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『フラッシュ:ローグズ・リローディド』に作り手の成長を見る

 2016年の新展開「リバース」によって、歴史的に積み上げられてきた従来の価値観を大幅に復活させたのが最近のDCコミックスの動向なのであり、結果として、我らがグリーンアローのヒゲもまた、見事復活を果たしたのでした。私もなんだかんだで15誌ほどの購読を継続していますが、総じてどれもライティングの質が高く、飽きずに読み続けることができています。
 そんな中でも、「フラッシュ」誌におけるジョシュア・ウィリアムスンのライティングには、刮目すべきところがあります。DCコミックスの長年に渡る遺産と現在のストーリーとを結合するという基本路線が、最もうまくいっているタイトルの一つであるように思われるからです。
 もともと、2011年以降の「New 52」において、最も悪影響を被ってしまったのが「フラッシュ」誌だったと私は考えています。フラッシュに関連するキャラクターは全員がファミリーとしてつながっているので、人間関係をいったん全部リセットして完全な新展開を図る意味がほぼないのですな。……結果として、従来からの読者としての視点で言わせてもらいますと、2011年から2016年までの「フラッシュ」誌は、全部読んでますが、ただの一回も面白くありませんでした……。
 とはいえ、まさにそのような、五年間をなんとか堪え忍んで、つまんないつまんないつまんない……ウォリーは? ウォリーは? ウォリーは? あとジェイは? などと言い続けてきたフラッシュファンこそが『DCユニヴァース:リバース』を最も楽しめたというのも事実なのであり、ジェフありがとう! と言うしかないのであります。
 ジェフ・ジョンズと言えば、その『DCユニヴァース:リバース』を最後にいったんコミック製作の現場から撤退してしまいましたが、その直前くらいの仕事に接していると、キャプテン・コールドの描写がもはや神業の域に達しているとしか思えなかったのです。
 たとえば、ジャスティスリーグの面々が乱心して人類の脅威となり、それを止めるのがルーサーとコールドさん……などという事件が起きた際、いざ事件が終結してみると、コールドさんがフラッシュをカチカチの氷漬けに。……そしてそこには、「へ、こんなこたーいつだってできるぜ」などとうそぶきつつも、ちゃっかりスマートフォンで記念撮影しているコールドさんの姿がありました。
 ジェフ・ジョンズのライティングによる「ジャスティスリーグ」で以上のような事件があった際、翌月の「フラッシュ」をわくわくしながら手に取ったものの、そこにあってしかるべき描写がないことに、私は心底がっかりしました。……だってですよ、「ジャスティスリーグ」でコールドさんとフラッシュのそんな場面があった以上、「フラッシュ」では、


  アジトでだらだらだべってるローグズのみなさん
   → そこにコールドさんから届いた、フラッシュ氷漬けの写メ
   → 「ヒャッハー!」


 ……という描写は、絶対にいるだろ!
 そういえばコールドさん関連で思い出しましたが、あの人、一時期、ジャスティスリーグのメンバーになってたんですよね……。しかし、「ジャスティスリーグ」で回想エピソードが絡んだりして時系列が曖昧なままの状態で、「リバース」で展開はそれまでの展開はいったんキャンセル。結果として、そもそもキャプテン・コールドが正確にはいつ加入していつ脱退したのか、うやむやになってる気がするんですが……。たしか、リーグ加入してた時期に、ミラーマスターと密談して「安心しろ、今の立場を利用して一世一代の大仕事を企んでるぜ」的なことを言ってたような……。う~ん、これはやっぱりアレですかねえ。バットマンに一瞬でバレて、シバかれたんですかねえ……。


 まあいずれにせよ、New 52時代の「フラッシュ」誌に欠けていたのが、歴史的蓄積に対する畏怖であったことだけは間違いないのです。だってですよ、「直近二十年ぶんのライターはマーク・ウェイドとジェフ・ジョンズのどちらかが担当がほとんど、それ以外の長期担当者は皆無」「伝説のキャラクターであるバリー・アレンが二十年以上ぶりに復活して間もない」「遂にスタートしたドラマ版「フラッシュ」は、フラッシュへの愛とオマージュが毎回炸裂しまくった上に、異常にハイクオリティ」「ドラマ版プロデューサーであり死ぬほど忙しいはずのジェフ・ジョンズは、(とりあえず第1シーズンの時点では)キャプテン・コールド登場回になると必ず自ら脚本を書き始めるという、いつもの感じを発揮」……などという状況が周囲を取り巻いているのに、歴史的蓄積に無頓着なままに単にフツーのオリジナルのストーリーを各ライターが展開していくのは、正直なところ理解に苦しむことでしかありませんでした。
 そして、結局、そんな「フラッシュ」誌の状況に終止符を打ったのは、「リバース」にともなう新シリーズ開始の時点での、ジョシュア・ウィリアムスンのライター就任であるのでした。







 『フラッシュ:ローグズ・リローディド』


  ライター:ジョシュア・ウィリアムスン
  アーティスト:カーマイン・ディ・ジャンドメニコ


 ……そんなわけで、「リバース」以降の現行シリーズの「フラッシュ」誌を創刊号から現在に至るまでライティングしているのがジョシュア・ウィリアムスンであるわけですが、14号から17号にかけて展開された『ローグズ・リローディド』は、この人のキャリアの中でも画期的なブレイクスルーを達成したように思える、会心の出来となっているのでした。
 私が現行シリーズを読み始めてすぐに感じたことは、とにかく、コミックのそこかしこにフラッシュというキャラクターへの愛着が散りばめられていることでした。個々のキャラクターがどのような状況に置かれているのかを理解し、何を考えどのように行動するのかを細かく検討した上で、相互の人間関係を丹念に描き出す……つまり、キャラクター描写を最優先するということに、ジョシュア・ウィリアムスンのライティングの大きな特徴があるわけです。
 そういう意味では、人間関係の丁寧な描写が優先される結果、ストーリーの進行はどうしてもゆるやかになり、刺激的でけれん味に満ちた展開がサクサク進むわけではない……というような評価だったのですが、この『ローグズ・リローディド』に至って、「フラッシュ」への愛に満ちたきめ細やかなキャラクター造形を保持した上で、なおかつ怒濤の展開を見せるストーリーテリングを実現するということが、かなり高度な水準で達成されていたのです。


