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『大江健三郎全小説』の刊行は日本の文学史に残る事件だが、それは必ずしも喜ばしいことではない

 『大江健三郎全小説』が全十五巻で刊行されるということを、私は大きな驚きとともに受け止めた。この作品集においてなによりも重要なのは、初出の「文學界」に掲載されて以来一度も単行本化されてこなかった「セヴンティーン第二部 政治少年死す」が、遂に書籍の形で初めて出版されるということ、のみならず、それらが収録される第3巻がわざわざ初回配本になることが予告されたことだ。……さらには、第4巻の収録作……『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』と『みずから我が涙をぬぐいたまう日』に加えて、『水死』! ……うおー、そうきたか~。この第4巻、これは完全に、およそ日本語で書かれたあらゆる文学作品の最高到達点が結実してしまっている凄まじいものだ。

 収録内容についてだけでも感想はいろいろあるのだが、いずれにせよここにあるのは、著名な小説家が過去の自作を異なるフォーマットで改めて出版するというただそれだけの純粋に文化的な活動が、同時代的な政治状況への強烈な意思表示にもなりえているという事態だ。

 現在の日本で進行しつつある状況は、極めて無惨なものだ。何年か前に、大江自身が中野重治の言葉を引いて「わたしらは侮辱のなかに生きています」と述べたことがあるが、それ以降、さらに状況は日に日に悪化しつつある。端的に言って、もはや日本に住む我々は、近代的な法治国家の体制を最低限維持することすらできていない。権力者の都合で刑事犯罪の被害者であることがなかったことにされるということは、単に一個人の問題ではない。潜在的にはそれが任意の誰にでも起こりうるということは、日本国民は成文法による保護を既に受けていないということだ。我々の人権は、既に不等に剥奪されている。クーデターは、既に成し遂げられているのだ。

 そんなことを考えつつ暗澹たる気持ちで日々を過ごしている中であったからこそ、おそらくは長年の苦渋の果てにこの時点で決断を下した大江健三郎という小説家の存在は、少なくとも私にとっては、一縷の希望となった。自らの作家生命の全てを投げ出すリスクを負ってもなお、現在のこのタイミングでなしておかなければならないことがある。……そう、既に我々の人権は剥奪されているのなら、既にあって当たり前の何かを守るための闘争などというものは既に存在しない。単純に、もはや何ものをも持たざる者として、自分の生存を勝ち取るために最初から最後まで捨て身で闘えばいいだけのことだ。

 大江健三郎が、若き日に書いた「政治少年死す」という作品の磁場に再び立ち戻るということには、人にそう思わせるだけの威力があるのだ。





 大江健三郎の「政治少年死す」という作品は、単に小説としてのよしあし、その美学的判断の問題だけを取り出して論じることができるようなものではない。だからこそ、改めてこの小説を再版することがそれだけで政治的意味を持ってしまうのであるが、にもかかわらず、大江を論じるにあたって政治的問題を勝手に留保して小説としてのよしあしだけに言及する(ことが可能だと思いこんでいる)者は後を絶たない。

 軽くネットを検索してみたところ、今回の『大江健三郎全小説』の刊行にあたっても、既に同様の反応はちらほら発生しているようだ。たいてい、この手の者は(自分の見識眼の優越性を示すためであろうか)書誌的な体裁の部分になにかしら難癖を付けるところから入るのであろうが、まず間違いなく、的外れなことしか言わない。……まあ、そもそも政治的問題を切り離せない作品を取り上げておいて政治的問題を切り捨てて語ってしまうようなことを平気でする者は初手からして間違えているのだから、何かしらの有益な言説を期待する方がそもそも無駄なのであろう。

 「政治少年死す」という小説は、単純にそれを読もうとアクセスするだけの段階ですら、既に政治的問題をはらんだ状況に多かれ少なかれ巻き込まれずにはいないような作品としてあり続けてきた。そのことを具体的に示すために、私の個人的な体験をここに記録しておこうと思う。

 それは、私が「政治少年死す」の初出の「文學界」一九六一年二月号の現物を閲覧しようと、広尾にある都立中央図書館に赴いたときのことであった。当然のことながら開架されてはいない古い雑誌の閲覧を申し込んだところ、私に対応した図書館員が、くどくどとこの雑誌の取り扱いに関する注意事項を並べ続けることになった。それは主に、古い雑誌であるゆえに破損しかねないからコピーを取ることは厳禁、ということであったのだが、そこからの流れとして、なぜか私が座る座席も明確に指定され、一挙主一動作を図書館員に監視されながらでなければ閲覧できないということになった。

 その時点でもなんとも言えない胡散臭さを感じてはいたのだが、そのまま「文學界」を読み進めてしばらく後に、何が起きているのかにようやく気づき、自分のうかつさを思い知らされる出来事があった。私を継続して監視していた図書館員が交代する時間になったらしく、他の人物がやってきたのだが……その引継の際、「あそこにいるあの人、例のアレを読んでるから」と小声で囁くのが聞こえてきたのである。

 よくよく考えてみれば、雑誌の保存状態を理由としてコピーを禁止する措置が取られているというだけのことなら、閲覧のために座る座席まで指定されるということが、およそおかしな話であったわけだ。……国内で商業出版された雑誌を調べるというだけの個人の活動を公共の図書館が妨害し、特定の作品の流通を阻止するーーそれも、対象が、よりによって自国が輩出したノーベル賞作家の作品であってさえもーーなどということは、もちろん、あってはならないことだ。そして、あってはならないことだからこそ、建前の上では、図書館が言論弾圧や自主規制をなしたのではなく、あくまでも雑誌の保存状態を維持するためのしかるべき措置がなされているだけのことなのである、その建前を建前として貫き通すことすらできていないわけであるが。

 この出来事自体は既にだいぶ以前のことであるが(「これが、都の公務員がやることなのか……さすがは石原の手下どもだぜ!」と思ったことは覚えているので、石原都政の時代であったことは確かだ)、その後の日本がたどった道筋は、このような、「自主検閲であることそのものがなかったことにされた上でなされる自主検閲」がより一層強化されていくことであったと言えるだろう。

 そして、現在起きつつあることは、そこで最低限度維持されていた建前すら、破壊し取り除こうとすることであるわけだ。





 改めて繰り返すが、以上のような状況において大江健三郎が「政治少年死す」を初めて書籍化する、それをわざわざこのタイミングで発表するということは、それ自体が大きな政治的意味を担う行為である(……改めて、発表された表紙を見てみると、「セヴンティーン」が「セブンティーン」と表記されていることに不安を隠せないのも事実なのだが、校正の段階すらすっとばして、わざわざ現在の状況に合わせて発表を急いだのかもしれないと、とりあえずは好意的に考えておくことにする)。

 「政治少年死す」という作品において、その小説としての純粋に美学的・技術的な価値と社会的な文脈の内部での政治的意味とは分離できないという旨のことを、既に私は何度も記した。ではこの作品は、そもそもいかなるものなのか。

 中篇小説「セヴンティーン第二部 政治少年死す」は、もちろん、「セヴンティーン」の続編である。そして、大江のキャリアを振り返ってみるならば、学生時代にプロの小説家としてデビューして以来の活動が「セヴンティーン」において最も見事な形で結実しており、大江初期の集大成とも言える仕事になっていることは確かなことだ。

 だが、大江が大江たるゆえんは、そのような仕事の続編でありながら、「政治少年死す」において自分のそれまでの歩みの集大成を自ら粉々に破壊し、小説家としての自分が依って立つはずの足場を完全に解体しているということにある。少なくとも日本語で書かれた小説の中で、こんなことがなされたことは唯一無二のことであるはずだ。

 初期の大江健三郎と言えば、当初から確立されていたその特殊な文体の美徳がしばしば取り沙汰される。当時二十代前半の大江自身と重なる部分が多い語り手が一人称の形式を取ることによって作品は成立するーーそして、そこで語られる内容はと言えば、フランスの実存主義に大きな影響を受けつつ戦後世代の内面を描き出し、武田泰淳を始めとする第一次戦後派が取り組んだことを「政治的人間」としつつ、そのようになりきれない自分の世代を「遅れてきた青年」と呼び、その実存を「性的人間」として「政治的人間」へと対置したのであった。

 「セヴンティーン」が題材とするのは、現実に起きた社会党の浅沼稲次郎委員長の暗殺事件の犯人たる右翼の少年の来歴である。一人称の視点からなるこの小説は、右翼となる以前に、現実世界で何のヴィジョンもなくみじめな生活をおくるこの少年が、右翼へと目覚めることによって脆弱な自我を鎧で固めることになる、そのプロセスを暴き出していく。

 ここでは、ある一個人の内面の変化を丹念に追うことで、「政治的人間」と「性的人間」という異なるあり方の間での揺れ動きを統合することに成功している。だからこそ、私はこの作品をして初期の大江の集大成とみなすわけだが……これに続く「政治少年死す」において大江自身がこれを自ら打ち砕いたとするのならば、なぜ大江はそんなことをしなければならなかったのか。

 「セヴンティーン」という小説は、単に自分の弱く臆病な自我を塗り固めるためだけに右翼に目覚めるような人間の醜悪さを徹底して暴き立てている。しかし、その内面は主人公自身が話者となって一人称の形式で語られるものである以上、話者とは区別される作者の審級にいる大江自身は単に一方的に作品をコントロールしているだけである。……つまり、大江は他人の弱さを暴きそれをあげつらってはいるのだが、他社の内面に裁断を下す自分自身がいかなる資格においてそれをなしうるのか、一方的にメタ的な立場に立っている作者自身のあり方が問われることはない。

