは書評者の脳内での妄想に過ぎないんじゃないかとか、いろいろある。

 しかし、そういうことを言い出すと、「意見の相違に過ぎない」ということにもなりかねない。そうではなくて、私はごく純粋に、この書評者の無知や事実誤認に基づく記述のみを指摘していくことにする。

 例えば、「情報」という概念をえらく大事にしているらしいこの人は、こんな風に書いている。


佐々木氏は、ルジャンドルの言う11~13世紀の「中世解釈者革命」が、すでに情報理論を先取りしていたと見なした上で、こう述べる。


 ルジャンドルが情報理論の先駆者だって!? ……正気ですか? 書評者の適当極まりない要約によってそんなことを言ったことにされている佐々木中はさすがにいい迷惑だろう。本当はこんなことは書くまでもないことのような気がするのだが、「情報理論」というのは、シャノンによって基礎づけられた、情報を数理的に処理する学問のことである。一部の人文系の著作にみられる「情報を中心に据えた議論」とは、何の関係もない。

 はたまた、こんなことも書かれている。


ハイデッガーは、「制御の学」であるサイバネティックスの勃興を哲学の脅威として捉えた。そして、その脅威に対抗するために、彼は古代ギリシアにまで遡る。


 何ーーーーッ!? ハイデガーが古代ギリシアについてしばしば論じるのは、そもそもサイバネティクスの「脅威に対抗するため」にだったのか! 凄い! 斬新な解釈だ! 私は、ハイデガーがサイバネティクスなどからの影響を受けだしたのは、かなり後期になってからのことだとばっかり思いこんでいたよ。ということは、最初の主著『存在と時間』のプランをハイデガーが練っている段階で、存在論の系譜自体を分析する必要があるとしてアリストテレスを検討対象に入れていたりしていたのも、サイバネティクスの「脅威に対抗する」必要があったからなんだね! ……まあ、哲学研究者であれば、古代ギリシアのことに言及するのはごくごく当たり前のことのような気もするんだが……

 さらに、これに関連してこんな記述もある。


思想的に「情報」の問題がせり上がるのは、こうした時代的必然性がある。だからこそ、ハイデッガーはサイバネティックスの台頭に怯え、それを排除せざるを得なかった。


 そもそもハイデガーが問題にしていたのは、「情報」に限らず、現代的なテクノロジー全般だったと思うんだが……。そして、ハイデガーはテクノロジーに覆い尽くされた現代社会について否定的ではあったが、きちんと正面切って論じている以上、さすがに「サイバネティックスの台頭に怯え、それを排除せざるを得なかった」などと言うことはできないのではないだろうか。

 このあたりで、いったんこの福嶋という人の文章の特徴をまとめてみよう。


 ・「超越論的」という言葉の意味はよくわかっていない。でも、知っているものとしてどんどん発言する。というか、そもそも西洋哲学全般について、教科書に載っているような通り一遍の知識しかなく、原典にはほとんどあたっていないものと思われる。


 ・情報情報いっているわりには、「情報についての議論」と「情報理論」の区別もつかない。


 ・自分がよく知らない用語や概念についても、とりあえずわかっていることにした上で、ガンガン話を進める。話の内容が穴だらけであることにはとりあえず気づいてないらしい。


 ここで私は、重大なことに気づいた。福嶋亮大という人の肩書きは、あくまでも「文芸批評家」となっているのである。そもそも「超越論的」などというのは哲学の専門用語であるのだから、別に専門外の人間が理解しきっていないからと言って責めることはできないはずだ。ただ単純に、「専門外の人間である」というスタンスを保った上で発言していれば何の問題もなかったはずなのだ。

 そうだ、きっと魔がさしたんだよ! 専門外の哲学のことについても、とりあえずわかった風な口をききたかったんだよ! あるあるそんなこと、でもそれはせいぜい二十歳前後の感性だけどな! でもそんなことどうでもいい! 福嶋大先生の専門は、そもそも文学なんだよ! 文学についてなら、該博な知識と、冴え渡った神発言が連発できるんだよ!