 『ローグズ・リローディド』で描かれる事件の発端となるのは、「リバース」以降にセントラル・シティから姿を消していたローグズの帰還です。……もともと、ローグズの失踪を不審に思っていたフラッシュが、執拗な調査の結果、ローグズの秘密アジトを発見し、そこで、入念に構築された大がかりな犯罪計画を察知することになります。侵入者を排除するため自動的に爆破されたアジトを脱出したフラッシュは、ローグズの追跡を開始します……しかし、その計画を察知させることこそが、キャプテン・コールドの立てた策であるのでした。
 セントラル・シティから離れたコルト・マルティーズの美術館へのローグズの襲撃を事前に察知していたフラッシュは、ローグズを止めることに成功……したかに見えたものの、実はそこにいたのはローグズではなく、ミラーマスターが一人でローグズ全員の幻影を作り上げていたのにすぎないのでした。


  Well, you figured it out a few minutes faster than we expected.
  どうやらお前は、おれたちの予想より何分か早く理解したようだな。



  But every. Second. Counted.
  だが、全ての。秒が。計算済みだ。



 フラッシュに架空の犯罪を察知させ、そちらの追跡へと誘導する入念な囮計画を遂行した結果として、ローグズが獲得したのは、地上最速の男たるフラッシュに対する、一時間の優位。その猶予を得たローグズは、フラッシュの目が離れたセントラル・シティにおいて、それぞれが同時に、それぞれの能力を駆使し、異なる場所を一斉に襲うことを開始したのでした……。


 ……さて、そんなストーリーが語られることになるこの『ローグズ・リローディド』の面白さは、これまでひたすら何度も何度も何度も何度も語られてきたフラッシュとローグズとの闘いがこれまでどんなものであったのかを全てふまえ、また、両者の能力や性格やその結果として選ばれる先方なども全てふまえた上で、ローグズが本気でフラッシュを出し抜くためにはどのようにするのであろうかということを、徹底して構築していると言うことにあります。
 うんざりするほど何度もフラッシュに敗北してきたローグズが、単に正面からフラッシュに挑戦するはずはありません。その結果を踏まえたキャプテン・コールドが選択するのは、莫大な労力を割き、秒単位での計画を考え抜いた上で、やっとのことでようやく獲得できる、たかだか「一時間の時間的優位」を、最大限度までに有効活用することです。
 一方、フラッシュの側がローグズの罠をくぐり抜け計画の阻止に近づいていくことができるのは、ローグズの個々のメンバーの細かい性格すら把握しているからであることが、克明に描かれていきます。……そして、その結果として訪れる、フラッシュとキャプテン・コールドとの間で決着をつけることになるのが、相手の性格を最後の最後で読み違えてしまったことである――そしてまた、ここでは、『DCユニヴァース:リバース』の、とある場面とのつながりもある――ということも含めて、大変周到に構築されているストーリーなのでありました。
 『ローグズ・リローディド』を読んで改めて痛感したことは、ジョシュア・ウィリアムスンのようなライターがこのようなストーリーを語ることができたのは、まずそもそもの大前提として、個々のキャラクターへの愛着をこそ、絶対に譲ることのできない大前提として保持していたからだ、ということです。
 つまり、それぞれのキャラクターがどのような存在であるのかをその根幹に至るまで理解しようと努め、どのような状況でどのように行動するのかを詳細に把握し、立体的なキャラクター造形を獲得する……まずそれができたならば、そのキャラクター解釈を前提とした上で、人物関係を交錯させ複雑に入り組んだプロットを構築することなど、後からいくらでも可能になるのだ、ということです。
 言い換えれば、キャラクターへの愛着と、複雑なプロットの高度な技法とは、特に矛盾するものでもない。しかし、まずキャラクター解釈を基盤として固めてからプロット構築の洗練に向かうことはできても、その逆の方向性はありえないのではないでしょうか。……それこそ、ストーリー展開の複雑化・辻褄合わせだけを優先すると、映画の方の『シヴィル・ウォー』のようなシロモノができ上がることになるのだと思われます。
 まず愛着が先にあれば、ストーリーテリングの技術など後からいくらでも成長させていけるということを、「フラッシュ」誌においてジョシュア・ウィリアムスンは現在進行形で実証してくれているように思えるのです。


 そんな感じで、近年のライターとしての成長著しいジョシュア・ウィリアムスンですが、どうも既に、DC内部的にはジェフ・ジョンズの後継者と目されてるっぽいですね。先日はクロスオーヴァー『ジャスティスリーグvsスーサイド・スクワド』のライティングを担当していましたが、まあこれに関しては、多くのキャラクターを裁かなければいけない大規模のクロスオーヴァーとしては、まあ可もなく不可もなしといったところかなと(とはいえ、自分以外は全員ヴィランの寄せ集めチームで狂的に立ち向かわなければいけない状況で、「このチームはジャスティスリーグだ!」と言い張ってみるバットマンは相変わらず最高だと思いました)。
 ジェフ・ジョンズをして、「彼は、いつの日か偉大なライターになる男だ……」と言わしめたジョシュア・ウィリアムスンの今後の動向を、しっかりと見ていきたいと思っております。










「アストロシティ」第3シリーズの最近の展開

 というわけで、前回のエントリの続き。











 『アストロシティ:リフレクションズ』(ハードカヴァーとkindle版)





  ライター:カート・ビュシーク

  アーティスト:ブレント・アンダースン





 「アストロシティ」の現行の第3シリーズの、26号、29号、30号および32~34号を収録したのが『リフレクションズ』。この単行本は単独の長篇アークではなく、いくつかのエピソードが収録されています。「アストロシティ」のそもそもの最初のサマリタンの話のその後の他、地球に侵攻してくるエイリアンの惑星の、侵略組織の末端で平和に暮らす家族の話(これは設定からして非常に「アストロシティ」らしい話です)などがあります。

 さて、そんな中でも、この単行本で中心となっているのが、32~34号で展開される、『ターニシュト・エンジェル』の後日譚です。

 さて、『ターニシュト・エンジェル』の事件のなりゆきで私立探偵となったスティールジャックことカール・ダンウィズは、そのまま私立探偵として生計を立てていました。

 そんなカールの前に依頼者として現れたのは、カトラス……かつてカールを含む三人組のヴィラン集団「テリファイング・スリー」の女リーダーだった人物です。かつてカールは、ささいな行き違いを元にカトラスから制裁を受け、以来決別して会うこともありませんでした。そんなカールの元に訪れたカトラスの依頼とは、とっくの昔に犯罪からは足を洗ったにもかかわらず、カトラスと全く同じ手口の銀行強盗が現れ、見に覚えもないままに容疑者として警察から追われている、そんな謎めいた状況の解明であるのでした……。





