Latest Entries

芸術家であることと芸術家でないこと  ジョン・カサヴェテス論

 ジョン・カサヴェテスの映画を見る経験は、何ものにも代え難い。カサヴェテスの映画を良いとも言いたくないし、悪いとも言いたくない。面白いとも言いたくなければ、面白くないとも言いたくない。美しいとも言いたくなければ、美しくないとも言いたくない。
 ジョン・カサヴェテスの映画は、そのような単純な判断から隔絶したところにある。スクリーンの向こうに写っている映像が、単に自分の外部にある別の世界だとは思えない。そこにあるのは自分自身の魂の延長である、自分の人生の一部である。自分の人生を振り返り距離を置いて反省しつつある時ならともかく、今まさに生きられている自分の人生は、良くも悪くもなく、面白くも面白くなくもなく、美しくも美しくなくもない。それは単に、生きられている。
 だがもちろん、それでは何も言ったことにならない。私は、カサヴェテスの映画の価値は分析不可能であるなどと言いたいのではない。言葉にできないほど素晴らしいなどと言いたいのではない。むしろ、カサヴェテスの映画についてとめどもなく饒舌に語りたい。そこにある何もかもを語り尽くしたい。カサヴェテスの映画が凡百の映画とは異なる――いや、およそありとあらゆる映画から隔絶した唯一の映画であるということが、誰の目にも明らかになるまでに説得的に論じたい。……言い換えれば、それは、カサヴェテスの映画について述べる私自身の言葉が読まれるということが、カサヴェテスの映画を見ることによって私の内に引き起こされた感情と同等のものを再現しうるものにまでならなければならないということだ。
 とはいえ、映画を見終えた後で改めてどれほど言葉を積み重ねようとも、実際に映画を見る行為との距離はどこまでも離れてゆくばかりだ。あのどこまでも不可思議な、作品そのものとの一体感は失われる。新たに積み上げられた言葉の全ては、作品との間にある距離を確認することにしかならない。
 私はなにも、映画について述べられてきた従来の映画批評なり映画理論なりを否定したいのではない。もちろんそれらは有効である。とりわけ映画という分野は、様々な要素が複合して織り成されているのだから、全ての要素を同等の水準で一人の人間が把握するのは非常に難しい。映像はいかに撮影され、どのように照明がなされるのか。脚本はいかにして書かれ、俳優はいかにそれを解釈して演技をなすのか。音響はいかにして作品に奉仕するのか。撮影された映像はいかにして編集され、最終的な作品が構成されるのか。
 ただ一本の映画だけについてさえ、様々な分野の専門家が自分の見地からなす様々な発言は多種多様であり、常に学ぶべきことがある。そして、それらを真摯に受け止めた上でなされる、優れた映画批評や映画理論の成果もまた、存在する。……しかし、それでもなお、ことカサヴェテスの映画に関しては、部分部分の技術論だけでは何も語ったことにはならないとしか思えなくもある。
 カサヴェテスの映画を構成する様々な要素を分解する。各ショットの成り立ちについて分析する、ショットを組み合わせる編集について分析する。ショット内での空間の構成について記述し、人物の動きを追い、そこでなされるアクションと演技との関連について考察する。……もちろん、その作業をすることによって初めて、作品のそれまで気づけなかった側面に気づくということはある。……しかし、そんな論理的な分析を積み上げれば積み上げるほど、カサヴェテスの映画の核心からは離れるばかりだという思いが強まっていくのは、いったいどういうことなのか。
 だが、その思いは、カサヴェテスの映画について分析を放棄したいということではない。論理的に分析をし実証する言葉を積み上げる行為が、どこまでも作品から離れるばかりだという思いを抱き続けながらも、全く同時に、作品について述べ尽くしたい、理解しきりたいという衝動もまた、どこまでも強まる。
 ジョン・カサヴェテスの映画について具体的に検討することをなんらなしていない現段階で、私は既に一つの確信を得ている。……そのような思いを人に抱かせる作品こそが、芸術と呼ばれるべきものであるのだと。そして、芸術の経験の内にありつつ、自分の足どころが不確かなままに、そのことを誤魔化すことなく、作品と対峙する行為こそが批評なのだと。
 私は、自分の力の及ぶ限り、ジョン・カサヴェテスの映画とはいかなるものであるのかを論じよう。だがそれと同時に、あらかじめ予告しておこう。議論が進む過程で、どのような発見が得られようとも、新たな認識に到達しようとも……それら全ては、カサヴェテスの映画と対峙する経験を確認するためになされるものだ。
 だから、どのような道を辿ろうとも……最終的に私が戻ってくるのは、今まさにいるのと全く同じ、この場所である。


 私は芸術家なのだと、ジョン・カサヴェテスは言う。
 その言葉をごく皮相にとらえる限り、カサヴェテスの作品は非常に語りやすい。……ハリウッド映画の製作システムに反逆し、インディペンデント作家として活動した男。製作資金を監督自身が調達してまで監督された映画。従来の方法論から大幅に逸脱した演出、俳優たち自身の即興を中心として成り立つ演技。
 カサヴェテスの映画を語るための手がかりは至る所にある。その意味では、これほど語りやすい、批評の対象としやすい監督も滅多にいないとすら言いうるかもしれない。例えば、カサヴェテスの代表作の一本たる『こわれゆく女』もまた、そのような映画である。
 前作たる『ミニー&モスコウィッツ』の時点で既にハリウッドの大手会社との軋轢が強くなっていたカサヴェテスは、自宅を抵当に入れてまでして資金の半分を調達する。残りの半分は、主演男優たるピーター・フォークが『刑事コロンボ』のギャラから支払うことになる。常識的な発想を持つ撮影スタッフとの衝突。撮影のまっただ中でのスタッフの追放。手持ちキャメラを自らまわす監督。映画の完成後も、公開の目処が立たない状況。そんな中での、映画祭での成功。にもかかわらず見つからない配給先。映画館と直接話をつけてなされる、完全な自主配給。自主配給の映画にもかかわらず、アカデミー賞に監督賞と主演女優賞でノミネートされる。自身が監督した『アリスの恋』の主演女優エレン・バースティンが受賞しジーナ・ローランズを破ってしまった事実に狼狽し、泣き始めるマーティン・スコセッシ……。
 『こわれゆく女』という一本の映画をめぐる状況は、あまりにも劇的だ。傑出した「芸術家」によるこの映画に関して語りうることは無数にある。……しかし、作品をめぐる状況をどれほど物語化してみたところで――部分部分の技術的分析についてそう思えたのと全く同じく――この映画から自分が受け取った印象からはどこまでもかけ離れていくという思いだけがつのる。
 その周囲を取り巻く状況があまりにも劇的なものであり、極めて独創的なインディペンデント作家の代表作と見なされているのにもかかわらず、実際に『こわれゆく女』の作中で描かれているのは、ごくありきたりの平凡な出来事でしかない。工事現場で監督を勤める肉体労働者のニック・ロンゲッティは、妻のメイベルと三人の子供たちとともに暮らしている。メイベルは、精神的に不安定な状況にある。『こわれゆく女』という映画が語る物語は、主にこの家族の内で起きる、あくまでも家族の問題としての小さな短期間の出来事にすぎない。
 メイベルの精神の失調が限界を超え精神病院に入院することになり、ニックが三人の子供たちと暮らすことになった時、映画は「六ヶ月後」の字幕によってその間の出来事を省略する。そして、メイベルが退院し自宅に戻ってくる日の出来事は、いっさいの省略がなく、そこで起きた出来事を全て描くことによって映画が成立する。
 『こわれゆく女』という映画を見直すたびに、この最後の四十分ほどの場面において、私はいつも奇妙な感覚にとらわれる。既に述べたように、この場面にはいっさいの時間的省略がない。その意味で、映画内の時間は鑑賞者の現実の時間と完全に同期するという意味でのリアルタイムのはずである。しかし、いざ映画が終わってみると、この最後の四十分ほどの時間は、あたかも時間そのものが完全に消失でもしていたかのような感覚に陥るのだ。
 半年ぶりの妻の帰宅を祝うためにサプライズ・パーティを企画したニックは、仕事仲間を初めとする大勢の友人・知人を招待し、自宅の内はすし詰めの喧噪状態となる。精神病院から退院するメイベルにそのような刺激を与えようとする行為に呆れた近親者はニックを説得し、招待された人々に帰ってもらう。喧噪がひけ静寂に移行しつつある中、メイベルの帰宅が重なり、帰りつつある招待客の幾人かにつかまり、応対することを強いられてしまう。やがて、改めて近親者のみの小さなホームパーティが開かれ、どうやらメイベルにも平均的な主婦としてそつのない振る舞いができているように見えるが、徐々にメイベルの安定状態は崩れ初め、やがて、身内の中での修羅場が延々と展開されることになっていく……。
 作中で描かれるニックとメイベルの四十分は、映画を見る者にとっての四十分と全く同じである。にもかかわらず、この四十分は、なぜ時間が消失でもしてしまったかのように感じられるのか。
 もちろん、その一つとして、映画の最後の四十分にありったけの出来事が詰め込まれているからということもあるだろう。寝室の準備を整え一日を終わらせる日常の作業に回帰するニックとメイベルの二人だけの空間、その静寂の中で映画が終わるとき、作中の時間でも現実の時間でもわずか四十分前に存在していたパーティの喧噪ははるか彼方のものとなってしまっていること、その間にあまりにも多くの出来事が起きたこと、それらのもたらすギャップによって、一連の出来事が完全に一つながりのこととして起きたなどとは到底実感がわかないほどに、一つの場所で起こる一つの場面が巨大なものになってしまっている。
 あるいは、映画における時間の処理に関する技術の問題も、ここにはあるだろう。なるほど、作中の四十分の時間がそのまま現実の四十分の時間と重なっており、作品を進行させていく過程で時間の流れを調整するような技法は全く何も使われていない。そしてまさに、その種の技法が使われていないということこそが、「映画を見ている時間」に逆説的に失調をもたらすということは考えられる。
 一本の映画が語る物語の内部で進行する時間は、その上映時間よりは長いものとなることがふつうである。二時間の映画がきっかり二時間の物語を語ることはあまりない。多くの出来事を決められた時間の内部で語りきるために、描かれる出来事は省略され、時間は飛び飛びになり、場面をまたぐ時間の省略はフェードアウトやディゾルヴなどの技法によって表現され、時間の前後関係を整頓して物語に見通しを立てるためにフラッシュバックやフラッシュフォワードが用いられる。
 ハリウッドで確立した古典的な映画の文法で語られる映画に習熟した鑑賞者は、そのようにしてなめらかに整理されつつ要所要所が巧みに省略されて構成された、フィクションとしての論理に則った時間を「自然な」もしくは「リアルな」ものと感じさえすることになる。……だからこそ、撮影した映像をリアルタイムで発生した順番で単純につなげていくだけで、何一つ編集上の時間処理の技法を用いていない『こわれゆく女』の終盤の場面が、かえって時間が失調した感覚を呼び起こしてもおかしくはないということになる。
 だが、作中の時間がそのようなものになっている映画は、なにも『こわれゆく女』に限られるわけではない。アルフレッド・ヒッチコックの『ロープ』やアレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』などになると、作中の全ての内容をワンカットで撮り上げてすらいる。
 厳密に言うと、『ロープ』の場合は、製作当時の技術的な制約から、完全なワンカットを実現することはできなかったため、表面上は観客にそう見せているというだけの「疑似的なワンカット」にとどまっている。しかし、作中の時間と上映時間との関係という意味では、それが作品全体で見ても完全に重なる、という映画になっているのである。……既に私は、ある映画の作中の時間は上映時間よりは長いのが「ふつうである」とは述べたが、逆に言えば、映画史をひもといてみればその種の映画はぽつぽつとではあるが製作されてきたということも事実ではあるのだ。……だが、それらの映画のいずれを見てみても、『こわれゆく女』の終盤で私が感じたような感覚が呼び起こされるようなことはなかった。
 奇妙に歪んだ時間の感覚と言えば、『旅芸人の記録』を初めとするテオ・アンゲロプロスの映画を引き合いに出すことはできるかもしれない。しかし、アンゲロプロスの映画における特異な時間のあり方は、逆に、高度な技術的な達成の成果として全て説明できるものだ。なぜ作中に特異な時間感覚が導入されるのかと言えば、一本の映画の内に、各個人の生活の時間と、ギリシャの政治的状況の変容に基づく歴史的な時間とが同時に描かれ、同じ場面で交錯することが企まれているからだ。個人の時間と歴史の時間が同居するために、カットされていない一つのショットの内部だけで、時間の扱いが変化するような、極めて複雑な操作がしばしばなされている。
 それはそれで非常に優れた映画であるわけだが、これに比べると、単に個人の小さな生活とその周辺を描き出しつつ、編集の面で特異なことなど何もしていない『こわれゆく女』という映画に時間の変容の感覚があるというのは、極めて不可解なことだ。
 もちろん、これは、あくまでも私の個人的な感覚である。映画の時間処理の技術の観点から見ても、そこに何かの秘密があるようには思えない。ならば、そんな感覚などというものはただ私一人だけが感じているということも十分にありうるわけだ。
 映画館で映画を見るときに、他の観客がその時ごとに何を感じているのかなどということはわからない。実際、私がこれまで映画館で映画を見てきた中でも最も不愉快であったことの一つは、他ならぬ『こわれゆく女』を見ているときにあった。それほど人で埋まっていたわけでもない劇場で、観客の中にいた一人の男が、精神に失調をきたしつつあるメイベルが奇矯な振る舞いをするたびに、声を出して笑い続けていたのだ。
 たとえ全く同じ時間に同じ場所で同じ映画を見ていようとも、苦しみに満ちた中でもなんとか生き延びようともがくメイベルの表面上の奇妙さが「笑うべきもの」と思えるような観客とは、私は何一つ共有する感覚はない。……だが、逆に言えば、『こわれゆく女』という映画を見て奇妙な時間の失調の感覚に襲われている私の方こそが、他の誰一人として感じていない感覚にとらわれているという可能性もあるということでもある。
 あるいは、一つの場面に、鑑賞者が一望して把握できないほどに詰め込まれた内容の巨大さということが、カントの美学で言うところの「崇高」の概念を実現していると言えるのかもしれない。しかし、やはりその説明も私の感覚からすると納得がいくものでもないし、何より、その説明はむしろジャック・タチの『プレイタイム』のような映画にこそうまく当てはまるようにも思える。
 『こわれゆく女』という映画に存在しているのは、一つの逆説である。その終盤にあるのは、なんら特殊なことなどない、現実がそのまま再現されているだけの通常の時間である……しかし、それと同時に、そこでは時間の概念そのものが失われている。
 この逆説は、ただこの私のみが感じている逆説であるのにすぎないのかもしれない、にもかかわらず、この逆説がそこに存在していることを私は信じる。……ならば、その徹底して個人的・主観的なものにすぎないのかもしれない体験は、いかにして語りうるのか。


 私は、ここで、ジョン・カサヴェテスの映画そのものを論じることから大幅に飛躍し、全く異なる文脈を導き入れようと思う。……というのも、既に述べたような逆説に関して参照しうるような議論を考え抜いた人物は、私の知る限り、映画と全く無関係なところまで含めてもただの一人しか存在していないからだ。
 どこからどう見ても明確な矛盾、巨大な逆説を逆説のままに信じるためには、通常の言葉による通常の理解が全く及ばないということ――そのことを徹底して考え抜いた希有の存在が、セーレン・キルケゴールである。
 神であると同時に人であるイエス・キリストは、一つの逆説である。では、逆説を逆説のままに信じるとは、いかなることなのか。あるいは、逆説を逆説のままに伝達するとはいかなることなのか。「人はキリストについて、歴史から何事かを知り得るか」という自ら立てた問いに自ら答えて、キルケゴールは次のように書く。


