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「フラッシュ」誌を読み始めて以来というもの初めて、イオバード・ソーンのために泣きました

 というわけで、『DCユニヴァース:リバース』の邦訳について述べた文章に関連して、「フラッシュ」誌の最近の展開について書いてみたいと思います。






  『フラッシュ:ランニング・スケアド』(TPB)


  ライター:ジョシュア・ウィリアムスン
  アーティスト:カーマイン・ディ・ジャンドメニコ、ハワード・ポーター、他数名


 「リバース」後の「フラッシュ」誌は、単行本で3巻ぶん出版されたのち、トム・キングのライティングする「バットマン」誌とのクロスオーヴァー『バットマン/フラッシュ:ザ・ボタン』が展開されました。
 この間、「フラッシュ」誌は現在もなおジョシュア・ウィリアムスンが一貫してライティングを担当しています。そして、『ザ・ボタン』は『DCユニヴァース:リバース』との関連が強く、結果としてDCユニヴァース全体に影響を与えるものでしたが、「フラッシュ」誌のその後の展開も、『ザ・ボタン』からの余波があるものになっています。
 単行本としては「リバース」以降での4巻ということになる『ランニング・スケアド』には、「フラッシュ」誌の23号から28号までが収録されます。この内、もともとコミックブックとして発売された段階だと、23号と24号が「ザ・カラー・オヴ・フィアー」、25号から27号までが「ランニング・スケアド」と題されていました。
 そして、この「ザ・カラー・オヴ・フィアー」においてもちょこちょこと暗躍しつつも、「ランニング・スケアド」になって本格的にフラッシュの前に立ちはだかることになるのが、リヴァース・フラッシュです。
 ここで一つ注意しておかなければならないのは、このリヴァース・フラッシュが、どのようなリヴァース・フラッシュであるのかということです。……振り返ってみますと、『フラッシュポイント』においてDCユニヴァースの設定がいったん全てリセットされてからのちのNew 52において「リヴァース・フラッシュ」とされていたのは、完全にオリジナルの新キャラなのでした(そして、その息子が、New 52でのウォリー・ウェストです)。まあ正直なところ、私としては、「これでリヴァース・フラッシュはねえわ……」などと思っていたキャラなのですが、しばらくのちになると、ついに本命というか、イオバード・ソーンが登場……ん? これはどういうことだ……と思いきや、このソーンは、あくまでも「プロフェッサー・ズーム」。つまり、リヴァース・フラッシュとプロフェッサー・ズームというのは単に同じ人の別名だったはずが、「違う名前なんだから別キャラですから!」ということにして、従来のイメージに近いプロフェッサー・ズームを出してきたわけです。
 ……なんですが……「リバース」展開において、フラッシュに敗北し捕まっていたはずのソーンに、なにやらおかしな点が……こ、この人、いつの間にか、自分がトマス・ウェイン版バットマンに殺されたことを思い出してる!
 そう、「リバース」展開において「フラッシュ」誌において登場したのは、『フラッシュポイント』において死亡したはずの、プレフラッシュポイントのリヴァース・フラッシュことプロフェッサー・ズームことイオバード・ソーンだったのです。……そして、このソーンは『バットマン/フラッシュ:ザ・ボタン』において主要なキャラクターの一人となり、バットマンとフラッシュに先駆けて『DCユニヴァース:リバース』の黒幕に遭遇するものの、その手で瞬殺されてしまったのでした。
 ……だったんですが、やっぱりというかさすがに思ったよりも早く、『ザ・ボタン』終結後の次の号で復活してしまっているのでした。……で、このソーンはあくまでも「プレフラッシュポイントのイオバード・ソーン」なので、歴史が書き換えられていることを把握しており、「フラッシュ関連で今回は何がリブートされたのかな~?」などと言っているあたりが非常にタチが悪いです。
 そういうわけなので、『ランニング・スケアド』において語られるのはフラッシュとリヴァース・フラッシュの新たな事件ではあるのですが、それと同時に、あくまでもプレフラッシュポイントの歴史を持つ存在でありながらも、書き換えられた後の歴史の中で新たな出生をも持つソーンのオリジンもまた語られることになるわけです。


 ……さて、イオバード・ソーンと言えば、未来世界のフラッシュファンがフラッシュに執着しすぎた結果としてヴィランとなり、タイムスリップして色々な時代に現れては事件を起こすという、はた迷惑な人物です。そんなイオバード・ソーンは、「悪い読者」を具現化する存在として描かれてきたこともたびたびありましたが、今回のジョシュア・ウィリアムスンによるライティングでも、その点が特に強調されています。
 『フラッシュポイント』後の世界でキッドフラッシュとなった(プレフラッシュポイントのウォリーとは似ても似つかない)若い方のウォリーにと遭遇したソーンは、「この偽キッドフラッシュがぁ!」だの「だいたい君、本物のウォリー・ウェストですらないやろ!」などと罵声を浴びせることになるので、「あぁ、それ、正直おれも思ったことあるわ……」などと考えてしまう私としてはグサグサ突き刺さってくるものがあるわけです。
 そのことが非常にはっきりと描かれているのは、「ランニング・スケアド」の冒頭にある、ソーンによる独白です。


 Who is the Flash?
 フラッシュとは誰だろうか?



 For centuries people saw the Flash as a hero. He was their savior. They idolized him.
 何世紀もの間、人々はフラッシュをヒーローと見なしていた。彼は人々の救世主だった。人々は彼を偶像視した。



 It was deeper than worship. They felt as if he was one of them. They thought he understood them.
 それは崇拝以上に深いものだった。人々は、彼が自分たちの内の一人であるかのように感じていた。人々は、彼が人々を理解してくれていると考えていた。



 It's funny, isn't it? How you can watch someone from afar and think you know them?
 奇妙なことではないか? いったいなぜ、はるか彼方からきた人物のことを知っているなどと思えるのだろう。



 But the truth is...only we really know the man behind the mask...
 だが、真実は……ただわれわれだけが、その男のマスクの中身を本当に知っているのだ……



 ……注意しなければならないのは、原文では、最後の文章に出てくる'we'という単語が太字で強調されているということです。
 しかし、『ランニング・スケアド』におけるソーンは、最初から最後まで単独で活動しています。……ということは、わざわざ太字で強調されている「われわれ」とは、ソーン自身を含む「フラッシュ」誌の読者であるということになるわけです。
 そして、そのように考えてみると、『ランニング・スケアド』を少し前の『ローグズ・リローディド』と比較して非常に興味深いことがわかってきます。……『ランニング・スケアド』におけるリヴァース・フラッシュは、『ローグズ・リローディド』におけるキャプテン・コールドと同じく、『DCユニヴァース:リバース』を誤読したからこそ、敗北することになったのです。


 今回改めて語られたオリジンにおいても、25世紀の未来人たるイオバード・ソーンが、はるかな過去の世界のバリー・アレンの熱心な崇拝者であったことは同じです。そして、25世紀に現れたバリーと共闘しながらも、やがてソーンの暴走によって対立し、ヴィランとみなされてバリーに倒されてしまいます。
 設定に微妙な変更が加えられているのは、それより後の部分です。……心を入れ替えてやり直せば、バリーなら再び自分を受け入れてくれるはずと考えて過去のバリーの時代にタイムスリップすることにしたソーンは、そのとき、あの、フラッシュの赤を黄色へと塗り替えたコステュームを身に纏っているのです。……つまり、ヴィランとなることによって黄色へと変えたのではなく、黄色になった時点では、ソーンはまだバリーの味方のつもりでいた。ではなぜ黄色にしたのかと言えば、「フラッシュのパートナーは黄色いと決まっているから」……うぉ~、つまりこれは、ウォリーへのオマージュ!? ……うぅ、ソーン、そういうことだったのかよ……と、ここで既に一泣きしてしまいます。
 しかし、タイムスリップしたソーンの目の前には、ショッキングな光景がありました。……そこにあったのは、『DCユニヴァース:リバース』の冒頭で登場した腕時計が、バリーからウォリーへと渡されるまさにその場面です。そこでソーンは、バリーがウォリーへ'Every second is a gift.'と言っているのを聞いてしまったのでした。
 実は、それより先立つ場面、未来世界でソーンがまだバリーと共闘していた頃に、ソーンはバリーから'Every second is a gift.'という言葉を贈られていたのでした。その言葉が自分のためだけのものだと思っていたソーンは、自分のそれまでのバリーに対する考えはすべて間違っていたのだと確信することになるのでした……