 そこで私は気を取り直し、福嶋大先生の文学に関するありがたいお言葉について厳粛な気分で読み進めてみたのである。


あるいはマジック・リアリズムは、中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界を浮かび上がらせた。複雑で多様な世界を把握するのに、もはや旧来の読書人=穏健な市民の視線は役に立たなくなった。ゆえに、ガルシア・マルケスやレイナルド・アレナスは、19世紀の文学には決して出てこないようなマージナルな登場人物を通じて、情報を「魔術的」に再構成することを狙ったのである(ついでに言えば、こういう企図は、異星人や未来人、非人間を扱ってきたSFとも共振するものだろうし、日本のキャラクター文化とも無縁ではない)。


 ……何言ってんだコイツ。バカか? バカなのか? 何だ、このデタラメな発言は? 私自身が最も詳しい知識を持っているのは文学の領域なので、上のような間違った知識に基づく断定は絶対に許せない。容赦なく間違いを指摘する。

 福嶋大先生は、「十九世紀の文学は、マージナルな存在を決して書くことはなかった」という前提で話を進める。嘘である。「マージナル」とは、一言で言えば、社会の周縁に追いやられている存在のことであるだろう。ならば、例えばドストエフスキーの『死の家の記録』は? シベリア流刑になった人たちのことばかり書いているが? 同じくドストエフスキーで言えば、『罪と罰』のマルメラードフ一家は? 極貧の中、娘が体を売るしかない状況が細かく描写されているが? 『未成年』でもまた、都会の中で職を探すが、体を売る以外の選択肢が全くなく、ついには首を吊る若い女のことが細かく描写されているが? 『カラマーゾフの兄弟』で言えば、スネギリョフ一家は? スメルジャコフの母親は、差別されて定住するところすらなく街の中をうろうろする狂人として描かれているが?

 ていうか、ゾラは? モーパッサンは? メルヴィルなんか、むしろマージナルな存在ばかり好んで書き込んでいる印象すらあるが?

 にもかかわらず、福嶋大先生は自信満々におっしゃるのである。


19世紀の文学には決して出てこないようなマージナルな登場人物


 該博なる知識をお持ちであらせられる福嶋大先生にとっては当然前提とされていらっしゃることであろうが、例えばレイナルド・アレナスの『めくるめく世界』は、『ラサリーリョ・デ・トルメス』以来長きに渡って続いているピカレスク・ロマンというジャンルの基本的枠組みを踏襲し、アレナスなりにその枠組みにひねりを加えることによって構成されている。

 ピカレスク・ロマンというジャンルの主人公は、社会の中心に受け入れられず、まっとうに生きていく術を持たないのが普通である。ゆえに、なんとか生きていく術を見つけだすために、社会の周縁部を巡っていくのがプロット展開の上での基本的な枠組みになっている。例えば日本の小説で言うと、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』がまさにピカレスク・ロマンに近いので、あれを思い浮かべると分かりやすい。

 もちろん、アレナスの『めくるめく世界』には、語りの構造の水準で、現代的な工夫が凝らされている。しかし、ごく単純に登場するキャラクターの水準に注目するのであれば、むしろ伝統的でありふれているのである。もしも、あのようなキャラクターを出すことが二十世紀の斬新な手法だなどと考えている者がいるのであれば、そいつはただのバカである。

 もしかすると、福嶋大先生のおっしゃりたいことは、「十九世紀にはピカレスク・ロマンはなかった」ということであるのかもしれない。しかし、ピカレスク・ロマンの流れを汲むと言える小説は存在する。マーク・トゥウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』である。

 『ハックルベリ・フィンの冒険』において中心的に扱われているキャラクターは、主人公であるハックと、相棒となるジムである。ハックは、父親によって虐待されたり、そもそも学校に行かずに町のはずれで文明以前に近い生活をしていたりする。そして、ついに父親にも文明生活にもうんざりし、何のあてもないまま船旅に出るわけである。……あれ? マージナルじゃないのか?