 初期の大江健三郎とは、単に才能で書いているだけのよくできた物語作者にすぎない。そこには、小説の形式性に対する自己言及的な検討はない。むしろ初期の大江だけをよしとする言説には私もこれまでさんざん触れてきたが、残念ながら、初期の大江作品は、その主要な元ネタの一つであるピエール・ガスカールなんかと比べてしまうと、全く大したことのないものだと言うほかない(とはいえ、サルトルの小説の模倣として書きながらサルトルを凌いでしまうような部分なんかはやはり凄いのだが)。

 そんな大江が、小説の形式性に自覚的であることを初めて強いられた作品こそが「セヴンティーン」であったのだと、私は考えている。……なるほど、確かに一人称小説としては「セヴンティーン」はよくできている、しかし、何も考えずにただ素朴に一人称の形式を選択している限り、作品が対象とする個人に一方的に裁きを与えることにしかならない。

 ……だからこそ、「政治少年死す」において大江がなしているのは、むしろ自己批判なのである。その媒体が小説であれジャーナリズムであれ、特定個人の内面を暴き立てその立場に非難を加える者は、いったいいかなる資格でそれをなしえると言うのか。己の立場をいっさい不問に付し一方的な攻撃だけがなされるのは、小説にせよジャーナリズムにせよ、最初から型が固定したただの武器として用いられているのにすぎない。

 右翼の内面の弱さを暴くのであれば、それと同時に、それを暴く側の内面の弱さをも暴かれなければならない。書く側と書かれる側とは同一平面上に置かれるのでなければならず、あくまでその立場を前提として、それでもなお否定されるべきものがあるのならば、そこから改めて否定がなされなければならない。

 しかし残念ながら、この時点での大江は、そのようなことをなしうるだけの小説の技術を持ち合わせていない。結果として、「政治少年死す」の作品としての構成は、無惨に破綻する。

 純粋に技術的・美学的にのみ見た場合、「政治少年死す」は、端的に言って、小説として成立していない。しかし、作者自身が過去の集大成たる自作を破壊したその残骸の中に現れたのは――右翼であれ左翼であれ、政治的立場の依って立つところの言葉を突き詰めるのならば、詩の言葉との必然的な結びつきが現れてくるということなのであった(大江が小説の言葉と詩の言葉との相関関係そのものを小説化することに技術的に成功するには、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』まで待たなければならないだろう)。

 単に個人の内面の閉じた世界を問題にするのではなく、現実世界の流動するありさまをも見据えて自分がなすべきことをしようとするのであれば、小説家は、自らの用いる言葉のあり方を自己言及的に不断に検討しなければならない。大江がそのような第一歩を記した初めての作品であるゆえに失敗作となったのが「政治少年死す」であったのだ。

 だから、私は、大江健三郎という小説家の実質的な出発点は「政治少年死す」であるのだと見なしているし、大江の作家活動の総体を肯定するためには、そのような立場しかありえないと考えている。





 大江のその後のキャリアをたどってみると、「セヴンティーン」と「政治少年死す」の間でなされたことは、『万延元年のフットボール』とそれに続く『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』においても繰り返されている。……大江がどのようなことを成し遂げて世界的な水準で仕事をする小説家となったのかを知るのは『芽むしり仔撃ち』「セヴンティーン」『万延元年のフットボール』を読めばおおよそのことはわかると思うが、しかし、むしろ「政治少年死す」と『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で自分の依って立つ足場を自ら破壊するその姿にこそ、大江の核心があると私は考える。

 そういう意味では、『大江健三郎全小説』の発行によって、ようやく、大江のキャリアの真の姿が公式に確認できることになる……などと思っていたところだったのだが、刊行案内を改めて読んでみると、この全集には「わかりやすい解説を付して」出版することになるのだとか……。

 「わかりやすい解説」などという言い回しにも、妙に引っかかるものがあるが……それ以前の問題として、これを見た瞬間に反射的に思い浮かんだ本音を書いてしまうと、「おれに書かせろやぁー!」というものであった。

 はっきり言って、現在の日本で、大江健三郎の小説を精密に読解しつつ全集に公式に書く資格もしくは能力を備えた書き手などというものは、ほぼ皆無であろう。仮に全十五巻の全てに解説を付けてなおかつそれぞれ別人が担当するのだとすると、まともなメンバーが揃うことなど絶対にあり得ない。間違いなく、悲惨なラインアップになることが目に見えているのである。

 このことに関しては、大江自身にもなにがしかの責任はある。まともな読解力がない、もしくは、基礎的な最低限の文学に関する素養がない、もしくは、その両方、などという人々が「小説のプロ」であるということになんとなくなっていっても、とりわけ下の世代に厳しくあたってプロの水準を保つようなことを大江はしてこなかったのだから。

 こういう状況で私が思い出すのは、大江がノーベル賞を受賞した際にナディン・ゴーディマが記念に寄せたエッセイである。群像の増刊号に邦訳が載ったその文章を、ゴーディマは次のように書き始めている。





 一九九四年のノーベル文学賞受賞者が大江健三郎氏であると知ったとき私は歓喜した。氏の受賞はここ数年来私が願い続けてきたことであった。彼はノーベル賞を受けるに値する基準を満たして余りある作家である。彼の洞察力と想像力は変貌しつつ輝き、ごく身近な人間的な言葉で、われわれの在り方をわれわれに向けて明らかにし、現代の精神状況を描き出している。これこそ人類の前進への貢献である。(「偉大な芸術への変容」、「群像特別編集 大江健三郎」所収、大西直樹訳、p81~82)





 ……まあ、お祝いの文章だから、これくらいのお世辞は言うだろうな……などと思いつつエッセイを読み進めると、ゴーディマの賞賛は続く。

 ところが、その結末に至って、ゴーディマは次のようなことを言い出すのである。





 最後に大江氏の人柄について述べよう。数年前、東京で大江健三郎氏と会ったときのことだ。私はノーベル・フォーラムに招待され東京にいた。そのとき大江氏は日本の若い作家たちの作品、とくに私の知らなかった女性作家たちの作品を私に紹介しようと一生懸命だった。その気前よい優しい心遣いには心暖まる思いがした。彼はその目的意識が自分の文学の枠を超えている作家であり、他の作家の意図を理解する点でも私は多いに感心させられた。しかし、今や他の作家たちが彼自身より面白い仕事をしているという彼の見解に私は賛成できない。帰国するときにこれらの作家の翻訳をできうる限り持ち帰り、またイギリスやアメリカでも他にいくつか手にいれた。確かにこれらには私の興味を引いたものもあったが、大江健三郎氏の示すオリジナルな視野の強烈さと、書き手としての絶妙な技量に迫るものはまったくなかった。(同、p83)





 ……ゴーディマ、単に本音を述べただけだったのか……。

 それにしても、気の毒なのはゴーディマである。大江の国内作家への甘い評価を真に受けて、時間を無駄に浪費してしまったのだから。

 こういう甘さは、大江はその後も継続的に続けている。例えば、尾崎真理子という読売新聞の記者がなぜかインタヴュアーをして刊行された『大江健三郎 作家自身を語る』という書物は、まさに最悪であった。……なにが最悪かって、なんとこの書物で、大江が南米に赴いた際に完全な偶然からフアン・ルルフォに遭遇してやり取りすることがあったという驚くべき挿話が語られているのだが、それはあくまで大江が一方的に語り出しただけのことで、聞き手の側は全く何の反応もしていないのである。

 いやいやいやいやいやいやいやいや、それ、もの凄い大事件だから……。おそらくこの聞き手はルルフォの名前すら知らなかったのだろうが、そもそもの話として、ルルフォすら知らんような者が一人前面して重要作家のインタヴューなんかするなって。そして、仮に知らなかったんだとしても、書籍化するんなら自分の無知に基づく甘い部分を調べ直し、大江に聞き直し、万全を期してからにしろやと。

 さらに驚くべきことは、私の知る限りの話ではあるが、この後、大江に直接話を聞ける立場の者がこのルルフォとの一件の詳細を確認しに行ったということも聞かないのである。後代のまとまな批評家なり研究者なりが大江の評伝を書く際にはとんだ災難としか言いようがない悲惨な事態なのだが、文学史の貴重な財産ともなりうる知見が失われかねないという認識すら、どうやら誰も感じてすらいないようなのである。

 それに、商業誌上で「小説のプロ」として大江自身に話を聞く者も、あるいは作品の批評を書く者も、小説の技術的な分析・検討をするということがほとんどないというのも困ったことである。例えば、ある一時期以降の大江が小説内の会話を鍵括弧でくくることがなくなったのは、まず間違いなく、バフチン的な意味での自由間接話法をいかにして日本語で成立させるかということがあるはずなのだが、私の知る限り、たぶん誰も言及していない。そういう小説の技術論について最も詳細に語っているのが大江自身で、全く何もわけわかっていない人々がなぜか大江の小説に裁きを下し、結果として完全なデタラメを流通させているわけだ。大江の直面する政治的問題は回避しておいて、純粋に審美的な話に限っておきながら、なおかつ純粋な技術の問題を掘り下げることの方もできないという、どうしようもない人々が、「小説のプロ」として大江作品を論じるなどということが平気でまかりとおっているのだ。大江健三郎という人は、本来、三島賞受賞会見の時の蓮實重彦とかより以上にブチキレていないとおかしいはずなのである。

 ……と、いうようなことを踏まえた上での、「おれに書かせろやぁー!」なわけですよ。





 そういう意味では、最低限度の基準にすら達しておらず「小説のプロ」の水準を押し下げる人々に全く厳しく当たることのない大江に比べれば、やっぱ蓮實重彦の方が教育者としては偉いな~と。だから私としても、解説の仕事をあえて蓮實にふるぐらいの飛び道具を出してくるんなら、納得もしますけれども。

 ただ、まあ、おそらくそういうことにもならないだろうと思うんで、これに関してはちょっと本気で取り組んでみようかな~などと思い始めました。なんか評論の賞とか取った上で、「おれに書かせろやぁー!」と吠えまくったら、刊行までまだだいぶ間がある以上、なんとかなりませんかね?