 ……というようなことが、『ランニング・スケアド』の中心にあるわけですけれども。ここにある行き違いの根本にあるのは、「フラッシュ」読者としてのイオバード・ソーンの、『DCユニヴァース:リバース』の誤読であることは明らかです。
 そもそもの話として、'Every second is a gift.'という言葉は、別にバリーによるオリジナルというわけではありません。それは、バリーの家系が代々受け継いできた腕時計の裏側に刻まれていた言葉なのであって、自分より下の世代の者に受け継ぐときに、何度も贈られてきたはずの言葉であるわけです(ちなみに、邦訳だとこのあたりは曖昧な訳がされてしまっているのですが、原書だと'The watch had been handed down generation after generation with an inscription on the back... 'と書かれているので、バリーが手にするよりはるか以前から既にその言葉は刻まれていたことは明らかです)。
 つまり、バリーは、自分の父親をはじめとする幾人もの先祖から受け継いできた言葉を自分にとって大事な次の世代に引き渡そうとしていたところへ、ソーンにも同じ言葉を贈ってくれたわけです。つまりソーンは、同じ価値観を共有し受け継いできたフラッシュのファミリーに加えてもらえた。しかしソーンには、そのことが全く理解できなかった……ということです。
 注意しなければいけないのは、バリー・アレンという存在に「オリジナルの価値観」を求めるというソーンの姿勢は、「フラッシュ」読者としても決定的に間違っているということでしょう。シルヴァーエイジにおいてバリー・アレンがフラッシュになったことは、ゴールデンエイジにおいてジェイ・ギャリックがフラッシュになったことの焼き直しでしかなかった。……言い換えれば、バリー・アレンという存在は、むしろオリジナルでないことにこそ価値があるはずだということです。
 'Every second is a gift.'という言葉についても、同じことが言えるでしょう。これは何も、一つ一つの瞬間がすべてオリジナルな瞬間だからこそ価値があるということではないでしょう。一つ一つの瞬間は、既に起きたことの焼き直しであったり繰り返しであったり既視感のあることであるかもしれないが、それでもなお、そこには価値があるはずです。
 ジョシュア・ウィリアムスンによる「フラッシュ」のライティングは、作品そのものがまさにそのことを体現しています。コミックで展開される一コマ一コマに、過去の「フラッシュ」誌で積み上げられてきた記憶が反映されていることがしばしばあります。ちょっとしたコマのとある構図に、そこに登場する人物の位置関係に、「フラッシュ」誌の過去の出来事に対する記憶が細かく反映されているようなことが頻繁に起こるのです(……というわけなので、現行の「フラッシュ」は、少なくとも、『クライシス・オン・インフィニトゥ・アース』→マーク・ウェイド担当期全て→ジェフ・ジョンズ担当期全て、くらいを読んでおくことによって、コミックを読み進める上での印象が全く変わったものとなります)。
 「フラッシュ」誌自体が何度もリブートされ、ストーリーは何度も語り直され、設定は何度も上書きされ……それどころか、同一の設定の範囲の内ですら類似するストーリーが何度も何度も語られる……それでもなお、そんな既視感の中ですら、一コマ一コマの全てに価値がある、ということです。
 ジョシュア・ウィリアムスンにとって、「リヴァース・フラッシュを打ち破るということ」は、「フラッシュ」誌に関して「悪い読者から良い読者になる」ということを意味するのでしょう。……とはいえ、誤読をきっかけとして、自分が愛していたはずの対象との間に決定的な行き違いを演じてしまうイオバード・ソーンは、単なる憎むべき悪役としてのみ描かれているようにも見えないのでありました(……しかし……そう考えてみると……スーパーマン関連でも……なんか、そんなキャラがいたような……そう……気に食わないことがあると、DC本社に殴り込んじゃうような人が……)。


 それにしても……今回のストーリーアークを読んでいて、かなり驚いてしまった細部があります。フラッシュとリヴァース・フラッシュがタイムスリップする中で出会ったのは、バリーとアイリスが結婚して年老いている時点でのことで……そこに登場するのは、バリーとアイリスの子供たち、トルネード・ツインズ!
 ……と、トルネーーーーード・ツインズ!!! ……うお~~~~、この人たちが出てくるのって、いったいいつ以来なんだよ!!!
 し、しかし……違うんだ……私が見たいのは、トルネード・ツインズと言っても、君たちの方じゃないんだ……私が見たいのは、ウォリーとリンダがすさまじい苦労をして育てていた方の、あの幼い双子ちゃんのトルネード・ツインズなんだよおぉ~~~!!!(……しかし……『フラッシュポイント』の時点で、元の時間軸から十年間が抜き去られたということは……あの子たちは、存在そのものが抹消、ということなんだろうか……しかし……ならば、ダミアンなんかは……幼児になってるはずなんじゃないのか……)
 まあそれはともかく、ジョシュア・ウィリアムスンのライティングによる「フラッシュ」誌を読み進めていると、この「フラッシュ」誌のバックナンバーが細かく念入りに参照されつつ、ジョシュア・ウィリアムスン自身が読者としてどのように「フラッシュ」誌に接してきたのか、その感情的な部分が追体験できるようなコミックになりえていると思うのです。
 ……というようなことも考えていて、最近改めて思うようになったのですが……ジェフ・ジョンズが現在の地位を確立したのは、『グリーンランタン:リバース』と、それに続く「グリーンランタン」レギュラーシリーズにおいてです。そして、ジェフ・ジョンズの完成形態を念頭に置いてみれば、その後に手がけた『フラッシュ:リバース』でのバリー・アレンの復活およびその後の「フラッシュ」レギュラーシリーズこそが最高、と思っていました。
 しかし、これは違ったのではないだろうか! ……なるほど、『グリーンランタン:リバース』以前の、まだウォリー・ウェストがフラッシュであった頃のジェフ・ジョンズ担当期の「フラッシュ」は、純粋な完成度という意味では、現在のジェフの技量と比べるとかなり物足りない。また、現在のジェフはほとんど扱うことのなくなったような鬱展開がかなり頻出するのも事実ではある。……しかし……しかし! まさに、ウォリーがヒーローとしての道を歩み、家族を得、悩みながらも成長する過程をライターとしてのジェフ自身が共有したからこそ、今日のジェフがあるのではなかろうか!
 そういう意味では……現在のアメコミ界にも、相当に優れたライターは結構な数が存在してはいます。しかし、自分が担当しているコミックのキャラクターと深い精神的なつながりを持ちつつ、その作品を練り上げていく過程で作り手自身も急速に成長していくようなコミックという観点に立つと、ジョシュア・ウィリアムスンによる「フラッシュ」は稀有な作品であるということができるのであります。











『DCユニヴァース:リバース』の邦訳に関して一言

 先ごろ『DCユニヴァース:リバース』の邦訳が出版されたということ自体は望ましいことだと思うのですが、その邦訳を読んでいて、一点どうしても気になる部分がありました。
 DCユニヴァースの時空の改変にまつわる事件の影響で現実世界から弾き飛ばされたウォリー・ウェストが、自分がいなかったことになり誰も自分のことを覚えていない世界を外から眺めながら、自分をこの世界にとどめてくれるかもしれない、自分にまつわる人々の間を次々に飛ばされていく――というのが、『DCユニヴァース:リバース』の大筋です。
 しかし、改変された世界では誰も自分のことを覚えておらず、かつて光速を突破しスピードフォースに飲み込まれながらも、その絆によって何度も帰還したリンダとの関係すら、記憶がない以上どうにもなりません。
 リンダとの絆すら失われた中で、現実世界への帰還を諦めたウォリーが最後に飛ばされることになるのがバリー・アレンの元だったのですが……この際、邦訳では、バリーが「この事件の張本人」と訳されており、思わず、「こ、この訳は、ちがーーーーーーう!」などと叫び出しそうになってしまったのであります。
 コミックの翻訳というものは、フキダシのスペースという物理的な制約がある以上、ある程度内容をはしょった意訳になること自体は仕方のないことです。しかし、この場合、長さの制約とは無関係な部分で、作品全体の読解に影響が出てきてしまうようなことが起きているのです。
 原書では、この部分で、バリー・アレンが'the man who started it all'と表現されています。ライターのジェフ・ジョンズは、いったいどのような意味で、バリー・アレンをこのように表現したのでしょうか。


 ヒーローコミックの時代区分には、人によって色々な区分がなされますが、「ゴールデンエイジ」と「シルヴァーエイジ」の間の区分に関しては、ほとんど人によっての意味のブレがなく、ほとんどの場合で定義の一致が見られます。
 これはなぜかというと、ゴールデンエイジとシルヴァーエイジとの間には明確な断絶があるからです。ゴールデンエイジの終結とともにヒーローコミックはいったんほとんど消滅し、スーパーマンやバットマンやワンダーウーマンなどのごく限られたキャラクターだけが継続的に出版され、ジャンルとしてのまとまりのようなものは失われていたからです。
 一方、シルヴァーエイジを基準にしてみると、現在に至るまで切れ目なくヒーローコミックは存続してきています。そして、主要なキャラクターの設定やチーム編成、ありがちなストーリーの定型なども、その多くはシルヴァーエイジに築かれています。例えばスーパーマンを取ってみると、現在でも使われている設定の多くは、ゴールデンエイジからそのまま引き継いだものではなく、シルヴァーエイジになってからモート・ワイジンガーが編集を統括していた時代に整備されたものです。
 では、そのシルヴァーエイジはいかにして始まったのでしょうか。……これに関しては、既にこのブログでも以前に引用したことがありますが、『フラッシュ:リバース』の設定資料にジェフ・ジョンズが書いた言葉を引くのがいいでしょう。


 Barry Allen's first appearance in SHOWCASE #4 was the original "rebirth" of the DC Universe. Barry Allen ushered in the Silver Age. His success arguably saved super-heroes.
 「ショーケース」4号でのバリー・アレンの初登場が、DCユニヴァースにおけるオリジナルの「リバース(再生)」だ。バリー・アレンは、シルヴァーエイジの先駆けとなった。疑いなく、彼の成功こそが、スーパーヒーローたちを救ったのだ。




 既にヒーローコミックがジャンルとして事実上消滅しかかっていたとき、新たな始まりを告げた者こそ、バリー・アレンに他ならなかったわけです。バリーの登場によってヒーローコミックが復興したからこそ、その影響が他社にまで波及したときに、ファンタスティック・フォーやスパイダーマンやXメンなどが登場できることにもなりました。
 だから、ヒーローコミックの現在におけるあり方を見るとき……コミックの外部にまで広範に進出することになり、次々に実写映画化されることによってその文化的影響力が世界中に莫大な影響を与えるまでになった、もはや誰一人としてその全体像をとらえきることなど不可能なあまりにも巨大なジャンルにまでなっていたとしても、少なくとも、その全てが始まったそもそもの起源、それだけは特定することができるわけです。
 ある夜バリー・アレンが雷に打たれスーパーパワーを授かったこと、そして、子供の頃から読んでいたコミックにあやかって「フラッシュ」と名乗ることにしたこと――そのことをきっかけとして、その後のなにもかもが始まることになりました。
 だから、ジェフ・ジョンズが自作の内部に――それも、よりによって、作品の内部のことと外部のこととを同時に考えなければ読み進められないような作品の内部に――バリー・アレンとは'the man who startd it all'であると書き込むとき、それが、「作品の内部で、一連の事件のきっかけとなる『フラッシュポイント』という事件を引き起こした」というだけの意味であるはずがありません。
 ここでの'it all'とは……今まさに、現在の我々の目の前にあるもの、見通すことすらできないほどまでにあまりにも巨大に膨れ上がったジャンル、その何もかもをひっくるめた、「全て」であるはずです。つまり、ここでい述べられているのは、文字通りの意味で「全てを始めた男」であるということです。
 だから、ジェフ・ジョンズがバリー・アレンのことを'the man who started it all'と表現した上で、そこから数ページに渡って展開されるバリーの描写は、そのような意味での、はじまりのヒーローがいかなる存在であるのかについての一種の宣言として読まれるべきだと私は思うわけです。


