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法月綸太郎『挑戦者たち』のその後

 少し前に、このブログで法月綸太郎『挑戦者たち』の解決編を勝手に書いてみたことがあったが、その後、そのことをふまえて改めて読み返してみると、色々と思うところがあった。
 まあ、もともとの解決編にいちいち書かなかったことでも、気づいていた細かい小ネタならちょこちょこあった。例えば、「絶対領域」の入り口たる63章が鏡文字による挑戦状で、参考文献にはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』が挙げられている……これは、アリスが鏡を通り抜けて異世界へ入っていったことになぞらえているのであろう(また、その後考えるようになったこととして、高山宏がアリス論においてキャロルの創造する閉じた世界を「外の時間の流れを一時とめてくれる」ものであると評したことも参照されているのかなあ、とも思うようになった)。
 そのような小ネタもいちいち挙げていくと結構あるのだが、それ以上の問題として、私が書いた解決編が、そもそも作者としては、「そのようなことを書く読者もいる」ということまで織り込み済みなのではないかと思えるようになってきたのだ。
 解決編における私の推理では、作者である法月綸太郎本人が作中に登場し介入している、ということになるのだが……その前提だと、作中では、作者は「狩瓶以太郎」と名乗っていることになる。
 そして、この「狩瓶以太郎」なる人物は、86章において、何者かによって殺害されたことになっている。また、20章および91章を見ると、謎を出す者は、謎を解かれたときに、解いた者によって殺害されることが示唆されてもいる。
 と、いうことをふまえてから、改めて解決編を読み返してみると……あれ? ……真犯人、おれじゃん。
 私自身は、『挑戦者たち』という小説の中で密かに仕掛けられていた謎を解く過程で、そこで同時に語られてもいたストーリーの方にも決着をつけたつもりではあったのだが……よくよく考えてみると、「読者によって謎が解かれるということが、同時に、読者による作者殺害が成就することである」というところまで、実は計算されていたのではないか、と。
 『挑戦者たち』という小説は、クリスティの『そして誰もいなくなった』の語りの構造を踏襲して構成されていると推測していたことは既に述べたのだが……単に「踏襲した」というよりも、むしろ、その構造の過激さをより押し進め徹底した、ということであるのかもしれない。つまり、『挑戦者たち』とは、謎を提示する作者が、全く同時に、作中で殺害される被害者でもある、ということだ。そして、「読者=犯人」による「作者=被害者」への干渉とは、もちろん「謎を解くこと」であるのだが、同時に、「謎を解くこと」が必然的に「作者を殺害すること」でもある。
 したがって、作者本人が仕組んだのが作者殺害事件である以上、殺害の現場そのものは、作者自身が語ることはできない。よって、作者が事件全体の語りを遂行するためにできることは、自分が語り終えた小説の外部に自分以外の者が結末を付け加えるように仕向ける、ということしかないだろう。
 そう、考えてみると、「読者参加型のロジック小説」(19章)が登場し、時には読者の方から作者に挑戦しさえする(34章)ことなどを作中に散りばめていたのは、『挑戦者たち』の外部に作者ならぬ読者が解決編を書き加えること自体を教唆していたのではないか、とすら思えてくるのだ。実際、私は解決編の内部で謎解きのみならずストーリーも付け加えたのだが……実際に謎を解いてみると、付け加えられるストーリーには選択の余地がなく、一本道でしかありえない。つまり、私が考えて書いたと言うよりは、作品の構造によって必然的にそうなるように書かされていたのに過ぎないのである。
 つまり、「読者による作者殺害事件」こそが『挑戦者たち』が仕組んだことであるのならば、読者が作者を殺害するように仕向けたのは、他ならぬ作者なのである。……つまり、真相を特定しようとすると作品世界からはみ出しかねない「操り」の問題が、作者と読者との間で循環するように、周到に構築されているということだ。
 ……などということを考えていると、ふつうなら「考え過ぎじゃないか?」という、ほとんど陰謀論的な状態だと思うのだが……なんせ作者が法月綸太郎だから、このくらいのことは普通に考えているのだろうなあ、と。
 うーむ……この『挑戦者たち』って、法月綸太郎のミステリに関するほとんどパラノイア的なまでの執着が他人にも感染するように仕向けられた、呪いの書なんじゃなかろうか……?


 ……まあ、そんなことを考えるにつけ、いったい自分が書いているのか書かされているのかすらわからなくなっていたところなのではありましたが……一方で、やはり私がたどり着いたのは真の正解であったのだと確信できることもあったのです……
 それはもちろん、プレミアム挑戦状の正解者プレゼントに関することなのですが……正解者には法月綸太郎自身がサイン色紙を書いてくれるということなので、この機会は、自分の推理に最後の確認をするチャンスにできるぞ、と考えました。
 そこで私は、正解を書いて応募したハガキに、自分が真の正解に到達したことを示しつつ、とある文言を色紙に書き添えてもらうことをリクエストしてみました。私が「真の正解者」であるならば、おそらくこのリクエストには応えてもらえであろう、と考えたのです。
 なんというか、法月綸太郎本人にその文言を直接書かせることに成功した私は、やはり、真の勝者であると言えるのではないでしょうか。……私の手元に届いたサイン色紙は、以下のようなものになっていたのです。






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 法月先生、ありがとうございましたー! ……それにしても……やはり、あなたは……









「消去」することの多義性について――トーマス・ベルンハルト『消去』

 しばしば、トーマス・ベルンハルトの作家活動の集大成とも呼ばれる長篇小説『消去』は、全体として、「電報」と「遺書」の二章よりなっている。
 各章には全く改行が存在せず全体としてひとかたまりのパラグラフをなしており、また、「電報」は主人公が両親と兄の死を知らせる電報を受け取ること、「遺書」はその葬儀のために故郷であるヴォルフスエックを訪れること……というように、現在時の出来事として語られるのは、ごく短期間のわずかなことでしかない。全体として、主人公の親族及び故郷に関する軋轢と憎悪の感情が過去の回想とともに奔流のごとく饒舌に語られることにより、この長大な小説を構成している。
 『消去』の語りは、主人公であるムーラウの視点にほぼ完全に寄り添っている……しかし、ムーラウの発する「私」という一人称は地の文そのものではなく、ムーラウの発話はあくまでも小説の話者によって引用されたものであることがたびたび示される。小説の本文そのものを統御している話者は、まず間違いなく、さらに後年のムーラウ自身であることだ。にもかかわらず、話者としてのムーラウと主人公としてのムーラウの間には、厳密に断層が引かれることにによって、作品全体の語りが構成されているわけだ。
 また、特に「電報」においては、ムーラウが家庭教師として教えているガンベッティが、多くの発話の呼びかけられる対象であることが示されていることも重要である。
 そんな特徴を持つ『消去』の本文は、例えば次のように書かれている。


政府は日々私の大事なものを飲み込んでは破壊するとてつもない破砕機を動かしている。故郷の町は見る影もない、と私は言った。故郷の風景は広範囲にわたって、みすぼらしいものにされてしまった。もっとも美しい地域が、新しい野蛮人の金銭欲と権力欲の犠牲になった。美しい巨木が立っていたところでも、その木が切り倒され、壮大な古い建物が立っていたところでは、その建物は取り壊され、素晴らしい小川が谷に流れ込んでいたところでは、その小川がずたずたにされる。いったいどうして、すべての美しいものが踏み躙られてしまうのか。そしていっさいは、社会主義の美名のもと、想像しうるかぎりもっとも下劣な偽善のもとに行なわれているのだ。少しでも文化の匂いのするものはいかがわしいもの扱いをされ、問い詰められやがて消去されるのだ。消去する者が、殺戮する者が仕事にかかっている。私たちが相手にしているのは、消去する者にして殺戮する者であり、彼らは至るところで殺戮の仕事を遂行している。消去する者と殺戮する者は、町を殺して、消去し、風景を殺して、消去する。彼らは、国家の至るところにある何千、何十万という役所の中にでっぷり太った尻をおろしており、消去することと殺戮することしか頭になく、ノイジードラーゼーとボーデンゼーの間にあるすべてをどうやったら完全に消去し、殺戮しつくせるかということしか考えていない。(『消去』、池田信雄訳、旧版・上巻p80)


 「消去」とは、ムーラウが憎悪し嫌悪する者どもが、ムーラウが愛し思い入れを持つ対象に対して行なうことのようである。しかしそれと同時に、『消去』という題名の書物を書く計画を立てているムーラウは、ガンベッティに次のように語りもする。


スケッチだけでは十分ではないのだ、と私はガンベッティに言った。私の頭に最終的に残っている唯一のものは、と私はガンベッティに言った、「消去」というタイトルだ。というのも私の報告は、そこに描写されたものを消去するために書かれるからだ。私がヴォルフスエックという名で理解しているすべて、ヴォルフスエックであるすべて、ガンベッティ君、私の言っていることが分かるかね、本当にそして実際にすべてを消去するために書くのだ。この報告の後には、ヴォルフスエックであるものすべてが消去されていなければならない。私の報告は消去以外の何ものでもないのだ、と私はガンベッティに言った。私の報告はヴォルフスエックをあっさり消去する。私は十一時までポポロ広場にガンベッティといっしょに座っていた、と私は机の上の写真を眺めながら思った。私たちはみなヴォルフスエックを引き擦っている。そして自らの救済のためにそれを消去したい、書くことによって滅ぼしたい否定したいという意志をもっている。しかし、私たちがその消去のための力を持ち合わせないときがほとんどなのだ。(同、上巻p144)


私はこの報告を「消去」と名づけるつもりだ、と私はガンベッティに言った。それは私がこの報告の中ですべてを消去するつもりだからだ。私が書き留めることはすべて消去される。私の家族全員がこの中で消去され、彼らの時間もこの中で消去される。ヴォルフスエックは私の報告の中で、私のやり方で消去されるのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p145)


 ……以上いくつかの引用を照らし合わせてみる限り、もちろん、ムーラウの発言は非常に混乱したものだ。ムーラウは故郷を破壊する者を憎悪しているのか、それとも、故郷そのものを憎悪しているのか。「消去」という行為自体は、肯定されるべきものなのか、それとも否定されるべきものなのか。それは意志的に望まれ選択された行為なのか、それとも、致し方なしに選択された行為なのか。さらには、「政府による消去」と「書くことによる消去」とは、果たして同じものなのか。
 もちろん、このような記述の混乱は、一人の人間が持ちうるその内面の矛盾し混沌とした有様をそのまま散文の形に移したことによって生じている者だ。そして、そこにある混乱、正反対であるはずにもかかわらず実際には入り交じり明確な境界も見極め難い愛憎……それら全てを克明に認識し記述した上で、それでもなおその抹消を望むからこそ、「消去」という行為が選ばれることになるのだろう。
 ムーラウは、自らの言う「消去」について、ガンベッティに次のように語っている。