 ……とまあ、そんなストーリーが展開されるわけですが……正直なところ、『ターニシュト・エンジェル』に比べるとだいぶ落ちるものなので、「そもそもこの後日譚って必要だったのかなあ?」とまで思えてしまうのでした。

 『ターニシュト・エンジェル』の場合、過去に囚われた人物としてのスティールジャックが挑む事件の黒幕が、スティールジャックとは異なる形で過去に囚われた人物で、両者の運命が交錯しつつ、思い通りに行かない人生の浮き沈み、その陰影が描かれるさまがなんともすばらしかったのですが……この後日譚になると、スティールジャックは、私立探偵として生計を立てることによって、安らぎと居場所を既に獲得していることが前提になっているので、特に陰影と悲哀とかはないんですよねえ。

 今回の事件の黒幕にしても、過去の因縁とかがある相手ではないことが早々に明らかになります。スティールジャックやカトラスに執着しているのが、過去の有名ヴィランに対するファンボーイ的視点を持つ人物だと言うことで、そういう意味では一種メタ的な話ではあるんですが、それにしてもぺらぺらな話だよなあ、と。





 ……まあ、カート・ビュシークの健康状態の悪さゆえに「アストロシティ」が長期中断することはたびたびあったので、そういう意味では、ほぼ月刊ペースを保って現行の第シリーズがきちんと刊行されていること時点で喜ぶべきなのかもしれませんが……(ただし、アートはブレント・アンダースンが担当しないことも増えてきました)。やはり、「アストロシティ」という作品自体が、さすがに、ヒーローコミックにおける歴史的役割は既に完全に果たし終えたのかなあ、とも最近は思えてきました。

 現行シリーズの作品を読んでいて、例えば、初期から登場していたが細かく描写されているわけではなかったキャラクターを中心に据えた話が出てきても、初出の時点と照らし合わせてきちんと辻褄が合っていたりするわけです。つまり、「アストロシティ」は、初期の段階でチョイ役程度だったキャラクターにも詳細な設定が確定しており、それをきちんと展開するだけでいくらでも続きは語れる、ということなんでしょう。しかしそれは、初期の時点で確定していた作品世界が良くも悪くもそのままのクオリティで展開していくということなのであって、作品世界の根本的な変質はそもそも望めない、ということでもあります。

 ……とはいえ、特にこの『リフレクションズ』以降の展開を読んでいると、さすがにこの「アストロシティ」も話をたたみにかかったように思える展開が出てきてもいます。

 例えば、35号と36号で語られるのは……遂にというか、最初期から登場しているヒーロー、ジャック・イン・ザ・ボックスの詳細な来歴です。親子二代およびサイドキックからの昇格、都合三代に渡って継承されてきたジャック・イン・ザ・ボックスの来歴が、おそらくは四代目を継承するであろうサイドキックの少年の視点から語られることになります。

 一方、39号と40号で語られるのは、最初の単行本『ライフ・イン・ザ・ビッグ・シティ』に登場した、シャドウヒルに暮らす一般人の視点からアストロシティの得意なあり方を語ることになったマルタという女性の、二十年後のお話。独立し、経済的に豊かになりながらも依然としてシャドウヒルに暮らすマルタの元に、ある日助けを求めて訪れたのは、なんとハングドマンだった……。

 ……なんというか、いよいよハングドマンのオリジン(というか、厳密には、ハングドマンがどのようにして存在しているのかの本質を明かしつつ語られる、「現行のハングドマン」のオリジン)まで言及されてしまうということで、いよいよ本当に「アストロシティ」にも終わりが近づいているのではないかと感じた次第なのでした。












ヒーローコミックとパルプ・フィクションを融合する――『アストロシティ:ザ・ターニシュト・エンジェル』

 少し前のことですが、「アストロシティ」の現行シリーズの32号から34号にかけて、『ターニシュト・エンジェル』の続編が展開されていました。そこで、改めて『ターニシュト・エンジェル』の方も実に久し振りに読み返してみたのですが……やっぱり、このころの「アストロシティ」は非常に面白いなあ、と思いました。ということがあったので、まずは『ターニシュト・エンジェル』の方から紹介してみたいと思います。