 ……などということを考えていたのは、もちろん『DCユニヴァース:リバース』の邦訳を読んだからですが、実はそれだけが理由ではなく、ジョシュア・ウィリアムスンのライティングによる最近の「フラッシュ」の展開を読んでいて思うところがあったからでもあります。
 『DCユニヴァース:リバース』を、単に「その後のDCコミックスのストーリーの共通の出発点」としてのみとらえるのではなく、そこに書かれていることを細かく読み込んで、何度でも立ち返ることによってジョシュア・ウィリアムスンの「フラッシュ」のライティングは成立しています。そして、『DCユニヴァース・リバース』を徹底して読みこむことが、そのまま、「フラッシュ」誌が積み上げてきた莫大な量のバックナンバーに帰属しそこから恩恵を引き出すことに直結してもいるのです。
 ……ということで、実はジョシュア・ウィリアムスンによる最近の「フラッシュ」について書こうと思っていたのですが、ここまででも結構な分量になってしまったので、ここでいったん一つのエントリとしてアップして、続きは次回にまわすことにします。










『ローガン』と『レゴバットマン ザ・ムービー』の対照性と、ヒーローコミックの本質について

 アメリカのヒーローコミックを題材とした映画は依然として続々と制作されているが、最近公開されたそのような作品群の中でも、『ローガン』と『レゴバットマン ザ・ムービー』の二作は、その際立った対照性に非常な違和感を感じてしまったものだった。
 とはいえ、それは、これらの作品そのものを見たことによる違和感というよりも、これらに対して向けられた論評を読んでの違和感、という側面の方が強い。……というのも、私は『ローガン』と『レゴバットマン』の二作を全く対照的な作品だと感じたのだが、この二本の受け取られ方はといえば、両作がそろってともに、私の感想とはまるで正反対であるようなのだ。
 これは要するにどういうことかというと、『ローガン』を見た私は、これこそ、ジャンルとしてのヒーローコミックがどのようなものであるかを考えてみるとまさに直球ド真ん中の作品であると感じた。一方、『レゴバットマン』は、なるほど確かに製作者たちはヒーローコミックの元ネタを調査して参照したりはしているものの、基本的にDCコミックスのことなどどうでもいい人々が製作していることは一目瞭然であり、参照元のコミックとはほぼ無関係、と思ったということだ。
 ところが……『ローガン』について書いて「スーパーヒーローものの終焉」などとしている評を読んですっかり驚いたのだが……さらにそれ以上に、『レゴバットマン』が「バットマンの75年の歴史の総括を成し遂げている」などとしている評を読んで、さらにさらにぶったまげ、驚き呆れ果てたのであった。
 いったい、ここでは、何が起きているのだろうか。


 一応断っておくと、『ローガン』と『レゴバットマン』が元ネタのヒーローコミックとどのような関係にあるのかということは、独立した映画としての評価とは、また別の話である。純粋に単独の作品として見たときに、この良作はどちらも優れた映画だとは思う。『ローガン』がとんでもなくめちゃくちゃ優れているとまでは思わないが、少なくとも、今まで製作されてきたXメン関連の映画の中では最もよいと思った。最後のショットにしても、無用な台詞を排除して些細な動作一つを映像として示すだけで完全に話に決着をつけてみせるところが非常によかった。
 一方、『レゴバットマン』という映画にしても、単にコメディとして見るのならば、非常によかったと思う。いったん笑わせにかかったらリズムをゆるめずにたたみかけるのみならず、ゴッサム市内でのバットマンの活動をド派手なアクション演出でひたすら騒々しく描いておいて、ひとたびバットマンがバットケイヴに戻るやいなや、その広大な空間を孤独に占めているバットマンの姿を強調するために今度は徹底して静寂を描く。結果として、映像や音響も含めた様々な側面がストーリーに緩急をつけるために巧みにコントロールされるようなことが実現しており、作品としての完成度は非常に高いと言える。
 また、公平を期して言っておくならば、DCコミックスの元ネタを調べ上げて細かく参照することには大変な労力が割かれていること自体は確かで、個人的には、キャットマンなどまで登場してきたことには大変驚いた。また、バットマンの完全に身勝手な独断による単独行動が雪だるま式に被害を拡大して巨大なカタストロフィをもたらしたあげく、そもそもの原因となったバットマン自身が自分で自分の始末をしただけのはずのことが、なんとなく世界を救ったみたいな感じになって終わるところも、DCコミックスの巨大イヴェントでわりとありがちな展開であるため、非常に楽しめた。
 しかし、である。『レゴバットマン』という作品の細かい部分を拾っていけば、この製作者たちがDCコミックスについて何の思い入れもなければ、ヒーローコミックというジャンル全般に対する造詣も全くないのは一目瞭然なのである(このことについては、具体例を挙げながら詳細に後述する)。とはいえ、そのこと自体は、前作『レゴムービー』と重複するスタッフによって製作されたという時点で、私としては予想がついていた(……とはいえ、『レゴムービー』は作品そのものが「レゴで遊んでいる子どもの想像の世界」という設定があるため、DCキャラの作中の扱いがおかしくてもそれはそれでしょうがないか……という部分はあったが、『レゴバットマン』にはそういうエクスキューズはない)。作品そのものは優れたものとしてまとまってはいるものの、そこで題材とされたキャラクターへの理解もなく思い入れも特にない人々がいじっていたのだから、まあ『レゴバットマン』もそんな感じのものになるんだろうな~と思って、いざ見てみたら実際その通りだった。
 ……にもかかわらず、『レゴムービー』や『レゴバットマン』を見てDCキャラの扱いの不当さすらわからないような人が、よりによって「バットマンの75年の歴史」なるものを総括し出すのである。正直言って、わけがわからないと言うほかない。
 例えば『レゴバットマン』という映画は、あくまでも独立した映画としてみるならば、「このような状況に置かれた人物はこのように行動するであろう」というキャラクター造形に関して、この作中では首尾一貫したものになっている。しかし、元ネタのコミックとの関係はといえば、あくまでも「パロディ」と呼べるものでしかなく、それ以上でもなければそれ以下でもない。なんでそれでダメなんだろうか。なんでバットマンの歴史に影響を及ぼしていることにならないとダメなんだろうか。……はっきり言ってしまうと、「『レゴバットマン』はバットマンの75年の歴史、そこ語られ続けたヒーロー像を総括することに成功した作品である」などという言説は、最近の言葉で言えば、オルタナ・ファクトである。
 一方、「『ローガン』がスーパーヒーローのジャンルそのものを終焉させた」というのも、正直意味がわからない。作中の舞台とか衣装とかが「ヒーローコミックのありがちなネタ」から逸脱したら、ジャンルが終わったことになんのか? ……というか、それ以前の問題として、ヒーローコミックの読者からしてみると、Xメンのコミック自体が時間旅行や歴史改変を取り上げることが非常に多く、「ヒーロー活動のない世界」「ミュータントが絶滅しかかっている暗黒の未来」みたいな設定は割と何度も繰り返し描き続けてきたことであるので、別に『ローガン』の直接の原作の『オールドマン・ローガン』を挙げるまでもなく、「ヒーローコミックのありがちなネタ」が展開されてるだけなんだけどな~……。