  否、知り得ない。それはなぜか。それは、「キリスト」については、一般に何事も「知り」得ないからである。彼は逆理(パラドクス)であり、信仰の対象である。彼は「信仰」にとってのみ、そこに在す。ところが、一切の歴史的伝達は、「知識」の伝達である。従って歴史からは、キリストについて何事も知り得ない。(『キリスト教の修練』、新教出版社版、井上良雄訳、p.30)


 あるいは、次のようにも書く。


一人の人間が神であるというようなことを、証明しようなどという矛盾よりも馬鹿げた矛盾が、一体考え得るであろうか。(同、p.31、傍点は省略)


「証明する」ということは、言うまでもなく或る事物を、それがその姿である理性的・現実的なものに変ずるということである。ところで、このような一切の理性に逆らうものを、理性的・現実的なものに変じ得るであろうか。そのようなことは、もし人が自己矛盾に陥るまいと思うならば、思いもよらぬことである。人が証明し得るのは、ただそれが理性に逆らう、ということだけである。(同、p.31)


 矛盾を理性によって認識することはできず、逆説を歴史的な知識として伝達することはできない。言われてみれば、それは当然のことだ。……しかし、キルケゴールの議論は、ゆえにキリストを信じることなどできないなどということに帰結するのではない。通常の理性、通常の認識、通常の言語によっては補足不可能な逆説を、それでも信じるということ、キリスト者になるということは、キルケゴールにとってはいかなることなのか。


  すなわち、神と人間との間には、無限に裂けた区別が存している。従って、キリスト者になるということは(神との相似性にまで、作り変えられるということは)、人間的に言えば、最大の人間的な呻吟と苦痛よりももっと大きな呻吟と苦痛であり、またさらに、同時代人の眼には一つの犯罪であるということが、同時性の状況においては明らかにされる。そしてこのことは、「キリスト者になる」ということが、「キリストと同時的になる」ということと同じ意味になる場合、常に明らかにされることである。そして、この「キリスト者になる」ということが、このような意味に達しない場合には、キリスト者になるということについての、これらすべての饒舌は、痴けであり、妄想であり、空虚であり、また神冒瀆であり、律法の第二誡に対する罪であり、最後に、聖霊に対する罪である。
  なぜなら、絶対的なるものとの関係においては、ただ一つの時間――すなわち、現在があるのみであるからである。絶対的なるものと同時的でない者――そのような人にとっては、絶対的なる者は全く存在せぬのである。そして、キリストは絶対的なる存在であり給うゆえに、彼に対する関係においては、ただ一つの状況――すなわち、同時性の状況があるのみであるということは、見易い道理である。三百年、七百年、千五百年、千八百年は、それから減じもせねば、それに加えもせぬ。(同、p.82~84)



 歴史的知識の伝達という経験によっては記述できない逆説をそれでも信じるということは、その対象がどれだけ離れた存在であろうとも、同時的であること、対象とともにただ一つの「現在」の中で生きることなのだと、キルケゴールは言う。


  歴史については、君は、それを過去のもののように、読みまた聞くことができる。歴史においては、もし望むならば、君はそれをその結末によって判断することもできる。しかし、地上におけるキリストの生は、なんら過去のものではない。それは当時(千八百年前)にあっても、結末の助けを待ち望んではいなかったし、また今もそのような助けを待ち望むものではない。歴史的キリスト教とは妄語であり、非キリスト教的錯乱である。なぜなら、各時代に生きている真のキリスト者は、キリストと同時的であって、それ以前の時代と何の関係もないが、同時的なるキリストとは、あらゆる関係を持つ。地上におけるキリストの生は、全人類と共に歩み、しかも永遠の歴史として、特定の個々の民族と共に歩む。地上における彼の生は、永遠の同時性を持っているのである。(同、p.84~85)


これに反して、世界は進歩するというあのおしゃべり――それによって人が同胞と自分自身におもねるあのおしゃべりは、虚偽なのである。なぜと言って、世界は、進歩もしなければ、退歩もしない。それは根本的に同一のままである。ちょうど海のように、また空気のように――つまりは一つの元素のように。すなわち世界は元素であり、また元素でなければならない。この世界においては常に戦闘の教会の一員であるキリスト者たるべしということを験すに適した元素であり、また元素でなければならない。これが真理である。(同、p.291)


 逆説を逆説のままに信じるということは、対象との同時性を生きるということであり、そこには現在という時間しか存在しない。以上のようなキルケゴールの議論は、私が『こわれゆく女』という映画に感じる時間を失調させる感覚をうまく説明しうるように思える。
 しかし、注意しなければならないことがある。既に引用した『キリスト教の修練』は、キルケゴールの著作の中でもそれほど読まれていないものであるのだが、そのこと自体が、なかなかに問題含みのことであるのだ。
 一八四八年、キルケゴールは、キリスト教に関する自分の思考を練り上げる著作を執筆したとされている。しかし、翌一八四九年に出版した『死に至る病』は、その原稿の前半部分のみでしかなかった。既存の教会に対する厳しい批判をも含むゆえに出版が躊躇されたとも言われる後半部分は、一八五〇年になってようやく、『キリスト教の修練』として出版された。
 つまり、『死に至る病』と『キリスト教の修練』とは、もともとはひとまとまりの著作なのである。にもかかわらず、この二つの著作の扱われ方はかなり異なるものとなっている。
 日本語での出版という状況だけを見てみても、『死に至る病』は何度も繰り返し別人の手によって翻訳され、異なる出版社から異なる版で出版され、手に取りやすい文庫本で流通していることも多い。それに比べれば、『キリスト教の修練』は翻訳されること自体が数少ないことでしかない。……これは、言い換えれば、キルケゴールの読者と言っても、『死に至る病』は読んでも『キリスト教の修練』は読まないことの方が圧倒的に多いということだ。
 『死に至る病』と『キリスト教の修練』とがもともとひとまとまりの著作だったことを考えれば、これは奇妙な状況である。……では、逆に、なぜ『死に至る病』は読まれるのかと言えば、この著作を単独のものとして読む限りでは、キリスト教以外の問題にも転用できるようにも思えるからだろう。
 『死に至る病』においてキルケゴールが論じるのは、人間が陥っている絶望のさまざまなあり方である。そして、人間がどのような状況においても絶望することしかありえないことが網羅的に論じられたその後だからこそ、『キリスト教の修練』に移行し、信仰の必要性を説くことにつなげることができるわけだ。
 『キリスト教の修練』にあるのは、純粋にキリスト教の内部の問題だからこそ、より広い文脈での読解も可能な『死に至る病』よりも広く読まれた――なるほど、それもまた、一つの答えではあるだろう。しかし私には、『キリスト教の修練』がそれほど読まれていない原因は、それのみにとどまるとも思えないのだ。
 キルケゴールの著作は、キリスト教の問題にとどまらず、その後の哲学史の多くの領域で参照され、キルケゴール自身とは異なる文脈の議論にも転用されてきた。……しかし、『キリスト教の修練』を最後まで通読すれば、キルケゴール自身がそんなことを許すはずもないことは明らかなのだ。
 イエス・キリストを題材として芸術作品を制作するとは、キルケゴールにとってはいかなることだったのか。……『キリスト教の修練』の末尾に近い部分で、キルケゴールは次のように書いている。


キリストを描こうとして、或いは彼の姿を彫刻しようとして、画筆を絵具に浸したり、鑿を取り上げたりすることが、私にできるだろうか。(言いかえれば、そういうことに服し得るだろうか。そういうことをする気になれるだろうか)。そういうことが私にできないということ(言いかえれば、私が芸術家でないということ)は、事の本質に関することではない。私が問うのはただ、私にそういうことができるという前提が仮りにあるとしても、そういうことが私にできるかどうかということである。そして、それに対して、私は、否、そういうことは自分には絶対に不可能だと答える。もちろん私は、そう言ったからといって、それで自分の感じたことを表現したなどとは考えない。なぜかと言えば、そういうことがどうして人には可能であったか分からないほどに、私にはそういうことが不可能だからである。人殺しが坐って、彼がそれで他の人を殺そうと思っているナイフを磨いでいられる、そういう平静さが自分には分からないと、人々は言う。そういうことは、私にも分からない。しかし芸術家がどこから平静さを得たかということも、私には実際分からない。或いは芸術家が、キリストが描かれることを望み給うかどうかと言うことも考えずに――たとえそれがどのように理想的に、彼の手腕によって描かれるにしても、御自身の肖像を望み給うかどうかということも考えずに、年々歳々キリストを描く仕事に孜々として従事してきたということも、私には分からない。芸術家がキリストの不興に気づかないということが、私には分からない。キリストはただ「信従者」だけを求め給うたのだということ――また、キリストがこの世では枕するところもなく、貧しさと卑賤の中に生き給い、従ってみずから他の境遇を望み給いつつ、運命の過酷さの中を生き抜き給うたのは、偶然ではなく、むしろ永遠の決定に従う自由な選択によるものだということ――また、キリストは御自身の死後に誰か一人の人間が御自身を描くことで時間を失い、おそらく祝福をも失うというようなことを、ほとんど望み給わなかったし、また望んでも居給わないということ――これらのことを突然に理解して、芸術家が突然すべてのものを放棄しないということ、(ちょうどユダが銀三十を投げ棄てたように)画筆や絵具を遠く放棄しないということが、私には分からない。そういうことは、私には不可解である。私が描こうと思うその瞬間に、画筆は私の手から落ちるであろう。そしておそらく、それ以上生き存えることもなかったであろう。私には、そういう仕事に従事している時の、芸術家の平静さというものが分からない。宗教の与える宗教的印象に対する無感覚にも似た、また恐ろしい我儘の残酷な快楽にも似た、この芸術的無関心が分からない。それはちょうど、あの暴君が、拷問を受ける人々の悲鳴から、快い響きの楽しみを味わったのに似ている。すなわちこの暴君にとっては、彼らの悲鳴は彼の残酷さを満足させることによって、全く別のものを意味したのである。芸術家は無関心に、最初淫楽の女神を描き、それから十字架につけられた方を描く。彼は第一の絵も、第二の絵と同じように夢中で描いたのである。今これら二つの絵は、美しい調和をなして並んで掛かっている。このようにして、人々は聖なるものと交わるのである。しかもこの芸術家は、自分自身を讃美している。そしてすべての者も彼を讃美している。この絵を鑑賞する人は、それが成功しているかどうか、傑作かどうか、色調の変化や陰影が正しいかどうか、血が血らしく見えるかどうか、苦悩の表情が真実かどうか、とかいう風に、この絵を美術通として眺めるのである。しかし彼はそこに、信従への要請を見出さない。真の苦悩であったもの、実に聖なるものの真の苦悩であったものを、芸術家はほとんど金や讃美に変えてしまったのである。それはちょうど、俳優が乞食の役をして、ほんとうの貧乏こそ当然受けるにふさわしい同情を獲得し、人々が本当の貧乏に対しては、冷酷な態度で尻込みして、やがては、貧乏はこの俳優の演技に較べれば虚偽だと思うに至るのに似ている。そうだ。そういうことが、私には分からない。もう一度言おう。そういうことは私には分からない。それはおそらく芸術家が、そういうことが聖なるものに対する犯罪だということを、一度も思いついたことがないからである。そして私には、そのことはさらに一層不可解なことである。しかしそれゆえにこそ、私は不正を犯さぬために、あらゆる批評を差し控える。(同、p.322~324)


 私は芸術家であるのだと、ジョン・カサヴェテスは言う。
 カサヴェテスが自作の中でキルケゴールの著作から直接引用したことがあったわけではない。私が知る限りでは、キルケゴールに関して何らかのことを語ったという記録もない。したがって、カサヴェテスはおそらくはキルケゴールを読んではいなかったと考えておく方がいいのだろう。……しかし、仮にカサヴェテスがキルケゴールを読んでいたところで、事態は何も変わりはしなかっただろう。
 カサヴェテスがキルケゴールの著作を読み込んだところで、芸術家として「とつぜん全てを放棄」するなどということはありえなかっただろう。しかしそれは、カサヴェテスがキルケゴールの言葉を真に受けはしないだろうなどということではない。
 なるほど、世の中で芸術家と呼ばれる人々の大多数は、キルケゴールが非難するような存在であるだろう。しかし、キリストに限らずいかなる対象を取り上げるのであれ、あらゆる芸術家が常に「芸術家の平静さ」や「芸術的無関心」とともにあるなどとは、カサヴェテスは認めなかっただろう。
 カサヴェテスが、自分は芸術家であるとわざわざ述べるのは、どのような時なのか。マーシャル・ファインによるカサヴェテスの評伝'Accidental Genius: How John Cassavetes Invented The American Independent Film'によれば、『こわれゆく女』の配給を苦労しつつも全て自分たちの手で直接やり終えた後で、カサヴェテスは次のように述べたという。


  「こんな映画をもう一度作れるなどとは私には思えない。あまりに難しすぎる。今の私の望みは、この映画が極度の成功を収めることだけだ。そして、もしそうはならないのなら、私は他の映画は作らない――それまでだよ。そのこと自体は、大した悲劇だというわけでもない。」
  彼が劇作家のミード・ロバーツに語ったように、「私は芸術家だ、いまいましいセールスマンなんかじゃあない」ということなのだ。(Accidental Genius: How John Cassavetes Invented The American Independent Film, 拙訳、p.307)



 なるほど、これは、ごく一般的な認識としての「芸術家」の姿から何も逸脱しないイメージであるだろう。……しかし、いざ実際に映画を撮影しているまさにその渦中においては、カサヴェテスは、例えば次のように述べるのだ。


  ローラ・ジョンスンは、撮影現場でのカサヴェテスのお気に入りの言葉の思い出について語ってくれた。「さあ、正視するんだ」と、カサヴェテスは言ったものだった、「我々はみな、芸術家になろうと取り組んでいる中産階級の一味でしかないのさ」と。(同、p.348)


 ジョン・カサヴェテスは芸術家であるのか、それとも、芸術家になろうとし続けただけの人物だったのか。ここには、「芸術家」とはいかなる存在なのかについての揺れ動きがある。
 さらに言えば、カサヴェテスが他人の映画に関して「芸術」という言葉を使うときには、一般的な理解とはさらに異なる齟齬が見られる。カサヴェテスが他の監督の映画に俳優としても出演し続けたのは、自身が製作する映画の資金を調達するためだったのだが、そうは言いつつも、映画製作の方針について意見が合致するのは、ドン・シーゲルでありロバート・オルドリッチなのであった――つまり、世間一般の認識では「娯楽映画の職人監督」と見なされていた人物こそ、カサヴェテスが評価する映画監督であったのだ。
 『フェイシズ』の製作中、カサヴェテスは、オルドリッチの戦争映画『特攻大作戦』と、ロマン・ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』に出演している。その両作品に関して、カサヴェテスは次のように述べている。


  カサヴェテス自身はと言えば、ハリウッド向けのグラン・ギニョールを創造するためにポランスキーは映画監督としての前途有望な芸術的なキャリアを売り渡したのだと考えていた。
  「(ポランスキーの初期作品には)意味があり独創的にして情熱的な、そんな躍動を見出すことができる」と、カサヴェテスは述べた。「彼が芸術家であるという事実には議論の余地はないが、『ローズマリーの赤ちゃん』は芸術ではないとも言わなければならないだろうね。私の考えでは、『特攻大作戦』の方が、その作品なりに芸術的であるんだ、というのも、あの作品はやむにやまれぬ衝動とともに前進し、成り行きがわかりきっているような方法をあらかじめ定めておくこともなしに、特定の瞬間から何ものかを産みだそうと試みているからだ」(同、p.173)



 映画配給の金勘定をしなければならない状況においては自分は芸術家なのだと躊躇なく述べるカサヴェテスは、作品を制作するその渦中においては、芸術家になろうとしているだけだと述べる。誰もが芸術だと認める映画を芸術ではないと断言する一方で、職人監督による戦争映画を芸術だと断言する。
 カサヴェテスにとって、芸術とはいったいなんなのか。