 『アストロシティ:ザ・ターニシュト・エンジェル』


   ライター:カート・ビュシーク
   アーティスト:ブレント・アンダースン


 「アストロシティ」第2シリーズの14号から20号、単行本で言うと四番目に当たるのが『ターニシュト・エンジェル』です。
 さて、この『ターニシュト・エンジェル』というコミックが目指しているのは、一言で言えば、ヒーローコミックの定型と、小説や映画における犯罪ものの定型とを組み合わせ、融合させるということにあります。
 ストーリーが始まるのは、かつて凶悪なヴィラン「スティールジャック」として収監されていたカール・ダンウィズが、模範囚として刑期を勤め上げ、シャバに出てくるところからです。かつては血気盛んで手に負えない犯罪者であったスティールジャックも、もはや生活に疲れ、くたびれた中年でしかありません。
 再び犯罪者としての生活に舞い戻るつもりもなく、とはいえカタギの仕事を得て収入を得るあてもなく……今後の見通しもないままに、自身が生まれ育ったキーファー・スクウェアをさまよい歩くスティールジャックは、自分の生い立ちを回想します。
 治安も悪く、誰もがたやすく犯罪に手を染める薄汚れた街で育ったスティールジャックには、周囲の多くがそうであったように、いつのまにか犯罪者としての道を歩んでいたのでした。それは必ずしも、自ら望んで選んだ道ではない……とりわけ、アストロシティという場所においては、ひとたび空を見上げれば、きらびやかな超人たちが宙を舞っていることが日常茶飯事です。母親がそう呼んでいたのと同じく、彼らを「エンジェル」と呼ぶ   もまた、幼い頃から超人たちへの憧れを持っていました。しかし、犯罪に手を染めることくらいに依ってしか貧困から脱出する術などないキーファー・スクウェアで自身もまた超人になることを願ってスーパーパワーを手に入れたところで……その過程で、既に裏社会とのしがらみにズブズブになっているカールには、ヴィランになる道しか残されてはいません。かくして、カールは「スティールジャケッティド・マン」になったのでした……。
 おおよそ以上のような設定で始まる『ターニシュト・エンジェル』は、ヴィランを中心としたストーリーを展開するにあたって、犯罪小説や犯罪映画の定型を非常に洗練された形で作中に取り込むことに成功しています。なるほど、ある人物がヴィランになってしまったとして、根っからの悪党というわけでもない人物がそうなることもありうるだろうし、その生い立ちをていねいに描き出していくのならば、犯罪小説や犯罪映画が描いてきた犯罪者たちの人生を参照することは、極めて有効な方法であるでしょう。
 また、犯罪もののジャンル・フィクションとの融合は、なにもストーリーのみにおいて展開されているというわけでもありません。各章のタイトルなどを構成するフォントなどのヴィジュアル面の要素が、アメリカの多くの犯罪小説の舞台となった、チープでぺらぺらのパルプ・マガジンの類の雰囲気を忠実に再現しています。
 そして、更には……全身を鋼鉄でコーティングされることによってスーパーパワーを得たスティールジャックの見た目はと言えば……そう! なんと、ロバート・ミッチャムにそっくりなのであります……!
 『ターニシュト・エンジェル』の成功の最大の要因は、まさに、このキャスティングの妙にあると言えるでしょう。犯罪映画に出演するときのロバート・ミッチャムと言えば……なるほど、確かにどことなく疲労した雰囲気を漂わせていて、自分から活動的に行動する人物であるようには見えません。しかし、ただ単にくたびれたよれよれの中年というわけでもなく、その疲労したけだるい雰囲気が、どことなく高貴なありさまを醸しだし、退廃した空気、奇妙な色気を発散している……。
 何の希望もなく犯罪に満ちた汚れた街を彷徨する、全身を鋼鉄でコーティングされて黒光りするロバート・ミッチャム……このような設定こそが、ヒーローコミックと犯罪映画とを完璧に融合させることに成功しているのです(ただし、ミッチャムそのものを引き写すのではなく、キャラクターの性質上ミッチャムほど鋭い顔つきにはしなかったことも明言されてはいますが)。


 さて、シャバに出てきたスティールジャックは、もはや犯罪者としての生活に飽き飽きしており、その道に舞い戻るつもりはありません。しかし、ただでさえ前科者である上に鋼鉄の体を持て余す異形の男には、カタギの仕事がそうそう見つかることもありません。
 自分には生きていく希望も目的もない中、ふと空を見上げれば、やはりそこには美しい「エンジェル」たちがいる……しかしそれは、自分に手が届く存在ではありません。一方、自分が投獄されている間に成長した若い世代は、かつての自分と同じく、うんざりする生活から抜け出すために犯罪の道に飛び込もうとしています。ろくな目に遭わないことはわかっているから、それを止める年長者の側の役回りを演じる羽目になりながらも、止まるはずがない若者の側の気持ちもわかってしまうという、あまりにももどかしい板挟みの状態……。
 そんなことが今日も繰り返されているキーファー・スクウェアで、不可解な事件が進行しています。スティールジャックと同じような境遇を持つかつてのヴィランたちが、何者かによって殺害される事件が連続していたのです。
 キーファー・スクウェアのなじみの人々によってスティールジャックに持ちかけられたのは、この連続殺人を捜査するために体を張る、私立探偵になることなのでした。……知力ではなく、自分の体を張ることによって汚れた街の犯罪の奥深くへと潜り込んでいくスティールジャックが出会うのは、自分と同じく道を踏み外してヴィランになり、いつしかキーファー・スクウェアに安らぎを見出した者であり……あるいは、かつては輝かしいヒーローの一人でありながら、とあるスキャンダルの渦中で失墜し、孤独に失意の日々を過ごしている者であるのでした。
 キーファー・スクウェアでは、誰もが失意と諦念の中にいます……かつて願った夢や希望は決して叶うことがなく、地べたをはう暮らしから脱するための逆転を狙うには犯罪に手を染めるしかなく、とはいえ、その道をたどってたところで、うまくいくことなどない。歳月が過ぎたあとで自分の内部に蓄積されているのは、過去の人生に対する後悔と、夢も希望もなく生きることへの諦念だけである……キーファー・スクウェアでは、だれもがそのようにして暮らしています。
 そんな街の中で、世間から見捨てられ爪弾きとなった人々だけを狙った連続殺人を捜査するスティールジャックがつかみつつあった真実とは、この街に暮らす人々を一網打尽にする陰謀が進行していることでした。しかしスティールジャックは、独自の捜査の渦中で、誤認され逮捕されてしまうことになります。警察なりヒーローたちなりからすれば犯罪者にすぎない自分の捜査する陰謀そのものが誰からも信じらないという状況で、スティールジャックは、次のように独白するに至ります。


 The people I was hired to save are going to get hurt, and bad -- while I go back inside for trying to help someone.
 守られるためにおれを雇った人々が、被害を受けることになるだろう――誰かを守ろうとしたがためにおれがムショに戻っている間に。



 It shouldn't work that way. It can't work that way. Someone's got to stop it.
 こんな風であってはならない。こんなことはありえない。誰かが止めなければならない。



 I just wish I knew who could. The people of Kiefer Square need a hero, for once.
 おれはただ、適任者を知りたかっただけだ。今度ばかりは、キーファー・スクウェアの人々にはヒーローが必要なんだ。



 But they've got is me.
 しかし、彼らには、おれしかいないのだ。



 天空を舞うのを地べたから見上げるだけだった存在のことを一貫して「エンジェル」と呼んできたスティールジャックは、自分がならなければならないものと決意したとき、初めて、「ヒーロー」という言葉を用いることになったのでした。









アメリカン・ドリームを再発見する――「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の到達点(下)