私が彼に、どうやったら私の言う意味で世界を変えることができるかを話すと、ガンベッティの注意と熱狂はどんどん大きくなった。それにはまず世界を全面的かつ過激に「破壊」し、無に至らしめるまでに「否定」し、それから自分に耐えられると思える仕方で再生させること、一言で言えば、完全な新世界として再生させることだ。それがどのようなかたちで起こるかは言えないが、再生されるのはまず完全に否定することが必要だということは分かっている。というのも、世界の完全な否定なしに世界の刷新はありえないからだ。(同、上巻p151)


もちろん、私たちがそう考えれば、すべての古いものは私たちに敵対するようになる。つまり私たちはすべてを敵に回すことになるのだ、ガンベッティ君、と私は彼に言った。だからと言って、古いものを私たちの望む新しいものに取り換えるために滅ぼそうという私たちの考えが妨げられるようなことになってはならない。すべてを放棄するのだ、と私はガンベッティに言った。すべてに反発し最終的にはすべてを消去するのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p154)


 ……なるほど、いざ『消去』の全篇を読み終えてみると、その結末部分でムーラウがなしたとある行為は、確かに、ヴォルフスエックに対する「消去」とも言える行為であるようにみえる。だがそれは、既に引用した部分で言われているような「世界の完全な否定」からはあまりにもかけ離れている。
 ムーラウが述べる「消去」と、実際になす「消去」の間には、巨大な懸隔があるーーだが、それ以上に、ここにはより本質的な問題がある。……もし世界の完全な絶滅、その消去を願っているのであれば、なぜムーラウは、自分の考えを詳細にガンベッティに語り伝え、自身の言葉を残そうとする必要があるのか。ガンベッティという人物はと言えば、そもそもがムーラウの教え子なのであり、ムーラウが自身の後継者として育てたがっている節すらある。
 全世界の完全な消滅を願う人間が、自身の後継者の育成に励む……これは、あまりにもあからさまな矛盾ではないか?


 とはいえ、『消去』でひたすら繰り広げられるムーラウの饒舌な言葉は、自身の言葉に潜む矛盾や自己欺瞞についてすら、なんら隠すことなく語ってみせる。……そこには、例えば、次のような言葉が見られるのだ。


私たちが憎むのはもっぱら私たちが間違ったことをしているときであり、間違ったことをしているからだ。母はいやな人間だ、妹たちもそうだが、そのうえに愚鈍だ、父は軟弱だ、兄は哀れな道化だ、全員が愚か者だ、絶えずこう考え(そして口にすること!)が、私の習慣になってしまった。この習慣は、私にとって、基本的には卑劣極まりないものだが、武器にはなり、その武器でともかくも良心の呵責だけは静めなければならなかった。家族の者たちも、私が彼らにしたように、私をけなし、私を晒しものにし、私を性悪に仕立てればいいのだ、実際、私はいつのまにか彼らを性悪にしてしまったのだが、と私はガンベッティに言った。私たち人間は簡単にそしてすぐに、憎んだり、非難したりすることに慣れてしまう。自分の憎しみと非難に、そのとき、ほんのわずかでも正当性があるのかと問うこともしない。(同、上巻p74)


私たちはみな悪魔的本性の持ち主だが、その正体は写真コレクションのような、どうでもいいくだらないものの中に現れる。私たちの下劣さ、卑しさ、厚かましさが、そういうくだらないものによって証明されるのだ。なにもかも私たちの弱さに原因がある。というのも私たちは誠実であるなら、自分より弱いと見たがっている相手より実際はずっと弱く、自分よりおかしいと見たがっている相手よりずっとおかしく、滑稽で、無節操な存在だということを認めざるをえないからである。「私たち」こそ、無節操で、おかしくて、滑稽で、異常な存在であって、ガンベッティ君、相手のほうがそうではないのだ。自分の家の者たちのほかでもないこういう写真だけを保存し、しかもそれをいつでも見ることのできる机の引き出しにし舞うことで、私は自分の卑劣、破廉恥、無節操を証明している。(同、p181)


私たちは時々こんなふうに誇張をはじめるが、と私はだいぶ後でガンベッティに言った、そうなると誇張こそ唯一筋の通った事実に見えてきて、本来の事実はもう全然目に入らず、際限なく繰り返される誇張しか目にとまらなくなる。誇張への熱狂的信奉はいつでも私を癒してくれた、と私はガンベッティに言った。私がこの誇張への熱狂的信奉を誇張の技法に変えてしまったとしたら、それが、私を私の惨めな状況と精神的倦怠から救い出す唯一の方法だったからだ、と私はガンベッティに言った。私は自分こそ私の知るもっとも偉大な誇張芸術家だと言い切れるところまで、誇張の技法を磨き上げた。私は私以外に私のような人間を知らない。いまだかつて誇張の技法をここまで極めた者はいない、と私はガンベッティに言った。そしてそれに続けて、もしいきなり誰かに、私の正体は何なのだと聞かれたら、それに対して、私の知るかぎりもっとも偉大な誇張芸術家だと答えるしかないだろう、と言った。(同、下巻p444~445)


 実は、『消去』の作中において、以上のような矛盾した態度にとらわれているのは、ムーラウだけではない。ムーラウと親交のある詩人・マリアもまた、次に引くような態度を見せているのだ。


マリアは私に、「本当はウィーンに戻りたいの」と言ったとしても、その直後の、時には、二、三分も経たないうちに、反対のことを言う。同じくらい確信をこめて「実を言うとウィーンには戻りたくない」と言うのだ、実はローマに残りたい、ローマで死んでもいいくらいに思ってるわ、と。マリアはよく、ローマで死にたいと言った、と私は考えた。マリアはその知性ゆえに、ローマにいること、実際にはウィーンを愛していながらローマにいることを余儀なくされている、と私は考えた。しかしマリアは、住む家の手配をしてくれ、実際、ウィーンの重要な扉をすべて開いてくれたウィーンの知り合い全員にけんつくを食わしてから、二、三週間もすると、ぞろまた、今度こそ最終的に「故郷」であるウィーンに戻るつもりだ、と言いはじめ、それを聞くと私はいつも面と向かって笑うことで話を中断せずにいられなくなるのだ。というのもマリアの口から出る「故郷」という言葉は、私の口から出たのと同じくらいグロテスクに響いたからだ。(中略)ローマ人であろうとしながら同時にウィーン人であるマリアは、こういう危険な感情と精神状態をばねにあの偉大な詩を書くのだ、と私は考えた。(同、p172~173)


 ……なるほど、ここでのマリアのように平然と矛盾した態度を取ってしまうこと自体は、誰しも多かれ少なかれ犯してしまうことではあるだろう。そして、ムーラウは、そのような矛盾・自己欺瞞、人間の混乱した本質を直視することが、ある種の文学的達成をもたらすと考えているようである。
 そして、『消去』に書き込まれた散文、そこに人間の愚かさや欺瞞が混沌としたままに活写されているのに接すると、確かに高度な文学的達成があるのも事実である。……しかし、『消去』の全体を改めて確認した上で、私はこう述べなければならない。……ムーラウの言う「消去」とは、言語そのものの水準においては決してなされていないのだ、と。


 『消去』という小説の作中における「消去」という言葉は、様々な水準での様々な意味を同時に担わされているものである。政府による開発・環境破壊の類も「消去」であり、ムーラウが法律上の権利を持ってヴォルフスエックに対してなす行為も「消去」である。
 そして、「世界の完全な否定」に向けて「書く」こともまた、「消去」であるとされる……だがこれは、具体的にはいかなることなのか。書くことこそが「消去」であるのだと述べるムーラウは、しかし、実際に行う行為として「消去」を実践するとき、言葉とはほぼ無関係な水準にある、行動の人となる。一方、ムーラウが実際に発する言葉のほとんどは、自らの教え子に語りかけ、自分自身の後継者を育成するという、世界を絶滅させ抹消するなどということとはおよそ対極の水準にあるものだ。
 ムーラウは、言葉を発し書く人としての己を最も重要視している一方で、実際に言葉を操る水準においては、なんら「消去」を実行していない。もっと言えば、言語そのものの水準で「消去」がなされるのであれば、語られる対象ではなく、語るための言葉そのものもまた消滅に向かわなければならないはずなのであるが、そのような契機は『消去』という作品には微塵もない。
 つまり、ムーラウの散文は、人間が抱え込む愚かさや矛盾や自己欺瞞、そこにある混沌とした有様を直視し散文に写すことに成功してはいるのだが、そこでの検討が、言語そのものの水準での自己言及的な領域にまで到達することは決してない。
 ……だからこそ、言葉を発する人間としてのムーラウはあらゆる対象の消去を望むと言いながらも、自身の言葉を受け取る存在としてのガンベッティの消滅を望むどころか、そこにガンベッティが不動の存在としてあり続けることを疑うようなそぶりすら見られない。つまり、「語り手としてのムーラウ」と「聞き手としてのガンベッティ」という、作品そのものを構成するフレームは、作品によって自己言及的に反省される対象から無条件に除外されているのである。だからこそ、ムーラウからガンベッティに対して投げかけられた言葉は何ら「消去」されることなどなく、どこまでも饒舌に繁殖し、膨大な量の言葉を内包する長篇小説自体は、安定した語りの構造を備えて自足することになるわけだ。
 ムーラウの言葉はなにものも「消去」しないし、それ自体が「消去」されることもない。それこそが、『消去』という小説が抱え込んだ最大の自己欺瞞なのである。


 ……以上のようなことを別の側面から考えるならば、そこにあるのは、小説を構成する言葉のあり方と、言葉が発せられる元々の起源にある人間の身体とが切り結ぶ関係性との問題であるだろう。
 言葉だけを見るならば意味的に矛盾・混乱し、時制の面でも辻褄が合わない……それでもなおそんな言葉の群を一つの作品として構成することができるのは、そもそも矛盾・混乱した言葉が、一人の人間の身体という独立したフレームの内側にも平然と共存しているからだ。
 つまり、トーマス・ベルンハルトという小説家は、小説の言葉のあり方が、その言葉を発することになった身体との関係によって規定されるというところにまで、文学的達成を遂げたのである。しかし、そこにある身体というフレームそのものには検討がなされなかったがゆえに、作中に書かれている否定的・破滅的な意味とは裏腹に、長大な作品を平然と書き続けることのできる小説家でありえたわけだ。
 例えば、『消去』におけるガンベッティは、ほとんど、ムーラウに呼びかけられムーラウに教えられる対象としてしか存在していない。……だが、ガンベッティがムーラウの言葉を批判的に検討し、時に師の教えを受け入れず時に反論していたら、どうなっていただろう? ……もちろん、『消去』という小説は今ある形では存在しえなかった、言い換えれば、言葉を発する人としてのムーラウの身体が変容する契機があったはずだということだ。