 繰り返すが、私の考えでは、『ローガン』はヒーローコミックの直球ド真ん中をそのまま映画に移すことに成功した作品だが、『レゴバットマン』の方はヒーローコミックとはほぼ完全に無関係な作品である。
 これに関しては、別に、『ローガン』のぱっと見の外見が、「ヒーローコミックのありがちな定型」を全部削ぎ落としたのだということにしても、特に変わらない。……言い換えれば、『ローガン』という作品には、枝葉末節が全て変わってしまったのだとしても、ヒーローコミックというジャンルをジャンルとして成立させるその核だけは、確かに存在している。逆に言えば、『レゴバットマン』は、ヒーローコミックを構成するパーツを全て備えているように見えても、そのジャンルそのものの魂だけは、ない。
 ジャンル・フィクションの本質とそのぱっと見の外見との関係というものは、ミステリを例に取るとわかりやすいだろう。ミステリには、しばしば、ありがちな定型としての、舞台設定やキャラクター造形が存在する……しかし、だからといって、それがなければ存在できないというわけではない。名探偵が存在しなくても、ミステリは成立しうる。
 それはなぜかと言えば、ミステリがジャンルとして成立しうる本質が「提示した謎が解かれる」という点にあるからだ。謎を解くのは確かに名探偵が圧倒的に多いわけだが、しかし、通りすがりの一般人が謎を解いていけないわけではない。そして、ミステリの成立に「ありがちなネタが使われているかどうか」が無関係だからこそ、SFやら時代劇やらといった他のジャンルと融合することも可能になる。舞台設定が遠未来だろうと江戸時代だろうと、提示した謎が論理的に解かれるのであれば、ミステリはミステリとして成立する。逆に言うと、例えばガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』シリーズは映画としてはよくできていると思うが、ミステリとは関係ない。キャラクターや舞台設定はシャーロック・ホームズものから取ってきていても、謎解きに作品の主眼がないからだ。
 これと同じことが、ヒーローコミックについても言える。ヒーローコミックが出版される主要な舞台となってきたアメリカのコミックブックの歴史を紐解けば、SFやホラーや西部劇といった異なるジャンルも同時に存在してきた。作り手の側が重複することも多かった以上、しばしばヒーローコミックはこれらの異なるジャンルと混淆し、広範な範囲に及ぶ、様々なタイプの、様々な舞台設定の、様々なキャラクターによる無数のストーリーが展開してきた。
 「ヒーローコミック」というかなり限定されたジャンルの全貌をとらえようとするだけでも、相当なごった煮の混沌状態が存在する。しかし、にもかかわらず、ヒーローコミックをしてヒーローコミックたらしめる本質、ヒーローコミックを一つのまとまりのあるジャンル・フィクションとして成立させるものが存在する。
 ……それは、一言で言うならば、「困っている人がいたら手を差し伸べること」である。
 特殊にして強大な力を手にした者がなぜヒーローになろうとするのかと言えば、困っている人を助けたいからである。もちろん、ヒーローになろうとしたり活動を継続したりする過程で、様々な出来事があり、葛藤があり、それぞれのキャラクターの特徴が問題になるだろう。……しかし、それら全ては、人助けをしようとする意志がまず先にあって、その次にくる二次的なことだ。この順番は、絶対に逆にはならない。
 そもそも、人助けをしようとする意志のない者が特殊な力を手にしたのなら、ヒーローになる必要は特にないのである。ヒーローコミックのことをよく知らない人々が映画化などに携わると、そもそもこの部分で間違えることが非常に多い。「ヒーローになる」という枠組みは自分に与えられた仕事の前提としてまずあるのでそれ以上疑わず、いきなり「ヒーロー活動している人」の内面を描き始め、苦悩や葛藤を描き出す。……いやいやいや、自分から選んで能動的にヒーロー活動をしてるんじゃないんだったら、ヒーローやめた瞬間にその苦悩も葛藤も全部解決じゃないすか~、ということがなぜか非常に多い(……で、そんな感じで、ヒーローコミックというジャンルのことをよく知らん人が映画化を手がけたりすると、そもそも話が成り立つ前提条件がうやむやにされたままおかしなことになっていたりすることがよくあるわけだが、映画を通してだけアメコミ関連のことを知ってるような「アメコミ映画ファン」が勝手に事情を忖度しだし、「その前提を疑うとアメコミヒーローが成立しなくなっちゃうから」とか言い出し、そのうやむやなことがなぜか「アメコミが成立するためのお約束」だということになりだし、そこにツッコミを入れる人は「それを無条件に受け入れないと楽しめなくなる、ジャンルのお約束を知らないにわか」ということにされだすんだよな~)。
 逆に、人助けをする意志があることが全ての前提だからこそ、単なる常人であってもヒーローになることはできる。特殊な衣装も特殊な能力も、選ばれた状況も派手な舞台設定も、何もなくてもヒーローコミックは成立しうる。逆に言えば、ヒーローコミックとは、特殊な衣装やら能力やら名称やらを面白がること、単にキャラクターを愛でることを第一の目的に成立しているジャンルではない(いちおう念を押しておくと、「そういうことをしてはいけない」と言っているわけではない)。
 ヒーローコミックの本質は、「いかにして人助けがなされるか」という点にある。それ以外のことは全て、本質とは無関係な枝葉末節にすぎない。舞台設定がどれだけ特異だろうが、派手なキャラクターがことごとく排除されていようが、ヒーローコミックというジャンルは成立する。これは、謎解きさえあればミステリが成立するのと同じことである。


 私が、『ローガン』という映画の外見がどのようなものであれヒーローコミックの本質をダイレクトに映画に移したものだと思うのは、以上のような理由があるからだ。
 『ローガン』の舞台となるのは、近未来のアメリカだ。そこでは、新たにミュータントが誕生することも長い間に渡っておこらず、絶滅寸前の少数派となっており、かつてXメンであったプロフェッサーXとウルヴァリンは、世間の目から逃れてひっそりと暮らしている。「世界最強のテレパス」でありながらも、同時に認知症をわずらう老人でもあるプロフェッサーXは、ウルヴァリンの介護によってどうにか生き延びている。ひょんなことから、存在しないものと思われていた新たな世代のミュータントの少女と出会った二人は、アメリカから逃れる逃避行を開始する……。
 とりわけプロフェッサーXが置かれた状況の苦しさはかなり無惨なものであり、他人に介護してもらわなければ(あるいは、してもらってさえも)人並みのな生活を送ることは難しい。しかし、にもかかわらず、たまたま困っている人々に遭遇したときに――本当に自分が相手の手助けになることができるのかもわからず、助けるどころかむしろ相手を厳しい状況にまきこんでしまいするかもしれなくとも――躊躇なく相手に手を差し伸べる。だからこそ、ここでのプロフェッサーXは完全にヒーローであると言えるのだ。
 それと比較してみると、『レゴバットマン』におけるバットマンはどうだろうか。……この映画では、バットマンにとってのヒーロー活動とは、単に活動する自分の内面、その自意識の問題のみに還元されてしまっている。ゴッサムシティの全てのヴィランが自首した結果、犯罪は壊滅し、バットマンが活動するその存在意義が失われる……そのとき、自分の存在意義がないということにバットマンが悩み始めるのである。
 その結果、この作品のバットマンは、自分の存在意義、その内面の満足感と、ゴッサムの人々の不幸がより減少することとの間で、あたりまえのように自身の内面の問題を優先するに至る。……いったい、これのどこが、「バットマンの75年に及ぶ歴史の総括」などというものになりえているのだろうか。


 現行の「バットマン」誌のライターであるトム・キングは、その就任直後、自らのバットマン像を語り始めるそのそもそもの始まりにおいて、「強大な敵がいるわけでもなければ派手な出来事があるわけでもない、一見するとなんの変哲もない事件の渦中だろうとなんだろうと、無実の一般人の命を救うのに他に手段がないのであれば、いついかなる時でも、バットマンは躊躇なく自らの命を差し出す」ということを描いている。人格が破綻しまくっているバットマンを他のヒーローたちが(いやいやながらも)受け入れて共同活動をするのは、どれだけ身勝手な振る舞いでも、自分ためではなく他人の命を救うためである絶対的なそこに前提があることは誰もがわかっているからだ。……で、コミックでそのようなことが描かれているのと同時代的に存在している『レゴバットマン』のような映画が、いかなる意味で原作コミックの総括になり、あるいは批評として機能したりしているというのだろうか。『レゴバットマン』のバットマンは、自分の満足のために活動しておきながら他人への迷惑を顧みないのだから、ただのわがままな人である。
 繰り返すが、単に独立したコメディとして見るならば『レゴバットマン』という作品はよくできているし、こういうものがあっても何も問題はないだろう。しかし、原作との関係はほとんどないし、あったとしても、「パロディである」という以上のことは何も言えない。それで、いったい何の問題があるのか。なぜ、「バットマンの75年の歴史」などというものを振りかざさずにはいられないのだろうか。自分がろくに知りもしなければ、詳細に調べる気もないことを、勝手に総括してもらいたくないのだが。
 ……だいたい、『レゴバットマン』に「DC愛」なるものがあると評する者は、DC愛などというものと完全に無縁であるということは断言できる。なぜならば、DCコミックスのキャラクターを扱う作り手がDCコミックスのことをどう思っているのかを判定する、極めて簡単な方法があるからだ。
 DCコミックスのキャラクター、とりわけジャスティスリーグ関連が扱われる際には、一見すると全く目立たないがゆえに、かえって最も注目しなければならないポイントが存在するーーそう、我らがマーシャン・マンハンターさんの扱いである。
 DCコミックスの魂は、マーシャン・マンハンターさんの内にこそ存在する! これこそが、DCコミックスが出版してきた数々のヒーローコミックを貫く、不変の真理なのだ! ……これを確かめるためなら、邦訳が出ている作品だけでもいい、『JLA:リバティ&ジャスティス』や『DC:ニューフロンティア』を一読しさえすればよい。マーシャン・マンハンターさんの真摯にして誠実な魂こそが、DCコミックスのヒーローたちを結束させる、真の中心となりうるのだ!(……そういう意味では、近々邦訳が出る『DCユニヴァース:リバース』が傑作であることには疑いがないのだが、あれは誰でも手にとってすぐわかるようなものでもないんだよな……。この作品のライターのジェフ・ジョンズはと言えば、「New 52からジャスティスソサエティが姿を消したことについてどう思いますか?」とか聞かれた際に、「JSAのライティングを担当した9年間は、わが人生の誇りなんじゃあ!」とか吠え出しちゃうような人なんだけど、このやり取りがよくわからないと、何が起きているのかよくわからないような部分も『DCユニヴァース:リバース』には含まれる。それに比べると、『DC:ニューフロンティア』は完全に独立した作品で予備知識もなしに読み始めることができるし、DCコミックスの本質が全編にみなぎりまくっている傑作なのである。そして、この『DC:ニューフロンティア』を読み終えた直後に例えば『レゴムービー』を見てみれば、殺意を覚えずにいることは難しいのだ……)