 ……というわけで、前回の続き。「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」は、アメリカの現実社会の情勢を執拗に描きつつその暗部を徹底して見据えていたのだが、その果てに、あの超絶的にすばらしい15号に到達したのだった(2016年の個人的なベスト・シングルイシューは、「DCユニヴァース:リバース」さえなければ、間違いなくこの15号だったのだが……)。
 もともと、15号の予告されていたカヴァーアートを見てみると、Dマンの、それも、プロレス会場にいる勇姿……そして、そこに添えられた説明はと言えば、「君たち読者が望んだからこそ、この号は実現したのだ!(……えーと、まあ、君たちと言ってもその内のほんのごく一部かもしれないが……)」などと書かれていた。
 ニック・スペンサーと言えば、ネタキャラ扱いされて失墜したDマンの名誉を完全に回復するという、キャプテン・アメリカ史上不滅の偉業を成し遂げたライターである。その後のDマンの活躍を見ていても……例えば、敵によって追いつめられ窮地に陥ったかに見えたサムが「もうおれへの救援はないかと思ったか?」とか言い、そこでいざページをめくってみると、見開きブチ抜きで救出に駆けつけるDマン! ……などという、全世界で三億五千万人はくだらないとも言われるDマンファン歓喜の、とんでもなくすばらしいストーリーが展開されているのであった。
 そんなDマンが、ついにプロレスの世界に舞い戻る――まあ、そうは言っても、メインのストーリーラインからは外れた番外編のようなものなのだろうと思ってはいたのだが……あにはからんや、これが、思いっきりこのタイトルの本筋に絡んだ話になっているのであった。


 さて、15号の冒頭で語られるのは、チャリティのための興業で、Dマンことデニス・ダンフィがプロレス復帰を果たすことになった顛末である……そして、その舞台となるのは……そう、プロレスの殿堂、MSG!
 サムの周辺の一行もこの試合を観戦に赴くことになるのだが……ただ一人、いつもと様子が異なる人物がいるのだ。サムがキャプテン・アメリカになってから後、新たにファルコンとなったホアキン・トレスである。……正直なところ、それまでの時点ではそれほどはっきりとしたキャラが立っているようにも見えなかったホアキンであったのだが、いざみんなでプロレスを見に行くとなると、ものすごいテンションで早口でまくし立て始め、「おれはWWEも新日本プロレスもROHもルチャ・アンダーグラウンドも見てる! しかし、今日は! 今日の試合だけは特別なのだ!」などと、別に聞かれてもいないうんちくを盛り込みつつ、デモリション・ダンフィがいかに特別なレスラーであるのかを声高に誉め称え、周囲にどん引きされつつ「お前、そんな奴だったのかよ」的に困惑されるのであった……(わかる、わかるぞ、この感じ……我が身を振り返ってみても覚えがありすぎて、全く、身につまされるものがありますなあ……とはいえ、ホアキンよ、これだけは言っておきたい。君は年代的にECWは直接見てないんだろうが、たかだかそのあたりの団体名を挙げた程度で「ハードコア」とか言うのはやめてもらおうか……アメリカン・プロレスの文脈においては、それは、我らECWファンの言葉なのだよ……)
 かくして、バトルスター(ジョン・ウォーカーがキャプテン・アメリカであった頃のバッキーでもあった)との因縁の一戦に臨むDマン。しかし、まさに試合の進行中に、会場内で密かに犯罪が発生していることを察知すると、Dマンとバトルスターは協力して犯罪者たちと戦い始める……
 まあ、それ自体はありがちな展開ではあるのだが、特筆すべきなのは、エンジェル・アンズエタのアートであろう。犯罪者たちとの文字通りの場外乱闘の渦中で繰り出される椅子攻撃が完全に「プロレスの椅子攻撃」のフォームで描かれていることには感動するし、その他の一つ一つのプロレス技の人体の描写もいちいち的確なのだ。


 以上のようなストーリーを展開されていく15号を私が絶賛するのは、なにも、いくらなんでもこの私と趣味が同じすぎるニック・スペンサーのプロレス愛が全篇で炸裂しているからだけではない。……いや、もちろん、ホアキンがプロレスについて「およそ人類によって創造された中でも、最も偉大なスポーツ・イヴェント」などと述べる言葉に全身全霊を込めて全力で同意するのにも吝かではないし、プロレスこそはアメリカ文化の根源にからみつき、深く掘り下げればアメリカの中枢にたどり着く、深遠なる究極のジャンルであると私も思うのだが、しかし、何も、この15号は、どうしてもプロレスを取り上げなければ成立しなかったというわけではない。
 この15号において、最も明らかな形で表れていること……それは、ニック・スペンサーは、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の創刊号以来、自分の好きなものだけを好きなように思うがままに語るという、ほとんど幼児的なまでの己の衝動に徹底して忠実であり続けたということだ。
 そして、そのようなことは、自分が好きなことをいっても叩かれないような、安全地帯を確保した上でなされるのではない。現在のアメリカを直視して、その醜悪な部分を、自分の目に映るがままに、醜悪なままに描き出すこと。批判すべきと思えることには、容赦なく批判すること。無防備な言論ゆえに罵詈雑言を浴びせかけられようとも、そんなことに屈せず己の立場を貫くこと。誰にどう思われようが、社会的な体裁がどうであろうが、自分が好きなものに対してどこまでも忠実であること。……つまり、一言で言えば、徹底して自由であること。
 それこそは、アメリカ文学の中でもごく一握りの偉大な作品だけが到達しうる境地なのだ。脱走した黒人奴隷の処遇を巡って自分の感情と社会倫理が対立したときのハックルベリ・フィンの態度……あるいは、アメリカ文学の他の言葉で言うなら、悲しみと虚無の間では、常に悲しみを選ぶということ。
 アメリカの暗部をなんら飾りたてることもせずに見つめ率直に語ることは、アメリカを否定することではない。そんな旅をくぐり抜けた後だからこそ……15号の小さな事件が解決した後で、興業が再開された会場内を見渡したとき、サムは次のように思うに至ったのだ。


 But then, looking around, it hits me--
 だがそのとき、周囲を見渡して、思い浮かんだことがある――



 --everyone here is doing the same thing. People of all races, different backgrounds--
 ここにいる誰もが、同じことをしている。あらゆる人種の、異なる背景を持つ人々が――



 --coming together to celebrate something they love.
 ――ともに集まり、自分の愛するものを祝福している。



 Forgetting about all the bad in the world--
 この世界の悪いことを全て忘れ――



 --and just focusing on what makes them happy for once.
 ――そしてただ、自分を幸せにしてくれるものだけに集中する。



 With everything I've been through lately, it's just what I needed to see--
 最近くぐり抜けてきたあらゆることを考えれば、おれが目にすべきものは、ただこれだけだったんだ――