 とはいえ、トーマス・ベルンハルトの達成は――ベルンハルトの小説の、ここまで述べてきたような側面での先行者たるルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネとともに――二十世紀の文学理論によっては補足不可能な領域にまで到達したものだったと言える。言葉の表層にあるレトリックが、身体を通した人間の認識と不可分に結びついていることに改めて着目したのは認知言語学であり、これは従来のテクスト論とは根本的に相容れない方向性であるからだ(ついでに言えば、テクスト論は人工知能によって置き換え可能となる可能性があるが、認知能力と結びついたレトリック分析は、完全に人間同様の強い人工知能を搭載したロボットが完成しない限り不可能だろう。そういう意味では、二十一世紀の文学理論はレトリック分析の方向性で発達することはまず間違いないと私は考えているのだが……そうなると、詳細にヴィーコを読み込むところから始めなければならない……ということは、とりあえず二十一世紀も、ジョイスの覇権は生存確定ということにもなるのであった……)。
 しかし……ベルンハルトの言う「消去」が、本当に「書くこと」、言葉そのものの水準にまで向けられていたら、どうなっていたのだろうか? 
言い換えれば、言葉が担ってしまう否定性までもが突き詰められ、言葉と身体の結びつさえもが解体され、言葉の自壊や身体の変容が実演される水準にまで、文学的追求がなされていたならば?
 私が、ベルンハルトの高度な達成を理解しながらも最終的には否定しなければならないのは、ベルンハルトに既に先行する中に、そこまで到達した人々がいたことを知っているからだ。……もちろん、それは、サミュエル・ベケットでありアントナン・アルトーであるのであった。








捏造された十人の作者――『挑戦者たち』における法月綸太郎の「世界」

 今回のエントリでは、もともとはトーマス・ベルンハルトの『消去』について書くつもりだったのだが、その予定を変更した。……というのも、私が『消去』について考えていたのが、「話者があらゆる対象を消去すると述べ実際そのように進行しているようにも見える小説が、その実安定した語りの構造を備え一つの長篇小説として堅固に成立しているということには、「消去」される対象として話者そのものの存在は無条件に排除されているという、語りの構造がもたらすトリックがあるのではないか」……というようなことだった。
 そんなことを考えていた折り、たまたま新刊として手に取った法月綸太郎の『挑戦者たち』を一読してみると、まさに私がベルンハルトを読みつつ考えていたようなことが展開されている小説であったため、この作品についてまとまった文章を書くことにしてみたのだ。
 さて、法月綸太郎の新作『挑戦者たち』と言えば、手に取る前から、「全篇が九十九の挑戦状だけからなる特異な書物である」という評判は耳にしていたのではあるが……その時点で既に、これはなにやらどうもキナ臭いと思っていた。だって、この作者は、あの法月綸太郎なのである。例えば、「バベルの牢獄」のような小説を書こうと思い立ち、なおかつ実際に書けてしまうだけの技術を持っているクラスの小説家が、「いろんな文体を駆使していっぱい挑戦状を書いちゃいました~」などというだけのことでキャッキャできたりするもんだろうか。……いや~、さすがに法月綸太郎はそんなタマじゃなかろう。
 私自身は、ミステリはたまにちょこちょこ読む程度の読者だから犯人当てという意味での謎解きには自信はないが、語りの構造を分析すれば解読できるという意味での謎なら、まあ解けるぞと。そんなことを思いつつ実際に『挑戦者たち』を読み進めると、作中でアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』が参照されている……これを知ったとき、私の疑いは確信に変わったのであった。
 『そして誰もいなくなった』とは、どんな小説であっただろうか。……それは、外部から遮断された孤島にいる十人の登場人物たちが次々に殺害され、ついには、エピローグに移行する直前、本編の最後において、全員が死亡するに至るのであった。
 つまり、この小説において読者に「謎」が提示される瞬間とは、十にも及ぶ死体の山だけがあり、犯人の姿もなければ謎を解く探偵の姿も見あたらないという状況なのである。語られる対象が存在せず、話者による記述内容が限りなく「無」に近づく――そんな小説の語りの限界点に近づいているがゆえに、謎が解決される「エピローグ」に移行するためには、話者の位置を変更することによってしか小説として成り立ち得ない――そのような、小説の語りの構造が剥き出しになっているのが、『そして誰もいなくなった』という作品なのであった。
 十にも及ぶ死体の山だけがあるなどという状況においてすら、謎の位置を探り当てことの真相を暴き出すことは可能である――ならば、九十九の挑戦状だけが並べられ、探偵はおろか犯人もおらず、そもそも謎の存在自体が提示されていない小説であっても、それでもなお、謎そのものを見つけ出した上でそれを解くことは、可能であるだろう。
 さらに決定的なのは、初版本だけという限定付きではあるものの、『挑戦者たち』に作者自身からの「プレミアム挑戦状」が添付されていることである。それによると、それぞれの挑戦状についての主要参考文献表に、実在しない架空の本が紛れ込んでいるのだという――言い換えれば、一見するとそれぞれが同等のものに見える九十九の挑戦状には、ただ一つだけ、何らかの意味での特異点が紛れ込んでいることが、作者からのメタ情報としてわざわざ明かされているわけだ――そう、ちょうど、『そして誰もいなくなった』の死体の山の中に特異点が紛れ込んでいたからこそ、一見すると不可能な謎が成立していたように。
 ならば、「プレミアム挑戦状」は、ただのお遊びではあるまい。作品の構造を分析し、「謎」そのものを探り出す道をたどるならば、その過程で、必然的にその答えに行き当たるはずである……そのように、私は確信するの至ったのだ。
 ……などということを白々と書き連ねてきたが、こんなことをわざわざ書いている、なおかつ、思考の道筋をわざわざ過去形で書いているのは、もちろん、これを書いている現在の私は、作品の分析を既に終了し、完全な形で結論に到達したからだ。
 それでは……この作品については、その性質上、次のように宣言するべきだろう……謎はッ! 全てッ! 解けたァァァッ!!!


 ……と、いうわけで、今書かれつつあるこの文章は、法月綸太郎『挑戦者たち』の、一読者によって一方的に突きつけられた「解決編」である。
 これを書くにあたって、一応ちょっとは悩んだのだが……というのも、「プレミアム挑戦状」には正解者特典として、「法月綸太郎直筆ミニサイン色紙」が応募者全員プレゼントとなっているのですな。私がこの小説の構造を詳細に解きほぐしたら、必然的に「プレミアム挑戦状」の解答にも行き当たってしまうので、それが広まろうものなら、法月先生がむちゃくちゃな量のサインを書かなければいけないことにもなりかねませんな。
 ……しかしですねえ、改めて考えてみると、この「プレミアム挑戦状」、十一月三十日までの期間限定と、かなり短期間に有効期限を絞り込んでいる。さらに、作中では、ネットで流通したコピペを改変して引用したりしているわけだから、逆に自作の情報がネットで流通してしまっても文句は言えないのではないかと。
 それより何より、そもそもこの小説に謎が仕掛けられていること自体が明らかにされておらず、小説の語りの構造に自覚的な読者でなければ、謎の存在そのものに気づくことすらできない――という状況がある。……なるほど、「架空の本」が何であるのかいざ探り当ててみると、これはそれほどわかりづらいものでもないので、ちょっとした読書家が参考文献表を端から読んでいけばふつうに発見できる可能性も高い。しかし、この作中で自己言及的に繰り返されているのは、挑戦状に対する解答は、偶然に頼ったりしらみつぶしに答えを探したりするのはダメである、ということなのであった。
 しかし私の場合、謎の存在そのものを発見し、なおかつ特異点を探り当てる筋道を立てて論理的に「プレミアム挑戦状」の解答へ至る道を説明できてしまうのであります。ならば、自ら設定した短い有効期限の内に、不完全にしか提示していなかった謎を完全に解かれたのであれば、作者である法月綸太郎の完全敗北以外の何ものでもないので、泣きながらサインを書きまくる程度の罰は受け入れてもらわねばならんのではなかろうか。……それにさあ、実際に、異様なまでに複雑でとんでもなく精緻に練り上げられた驚異の構造体としての『挑戦者たち』の謎を解き明かしてみてから初めてわかることとして、作品の核心部分で、想像を絶するほどバカなことをしてますよね……。いや~、こんなん解かれたら罰ゲームでしょう(……それに、この文章が広まって法月綸太郎本人の目に止まるという状況も考えて、タイトルはわざわざ、作者なら一目見ただけで謎を全て解かれたことがわかるようにつけたので、観念してくれるのではないでしょうか)。
 ……まあ、正直なところ、『挑戦者たち』の異様に複雑な成り立ちを見るにつけ、小説の語りの構造について法月綸太郎自身と同等かそれ以上に考えている人間でなければ、たしかに、わかるようなもんでもないよなあ、とは思う。……しかしですねえ、法月先生、残念ながら、世の中には私のような読者もいるのですよ、ハッハッハッ。


 とはいえ、その逆に、この小説に対する反応を見ていて「いくらなんでもわからなすぎる、まともに小説読めなさすぎるにもほどがあるのではないか」とも思えたのだった。そりゃあ、私自身、『挑戦者たち』に仕掛けられたからくりをかぎつけてから、それを完全に解きほぐす過程でそれなりに難渋した部分もあったことは事実ではあるけれど、「仕掛けられた謎を解明する」ことと「実はそこに謎が仕掛けられていたことに気づく」だけのこととの間にも、要求される読解力はだいぶ異なるわけだ。
 ところが、『挑戦者たち』を読了した人々の感想・書評の類を探っていっても、これが単なる挑戦状の寄せ集めなどではなく、明確な全体像を持って巧妙に統御された一つの作品であり、その構造に絡む謎が隠されているということ自体に気づいた節があるものすら皆無なのであった、「小説のプロ」であることになっている人々のものも含めてね。
 色々と見ていた中で見つけてしまって特に気になったのは、よりにもよってこの私のことを「小説に関しては頓珍漢なことしか言えない」などと断定してくださりやがった東某氏が、この小説の仕掛けに何も気づいていない風で呑気な感想を書いていたことであった。……え~っと、この人、たしか、法月綸太郎の小説について論じた文章も含めた文芸評論を出版してましたよね……? こういう時って、なんて言ったらいいんでしょうかね……ここはやっぱり、「このアマチュアがぁ!」ですかねえ。
 まあ、私としては、実作者だろうが批評家だろうが研究者だろうが、「小説のプロ」だということに一応なっているのに、謎を解くどころか謎を仕掛けられていることにすら気づけなかった人々は、もう看板下ろした方が身のためだと思うよ。君たちはほんとーに「小説のプロ」なのかい? 「小説ごっこ」とか「文学ごっこ」などと称しておいた方がいいんではないか?
 ……まあ、作者が自作に「謎を仕掛けていること」自体を明言しないままに出版してそのままにしておくと、「謎の存在自体が理解されない」ということはまれにはあるのかなあ、とは思う。私が認識している限りだと、ビオイ=カサーレスの『モレルの発明』が、そんな小説にあたる。実はあの小説に関しては、ボルヘスが「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の冒頭でビオイ=カサーレスとの対話を記録し、「語り手が事実を省略もしくは歪曲し、さまざまな矛盾をおかすために、少数の読者しか――ごく少数の読者しか――恐るべき、あるいは平凡な現実を推測しえない、一人称形式の小説の執筆について」語っていたのだという。
 私としては、これはたぶん本当にビオイ=カサーレスの作品にあることだろうと推測し、色々な状況から『モレルの発明』であろうと当たりをつけて分析してみたところ、実際に、作中で話者によって語られている記述の矛盾や言い落としを照らし合わせると、作品が隠していた極めてグロテスクな、「恐るべき、あるいは平凡な現実」が浮かび上がることを確認したのだが……あの作品の場合、それをきちんと論理的に説明しようとすると、おそらく作中で参照されている書物をも読み込んで小説の記述を照らし合わせつつ記述していく作業をやらないとダメっぽいので、ちゃんとやるとめんどくさいんですよねえ……。