 以上のようなことを踏まえた上で、『レゴバットマン』を見てみればどうなるか。……すぐにわかるのは、マーシャン・マンハンターさんの扱いが最悪であるということだ。
 この作品の中でのマーシャン・マンハンターさんの出番はと言えば、ジャスティスリーグのメンバーがパーティをしていたところ、誘われていなかったのにたまたまその場に来てしまってショックを受けているバットマンに無神経に声をかける人、といった役所である。
 こんな馬鹿なことがあるだろうか。「コミュニケーション能力に長け仲間内でわいわい盛り上がれる人々」と「孤独であり寂しがり屋のくせに憎まれ口を叩いてしまういじらしい人物」の対比という大ざっぱすぎる構図があるわけだが、どこからどう考えても、バットマンよりもはるかに酷い目に遭ってきているのがマーシャン・マンハンターさんなのである。
 なるほど、バットマンは両親をそろって失ってしまったかもしれない。しかし、マーシャン・マンハンターさんはと言えば、故郷の火星が全滅である。さらには、なぜ地球にいるのかと言えば、地球の科学者によって手違いでうっかり火星から転送されてきてしまった挙げ句、帰る手段が見つからないから、ということなのである! あまりにも大変な目に遭ってきた生い立ちなのである。
 にもかかわらず、コミックでバットマンとマーシャン・マンハンターさんのやり取りを見ていると、まずまちがいなくほとんどの場合に、マーシャン・マンハンターさんの方が謙虚で気遣いのある態度をしているのである。彼が大変な人格者であることは疑いようがない。……なのになぜ、「他人に理解されない可哀想なバットマンに対して無神経なリア充」みたいな、雑な役を振られなければならないのか!(……そういう意味では、同じレゴでも『レゴバットマン ザ・ムービー<ヒーロー大集合>』の方では、サイボーグが加入してマーシャン・マンハンターさんの役割を果たしているNew 52版のジャスティスリーグに準拠していながらも、ちゃんとマーシャン・マンハンターさんも登場してきて役割があるところが示されていたのが非常によかった)
 そんなバットマンが、マーシャン・マンハンターさんの無神経さによって傷つけられた的な態度を取るのは、お門違いも甚だしいものがある。『DC:ニューフィロンティア』を読んでから『レゴバットマン』を見れば、「おいバッツ、お前ちょっといい加減にしろよ!」と言いたくなってくるはずなのだ(……いや……それ以前に、『DC:ニューフロンティア』でのマーシャン・マンハンターさんへの扱いを読んだだけの時点で、「おいバッツ、お前ちょっといい加減にしろよ!」と思えてくるか……)。
 これはなにも、マーシャン・マンハンターさんだけに限った話ではない。ジャスティスリーガーたちの全員が、「単なる無神経なモブ」という以上の役割を与えられていないのである。これはおかしい! バットマンがジャスティスリーグというチームでなんとかかろうじてどうにかこうにか共同作業をやっていけるのは、バットマンの側の問題ではない! チームメンバーのみなさんの側に謙虚で誠実な人格者が多く(ハルとかは除く)、どうしょうもないバットマンのことをものすごく気にかけてくれるからこそなのだ!
 だいたい、『レゴバットマン』のバットマンが原作の歴史を総括したキャラクターだというのならば、あんなにも素直で物わかりのいい人になるはずがないではないか。……例えば、先に述べたパーティの件にしても、コミックのバットマンなら全く異なる対応をしてくるはずである。
 そう、まずは前提として、自分が招待されていないジャスティスリーグのパーティが開催されることなど、世界最高の探偵たるバットマンは間違いなく事前に察知している。そして、その情報をさらに精査し、出席するヒーローたちの行動を分刻みで把握する……その上で、各ヒーローが自分の街を後にした不在のタイミングで、メトロポリスやコーストシティやスターシティなどに出張って街中を駆け回り、突発的な犯罪を解決しまくっておいた上で、パーティに行っていたヒーローたちに事後的に「あの街で起きたあの犯罪、私が解決しといたけど、なぜいなかったのだ? え? え? 私が犯罪と闘ってる間に、まさか貴様らは遊んでたのか? はあぁ~~~~、人の命をなんだと思ってるのか……たまたま通りがかった私が解決しといたからよかったようなものの、いったい、私がいなかったらどうなってたことか……」などとネチネチ嫌みを言い始める……くらいのことを平然とやってのけるのが、バットマンという男なのである(……そんで、ハルとかガイあたりがキレだしたら仲裁に入るのがマーシャン・マンハンターさん)。


 ……まあ、いずれにせよ、コミックではそれぞれが重要な役割を与えられていたり特徴が描き出されていたりして大事に扱われているキャラクターたちを雑に扱っていることが明らかな映画に向かって「バットマンの75年の歴史の総括」だの「DCコミックスへの愛に満ちあふれている」だのと称すのはほんとうにやめてもらいたい。総括してないし愛もありません。
 最近の日本へのアメコミの翻訳・紹介は、また一つ異なる局面になってきたのではないかと思い、私としては非常に危惧していることがある。……と、いうのも……もともと日本への紹介というのはマーヴル中心でDC関連は非常に薄かったのだけれど、それというのも、日本ではアメコミ読者と言ってもマーヴルばかりでDCのことはほぼ知らんと言うような人が昔から多かったわけです。
 で、マーヴルのことしか知らん人が「アメコミの識者」として翻訳・紹介に携わった結果、スーパーマンやバットマンはともかく、自分がろくに知らないフラッシュやグリーンランタンやグリーンアローを勝手にネタキャラ扱いして小馬鹿にするようなことを、商業誌上なんかでも平然とやってきていたわけだ。
 ところが最近は、コミックではDCがマーヴルを圧倒してきており、おそらくは映画でもそういう状況になっていくだろう……ということがあり、たぶんメディア上でDC関連の需要が増えてきているのだが、そういう場所で「アメコミの識者」であることにしちゃった人々が、ろくに知らんままにDCの紹介をするという、地獄絵図が成立しつつあるわけだ。
 私としては、少なくともこれだけは言っておきたい。……フラッシュやグリーンランタンやグリーンアローやマーシャン・マンハンターをネタキャラ扱いするような者は、『DC:ニューフロンティア』を100回熟読してから出直してこい!


 いずれにせよ、ヒーローコミックの本質は、「いかにして人助けはなされるのか」という点にある……このジャンルのことをよく知らない人間が映画化に携わるときに犯しがちなミスが、このことに正面から立ち向かうのが気恥ずかしいゆえに、無駄にリアル志向になる、ということであるだろう。
 多くの場合、「ヒーローが掲げる理想なんて、厳しい現実の前では絵空事だよ?」的なことが語られる(こういうのが「大人向き」なのらしいね)。しかし、これは根本的に本末転倒なのである。もともとアメリカのヒーローコミックの起源とは、大恐慌時代の厳しくどうにもならない現実をスーパーパワーで変えてくれる存在としてティーンエイジャーに夢見られたものだったのだから、「ヒーローなんて現実の前では無力だよ?」などというのは、ツッコミにも何にもなっていない。原因と結果を取り違えた者のたわ言である。
 そして、『ローガン』という映画は、ヒーローコミックと西部劇の双方の視点から、以上のようなことも作中に取り込んでいる。なるほど、コミックのXメンにしても『シェーン』のような西部劇にしても、現実からはおよそかけ離れた絵空事であるだろう。しかし、現実とはかけ離れた絵空事の中だけにある夢や希望が、厳しい現実に影響を及ぼし改変しうる、ということだ(厳密に言うと、ウルヴァリンが初めて参画した第二次Xメンにしても『シェーン』にしても、楽天的な絵空事の世界に暴力性が混入してきて壊れ始める兆候が出始めた、本格的に壊れていく次代の先触れにあたるようなものではあるのだが)。
 そしてまた、以上のようなことを踏まえた上で、ヒーローコミックの本質を絶対に外さずに映画化する稀有の存在がジョス・ウィードンであることは、いくら強調してもしすぎるということはない。そう、われらがジョスは、そのことを絶対に外さない! ……そして、ジェフ・ジョンズが統括する体制になったDC映画が真っ先にやったことは、われらがジョスをぶっこ抜いてくることだったのである! 「ジェフ、さすがだぜ!」と言うしかないではないか!
 そんな、現在のアメコミ業界の現役最強のライターにしてDCファン道十段ことジェフ・ジョンズが遂に脚本にまで参画した『ワンダーウーマン』が批評的にも興行的にも大成功を収めているのはまことに喜ばしい限りなのだが……ジェフが脚本を書いている以上、見る前の時点で断言できる! この映画でも、「いかにして人助けがなされるのか」というポイントは、絶対に外されていないはずだ!(……しかし、日本に『ワンダーウーマン』が紹介されるときって「女性監督によるフェミニズム的映画」という点ばかりが強調されているようだけど、むしろ、日本とアメリカが文化面で絶望的に差を付けられてしまったのって、「アメリカで女性監督がそういう映画を製作しようとしたときには、サポートしてそれに見合った脚本を書ける男性がごろごろいる」ということだと思うんだけど……。アメコミ業界は特にここ二十年ほどの間でフェミニズムなどの視点からの批判を受け入れ自己批判を続けた結果として相当に変化してきているんだけど、「日本に翻訳・紹介するアメコミ識者」にそういうことをきちんと論じられる人も皆無でしょうな。英語での関連文献は膨大な量が出ているので、たぶん、もともとフェミニズムやジェンダー論に詳しい人がきちんとした文献に当たった方が、実りある成果を出せるのだと思う。それと、もう一つ……前売りの特典としてワンダーウーマンの初登場コミックの「復刻版」がついてくると宣伝しておきながら、コミックブックの復刻でも何でもない、初登場エピソードだけを収録した小冊子(しかも、今の日本の商品の広告入り)を渡してくるのは、完全に詐欺ですぞ……。単に初登場エピソードを再収録しただけのものなら、普通に持ってるわ〜い!)
 だが……『ワンダーウーマン』の成功を聞くにつけ、ただ一つどうしても解消できないもやもやとした思いにとらわれるのも事実なのだ……
 なぜ……いったい、なぜ……最初から……『グリーンランタン』を……映画化……する、時点で……ジェフに……任せな……かった……(涙)