 キルケゴールは、いかなる対象を取り上げても「平静さ」「無関心」を保てる芸術家の態度を非難する。しかし一方で、自らが芸術家であるのだと述べるカサヴェテスの中では、「芸術」という言葉の定義さえもがはっきりと定めることすらできず揺れ動いている。
 私には、芸術に関するキルケゴールの激越な怒りをなかったことにしてやり過ごすことはできない。なるほど、世の中に存在する大半の芸術にはキルケゴールの非難が当てはまるだろう。しかし、キルケゴールの怒りを受け止めつつもそれでもなお放棄することができないものこそが真の芸術であるのだと私は言いたい。そして、キルケゴールが「あらゆる批評を差し控える」、まさにその地点から始めらなければならないものこそが批評であるのだとも言いたい。
 キルケゴールに反駁するためにできることとは、キリストを題材としながら、それでもなお「平静さ」にも「無関心さ」にもいっさい陥ることなく、技巧におぼれることも全くないままにキルケゴール本人ですら認めたであろうような芸術を提示することだろう。
 映画において、時間を消失するかのような感覚を私が覚えた唯一無二の存在がカサヴェテスであるのだとは既に書いた。……しかし、映画ではなく小説においては、ただ一人だけ、同様の経験をした作家が存在する。そしてその作家は、キルケゴールと同時代に生きながらもキルケゴールを知らなかった者、そして、キルケゴールを一読するや激しく肯定していたに違いなかったはずの人物である。
 フョードル・ドストエフスキーの五大長篇の一つ『白痴』は、作家自身の言葉によれば、無条件に美しい人間を描くために書かれた小説である。そしてまた、現実世界でのただ一人の無条件に美しい人間とは、キリストのことであるのだという。
 キリストを題材として芸術をなそうとするドストエフスキーの態度は、キルケゴールからは全面的に否定されるはずのものだ。実際、ドストエフスキーは、キリストを題材とした絵画についての言及を作中に盛り込みすらする。……だが、「無条件に美しい人物」であることを目指されたムイシュキン公爵が、ホルバインの絵の模写を眺めたことを述懐する言葉は、以下のようなものだ。


ぼくがそのあと、自分でドアに鍵をかけようとして立ちあがったとき、ふと一枚の絵が脳裏に浮んだ。それはさきほどロゴージン家で見てきたもので、そのいちばん陰気くさい広間の扉の上にかかっていたものである。通りがかりに、彼がみずから指さしてくれたのであった。ぼくは五分間ばかり、その前にじっと立っていたような気がする。その絵は芸術的に見て、すこしもいいところはなかったが、しかし何かしら奇妙な不安を、ぼくの心の中に呼びさました。
  その絵には、たったいま十字架からおろされたばかりのキリストの姿が描かれていた。画家がキリストを描く場合には、十字架にかけられているのも、十字架からおろされたのも、ふつうその顔に異常な美しさの翳を添えるのが一般的であるように思われる。画家たちはキリストが最も恐ろしい苦痛を受けているときでも、その美しさをとどめておこうと努めている。ところが、ロゴージンの家にある絵には、そのような美しさなどこれっぽっちもないのだ。これは十字架にのぼるまでにも、限りない苦しみをなめ、傷や拷問や番人の鞭を受け、十字架を負って歩き、十字架のもとに倒れたときには愚民どもの笞を耐えしのんだあげく、最後に六時間におよぶ(少なくとも、ぼくの計算ではそれくらいになる)十字架の苦しみに耐えた、一個の人間の赤裸々な死体である。いや、たしかに、たったいま十字架からおろされたばかりの、まだ生きた温かみを多分に保っている人間の顔である。まだどの部分も硬直していないから、その顔にはいまなお死者の感じている苦痛の色が、浮んでいるようである(この点は画家によって巧みに表現されている)。そのかわり、その顔はすこしの容赦もなく描かれてある。そこにはただ自然があるばかりである。まったく、たとえどんな人であろうとも、あのような苦しみをなめたあとでは、きっとあんなふうになるにちがいない。キリストの受難は譬喩的なものではなく、現実のものであり、したがって、彼の肉体もまた十字架の上で自然の法則に十分かつ完全に服従させられたのだと、キリスト教会では初期のころから決定していることを、ぼくは知っている。この絵の顔は鞭の打擲でおそろしく打ちくだかれ、ものすごい血みどろな青痣でふくれあがり、目を見開いたままで、瞳はやぶにらみになっている。その大きく開かれた白眼はなんだか死人らしい、ガラス玉のような光を放っていた。ところが、不思議なことに、この責めさいなまれた人間の死体を見ていると、ある一風変った興味ある疑問が浮んできた。もしかりにこれとちょうど同じような死体を(いや、それはかならずやこれと同じようだったにちがいない)、キリストのすべての弟子や、未来のおもだった使徒たちや、キリストに従って十字架のそばに立っていた女たちや、その他すべて彼を信じ崇拝した人たちが見たとしたら、こんな死体を眼の前にしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか? という疑問である。もし死というものがこんなにも恐ろしく、また自然の法則がこんなにも強いものならば、どうしてそれに打ちかつことができるだろう、という考えがひとりでに浮んでくるはずである。(『白痴』、木村浩訳、新潮文庫版(下)p.160~161、傍点は省略)



 ムイシュキン公爵の回想に、それを作品として書くドストエフスキーの内に、そしてまた、ここで言及されるホルバインがキリストの死体を描く行為の内に、果たして本当に、キルケゴールが言うところの「芸術家の平静さ」や「芸術家的無感動」などというものが存在したのだろうか。
 注意しなければならないのは、ムイシュキンはホルバインの模写について「芸術的に見て、すこしもいいところはなかった」とまで述べていることだ。つまり、ムイシュキンは、そしてそれを描くドストエフスキーは、通常の芸術の通常の意味での美しさの基準では「最も美しい人物」に到達し得ないことを認めた上で、それとは異なる芸術としてホルバインを提示し、自らの小説もまたそのようなものとして組織しているということだ。明らかに、ここで用いられている「美しさ」や「芸術」という言葉の意味は多義的なものであり、キルケゴールがしたように一義的に弾劾できるものではない。
 通常の意味での芸術と、自分が目指すものとしての芸術の違いについては、ドストエフスキーは、『未成年』の結末近くにおいても率直に書き込んでいる。


それは労して功なき仕事で、美しい形式に欠けています。のみならず、これらの典型はいずれにしても、まだ流動せる現在の現象であり、したがって芸術的完成みを有しえないのです。重大な誤謬もありうることですし、誇張も見落としも十分にありうるのです。とまれかくまれ、多くの事柄を洞察しなければなりません。とはいうものの、ただ歴史体の小説のみを書くことを欲しないで、流動せる現在に対する悩みにとらわれた作家は、いったいどうしたらよいか? それはただ推察することです……そして誤ることです。(『未成年』、米川正夫訳、岩波文庫版(下)p.447)


 「歴史体の小説」を放棄し、「芸術的完成み」を持つことのできない作家がとらわれた、「流動する現在」――これは、キルケゴールが述べていたキリストとの「同時性」と、全く同じことではないか。ただ一つの違いはと言えば、ドストエフスキーは、それもまた「芸術」の範疇に含まれると考えているということだ。
 ドストエフスキーにせよ、カサヴェテスにせよ、世間一般の常識がそうであると見なす芸術とは全く異なることを自分がなしていることを自覚しながら、そして、自分のなすことが確固たる完成形には到達し得ない状況で揺れ動き続けながら、それでもなお、それこそが芸術であるのだと信じている。
 だから、私は、自分は芸術家であるのだと見なすドストエフスキーやカサヴェテスと、自分は芸術家ではないのだと見なすキルケゴールの間に、絶対的な境界線などというものを引きたくはない。「芸術家であること」と「芸術家でないこと」とは、「あれか/これか」のどちらかを選択しなければならないことではない。一見すると正反対であるその言葉は実は同じことである……だから、通常の意味での芸術を排撃せずにはいられない激越な怒りに満たされたキルケゴールの言葉は、それもまた、一つの芸術であるのだ。
 理性を行使することによって伝達することのできる歴史的な知識を放棄し、対象への無関心によって可能になる美しい形式による芸術的な完成度を打ち捨てる――そして、ただ対象との同時代性の内にのみ生きるとき、そこでは通常の意味での時間は消失するだろう。
 では、時間が消失する経験とは、具体的にはいかなることなのか。そして、なぜその経験こそが芸術であると言えるのか。最後に問われるべきなのは、そのことである。


 キルケゴールが芸術家のあり方を厳しく批判しなければならなかったことには、キルケゴール自身が置かれていた文脈の問題もある。それは、キルケゴールに大きな影響を与えたドイツ・ロマン派やヘーゲルに対していかにして批判的立場を取りうるかということだったはずだ。
 例えば、キルケゴールは、芸術における「天才」とキリスト教における「使徒」との間の厳密な区別を論じたことがある(「天才と使徒との相違について」)。芸術的な「天才」と宗教的な「使徒」とは、いずれも、世界に存在する矛盾を縫合する存在である――しかし、一般社会の中で芸術に関する矛盾を解消する機能を持つ「天才」と、イエス・キリストの逆説を保持し続ける「使徒」とは決定的に異なるのだと、キルケゴールは述べる。……もちろん、キルケゴールがそのようなことを論じなければなかったのは、芸術家こそが世界の矛盾を統合する存在であるとする議論があったからであり――あるいは、イエス・キリストの存在を合理的な体系の内部に整合的に位置づけるような議論があったからだ。それこそがドイツ・ロマン派やヘーゲルがなしたことであったのだが、ここでは、そこよりさらに遡行し、その基底にあるはずの問題を見てみたい。
 ドイツ・ロマン派にせよヘーゲルにせよ、カントの批判哲学を批判的に継承することこそがその出発点であった。そして、カントによる三批判書、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』は、大ざっぱに言うならば、「真ー偽」「善ー悪」「美ー醜」に関する認識をそれぞれ自律的な別の領域の問題として確立したのだと言える。
 ある意味では、ヨーロッパが主導で形成された近代というシステム、そのシステムの内部で生きる主体の標準的なモデルを確立したのがカントの批判哲学なのであった。そして、そのように考えてみると、カントの批判哲学に内在する問題点は、単に哲学の内部の問題にとどまることではなく、より巨大な文脈に接続しうるものではないかとも思える。
 人間がいかにして「真ー偽」「善ー悪」の認識に理性を行使しまたいかなるところにその限界があるのかについて、カントの議論は整合性のある体系を確立している。しかし、「美ー醜」の判断、芸術的な趣味の判断に関する『判断力批判』の議論にだけは、矛盾や混乱がそのままに内包されているのだ。
 美しさに関する趣味判断は個人の主観から出発するものとしてしかありえない、にもかかわらず、そこで下される趣味判断は普遍的な同意を要求する。カントのそのような議論は言われてみればもっともなことではあるが、この矛盾が解消しうるものであるとも思えない。……あるいは、芸術において行使される技術は「自然」を模倣することを目指すものだが、「自然」とは何なのかといえば、人為的な技術の入る余地のないもののことである。したがって、自然の美しさを模倣し再現する美しい芸術などというものは、存在自体が矛盾したものであるということになる。
 以上のような問題がなぜ存在するのかを、異なる角度から考えてみることはできないだろうか。……つまり、近代というシステムの内部に存在する主体の標準的なモデルを確立しようとするとき、形式化しきれない矛盾・混沌が集中して奔出してしまう領域こそが芸術に他ならないのだ、と。
 カントの批判哲学には、あからさまなまでに、体系化・形式化しきれない混沌が投げ出されている――この矛盾を解消し、完璧に整合的な体系を生み出すことに向かったのがドイツ・ロマン派でありヘーゲルであるのだった。とりわけドイツ・ロマン派においては、完璧に整合的な、統合されロマン化された世界を生み出しうる特権的な存在が芸術家であったことは、以上のような文脈において理解できることだろう。そして、『判断力批判』におけるカントの時点で、芸術制作における矛盾を解消しうる存在として既に「天才」の概念は用いられていたのだった。
 しかし――改めて考えてみれば、その矛盾は解消しうるのかどうかを云々する以前のことがあるように思える。……そもそも、その矛盾はなぜ解消しなければならないのか。自分たちがその内部に生きるため、完璧に整合的な体系を求めるなどということは、本当に必要なことなのか。
 現在においては、「近代」の概念はむしろ評判が悪く、批判されることの方が多いようなものだ。なるほど、それは虚構にすぎないのかもしれない、どこまでいっても未完のプロジェクトであるしかないものなのかもしれない。そして、それを虚構だと言おうが未完だと言おうが、ここで私が書いてきたことと本質的な違いはないだろう。近代というシステムの標準的なモデルはその根幹部分に混乱を備えているがゆえに、失調した部分や機能不全の部分を排除することはできない。
 近代というシステムの機能不全は、本質的に排除できない。しかし「近代」は現に我々の周囲を取り巻いており、それとともに生きるしかない。そして、そんなシステムの欠陥が噴出した時にその場をともにすることのできるものこそが、芸術であるということだ。


 何のために自分がそこにいるのかわからない。目指すべき目的や目標があるのかわからない。何かの行動をしてみても、その帰結がわからない。自分にいかなる影響を及ぼすのかわからない。それが良いことだったのか悪いことだったのかもわからない。
 そのような逡巡を経験したことのない者は幸いである。近代というシステムが正常に機能しているその渦中にのみ身を置く限り、そんな混乱を経験することはない。しかし同時に、この混乱を近代社会から根本的に廃絶することも、原理的にできない。
 なるほど、卓越した芸術作品を創造する芸術家は「天才」であるのかもしれない。しかしそれは、その人物を、既に芸術作品が創造されてしまった事後の視点から見た時にのみ用いられる言葉だ。芸術作品を創造する渦中にある者は、逡巡とともに生きるしかない。
 社会の矛盾を解消し統合する存在としての芸術的な「天才」というドイツ・ロマン派の理念に反発したキルケゴールは、逆説を保持し続ける存在を「使徒」と呼んだ。しかし、私は、キルケゴールにとっての「使徒」こそが、芸術家のことであるのだと言おう。
 自分のなす表現は正しいのか。それをある方法で修正するとして、それはいかなる効果をもたらすのか。新たな技術を学び異なる段階に進もうとしたところで、それは本当に前進なのか。踏み出した一歩が正しい方向に向かっているのかわからない。前進なのか後退なのかもわからない。だからと言って、その場に停止することもできない……
 そのような場所に居続けるということこそが、芸術家であるということだ。逡巡し続けることによって明確な基準を失う、無時間的な場所。……「救いのないこと自体が救いである」という坂口安吾の言葉をふまえて言うならば、答えのないこと自体が答えである。