 というわけで、前置きが長くなってしまったが、実際に『挑戦者たち』がどのような小説であるのかを解明していこう。
 一見するとそれぞれがてんで無関係でバラバラの「読者への挑戦状」が並ぶ中、11章まで読み進めると、どうもこの作品は自己言及的な記述を含むのではないかという疑いが出てくる。「こんな『読者への挑戦』はイヤだ!」と題されたこの章には、こんな記述があるのだ。


 ・とにかく長い。五十ページ以上ありそう。
 ・事件が起こる前に挑戦状。
 ・奥付の後にも挑戦状。(p28)



 「プレミアム挑戦状」は奥付の後、すなわちこの小説の外部に位置しているので、この記述は、この書物そのものに当てはまる自己言及的なものだ。
 ならば、次々に繰り出される挑戦状が自己言及的なものであるとして、作品の全体像を照らし出す手がかりになるものは、どこにあるのか? ……まず、最初に決定的な記述が現れるのは、26章「編集者への手紙」だ。この章は、新作小説『うつろな穴のまわりに』に読者への挑戦が欠けていることを指摘された小説家が、挑戦状の欠如が故意のものであることを説明する手紙となっている。それによると、『うつろな穴のまわりに』が挑戦状を欠くのは、実はこの作中での解決は真の解決ではなく、読者への説明は全くないままに、解決はシリーズの次回作に持ち越されるからだというのだ。


 あらためて私の意図を説明しよう。次作でやろうとしているのは、「一冊の本の中に一度も登場しない人物を、犯人として指名する」というはなれわざだ。
 一度も登場しないというのは、単に姿を見せないだけでなく、作中でまったく存在に触れられない人物を指す。当然、その本の中では犯人と指名できないから、真相の解明は別の本で行わなければならない。いわば作中作を解放して、先行出版するような仕掛けで、二冊の本のタイムラグが、真相を覆い隠すヴェールになるわけだ。「シリーズ最新刊で初めて登場する人物が、前作で解決された事件の真犯人である」ことを示す手がかりを、読者に見破られないように配置するのは、なかなか骨が折れるがね。
 もちろん、すでに布石は打ってあるし、『うつろな穴のまわりに』というタイトルも、真犯人がまだ登場していないことを暗示しているのだが、後編の<読者への挑戦>でその狙いを明かすまで、私はこの二冊がひと続きの物語であることを悟られたくない。『うつろな穴』がそれ一冊できちんと完結しており、『もつれ合う線』も独立した事件を扱った小説であると、土壇場まで読者に思いこんでいてほしいのだ。
 ここまで明かせば、なぜ『うつろな穴』に<読者への挑戦>がないのか、きみにもわかるだろう。この小説の中では、「真相を解明するすべての手がかりは示された」と述べることはできない。重要な事実を隠しているのだから、もしそう書けば、読者に対して嘘をつくことになる。次作のプロットの整合性も失われてしまうだろう。(p55~56)



 ある一冊の探偵小説の内部で起きた事件の真犯人は、その書物の内側にそもそも登場しておらず、外部にしか存在しない。そして、だからこそ、読者に提示されるべき「謎」が成立しておらず、ゆえにその書物には「読者への挑戦」が含まれない……。
 一つ注意しておくべきことは、以上のような特徴を持つ『うつろな穴のまわりで』が、アガサ・クリスティの一冊の小説を参照していることだろう。


新作に挑戦状がないことについて、編集部に問い合わせが殺到するだろうが、それに対してはノーコメントを貫いてほしい。私もいっさいコメントを控えるつもりだ。場合によっては、刊行後しばらくの間、行方をくらますという手もありかもしれないな。『アクロイド殺し』を発表した直後に、アガサ・クリスティーが失踪騒ぎを起こしたように。挑戦状の不在と、作者の不在。『うつろな穴のまわりに』という本の宣伝には、格好のキャッチフレーズになりそうだ。(p56~57、ルビは省略)


 謎を内包しないがゆえに挑戦状を持たない『うつろな穴のまわりで』が『アクロイド殺し』を参照する一方で、挑戦状のみの集積でありそれ以外には何もない『挑戦者たち』は、同じくクリスティの『そして誰もいなくなった』を参照する。
 そして、『アクロイド殺し』と『そして誰もいなくなった』と言えば、小説の語りの言葉を限界地点まで利用することによって、読者の視点から最も盲点となりうる場所へと真相を隠した、その方法論についてそれぞれが正反対の方向性を突き詰めた小説であるだろう。……ならば『挑戦者たち』が『うつろな穴のまわりで』の正反対の構造を持つ作品であるならば、挑戦状のみの集積であるにもかかわらず、作中に謎は存在しており、その作品の内部の調査だけで謎を解くことができるように周到に構成されているのではなかろうか。
 このあたりの部分にまで読解を進めることで、私は、『挑戦者たち』に謎が仕掛けられていることに確信を持つに至ったのだった。


 『挑戦者たち』という小説の語りの構造を分析するにあたって決定的な意味を持つのは、「挑戦状」を含む小説の分類に関する議論が自己言及的になされる46章「分類マニア」である。ここでは、「読者への挑戦」の探偵小説内での位置づけとして「読者説」(「挑戦状」は「問題編」に含まれる)、「探偵説」(「挑戦状」は「解決編」に含まれる)、「犯人説」(「挑戦状」は「問題編」「解決編」のいずれにも属さない)の三つの立場が記述された上で、さらなら第四の立場として「作者説」が展開されることになる。この「作者説」がもっとも突出して小説の読解に著しい変更を要請するものであるので、これについて細かく見てみよう。


④作者説=「挑戦状」はもともと二つに分裂しており、その片割れどうしが「問題編」と「解決編」双方に属しているという立場。
 この説を唱える論者は、書物の「作者」と物語の「語り手」を峻別し、前者による物語の「中断」を認めない(それができるのは「語り手」だけである)。したがって、メタレベルの「作者」が物語に直接コメントできるのは、「まえがき」か「あとがき」のいずれかに限られるという。この立場によれば、「読者への挑戦」に「作者」の署名がなされている場合、「挑戦状」によって分割された「問題編」と「解決編」は、別々に語られた二つの物語と見なされる(二重焦点化)。
 要するに「読者への挑戦」と称されるものは、「問題編」の「あとがき」(以上ですべての手がかりが示された)と、「解決編」の「まえがき」(これから論理的な手続きによって新しい物語の幕が開く)が、あたかもひと続きの文章のように混ぜ合わされているにすぎない、というのがこのユニークな新説の骨子である(註)。(p106~107)



 これは非常に特異な見解であるが、全体が「挑戦状」の集積である『挑戦者たち』にこの説を自己言及的に当てはめてみるならば、さらに奇妙な構図が成立することになる。――すなわち、九十九通の各挑戦状が「問題編」と「解決編」の中間地点として「あとがき」と「まえがき」を兼ねているのであれば、任意の一つの挑戦状を読んでいる際、それ以前の挑戦状の全ては「問題編」であり、それ以後の挑戦状は全て「解決編」であることになるわけだ。ならば、各挑戦状を読み進めつつ、それぞれの章がどの機能を持つに至ったのかをまとめてみれば、以下のようになるだろう。


      1章:「挑戦状」+「まえがき」+「問題編」
   2~98章:「挑戦状」+「まえがき」+「あとがき」+「問題編」+「解決編」
     99章:「挑戦状」+「あとがき」+「解決編」


 以上のように分類してみた上で、さらに本文を読み進め、51章「これより先、無法地帯」の次のような記述を参照してみよう。


 たしかに問題編には、虚偽の記述はないのだろう。だからといって、解決編もそうだとは限らない。むしろ、彼らがあれほど「ここまで」や「すでに」といった後ろ向きの表現にこだわるのは、挑戦状から先の解決編がアンフェアで、嘘だらけの無法地帯と化していることを、暗に認めているようなものだ。
 実際、私の知る限り、挑戦状の書き手が問題編だけでなく、解決編にも虚偽の記述がないと宣言した例はないはずである。彼らは「手がかりを正しく組み合わせ、論理的な推理を働かせれば、唯一の正解にたどり着くことができる」とうそぶくが、「その唯一の正解は、解決編に示されている答えと同一である」という但し書きは見たことがない。言わずもがなのことだから省略したと考えるのは、お人好しすぎる。クレームをかわすために、彼らがわざとそういているのは、火を見るより明らかだと思う。
 これが「読者への挑戦」のからくりである。(p113)



 仮にこれが正しく、「解決編」のあらゆる記述が信頼できないものであるのならば、『挑戦者たち』という小説においては、信頼できる記述は「解決編」の機能を持たない1章にしかありえない、ということになる。……ならば、逆に、その1章の参考文献がフェイクであることが示されれば、小説全体が宙づり状態になるのではないか……と考えて1章の文献を確認してみたのだが、ここには特におかしい部分はない。ふ~む。
 ところが、『挑戦者たち』をさらに読み進めてみれば、参考文献をフェイクにするまでもなく、作品全体の記述の信用性を宙づりにする方策は、既に取られていたことがわかるのであった。


 問題の記述は、73章「天地無用」にある。この章は全体が逆さまに印刷されているという異様な章なのだが、そこには、次のような記述があるのだった。


 よく言われるように、探偵小説は原則として、事件の結果から原因にさかのぼるあべこべの物語である。事件の発生から解明に至るまでの操作は時間の推移に従うが、その捜査の内容は現在から過去へと時間を逆行するからだ。互いに逆向きに流れる時間の二重構造を細心な手つきで切り分けると、問題編と解決編という二段構えの叙述形式が生まれる。今やこの物語も、両者のはざまで、時の流れが堰き止められているわけだ。
 ということは、「読者への挑戦」とは、すべての砂がガラス管の底に落ちきった砂時計をひっくり返すようなものだろう。覆水を盆に返すことはできなくても、こぼれ落ちる砂の向きを反転すれば、静止した物語はふたたび動き出し、逆行する時間の推移をあべこべに再現することができる……。
 では気を引き締めて、ここで読者に挑戦しよう。密室状態のアトリエで被害者を墜落死させた犯人は誰か? 物語のここまでの時点で、事件を解決するために必要ないっさいの事実は示された。諸君のなすべき仕事は、落下した砂の一粒一粒をふるいにかけ、止まった時間を前に――あるいは後ろに――進めることである。(p144~145、引用に際して上下を逆転している)