果たしてバットマンは結婚できるのか問題

 先日、「バットマン」誌の最新の24号を読もうとするその直前に、英語でアメコミ関連のサイトを見ていたら、「バットマン、遂に結婚!」などと書かれており、寝耳に水だった私としては「はあ~っ!?」とひっくりかえる、ということがありました。
 ……まあ、その後実際に24号を読んでみたら、そこで展開されているのは、バットマンがキャットウーマンに求婚した、というまでのところであり……なおかつ、これまでの「バットマン」誌の展開をきちんと追ってきた読者からしてみれば、実はそれはめでたいことでもなんでもないことだったんですな。
こういうのも今に始まったことではありませんが……それにしても、バットマンのキャットウーマンへの求婚が'finally'って、なんでこんな単語が出てくるんだ……。24号に至るまでの「バットマン」誌でブルースとセリーナの関係が徐々に親密さを増すような展開が丹念に描かれてきたら'finally'って表現も正しいのだろうけれども、実際にはそんなことは全くない(……それにしても、'finally'という単語を聞いてまっさきに思い出すのがロック様のマイクアピールである私のような者が、こういうダメ出しをするのもどうかとは思うのですが……)。
 もちろん「バットマン」誌でブルースとセリーナの関係が描かれることはあったけれども、それはむしろ、両者のこれまでの微妙な関係がそのまま引き継がれてきているようなものであったわけです。
 そして、それより以前の問題として、そもそも私が驚いたのは、よりによってトム・キングのライティングで「バットマンが結婚する」などという展開は絶対にありえないことだと思えたからです。私としては、バットマンとはいかなる存在なのか、その本質はなんなのかということを長年に渡ってず~っと考え続けてきた結果、様々な時代に様々な形態を取ったバットマンというキャラクターの定義ともいえるものに、一応の結論としてたどり着いた、ということがあります。で、なぜそう言えるのかはものすご~く長くなるからここでは書きませんが、「バットマンが結婚することは決してない」「バットマンは幸福な家庭生活から遁走し続ける」という結論が導かれてくるのです。
 そして、私が結論として到達したバットマンの定義からすると、これまでのところ、一分の隙もなくキャラクター解釈が完全に一致しているという唯一無二のライターが現行の「バットマン」誌を担当するトム・キングであるのです。
 もちろん、そんなトム・キングが本当にバットマンを結婚させようとしているのならば、単に私が根本的に勘違いしていたというだけのことなのですが……少なくとも、「バットマンの求婚」という出来事は、これまでの「バットマン」誌の展開からすると、平穏で幸福な家庭生活にたどり着くことが見越されるような形で出てきたことではありません。では、なぜ、このような出来事が起きたのか。……実はこれは、明確に、『バットマン/フラッシュ:ザ・ボタン』の余波として起きたことなのです。


 「バットマン」誌と「フラッシュ」誌の双方の21号と22号にまたがる形で連載されたクロスオーヴァー『バットマン/フラッシュ:ザ・ボタン』では、『DCユニヴァース:リバース』の続きが語られています。
 バットマンとフラッシュがその真相を求める謎のボタン(……このボタンがどんなボタンなのかは、『DCユニヴァース・リバース』の邦訳がもうすぐ出るということは、書かない方がいいんすかね……)、これを追い、二人は時空を超えた旅に出ます。
 その渦中で二人が遭遇したのは、『フラッシュポイント』の世界で強盗に射殺されたブルースに変わってバットマンとなった、トマス・ウェインであるのでした。実は、ブルースがトマスと遭遇するということ自体が、『DCユニヴァース:リバース』および『ボタン』の真の黒幕がブルースを精神的に弱らせるために仕組んだことであるらしいのですが、もちろん、この遭遇自体は、「バットマン」誌の展開の方にも大きな影響を及ぼすことになります。
 というのも、ブルースとの別れ際に、トマスは次のように言ったからです。


  You're the greatest gift this life has ever given me. And there is more I should have shared in that letter, so listen to me...
  お前は、この人生が私に与えてくれた最も素晴らしい贈り物だ。そして、私にはあの手紙に加えておくべきだったことがある、だから聞いてくれ……



  Don't be Batman.
  バットマンになるな。



  Find happiness. Please. You don't have to do this. Don't do it for me. Don't do it for your mother.
  幸福を見つけろ。頼む。おまえはこんなことをする必要はない。私のためにこんなことをするな。母さんのためにもこんなことをするな。



  Be a father for your son in a way I never could be for you.
  お前の息子のために父親になれ、私がお前にはしてやれなかったような。



  Let the Batman die with me.
  バットマンは、私とともに死なせるのだ。



 トマスの願いは、バットマンという存在を自らとともに葬り、ブルースをそこから解放することにある……。実は、『ボタン』の終盤、一通り事件が終結した後でゴッサムに戻ったブルースは、夜空に灯るバットシグナルを見てもそれに合わせて出動するのをためらう姿が描かれていました。
 また、問題の24号においても、自分の生活を好きでいられるのかをゴッサム・ガールに尋ねられるてこんな風に答えています。


  I'm not Batman because I like being Batman.
  私がバットマンであるのは、バットマンであることが好きだからではない。


  I'm Batman because I'm Batman.
  私がバットマンであるのは、私がバットマンだからだ。



 ……しかし、すぐさま、こんな風に問い返されてしまうのです。


  What about your family? Before Alfred. Your parents.
  あなたの家族はどうなの? アルフレッド以前。ご両親のことよ。



  Would they have wanted you to be this?
  ご両親なら、あなたがこうなることを望んだかしら?



  To be Batman?
  バットマンになることを?



 ……と、いうような展開を経た上で、「ブルースのセリーナへの求婚」という出来事が発生するわけです。……だからね、やっぱり……全然めでたくなんかないじゃーん!


 改めて確認しますが、今回、ブルースがセリーナが求婚するに至った次第は以上のようなことであるため、かつてクラークがロイスに求婚するに至ったときのこととはまるで意味が異なります。ブルースがセリーナとの関係を徐々に親密なものにして幸福へと向かう道のりを歩んでいるのでは全くなく、かつてないほどにメンタル面が弱っている状況で、バットマンであることの宿命から逃れるために出てきたのが、セリーナに結婚を求める言葉だったのです。
 そして、今回の件でさらに巧妙なのは、ブルースとセリーナの間には決定的に乗り越えがたい断層があることが、既に示されていることです。実はそれは、『ボタン』の以前から伏線としてしこまれていたことなんですが……ここでそれをもってくるのか~! といいますかね。
 現行のブルースとセリーナは、自分たちが最初に出会った出来事について、異なる記憶を持っています。ブルースの記憶がオリジナルの両者の遭遇であるのに対して、セリーナの方は、ポストクライシスのバットマンのオリジンたる『イヤーワン』の記憶なんですな。
 そのため、ブルースが最初の事件にまつわる宝石を婚約指輪として出してきても、セリーナ的には「何ソレ?」という、割とヒドいすれ違いが起きてしまっているのです。そして、この求婚にまつわる出来事が『ボタン』と強く結びついて語られてもいる以上、ブルースとセリーナの間に存在する深い断層は「リバース」全体の核心部分と結びついていることは、ほぼ確定でしう。
 ……っちゅーわけなので、「バットマン」誌をちゃんと継続して読んでいる読者には、これはめでたいことでもなんでもないし、そもそもこの求婚が受け入れられるかどうかすらわからないということは明白なんですが……
 いずれにせよはっきりしているのは、少なくともバットマンが今までと同じ存在である限りは、結婚などできるはずもないということです。特にトム・キングのライティングによる最初のアークでは、無実の人間を救うためならば、日々果てしなく続く闘いの渦中でいつでもバットマンは自らの命を捨てる覚悟ができているということだったのですから、特権的な一人の配偶者を持つことなどできるはずもありません。
 言い換えれば、「果たしてバットマンは結婚することができるのか」ということは、単純なように見えながら、バットマンというキャラクターの根幹に関わる問題であるわけです。そういう意味では、少なくとも、「ブルースとセリーナの間にあるdcユニヴァースそのものの亀裂が解消される」「バットマンが、明確にこれまでとは異なる存在になる」という二点がクリアされないとこの結婚はありえないはずなので、成就するのだとしても『ドゥームズデイ・クロック』のあとになるんではないでしょうか。


 ……最近の「バットマン」誌の展開を読みながら、以上のようなことを考えていたのですが……それを踏まえて改めて『ボタン』を読み返してみると、非常に周到に仕込まれた伏線が至るところにあるのがわかってきたのです。
 特に、最初に読んだ段階では何が起きているのか全くわかっていなかったことに気づいてしまったのが、『ボタン』のエピローグです。これを読むと、バットマンのみならずスーパーマンにも、同じようにそのキャラクターの本質を根幹から揺るがすようなことがふりかかるっぽいことが予告されていることがわかるんですが、それだけではなく……実は、最後に引用されている言葉を読むと、これら全ては「スーパーマンとバットマンを滅ぼすための用意周到な陰謀」ではないんじゃないかと。つまり、スーパーマンとバットマンを根本的な部分から破滅させることが、むしろ、両者にその本質を再生させるための試練として用意されているのではないか。『DCユニヴァース:リバース』を読んで以来、私を含め多くの読者は、ジェフ・ジョンズがあの人に喧嘩を売ったものとばかり思ってきたけれども、実は違ったのではなかろうか。むしろ、あの人の存在とその影響こそが、王道ヒーローが王道ヒーローとして存在しうるための試練であるということなんじゃないかと。確かにその影響は「毒」と言えるのかもしれないが、しかし、その「毒」によって「目を見開かされる」こともあるという……(だいたい、よくよく考えてみたら、スーパーマンを支持する者は、あの人を単純に否定することは絶対にできないわけで……)。
 「リバース」全体の真の黒幕であるだろうあのキャラクターが、単に世界の破滅をもくろむ巨悪であるかのように描かれてしまうことに違和感を感じてはいたのですが、しかし、それはこちらの読解が甘かっただけなのではないか、と。あのキャラクターは単なる悪などではなく、スーパーマンとバットマンの破滅を望んでいるのでもなく……スーパーマンとバットマンという、アメコミヒーローの原型とすら言える二人が、その本質を根幹から揺るがされたときにそれでもなお立ち直りうるのか、その真の強さはどの程度のものであるのかを明らかにすることができるような状況を生み出してはいるが、その目的は、ただ単に、両者の本質を観察することにのみあるのではないか……(まあ、黒幕と言っても一人ではなさそうなので、「観察のみが目的の黒幕」と「世界に干渉して変革することが目的の黒幕」の両方がいるんでしょうけれども)。
 つまり、あの人のあの作品は、実は、「リバース」によって否定されているのではない。むしろここにあるのは、むしろ、あの作品とその影響までをも含み込んだものがDCコミックスの歴史なのであるという、DCユニヴァースの全体像に関する真の全肯定なのではなかろうか。
 改めて振り返ってみれば、DCコミックスがたどってきた姿の中でも対局にある二つの側面、その光と闇の両方を内包しつつグリーンランタンの再生に成功したのがジェフ・ジョンズの出世作『グリーンランタン:リバース』であったのだから、それと同じことをDCユニヴァース全体において展開するのであれば、そのように考えた方が筋が通るわけです。
 そう考えると……ジェフ・ジョンズ自身が、『ボタン』からさらに続く『ドゥームズデイ・クロック』において「ドゥームズデイ」という言葉が用いられていることについて、ドゥームズデイという名のあのキャラクター自体が登場するわけではないが、意味の含みはあると述べていたのは、「この作品で展開されるのは、スーパーマンの死(とおそらくはその再生)である」ということなのではないかと。
 そういう意味では、「バットマンの本質をいったん解体して改めて根本から問い直す」という仕事を任せることのできる存在としてトム・キングは選ばれたということなんでしょうが……逆に言うと、ジェフ的には、「スーパーマンに関してはおれ自身がやるぜ~!」ということなんじゃないでしょうか……。
 う~む……いや、ほんと、これはちょっと凄いことになりそうであります。一度はその根幹から完全に抹殺したキャラクターであるグリーンランタンを完全復活させるという荒業を成し遂げたのが『グリーンランタン:リバース』であったわけですから、それをDCユニヴァース全体の規模にまで拡大してやるというのは偉いことなんですが……そこまでやってこそ、「リバース」と言えるということなんでしょうか。