 ジョン・カサヴェテスという男は、芸術家としてのみ生き、芸術家として死んだ。
 ひとたび芸術家になった者が、その後もずっと芸術家であり続けるわけではない。むしろ、そのようなことの方が稀なのであろう。しかしカサヴェテスの場合は、最後まで芸術家としてのみ生き、芸術家として死んだ。……近代において芸術の経験を生きる者にとって、社会のシステムの内部に流れる時間が失調するなどという経験は、むしろ当たり前のことと見なさなければなかったのだろう。
 だから、カサヴェテスの映画を見るときに時間が消失するのは、何も『こわれゆく女』の終盤に限った話ではなかったのだ。例えば、新しくできたガールフレンドの家族に会いに行った若い男が、その見た目から白人だとばかり思っていたガールフレンドの家族を目にして黒人との混血だと気づいて狼狽し、その場に居合わせた全員が凍り付くのを目にしたとき……平凡な日常が続いていたはずが何の前兆もないままに夫から唐突に離婚を言い渡された主婦が不倫に走った翌朝に、衝動的に自殺しようとするのを目にしたとき……享楽的に生きる作家が別々に暮らしてきた息子と新たな絆を築きこそしたものの全てが遅すぎたことに気づき、停止したタクシーから降りることもできずにその場で沈黙するしかなかったとき……その全ての経験で、時間などというものは消失していたのだ。
 我々は誰もが、近代というシステムの内部で、正常に運行している世界を目にし、規則正しく流れる時間とともに生きている。しかし、ひとたびその気になりさえすれば――そのシステムに空いた穴、原理的に解消できない欠陥をなかったことにするのをよしとしなければ――時間の感覚など、いつでも消失させることができる。
 ドストエフスキーの小説を評して、プルーストは、その全小説が『罪と罰』という一つの題名になりうると書いた。それをふまえて言えば、カサヴェテスの映画の総体に一つの題名をつけるとすれば、それを『ラヴ・ストリームス』とする以外のことは考えられない。
 だから、カサヴェテスの映画、それを見るときに感じざるをえない不可解な経験までをも記述することを試みる私の文章は、それ自身もまた『ラヴ・ストリームス』と冠することもできる文章でなければならない。……それが実際に達成できたのかどうかを私自身が判断することはできないが――しかし、一つ確実に言えることは、芸術を鑑賞する経験を突き詰めれば、芸術を創造する経験との間に根本的な境界を認めることはできなくなるということだ。
 カサヴェテスの映画を見るとき、そこで語られる何ものからも目を逸らさず全てを受け取ろうと試みるならば、鑑賞する側もまた、創造者とともに、近代の正常な空間から己の身を引き剥がし、芸術の経験の内部に身を置くしかできなくなる。
 だからこそ、言わなければならない。私がここまで書いてきた文章が批評であるのだとしても、私は、カサヴェテスの映画を外部から裁断し客観的に判断できる存在、そのような意味での批評家として書いてきたのではない。
 ジョン・カサヴェテスの映画を見ること――そして、自分にとって可能な限り、その作品が内包するものを汲み尽くし、作品とともに生きるために書いたこと――そうすることによって、私自身もまた、芸術家としてこの文章を書いた。





日本映画史における伊丹十三の評価を確定することの困難さについて

 蓮實重彦の映画批評は、原理的に、そもそも分析の対象として俎上に乗せることすらできないものをはらんでいる。……しかし、私の知る限り、このことを指摘した論者は今のところ存在しない。
 蓮實重彦の映画批評が原理的に内在させるとある欠陥が特に言及されることもせずにきたことには、蓮實の映画批評と文芸批評とを相互に参照する読者が極めて少ないことに原因があるように、私には思える。なるほど、蓮實の映画批評と文芸批評とはそれぞれが多大な影響力を持つに至ったが、映画批評を読む者は文芸批評家としての蓮實を知らず、文芸批評を読む者は映画批評家としての蓮實を知らず、結果としてその全体像はほとんど知られない(しかし、蓮實の全体像を総括するようなことを迂闊に口にするような者自体は非常に多い)ということがまかり通ってきたように思えるのだ。
 文芸批評家としての蓮實重彦の主著から文学史に関する態度を取りだしてきたとき、一つの明確なことがある。……それはすなわち、蓮實重彦という人物には、ある一時期以降の日本映画史を論じることが本質的に不可能である、ということだ。


 蓮實自身が、『「ボヴァリー夫人」論』と並んで自身の主著と見なす書物として、『凡庸な芸術家の肖像』がある。蓮實自身の述懐によれば『「ボヴァリー夫人」論』を準備する過程での副産物として生まれてきたというこの書物は、『ボヴァリー夫人』の作者たるギュスターヴ・フローベールではなく、その才能を欠く友人としてのみ文学史に記憶されてきたマクシム・デュ・カンの人物像を中心に据えたものになっている。
 『凡庸な芸術家の肖像』において蓮實がフローベールよりもデュ・カンの方をこそ中心的に論じるのは、なにもデュ・カンの才能が過小評価されているからではない。見過ごされて埋もれてきた隠れた才能を発掘するなどということに蓮實の取り組む問題があるのではなく、むしろ、相対的に才能を持つ作家を記憶しそうではない作家を忘却することによって成立する文学史という制度そのものをこそ問題にしているのである。
 フローベールとデュ・カンとの間には、明確な才能な優劣がある。そのこと自体は覆しようもないことなのだが、しかし、両者が同時代的に共有した社会的な時代背景は、明確に両者が共有するものである。才能の落差のみに注目して才能あふれる作家のみを称揚することによって見落とされることになるのが、フランスの第二帝政期の状況であるということなのだろう。……そして、蓮實は、第二帝政期に成立した諸々の文化・制度の類は、本質的に現代に至るまで地続きのものだと見なしてもいる。
 フローベールを称揚しデュ・カンを忘れる、ときにデュ・カンを思い起こすことがあっても侮蔑と罵倒の言葉のみを投げかけるような言説のあり方について、蓮實は次のように書いている。


マクシムの記念すべき写真集を手にしたとき、だから彼は、「写真家が勲章をもらうご時世ですから」と皮肉まじりに慨嘆するばかりだ。そして、後生の文学史的な言説の多くのものも、このギュスターヴの慨嘆に同調しながら、マクシムの浅薄さ、名誉欲、功利主義的傾向を嘲笑するのが普通である。事実、マクシムはいかなる文学的な業績も残さなかったではないかと彼らは宣言する。だが、二十世紀のわれわれに必要とされるのは、いわゆる傑作と傑作の頂点を結びあわせながら、それにはさまれた谷間に棲息する無数の失敗者たちをときに応じて無視したり、再評価したりすることではなく、彼らがともに同じ一つの文化的な環境を生きつつあった事実を確認した上で、その環境が性質も才能も異るだろうあまたの存在どもをどんなふうに分節化していったか、またその分節化がいかなる物語として語りつがれることになったかを見きわめることにある。「歴史」とは、この物語の説話論的な磁力を身をもって生き、その分節化作用がどこまで波及し、かつまたどの点以上には波及しえないかを物語自身に語らせようとするもっぱら説話論的な体験なのだ。(『凡庸な芸術家の肖像』、講談社文芸文庫版、上巻p182)


 相対的な才能の優位を持つ者のみを特権かし称揚する言説によって取りこぼされた「無数の失敗者たち」は、単に評価されないのみならず、特権的な才能の持ち主の周囲を巡る物語を語る際には、その語りにとって都合のよいように実態をゆがめられさえする。……そのようなことについて、蓮實は次のようにも書いている。


 おそらく人は、ここでマクシムの功利主義的な人格を語りたい誘惑をおぼえるかもしれない。写真によって「知」の領域拡大に貢献し、同時にそのことで自分の地位を特権化したいと目論む功利主義者マクシム。すでに、ボードレールが彼に捧げた詩篇「旅」に触れつつそうした点を指摘しておいたように、マクシムの側にある種の有効性信仰があったことは間違いのない事実である。それが詩集『現代の歌』の主旋律をかたちづくっていたことも見たとおりだし、また、そんな心的傾向が誇張されて解釈され、後生のマクシム像が必要以上にゆがめられてしまったことも事実である。エジプトの砂漠に無心の視線を注ぐギュスターヴのかたわらに、小心翼々たる写真家マクシムを配し、名誉欲ともまったく無縁ではなかろうその有効性信仰を醜悪なものと断ずるというのが、伝統的なマクシムの肖像なのである。実務的な能力にたけ、何でも計画ずくでやってのけるが、そのぬけめのなさにみあったぶんだけ作家としての繊細さを欠き、結局は何一つ文学史に残る作品を書きえなかったと誰もが思っているマクシム。勘定高く写真機など持ち歩いたりせず、もっぱら視線に徹しきった同行者ギュスターヴは、この中近東旅行を想像力の実験室として生き、帰国後に、文学史に残る傑作小説の執筆にとりかかろうとしている。だが、マクシムが持ち帰ったものはといえば、一冊の写真のアルバムだけではないか。(同、上巻p177~178)


 マクシム・デュ・カンに文学的な才能などというものがない、ましてやフローベールに勝ることなどありえないというのは、単に当たり前の事実である。しかし、フローベールを特権化する言説によって実態以上におとしめられたほどまでに、積極的に悪いものであったというわけでもない。
 ……しかし、ならば、文学的な才能がないこと自体は明らかなデュ・カンはなぜそれでもなお文学に携わることを続けたのか。そのことについては、蓮實は次のように書く。


詩人として生まれたわけでもなければ小説的才能に恵まれてもいないのに文学を愛することを教えこまれてしまった人間が、いくつかの不毛な試みののちにその才能の欠如に気づき、にもかかわらず書くことを放棄しきれなかったことの悲劇が、いま、マクシムによって演じられ始めているのである。その歴史的な悲惨さがわれわれを感動させる。(同、下巻p29、ルビは省略)


何も書くことができなくなったとき、さらに書き続けるために残された唯一の途は、何も書きえないというそのことじたいを書くことでしかないだろう。そうでなければ、黙る以外にない。にもかかわらず人に黙ることを選ばせず書くことへと向かわせるとき、文学はあからさまに政治的となる。文学にとどまらず、あらゆる言説は、というべきかもしれないが、その事実を、われわれは百年かかってもいまだに体得しえずにいる。誰も、凡庸なマクシムを笑う自由など持ってはいない。実際、これまでマクシムを嘲笑してきた連中は、等しく彼と同程度に凡庸な人間ばかりである。(同、下巻p30)


 ……以上のような議論を現在の視点から改めて検討してみると、ここでの蓮實は、明確に嘘をついている。蓮實は、デュ・カンのごとき人物の「歴史的な悲惨さ」に「感動させ」られてなどいはしない。むしろ蓮實は、「誰も」持ってはいないはずの、「凡庸なマクシムを笑う自由」を存分に行使してすらいる。ただし、「百年かかってもいまだに体得しえずにいる」という言葉に自分自身を含める限りにおいて、「彼と同程度に凡庸な人間」の範疇に蓮實自身をも含むのだというのならば、蓮實の言明は適切なものであるのだと言える。
 そのことは、蓮實による文学史という制度への取り組みを、日本の映画史へと適用してみることで明らかになる。


 映画史を検討する際に一つの重要な転換点となるのが、撮影所システムが崩壊する時点である。
 資本主義的な商品として映画が定期的かつ大量生産されることが可能になるためには、映画会社が撮影所を保持することが重要となる。そして、撮影所の内部でコンスタントに映画が製作され続けるためには、様々な役割を担う撮影スタッフのそれぞれが、自分の役割に求められるプロフェッショナルとしての高度な技術を持ち寄ることもまた必要になる。
 しかし、それは逆に言えば、撮影なり音響なり美術なり演技なり脚本なりに関わるそれぞれのスタッフが、自分の役割を越えることまで深く考える必要もなく、映画の成立や自分の職分を自明視することができ、映画の製作そのものの困難な状況に投げ出されることもない、ということでもある。
 とりわけハリウッドにおいて撮影所システムが確立したことによって映画の内容にも影響が及び、映画が物語をつづるに際しての古典的な文法が確立することにもなった。……そして、時を経て撮影所システムが崩壊することになると、当然ながらそのことは映画の内容にも変容をもたらすことになったのだった(このあたりの事情については、もちろん蓮實自身も、『ハリウッド映画史講義』において詳細に論じている)。
 映画を大量生産し大量消費されることが可能になった場所であれば、ハリウッドでなくとも撮影所システムは成立してきたし、その崩壊に関する事情には多かれ少なかれ共通点がある。もちろん日本の事情もまた例外ではないのだが、しかし、日本の撮影所システムの崩壊に関しては、ポルノ映画ややくざ映画によってなんとかその崩壊を先送りにしてきたという事情がある。
 TVの台頭などによって映画を定期的に大量消費する需要が激減する中で、性や暴力を売り物にすることによって産業の延命をはかるということ自体は、それなりにわかりやすい話ではあるだろう。製作者の側からしても、ポルノ映画なりやくざ映画なりに求められる扇情性を保っていれば、それ以外の内容についてはある程度の自由を保障される体制を進んで受け入れる人々も一定数存在していたわけだ。
 そして、そのような撮影所システムの延命措置すら崩壊したさらにその後で映画業界に足を踏み入れることになったのが、例えば黒沢清なのであった。……ならば、黒沢は、どのようにして映画を製作してきたのか……自身の映画批評などをまとめた著作『映像のカリスマ』の「読者への挑戦」と題された序文において、黒沢は次のように書いている。


 さて、学生時代から始まり、十数年の歳月を経て書き溜められた短い物語の数々が、ここにこうして一同に並べられた。語彙の貧しさと見聞の浅薄さはいかんともしがたい。あからさまな矛盾が大手を振ってのし歩いている。にもかかわらず……ここからが重要だ……物語は作者の思いなどはるかに越えたところで、時としてとんでもない芸当を演じてみせる。一読し終わって、私は心底慄然となった。とりとめもなく書き綴られてきたこのいい加減な物語の中に、それらすべてを貫いて見え隠れする恐るべき陰謀と、それを周到に企てた真犯人の存在とが、忽然と浮かび上がってきたのだ。こんなことがあるだろうか。私自身、知らず知らずその真犯人に操られ、世紀の陰謀に加担させられていたのだろうか。しかし、間違いなく文章のはしばしにその痕跡が書き込まれているのである。(『映像のカリスマ 増補改訂版』、p3)


 この「真犯人」なるものが何者なのかについては、後に、黒沢自身が種明かしをしている。蓮實重彦との対談において、真犯人は蓮實重彦であるのだと黒沢自身が述べているのだ(その対談は、蓮實の対談集『映画に目が眩んで 口語篇』に所収)。
 ……もちろん、ここでの黒沢の自己認識は決定的に正しい。黒沢清という映画作家は、自分がどのような立場で日本の映画史に関わっているのかを、明晰に自覚している。……しかし、黒沢はそこに問題があるとは考えてはいないようであり、私にはこの態度はほとんど居直りのごときものとして感じられるのだ。
 撮影所システムが崩壊した後の状況に置いては、映画を製作することを自明視することなどできない。だからこそ、世界中で多くの映画作家が、そもそも映画を製作しようとすることそのものの時点から始まる苦闘を強いられてきたわけだ。しかし、少なくとも、映画を製作するにあたって、映画が存在することそれ自体は決して疑わずにすむ方法なら存在する。……それは、例えば、「蓮實重彦の影響を受けたシネフィルになること」である。
 TVのようなメディアも存在しない時代に、日常生活の中で定期的に映画を消費する観客に商品を届けたのが撮影所システムであるならば、シネフィルとは、その時期の観客とは全く異なるあり方をする観客になっている。膨大な量の映画を消費し続けることによって、映画の消費に関して選ばれた存在だとまで自任しうる一握りの観客が、最低限の価値判断を共有する趣味の共同体を形成する。そのような趣味の共同体の内部にいれば、映画の存在意義を根本的に疑うことなどは起こらず、(ほとんどフィクションとして)映画の自明性は固定されることになるだろう。