 以上のような内容を持ち、なおかつ上下が逆転して印刷された73章を読むことによって、『挑戦者たち』の作中に流れていた時間は逆転する。作中の時間は右から左に読み進めることによって進むのではなく、左から右へと進むことになる。……ということに気づいてから改めて72章を読んでみると、ごていねいにも次のような記述があるのであった。


 道にまよったので、だれかに帰り道をたずねる。すると、道をおしえてやろうといってそのだれかは、平坦で歩きやすい道を、わたしといっしょに歩いてくれる。突然、道は行き止まりになる。そこで、同伴してくれた人がこういう。「さて、きみのするべきことは、ここから帰り道をさがすことだ」(p143)


 ……だが、「帰り道をさが」して逆転した時間の中で、「作者説」に基づいて前の章から順番に「まえがき」「問題編」「解決編」「あとがき」を割り当てていったことも、完全に逆転する。……ならば、結果として全ての章が、「まえがき」「問題編」「解決編」「あとがき」の機能を全て合わせ持つことになってしまう!(……ついでに言うと、以上のような操作を加えたことにより、「作者説」のみならず「読者説」「探偵説」「犯人説」の全ての解釈が『挑戦者たち』という小説に対して成立することにもなるわけだ)
 ここにおいて、全ての章がフェイクであり、偽装された、信用のできない記述であるということが確定してしまうのだ。


 ここまで分析を進めた結果、『挑戦者たち』という小説は九十九通の挑戦状の「語り手」は一見すると全てが別人でありながら、その全ての記述が信用できない――という状態が成立していることがわかる。
 ならば、もはや手がかりはどこにもないように思える――しかし、私が気づいたのは、46章で提示された「作者説」に、大きな見落としをしていたということであった。
 ……そう、あの部分では、挑戦状が問題編と解決編を分割し作品を二重化するのは「『読者への挑戦』に『作者』の署名がなされている場合」という但し書きがあったのだ。
 では、『挑戦者たち』を構成する九十九通の挑戦状において、「作者」の署名がなされているものはどれだけあるのかというと……これが存外少ない。6章、14章、15章、16章、17章、18章、31章、41章、49章、73章、76章、そして80章である。この中には、「さしくゃ」「非作者」「作者(故人)」のような特殊な例も含まれるが、後述する事情によって数に入れている。
 ただし、例えば「作者」の署名が最初に登場する6章では、署名の次に以下のような文章が書き込まれている。


 「――余計なことを」《隠れた黒幕》氏は商売道具の赤ペンを握ると、自分に不都合な文章を挑戦状から削除した。(p21)


 これはつまり、実は6章の「語り手」を「作者」が兼ねているのではなく、6章の記述の内部の審級に、たまたま「作者」という署名が書き込まれた一連の文章が引用されているのにすぎないということだ。ということは、6章においては、「真の作者>語り手>引用された作者」という階層が形成されているわけだ。
 同じことは、76章についても言うことはできる(また、13章にも「作者」の署名自体は存在するが、これは誤解しようもないほどに「引用」であることが明らかなものだ)。……すると、この二つの章を除外して残るのは、14章、15章、16章、17章、18章、31章、41章、49章、73章、80章ということになる。
 ここに至って、私は、自分が正しい方向で真相に近づいてきていることを実感した。――全てが信用できない記述で構成された『挑戦者たち』において、「作者」を自称する者は十人いる。そう、これは、『そして誰もいなくなった』における死体の数と一致する。また、作品全体のエピグラフとしてエラリー・クイーンの『十日間の不思議』が引用されているのは、あの小説が、「十戒」をめぐる「十日間」の事件を描くものであったからだろう。
 ならば、自らこそは真の作者なりと偽装する十人の捏造された作者の中に、ただ一つの特異点として、真の作者である法月綸太郎自身が紛れ込んでいるはずである(もともと、「作者」の署名自体が偽装にすぎないのだから、「非作者」「作者(故人)」といった信用できない記述には大した意味がないことになるわけだ)。
 と言うか、そもそも、真の作者が作中のいずこかに「挑戦状」を通して直接介入している特異点がなければ、「作者説」が成立することはなく、「作者説」で読み解ける作品として『挑戦者たち』が成立しえないという、論理的な循環がある。
 ならば、この論理的循環を突破し特異点をあぶり出す手がかりは、作品の外部から法月自身によってメタ情報として与えられた「架空の本」の存在にあるのではあるまいか。
 いざそう考えて、十に上る「作者」の署名がある章と、九十九章の内の五十八章に付されている参考文献表を照らし合わせてみると……やはりと言うべきか、「捏造された作者」の挑戦状の大半には、参考文献が存在していないのである。これはやはり、捏造された作者であれば、作品の外部に実際に存在する書物を参照することもできなければ、小説の本文と参考文献との間を行き来することもできない、ということなのであろう。
 以上の操作によって「十人の作者」をふるいにかければ、参考文献とのつながりを持つ作者はわずか三人。17章と73章と80章である。ここまでくれば、調べるのはたやすいだろうと思い、実際に調べてみると……17章の「非作者」が参照しているのは、ソランジュ・マリオ『とどのつまりは何も無し』。聞いたことのある書名だけどなあ……と思いきや、よくよく考えてみれば、この題名、レムが架空の書物の書評集である『完全な真空』に書いていたヌーヴォー・ロマンのパロディだ。なるほど、「非作者」だからこそ、参照しているのは非実在の書物だってことか。


 ……というわけで、「プレミアム挑戦状」の解答自体には割とあっさりたどり着いてしまったのだが、実はこの時点では、謎はいまだ解決していないのである。
 というのも、私自身の当初の予想としては、「十人の作者」と参考文献表とを相互に参照すれば、作者は二人にまで絞り込まれるはずだと考えていたのだ。作者が二人であれば、「一冊は架空の本である」という「真の作者からのメタ情報」によって、唯一の「真の作者」を特定することができる。
 にもかかわらず、ここまでの推理では、「真の作者」の条件を備える者はいまだ二名おり、それ以上に絞り込む手がかりはない。……つまり、「プレミアム挑戦状」の謎を解くことは、実は『挑戦者たち』という小説においては、作品が内包する真の謎を解く以前の段階で解けてしまう、探偵に対して「偽の解決」を与えて安堵させる機能を持つ「偽りの謎」にすぎなかったのだ……(本当にエラリー・クイーンっぽくてあまりにもマニアックすぎると思うのだが、そう考えてみると、『十日間の不思議』がエピグラフに採用されていたことには、『挑戦者たち』の謎も二段構えであることも示唆されていたのかもしれない)。
 もちろん、私としては、「プレミアム挑戦状」の謎を解いただけの段階では、この正解を暴露する気は毛頭なかった。この謎を解いても解決しきれない残された謎をもさらに解ききったことによって初めて、この書物の謎を解ききったと言えると思うからだ。
 では、「プレミアム挑戦状」の謎を解いたことを足がかりにして、さらにこの書物の奥へと踏み込んでいくとどうなるのか。


 『挑戦者たち』を構成する九十九通の挑戦状において、「真の作者」による介入がある、その特異点はただ一つしか存在しないように思える。九十九通の挑戦状が全て異なる「語り手」によって語られているのならば、「作者」を兼ねることのできる「語り手」はただ一人でしかありえないからだ。……にもかかわらず、「プレミアム挑戦状」を解く過程で「真の作者」の手になる挑戦状として浮上したのは、73章と80章であり、この二つの差異をそれ以上見極めるための手がかりはない。
 実は、残された挑戦状が「二通」であることを理解するためには、この小説の構造を全く異なる側面から見なければならなかったのだ。……そのためには、78章「黄金比率」を読む必要がある。
 そこでは、探偵小説の「絶対領域」なるものについて、以下のような記述が見られるのだ。


 絶対領域とは、「読者への挑戦」が二度おこなわれる本格ミステリ作品において、「第一の挑戦状」と「第二の挑戦状」の間に存在する神秘的空間を意味するスラングである。(p154)


 しかし、単に前後の挑戦状にはさまれた、不安定で露出度の高い章があればいいというわけではない。ある実作者の見解によれば、「問題編:絶対領域:解決編」のページ数ごとの比率が「10:1:3.7」となるのが理想(絶対領域の黄金比率)で、この数字は『呪縛の家』からはじき出したものだという。直感的な俗説にすぎないとしても、この比率から大きくはずれた作品は、あまり高く評価されない傾向があるようだ。(p154~155)


 ……以上のような記述を見る限り、この「黄金比率」を『挑戦者たち』という小説そのものに自己言及的に適用すればよいように思える。しかし、この章には次のような記述もある。


また、挑戦が三回以上おこなわれる作品(代表的な作例として、有栖川有栖『双頭の悪魔』)に関しては、前記の黄金比率を大きく逸脱することから、絶対領域の許容範囲外と見なされることが多い。(p155)


 以上の記述ゆえに、九十九通の挑戦状よりなる『挑戦者たち』に「黄金比率」を適用することはできないと思えるかもしれない――しかし、これはミスリードなのである。46章において提唱された「作者説」に従う限り、任意の一通の挑戦状を読んでいるその時点において、挑戦状の前後はそれぞれが問題編と解決編として機能する。
 既に見てきたように、九十九通の挑戦状の位置づけは常に不確定なものであり、不断に「挑戦状」として機能するのではなく、その存在は「問題編」や「解決編」へところころと変動し続ける。したがって、各挑戦状を読むという読者の行為こそが「問題編」「挑戦状」「解決編」の位置づけをその都度定義するのであり、各挑戦状を読み進めるごとに、「問題編」と「解決編」の分量の比は変動し続ける。
 ということは、読者がある特定の挑戦状を読んでいるとき、『挑戦者たち』において「黄金比率」が成立する瞬間もある。そしてそのとき、『挑戦者たち』の作中に「絶対領域」が存在することになる。
 192ページぶんの本文よりなる『挑戦者たち』において「絶対領域」となりうるのは、おおまかな端数を四捨五入すれば、131ページの63章から、143ページの72章にあたる。ということは、「絶対領域」を出現させる「第一の挑戦状」は62章である――そして、そのとき出現する「第二の挑戦状」こそが、73章であるわけだ(そしてもちろん、73章に作者の署名がある以上、「作者説」が要求する条件も厳密に満たすことになる)。
 そう、よくよく考えてみれば、「一人の真の作者が存在する」ということは、何も「一通だけの本物の挑戦状が存在する」ことを意味するのではなかったのだ。真の作者は、「第一の挑戦状」と「第二の挑戦状」の双方を自らの手で書いている。
 では、なぜ、異なる観点から見たとき、真の作者による挑戦状は73章と80章であったのか。……このことは、73章において時の流れが逆転していることを思い出せば納得がいく。つまり、「絶対領域」の存在する位置が反転されたとき、146ページから158ページあたりまでが、そのおおよその領域となる。ということは、反転された時間における「第一の挑戦状」が80章であるということになるわけだ。
 ある一点を中心に回転することによって反転された形で存在する「絶対領域」の外延に存在するのが62章と80章なのであり、相互に分身関係にあるこの二つの章は、両者ともに「第一の挑戦状」である。そして、絶対領域の回転運動の中心点に不動の状態で鎮座する73章こそが、真の挑戦状としての「第二の挑戦状」である。
 ゆえに、73章に署名された「作者」の刻印こそが、真の作者としての法月綸太郎本人による署名にほかならないわけだ。