ポストトゥルースの時代と向き合うことによって、ニック・スペンサーは現代において最も重要なクリエイターの一人となった

 一応念のために改めて書いておくと、私は、ニック・スペンサーという人に関しては、「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」のライターに就任したのを一読した瞬間から絶賛してきた。……のだけれども、その後も新しい仕事に接するたびに評価を上方に修正し続けており、とりわけ「シヴィル・ウォーⅡ:オウス」を読んだ今となっては……2000年代のアメコミ業界を代表するライターがジェフ・ジョンズだったのだとすると、2010年代を代表するライターはニック・スペンサーでもはや確定、とまで思うようになった。
 しかし、いざこの二人を並べてみると非常に興味深いのは、両者の存在感はちょうど入れ替わるような形で業界を覆っていることである。……改めて振り返ってみると感慨深いのは、「DCユニヴァース:リバース」のわずか一撃で、業界の勢力図が一挙に塗り替えられてしまったことだ。あのコミックを一読したときには単にその内容のよさにひきつけられただけだったのだが(実際、あれがフラッシュ史上のオールタイムベストであることには、私は一切の異論を認めません)、あれから現在に至るまでのアメリカのヒーローコミックは、完全にあの一本を中心にして動いてしまっている。
 とはいえ、当のジェフ・ジョンズ自身はと言えば、あの一本を最後に現場から撤退し、今のところコミックのライティングは全く手がけていない。……一方、マーヴルがDCにかぶせて発売した「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」の創刊号は、徹底したしたバッシングにあい、ライターのニック・スペンサーは凄まじい汚名をかぶることになった。
 ほんの数年前には、業界のシェアで言うとマーヴルはDCの二倍近くまでを占めつつあったのだが、今やトントン……と言っても、マーヴルの場合はオリジナルコンテンツではないスターウォーズ関連のものを含めたものであるため(そして今のマーヴルでは、スターウォーズ関連以外のコミックは全く売れていない)、それを除いてしまったら大惨敗である。
 そのような、近年におけるDCの復権とマーヴルの凋落とは、「DCユニヴァース:リバース」と「キャプテン・アメリカ:スティーヴ・ロジャース」が同時に発売されたという出来事に、あまりにも鮮やかに象徴されてしまっている。そして、その中心にあるのは、ジェフ・ジョンズとニック・スペンサーとの入れ替わりであるだろう。
 ジェフ・ジョンズが退場しながらもその影響が広く浸透したままである業界において、ニック・スペンサーが一身に体現してしまっていること……それは、「ポストトゥルース」のアメリカを生きる、ということであるだろう。


 ニック・スペンサーという人がどのような状況に置かれているのが改めて明確になったのが、『シークレット・エンパイア』をめぐるバッシングだろう。この騒動で明らかになったのは、そもそもニック・スペンサーをバッシングしている人々は、実際に自分が叩いている対象の作品を読んでいるわけではなく、それどころか、もはやそれを隠す気すらないということだ。
 この件で叩かれていたことが何だったのかというと、ニック・スペンサーがライターを努める『シークレット・エンパイア』の5号のヴァリアント・カヴァーに登場するマグニートーがナチっぽい衣装を身に纏っている、ということである。
 改めて念を押しておかなければならないのは、ニック・スペンサーがバッシングされ誹謗中傷を受けた原因となる根拠は、ただそれだけのことでしかない、ということだ。9号までが予定されている『シークレット・エンパイア』は、騒動の時点でまだ全く刊行すらされておらず、予告されている表紙がどのような意味であるのかすらわからず、確認することすらできない時点での騒動だったのである。
 そもそもの話として、アメコミ業界でコステュームなどのデザインを手がけるのは基本的にアーティストの仕事であり、ライターがどの程度まで注文を出して要望を伝えているのかは、個々のケースのそれぞれを関係者に確認を取らなければ、はっきりとしたことはわからない。さらに言うと、本来の表紙ではないヴァリアント・カヴァーにおいては、そのためだけに起用されるアーティストに任された自由裁量の部分が大きく、結果として、コミック本編と全く関係のないようなものが描かれることもたびたびある。
 そして、いまだ刊行がスタートしてすらいないコミックの後半に関することだから、作り手の側がそこに至るまでのストーリー展開を説明することもできない……という状況にあったわけだ。つまり、あの騒動でニック・スペンサーを叩いていたのは、この程度のことすらわからない人々だったのである。この人々は、読んでもいないものを叩いているのだから、大前提として、読者ではないということになる。
 それ以上に問題なのが、この人々は、自分が読者ではないことをもはや隠そうとすらしていないということだ。その時点では誰も読むことができず、ゆえに当然のこととしてその批判が正当なものなのか誰にも検証することすら不可能な状況でも、叩いていいことになったらどれだけ叩いてもいい。
 だいたい、ニック・スペンサーは「キャプテン・アメリカ:サム・ウィルスン」のライターに就任以来、ほぼ毎号に渡って過去の「キャプテン・アメリカ」へのオマージュを盛り込み続けてきたのにそれすらわからずに叩いている人々は、現行シリーズもバックナンバーも、ともにろくに読んでいないわけだ。
 ……一方、当のニック・スペンサーはと言えば、現代におけるまさにそのような状況そのものを、自作の内に取り込んでいるのだ。


 さて、巨大クロスオーヴァー『シヴィル・ウォーⅡ』のエピローグたる「オウス」のほとんどは、スティーヴ・ロジャースの独白と回想で構成されている。そして、これが非常に興味深いのは、ここでのスティーヴの言葉が、『シヴィル・ウォーⅡ』本編でのキャロル・ダンヴァースとの衝突の果てに昏睡状態となったトニー・スタークに向けて語られているということだ。
 もともと、最初の『シヴィル・ウォー』の終結直後、スティーヴは暗殺された。その遺体を前にしたトニーが、政治的軋轢の中で押し隠してきた内面を「告白」する……という場面があったのだが、今回の「オウス」は、ちょうどその構図を反転させたものになっているわけだ。
 過去を回想しつつ、これから起きる出来事について、スティーヴはトニーに「誓い」の言葉を述べる。……一方、改めてS.H.I.E.L.D.長官に任命されることになったスティーヴの、公的な「宣誓」の言葉が語られてもいる。
 そういう意味では、この「オウス」には二重の意味があるように見えるのだが……実際のところ、このタイトルに込められた多義性は、それだけではないように思えるのである。ここで語られているのは、ライターとしてのニック・スペンサーが読者に向けて語りかける「誓い」であるとも取れるのではなかろうか。
 「オウス」においてスティーヴが回想するのは、『シヴィル・ウォーⅡ』のことだけではない。最初の『シヴィル・ウォー』以降は特にマーヴルの巨大イヴェントで内輪もめが非常に多くなっていることや、「どちらの側に君は立つのか?」などと読者に語りかけてきたこと……そして、スクラル人がヒーローたちに偽装して多数地球に潜入していた『シークレット・インヴェイジョン』でも「誰を君は信用するのか?」などと煽ってきたこと、それらを踏まえると、スティーヴの発言は、極めて過激なものであるのだ。


 I don't know when you all started to really lose touch--when you forgot who you were supposed to be fighting for--but you did.
 君たちの誰もが、いつの時点で本当に目的を見失い始めたのか――誰のために戦うことになっているのかを忘れてしまったのか――それは私にはわからない。しかし、実際に君たちがそうなってしまったことは確かだ。



 And before you knew it, all your biggest battles were with each other.
 そして、君たちがそのことに気づく以前から、君たちの大きな闘いは全て、自分たち同士の間でなされるものになってしまっていた。



 Now, you'd tell me that's not fair. That you and Danvers were both arguing about how to make the world safer--that your motives were pure.
 そう言うのはフェアではないと君なら言うかもしれない。君とダンヴァースは、双方とも、世界をよりよくするために言い争っていたのだと――その動機はピュアなものだったのだと。



 You'd say that because it's the lie you've been telling yourself the entire time.
 君がそう言うのだとすれば、その理由は、それこそが君が自分自身にずっと言い聞かせ続けてきた嘘だからだ。



 I guess you can't really be blamed, though, can you? The system you live in is so corrupt from top to bottom it couldn't help but infect you.
 だが、私が思うに、君が責められねばならないいわれなど本当はないだろう? 君がその内部にいるシステムが上から下まであまりにも腐敗しているゆえに、汚染されるほかなかったのだ、と。



 But while you were busy fighting amongst yourselves? You missed something.
 だが、君たちは内紛に勤しむ間に、見失ってしまったことがあるのだ。



 People--the nameless, faceless people you appointed yourselves the guardians of--they decided they'd had enough. They wanted to feel safe and protected, and they finally realized you don't actually have the strength to get them there.
 人々――名前がなく、顔もない人々、君たちが、自分たちはその守護者になることにした人々――彼らは、もう十分だと決めてしまったのだ。彼らは、安全であり守られていると感じたかった、そして遂にわかったのは、君たちはそれを与えるだけの強さなどというものは実際には持っていないということなのだ。