 というか、解説のメンツが発表されたとして、それが私の予想通りの悲惨なものだったら、それらの書き手がこれまで大江に書いてきた文章を念入りに検討し、どこがどうダメなのかを徹底的に糾弾し、大江の全集に公的な解説を書く資格などないことを自覚させ、個別に心を折っていき、自ら辞退に追い込めばいいんじゃないですかね? ……それか、刊行が始まっても、全巻の刊行が終わるまでにはだいぶ期間があるのだから、解説そのものを同時進行でボコボコにしていってもいいのかな?

 以前、私はこのブログでも文芸評論家(ということに一応はなっている人)をつかまえてボコボコにしたら、私の方が全力を出しているわけでもないのに全く相手にもならず向こうが逃亡しちゃったという件があったのだけれども、今回は、あの程度のことではすましませんぞ。

 そうやって、書く人が全くいなくなった状態でなら、「おれに書かせろやぁー!」も通りませんかねえ?

 ……まあ、いずれにせよ、小説の問題に関してそこまで仮借のない立場を取るということこそが、「政治少年死す」を本当に読み自分の中で消化したときに起きることでもあると思う。少なくとも、今回の『大江健三郎全小説』の刊行の発表でわかったのは……『芽むしり仔撃ち』の話者、あのあまりにも無謀にして無防備な少年の心は、やはりいまだに大江の内に残っていたのだということなのであった。
















西部劇は解体しうるのか――ロバート・クーヴァー『ゴーストタウン』

 ロバート・クーヴァーの『ゴーストタウン』を邦訳で読んだのだが、なんとも微妙な気持ちになってしまった。……率直に言って、この小説は、クーヴァーの小説としては相当にダメなものである。ただ、私ががっかりしてしまったのは単にそれだけが理由ではなく、この小説に関して適切な紹介がなされているように思えなかったということもある。
 おそらくは、この小説に関して解説やら書評やらの類を書いている人々が、ここで題材となっている西部劇に関して全くの無知であるらしいことも、その大きな要因の一つとなっているのであろう。『ゴーストタウン』という小説の、西部劇というジャンルの参照の仕方は決定的にダメである。……一方、この小説よりしばらく後にクーヴァーが書いた『ノワール』は、フィルム・ノワールというジャンルの参照の仕方という点で、『ゴーストタウン』の時点より大幅に優れたものになりえている。
 ところが、日本語の翻訳紹介ということだと、後年の『ノワール』の方が先に出てしまった。つまり、ロバート・クーヴァーという小説家にしかるべき敬意を表し、そのキャリアを丹念に追うようなタイプの読者にしてみれば、予備知識なしで読めば当然のこととして失望してしまうようなものなのである。……ところが、『ゴーストタウン』は『ノワール』での達成に比べれば相当に見劣りするものでしかないというような評価・検討の類は、特に見られないのである。
 とはいえ、私がロバート・クーヴァーという作家にとって「ダメなもの」として見なしてしまうような水準そのものは、通常の小説との比較で考えると相当に高い(例えば、クーヴァーの代表作である『ユニヴァーサル野球協会』は、同じく野球を題材として取り上げたアメリカのポストモダン文学であるフィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』などと比べてみても、明確に上回る作品であると評価している)。また、そもそもアメリカのポストモダン文学と言えばトマス・ピンチョン以外の作家は重要作・代表作ですら邦訳・紹介されていないものがごろごろあることを思えば、クーヴァーの邦訳された小説が一冊増えるだけでも、貴重なことであるとは言える。
 ただ、『ゴーストタウン』と西部劇との関係を評する解説・書評の類が(私が目にした限りでは)ことごとく的外れで、なおかつ西部劇への無知が隠されていないようなものばかりであることを思うと、とりあえず作品を広めるために戦略的に弱点を隠蔽しているのではなく、単に問題の所在にすら気づいていないのではないかと思えてしまうのだ。
 例えば、『ゴーストタウン』という小説が、オーソドックスな西部劇が綺麗事の物語の背後に隠しがちな性と暴力を過激に描いたことを持って「西部劇のパロディ・解体」と見なしている人々がいるようなのだけれども、ペキンパーの西部劇を見たことがないのだろうか……(というか、へたをするとペキンパーの名前すら知らないのかもしれない)。
 あるいは、ジョン・フォードのような古典的・正統的な西部劇の巨匠でさえ、そのキャリアの後半になると、『リバティ・バランスを射った男』のような、西部劇というジャンルそのものへのメタ的視線、その定型が隠蔽しがちなものの背後の事情までをも内包した自己言及的な西部劇を監督しているのだけれども、「西部劇のパロディ・解体」などという者は、このあたりの事情まできちんとふまえてものを言っているのだろうか。
 そして、それ以前のそもそもの話として、「西部劇」とは、すなわち映画を表すジャンルというわけではない。西部劇は、小説としてもコミックとしても、あるいはTVドラマとしても、無数の作品が生産されてきている。また、開拓時代のアメリカ西部(と言うか、厳密に言うと、西武に限らずとも開拓途上の状態の無法地帯)を舞台にしたジャンルが「西部劇」であるため、このジャンルに属するフィクションが、明確な物語の定型を共通して持つわけでは、実はない。保安官やらインディアンやらカウボーイやら流れ者のギャンブラーやらは確かに西部劇に頻出する記号であるが、必要不可欠な構成要素というわけでもない。保安官の登場しない西部劇など、いくらでも存在する。
 多くの媒体にまたがって長年に渡って量産されてきたジャンルが西部劇である以上、そこに頻出するありがちな物語がジャンル内で自己言及的に相対化され、パロディ化され、解体され、ありがちな定型が隠蔽し抑圧した裏側が暴露されるようなことも、ジャンルの内部で既にさんざん繰り返されてきたことだ(余談になるが、アメリカの娯楽の分野では、小説なのか映画なのかという媒体の問題よりも、西部劇なのか犯罪者なのか恋愛ものなのかという内容での分類の方が、ジャンルの区分の境界として大きい意義を持っているように、最近思えてきた。これは、日本とは根本的に感覚が違うところなのではないかと。文化的に高い価値を認められると、コミックがあっさりとgraphic novelなどと呼ばれてしまうことにも、そのあたりの事情があるように思われる。……しかし、これはしょっちゅう思うことなんだけれども、日本でアメリカ文学の研究してる人の大半って、アメリカの文化的背景、大衆娯楽の状況とかにはほんとに興味ないよね……西部小説なんかにしても、かなり早い段階でアメリカ文学の本流からは外れたものの、二十世紀にも娯楽ものとしては大量生産されてきたんだけれども……)。
 つまり、もし本当に、そのような巨大なジャンルとしての西部劇の総体を「神話」とみなしそれを解体するのであれば、それこそ『ユニヴァーサル野球境界』以上の巨大な小説でなければ到底なしうることなどできるはずもないのである。
 ……では、『ゴーストタウン』という、長篇としては小ぶりの小説が西部劇を参照しつつなしていることとは、いったいなんなのか。


 『ゴーストタウン』という小説が始まるのは、開拓時代のアメリカの西部とおぼしき場所で、無人の荒野を独りで行く男が、町を訪れるところである。……ただ、それが正確にいつの時点のことであるのかも、作中でどの程度の時間が経過しているのかも、はっきりとしたことはわからない。むしろ、作中での時間の扱いが通常のものではないことをはっきりさせるためにこそ、冒頭近くに次のような記述がある。


そして谷から出てみると、彼は何もない大平原の真っ只中にいた。そこは何も起きたことがないように見えるが、同時にすべてがすでに終わってしまった――始まる前に終わってしまったようにも見える場所だった。そこにありながら、そこにない空間。恐ろしいと同時にありふれた、とてつもなく大きな虚空。この馬が歩く地面は、これだけの広がりがあるのに紙のように薄く、何もないところに広がっているかのようだ。彼はここで世界の終わりを迎えるつもりはないが、世界の終わりが来るような気がしなくもない。(『ゴーストタウン』、上岡伸雄・馬籠清子・訳、p5~6)


 「彼」と呼ばれる男がとある町を訪れるところから物語は始まるのだが、しかし、その町を男が訪れるのが初めてのことであるのかどうかすら、はっきりとはわからない。


 その死者が彼に取り憑いているように思える。乾いた風に目がついていて、彼の背後から囁きかけている。空中に目があるというこの感覚がときどきとても強くなり、彼は鞍の上で体をひねって視線を後ろに向けずにいられなくなる。そしてある日、そのように後ろを向いたとき、反対側の地平線に町があることに気づく。彼が向かっていた町の鏡像のように見える町。まるで彼は一つの町を旅立ち、また同じ町に向かっているかのようだ。(同、p7~8)