 ……以上をもって、『挑戦者たち』という小説の全体像はおおよそ明らかになったことと思う。とはいえ、まだ細かい問題はいくつか残っている。
 この小説における「挑戦状」が解けるものだというなら、では、犯人は誰なのか。犯人が本文のどこにも存在していなかった『うつろな穴のまわりに』の正反対だというのであれば、全てのページに偏在していることになるし、それと96章の記述を合わせて考えれば、犯人は「作者」「挑戦状そのもの」「読者」のいずれかということになるだろう。
 そして、99章の最後において語られる「真犯人はここに名前を挙げた人物の中にいる」という言葉を真に受けるのならば、「本書をお読みいただいた読者諸氏」しかありえない、ということになるのだろう。……まあこれは、的確に読むことによって、謎を謎として存在させることに成功させた読者、ということに限られるのかもしれないが。
 それから、くれぐれも書いておきたいのは、この『挑戦者たち』という小説は、単なる手すさびでも文体練習でも小ネタ帳でもないということだ。明確に全体像が厳密に構築されているし(だいたい、『挑戦者たち』への書評という形式を持つ97章において「『読者への挑戦』という針穴を通して、謎解き小説の全体像をあべこべに映し出す『カメラ・オブスクラ』的なメタフィクション」と自己言及的に述べられていることを、気にする人はいなかったのだろうか……)、単に部分部分を読むだけでは理解することのできない語りの構造が極めて高度に洗練された形で存在しているからだ。
 そして、実は私がもともとトーマス・ベルンハルトの『消去』を論じようとしていたことから逸れてこの小説について書いたことにも、そこに理由がある。もともと私がこの小説の内部を丹念に探ろうとする気になったのは、「法月綸太郎という作者ならこれくらいのことを書いているだろう」という事前の予測があったからだし、この作品にそうとは言われないままに仕掛けられた謎を解くことができたのは、作者本人によって作品の外部から提示されたメタ情報があったからだ。つまり、実はこの作品は、おそろしく精緻に構築されてはいるものの、作品が作品として自律することはできず、作者本人が存在するメタレヴェルへと続く穴を解消することができないことをさらけ出し、そのことを前提とした上で組み上げられている。……つまり、むしろこの作品は、法月綸太郎がそのキャリアで追求してきたことのど真ん中にある作品であるのだ。


 ……さて、一通り分析を終えてからは、そんなことを考えていたのだが……まあ、最初に「謎は全て解けた」というようなことを書いたが、正直なところ、細部で小ネタはまだいろいろ埋まっているんだろうなあ、とは思っていた。例えば、73章こそが真の作者の署名だとわかってから続けて74章を読むと、「法月綸太郎、最悪だ……」と思えるようにもなっていたりもするし。
 それで、以下に書くのは、作品の構造そのものではなくむしろ装飾にあたるようなことなのだが、とんでもないネタが埋め込まれているのを発見した事の次第だ。……まあ正直なところこのことに関しては、仮に作品の構造を全て解き明かしたところで、元ネタを知らなければ全くわからないようなことなので、誰もが見つけられるようなものではない。また、それについて詳しく書いても、元ネタを知らなければ、やはりよくわからないだろう。
 しかし、この文章は『挑戦者たち』の「解決編」を勝手に書くと決めて書き始めたものなので、作品の謎ではなく、密かに語られていたストーリーにも、その結末に至るまで書いてしまおうと思う。
 このことに気づいたきっかけとなったのは、一通り全体像を分析し終えた後で、改めて8章のポルナレフ(?)の言葉を読んでいたときのことだった。ポルナレフ(?)は、次のように言っていたのだった。


 真相を推理する前に
 言っておくッ!
 おれは今
 やつの論理のアクロバットを
 ほんのちょっぴりだが
 体験した

 い…いや…
 体験したというよりは
 まったく理解を
 超えていたのだが
 ………
 あ…ありのまま 今
 起こった事を話すぜ!

 『おれは 挑戦状の前で問題編を読んでいたと
 思ったら いつのまにか解決編を読んでいた』

 な…
 何を言っているのか
 わからねーと思うが
 おれも 何をされたのか
 わからなかった…

 頭がどうにかなりそうだった…
 叙述トリックだとかちゃぶ台返しだとか
 そんなチャチなもんじゃあ
 断じてねえ
 もっと恐ろしいものの片鱗を
 味わったぜ…(p24~25、傍点は省略)



 ……いざ改めてこの言葉を読んでみると、ポルナレフ(?)の発言はその場限りのネタでもなんでもなく、まさに作品全体の仕掛けを自己言及的に示していたことに気づかされる。……そう、問題編と解決編が不確定なままにすり替わるというのはまさに『挑戦者たち』という小説に仕掛けられたものなのであり、それは「叙述トリック」とも「ちゃぶ台返し」とも呼べるものではない。ポルナレフ(?)は、確かに、真相に肉薄していたのだ。
 それにしても……そうか、法月綸太郎ってDIO様だったのか……などと思ってみると……ん? ちょっと待てよ……法月綸太郎が真の作者として作中に降臨したのは73章。……しかし、46章の「作者説」では、物語を「中断」できるのは「語り手」であって「作者」にその能力はないとされていたのにもかかわらず、73章において作者は「時の流れを堰き止め」、作中に「止まった時間」を出現させていた……こ、これは……?


 「まさか…花京院……おまえの伝えたいことというのは…法月綸太郎のスタンドの謎をおまえは解いたのか?」
 「『時計をとめる』………?」
 「ま…まさかッ! そんなことが! 法月綸太郎の「ザ・ワールド」の正体というのはッ! 自作の内部に降臨し、作中の「時」を止める能力だったのかッ!」
 「………! こいつはやばすぎる! …やばすぎるスタンドじゃぞッ!」


 ……そう……九十九通の挑戦状のみからなる文章が、それでもなお全体として一つの小説になりえていたのは、73章に「真の作者」として降臨した、法月綸太郎がッ! そのスタンド能力「ザ・ワールド」を発動しッ! 作中に流れる「時」を止めていたからだったのだッ! これこそが、『挑戦者たち』の真相なのだァァァァァァァッッッ!!!


 (この文章を書いてから後日改めて『挑戦者たち』を読み返していたら気づいたことがあったので、ここで補足をば。46章で論じられる「作者説」なのだが、挑戦状が「作者」ではなく「語り手」によるものである場合、挑戦状の前後が分裂するのかについては解釈が割れているというのだ。……つまり、真の作者の署名によって初めて「問題編」と「解決編」が分裂するのなら、『挑戦者たち』の場合は、73章以外では分裂は起きない。すなわち、72章以前が「問題編」になり74章以降が「解決編」になるのは、73章の時点で一挙に起こる。また、「問題編」が「解決編」に、「解決編」が「問題編」に反転するのも、「ザ・ワールド」の発動とともに、作品全体に干渉して一挙に起こる。ポルナレフ(?)の発言を読む限り、どうもこのモデルの方が適切なように思えてきたのだが……まあ、最終的な結論は同じだし、何より、「作者説」には複数の解釈の間で議論があることが作中で明言されているので、ここまで書いてきたモデルも別に間違いではないのだが)


 「綸太郎様ッ! あなたは必ず時を支配できるッ! もっと! もっと! 静止した時の中を動けると思いなしゃれッ! 空気を吸って吐くことのように! HBの鉛筆をベキッ!とへし折る事と同じようにッ できて当然と思うことですじゃッ!」


 法月綸太郎、73章を書きながら、「『ザ・ワールド』ッ! 止まれいッ! 時よッ!」とか言ってたのか……ん? ちょっと待てよ……と、いうことは……今まさにッ! このッ! 文章を、書きつつある、このおれこそがッ! 空条承太郎だということかァァァァァッッッ!!!


 (法月先生、もしこの文章を読まれているようでしたら、このタイミングで「こともあろうに! ……一介の読者が………『我が………止まった時の世界に………………』入門してくるとは………………!!」と言ってくれるようお願い申し上げます)


 おれ「時は動き始めた」


 (法月先生、改めてこの文章を最初から読み返すようなことがあれば、私の推理におかしい道筋があるかチェックを入れたり、私が難渋しているところに行き当たるような場合、適宜「そこで承太郎! きさまが何秒動けようと関係のない処刑を思いついた……」とか「最高に「ハイ!」ってやつだアアアアアアハハハハハハハハハハーッ」とか「ロードローラーだッ!」などと言っていただけるとよろしいかと存じます。納得がいかれた場合は次に進んでください)
 

 「な……なんだ? 体のうごきがに…にぶいぞ」
 「ち…ちがう動きがにぶいのではない…う…動けんッ! ば…ばかな」


 おれが時を止めた……そして作中から脱出できた…やれやれだぜ…
 どんな気分だ? 自分の作中にいたはずが読者に背後に立たれる気分はよ?
 これからッ! てめーをやるのに! 五百文字もかからねーぜッ!
 オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ(法月先生、ここはもちろん、「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄……」ですよ!)


 (法月先生、「ば…ばかなッ! ………こ……この法月綸太郎が………この法月綸太郎がァァァァァァ~~~~~~~~~~ッ」で!)