 They started to demand something better.
 彼らは、よりよきものを要求し始めた。



 ……スティーヴ、手厳しすぎる……。
 コズミック・キューブの力による現実改変によってハイドラのスパイであったことになってからのスティーヴは、知能の全てを陰謀に注いで暗躍してきたので、「こ、これは、バットマン並みの脅威だ……」などと思ってきたけれど、口の悪さもその域に達していますなあ。単に罵詈雑言を投げつけるのではなく、相手の弱点を極めて冷静に分析した上で、痛いところばかりをネチネチネチネチネチネチネチネチ突き続ける上に、正論のゴリ押しだから言われた側も反論しづらいところなどもバットマンっぽいです。
 でもまあ、これ言ったのがスティーヴだと「な、なんてこと言うの~っ? こんなん言われたら、トニーの心折れちゃうよーっ!」などと思いますが、同じようなことをブルースが言ってても、単に通常営業の範疇ですな……。
 いずれにせよ、スティーヴのダメ出しは、まだまだ続く。


 It's too late for all of you.
 もはや君たち全員は手遅れだ。



 Somewhere over the national mall while you and Danvers were beating the hell out of each other, the verdict came in. The people made their decision, and you lost.
 ナショナル・モールの上空で君とダンヴァースが互いに殴り合っていた間に、評決は下っていたのだ。人々は決断を下し、君たちは負けた。



 And I'm glad. Do you remember when the Skrulls infiltrated everything, and everyone went around asking "Who do you trust?"
 私はうれしいよ。覚えているかい? スクラル人があらゆるところに潜入し、誰もが「君は誰を信じるんだ?」などと尋ね続けていた時のことを。



 Well, now you have your answer--they don't trust any of you. They want something else entirely. Who can blame them?
 今や、答えは出たようだなだ――人々は、君たちの誰一人をも信じない。彼らは、何か完全に異なるものを求めている。いったい誰が彼らを責めることができよう?



 You call yourselves "heroes" while you waste most of your time infighting and settling petty grudges.
 君たちは自分のことを「ヒーロー」と呼ぶ、ほとんどの時間を、内輪もめとけちな遺恨の決着に費やしておきながらね。



 You call yourselves leaders while you jockey around for authority and pecking rights, trying to make yourselves look good--
 君たちは自分のことを指導者と呼ぶ、権威や序列を得るために策を弄し、自分たちの見栄えを良くしようとしておきながらね――



 --while the truth is you've completely divorced yourself from the people you claim to protect. You have no understanding of what they want or need from from you anymore.
 ――一方、真実はと言えば、君は自分自身を、自分が守ると主張したはずの人々から完全に切り離してしまったのだ。彼らが君に何を求め何を必要としているのか、もはや君は全くわかっていない。



 And I know what you would say to that--that for all your mistakes, you've saved the world countless times over. But look around you--
 わかっているよ、それには、君ならこう言うだろうなー―多くの間違いがあったとしても、この世界を数え切れないほど何度も繰り返し救ってきたじゃないか、と。だが、周りを見て欲しい――



 --does this world look saved?
 ――この世界が、救われているように見えるかい?



 People are afraid, yes, everyone keeps saying this--and it's been true for a very long time. But now--
 人々は恐れている、ああ、誰もがそう言い続けてきたね――そして、それは長い間に渡って、真実だった。だが、今や――



 --now, they're angry.
 ――今や、人々は怒っているのだ。



 「この世界が、救われているように見えるかい?」と言ったときのスティーヴの、人を馬鹿にし蔑みきった表情と仕草は腹立たしすぎることこの上ないので、一見の価値があります。
 ……まあ、それはともかく、ここでスティーヴが語っている手厳しい言葉は、惨憺たる評判だった『シヴィル・ウォーⅡ』に対して不満を述べた読者の言葉と重なり合う部分が多々あるものであるわけだ。
 とはいえ、マーヴルの巨大イヴェントのありがちなストーリーは、『シヴィル・ウォーⅡ』以前から似たようなものではあった。『シヴィル・ウォーⅡ』の場合は製作スケジュールの酷い遅延なども相まって不満が高まったわけだが……何年も前から似たようなことをやってきたはずなのに、マーヴルのヒーローものが売り上げまで含めて急速に落ち込んだことには、マーヴルの外部にも要因があるはずである。
 「オウス」で述べられる言葉が、現実の読者へ向けた「誓い」でもある、三重の意味を持つのならば……仮にこれが正しければ、ここでスティーヴが語っている、人々がマーヴル・ヒーローにソッポを向けて求め始めてしまった'something better'あるいは'something else entirely'なるものも、現実世界に実際に存在している、具体的な何かであることになる。
 そう、「オウス」という言葉に、読者へと向けたニック・スペンサー自身の「誓い」という意味があるのであれば……ここにあるのは、「DCユニヴァース:リバース」に対する、事実上の敗北宣言なのである。
 ユニヴァース全体の中枢にある大規模なクロスオーヴァーを中心に見ると、マーヴルがヒーローたちの陰惨な内ゲバを描き続け、DCが王道ヒーローを正面から堂々と描ききろうとするような傾向は、だいぶ以前から続いてきた。にもかかわらず、マーヴルの方が売り上げ面では大幅にリードしていたのが……やはり、水面下では読者の不満は募っていたのだろう。『シークレット・ウォーズ』と『シヴィル・ウォーⅡ』が連続してこけたこともあり、一方で「DCユニヴァース:リバース」がアメコミヒーローの過去の遺産を全肯定しつつ、王道ヒーローを正面から直球で描きつつ、なおかつ人間の精神のポジティヴな面を何のてらいもなくうたいあげて大成功したとき、実は危ういところにあった均衡は、一挙に崩れてしまった。
 「オウス」の後半で明らかになるのは、近年のマーヴル・ユニヴァースで起きた事件を批判的に回想するスティーヴの言葉が、これから始まる『シークレット・エンパイア』につながっていることである……ということは、だ。このコミックが、ライターとしてのニック・スペンサー自身にとっての「誓い」でもあるならば、自身がこれから語ってみせる『シークレット・エンパイア』は、手厳しく全否定された近年のマーヴルのクロスオーヴァーとは全く違ったものにする、ということなのではなかろうか。


 仮にこれが正しければ、こういう人材に大きな仕事を任せるマーヴルもまだ死んではいないと思えるのだが……遂に始まった『シークレット・エンパイア』の冒頭あたりを一読した限り、やはりこれは傑作になりそうな予感がするのである。
 ストーリーの発端となるのは、世界各地で巨大な危機が同時に勃発する非常事態だ。その混乱状態の中で、S.H.I.E.L.D.長官であるスティーヴ・ロジャースが、危機回避のために、アメリカの軍隊および法執行機関の全権を掌握する。だが、スティーヴの指揮下によって全ての危機が解決され平和が回復されたかに見えたまさにその時、各地で一斉に放棄したハイドラによって、アメリカの主要な拠点が一挙に制圧されてしまう……。
 こんな風に始まる序盤の展開は非常に面白く、是非このテンションを持続していってもらいたいのだけれども、一方で、徐々に明らかにされつつある現状のスティーヴの設定は、非常に興味深いのみならず、アメリカの現状とリンクする部分もあるように思える。
 実は、「シヴィル・ウォーⅡ:オウス」の時点で、スティーヴは、自分がコズミック・キューブの影響下にあることを自覚していることが示唆されていた。読者が知る、これまでマーヴル・ユニヴァースで描かれてきたスティーヴ・ロジャースがなしてきたことの記憶を全て保持しつつ、その人格を「彼」と呼んで、自分とは別の存在と見なしていたのだ。
 『シークレット・エンパイア』の冒頭で明らかにされたのが、これにまつわる事情だ。……コズミック・キューブによって改変された歴史においては、もともと、コズミック・キューブを開発し兵器として利用したのは、連合国側の方だった。第二次大戦の敗色が濃厚であった連合国が、コズミック・キューブによって歴史を改変した結果としてできたのが現在の世界である……つまり、スティーヴは、コズミック・キューブによって人格を記憶ごと変えられたのではなく、改変前の世界の本来の記憶を取り戻したのである(……と、少なくともスティーヴ本人は信じている)。
 この設定が非常に興味深いのは、前提として確固たる正史の世界があり、そこから外れる記憶が洗脳によって捏造されているのではないと言うことだ。真実の歴史と偽の歴史の境界が絶対的に確定されているのではなく、マーヴル・ユニヴァースのこれまでの歴史とハイドラの隠された歴史のどちらが「真実」であるのかを確定する証拠は今のところ存在しない、つまり、その違いは相対的なものに過ぎない。
 要するに、現状の設定とは、アメリカとハイドラとが、互いの覇権を争う過程で、コズミック・キューブの力によって歴史そのものを書き換えあっている、というものなのである。そして、その中心点にある存在こそが、スティーヴ・ロジャースに他ならないわけだ。
 つまり、ここでは、明確な「真実」がどこかに存在し、それを基準として真偽が確定できるという世界観そのものが解体されていることになる。そしてこれは、「ポストトゥルース」と呼ばれる現在の世界をそのまま反映したものであるだろう……(ついでに言うと、先ごろ完結したアラン・ムーアの大作『プロヴィデンス』も、想像力こそが現実を規定する、それどころか、現実そのものを構成し時に書き換えすらすることを描き出していたわけで、同時代的なテーマを共有しているのだと言えよう)。
 改めて考えてみると、マーヴル・ユニヴァースがマーヴル・ユニヴァースとして確固たる同一性を保ち続ける条件、そのアイデンティティを、どれだけ時代や状況が変わろうとも確定させるものは、ただ一つしかない。「スティーヴ・ロジャースの信念」がそれである。
 そういう意味では、マーヴル・ユニヴァースをポストトゥルースの世界に投げ込むためには、それを取り除いてしまうことは、むしろ必要不可欠なことであったことになる。そんなことを考えるにつけ、『シークレット・エンパイア』の今後の展開には改めて注目しなければならないと思うのであった。











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