 そして、その町がどのような場所であるのかと言えば、いかにも本物らしくない、作り物めいた場所であることが隠されもせず、はっきりと明言されることになる。


通り過ぎていくのは質素な町。人気がなくて静まり返り、砂漠そのものからできた町のようだ。今にも倒れそうな、ハリボテの正面外観だけの木造家屋が数軒並び、荒涼とした砂漠に街路のような雰囲気を作り出している。(同、p8)


 ……つまり、ここまでを整理してみると、直線的な時間の流れが存在せず、全てが終わったと同時に何も始まっていないとも言える無時間的・非歴史的な空間の内部で、一人の男が作り物めいたいかにも偽物のような町に向かっているのだが、その訪問は初めてではなく、何度も何度も繰り返されたものであり、空間的にも時間的にも物語は循環していることが示唆されている。
 それのみならず、「彼」と呼ばれる人物については、次のような記述もある。


あるとき彼は誰かを埋めなければならなかった。記憶によれば兄弟みたいな男。ただ、彼が掘った穴に横たわる死者は本当のところ死んでおらず、やみくもに動き続け、土を蹴ってどけようとしていた。実は、体をねじったりもがいたりしていたのは彼自身で、彼がやみくもに蹴っていたのだった。埋葬のための穴に横になり、土が顔にかかっていた。しかし、再びそれは彼でなくなり、そこにいる男は突如として穴から這い出るそうとして、空気に掴みかかるかのように腕を振っていた。(同、p5)


 つまり、「彼」という言葉が誰を指しているのかも、実は明確ではない。埋葬するものと埋葬されるものとの間で主観が交代しているのかもしれず、死者と生者との間の境界も明確ではない。
 そのことを踏まえると、タイトルが『ゴーストタウン』とされていることも、これと関係があるように思えてくる。実は作中では、「ゴーストタウン」と呼べる場所がはっきりとした形で登場するわけではない。つまり、一見すると生者たちが住んでいる普通の町と思える場所が、実はその実態は死者たちのゴーストタウンであることが示唆されているわけだ。
 始まりも終わりもない循環する時間の内部で、「彼」と呼ばれる人物の人格の境界も明確ではないからこそ、西部劇を構成するありがちなパーツだけが、物語に奉仕する本来の機能を失い、純然たる記号としてのみ働いて、単線的な時間が流れない迷宮的な作品世界を構築する――ということが、この小説では起きている。


 では、それの何がダメなのか。以前私は、クーヴァーの『ノワール』を評して「この『ノワール』という作品は、「テクストそのものが既存の記号の集積のみで構成されている」というようなポストモダン文学にありがちなスタイルを踏襲した上で、そこからさらにひとひねりを加えて言語そのものの原理的な検討・分析にまで到達している」と書いたのだが、それを踏まえて言えば、『ゴーストタウン』は単にありがちなポストモダン文学なのであって、そこにクーヴァーなりのひとひねりが加えられているようなこともないのである。
 まず、作品を構成するパーツが西部劇の記号であることを除いてしまえば、作品のなりたちそのものはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』に酷似しているのだが、『ペドロ・パラモ』より後続でありながら、あの小説よりはるかに単純な構造しか『ゴーストタウン』は備えてはいない。
 では、『ゴーストタウン』の独自性たる、西部劇的な記号を本来の文脈から引き剥がして無時間的な作品世界に投入するということは、どうなのだろうか。……私は、そのような試みはフィルム・ノワールを題材としてはうまく機能しても、西部劇ではうまくいかないと思う。
 そもそもの前提として、「フィルム・ノワール」とは、漠然とした雰囲気なり画面のスタイルなりに共通する傾向を持つ一群の作品をまとめて呼ぶ呼称に過ぎず、明確なジャンルとしての境界を持たない。だから、その雰囲気・スタイルだけを抽出し、無時間的な作品世界を構成するということは、もともと備えている傾向と合致している。
 一方、西部劇とは、要するにアメリカの時代劇である。西部劇は巨大な広がりを持つジャンルであるが、時代劇である以上、歴史性を抜き取ることなどできない。例えば銃器を精密に描写するなら、それだけで、時代・場所がある程度特定されてくることもありうるし、南軍もしくは北軍の兵士(もしくはそうであった過去)が登場するなら、政治性を抜き取ることもできない。
 だから、『ゴーストタウン』という小説がなしているのは、西部劇の定型に対するパロディ・解体ではない。むしろ、ここで起きている事態は全くの逆である。西部劇のありがちな要素を切り出してきて断片的に組み合わせ、クーヴァー独自の無時間的な作品世界の構成要素とする、そのことにあたって、個々のパーツが本来備えていたはずの歴史性・政治性はばっさりと捨象されている。つまり、西部劇の隠された真実、その本来の実態なるものは、『ゴーストタウン』の閉じて独立した作品世界によって、むしろ隠蔽されているのである(……そう考えてみると、これって、イタロ・カルヴィーノの完全にダメな部分と同じですな……)。
 ただし、『ゴーストタウン』と類似するテーマを扱った『ノワール』になると、そのような問題はかなり解決し、技術的にも大幅の進歩が見られる。……のだが、作品が成立する根本的な前提は共有するのだから、本質的な部分ではない小手先の技術が洗練されただけであるとも言える。
 ロバート・クーヴァーの、以上のような問題は、最近邦訳が復刊されたマイケル・オンダーチェの『ビリー・ザ・キッド全仕事』においても、(単に西部を扱っているという内容面での類似のみならず)共通している部分があると私は考えている。……そこで、もう少しこのあたりのことを検討するため、クーヴァーが『ゴーストタウン』以前に書き、これも最近邦訳が出た『ようこそ、映画館へ』についても、改めて考えてみたい。













推理小説の存在意義について――高山宏『殺す・集める・読む』

 高山宏の『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』が復刊されていたので、読んでみた。この書物は、高山宏の推理小説に関する評論を集めたものだが、その中でも「殺す・集める・読む」と「終末の鳥獣戯画」の二つは、高山の主著の一つである『アリス狩り』にも収録されていたのだった。

 『アリス狩り』という書物は、ヨーロッパの近代的な価値観の形成とその内部からの攪乱を文学作品に即して読み解いていくもので、その際の主な対象となるのは、ローレンス・スターンやハーマン・メルヴィルやルイス・キャロルなどであったのだが、推理小説という大きなジャンル全体の推移が、ヨーロッパの文化全体の歴史の中でどのようなものであるのかも論じられていた。そこから、「殺す・集める・読む」と「終末の鳥獣戯画」が、推理小説に関する評論のみと併せて一つの書物になっているのが『殺す・集める・読む』であるわけで、当然のことではあるが、推理小説というジャンルの生成とその背後のヨーロッパ文化との関係に関する高山の立場が、よりクリアにわかるものになっている。……のだけれど、推理小説をより大きな文脈でとらえようとする高山の議論が、ジャンル・フィクションとしての推理小説をあくまでもその内部からのみ論じようとする立場とは大きな齟齬をもたらすような部分があり、個人的にはそこが面白かった。





 さて、表題作でもある「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」は、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズものの成立する背景を見ることで、推理小説というジャンルの成立の条件となる特殊性をおさえようとすることが議論の前提となっている。……そして、その際、高山が強く打ち出すのは、一八八七年に始まるシャーロック・ホームズものを、あくまでも十九世紀ヨーロッパの世紀末文学の一つとしてとらえるということだ。

 そのような時代背景をふまえると、ホームズの無数の事件を整理したワトスンが話者として小説の本文を構成するという、一連の作品の基本前提の持つ意味が明らかにされていくことになる。





 ホームズ作品の、エクリチュールとしての特性はかなり際立っている。ものを書くことが収集行為であることを自らよく知っているのである。物語の終りでホームズが「以上がこの事件の一部始終だよ、ワトスン君。君のコレクションに役立つなら、好きなように使っていいよ」と言い放つパターンが一貫しているのだ。(「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」、『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』所収、p28)





 無数の事件を収集し編集し索引をつけるワトスンの立場は、同時に、事件へと立ち向かうホームズにも見られるものである。





彼にとっては世界よりも、世界の文字化、索引化の方が魅惑的らしい。ホームズの索引とワトスンの日記で世界は二重に文字へと平板化され、ホームズの部屋の中へ、アルファベットのパノラマ的秩序の中へ、コナン・ドイルの意識の中へと「所有」される。世界が文字へと標本化されると言ってもよい。「ワトスン君、明日の晩までには、あいつは、あいつが集めている蝶みたいに、我々の網の中でばたばたもがいているよ。ピンでコルクにとめて、カードをつけて、ベイカー街の標本に仲間入りさせてやるさ」(『バスカヴィル家の犬』)とホームズは言い、彼が実は犯人の昆虫学者と同じ完成の人間であることをはからずも暴露してしまう。(同、p29~30)





 そしてホームズとワトスンの、世界を文字の裡に収集するという感性を、ひとつ上のレヴェルでホームズ作品そのものが見事になぞっていく。推理小説ほど細部が「伏線」として重要なジャンルはないわけだから、それを口実にして、ここでは世紀末文学特有の細部への惑溺趣味は存分にそのはけ口を見出すことができたのである。いや、そこでは細部描写が全てであるが故に、推理小説は世紀末以外にこれを生み出す時代はなかったと言うべきだろう。(同、p30~31、ルビと傍点は省略)