 あるとき、蓮實重彦は、「黒沢清の『カリスマ』または植物的な暴力について」という短い文章を書いたことがある(『映画狂人、神出鬼没』所収)。黒沢清の『カリスマ』を論じた短文に関してむしろ私が呆れたのは、蓮實門下の映画研究者が、蓮實の文章のキレのなさ、その弛緩したありさまに驚いたことを表明している文章を別のところで読んだときのことだった。
 この文章における蓮實重彦は、黒沢清の映画の特徴として「およそ時間の厚みを欠いたぶっきらぼうな空間」というものを挙げ、『カリスマ』の空間的な特徴とそれにまつわる演出面の問題ばかりを集中的に取り上げている。……これはもちろん、「黒沢清の映画を、時間性とそれに関わる脚本の面で論じたら救いようがない」ということでもある。
 なるほど、『カリスマ』における黒沢の演出は、黒沢の多くの作品におけるのと同じく、非常に優れたものであることは疑いようがない。しかし一方で、日本を代表する映画監督が、日本の戦後史を総括するような脚本を自ら執筆するに際して、似たような題材を先行して扱った日本文学に関しては全く無知であるとともに無頓着であることを露呈してしまっているのである。
 有り体に言ってしまえば、『カリスマ』の脚本を書いた時点での黒沢が『万延元年のフットボール』も『地の果て 至上の時』も読んでいなかったことは明らかだし、読んでいないからこそ、それらの作品と類似しつつもはるかに下回ったテーマを扱った脚本を、およそ幼稚な水準で展開していることは明らかだ。
 極めて高度な演出と幼稚な脚本とがアンバランスに同居する作品に対する蓮實の歯切れの悪い態度は、「擁護」と言うよりは、むしろ「保護」と言う方が適切なものなのではなかろうか。おそらく蓮實は、そのようなチグハグさの責任の一端が自分にあることなど、百も承知なのだろう。
 「シネフィルであること」という保護膜によって、黒沢清を始めとする多くの(演出家としての才能を欠いているわけではない)映画作家が、映画の自明性を全く疑わずにそのキャリアを築くことができた。黒沢を含め、彼らの多くが性や暴力を搾取し利用する映画に携わることでそのキャリアを始めたことは、偶然ではない。たとえ表面上で語られていることがポルノややくざであろうとも、映画の演出の価値は、それらの単純な内容とは別の面に見いだすことができるからである。
 もちろん、「シネフィルであること」によって撮影所システム崩壊後の状況を生き延びたのは、彼らが最初ではない。ヌーヴェルヴァーグこそが、初めてシネフィルになった人々である。しかし彼らは、いつまでもその立場に固執することはなかった……やがて、彼らの共同体は解体された。その後のゴダールにせよ、あるいは、それとはまた異なるギリシャの状況でのアンゲロプロスにせよ、映画の自明性を前提することなどできず、映画以外の様々な芸術なり文学なり思想なり哲学なり歴史なりを不断に学び続けることによって、かろうじて映画の継続的な製作を可能にしてきたわけだ。
 そのような厳しさ、困難な状況を回避する保護膜を後進のために形成しつつも、自分がしていることが何であるのかを明らかにすることもなく、演出とは別の側面で露呈してしまう無惨な有様をも、密かに保護し隠蔽を計ってきたこと……これは、映画批評家としての蓮實重彦の罪の一つであるだろう。
 蓮實重彦の映画批評は、「撮影所システム崩壊後の日本映画史」を分析の対象とすることは、原理的にできない。……私がそのように考えるのは、「蓮實重彦の映画批評」それ自体が、(少なくとも作り手の側の水準で)「撮影所システム崩壊後の日本映画史」に多大な影響を及ぼす要素の一つとなってしまっているからだ。
 しかし、蓮實が日本映画史との関連の中で犯したさらに大きな罪は、別のところにある。そして、そこで犯された罪があったということ自体が、依然として認識すらされていないように私には思えるのだ。


 撮影所システム崩壊後の日本映画は、ポルノ映画ややくざ映画によって性や暴力を利用し収奪することで、なんとか継続的な製作体制を延命させてきた。
 そのような状況下の日本映画で、性や暴力の収奪に荷担せず、なおかつ商業的にペイすることによって定期的な映画製作を自覚的に継続させることに成功したという、極めて例外的な映画作家が、私の知る限りただ一人だけ存在する。
 このようなことは、完成した映画作品の内容を云々するのとはまた別の水準で、日本映画史の映画製作体制の変遷を確認する上で非常に重要なことである。にもかかわらず、その映画作家は、日本映画史上での重要な存在としての意義を与えることすら不当に看過されてきた。
 なぜそのようなことが起きたのかと言えば、ここには、明確な理由がある。……その映画作家は、シネフィルたちの趣味の共同体の総帥から、実質的な破門宣告を受け放逐された存在であったのだ。


 映画製作の側に携わる人間として蓮實重彦の映画批評の多大な影響を受けたことを公言した初期の人物に、伊丹十三がいる。しかし、すでに著名な俳優であった伊丹が監督業に進出した最初の作品『お葬式』の試写において、感想を尋ねられた蓮實は「最低です」とだけ述べ、以後両者の交流は完全に途絶えたようだ。
 伊丹十三が、例えば、直接的な関わりを持つことになった後進の黒沢清と比較して、映画作家としての演出能力が完全に劣っていることは、否定しようのない事実である。……とはいえ、私の知る限り、伊丹の映画作品は必要以上に貶められ続けてきている。
 蓮實重彦が「具体的に論じるまでもなく全否定する」という身振りを見せたことを模倣してのことだろうか、多くの日本のシネフィルは、伊丹の映画を口を極めて罵ってきた。……しかし、私がこれまで見聞してきた限りでは、伊丹の映画のどのような部分の演出がどうまずいのかを具体的に指摘したようなものは皆無なのであった。つまり、伊丹十三の映画とは、「分析するまでもなく全否定してよいもの」として、少なくともシネフィルの共同体の中ではしばしば扱われてきたのである。
 だが、私自身の評価としては……少なくとも、映画製作の体制が本格的に崩壊し技術者が離散しつつあるような日本映画が続々ととんでもない代物を生産し続けた後の時点から改めて伊丹の映画を見返してみると、「真面目にちゃんと撮ってるなあ」「少なくとも映画を映画として撮ろうとしてるなあ」という感慨を抱くようなものにはなりえている。……これは、言い換えれば、優れた映画作家の高度な演出には及ぶべくもないものの、「積極的に悪いもの」として全否定されるまでのものとは到底思えないということだ。
 蓮實重彦という個人が、伊丹十三の映画に醜悪な印象を受けたであろうということは想像できる。自身の映画批評の熱心な読者であることを公言している人物の演出を実際に見てみれば、自分の映画批評を理解していない部分、誤読している部分、浅薄に取り違えてしまっている部分はいくらでも見つかるだろう。
 それは、まぎれもなくグロテスクな体験のはずである。しかし同時に、作品の客観的な評価とは関係のない、あくまでも蓮實個人の主観的な体験にすぎないことでもある。
 そういう意味では、伊丹十三と蓮實重彦との絶縁の瞬間こそが、撮影所システム崩壊後の日本映画史の一つの重要な転換点であったのだ。最初の監督作品の段階で、シネフィルの共同体の保護膜の内に入ることを拒絶された伊丹は、何ものにも頼らずに映画製作を継続しうる体制の模索に向かった。一方の蓮實は、この時点の段階で、その後の日本映画史を客観的に論じうる立場を自ら放棄したのだ。……そして、伊丹十三の日本映画史上の功績を適切に評価できない歪んだ磁場は、依然として呪いのように残存してしまっているのである。


 改めて、『凡庸な芸術家の肖像』における、蓮實の文学史に関する態度を確認してみよう。


たとえば『現代の歌』の「序文」を書き綴るマクシムは、そうした反=制度的な存在の一人である。少なくとも彼には、文学がもはや才能の問題ではなく、制度的な現象だという点を見極めうる程度には、聡明だったのである。いま、彼の青春の挫折感とともに始まった仮装と失望の時代の構造に注ぐべき視野をそなえているマクシムには、その体系と機能とを記述することが可能だし、そうした環境のもとで演ずべき文学好きの人間の役割がどんなものかをも心得ている。ところがギュスターヴは、そんなことなど想像だにしていない。しかし、それは彼がマクシムよりも聡明さにおいて劣っているからではない。彼は、いま進行しつつある世界の変容に対して、絶対的に誤った視野しか持ちえない。つまり、彼は愚鈍さそのものなのだ。ちょっと軌道を修正すれば相対的な聡明さの域に達するといった知識の欠如とは違った愚かさの中に彼は暮しているのであり、より豊富な知識による教育の試みは決って失敗するしかないだろう。そのかたわらで聡明な身振りを演じてみても、何ら有効な効果を期待しえないはずだ。つまり、いかなる方法も、いかなる実践ももっぱら無効であるしかないような存在こそが愚鈍さなのである。そして、マクシムの聡明さの限界とは、そうした徹底した愚鈍さが世界に存在しうることだけはどうしても理解しえなかった点に存している。目の前に、ギュスターヴと呼ばれる典型的な愚鈍さを見ていながら、その絶対的な現象を相対的な視点でしか捉えることができなかったのである。
 もっとも、その事実をもって、マクシムを非難するのは正しくない。徹底した愚鈍さを前にした場合、われわれは誰だってマクシムのように行動するだろう。三十歳にもなっているんだから、もういい加減にその程度のことは解ってもらわなければ困る。私自身もまた、そうつぶやいてギュスターヴからそっと顔をそむけてしまうに違いない。(同、上巻p228~229)



 ……言うまでもなく、「われわれは誰だってマクシムのように行動するだろう」と述べる蓮實は、嘘をついている。蓮實自身が日本映画の文脈でしたことは、「ギュスターヴからそっと顔をそむけてしまう」などということとは、まさに正反対のことだ。蓮實は、相対的に優れた才能を持つ作家を擁護するために不都合な部分を隠蔽し、なおかつ、聡明であるがゆえの凡庸さに収まる作家を侮蔑し、その評価が必要以上に歪められることに、(自ら手を下しまではしないものの)荷担してきたのである。
 蓮實重彦がしていることとは、デュ・カンへの悪罵を拡大しフローベールの才能を特権化することによって既存の文学史の制度を固定する凡庸な文学史家のなす凡庸な行為と、正確に同一のことなのである。


 公平を期して付言するならば、黒沢清自身は、プロデューサーとしての伊丹十三のあり方についてしばしば注意を促しつつ、伊丹の作品そのものについても正確に評価しなければならないことをこれまで何度も強調してきている。
 それからまた、もともとこの文章は、廣瀬純が『シネマの大義』で提起した「マルクス主義的表層批評」という概念の実態を探ろうとする過程での考えをまとめたものだ。
 しかし、映画史の条件となる製作体制に対する唯物論的視点を導入することによって明らかになるのは、映画を継続的に製作するということが、優秀な商品の完成によって初めて可能となるという、当たり前の事実だ。
 例えば伊丹十三という映画作家は、映画史的な状況に対する自覚を前提にして製作を続けていたわけだが、それはもちろん、資本主義を補完するということでもある。その点に関しては、商品としては相対的に劣りながら作品としては相対的に優れている黒沢清も同様である。あるいは、清順闘争には協力した蓮實重彦も、鈴木清順が映画を満足に製作できさえすれば文句がないことをも公言していたことなども、同様の状況であろう。
 にもかかわらず、作品の画面に映っているものだけを取りだして「マルクス主義的である」「反資本主義的である」と本当に言うことができるのか、私には疑わしく思える。「作品」の観点と「商品」の観点とは、そうたやすく別問題として切り離せない、入り組んだ問題なのではないだろうか。






隠喩としての糞便――廣瀬純『シネマの大義』を読む

 廣瀬純の映画論集『シネマの大義』を読んだ。廣瀬の映画に関する単著としては『シネキャピタル』以来のものとなる(『蜂起とともに愛がはじまる』も映画に関する議論が中心の著作ではあるが)『シネマの大義』は、様々な機会に様々な媒体で書かれた小論、講演の記録、座談会などが一冊にまとめられたものになっている。
 その意味では、構成としては非常に雑多なものになっている著作ではあるのだが、冒頭に収録された廣瀬自身のインタヴュー「早すぎる、遅すぎる 映画批評は何をなすべきか」において、この著作全体を貫いて廣瀬自身が取っている立場が明確に宣言されている。それは例えば、次のようなものだ。


従来のマルクス主義的映画批評は、一本の作品あるいはひとりの監督におけるブルジョワ的世界表象を告発するということに存するものでした。これに対して私自身の関心は、むしろ、作品内における映像のブルジョワ的あるいは資本主義的組織化それ自体にあり、そのような組織化は、ケン・ローチやコスタ=ガヴラス、新藤兼人などといった、世界表象の次元では社会主義あるいは共産主義的傾向をもつ監督たちの映画にも見られるものです。
 小津安二郎は同時代のマルクス主義批評家たちから、プチブルの生活ばかりを描く反動的監督だとして批判されていました。しかし、映像の組織化という観点から言えば、小津映画はブルジョワ反動映画ではまったくありません。小津は、ドラマ的あるいはメタファー的剰余価値生産に映像たちを従事させない。(『シネマの大義』、p15、ルビは省略)



 表層批評が、従来のマルクス主義的批評とともに葬ってしまったマルクス主義を、表層批評のそのただなかにおいて復活させなければなりません。私が試みてきた新たなマルクス主義的映画批評は、この意味では、マルクス主義的表層批評と呼び得るものです。多少乱暴な物言いが許されるなら、要するに、佐藤忠男さんに蓮實重彦さんのオカマを掘らせ、奇形の非摘出子をこしらえさせるということです。あるいは、より精確には、蓮實さん本人のうちに潜在しているマルクス主義者に表層批評家としての蓮實さんのオカマを掘らせると言うべきかもしれません(本書163頁「山中貞雄ーー革命の慎み」では部分的にこれを試みています)。私のいうマルクス主義的表層批評は、この意味で、蓮實主義の一形態にほかなりません。(同、p17~18、傍点は省略)


 ……マルクス主義的表層批評! さすがにこの発想は凄いと思えるし、そこで目指される方向性自体には、私としては全面的に同意したい。
 蓮實重彦の映画批評の後続への影響という点では、もちろん、功罪の両面があるだろう。しかし、じゃあ先行者としての蓮實を批判する側がどうなのかというと、てんで箸にも棒にも引っかからないようなものしかないというのが実状であろう。
 特にタチが悪いのは、「蓮實の映画批評は映画の外部の現実社会の政治情勢などを全て排除した!」などという完全な嘘をとにかく大声で喧伝することであろう(もっとも、これについては、なかなか入手しづらかった『ハリウッド映画史講義』が文庫化されるということで、今後は一瞬でバレる嘘ということになるのだろうが)。あるいは、最近ネット上で見かけたひっくり返ったのが、「蓮實の表層批評は画面に映っているものだけを論じるため、映画の製作現場からは疎外されている」という主旨の評言であった。
 ……う~ん……とりあえず、このような評言でわかるのは、言ってる人も真に受けてる人も蓮實の映画批評はほとんど読んでいないということだ。「画面に何が映っているのか」を正確に記述することを試みれば、必然的に、撮影や照明やセットの問題にまで行き当たらざるをえない(光がなければ画面には何も映らない)。そして、日本の映画批評家で、監督や脚本家などといった名前がよく表に出がちな人々以外の製作スタッフのことをあれだけ調べ上げ、話を聞きまくるという人は、どう考えても蓮實しかいないのだが……。『映画狂人のあの人に会いたい』に収録されたジョセフ・ロージーのインタヴューにおいて、ロージーの複雑なキャリアにおける様々な国の様々な映画スタッフとの関わり合いを恐ろしく細かいところまで掘り下げながら話を聞きまくった結果、ロージー本人を驚き呆れさせたことを知らないのだろうか!? ……いや、知らないんだろうけどさ……
 「表層批評」という意味では、テマティスム方面での蓮實の主著である『監督 小津安二郎』においてすら、わざわざキャメラマンの厚田雄春のインタヴューを付録として収録しているくらいなんだけど……いったい、何をもって、「製作現場から疎外されている」ということになるんだろうか?
 さらに言うと、「画面に映っているものしか論じない」という姿勢が「製作現場からの疎外」を意味するものだと信じて疑わない人々は、そもそもの大前提として、スタッフロールは作品の一部ではないということにしてしまっているわけだね。蓮實自身はと言うと、むしろ「撮影スタッフの名前を細かく確認しろ」と言う側の人なんだけど……。結局、このあたりのテキトーな言説を平然と述べたり真に受けたりしてしまう人々は、ろくに映画を見ているわけでもなければ、蓮實の映画批評を細かく読んでいるわけでもない、にもかかわらず、蓮實の映画批評の全体像を総括するようなことは言いたがる、とみなすほかないということになる。
 ……などというように、蓮實の映画批評に問題があるのかどうかという検討に入る以前に、「批判者の方こそが論外である」ということがあまりにも多すぎるため、蓮實自身の問題点にきちんと到達できるような議論がほぼ存在しないのである。そういう意味では、蓮實の議論を批判的に継承しつつその問題系を組み替えることをもくろむ廣瀬の批評は非常に野心的なものである……のだが、全体を通読しそこでなされている議論を検討した結論として、私としては、廣瀬の言う「マルクス主義的表層批評」は、廣瀬自身の議論に内在する欠陥の一つによって、本来目指された形で実現しえなかったという評価を下さざるをえないのだ。
 そして、廣瀬の批評に内在する問題点がいったん明らかになってみると、既に引用した廣瀬自身の言葉の内部にすら、既にして明確な兆候が表れてしまっていることも明らかなのだ。……では、その問題点とは何なのか。