 もっと明確なのはジムの場合であるだろう。ジムは、逃亡した黒人奴隷であるのだ。十九世紀のアメリカを書く上で、これ以上にマージナルな存在があるのだろうか?

 しかし、福嶋大先生は次のようにおっしゃるのである。


19世紀の文学には決して出てこないようなマージナルな登場人物


 もはや、福嶋大先生は十九世紀の小説などろくすっぽ読んでいらっしゃらないことは明白である。そして、自分が読んでいないものについて、空疎な断定を投げかけているのだ。なんで「決して」とまで断言できるのか、まるでわからない。

 あるいは、次のような記述も噴飯ものである。


文学もまた同様である。20世紀中葉以降の作家は、19世紀の大作家――ドストエフスキーであれフローベールであれ――とは、根本的に異なる書き方を発明しなければならなかった。その際に鍵となるのも、やはり情報の問題である。情報の概念がなければ、ナボコフもボルヘスもピンチョンもバロウズも、バラードもディックもギブソンもイーガンも、あるいはメタフィクションもマジック・リアリズムも理解することはできない。彼らは、情報の概念の台頭を、個人の好き嫌いでどうこうなる問題とは思っていなかった。


 そもそも、「情報」を軸にした書き方はセルバンテスの頃からあったんじゃないかという疑問も湧き起こるが、それ以前に、ここでも挙げられているフローベールの『ブヴァールとペキュシェ』は? 二十世紀の小説家の扱う「情報」は、あの小説とは「根本的に異なる書き方」をしているのか。ふーん、そっか~。

 というか、私の見るところ、上に挙げられた小説家の中で、「情報」という観点を落とせないのは、せいぜいバロウズとピンチョンとギブスンくらいのものである(もっとも、大先生のおっしゃる「情報理論」という観点からすれば、ピンチョンのみということになるのだが)。

 特にボルヘスやナボコフの場合、「情報」などというものより、十九世紀以前の古典文学を下敷きにしていた要素の方が遙かに多いのは明白である。もしかすると福嶋大先生はご存じであらせられないかもしれないから念のために書いておくと、例えばナボコフの『ロリータ』は、典型的な「十九世紀の文学」であるところのエドガー・ポウの詩と小説を下敷きにしており、これを知らないと読解内容が変わってしまう。またボルヘスの場合も、大先生が不得意であらせられるヨーロッパ近代哲学、例えばバークリやヒュームあたりの議論を前提とした小説やエッセイを書いている。

 ただし、私は、これらの知識がなければボルヘスやナボコフは絶対に理解することはできない、などとは言わない。既に存在している小説の読み方を絶対視し、その読み方を外れたら「絶対に理解できない」など言ってのける者こそ、まさに反動的であるからだ。小説の読み方など何通りもある。「絶対」の読み方などというものはない。テクストの読み方を一通りに限定する者こそ、反動的なのである。

 ついでに言うと、大先生のSFについての知識もなんだか臭う。だいたい、重要なSF作家として挙がるのがディックとバラードとギブスンとイーガンというのがどうにも微妙なチョイスではある。既に名声を獲得しているある程度は古典的な人で、情報理論とも親和性が高いSF作家というと、むしろレムあたりが真っ先に挙がる気がする。まあ、大先生のことだから、間違いなくSFも大量に読み込まれているはずなので、私の杞憂に過ぎないとは思う。

 それにしても、大先生のSF発言にはまだまだ気になる部分もある。例えば先ほど引用したところの一部の、次のような発言。


ついでに言えば、こういう企図は、異星人や未来人、非人間を扱ってきたSFとも共振するものだろうし、日本のキャラクター文化とも無縁ではない


 大先生のおっしゃっていることを総合して考えると、マージナルな存在を「絶対に」書こうとしなかった十九世紀の小説にはSF的な要素もない、ということに当然なるであろう。

 ということはつまり、大先生は、SFとは二十世紀の産物であると考えているわけだ。まあこれは、別に間違いとは言えない。ディドロのSFっぽい小説を起源に挙げるとか、『フランケンシュタイン』を起源に挙げるとか、色々な意見があり、「SFの起源」については一致した定義がないからだ。となると、明確に「SF」という言葉を使い始めた二十世紀のヒューゴー・ガーンズバックをもってSFの起源とするのも、間違いとは言い切れない。しかしまあ、ガーンズバックによって創刊されたSF雑誌『アメイジング・ストーリーズ』の初期には、ポウやウェルズやヴェルヌの手になる「十九世紀の文学」が再録掲載されていたがな!