全ての細部が――ちぎれたボタンや穴のあいたズボンが――ひょっとしたらという潜在的意味性を読者に対してたえず主張しうる世界が、即ち推理小説に他ならない。「ヴィクトリア朝の人々は物語絵を介して絵を読むことを教わったように、ラスキンによって建築物を読むことを教えられた」とピーター・コンラッドは言っているが、世界を読むということでしか世界に対峙できなかった文化は、全てに意味を読みとらねばおかぬその偏執そのもののうちに、ついに己れの世界の究極の意味の不在を逆説的に暴露しているのである。(同、p37、傍点は省略)





 ホームズとワトスンに共通する態度、周囲の世界を言語化・索引化して収集し己の支配下に置くこと、解読可能な対象として切れ目なく意味を付与すること――これを、高山は、ヨーロッパ近代における帝国主義、その外部の世界への植民化の運動とパラレルなものであると見なす。

 そのような価値観の体現者としての「名探偵」の姿が確固なものとして形成されるのが十九世紀末であることの必然性を、高山は強調する。例えばそれは、『殺す・集める・読む』の収録された「世紀末ミクロ・テクスト」の文脈でも変わらない。





 名探偵のあるべき性格造形とは何か。枝葉を捨てて一言にして言えば、読みの困難なものを解読可能なものに、過剰な根茎状の混沌を要するにテクストに変えていく能力の体現者と言うに尽きるだろう。万事が「読み」とりにくい世紀末の状況が要請していたそういう記号論的ヒーローが、つまりは名探偵であり、彼が一切を解読して世界をテクスト化していく経緯を描くメターテクストたる推理小説という斬新なジャンルは、従って十九世紀末をもってそのピークに達する理屈になる。(「世紀末ミクロ・テクスト――推理小説と顕微鏡」、同書、p47)





 推理小説というジャンルが「十九世紀末をもってそのピークに達する」という言葉は、オーソドックスな推理小説史観からすればとうてい認められないものであるだろう。……しかし、ここでの高山の議論がどのような立場からなされているのかは、さらに時代が下った時期の推理小説に関する議論から明らかになるので、そこまで見てから改めて検討する。





 高山の立場は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものによって基本的なフォーマットが確立した推理小説というジャンルを、あくまでも世紀末文学の一種としてとらえることにあるということは、既に述べた。

 そのような立場からなされる、非常にユニークな議論がある。通常ならば、(ゴシック・ロマンスの掉尾を飾る最末期の作品と見なされることもあるように)怪奇小説の歴史の文脈で語られるブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を、ホームズものと同等の推理小説としてとらえるのだ。

 もちろん、これは、推理小説の本質を殺人事件と名探偵の推理としてのみとらえている限り、取られることのない立場だ。それは、推理小説の本質を、世界を言語化し、意味を与え、収集・編集してコントロール可能なものとすることこそが本質の世紀末文学としてとらえたとき、初めて取られる立場だ。

 近代ヨーロッパの中心地点の一つであるロンドンを出発して東欧のトランシルヴァニアへと向かう『吸血鬼ドラキュラ』に書き込まれているのは、中心と周縁の対立なのだと高山は言う。

 近代化されていない領域であるトランシルヴァニアの吸血鬼とは、噂・迷信・民話・口碑などといったフォークロアに包まれた存在である。従って、吸血鬼の存在を特定しそれを退治することととは、フォークロアを分類・収集し、近代的な体系を整備することによって可能となる――そのプロセスを書き込んだのが、『吸血鬼ドラキュラ』であるのだと言う。





ロンドンが抑圧した民衆的猥雑の文化が、その活力もろともトランシルヴァニアへと投影された。かくて周縁から中心へと両義的なパワーが逆流してくる。リアリズムの只中にフォークロアが、と言ってもよいだろう。両義的なパワー? そう、「人と獣の境界を曖昧にし、人と神、男と女の境界線を曖昧にしてやまないドラキュラ」(デイヴィッド・ハンター『恐怖小説』。一九八〇)という存在をめぐって、もう一度「閾」のテーマのことを思い出そう。但し、この物語自体は、そういう両義的なパワーを一枚岩的に単線化していくテクストの暴力をこそ浮かび上がらせるのである。世界を「擬人化」した、というか、アモーファスな世界に<かたち>と<意味>を押しつけていった長い長い<近代>という時代の歴史を、人と獣を分かつ閾をとり払うことでラディカルにゆさぶっていった。(「テクストの勝利――吸血鬼ドラキュラの世紀末」、同書、p147、ルビは省略)





 ミナ・ハーカーの立場にたてば、この作品はネガティヴな力を馴致する社会装置としての推理小説ということになり、これはこれでシャーロック・ホームズ的伝統の中で<発明>の名に値する巧緻なできばえである。世界の両義性を、回転する円環でしか形象できないそのあり方を、テクストの誤読/護読を介して、モノリス(一枚岩)に、一本の直線(行)に還元してしまうテクスチュアルな営みだ。民衆文化そのものを抑圧してきた<近代>の営みを、ミナ・ハーカーが演じてみせる。(同、p149、ルビは省略)





 民話のことに引きつけて言えば、中東欧のフォークロワのエンサイクロペディアを豪語しながら、こうしてつまりはそうした民族的なものを殺し去るにいたった反ー民話的ディスクールの生成の現場にブラム・ストーカーは立ち会わせてくれているのだ。少なくとも<近代>はこうして民衆文化を圧殺してきたんだが、わかるか、と。(同、p150、傍点は省略)





 ……以上のような議論を読む限り、推理小説というジャンルの「ピーク」と高山が見なす十九世紀末になされたことは、ヨーロッパ近代の価値観による外部への収奪を極めて効率的にモデル化した装置こそが推理小説である、ということになる。

 高山は、『アリス狩り』での議論では、スターンやメルヴィルやキャロルの小説に近代的価値観からの逸脱・反逆を読み取っていたわけだから、推理小説というジャンルに対する評価は歴史的な限界を持ったネガティヴなものでしかないようにも思える。……とはいえ、推理小説の二十世紀以降の展開とその意味の変質をも高山は論じているので、そちらも確認してみよう。





 ドイル以降の推理小説の展開を見るに当たって、大きく取り上げられるのは、チェスタトンである。そして、高山がチェスタトン作品の特徴として特に注目するのは、その作品群がしばしば好んで取り上げるパラドクスの問題だ。

 推理小説という装置がヨーロッパ近代の価値観を体現しつつ閉じた系を形成するのであれば、その内部にパラドクスがあるはずはない。言葉の両義性や多義性がもたらすパラドクスとは、近代的なシステムの綻びであり、前近代にルネサンスの文学がしばしば取り上げたことでもあった。

 以上のような議論をふまえた上で、「終末の鳥獣戯画」になると、ホームズ的な推理小説が収集・編集行為による意味付けによって覆い隠したはずの「世界の究極の意味の不在」が、推理小説という場において剥き出しになってしまう事態が論じられることになる。

 一九二〇年代以降、ヴァン・ダインやアガサ・クリスティやエラリー・クイーンなどによって続々と発表されることになった「童謡殺人」において、しばしば、犯人が殺人に至る合理的な動機は消滅している。むしろ犯人は、単に意味もなく殺人に手を染めるのであり、童謡の筋立てに実際の殺人の方を一致させるために事件を展開することすらする。そこにあるのは殺人そのものの無意味さであり、また、前近代的な童謡の残虐さが剥き出しになっているのでもある。





わが高木彬光の童謡殺人『一、二、三――死』でも、数え歌の筋に合いさえすれば誰を殺すかは問題にしない超犯罪者が現れてくる。形式が内容を制覇していく、つまり韻の踏みぐあいで登場人物の死活がどうにでもなる童謡の過酷な形式性が、いまや言語の外にはみ出て、非常な運命の力と化して白昼の条理の巷を跋扈するのである。

 それにしても、ある原因が必然的にある結果を生むはずと考えるいわゆる因果律というものが近代的思考の中心を支えていて、それがまた近代推理文学の抜きさしならぬ骨法となって現れてもいるわけだが(ポワロの好きな「正しい順序と方法で」というやつだ)、人間のもつ不条理な闇が次第に明るみに出てきた一九二〇年代、三〇年代、当然この「因果帝国」もおかしくなってきたはずで、それがすなわち推理小説の展開にも微妙な陰翳を与えることになった。超論理の超犯罪に打ち勝つために、人間の心の奥に澱む「鬱積された潜勢エネルギー」にも広く目配りできる超探偵が必要になったのだ。「誰がいちばん得をするか」式の単純な因果構成に行き詰まりをみせていたミステリーは、童謡に目を向けることでいっきょに深さをかちとった。ちょうど同時代の「純」文学がギリシア・ローマ神話に材をとりはじめたのと同工異曲の事情である。(「終末の鳥獣戯画――童謡殺人と現代」、同書、p223~224、ルビは省略)






 つまり、高山によれば、一九二〇年代から三〇年代にかけての推理小説とは、前世紀末に形成された推理小説の基盤となるフォーマットおよびその依って立つところの近代的価値観が自己言及的に検討され、批判的に解体された時期であったのだ……ということになる。

 もちろん、これは、オーソドックスな推理小説の歴史観とは大幅に異なる――というか、完全に矛盾する。通常であれば、一九二〇年代から三〇年代にかけては、既に言及されたヴァン・ダインやアガサ・クリスティやエラリー・クイーン、さらにはクロフツやフィルポッツやディクスン・カーなどの代表作が続々と発表されたことによって、むしろ「黄金時代」と見なされている時期だからだ。