 『シネキャピタル』における廣瀬の根本的な発想は、ふつうの映像を組み合わせることによって「特別な映像」を産みだそうとする商業映画の基本的なあり方が、資本主義の剰余価値生産と正確に重なるということであった。
 そして、そのことに対する検討が改めて「マルクス主義的表層批評」という言葉によって表されたとき、以上のような原理に既にして自覚的でありつつ映画を製作している特権的な存在としてストローブ=ユイレが名指されるのは、極めて当然のことであるだろう。
 そして、そのようなストローブ=ユイレがメタファーについて批判的な言葉を述べる言葉を検討しつつ、廣瀬は次のように述べている。


ここで何よりも興味深いのは、ストローブ=ユイレがメタファーを「近代的な発明品」だとした上で、メタファーの君臨の下での人間の感受性の縮減、無能化にまで至る人間の脱野生化を「産業文明のもたらした帰結」だと看做している点です。要するに、ストローブ=ユイレにとってはメタファーもまた優れて近代資本主義に関わる問題だということです。
 実際、ストローブ=ユイレの語彙において、「メタファー」と「剰余価値」とは厳密に同義語となっています。たとえば、また別の或るインタヴューで、質問者が「とりわけ演劇などにおいては、多種多様なアイディアや情報を膨大に蓄積していくことによって、あたかも新たな価値が生産されているように観客に信じ込ませようとする作品が散見される」というような発言をしたときに、ストローブ=ユイレは「そんなものは剰余価値に過ぎない、そんなものは市場経済芸術だ」としてこれを一蹴しています。彼らにとって、映像や音声のメタフォリックな使用とは、映像や音声に労働を強要してそこから剰余価値を引き出そうとする資本主義的振舞いにほかならないのです。(同、p68、傍点は省略)



 ストローブ=ユイレにとって、メタファー(隠喩)と剰余価値とは、「厳密に同義語」である。……このような廣瀬の評言に、私としては完全に同意する。確かに、ストローブ=ユイレの立場は、そのようなものとしてしかありえない。……一方、廣瀬の問題とは、隠喩と剰余価値とが「厳密に同義語」とまで言いながら、同じ議論が異なる文脈で出てきた際に、平然とこの原則から逸脱してしまうという点にある。
 何が問題なのだろうか。……ある二つの言葉が「厳密に同義語である」ということは、言い換えれば、その二つの言葉の間では、比喩によってどちらかがどちらかを譬える関係は成立しえないということだ。隠喩に関する問題が「まるで剰余価値の問題のようである」ことがなければ、剰余価値に関する問題が「まるで隠喩の問題である」ようなこともありえない、それこそが、「厳密に同義語である」ということだ。
 一見すると、些細な言葉の選択の違いに見えるかもしれない。……しかし、実のところ、ここにこそ、廣瀬の議論の核心がある。隠喩が全く異なる文脈の言葉を結びつけることによって剰余価値を生み出してしまうという事態をよりわかりやすいものとして説明するために、隠喩という言葉自体が隠喩によって他の文脈と結びつけられてしまうという逆説。廣瀬が落ち込んでいるのは、そのような錯綜した事態である。
 隠喩と剰余価値とが「厳密に同義語」であるという原理から全く逸脱しない強度を備えるのがストローブ=ユイレの映画であるのならば、廣瀬の映画批評の問題は、同じ原理を提示しながらも、密かにその「厳密」さを放棄し、隠喩に依存する文脈を呼び込んでしまうことにあるのだと言える。


 廣瀬純の『シネマの大義』は、既に述べたように映画に関する雑多な内容を含む論集であるのだが、その中でも、複数の論考をまたいで一貫し、特権的な扱いを受け、書物全体に共通する文脈をもたらす言葉がある。
 それがどのようなものであるのかを、いくつかの引用を並べて確認してみよう。


現代の映画監督たちが総じて問う共通の問題があるとすれば、それはクソ(あるいは”クソ的なもの”)をめぐる問題だろう。ここでいう「現代」とは、とりあえず、ゴダール以降、あるいはアルトマン以降といった意味だが、クソをめぐる問いそれ自体が映画の現代を規定していると逆に捉えるならば、そこにはゴダール/アルトマンよりも早い時期から映画を撮り始めた者も当然含まれることになる。たとえば増村保造がその典型だ。
 クソを問う現代監督は、そのやり方によって二つの人種に大別される。第一の人種は、クソ的なものが出現する瞬間を作品の向かうべき終着点に位置づける作家たちから構成される。彼らにとって、クソの出現は、ほとんど恩寵のそれともみなすべき特権的な瞬間であり、スクリーン上でのクソのそうした公現こそが、退屈で凡庸なこの曇った世界のただなかに絶対的な輝きを――たとえ一瞬のこととは言え――取り戻させるものとしてある。或る時期からこの新種の頂点に君臨してきたのがデイヴィッド・リンチにほかならない。
 他方、第二の人種にとって、クソは目指すべき目標、誇らしい戦利品といったものではもはやない。むしろ正反対に、クソはすべての物語の出発点に存するもの、あるいは逆に言えば、すべての物語はクソからはじまらなければならないものだとされる。彼らにとって、世界とは、何よりもまず、隅々までクソに満ちた場として与えられているのであり、クソの横溢としてのこの世界を描き出すことなしには、信じるに足るようないかなえう映画作品もあり得ない。この人種を体現する監督として、たとえば侯孝賢、あるいはホン・サンスの名が挙げられよう。(同、p193~194)



この作品に登場する「レザボア・ドッグズ」と名付けられた集団は、ありがちな誤解とは反対に、生まれついてのクソたちからなる不浄な犬の群れなどではない。確かに、生来のクソに違いないと我々に確信させるに足る面構えの人物もそこに混ざってはいるが、この集団を構成する者たちのうちの大半はクソではなく、むしろ、クソを演じてみせようと試みる者たちなのであり、また、その試みに失敗し、クソに到達することの困難さで画面を満たすことになる者たちなのだ。
『レザボア・ドッグス』において、見るからにクソな面構えのエドウォード・バンカー(幼少の頃からの輝かしい犯罪歴で有名な小説家)によって演じられる登場人物ミスター・ブルーが物語の開始早々、画面から消え去り、その後、二度と画面に姿を見せることがないのは、したがって、ただたんに彼の小説家としての仕事が多忙を極め、それ以上、撮影に参加している暇がなかったからというだけのことではない。なによりもまず、クソでない者たちがクソを演じることでクソになろうと試みる(そしてその不可能性を突き付けられる)というこの作品の主たる流れのなかに、バンカーのような生粋のクソ野郎が身を落ち着ける場など残されているはずもないからなのだ。触っても手の汚れようのないような小さな玉のようなウンチを出すのがやっとといった風情の者たちが、でかいクソをぶりぶりと出すような厚かましき汚らわしさを獲得したいと望み、懸命にそれを演じようとすればするほど、演じること自体がそれとして際立ち、終着点としてのクソが無限遠の彼方に遠ざかっていく――これが『レザボア・ドッグス』の物語だとすれば、でかいクソをすることが誰の目にも疑い得ないクソ野郎のバンカー/ミスター・ブルーについて語るべきことなどあるはずもないだろう。無味無臭・無味乾燥の、ウンチの何すら値しないウンチを出すのがやっとの者たちに混じってナチュラル・ボーン・シットの彼が登場するのは、彼らのために不可能なモデルを提供するため、あるいは、彼らとそのモデルとのあいだの無限大の隔たりを誰の目にも明らかなかたちで示すためなのであり、また、それ以外の理由などひとつもないからこそ、彼はオープニング・タイトルとともに画面から完全に姿を消してしまうのである。(同、p195~196)



 しかし増村は、世界がクソに満ち溢れたところだというこの事実を諦念とともに告発するために『赤い天使』を撮ったわけではない。そうではなく、クソに埋め尽くされたこの絶望的な世界のただなかに「それでもなお」という一語とおもに何らかの希望を見出し得るとすれば、それはいったいいかにして可能なのかという問いに我々を巻き込むために撮ったのだ。(同、p213)


 もちろん世界はクソまみれだ、しかし/だからこそ、我々は希望を失ってはならないし、希望を失わずにいられる――クソ映画は我々にそう告げている。(同、p215)


 今回の作品でゴダールは「糞の平等」のようなものを唱え実践しようとしている。(中略)「排便する存在」としての平等という新たなテーマの出現が、これまでずっと続けてきたことをゴダールに断念させたわけだ。(同、p542)


 ……以上のように読まれるとおり、『シネマの大義』を構成する多くの議論の内部では、糞便を指示する言葉こそが特権的なものとして至るところに登場し、共通する一つの文脈を作り上げている。
 おそらくはフーコーの「汚辱に塗れた人々の生」が参照されているのではないかとも思うのだが、直接の言及はないし、『シネマの大義』はあくまでも独立した議論の文脈を形成しているので、仮に発想元がそれだったのだとしても、とりあえずそのことは措いて構わないだろう。
 最も細心の注意を払って検討されなければならないのは、廣瀬が糞便を指す言葉を用いる際に、それが隠喩として用いられているのか否かということだ。廣瀬の言う「クソ」「ウンチ」「シット」「糞」が、糞便そのものを指し示すのではなく隠喩としての機能を担っているのであれば、廣瀬が宣言する「マルクス主義的表層批評」は、あえなく破綻することになる。
 例えば、仮に、ある時にある文脈である人物が「ワーナーはクソだ」と述べたとしよう。この際、ここで用いられている「クソ」が隠喩である可能性は高いが、だからといって、それが確定的であるわけではない。
 仮にその人物が、現代社会のごく平均的な思考からは著しく逸脱し、「ワーナーと呼ばれる大手映画会社の実体は糞便そのものである」と確信し、そのような文脈で文字通りの言葉を発しているのに過ぎないのかもしれない。……あるいは、その人物は、「クソ」という言葉の定義を拡大し、ワーナーと呼ばれる大手映画会社がその定義からして内包されるような概念として「クソ」という言葉を発しているのかもしれない。
 これらの場合、ここでの「クソ」は隠喩ではない。言い換えれば、文脈から外して一文だけを切り出して検討した場合、隠喩が隠喩であると確定することができないことは往々にしてある。……一方、例えば「ワーナーのやってることってのは、クソみたいなもんだ」という言葉が発せられたとしよう。譬える項と譬えられる項とが明示されている以上、これは、明確に直喩である。この場合、この発話の意味は一義的なものとして固定することになる。
 では、この両者を連結し、「ワーナーはクソだ。ワーナーのやってることってのは、クソみたいなもんなんだ」と述べられたとしよう。この二文が連結し、共通の文脈に置かれた場合には、後者が直喩であることが確定した時点で、前者に含まれる「クソ」という言葉が隠喩であったことが、遡及的に確定することになる。つまり、いったん隠喩が述べられてから、改めて意味を確定するために直喩で語り直された発話だったということが明らかになるわけだ。
 以上のことをふまえた上で、廣瀬による糞便に関する記述をいくつか引用した中でも最初のものの、冒頭部分を改めて確認してみよう。……ここでの廣瀬は、ひとたび「クソ」と呼んだことを、改めて「あるいは”クソ的なもの”」と呼び変えている。
 「クソ」と「クソ的なもの」が並列に並べられることが可能になるのは、ふつうに考えれば、この両者のいずれもが糞便そのものを指し示しているのではなく、それぞれが隠喩と直喩、あくまでも比喩として用いられているからということになる。
 ……しかし、『シネマの大義』という著作には、「クソ」と「クソ的なもの」との並列可能性について、さらに細かい議論をしている部分も含まれる。その部分も、さらに検討してみよう。


 『サウダーヂ』を論じる小論の中で、廣瀬は、「さわれるクソ」と「さわれないクソ」との区別を持ち出している。それは、例えば以下のような記述だ。


『サウダーヂ』(二〇一一)はクソに塗れている。クソとそうでないものとがあるのではなく、すべてはクソであり、「さわれるクソか、さわれないクソか」でしかない。上映時間一六七分のあいだスクリーンを隅々までクソで埋め尽くし続けるというその徹底ぶりが『サウダーヂ』に特異な強度を与えている。フィルムそれ自体が一本のクソなのだ。(同、p221)


 重要なのは、しかしながら、そのように寄せ集められたこれらの「問題」それ自体を「クソ」だと取り違えないようにするということだ。「問題」はそのどれもが確かに「クソのようなもの」ではあるだろう。しかし「クソのようなもの」であることは「クソ」であることとは必ずしも一致しない。(同、p222)

「問題」そのものがクソなのではない。そこで生活しているわけでもなく、そこをきちんと訪れたことすらない者あちが新聞やテレビなどの報道から得た知識に基づいていい加減に想像しているだけに過ぎないはずの「問題」、すなわち、「日本の地方都市の現状」という抽象的な括りで十把一絡げに頭のなかだけででっち上げられたたんなる想像の産物に過ぎないそうした「問題」が、そっくりそのまま寸分違わぬかたちで実際に生きられてしまっているという恐るべき現実、これこそがクソなのだ。その多くが実際に甲府で生活をしているとされる人々によって演じられる『サウダーヂ』の登場人物たちの生きる日常が、甲府のことなど何ひとつ具体的に知らない者たちの頭でっかちな想像を微塵たりとも超えないということ、これこそがクソなのであり、要するにクソとはステレオタイプ、紋切り型、クリシェのことであり、クリシェでしかない生のことなのだ。(同、p223)


 ここでは、「クリシェでしかない生」こそが「さわれないクソ」であるのだということが、明確に述べられている。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」の両者を含む上位の概念が廣瀬の言う意味での「クソ」であるのならば、ここには比喩の働く余地はないということになる。
 しかし、廣瀬は、「さわれるクソ」と「さわれないクソ」の両者がいかなる関係性をもって同一の概念に内包されることができるのか、いかなる議論も展開してはいない。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」とは、それぞれが単に無関係に存在しながら、同一の言葉によってのみ関連づけられている。……ここにあるのは、隠喩の機能そのものである。
 さらに言うと、この小論の冒頭で、廣瀬は「フィルムそれ自体が一本のクソなのだ」と断定してしまっている。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」のどちらかによって全編が満たされているという意味で述べるのであれば、「さわれないクソ」に関する部分をも含めて「一本のクソ」と述べることはできない、それは「さわれない」のだから。言い換えれば、「さわれるクソ」のことしか指示できないはずの「一本」という表現が、「さわれないクソ」をも含んで指示してしまっている。つまり、「さわれるクソ」という「クソ」全体の一部に過ぎないはずの概念が、「クソ」全体を包含するものとして当然のこととして扱われている。
 以上のように検討してみれば、やはり、「さわれるクソ」、通常の意味での糞便そのものが、糞便そのものとは無関係な文脈に連結しより大きな文脈を形成するために、隠喩としての機能を担わされてしまっていることは、『シネマの大義』という著作の内部で起きていることとして間違いのないことなのである。