 --and I'm not the only one.
 ――そう、おれは独りじゃない。



 Now I know. Tomorrow, we'll be back to the same old problems.
 もうわかってる。明日になれば、おれたちはまた、古くからの同じ問題に戻るだろう。



 We'll be at each other's throats all over again. But for now--
 おれたちは再び、互いにいがみ合うだろう。だが、今だけは――



 --we get to be what always wanted to be.
 ――おれたちは、いつだって自分がなりたいと望んできたものになれる。



 We get to be friends and allies again.
 おれたちは、再び仲間になることができる。



 ……例えばプロレス会場にひとたび赴きさえすればーーたとえそれがその場限りのつかの間の夢にすぎないものであろうともーーアメリカン・ドリームは、既にその場に存在している。
 だからこそ、15号を最後まで読み終えたとき、アメリカのあらゆる暗部をくぐり抜けたその後でなお、サム・ウィルスンは、自分はアメリカン・ヒーローであり続けることができるし、またそう望み続けることができるのだと、確信するに至ったのだ。


 ……などということを、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」を読みながら考えていたのだが、まさにこの文章を書いている途中に、メリル・ストリープによるドナルド・トランプ批判のスピーチが話題になっていた。
 私がその内容に接して思ったのは、やはりアメリカのインテリ層は基本的にダメである……ということだった。メリル・ストリープは、ハリウッドの多様性を称揚しつつ、それが失われたときにアメリカに残されるのは、アメフトやMMAのような「芸術ではない」ものだけなのだという。
 メリル・ストリープの言う文脈からすれば、プロレスもまた「芸術ではない」ものにくくられるのだろう。そして実際、WWEと親密な関係を持つトランプがそのショーアップされた演出を自身の政治活動に流用してきたことは事実であるし、様々なところで指摘されてもいる。
 だが、だからといって、なぜ「ドナルド・トランプ的なもの」と「プロレス的なもの」がイコールで結びつけられる必要があるのか。トランプが利用しているようなプロレス流の演出は、80年代以降のアメリカのプロレス業界の産業構造の変化の中で、利潤を拡大し企業としての最適化を計るために追求されてきたものでしかないわけだ(その興業内容での象徴的存在こそが、(トランプも参加したことのある)「レッスルマニア」なのであり、このイメージこそが、現在のアメリカン・プロレスの最大公約数的なイメージになっているのだろうが……例えば、80年代以降の業界の変質の中で、プロレスのもともとの本質が失われていくこと抵抗した人々もいたわけで……巨大な資本もなければ、優れた身体能力なり技術なりを持つ選手を集めることもできない、持たざる者たちによる反逆の狼煙こそがECWという団体だったのであり、めいめいがなけなしの持ち物とプロレスへの情熱だけを持ち寄り、言いたいことを言い、やりたいことをやり、誰もが自由に振る舞う、いつかその時間が終わるとも思えぬままに、アメリカの場末で乱痴気騒ぎが果てしもなく繰り広げられ続けたのであった……)。
 つまり、人々が安易にトランプと結びつけて語りたがる「プロレス的なもの」とは、プロレスと言ってもせいぜいがここ三十年程度の潮流にすぎず、そんなものはプロレスの本質でも何でもないのだ。トランプはプロレスのごく一部をかすめ取っているだけなのにもかかわらず、あたかもそれがプロレスというジャンルそのものであるかのように語る言説は、あまりにも粗雑なのだ。
 そして、アメフトやMMAをごく大ざっぱにひとくくりにして「芸術ではない」と断じてしまうメリル・ストリープの粗雑さは、これと同種のものであるだろう。……そもそも、メリル・ストリープが称揚する「ハリウッドの多様性」なるものがどこからきたのかと言えば、初期の映画産業が非常に社会的地位が低いゆえに、貧しい移民でも容易に職を得ることができたということにある。
 低俗なものだと蔑視されるがゆえに誰でも参入でき、ゆえに多様性が担保され、アメリカの大衆娯楽の基盤を形成する――そのような源流を持つという意味では、アメリカの映画とプロレスとコミックとは、同質のものなのだ。
 「ドナルド・トランプ的なもの」と「プロレス的なもの」とを同じカテゴリーに放り込んで、ひとくくりにして拒絶すること……それこそが、アメリカにおいては既に敗北し破綻したことであるのが、なぜわからないのか。必要なのは、トランプに簒奪されたかに見える「プロレス的なもの」の本質をえぐり出し、トランプの手から取り戻すことであろう。
 そして、ニック・スペンサーが「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」において展開しているのは、まさにそのようなことであるのだ。











アメリカン・ドリームを再発見する――「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の到達点(上)