 推理小説の黄金時代であるはずの時期が、高山の議論においては、推理小説の枠組みが土台から解体される時期ととらえられる。この齟齬はどこからくるのか。





 このような齟齬を、ジャンルの外からの視点で改めてとらえてみるならば――それは、ジャンル・フィクションとは、ジャンルとしての存在意義を失った時点だからこそ、ジャンルそのもののあり方が絶えず流動することもなくなり、結果として、ジャンルの内部にいる人間からすれば固定し自律性を獲得したかのように思うことのできるものである、ということなのではなかろうか。

 よりあからさまに言ってしまえば……既に明確な存在意義を失ったもの、あってもなくてもよいもの、ただし、確固たる提携は確立しているために同工異曲の作品を量産することが容易な状態になっているもの……結果として、その分野の存在意義など考えずにすむものこそ、ジャンル・フィクションなのではなかろうか。

 ジャンル・フィクションの成立・完成と見えるものは、より広い文化全体の文脈の内部でとらえ直してみるなら、むしろその存在意義の喪失である。……そのような仮説を立ててみた上で、改めて高山宏の『殺す・集める・読む』の議論に戻ってみると、非常に興味深く思えることがある。高山は、ヨーロッパの推理小説の展開を論じた上で、その議論を、「日本の推理小説」の方にも進めるのである。





 日本において推理小説というフィクションが完成・定着する上で極めて重要な役割を果たしたのが、江戸川乱歩である。自ら実作者として日本語による推理小説を執筆するのと同時に、欧米の黄金期の本格的な推理小説を精力的に紹介した乱歩のデビュー作である「二銭銅貨」とは、では、どのような小説だったのだろうか。

 一九二三年に発表された「二銭銅貨」は、そのタイトルの通り金銭、それも偽金を取り扱う小説だ。推理小説との親和性の高い暗号のテーマを取り扱いながら、ストーリーの展開とともに、作中で扱われる言語や貨幣が空虚なまがい物にすぎないことが明らかになるという小説が、金本位制の信頼が揺らぐ時期にこそ書かれている。





 そう、一九二〇年代とは、いつからか始まった近代に対する、自分たちは終りであるという括り方を激しく自覚的にやった十年であった。日本でもやっとそうだったということを考える場合、一九二〇年代までなかった推理小説がなぜ一九二三年にという議論は大変有効だ。特にその出発点において既に、解決の落とし所を予め宙吊りにし(犯人は初めから判明)、そもそも解決するとは何で、しかもさかしらな解決の身振りがいかに滑稽なものかをむしろ明らかにした、『二銭銅貨』はまさしくメタ推理小説と言うべく、もっとずっと大がかりな一九二〇年代論全体の中で評価すべきものと思う。(「『二銭銅貨』の経済学――デフレと推理小説」、同書、p250~251)





 ヨーロッパで十九世紀末に基本的なフォーマットが確立した推理小説が自己言及的に解体したのが一九二〇年代であるならば、「日本の推理小説」は、そもそも推理小説が存在意義を失ったのと同時期に、空虚なまがいものとして、あらかじめフェイクとして成立したものである、ということになる。……よくよく考えてみれば、「江戸川乱歩」という筆名からして、エドガー・アラン・ポウのイミテーションであるわけだ。

 日本の推理小説とは、そもそもその存在意義などない時点で成立したまがいものである――しかし、これは、「ヨーロッパの推理小説」と「ヨーロッパの近代」の関係をふまえてみれば、ある意味で当然のことであるとも言えるのではないだろうか。つまり、「日本の推理小説」がその前提としている「日本の近代」が、そもそもまがいもののイミテーションに過ぎないわけだ。

 そのように考えてみると、日本の推理小説という局面で江戸川乱歩が果たした役割とは、近代小説が成立するにあたって夏目漱石が果たしていた役割と、かなり似通ったものであったと言えるのかもしれない。





 高山宏の『殺す・集める・読む』を読みながらそんなことを考えていたのだが、私自身の中で、ジャンル・フィクションの作家を信用するときとそうでないときの境界線は、このあたりにあるのかもしれないと思った。……つまり、自分が帰属するジャンル・フィクションには確固たる足場も存在意義もなく、常にフェイクとしてしか存在できないという自覚を抱きつつ、それでもなお存在意義をなんとか成立させようとする小説家。現代日本の推理小説ということで言えば、少なくとも法月綸太郎や殊能将之なんかはそれに該当する小説家であるゆえに、私には読むに値するものだと思えるのだ、と。

 そんなことを考えていると、批評家としての法月綸太郎がしばしば参照している坂口安吾の推理小説に関する議論を、「日本文化私観」なんかの近代日本に関する議論と結びつけ、そこからさらに法月綸太郎の方に送り返すとかすると、かなり面白い議論ができるのではないかと思った。あるいは、ジャンル・フィクションに関する二つの立場を、花田清輝の「楕円」の話につなげてみるとか。殊能将之の『鏡の中は日曜日』にしても、ヨーロッパの文化を取り入れる近代日本の虚妄まで取り込んで書かれつつ技術的にも以上に高度な達成がなされている小説なので、ジャンルに関係なく、近代以降の日本の小説家でこれと同等以上の長篇小説を書ける人間はほんの数人しかいないと思いますよ。
















法月綸太郎『挑戦者たち』のその後

 少し前に、このブログで法月綸太郎『挑戦者たち』の解決編を勝手に書いてみたことがあったが、その後、そのことをふまえて改めて読み返してみると、色々と思うところがあった。
 まあ、もともとの解決編にいちいち書かなかったことでも、気づいていた細かい小ネタならちょこちょこあった。例えば、「絶対領域」の入り口たる63章が鏡文字による挑戦状で、参考文献にはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』が挙げられている……これは、アリスが鏡を通り抜けて異世界へ入っていったことになぞらえているのであろう(また、その後考えるようになったこととして、高山宏がアリス論においてキャロルの創造する閉じた世界を「外の時間の流れを一時とめてくれる」ものであると評したことも参照されているのかなあ、とも思うようになった)。
 そのような小ネタもいちいち挙げていくと結構あるのだが、それ以上の問題として、私が書いた解決編が、そもそも作者としては、「そのようなことを書く読者もいる」ということまで織り込み済みなのではないかと思えるようになってきたのだ。
 解決編における私の推理では、作者である法月綸太郎本人が作中に登場し介入している、ということになるのだが……その前提だと、作中では、作者は「狩瓶以太郎」と名乗っていることになる。
 そして、この「狩瓶以太郎」なる人物は、86章において、何者かによって殺害されたことになっている。また、20章および91章を見ると、謎を出す者は、謎を解かれたときに、解いた者によって殺害されることが示唆されてもいる。
 と、いうことをふまえてから、改めて解決編を読み返してみると……あれ? ……真犯人、おれじゃん。
 私自身は、『挑戦者たち』という小説の中で密かに仕掛けられていた謎を解く過程で、そこで同時に語られてもいたストーリーの方にも決着をつけたつもりではあったのだが……よくよく考えてみると、「読者によって謎が解かれるということが、同時に、読者による作者殺害が成就することである」というところまで、実は計算されていたのではないか、と。
 『挑戦者たち』という小説は、クリスティの『そして誰もいなくなった』の語りの構造を踏襲して構成されていると推測していたことは既に述べたのだが……単に「踏襲した」というよりも、むしろ、その構造の過激さをより押し進め徹底した、ということであるのかもしれない。つまり、『挑戦者たち』とは、謎を提示する作者が、全く同時に、作中で殺害される被害者でもある、ということだ。そして、「読者=犯人」による「作者=被害者」への干渉とは、もちろん「謎を解くこと」であるのだが、同時に、「謎を解くこと」が必然的に「作者を殺害すること」でもある。
 したがって、作者本人が仕組んだのが作者殺害事件である以上、殺害の現場そのものは、作者自身が語ることはできない。よって、作者が事件全体の語りを遂行するためにできることは、自分が語り終えた小説の外部に自分以外の者が結末を付け加えるように仕向ける、ということしかないだろう。
 そう、考えてみると、「読者参加型のロジック小説」(19章)が登場し、時には読者の方から作者に挑戦しさえする(34章)ことなどを作中に散りばめていたのは、『挑戦者たち』の外部に作者ならぬ読者が解決編を書き加えること自体を教唆していたのではないか、とすら思えてくるのだ。実際、私は解決編の内部で謎解きのみならずストーリーも付け加えたのだが……実際に謎を解いてみると、付け加えられるストーリーには選択の余地がなく、一本道でしかありえない。つまり、私が考えて書いたと言うよりは、作品の構造によって必然的にそうなるように書かされていたのに過ぎないのである。
 つまり、「読者による作者殺害事件」こそが『挑戦者たち』が仕組んだことであるのならば、読者が作者を殺害するように仕向けたのは、他ならぬ作者なのである。……つまり、真相を特定しようとすると作品世界からはみ出しかねない「操り」の問題が、作者と読者との間で循環するように、周到に構築されているということだ。
 ……などということを考えていると、ふつうなら「考え過ぎじゃないか?」という、ほとんど陰謀論的な状態だと思うのだが……なんせ作者が法月綸太郎だから、このくらいのことは普通に考えているのだろうなあ、と。
 うーむ……この『挑戦者たち』って、法月綸太郎のミステリに関するほとんどパラノイア的なまでの執着が他人にも感染するように仕向けられた、呪いの書なんじゃなかろうか……?