 なぜ私は、映画を論じる文脈での隠喩の使用のされ方を細かく論じているのだろうか。……それは、比喩形象の類は、「映画において用いられている状況」と「映画を論じる言語において用いられている状況」とのそれぞれで、全く異なるあり方をするからだ。
 極めて当然の事実として、映画の画面に糞便が映り込んでいる際に、その映像が糞便以外のなにものかを指し示すことはない。それは圧倒的に、糞便そのものをどこまでも表象している。もちろん、「糞便が映っている
映像」が前後の文脈と合わせた結果他の何物かをも同時に指示することはありえるが、しかし、糞便そのものの形象が失われることはありえない。
 一方、言葉として発せられた糞便は、あくまでも隠喩としてのみ用いられたにすぎない糞便と、そこだけで見れば全く区別が付かない。したがって、この言語を操作する者は、糞便そのものの表象と隠喩としての糞便とを意図的に混同し、新たな文脈を形成することすら可能である。
 ということは、である。ある映画に関して「映像そのもの」ではなく、「映像をいったん言語に移し替えたもの」を議論の素材とするならば、映像そのものに即していた限りでは到底出てこないような突飛な文脈を構成することが可能となる。
 ……だからこそ、そのような意味での隠喩の機能が存分に駆使されてしまっている『シネマの大義』という著作は、私としては、マルクス主義からも表層批評からも後退してしまっているという判断を下さざるをえないのだ。


 繰り返すが、隠喩であるかどうかが一見すると不確定な表現が実際には隠喩として機能しているという事態は、『シネマの大義』という著作においては、極めて致命的なことであると言えると思う。
 例えば、この論集でなされる議論の理論的な中枢であると見なせる「フーコー/イーストウッド」「プラトン/レヴィナス/ゴダール/小津」あたりの小論では、その根本的な発想として、哲学者による著作をあくまでも映画と見なし、哲学書の展開自体に切り返しショットやクロースアップなどの映画の技法が含まれることになっている。
 つまり、廣瀬は哲学書をあくまでも映画としてとらえているわけだが、例えば「フーコーのカメラ」という記述がなされる際、それが文字通りの意味で廣瀬が信じていることなのか、それともあくまで隠喩としてのみ用いられているのかは、その部分だけでは確定できない。それぞれの論考自体は、この不確定性が貫かれているのである。
 しかし、『シネマの大義』という書物全体で見ると、その終わり近くに収録されたロラン・バルトに関する講演記録で、ドミニク・パイーニから話を引き継ぎつつ、廣瀬は次のように述べてしまう。


映画を直接的には論じていないようなテクストのなかにもストップ・モーションやクロースアップといった映画的手法を読み込んでみせるパイーニさんの映画批評家としてのその曲芸的な身振りを私自身もそっくりそのまま真似て、しかし、パイーニさんが引き出してきたのとは異なる答えを、いわば、パイーニさんの答えに対する切り返し、あるいは、アンチテーゼとして呈示した上で、私の後に発表されるバルト研究者の桑田光平さんにそのジンテーゼ、パイーニさんと私とを同時に捉えるロング・ショットを期待してみたい。今日はそのように思っています。(同、p468~469、ルビと傍点は省略)


 バルトが文字通りの意味で映画を撮影しているわけではないと自らが見なしていることを、廣瀬は自ら認めてしまっている。バルトが用いているのはあくまでも「映画的手法」であり、廣瀬自身が行なっているのは、「いわば」「切り返し」なのであって、「切り返し」そのものではない。
 直接聴衆を目の前にして発せられた言葉であるからだろうか、ここでの廣瀬は、文脈を明らかにし、それが比喩であることを隠さず、意味も固定する直喩を選択している。……ならば、この著作全体が一つの文脈に置かれるならば、フーコーやカントやレヴィナスが文字通りの意味で映画を撮影したと信じているのではなく、あくまでも隠喩としてのみ述べられていたことになってしまう。
 ……以上のことを確認した上で、この著作の冒頭に立ち戻ろう。小津映画とマルクス主義映画批評との関係を述べた廣瀬は、「ドラマ的あるいはメタファー的剰余価値生産」と述べていたのだった。
 当然のことであるが、「メタファー」と「剰余価値生産」とが「厳密に同義語」であると信じている者は、両者の間に「的」という言葉を挟むことはありえない。ここでの「メタファー」はあくまでも「剰余価値生産」を指示することに奉仕する直喩なのであり、「メタファー」と「剰余価値生産」が同等であると信じられてはいないことが、この些細ながらも決定的な表現によって自ずから明らかになってしまっているのだ。


 廣瀬純の『シネマの大義』を読み込みつつ私が考えたのは、以上のようなことであるのだが……廣瀬自身が掲げる「マルクス主義的表層批評」からこの書物の記述方法が乖離することによって生じた結果は、黒沢清の評価に表れているように私には思えた。
 蓮實重彦の映画批評を批判的に読み替える作業を貫徹するならば、結果としてその評価が最も大きく変動するのが、黒沢清であろう。しかし、廣瀬による黒沢清の評価は、むしろ蓮實による従来の評価とそれほど変わるものではない。
 廣瀬は、マルクス主義的表層批評の観点からして、黒沢清はゴダールと並ぶほどの特権的映画監督であるとする。私には、これは受け入れ難い評価だ。……むしろ、表層批評にマルクス主義の観点も入ることで、黒沢清の見え方は根本的に変わる……と言うか、蓮實重彦と黒沢清との影響関係のその間隙で、無視してもよいことになっていたはずのとある固有名が、全く異なる意味を持つものとして再浮上することになるはずなのである。
 ……とはいえ、これは、『シネマの大義』の読解とは直接的な関係がないことではあるので、改めて別の記事に書くことにしよう。









映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(下)

 既に述べたように、映画『ワンダーウーマン』は、ワンダーウーマンという(アメリカでは)非常に有名なキャラクターに関して全く何も知らない観客にとっては、おのずと見え方が変わってくるような作品である。とりわけ、「両腕のブレスレットで銃弾を弾く」というアクションは、そのことを最大の見せ場としてアクション演出が構成されているため、予備知識による印象の差が特に大きく出てしまうような部分となっている。
 このことについて、非常にがっかりしてしまったことがある。『ワンダーウーマン』の日本公開に合わせて、日本の色々な漫画家がワンダーウーマンのイラストを描くというキャンペーンがあったのだが……その中で、「ワンダーウーマンが、ブレスレットと剣で銃弾を弾いている」、というものがあったのだ……。
 ……いや、だから……まあ、これに関して、仕事を振られた漫画家には、別に罪はないだろう。しかし、企画が立てられ、漫画家に仕事を振り、たぶん下書きが仕上げられてから、カラーリングが施されて完成し、一般に向けて公表される……という過程で、「いやこれはおかしいですよ」と一言言える人は、ただの一人もいなかったんだろうか……。


 例えばの話なんだけれども、日本の非常に有名な漫画である『ドラえもん』を、ドラえもんの存在が全くの未知である外国に紹介しようということになったとして、「戦後日本の社会状況においてこの漫画が登場した背景は……」とか、「この作品を生むに至った作者の人となりは……」などということから、まず紹介を始めるという必要はありますかね?
 いやもちろんそういう話が出てきてもいいんだけれども、まずは、「ドラえもんの四次元ポケットやひみつ道具がどういうもので、それを巡ってストーリーの見せ場はどのように作られるか」とか、「作中での主要なキャラクターはこんな関係を持っている」……などといったところから始めて、作品をごくふつうに受容できる下地がまず作られてから後の話ですよね、どう考えても。
 ところが、日本のマスメディア上とかで『ワンダーウーマン』が紹介されるのを見ていると、とりあえず私の見た範囲だと、政治的状況やら時代背景やらの話しかされておらず、ブレスレットに関するアクションについて触れられているのなんて見たことなかったんですよねえ、アメコミに関して識者であることになっている人々の発言で……。
 まあ私自身はワンダーウーマンに関してはそれほど詳しくない方のキャラクターなもんで、真偽を細かく判定することはできないんですが……しかし、これがキャプテン・アメリカなんかだと、キャプテン・アメリカをアメリカの政治や社会と結びつけて語りたがる人々がさも読んだかのような振りをしてついている嘘の数々は、全部ばれてますぞ。
 そういうことから考えると、「ワンダーウーマンの政治性や拝啓知識に関しては饒舌に語るが、ブレスレットのアクションについてすらほぼ触れないというような人は、そもそもコミックなど読んでいない紹介者なのではないか」という疑いを、当然のこととして持ってしまうわけです。


 とはいえ、じゃあコミックそのものの紹介がいいのかというと、そんなこともないのだった。
 映画『ワンダーウーマン』の公開にタイミングを合わせて邦訳が出版されたのが、現行のDCコミックスの「リバース」展開になってからの最初の単行本『ワンダーウーマン:ライズ』であったことには本当にがっかりし、「特に何も考えないで、機械的に出してるだけなんだろうな~」と思えてしまうようなことだった。
 DCコミックスの「リバース」展開で、とりあえず新規読者がそこから入っていけるように、ほぼ全てのタイトルが新規まきなおしとなったことは事実。……しかし、これが「ワンダーウーマン」の場合、「今までワンダーウーマンのオリジンは何度も語られ直されてその都度少しずつ設定に変化が見られたが、そこにはまやかしがあったのではないか」というところから始まったのだった。
 ……で、そこから、ワンダーウーマンが秘密を探る現在時の話と、改めて出生の状況が語られる回想編とが交互に語られるというのが、それ以降の「ワンダーウーマン」の展開だった。……が、この交互に時間軸を行ったりきたりするのをとりあえず単行本にまとめるときにはやめて、現在編をまとめて単行本の一巻『ライズ』、過去編をまとめて二巻の『イヤー・ワン』として出版された。
 しかし、日本の場合、「あまりにも有名であるがその出生は何度も異なる形で語り直されてきたワンダーウーマン」という話の大前提が共有されていない。だから、その状態で読者がいきなり『ライズ』を読んでもぴんとくることはないだろう。……一方、『イヤー・ワン』の方はと言えば、非常にオーソドックスな形でワンダーウーマンのオリジンを語っており、全く何の予備知識もいらず、ダイアナがブレスレットで銃弾を弾くことになる経緯も語られており、なおかつ映画とも登場キャラクターがかぶっている……ということで、どこからどう考えても、映画公開に合わせて出すにはこれしかないというドンピシャのものなのである! ……が、いまだに邦訳が出てはいないわけだ……。
 だいたい、当のDCコミックスがフリーコミックブックデイなんかで配布していたのは『イヤー・ワン』の方の第一話だったりしたくらいなんだから、「日本の状況はこうこうなのでこうしたいです」という企画を立てれば、単行本の順番を変えるくらいの許可は下りると思うんだが……。そして、それ以前の問題として、『ライズ』と『トゥルース』は完全にひとまとまりの作品なので、『ライズ』だけで先に出版しても、あまりにも中途半端なところでぶつ切りになってしまっている感じが否めない。しかし、これをひとまとまりのものとして続けて読めば、グレッグ・ルッカのライティングもさえ渡り、とんでもなくすばらしい逸品に仕上がっているのである。
 これだけすばらしい作品を、可能な限り適切な状態で刊行しようとする意志は、はたらなかったんだろうか?


 ……などという風に見ていくと、この作品をどのように受容したらよいのかということについて、どこを見渡しても熱意のようなものは見あたらず、結果として、作品をきちんと理解しようとする機運も全く盛り上がらなかったのが『ワンダーウーマン』という映画だったのだと思う。
 このことに関しては、この映画とフェミニズムの関連性をめぐることでも全く同じ状況であったと思う。……なるほど、いざ蓋を開けてみると、この映画はダイレクトにフェミニズム的な指向が含まれるようなものではなかった。
 そのことに関して「やった! フェミニズム臭くない!」などと喜ぶのはもちろん最悪の反応だが、一方で、フェミニズムの観点から「たいしたことない」などとあっさり断じてしまうような評価も、複数の場所で目にした。
 そのようなことについて私が思ったのは、「フェミニスト批評ってのはそんなに甘いものなのかね?」ということである。……だいたい、ハリウッド映画は世界中に向けて売り出される商品なのだから、表向きの大まかな内容はあっさりと咀嚼できるように製作されているのが当たり前である。
 これはフェミニスト批評に限った話ではないが、一見すると単純な内容しか持たない大量消費のための商品としてのフィクションを、実際には存在している詳細な意味内容を分析し時には社会的な文化背景との関連性を浮き彫りにしたりするようなことまでするために、高度な批評理論なんかが存在したりするわけだ。
 単純な商品の表向きの単純な内容をとりあえず咀嚼しただけで、単純な鑑賞以上の分析を試みるわけでもなければ、文化背景をていねいに調べる気もない……にもかかわらず、単純な内容の評価以上の、なんか知的っぽい言説を口にしてみたい。これでは、単に怠惰なだけだと言われてもしかたがないだろう。


 ワンダーウーマンという有名なキャラクターには、フェミニズムと関わり合うという意味合いが不可分に結びついて存在し続けてきた。にもかかわらず、始めてこのキャラクターが単独で実写映画化された『ワンダーウーマン』の作中では、直接的なフェミニズムの主張はほとんど存在しなかった。
 ……ならば、「それはなぜなのか」という問いを立て、それに答えるために背景を調査したり分析を展開したりすることを経た後で初めて、その内容に関する評価を下すことができるだろう。
 はっきりとここで述べておかなければならないのは、二十年ほど前までのアメリカのコミック・ブック業界においては、性差別が自覚的に意識されることすらないまでに内面化されていたということだ(……これはまあ、要するに、今の日本と大して変わらないということでもある)。コミックの内容に対する自己検閲のシステムであるコミックス・コードが有名無実化していった80年代以降の状況で、性と暴力に対する直接的な描写が氾濫したが、そこにあったのは、主要な読者層であるヘテロの若い男性の欲望に無批判に奉仕するものであったわけだ。
 それ以降、現在に至るまでのアメリカのコミック・ブック業界は、そのような無自覚なセクシズムに対する批判を受け入れ続け、業界の性質を絶えず変え続けてきた。スーパーヒーローものに偏重していた内容に関しても、様々な内容が取り上げられる方向に進み、女性の描写が若い男性の性的な視線から消費されるためだけに存在するようなことは、ほぼなくなっていった。
 ここ二十年ということなら、例えばジム・リーは、トップクラスのアーティストとしての地位を保ち続けている。そして、ジム・リーのアートの変遷を確かめてみれば、作風そのものにはそれほど大きな変化は見られないものの、女性の人体の描き方は根本的に変わってきていることは、一目瞭然なのだ。
 もちろん、現実社会の水準でなら、アメリカにも性差別はまだまだ残っているのだろう。コミック・ブック業界でも、読者の側からのバックラッシュは絶えず存在する。しかし、少なくともフィクションの製作現場の水準でなら、作り手たちの間で性差別をなくすことが当たり前のこととして内面化されてきてもいる。
 そういう意味では、現在のコミック・ブック業界を代表する男性が音頭をとって製作し、女性監督の仕事をサポートして完成した『ワンダーウーマン』に直接的なフェミニズムの主張がなかったことは、むしろ、「ようやくここまできたか」と思えるような、喜ばしい事態なのだ。それはつまり、ワンダーウーマンがフェミニズムの意味ばかりを担うことからはとりあえず解放され、個人的な問題を抱えたただの一人の女性として描くこともできるようになったということだからだ。
 ……だから、こういう状況についての「やった、フェミニズム臭くない!」という反応も、「フェミニズムの観点からは全然たいしたことない」という反応も、双方ともに私としては悪い冗談の類としか思えない。これは単に、日本の文化状況がアメリカから二十年以上の差を付けられて、周回遅れになっていることに完全に無自覚な者によってのみ発せられる言葉なのだろう。


 映画『ワンダーウーマン』の作中では、第一次大戦中の欧米での女性に対する不当な扱いが描かれる場面もあるが、厳しい告発が向けられるわけではない。私の考えでは、これはあくまでも「昔はこんなにおかしいこともまかり通ることもあったんだね」という回想としてのみ存在しているのだと思う。
 もしお望みであれば、ワンダーウーマンというキャラクターの担ったフェミニズム的な意味を、社会的な文脈のメタ的な視線まで織り込んで制作されたコミックも存在する。……正確には、ワンダーウーマンそのものではなくワンダーウーマンのパロディキャラを主人公とした『アストロシティ:ヴィクトリー』である。
 このコミックでは、フェミニズムを強く主張し、女性に希望を与えるために闘う女性ヒーローが、社会のあらゆる方向から徹底して罵詈雑言を浴びせられ続け、女性だけが共同生活を営むキャンプが「狂信的なカルト集団の巣窟」などとバッシングを受け、それでも戦い続ける様が描かれている。つまり、ワンダーウーマンというキャラクターの作中で描かれた内容のみならず、社会的に担ったメタ的な文脈をもふまえてストーリーが構築されているわけだ。
 このようなコミックの脚本を、カート・ビュシークという一人の男性が書くことができたということが、既に記念碑的なことであると言えると思うのだが……そうだとしても、これが可能になったのは、コミック・ブック業界のセクシズムをめぐる血みどろの闘争が既に過去のものとなり、過ぎ去ったこととして回想する余裕もできたからこそ成立しえた作品だと思う。
 ……まあ、日本の文化状況にふさわしいのは、映画の『ワンダーウーマン』じゃなくて、こっちのコミックの方だとは思うが……。