 現在の「キャプテン・アメリカ」誌は「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」と「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の二誌が同時進行で展開しているが、両誌のライターを兼任するのがニック・スペンサー。このニック・スペンサーの仕事はキャプテン・アメリカの歴史にもアメリカン・コミックスの歴史にも残る偉業になりつつあると私は評価しているのだが――一方で、そもそもの就任当初から、ニック・スペンサーのライティングは、普段コミックを読まない層をも巻き込んで大バッシングを浴び続けてきている。それは要するに、「アメリカ人ができれば目を逸らしたい、醜悪なアメリカの現実」を生々しくさらけ出してしまっているからなのではないかと考えている。
 醜悪なアメリカの現実を作中に盛り込みつつアメリカの理念との対立を描くということ自体は、「キャプテン・アメリカ」誌において何十年も前から展開され続けてきたことではあるのだけれど、「別にふだんキャプテン・アメリカのコミックを読んでいるわけではないけれど、キャプテン・アメリカのあるべき姿については何かしら注文をつけたい層」というのがなぜか一定数いて、そういう人々によってニック・スペンサーがボロクソに叩かれ続けているわけだ。
 ニック・スペンサーのライティングによる「キャプテン・アメリカ」は、非読者すらをも含めた多くの層からの攻撃を誘発させずにはいない。そして、それは、このコミックが、最も危険で過激な意味で、現実社会で我々を取り巻く政治性の中枢に踏み込んだものであるからだと思うのだ。……それは、一言で言えば、「政治的な正しさ」の限界を突き抜けたその先にまで赴くことである。
 例えば、これと対照的なものを挙げるならば、近年のディズニーの長篇アニメ作品と比較すれば状況が整理されると思う。……ディズニーのアニメは、多くの場合、まったくもって一分の隙もないまでに、政治的に正しい。そこでは、差別的とみなされる言説は用意周到に排除され、そのコードが厳密に遵守された上で、その枠内で高度なストーリーテリングが展開される。……脚本面での技術的な達成の職人的な評価という意味では、手放しで誉めるしかないようなものが量産される体制が整えられていることが明らかなのだ。そして、作品の全体像が完成してみれば、政治的正しさによって保証された、アメリカの理念のあるべき姿が明確に表現された理想郷がそこにある……。
 しかし、今や、政治的正しさのコードがその全体に張り巡らされ巧妙に統御されたフィクションから周到に排除され、そもそも存在すらしないことになっているものが何であるのかは明らかなのだ。……もちろん、「ドナルド・トランプ的なもの」である。
 有り体に言ってしまえば、ドナルド・トランプ的なものを支持してしまうことは、その人物の弱さと愚かさをさらけ出すことでしかない。しかし、現実には、その種の単にどうしようもない弱さや愚かさが満ちている。単に醜悪な差別意識を大声でがなり立てたい。余所者を排除したい。自分の正当性を無条件に肯定されたい……それらは、あまりにも卑小で平凡な、ちっぽけな悪である。
 そして、どこまでも醜く浅ましいだけで、どこにでもあるゆえにうんざりさせるような平凡な悪は、フィクションには取り込みづらい。政治的に正しい作品の内部で「悪」を司るのは、誰もがそれを「悪」であるのだと認識できる、わかりやすい巨悪でなければならない。……しかし、だからこそ、そのようにして仮構された空間の内部で表現された理想としてのアメリカの理念は、現実のアメリカからはかけ離れたものともなる。アメリカのインテリ層からは単に馬鹿にされていただけの「ドナルド・トランプ的なもの」の浮上は世界的に衝撃をもたらしたが、そのような潮流がドナルド・トランプという固有名と明確に結びつけられるのにも先駆けて、ニック・スペンサーは既にして闘争を開始していたのである。
 どこまでも醜く浅ましく、騒々しい罵詈雑言に満たされた場所としてのアメリカを直視するーーそれも、単に露悪的な現実の告発としててではなく、いまだそこに存在するはずのアメリカン・ドリームを見出すために。このあまりにも無謀な正面突破を敢行してみせた「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」という作品に対しては、正当な評価を下さなければ礼に欠くだろう。……すなわち、これこそが、真に偉大な境地に達したアメリカン・コミックスであるのだ、と。


 ……などと、まずはニック・スペンサーによる現行の「キャプテン・アメリカ」誌への評価を書いてみたのだが、とりあえず、細部がどのようになっているのかを見るために、現状がどのように展開されてきたのかを整理してみたい。
 もともと、ニック・スペンサーがライターに就任して「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」が創刊された時点では、スティーヴ・ロジャースはキャプテン・アメリカの座から退いていた。とあるヴィランとの戦闘の渦中で超人血清の効果を打ち消された結果、本来の年齢ならそうなっていたであろうはずの老人になってしまったのだ。
 この事件を受けてサムがキャプテン・アメリカの座を継承したのだったが……それからしばらくして改めてシリーズを仕切り直した「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」の創刊号は、二十世紀FOXなどの一般のメディアに取り上げられて、大バッシングを受けることになる。というのも、サム・ウィルスンは(個人ではなくあくまでもキャプテン・アメリカとして)特定の政治的問題についても立場をはっきりさせることを表明した結果、不法移民を攻撃する人々との戦闘を展開したからだ。
 実は、そもそも作中では、サムはアメリカ中から大バッシングを受け賛否両論が激しく分かれることが描き出されていたのだが、まさにその通りの状況が現実のアメリカにおいても実現し、フィクションの内部と外部が切れ目なくつながるという、奇妙な構図が成立することになったのだった。
 フィクションの内部のこととしては、その後の展開として、『アヴェンジャーズ:スタンドオフ』が勃発。ざっくり言うと、コズミック・キューブの現実改変能力を利用して収監されたヴィランを洗脳し、平凡な一般市民であると思わせて郊外の平和な街で暮らさせる……という、S.H.I.E.L.D.でマリア・ヒルが密かに進めていた策が破綻。洗脳が解けたヴィランたちが一斉に暴動を起こすという事件だ。
 この事件の渦中で、バッキーやリックやサムのような歴代のスティーヴの協力者たちが事態の収拾を図って奔走する中、コズミック・キューブの力によってスティーヴは若返り、元の姿を取り戻すことになるのであった。
 スティーヴは、シールドはサムに預けたまま、自身もキャプテン・アメリカとして復帰。結果として、キャプテン・アメリカが二人いる状態となり、「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」誌も創刊されることとなった。
 ……で、この「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の創刊号で、スティーヴが実は以前からハイドラのスパイであったことが発覚し、大騒ぎになってまたもや大バッシングが吹き荒れたわけだが……改めて『スタンドオフ』にさかのぼって読み返してみると、実は、その件の伏線はきちんと敷かれていたことがわかる。
 『スタンドオフ』で登場したコズミック・キューブというのは、正確に言うと、コズミック・キューブのかけらが「幼女の姿をして人格を持った存在」であったのだけれど、実は、コズミック・キューブとして長時間をともに過ごしたレッドスカルになついており、現実改変能力によってスティーヴを本来の姿に復活させる過程で、スティーヴの過去そのものを、レッドスカルによって都合のよいものに変えていたのであった(……念のために書いておくと、この経緯はストーリー全体の中でその伏線も含めてきちんと辻褄が合うように書かれているので、行き当たりばったりに展開を途中で変更しているようなことはありえない)。
 かくして、表向きは元通りのキャプテン・アメリカの姿でありながら、実は、そもそもの最初からハイドラのスパイであったことになったスティーヴの姿が、「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」誌において描かれることになるのであった……。