 法月綸太郎…
 『ザ・ワールド』
 ――――――――完全敗北…死亡


 「これで終わったな……」
 「法月綸太郎にはみんなが貸していたのだよ」
 「二十八年前から大勢の人間が…あらゆるものを貸していたのだ」
 「わしらが煙に巻かれて失った時間はこの地球にも匹敵するほど大きい…しかし…彼らのおかげだ…彼らのおかげでわしらは生きているのじゃ…」
 「花京院! イギー! アヴドゥル! 終わったよ……」


 てめーの敗因は…たったひとつだぜ……法月綸太郎…たったひとつの単純な答えだ………
 『てめーはおれを怒らせた』


                    法月綸太郎『挑戦者たち』 完











散文と身体性について――トーマス・ベルンハルト『ある子供』(下)

 トーマス・ベルンハルトの小説に慣れ親しんだ読者が『ある子供』を一読すると、そもそもの冒頭において展開される一群の描写に、鮮烈な印象を持つと同時に強烈な違和感をも覚えることになるだろう。そこには、例えば、次のような言葉が書き込まれているのだ。


 八歳のとき、私は、後見人が所有する古いシュタイア製自転車に初めて乗った。後見人はこのとき従軍してポーランドにおり、ドイツ軍兵士として、今まさにロシアに侵攻しようとしてるところであった。私は、トラウンシュタインの町の私たちが間借りしている建物の下の路地、タウベンマルクトで、小さな町のお昼どきらしく人通りの途絶えた中、生まれて初めて自転車を漕ぎ、あたりをひと回りしたのだ。自分にとってすこぶる新しいこの芸当が面白くて、まもなく私は、タウベンマルクトからシャウムブルガー通りを抜け、シュタット広場へ自転車を走らせると、教区教会のまわりを二、三周したあと、向こう見ずな、取り返しのつかない決心をした。(『ある子供』、今井敦訳、p5)


生まれて初めて自転車を見た瞬間から、乗ってみたくて仕方なかった。自転車乗りという、選りすぐりの階級に憧れた。それが今や、自分もその一人だ。この芸当を教えてくれる人は誰もいなかったから、長いことただ憧れるばかりだった。少し罪悪感はあったけれど、誰に許可を請うこともなく、後見人の高価なシュタイア製自転車を玄関からひっぱり出し、どう扱ったらいいのかよく考えもせず、ペダルを踏んで、いきなり走り出した。転ばなかったら、乗った瞬間にはもう勝ち誇った気分だった。私は、あたりを数回まわっただけで降りてしまうような、そういう子供ではなかった。ひとたび何か始めたら、とことんまでやった。ひとこと断っておくべき人に、何にも言わず、自転車で風を切り、愉悦に気持ちを膨らませ、シュタット広場を離れると、ついには「緑野」と呼ばれるところに出て、ひらけた自然の中を、ザルツブルクへと車輪を回したまだ背が低過ぎてサドルにまたがることができなかったから、ほかの小さい初心者と同じく、フレームに片足を通してペダルを踏んだのではあったが、みるみるスピードを上げた。ずっと下り坂が続いたことも愉悦を大きくした。(同、p6、ルビは省略)


 『ある子供』の冒頭において展開されるのは、幼き日のベルンハルト自身が自転車に初めて乗った日の顛末である……そこで展開される子供の運動とその失敗からくる痛みの鮮烈さは、ほとんど、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』を思い起こさせるようなものですらある。
 そして、まさにそのことこそが、ベルンハルトの小説の通常のあり方と比較したときの強烈なコントラストをなしているわけだ。ベルンハルトの小説においては、あまりにも饒舌な呪詛の言葉の尽きることなき奔流こそが、作品の全体を覆い尽くす。結果として、作中において、情念にとらわれた言葉とは無縁に純粋な運動が展開されるようなことは、ほとんどありえない。ベルンハルトの小説の登場人物は、饒舌にしゃべり倒し、この世界の愚劣さを呪い、嘲り、俗物を嫌悪し、それを述べる自分自身の自己欺瞞にすら言及するが、その身体を動かすことだけはほとんどしない。ベルンハルトの登場人物がなすのは、やむにやまれぬ必要に迫られて、その身体の位置を鈍重に移動させることだけなのであり、身体が言葉のくびきから解放されて純粋に運動するようなことはない。
 そんなベルンハルトの小説に慣れ親しんだ上で『ある子供』を一読したときに感じる違和感とは……要するに、子供の身体は、いまだ言葉によって汚染されてはいない、ということなのではなかろうか。
 ベルンハルトの小説においては、しばしば、様々な異なる階層に属するはずの言葉が連続する文章の中で複雑に入り組み、時制はあちこちにいったりきたりする。では、なぜそのようなことが可能になっているのかと言えば……強烈な自我を持った話者が、過去を回想する形態が強固に守られているからだ。つまり、一見するとバラバラであるはずの言葉の群れを一つの総体としてかろうじてつなぎ止めているのは、過去のいかなる時間を切り出してみても、共通してこの世界に対する強烈な呪詛を放つ主体があるからだ。その言葉を発する主体がこの世を呪い続けているからこそ、異なるときに異なる状況で異なる場所で発せられたバラバラの言葉の群れにも、絶対的な共通点は常にあり、いつでもどのようにでも連結しうる。
 だからこそ、『ある子供』における幼年時代の回想が、ベルンハルトの作品としては非常に例外的なものであるわけだ。そこで回想される幼い主体は、この世界に対する絶え間なき呪いを唱え続けてなどいない。そこにはただ、言葉の意味にとらわれていない、純粋な運動があるーーわずかにそこに添えられる言葉は、その運動そのものがもたらす、躍動する身体の快楽を、ごく素朴に表明するものでしかない。……これはつまり、ベルンハルト的な小説のスタイルが完成するために必要であったのは、言葉を発する主体が、連続する時の流れの中で同一性を保っていることだった、ということだろう。主体の人格、その身体と言葉の切り結ぶ関係が変容したとき、ベルンハルト的なスタイルは切り崩される。つまり、「幼年時代の回想」というモティーフには、ベルンハルトの作品の破れ目が顕在化する契機がある。


 『ある子供』のテクストを綴る主体である話者、現在時のベルンハルト自身は、もちろん、そのような存在ではない。幼きベルンハルトの、いまだ言葉に覆い尽くされてはいない世界の有り様は、現在時の話者のフィルターを通すことによってしか作品になりえない。だから、子供の目に映る素朴な世界の言語化が、成人したベルンハルトによってなされる、結果として、読者が読み進める言葉は、既に主人公の子供が目にしたものとは異なるものになってしまっているはずであるーーしかし、それでもなお、言葉と身体との関係が、従来のベルンハルトのスタイルが維持できないまでに揺さぶりをかけられていることも事実である。
 長い時が経過する中で、世界に対する強烈な呪いを抱き続け、同時に知識を蓄え続けることによって巧みに言語を操る術を獲得した主体こそがベルンハルトの小説の話者であるからこそ、練り上げられた言語を持たず身体性が素朴に剥き出しになっている子供の世界は、ベルンハルト的主体が認識する世界の破れ目となる。……一方で、『ある子供』という小説においては、幼きベルンハルトに多大な影響を与えた祖父が大きな役割を果たす。無名の小説家であり、高度な知識を蓄え巧みに言葉を操る術を持ちつつ、この世にあふれる俗物性を忌み嫌う祖父は、例えば次のように語ってみせる。


アナーキストは、この世の薬味だ、と祖父は何度も言った。ことあるごとに祖父が言うこの台詞も、私を恍惚とさせた。むろん、この言葉を完全に、つまり、意味のすべてを私が理解できたのは、だいぶ時間がたってのことだった。私にとって、トラウン川に架かる鉄道橋は最高のものだった。とてつもなく大きな怪物を見上げるように、私は、この鉄道橋を見上げた。それは、私が生涯どう係わっていいのか分からなかった神よりも、もちろん、ずっと大きな怪物だった。だからこそ、この最高のものをどうやったら崩壊させられるか、いつも思案していたのだ。祖父は、橋を崩壊させるためのあらゆる方法を教えてくれた。火薬さえあれば、何でも好きなように破壊できる。いいか、わしは頭の中では毎日あらゆるものを壊しているぞ。頭の中では、毎日、いつなんどきでも、すべてを破壊し、崩壊させ、消し去ることができるのだ、と祖父は言った。祖父にとって、この考えこそがもっとも素晴らしい考えであった。私も、この考えを自分のものにして、生涯ずっとこれと戯れてきた。殺したいとき殺す。壊したいとき壊す。消し去りたいとき、消し去るのだ。だが、頭の中で考えたことは、頭の中で考えたことに過ぎん、と、祖父は言って、パイプに火を点した。(同、p18)


 ベルンハルトの小説に慣れ親しんだ読者であれば、ここで祖父が語る言葉は、『消去』の話者が滔々と語ってみせる考えに余りにも似ていることに、否応なしに気づかされる。そして、そのような考えが胚胎した主体とは――もちろん、その身体から躍動する運動性を奪われた、老人のそれであったわけだ。
 つまり、『ある子供』という小説には、言葉と身体とが切り結ぶ関係、それによって表現される言葉のあり方の、両極が示されているのだ。言葉を持たぬがゆえに何の意味なく運動そのものを目的として躍動する主体と、運動を停止しひたすら言葉をその内にため込むことと吐き出すこととを果てしなく続ける主体。言葉と身体とは、その両極で揺れ動くーー従来のベルンハルトの作品であれば、絶え間なく吐き出され続ける呪詛の言葉こそが、果てしのなく終わりのない、それ以上に変容しようのない閉じて閉塞しきった作品世界を構成しているように思えた。しかし、『ある子供』が示しているのは、幼い主体と老いた主体とは、ちょっとしたきっかけでたやすく変わりうるということだ。……例えば、ベルンハルトの一家の生活状況が変わり引っ越すことにもなり、少し余裕が生まれたという程度のことで、祖父の身には次のような変化が起きることになる。


ウィーンを去ったのは間違いではなかった。祖父は息を吹き返した。ヴェルンハルト通りでは年がら年中、多かれ少なかれいつも書斎に座っていたいわゆる精神の人が、ここへ来て、疲れを知らぬ散策者となった。この散策者は、これまで誰もなしえなかったほどに、散歩というものを高尚な、他のすべての芸術に比肩する芸術へと高めた。(同、p66)


 果てしなく呪いの言葉を吐き出し続ける老人のあり方は、その実、生活状況が改善され優雅に散歩する習慣が身につく程度のことで、たやすく変わりうる。……ここには、ベルンハルトの作品世界のあり方の裏側が恥ずかしげもなく暴露されており、ユーモラスでさえある。
 ……しかし、ここで、注意してみなければならないことがある。ベルンハルトは、『ある子供』を書き上げ自伝小説を第五部まで完成させた、その上でこそ『消去』を執筆したのであり、その逆ではなかったということだ。『ある子供』という小説は、ベルンハルトのスタイルの内幕を自ら暴露しているかに見える……むしろ、その後でなお『消去』のような小説を書きうることの方こそが、驚くべきことなのではあるまいか。
 ……と、いうようなことを考えていたので、『ある子供』を読んで考えた以上のようなことをふまえた上で改めてその視点から『消去』を読み直し、少し腰を据えて論じてみたい。











散文と身体性について――トーマス・ベルンハルト『ある子供』(上)

 トーマス・ベルンハルトの小説『ある子供』を、今井敦による邦訳で読んだ。この小説は、ベルンハルトが自分の幼年時代の回想を題材として書いた五作の自伝的小説の中でも一番最後に発表されたものであるのだが、しかし時系列で言うと最も幼い頃のことを扱っているという、なかなか特殊な位置にある作品だ。この一作だけを読むと、ベルンハルトの作品としてはほんの小品であってなかなか物足りなくもあるので、やはり、残りの四作も邦訳して欲しい……とはいえ、この作品だけでも、ベルンハルトの諸作を読み解いていく上で重要と思われることが書き込まれているのであった。