 念のために書いておくと、映画『ワンダーウーマン』がフェミニズムの観点から見て反動的な後退だという批判があっても全くかまわないのである、その批判が正当な手続きを踏んでいるのであれば。
 例えば、ワンダーウーマンの両腕のブレスレットについて、アクション面での意味ばかり私は書いてきたけれど、一方で、「文字通りの意味で男が女を縛り付けていた時代の名残り」という意味付けも与えられてきた。また、ワンダーウーマンの故郷のパラダイス島にしても、基本的には、「男の暴力から逃れてきた女たちにとっての楽園」という含意があった。……だから、同じ内容に関するコミックと映画での描かれ方の落差を比較して、「映画の方が後退している」という批判だって当然成立しうるわけだよね、私が読んだ中では存在しなかったけれども。
 一方、あくまでも独立した映画としてのみ『ワンダーウーマン』を評価するため、作中に描かれていることだけを内在的に取り上げるという立場も当然成立する。……しかし、その場合には当然のこととして、この映画の外部でワンダーウーマンというキャラクターが幅広く持ってきた文化的・社会的な意味には、いっさい言及してはならないということになる。
 これまたフェミニスト批評に限ったことではないわけだけれども……映画をあくまでも独立した映画としてのみ見て、作品外部の文化背景やなんやかやに関してはいっさい調べる気も分析する気もないけれども、影響力の大きな有名なキャラクターなので、独立した映画をとりあえずは見たという知識のみに基づいてその外部の大きな分化や社会の文脈について語りまくるということを、スーパーマンやキャプテン・アメリカなんかを取り上げて平然とやっている人々って、掃いて捨てるほどいるよね。
 ……そういう意味では、これはやっぱり、フェミニズムうんぬんの話ではない、はるかにそれ以前の問題だ。批評や研究のめんどうな作業をする気はさらさらない人々が、なんとなく知的っぽい感じに自己満足できる、文化的・社会的に大きな文脈を切ったつもりになれるような批評もどきをやりたがるのは全くくだらん、ということでしかない。
 やっぱり、問題なのは、単純に物事を断言できないような状況の複雑さ、めんどうな作業を進めなければ理解などできないようなあいまいさにとどまることのできる人間がほとんどいない、ということなのだろう。映画『ワンダーウーマン』の主演のガル・ガドットとイスラエルの関係についても、怒り出す人が出てくるのはまあ当たり前のことではあるわけだ。……もちろん多くの日本人にとってはパレスチナ問題など身近ではなく、それほどの知識があるわけでもなく、当事者の感覚など持ち合わせてはいないのだが、しかし、自分にとっては縁遠い問題についての他人の怒りを「それとこれとは話が別」というように、さも理性的であるかのような分別をふりまわすのはおかしい。これは、客観的なのではなくて、他人事であるのにすぎない。
 このことを日本に置き換えたら、どんな話なのだろうか。……例えば、黒澤明の『七人の侍』を現代でリメイクするとして、強者に虐げられる村人たちを救うために立ち上がった七人の侍を演じるのが……石原慎太郎! 百田尚樹! 高須克弥! 長谷川豊! ……などというメンツだったとして、果たして我々は冷静でいられるのか。
 まあ、この場合は純粋に映画としても酷いことになりそうだけれど、「それはそれ、これはこれ」「作品としての評価と俳優への個人的評価とは別の話」という言葉を発するのには、本当はそれなりに覚悟がいることはわかると思う。……そして、パレスチナ問題に関する当事者感覚というものは、たぶんこんな例よりもさらに生々しいものであるはずなわけだ。映画というジャンルで、身体性をまるまる備えて作品に写り込む俳優の個人的な属性と役柄とを完全に区別してとらえるのは難しい。……そして、そのような難しさや曖昧さをあっさりと無視して簡単な結論に飛びつくのは、「理性」や「客観性」や「分別」などではなく、粗雑にして無神経な愚かさでしかない。


 ……まあ、こういうような状況を見るにつけ、ワンダーウーマンというキャラクターは日本になど相応しくない……と思うのだったが、しかし、ダイアナはといえば、スティーヴとともに、問題はdeserveではなくbelieveなのだと言っていたのであった。










映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(中)

 映画『ワンダーウーマン』は、何の予備知識もなくとも独立した作品として見ることができるものになっている一方で、作品に備わる数多くの美点の大半は、もともとワンダーウーマンというキャラクターを知る観客にとってこそ価値のあるものになっている。
 このことは、アクション演出の水準にまで及んでいる。その中でも特筆するべきなのは、ワンダーウーマンの両腕のブレスレットに関するものだ。……ワンダーウーマンというキャラクターを多少なりとも知る者ならば誰一人として知らないことはないほどまでに有名なのが、彼女がブレスレットで銃弾を弾く場面なのである。これは、「胸板で銃弾を弾くスーパーマン」や「バッタランを投げるバットマン」などといったものと同等と言えるほどまでに超・有名なアクションの見せ場なのであり、ファンからすれば「説明不要!」と思えるような要素の一つなのだ。
 ……そう、だからこそ、映画『ワンダーウーマン』は、この件について説明しないのである(とは言え、ノーマンズランドの場面さえもがカットしようとする圧力に絶えずさらされていたのなら、「両腕のブレスレットに意味付けが与えられる場面」も元々はあったのにカットされてしまったのかもしれないとも疑ってしまうのだが……)。ブレスレットで銃弾を弾く場面こそがワンダーウーマンにとってのアクションの最大の見せ場であるからこそ、あの手この手でそのような場面を作中に盛り込み、少しずつ見せ方を変えながら、何度も何度も繰り返して描き続けている。……つまり、ワンダーウーマンを知る観客にとっては死ぬほど盛り上がりまくる名シーンとなっているのだが、逆に、ワンダーウーマンのことを全く何も知らない観客にとっては、何も感じずに見過ごすだけの場面となってしまっているだろう。


 アクション一つを取ってみてもそのように描かれている『ワンダーウーマン』と比較すると、『スパイダーマン:ホームカミング』は、原作となるコミックのことを全く知らなくとも鑑賞できるように製作されている。……正直なところ、コミックをいかに参照したのかという部分を全く考慮に入れず、純粋に映画としてのみ評価するならば、『スパイダーマン:ホームカミング』は、あらゆる面で『ワンダーウーマン』を上回っているとすら思う。
 『ワンダーウーマン』という映画は、全く予備知識がなくとも鑑賞できるように製作されていながら、その真価を楽しめるのは、ワンダーウーマンについてある程度の予備知識を持っている観客である。……一方、『スパイダーマン:ホームカミング』のコミックとの関係は、奇妙に入り組んだものとなっている。この映画は、コミックにおけるピーター・パーカー=スパイダーマンのことを何も知らなくとも鑑賞できるようになっているーーしかし、コミックにかんする予備知識は必要なくとも、これまでのマーヴル映画を観客が見てきていることが話の大前提となっているのだ。その意味で、コミックへの参照が大幅に刈り込まれている一方で、観客に事前に予備知識を備えていることを要求していないわけではないのだ。
 そのようなことは、『スパイダーマン:ホームカミング』の冒頭の時点で既に端的な形で現れている。作品の開幕を告げつつ、何やら聞き慣れない音楽が鳴り響く……と思いきや、しばらく聞き続けてから、その曲が何であるのかに気づいて驚くことになる。冒頭で流れていたのは、アメコミファンにとっては極めてなじみ深いものであるはずの、あのスパイダーマンのテーマであったのだ。つまり、ベースとして昔ながらのスパイダーマンのテーマが使われてはいるものの、あまりにもアレンジをかけ過ぎた結果として、それがスパイダーマンのテーマであるということにすら、すぐには気づけなかったのだ。
 『スパイダーマン:ホームカミング』の原作コミックへの参照の仕方は、全体としてそのようなものである。……例えば、スパイダーマンの神話を構成する不可欠の要素の一つとして、ベン伯父さんをめぐる挿話があることは言うまでもないだろう。ベン伯父さんが死ぬ事件を通じて、ピーターは教訓を得て、スパイダーマンとなる。ベン伯父さんの死とスパイダーマンの誕生とは不可分に結びついている。……しかし、『スパイダーマン:ホームカミング』は、ベン伯父さんの死を描かず、ピーターは既にスパイダーマンとなっている。
 つまり、ここにあるのは、「ベン伯父さんの死」ではなく、単に「父親が不在の家庭」なのである。あくまでも「父親が不在の家庭で暮らす少年」としてピーター・パーカーが描かれるからこそ、父親の役割を代行する存在として、トニー・スタークがその場におさまることになる。……かくして、スパイダーマンの誕生にまつわる本来の文脈はほとんど抹消され、「多くの作品によって構成されるマーヴル映画の内の一本」として、マーヴル映画の内部の文脈にこの映画が位置づけられることになるわけだ。
 『スパイダーマン:ホームカミング』という映画は、実質的に、『アイアンマン』シリーズの続編と見なした方がいいと私は思う。もともと『アイアンマン』シリーズでトニー・スタークの精神面を描く上で主要なテーマの一つとなっていたのが、微妙な距離感を抱えたまま死別した父親との関係性なのであった。そして、シリーズが進んで『アヴェンジャーズ』でマーヴル映画が合流することになると、若き日の父親が心酔していた存在が現代に蘇ったキャプテン・アメリカとの関係性に、父親への葛藤が投影されていたわけだ。
 そのように描かれてきたトニー・スタークが今度は擬似的な父親の役割を果たそうと悪戦苦闘するのが『スパイダーマン:ホームカミング』なのであり、だからこそ、映画はあのような出来事をもって実質的に終わることになる(……と、いうことは……『スパイダーマン:ホームカミング』にああいう形で登場することになった、スティーヴは……ピーターの、おじいちゃんだったのか……)。
 ……というふうに見てみると、『スパイダーマン:ホームカミング』はあくまでもマーヴル映画全体の中での一本という色合いが強いものなのであって、原作コミックが存在することの必然性は限りなく希薄なものになっていると言うことができると思う(……とは言え、クライマックスの戦闘に向かう直前の部分で、「アメイジング・スパイダーマン」33号の超有名な場面にオマージュを捧げたのはよかった)。


 マーヴル映画の一部分としてコントロールされつつ製作された『スパイダーマン:ホームカミング』は、しかし、最近のマーヴル映画に私が抱いていた共通の不満がほとんど解消されている作品でもあるのだった。
 『アイアンマン3』以降のほとんどの映画に共通していた照明の問題もなかったし、脚本の設計も極めて巧みなものだろう。……で、なぜこんな風にマーヴル映画の問題点が改善されたのかと考えると……これに関してはあくまでも純然たる憶測なんですが、ジェフ・ジョンズの映画化への進出を最も脅威に感じていた人物こそがファイギだったんではなかろうか、と。
 だってですよ、明らかに映画化されたもののことしか知らん連中が「DCコミックスと言えば暗いイメージ」などと言うたびに私などは殺意を抱いてきたわけですが……実際には、『アイアンマン』以降のマーヴル映画の全体的な方向性というものは、映画のみならずアメコミ業界全体の動向を照らし合わせるならば、DCコミックスにおいてジェフ・ジョンズが(とりわけ『グリーンランタン:リバース』において)確立した潮流に全面的に乗っかったものであることが明らかなわけです。
 もちろん、ジェフ・ジョンズの作風に明らかに影響を与えているカート・ビュシークやダーウィン・クックの仕事にまで遡ってもいいわけですが、いずれにしてもはっきりしているのは、マーヴル映画の方向性は、アメコミ業界の全体の潮流からすると、出てくるべくして出てきたものだった。また、コミックの局面だけを見ると、そういう方向性に関しては明らかにDCの方が一歩も二歩も先を行っていたことは明らかなわけです。
 それが映画になるとどうですか。今回の『スパイダーマン:ホーミカミング』の冒頭にしてもね……『アヴェンジャーズ』のニューヨークでの大決戦の残骸がその後与えた影響から始まった時点でね……正直、「あ~、たぶんジェフが『バットマンvsスーパーマン』でやりたかったであろうことが取られた~!」と思いましたよ。
 だって、『バットマンvsスーパーマン』の冒頭で、前作でのヒーローの破壊的活動への批判的視点を盛り込むところから始めようとするアイディアって、たぶんジェフのものでしょう。それが、どうみてもいろんなテーマがごちゃごちゃ入り組んでいる迷走感の結果、なんであんなオープニングで始まったのかもわからんようなグダグダの展開に。それに比べれば、『スパイダーマン:ホームカミング』の方は、うまいことそのアイディアを脚本の内に取り込むことに成功しています。
 ……以上のようなことをふまえて、これまた憶測にすぎないわけですが、にもかかわらず私としてはほとんど確信していることがあります。
 映画『ワンダーウーマン』におけるノーマンズランドのシーンは、私の見たところ、脚本面での特徴は(あそこだけは)ジェフ・ジョンズの作風が全開でした。しかし、ワーナー内部では「意味がわからない」「荒唐無稽」と批判されてカットしようとする圧力が大きかったのだと言います。
 これを受けて、私にはどうしても思い出されることがあるのです。……というのも、ベン・アフレック&ジェフ・ジョンズの共同執筆によるバットマン映画の脚本は既にお蔵入りが決定していますが、この脚本に関して、完成後にワーナー内部で「意味不明」「支離滅裂」「映画の脚本として成立していない」などと批判する声が大きかったと報じられてもいました。
 ……ちょっと待て……これ、どう考えても、ノーマンズランドの場面を削ろうとしたのと、ジェフジョンバットマン脚本を叩いてたの、同じ連中だろ~っ!!! ということは、逆に考えれば、お蔵入りになったバットマン脚本って、「ノーマンズランドの場面のノリが最初から最後までずっと続くようなもの」だったってことじゃないの!?
 もうね……ワーナーはクソ! 本当にクソ! どうしようもないクソ! ……うぅ……これじゃあ、いくらなんでも、ジェフ・ジョンズの才能の無駄遣いじゃ……(涙)
 繰り返しますが、あくまでも仮説の域を出ないんですが、私としては、「結局のところ『ワンダーウーマン』の脚本をジェフ・ジョンズがコントロールすることはできなかったので、原作コミックへのリスペクトを残すことを優先して闘い、後は妥協してできた結果があれだった」という推測に落ち着いています。原作コミックへのリスペクトを残しつつ、なおかつ一見さんにも面白いということは、ちゃんとジェフに全権を与えてたらクリアできてましたよ。だって現にドラマ「フラッシュ」では実現してるじゃないすか。
 『ワンダーウーマン2』の脚本にしてもね、既にパティ・ジェンキンスとジェフ・ジョンズが共同で草稿を書き上げたそうですが。そこからさらに、新たに脚本家を呼んで改変を加えるそうですね。……うん、うん、その過程、全部無駄だね! ワーナーよ、もうそれ以上いじるな!


 今回で最後まで書き終わるかと思ってたんですが、微妙に忙しかったこともあり書ききれなかったので、このエントリはまだ次に続きます。日本における紹介のまずさと、それからフェミニズムに関することについても続きで書きます。









«  | ホーム |  »

プロフィール

Howard Hoax

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

全記事表示リンク

広告

 

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

広告

 

検索フォーム

 

 

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

 

QR