 ……おおよそ以上のような感じで、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」と「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の両誌のライティングをニック・スペンサーが兼任する体制はいまだ継続しているが、継続してバッシングを受け続けてきた上に、とりわけ「サム・ウィルスン」の方は、売り上げ面でも順調に降下を続けている。
 もちろん、永年に渡ってキャプテン・アメリカであったスティーヴの知名度こそが、そのような状況を招いているのであろう……だが、両誌をきちんと読み比べてみる限り、あくまでもメインのストーリーが展開されているのは「サム・ウィルスン」の方であり、「スティーヴ・ロジャース」の方こそがサブにすぎないように私には思えるのだ(……まあ、そもそもの最初からハイドラのスパイであることになったスティーヴのストーリーも、それはそれで面白くはあるんですが。なんというか……スティーヴって、もともと戦略家としての高い能力を持つことになってたとはいえ、一本気で直情怪行の人でもあったから、頭脳面ではそこまでめだってはいなかった。しかし、ハイドラのスパイとして、手段・方法を選ばず各方面で知略を用いて暗躍し始めた結果、もはやバットマン並みの脅威になってますな……)。
 コズミック・キューブによって現実が改変され(という設定自体はあまり流布しなかったのだろうが)スティーヴがハイドラのスパイであったことが明らかになった結果、キャプテン・アメリカの本質が損なわれたと感じた人々は、このコミックへの大バッシングへと走った。……しかし、むしろ、キャプテン・アメリカの本質をいったん解体するというまさにそのことこそが、ニック・スペンサーが語ろうとしているストーリーの骨子なのである。
 ……それは、一言で言ってしまえば……現在のアメリカ合衆国とは、スティーヴ・ロジャースがキャプテン・アメリカであるのに値するものではないということだ。
 現在のアメリカ合衆国の現状は、あまりにも醜悪すぎる……その現実を冷徹に描き出そうとするとき、アメリカの建国以来の理念を強固に信じている人物を、醜く浅ましい現実と格闘する視点に据えることができるだろうか。
 あるいは、そのことは、こう言い換えることもできるーースティーヴ・ロジャースという男は、アメリカン・ドリームを再発見することは決してできない、なぜならば、彼の内からそれが根本的に失われることは絶対にありえないからだ、と。
 だからこそ、「キャプテン・アメリカ」というコミックを通してアメリカを語るために必要なのは、アメリカの理念について確信を持つことができず、醜い現実との間に板挟みになり、揺れ動き続ける人物であるのだ。スティーヴ・ロジャースの内部からキャプテン・アメリカとしての人格が失われてしまった状況だからこそ、サム・ウィルスンが、キャプテン・アメリカとは何であるのかを再発見しなければならないということだ。
 かくして、サム・ウィルスンの冒険は、アメリカの暗部をひたすら直視し続ける悪夢となる。不法移民の排撃者・レイシストと戦いコミック外からすらも叩かれたサムは、しかし、アメリカの闇の奥へ奥へと突き進む。サムは時にはウォール街に喧嘩を売り、また時には(ちょうど現実のアメリカで起きた事件をダイレクトに参照した)警官による差別も絡んだ暴行事件へと対処を迫られる。あるいは、『シヴィル・ウォーⅡ』のタイインとして、本編で勃発した事件の一因となったローディの死を、あくまでも「黒人ヒーローの死」ととらえ、ローディの葬儀を通して黒人ヒーローコミュニティの内部の有様を描き出すところなども、圧倒的にすばらしい(……まあ、これについては、本編の方がアレだということもありますが……)。
 ……そして、これらのエピソードは、現実を参照しているがゆえに「リアル」であるのでは、必ずしもない。これら全てのストーリーを、ニック・スペンサーは、頑固なまでに徹底して、マーク・グルーエンウォルドがライティングを担当していた時期の「キャプテン・アメリカ」からのサンプリングのみによって構築していくのである。


 ここにあるニック・スペンサーのあまりにも強烈な姿勢は、創刊号の時点でFOXニュースからぶつけられた非難に対する、はっきりとした答えにもなっているだろう。……FOXニュースで、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」を批判的に取り上げたその最後のまとめの言葉として、一人のコメンテーターが「コミックで政治を語るべきではない」と述べたのだ。
 これは、日本でもしばしば耳にするクリシェであるだろう。……しかし、冷静に考えてみれば明らかなことだが、たとえ純然たるフィクションであろうとも何らかの形で現実社会の文化・習慣・言語などを反映しなければ成立しない以上、政治性を完全に排除することなどできるはずがないのである。……つまり、「フィクションに政治を持ち込むな」と主張する人間は、「自分にとって都合のいい政治性」「自分にとって自然に感じられる政治性」は無意識の内に免除して、「自分にとって都合の悪い政治性」の存在そのものを排除しようとしているわけだ。
 「フィクションに政治を持ち込むな」というのは、それ自体があまりにも政治的な、現状追認をなすイデオロギーである。そして、ニック・スペンサーがとるのは、これとは正反対の態度だ。……すなわち、自分が子供の頃から読み込んできたコミックをサンプリングし、読み直し、語り直すということ自体が、そのまま同時に、現実の政治を語ることでもあるということだ。「コミックを読むこと」が現実社会の中で起きている一つの行為であるならば、それもまた一つの政治なのである。


 ……とはいえ、現実のアメリカの暗部を取り込めば取り込むほど、サムの置かれる立場は、ひたすら絶望的なものになっていくことにもなる。
 サム・ウィルスンの破滅をもくろんで暗躍することになる勢力が非常に狡猾なのは、サムの殺害は決して企んでいないということだ。サムを殺害することとは、サムを殉教者にすることである、死者としてのキャプテン・アメリカ=サム・ウィルスンは、誰もが安心して信じることのできる対象に変わってしまう。キャプテン・アメリカの破滅とは、生きながらにしてその名誉が地に落とされることなのだ。


 --so let those forces tear him apart. Let them expose themselves for what they are and show the lies all of this "freedom" is built on.
 ならば、それらの勢力の狭間で、彼を引き裂かれるがままにすればよい。連中が自分の正体を自らさらけ出すがままにし、この「自由」なるものが依って立つ嘘をも、自ら示させればよい。



 They'll break Captain America--
 連中は、キャプテン・アメリカを打ち砕くだろう――



 --and the country will break with him.
 ――そのとき、この国もまた、彼とともに打ち砕かれるのだ。




 ……自らがキャプテン・アメリカであることに確信を持てない人物を、生きながらにして失墜させること。個人としてのサム・ウィルスンではなく、「キャプテン・アメリカ」というイメージの方をこそ抹殺することが、アメリカ合衆国への真の打撃となる……。
 サム・ウィルスンの、アメリカの闇を見据える旅には、出口などないように思えるーーしかし、そんな渦中で突如として現れたのが、あの奇跡的な15号なのであった。


               (続く)









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