 ところで、実際に『ある子供』がどのように書かれていたのかを確認する前に、ベルンハルトという作家の重要性がどこにあるのかを軽く確認してみたい。……というのも、ベルンハルトの小説を一読しさえすればそれが凄まじい作品であることは明らかであるのだが、それと同時に、なぜそれが凄いのかを明確に分析することを拒むような類の凄さがそこにあるからだ。
 私自身の感覚としては、おおよそ現代に至るまでの文学史の中で小説の技術がどのように発展し、何が問題となり、結果としてどのような技術が現れてきたのかということはほぼ完全に把握し解析ができている。結果として、ある小説の技術的達成の度合いがどの程度のものであり、どの程度の評価を下すことができ、なおかつダメならダメでどこがどのようにダメなのかを逐一分析的に記述しつつ具体的に示すことができる。……にもかかわらず、なぜそれが凄いのかという技術的分析を完璧に拒む異様な作家が存在する――それが、ルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネなのであり、このような作家に連なるのがトーマス・ベルンハルトであるように思えるのだ。
 ところで、比較的最近、このことに関しては「全く何も語らないこと」こそが最善だとみなして、そのようにしてきた出来事があったのだが……さすがにそろそろ少しだけ言及しておきたいと思う。……というのも、まさにセリーヌやジュネやベルンハルトの異様なテクストと完全に対極にあるものと私には思える、蓮實重彦とかいう無名の小説家に手になる『伯爵夫人』という作品が発表され、ちょっとした話題になっていたからだ。
 既に小説家としていくつかの仕事を上梓してはいながらも、特に目立った業績を残しているわけでもない蓮實の小説がスムーズに出版され著名な文学賞の候補になったことについては、小説家としての業績とは全く無関係な部分での出版業界との人間関係なりがあったようだ。とはいえ、それは小説の内容はおろか蓮實の小説家としてのキャリアにも完全に無関係なので、全くどうでもいい、本来ならいっさいふれるべきですらない話だ。
 私自身は、文学賞の候補になったりする以前、文芸誌に掲載された時点で当の『伯爵夫人』を読み始めたものの、その惨憺たる内容に呆れ果て、半ばほどで読み進めることを放棄したのであった。
 とはいえ、これは、『伯爵夫人』という小説が完全に無価値であることを意味しない。むしろ、ある程度の価値が担保されてしまっているということにこそ、この小説のタチの悪さがあるのだ。……『伯爵夫人』という作品を構成する言語を技術的に分析する限り、どこがどのようになりどのようなことがなされどの程度の技術的水準にあるのかということは、どの点から見てもそこそこ高い評価を下さざるをえない。しかし、そこで駆使されている技術は、既存の文学研究において提出された技術面での理論的言説において、既に明確に定式化されているようなことばかりなのである。ここにあるのは既知の技術の組み合わせでしかなく、小説家としての蓮實重彦自身の取り組みによって従来の理論的研究からはみ出した部分は、全くない(とりあえず、私が読んだ前半までの範疇では)。
 言ってみれば、これはリヴァース・エンジニアリング小説とでもいうべきものであって、文学研究・文学理論の成果をそのまま適用しさえすれば誰にでも書けるはずのものなのである。その意味では、プロの書き手でも批評家・研究者の類でも、この小説から学べることは何一つない。『伯爵夫人』より低水準の小説しか書けない実作者などというものは単に不勉強でトレーニングが足りないのだからプロ失格だし、批評家・研究者がこの小説の読解を通して新たに生み出しえる知見などというものも存在しない。
 にもかかわらず、ここに何か語るべきことがあるかのように振る舞ってあれやこれやの論外の駄弁を労する連中の醜態を鼻で笑っていたりもしたのだが、さすがにこんな茶番が文学の名の元に行なわれるのはあんまりなのではないかとも思い、『伯爵夫人』を最後まで読み切ってその技術的成り立ちを全て明確に示した上で「この小説に何か取り立てて語るべきことがあるかのように考えている者は、全員、単なる馬鹿である」という結論に至る文章を書こうかなどとも考えたりしたのだが、後半を読むのは完全に時間の無駄であろうと判断して結局やめておいたのであった。
 そんなことがあるうち、なんだかこの小説が文学賞の候補になって大きな話題になりつつあったのだが、そんな中、ただ一人、この小説に関して非常に的確であり私にも妥当であると思える評価を下した人物がいた。これまでも、それなりに信頼に足る業績を積み上げてきており、その仕事にも一定の評価を下している批評家……そう、蓮實重彦である。この小説に対して述べる機会がなぜかあった批評家・蓮實重彦は、この程度の作品であれば文学研究者であれば大した労力もかけずに誰でも書ける程度のものでしかなく取り立てて価値もないことを、辛辣ながらも的確に評していたのであった。……いやー蓮實先生、やっぱりさすがですね~。


 さて、やや脱線が長くなってしまったが、セリーヌやジュネやベルンハルトの手になる小説は、文学研究のリヴァース・エンジニアリングによって完全に説明がついてしまい正当な手続きさえ踏めば誰にでも構築できてしまうようなしょうもない小説とは、まさに対極にあるものである。
 既存の文学理論の方法論なりそこで積み上げられた分析方法なりをセリーヌなりジュネなりベルンハルトなりに適用してみて明らかになるのは、むしろ、なぜそのような文章をそのように長大に書き連ね連結することによって長篇小説を構成することができるのか、全く理解不能であるということだろう。
 むしろ、セリーヌやジュネの場合、純粋に技術的な見地からのみ見ると、そこにそれまでの文学史で登場していなかった高度な達成があるとも思えない。にもかかわらず、作品全体としては、高度な達成がなされていると評価せざるをえない。……以上のような、明確な分析を拒む異様な散文を改めて丁寧に読み続けることによって私が改めて実感するようになったのは、セリーヌとジュネがあれだけの分量を持つ長篇小説を平然と何作も書くことができたのは、全くわけがわからないということだ。
 セリーヌとジュネの諸作を構成する言葉を一文一文の単位にまで分解して個別に読んでいけば、そこに書かれている文意そのものが不明瞭であるようなこと自体はそれほど多いわけではない。では、彼らの小説の何が異様であるのかと言えば……彼らが書くような文章は、通常の神経の持ち主であれば、あれだけ長大な量を一つの作品というフレームの枠組みの内に束ねることなど到底できないであろう、ということだ。常識的な思考で言えば、本来なら単一の作品としてひとまとまりになることなどありえないはずのセンテンスの集合体が、一個人の執筆作業によって単一の作品としてまとめられ、結果としてその全体が単一の散文になっていることがそもそもありえないはずである、ということだ。
 では、なぜ、セリーヌやジュネには、まとまるはずのない無数のセンテンスを一つの散文としてまとめあげることが可能であったのだろうか。……それは、結局のところ、作品そのものの内部の純粋な分析だけでは説明がつかず、それぞれのセンテンスを結びつけて作品を織り上げる主体、すなわちセリーヌとジュネの精神そのものが常軌を逸しているということによってしか説明がつかないのではないか。……これが正しいのであれば、セリーヌとジュネの作品はそもそもテクスト論の前提を踏み越えているのだからテクスト論によって分析することはそもそも不可能であるのは当然であるということになるわけだし、また、両者がともに、自分自身が直接経験したことを元にしてしか小説は書かなかったこともまた、当然であるということになる。……言い換えれば、セリーヌとジュネの小説が無数のセンテンスのありえないような形での集合体として一つの作品になるためには、作品そのものから作者自身の身体性を消去することができないからないのではないか、ということだ。そして、そこに刻印されている身体性、そこに残留している作者の精神性が、既存の文学理論が暗黙の前提としている、作者なり話者なりの主体の想定されうる通常のあり方をから大幅に逸脱している……。
 もちろん、セリーヌとジュネのなしたことは、それぞれが全く異なる……しかし、両者の作品の分析を拒む異様なあり方に以上のような共通点を見つけることができるのであれば、トーマス・ベルンハルトの小説が、その問題の延長上にあるのは確かなことだと言えるように思うのだ。


 純粋に技術的な観点から見た場合、ベルンハルトの作品を構成する言語は、セリーヌとジュネよりも明らかに洗練されたものになりえている。これは逆に言えば、ほとんどありえないことのように見えた異様な連結をしたセンテンスの群れとしての散文を、なんとか分析するための手がかりが与えられたということでもあるように思える。
 ベルンハルトの小説においては、しばしば、極めて複雑に入り組み錯綜した話法が用いられる。話者が何かを語っている現在時と語られている過去の時点との内容が交錯し、異なる登場人物の、異なる時点での、作中でも異なる水準に存在するはずの発言の境界が取り払われてあっさりと乗り越えられ、同一平面上にあるものとして無造作に並べられる。
 明らかに異なる階層に属するはずの無数のセンテンスがフラットに並べられてしまうことによって、通常の精神による通常の発話によってはありえないはずのセンテンスの連なりが実現する。このとき、それぞれのセンテンスが一つの作品に属するものとして単一のフレームの枠内に収めうるのは、作者(もしくは話者)という単一の主体によって統御されているという事実によってかろうじてつなぎ止められていることでしかない。その意味では、ベルンハルトの小説においては全てのセンテンスは一つのものとして連結されていると言うこともできるし、逆に、全てのセンテンスがそれぞれバラバラに孤立していると言うこともできる。
 だから、ベルンハルトの小説において段落わけが存在しないのは、そのあり方からして絶対的に必要不可欠な要請であるわけだ。段落わけが存在するということは、いくつかのセンテンスが結びついて一つのネットワークを形成しているということになり、それぞれの段落の内部におけるそれぞれのセンテンスの相互の意味の結びつきは、異なる段落に属するセンテンスとよりも強固に結びついているということになり、無数のセンテンスの集合体の中で、整理された階層化が生じてしまう。そのとき、ベルンハルトの散文の核心にあるものは消滅してしまうだろう。


 ……以上のように考えてみると、自伝的小説がベルンハルトのキャリアを検討する上で非常に重要であることは当然であるように思える……のみならず、『ある子供』という作品の場合には、それ以上の重要性がある。というのも、ベルンハルト自身が明らかに異なる身体性を持っていた幼年時代を成人の段階から回想すること、また、精神的な先達として大きな影響を受けていた祖父が重要な登場人物として書き込まれているからだ。結果として、身体と言語との関わりが、話者としてのベルンハルト自身のあり方が作品のあり方を大筋で決定しつつも、貧弱な言語と激しい運動に振り切った幼年時代と、蓄積し饒舌に淀んだ言語と貧弱な運動の老年時代との、それぞれの限界に振り切った極点の狭間で激しく揺れ動くことになるからだ。
 ……などということを考えていたのだけれど、実際に『ある子供』の内容の読解に入る前に既にだいぶ文章を書いてしまったので、続きは改めて別のエントリを立てることにする。……しかしあれですな、文学賞を受賞する際にスキャンダラスな騒ぎを起こして話題を振りまいたことが実際に書物を手に取るきっかけになるのならば、それこそ、より巨大なスキャンダルを巻き起こしたベルンハルトの書物を手に取った方がいいっちゅーことになると思うんですよなあ。











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