 ……まあ、そんなことを考えるにつけ、いったい自分が書いているのか書かされているのかすらわからなくなっていたところなのではありましたが……一方で、やはり私がたどり着いたのは真の正解であったのだと確信できることもあったのです……
 それはもちろん、プレミアム挑戦状の正解者プレゼントに関することなのですが……正解者には法月綸太郎自身がサイン色紙を書いてくれるということなので、この機会は、自分の推理に最後の確認をするチャンスにできるぞ、と考えました。
 そこで私は、正解を書いて応募したハガキに、自分が真の正解に到達したことを示しつつ、とある文言を色紙に書き添えてもらうことをリクエストしてみました。私が「真の正解者」であるならば、おそらくこのリクエストには応えてもらえであろう、と考えたのです。
 なんというか、法月綸太郎本人にその文言を直接書かせることに成功した私は、やはり、真の勝者であると言えるのではないでしょうか。……私の手元に届いたサイン色紙は、以下のようなものになっていたのです。






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 法月先生、ありがとうございましたー! ……それにしても……やはり、あなたは……









「消去」することの多義性について――トーマス・ベルンハルト『消去』

 しばしば、トーマス・ベルンハルトの作家活動の集大成とも呼ばれる長篇小説『消去』は、全体として、「電報」と「遺書」の二章よりなっている。
 各章には全く改行が存在せず全体としてひとかたまりのパラグラフをなしており、また、「電報」は主人公が両親と兄の死を知らせる電報を受け取ること、「遺書」はその葬儀のために故郷であるヴォルフスエックを訪れること……というように、現在時の出来事として語られるのは、ごく短期間のわずかなことでしかない。全体として、主人公の親族及び故郷に関する軋轢と憎悪の感情が過去の回想とともに奔流のごとく饒舌に語られることにより、この長大な小説を構成している。
 『消去』の語りは、主人公であるムーラウの視点にほぼ完全に寄り添っている……しかし、ムーラウの発する「私」という一人称は地の文そのものではなく、ムーラウの発話はあくまでも小説の話者によって引用されたものであることがたびたび示される。小説の本文そのものを統御している話者は、まず間違いなく、さらに後年のムーラウ自身であることだ。にもかかわらず、話者としてのムーラウと主人公としてのムーラウの間には、厳密に断層が引かれることにによって、作品全体の語りが構成されているわけだ。
 また、特に「電報」においては、ムーラウが家庭教師として教えているガンベッティが、多くの発話の呼びかけられる対象であることが示されていることも重要である。
 そんな特徴を持つ『消去』の本文は、例えば次のように書かれている。


政府は日々私の大事なものを飲み込んでは破壊するとてつもない破砕機を動かしている。故郷の町は見る影もない、と私は言った。故郷の風景は広範囲にわたって、みすぼらしいものにされてしまった。もっとも美しい地域が、新しい野蛮人の金銭欲と権力欲の犠牲になった。美しい巨木が立っていたところでも、その木が切り倒され、壮大な古い建物が立っていたところでは、その建物は取り壊され、素晴らしい小川が谷に流れ込んでいたところでは、その小川がずたずたにされる。いったいどうして、すべての美しいものが踏み躙られてしまうのか。そしていっさいは、社会主義の美名のもと、想像しうるかぎりもっとも下劣な偽善のもとに行なわれているのだ。少しでも文化の匂いのするものはいかがわしいもの扱いをされ、問い詰められやがて消去されるのだ。消去する者が、殺戮する者が仕事にかかっている。私たちが相手にしているのは、消去する者にして殺戮する者であり、彼らは至るところで殺戮の仕事を遂行している。消去する者と殺戮する者は、町を殺して、消去し、風景を殺して、消去する。彼らは、国家の至るところにある何千、何十万という役所の中にでっぷり太った尻をおろしており、消去することと殺戮することしか頭になく、ノイジードラーゼーとボーデンゼーの間にあるすべてをどうやったら完全に消去し、殺戮しつくせるかということしか考えていない。(『消去』、池田信雄訳、旧版・上巻p80)


 「消去」とは、ムーラウが憎悪し嫌悪する者どもが、ムーラウが愛し思い入れを持つ対象に対して行なうことのようである。しかしそれと同時に、『消去』という題名の書物を書く計画を立てているムーラウは、ガンベッティに次のように語りもする。


スケッチだけでは十分ではないのだ、と私はガンベッティに言った。私の頭に最終的に残っている唯一のものは、と私はガンベッティに言った、「消去」というタイトルだ。というのも私の報告は、そこに描写されたものを消去するために書かれるからだ。私がヴォルフスエックという名で理解しているすべて、ヴォルフスエックであるすべて、ガンベッティ君、私の言っていることが分かるかね、本当にそして実際にすべてを消去するために書くのだ。この報告の後には、ヴォルフスエックであるものすべてが消去されていなければならない。私の報告は消去以外の何ものでもないのだ、と私はガンベッティに言った。私の報告はヴォルフスエックをあっさり消去する。私は十一時までポポロ広場にガンベッティといっしょに座っていた、と私は机の上の写真を眺めながら思った。私たちはみなヴォルフスエックを引き擦っている。そして自らの救済のためにそれを消去したい、書くことによって滅ぼしたい否定したいという意志をもっている。しかし、私たちがその消去のための力を持ち合わせないときがほとんどなのだ。(同、上巻p144)


私はこの報告を「消去」と名づけるつもりだ、と私はガンベッティに言った。それは私がこの報告の中ですべてを消去するつもりだからだ。私が書き留めることはすべて消去される。私の家族全員がこの中で消去され、彼らの時間もこの中で消去される。ヴォルフスエックは私の報告の中で、私のやり方で消去されるのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p145)


 ……以上いくつかの引用を照らし合わせてみる限り、もちろん、ムーラウの発言は非常に混乱したものだ。ムーラウは故郷を破壊する者を憎悪しているのか、それとも、故郷そのものを憎悪しているのか。「消去」という行為自体は、肯定されるべきものなのか、それとも否定されるべきものなのか。それは意志的に望まれ選択された行為なのか、それとも、致し方なしに選択された行為なのか。さらには、「政府による消去」と「書くことによる消去」とは、果たして同じものなのか。
 もちろん、このような記述の混乱は、一人の人間が持ちうるその内面の矛盾し混沌とした有様をそのまま散文の形に移したことによって生じている者だ。そして、そこにある混乱、正反対であるはずにもかかわらず実際には入り交じり明確な境界も見極め難い愛憎……それら全てを克明に認識し記述した上で、それでもなおその抹消を望むからこそ、「消去」という行為が選ばれることになるのだろう。
 ムーラウは、自らの言う「消去」について、ガンベッティに次のように語っている。


私が彼に、どうやったら私の言う意味で世界を変えることができるかを話すと、ガンベッティの注意と熱狂はどんどん大きくなった。それにはまず世界を全面的かつ過激に「破壊」し、無に至らしめるまでに「否定」し、それから自分に耐えられると思える仕方で再生させること、一言で言えば、完全な新世界として再生させることだ。それがどのようなかたちで起こるかは言えないが、再生されるのはまず完全に否定することが必要だということは分かっている。というのも、世界の完全な否定なしに世界の刷新はありえないからだ。(同、上巻p151)


もちろん、私たちがそう考えれば、すべての古いものは私たちに敵対するようになる。つまり私たちはすべてを敵に回すことになるのだ、ガンベッティ君、と私は彼に言った。だからと言って、古いものを私たちの望む新しいものに取り換えるために滅ぼそうという私たちの考えが妨げられるようなことになってはならない。すべてを放棄するのだ、と私はガンベッティに言った。すべてに反発し最終的にはすべてを消去するのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p154)


 ……なるほど、いざ『消去』の全篇を読み終えてみると、その結末部分でムーラウがなしたとある行為は、確かに、ヴォルフスエックに対する「消去」とも言える行為であるようにみえる。だがそれは、既に引用した部分で言われているような「世界の完全な否定」からはあまりにもかけ離れている。
 ムーラウが述べる「消去」と、実際になす「消去」の間には、巨大な懸隔があるーーだが、それ以上に、ここにはより本質的な問題がある。……もし世界の完全な絶滅、その消去を願っているのであれば、なぜムーラウは、自分の考えを詳細にガンベッティに語り伝え、自身の言葉を残そうとする必要があるのか。ガンベッティという人物はと言えば、そもそもがムーラウの教え子なのであり、ムーラウが自身の後継者として育てたがっている節すらある。
 全世界の完全な消滅を願う人間が、自身の後継者の育成に励む……これは、あまりにもあからさまな矛盾ではないか?