 というか、ここでやはり矛盾が生じる。大先生がSFを評価なさられるのは、SFがマージナルな存在をも隠喩的な形で取り込んで表現したからであろう。……あれ? ならば、十九世紀に書かれた『フランケンシュタイン』は? フランケンシュタインの怪物ったらめっちゃマージナルな気がするんですけど~。

 『フランケンシュタイン』以外にも、『ジキル博士とハイド氏』は? 『タイムマシン』は? 『モロー博士の島』は? ……ああそうかそうか、このあたりの小説は、そもそも「文学」ではない、ということなんですね。そうだそうだ、きっとそうだ。それしかない。だってそう考えないと、大先生の書評ったら支離滅裂だもの!

 いや~、さすがにお腹いっぱいです。しかし、これで終わりではなかったのである。書評の一番最後に、福嶋大先生はさらなる仕掛けを打っていたのだ。もしこの書評がソーカル論文のようなパロディであるのならば、天才的なオチであると言わなければならない。

 福嶋大先生は、図々しくも、以下のようにいけしゃあしゃあとのたまうのである。


むろん、佐々木氏一人が「反動」に走るのは一向に構わないし、読者がその語り口に耽溺するのも自由だ。だが、作家や編集者、批評家は、何がほんとうに文学の未来に資するのか、いかにして文学をこの民主主義的社会に対応させていけばいいのか、最低限の歴史的素養を持って知性的に考えていただきたいと思う。


 ……「最低限の歴史的素養」などというものが必要なのは、テメー自身の方だよっ!


 それにしても、こういうエントリに対する反応で嫌になるのは、「自分が反対している福嶋亮大の言説の価値を貶めるために、細かいミスをあげつらっている」などと言われることだ。あらかじめ断っておくが、私は福嶋亮大が言っている内容自体については、賛成でも反対でもない。なぜなら、別にどうでもいいから。

 私が言いたいことは、ただ一つ。ここまでものを知らず、致命的な事実誤認を短い書評の中にすら大量に書いてしまうような人物は、そもそもプロの物書きとして金を取って文章を書く水準に達していない、ただそれだけである。

 しかし、ここまでミスを発見すると、その内容にも一つの疑問が浮かび上がってくることも確かである。それは、「情報」という概念を重視している、ということ自体にあるのではない。そうではなくて、「情報情報いってるわりには、お前自身が全然情報持ってねーじゃん」ということだ。

 まあ、この人がどのように「情報」という言葉を使いたいのか、きちんと定義して使っていないようであるということが一番大きいのだが。ただ、「二十世紀の小説が、十九世紀の小説のどのような部分から影響を受けたか」とか「超越論性という概念はいかに使われてきたのか」ということは、「情報」じゃないのか? 「情報」というのは、ただ単純に、現代の話題について流通していることだけを指すのか?

 過去についての知識も一元的にストックされているものがデータベースなんじゃないのか? いくらデータベースデータベース騒いだところで、自分がアクセスできるデータベースの内容がスカスカであるのなら、何の意味もないだろう。まったくもって、無様でみじめな話である。



«  | ホーム |  »

このブログについて

 ・毎月第1・第3土曜日に更新しています。それ以外にも不定期に更新していますので、月に2~3回程度の頻度で新しい記事を載せています。


 ・コメント欄は承認制です。管理者の直接の知人でもないのにタメ口で書き込まれたようなコメントは承認しませんのであしからず。


 ・なにか連絡事項のある方は、howardhoax(アットマーク)yahoo.co.jpまでどうぞ。

 

プロフィール

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

全記事表示リンク

広告

 

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

広告

 

検索フォーム

 

 

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

 

QR