 とはいえ、『消去』でひたすら繰り広げられるムーラウの饒舌な言葉は、自身の言葉に潜む矛盾や自己欺瞞についてすら、なんら隠すことなく語ってみせる。……そこには、例えば、次のような言葉が見られるのだ。


私たちが憎むのはもっぱら私たちが間違ったことをしているときであり、間違ったことをしているからだ。母はいやな人間だ、妹たちもそうだが、そのうえに愚鈍だ、父は軟弱だ、兄は哀れな道化だ、全員が愚か者だ、絶えずこう考え(そして口にすること!)が、私の習慣になってしまった。この習慣は、私にとって、基本的には卑劣極まりないものだが、武器にはなり、その武器でともかくも良心の呵責だけは静めなければならなかった。家族の者たちも、私が彼らにしたように、私をけなし、私を晒しものにし、私を性悪に仕立てればいいのだ、実際、私はいつのまにか彼らを性悪にしてしまったのだが、と私はガンベッティに言った。私たち人間は簡単にそしてすぐに、憎んだり、非難したりすることに慣れてしまう。自分の憎しみと非難に、そのとき、ほんのわずかでも正当性があるのかと問うこともしない。(同、上巻p74)


私たちはみな悪魔的本性の持ち主だが、その正体は写真コレクションのような、どうでもいいくだらないものの中に現れる。私たちの下劣さ、卑しさ、厚かましさが、そういうくだらないものによって証明されるのだ。なにもかも私たちの弱さに原因がある。というのも私たちは誠実であるなら、自分より弱いと見たがっている相手より実際はずっと弱く、自分よりおかしいと見たがっている相手よりずっとおかしく、滑稽で、無節操な存在だということを認めざるをえないからである。「私たち」こそ、無節操で、おかしくて、滑稽で、異常な存在であって、ガンベッティ君、相手のほうがそうではないのだ。自分の家の者たちのほかでもないこういう写真だけを保存し、しかもそれをいつでも見ることのできる机の引き出しにし舞うことで、私は自分の卑劣、破廉恥、無節操を証明している。(同、p181)


私たちは時々こんなふうに誇張をはじめるが、と私はだいぶ後でガンベッティに言った、そうなると誇張こそ唯一筋の通った事実に見えてきて、本来の事実はもう全然目に入らず、際限なく繰り返される誇張しか目にとまらなくなる。誇張への熱狂的信奉はいつでも私を癒してくれた、と私はガンベッティに言った。私がこの誇張への熱狂的信奉を誇張の技法に変えてしまったとしたら、それが、私を私の惨めな状況と精神的倦怠から救い出す唯一の方法だったからだ、と私はガンベッティに言った。私は自分こそ私の知るもっとも偉大な誇張芸術家だと言い切れるところまで、誇張の技法を磨き上げた。私は私以外に私のような人間を知らない。いまだかつて誇張の技法をここまで極めた者はいない、と私はガンベッティに言った。そしてそれに続けて、もしいきなり誰かに、私の正体は何なのだと聞かれたら、それに対して、私の知るかぎりもっとも偉大な誇張芸術家だと答えるしかないだろう、と言った。(同、下巻p444~445)


 実は、『消去』の作中において、以上のような矛盾した態度にとらわれているのは、ムーラウだけではない。ムーラウと親交のある詩人・マリアもまた、次に引くような態度を見せているのだ。


マリアは私に、「本当はウィーンに戻りたいの」と言ったとしても、その直後の、時には、二、三分も経たないうちに、反対のことを言う。同じくらい確信をこめて「実を言うとウィーンには戻りたくない」と言うのだ、実はローマに残りたい、ローマで死んでもいいくらいに思ってるわ、と。マリアはよく、ローマで死にたいと言った、と私は考えた。マリアはその知性ゆえに、ローマにいること、実際にはウィーンを愛していながらローマにいることを余儀なくされている、と私は考えた。しかしマリアは、住む家の手配をしてくれ、実際、ウィーンの重要な扉をすべて開いてくれたウィーンの知り合い全員にけんつくを食わしてから、二、三週間もすると、ぞろまた、今度こそ最終的に「故郷」であるウィーンに戻るつもりだ、と言いはじめ、それを聞くと私はいつも面と向かって笑うことで話を中断せずにいられなくなるのだ。というのもマリアの口から出る「故郷」という言葉は、私の口から出たのと同じくらいグロテスクに響いたからだ。(中略)ローマ人であろうとしながら同時にウィーン人であるマリアは、こういう危険な感情と精神状態をばねにあの偉大な詩を書くのだ、と私は考えた。(同、p172~173)


 ……なるほど、ここでのマリアのように平然と矛盾した態度を取ってしまうこと自体は、誰しも多かれ少なかれ犯してしまうことではあるだろう。そして、ムーラウは、そのような矛盾・自己欺瞞、人間の混乱した本質を直視することが、ある種の文学的達成をもたらすと考えているようである。
 そして、『消去』に書き込まれた散文、そこに人間の愚かさや欺瞞が混沌としたままに活写されているのに接すると、確かに高度な文学的達成があるのも事実である。……しかし、『消去』の全体を改めて確認した上で、私はこう述べなければならない。……ムーラウの言う「消去」とは、言語そのものの水準においては決してなされていないのだ、と。


 『消去』という小説の作中における「消去」という言葉は、様々な水準での様々な意味を同時に担わされているものである。政府による開発・環境破壊の類も「消去」であり、ムーラウが法律上の権利を持ってヴォルフスエックに対してなす行為も「消去」である。
 そして、「世界の完全な否定」に向けて「書く」こともまた、「消去」であるとされる……だがこれは、具体的にはいかなることなのか。書くことこそが「消去」であるのだと述べるムーラウは、しかし、実際に行う行為として「消去」を実践するとき、言葉とはほぼ無関係な水準にある、行動の人となる。一方、ムーラウが実際に発する言葉のほとんどは、自らの教え子に語りかけ、自分自身の後継者を育成するという、世界を絶滅させ抹消するなどということとはおよそ対極の水準にあるものだ。
 ムーラウは、言葉を発し書く人としての己を最も重要視している一方で、実際に言葉を操る水準においては、なんら「消去」を実行していない。もっと言えば、言語そのものの水準で「消去」がなされるのであれば、語られる対象ではなく、語るための言葉そのものもまた消滅に向かわなければならないはずなのであるが、そのような契機は『消去』という作品には微塵もない。
 つまり、ムーラウの散文は、人間が抱え込む愚かさや矛盾や自己欺瞞、そこにある混沌とした有様を直視し散文に写すことに成功してはいるのだが、そこでの検討が、言語そのものの水準での自己言及的な領域にまで到達することは決してない。
 ……だからこそ、言葉を発する人間としてのムーラウはあらゆる対象の消去を望むと言いながらも、自身の言葉を受け取る存在としてのガンベッティの消滅を望むどころか、そこにガンベッティが不動の存在としてあり続けることを疑うようなそぶりすら見られない。つまり、「語り手としてのムーラウ」と「聞き手としてのガンベッティ」という、作品そのものを構成するフレームは、作品によって自己言及的に反省される対象から無条件に除外されているのである。だからこそ、ムーラウからガンベッティに対して投げかけられた言葉は何ら「消去」されることなどなく、どこまでも饒舌に繁殖し、膨大な量の言葉を内包する長篇小説自体は、安定した語りの構造を備えて自足することになるわけだ。
 ムーラウの言葉はなにものも「消去」しないし、それ自体が「消去」されることもない。それこそが、『消去』という小説が抱え込んだ最大の自己欺瞞なのである。


 ……以上のようなことを別の側面から考えるならば、そこにあるのは、小説を構成する言葉のあり方と、言葉が発せられる元々の起源にある人間の身体とが切り結ぶ関係性との問題であるだろう。
 言葉だけを見るならば意味的に矛盾・混乱し、時制の面でも辻褄が合わない……それでもなおそんな言葉の群を一つの作品として構成することができるのは、そもそも矛盾・混乱した言葉が、一人の人間の身体という独立したフレームの内側にも平然と共存しているからだ。
 つまり、トーマス・ベルンハルトという小説家は、小説の言葉のあり方が、その言葉を発することになった身体との関係によって規定されるというところにまで、文学的達成を遂げたのである。しかし、そこにある身体というフレームそのものには検討がなされなかったがゆえに、作中に書かれている否定的・破滅的な意味とは裏腹に、長大な作品を平然と書き続けることのできる小説家でありえたわけだ。
 例えば、『消去』におけるガンベッティは、ほとんど、ムーラウに呼びかけられムーラウに教えられる対象としてしか存在していない。……だが、ガンベッティがムーラウの言葉を批判的に検討し、時に師の教えを受け入れず時に反論していたら、どうなっていただろう? ……もちろん、『消去』という小説は今ある形では存在しえなかった、言い換えれば、言葉を発する人としてのムーラウの身体が変容する契機があったはずだということだ。


 とはいえ、トーマス・ベルンハルトの達成は――ベルンハルトの小説の、ここまで述べてきたような側面での先行者たるルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネとともに――二十世紀の文学理論によっては補足不可能な領域にまで到達したものだったと言える。言葉の表層にあるレトリックが、身体を通した人間の認識と不可分に結びついていることに改めて着目したのは認知言語学であり、これは従来のテクスト論とは根本的に相容れない方向性であるからだ(ついでに言えば、テクスト論は人工知能によって置き換え可能となる可能性があるが、認知能力と結びついたレトリック分析は、完全に人間同様の強い人工知能を搭載したロボットが完成しない限り不可能だろう。そういう意味では、二十一世紀の文学理論はレトリック分析の方向性で発達することはまず間違いないと私は考えているのだが……そうなると、詳細にヴィーコを読み込むところから始めなければならない……ということは、とりあえず二十一世紀も、ジョイスの覇権は生存確定ということにもなるのであった……)。
 しかし……ベルンハルトの言う「消去」が、本当に「書くこと」、言葉そのものの水準にまで向けられていたら、どうなっていたのだろうか? 
言い換えれば、言葉が担ってしまう否定性までもが突き詰められ、言葉と身体の結びつさえもが解体され、言葉の自壊や身体の変容が実演される水準にまで、文学的追求がなされていたならば?
 私が、ベルンハルトの高度な達成を理解しながらも最終的には否定しなければならないのは、ベルンハルトに既に先行する中に、そこまで到達した人々がいたことを知っているからだ。……もちろん、それは、サミュエル・ベケットでありアントナン・アルトーであるのであった。








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