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エリック・ロメール&クロード・シャブロル『ヒッチコック』と編集の倫理

 エリック・ロメールとクロード・シャブロルの共著になるヒッチコック研究書『ヒッチコック』を、邦訳で読んだ。

 もともと、アンドレ・バザンの影響下に「カイエ・デュ・シネマ」誌で活動していた若い映画批評家たちが実作者へと転じていくことで主要な流れが形成されたのがヌーヴェル・ヴァーグなのであったーーそして、ヌーヴェル・ヴァーグが取った批評的立場で重要であったのは、単に商業的娯楽作家とみなされていたアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスの作家的価値を称揚することにあったのだった。

 この邦訳版『ヒッチコック』の解説にもその経緯は詳細に記述されているのだが、当時のフランスにおいて、特にヒッチコックの作品の価値に関する論争は相当に激しいものだったらしい。「カイエ」の執筆者がヒッチコック擁護で揃って立場が統一されているというわけでもなく、論争の果てに、ロメールとシャブロルによる単著として刊行されたのが、この『ヒッチコック』なのであった。

 ……というわけで、もともと映画史的にも非常に有名な著作であった『ヒッチコック』であったのだが、この邦訳が出たのは割と最近であり……いざ読んでみると、なんというか、現在の視点で見ると、かなり古びてしまっている印象を受けた。





 まず、そもそも前提としておさえておかなければならないのは、ロメール&シャブロルによる『ヒッチコック』が、ヒッチコックに関するモノグラフィとしては世界で最初のものであるということだろう。言い換えれば、この著作が刊行された時点では、ヒッチコックがまともな研究の対象とみなされてすらいなかった、ということだ。

 いかなるハッタリもなく、当然のこととして、ヒッチコックをただ堂々と論じてみせるということは、当時の状況としてはそれ自体が大きな意味を持ち得たのかもしれないが……現在の視点で見ると、単にフツーの研究書であるように見えてしまうのである。

 『ヒッチコック』という著作は、激しい論争の果てに成立した書物であるにもかかわらず、その起源にあったはずのポレミカルな部分の痕跡はそのほとんどが消去されている。その数少ない例外が、アンドレ・バザンの立場に言及した部分だ。ロメール&シャブロルは、ヒッチコックを否定する当時の批評家たちを非難しつつ、次のように書く。





 時間が経てば彼らは笑い者になるのだから、こうした批評家は皆無視しよう。唯一重大な反論がアンドレ・バザンによって表明された。彼にとって、ヒッチコックの映画が革命的なのは見掛けだけでしかなかったのだ。(『ヒッチコック』、木村建哉・小河原あや訳、p114)





 ……確かに、ヒッチコックを認めなかった人々のその後についてはロメール&シャブロルが完全に正しいのだから、ある意味では、現在の状況こそが、ロメール&シャブロルの願望が成就した状況であると言えるのかもしれない。つまり、彼らの『ヒッチコック』が、単にふつうの評論として読めてしまうということが。

 とはいえ、この著作の内部には、そう簡単には消化できないような部分も含まれているので、もう少し細かく見てみたい。





 ロメール&シャブロルの『ヒッチコック』は、刊行当時に製作されていた『間違えられた男』までのヒッチコック作品を編年体で論じている。現在の視点から見ると、『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』といった重要な作品群を取り上げることができなかったわけだが、そうは言っても、イギリス時代およびその時点でのアメリカ時代の作品を網羅するだけで、膨大な量に上ることになる。

 ヒッチコックが監督としてのキャリアをいかに送ったのかの評伝を含みつつ、個々の作品製作にあたってプロデューサーとの関係などの中でヒッチコックがどれほどの自己裁量を獲得できたのかなどにも言及しつつ、個々の作品の具体的な検討がなされる。

 そして、その際、ヒッチコック作品のそれぞれの善し悪しを単にバラバラに論じるのではなく、全ての作品に一貫して存在する構造が探られることになる――『ヒッチコック』という著作の特異な部分が現れるのは、このあたりである。ロメール&シャブロルは、ヒッチコック自身がカトリックであったことを非常に重視し、ヒッチコック作品に一貫するカトリック的な世界観を検討するのである。

 たとえば、『断崖』における主人公の疑惑の感情を検討する際、ロメール&シャブロルは次のように書く。





実際、疑惑は、『レベッカ』の作家が好むテーマの一つであり、ヒッチコック映画の中には、疑惑がしかるべき位置を占めていない作品は一本もないほどなのである。疑惑とは、言わば「交換」の概念の心理的な保証金であり、この概念の道徳的な側面は後ほどさらに推し進めて検討することになろう。(同、p82、傍点は省略)





 ヒッチコック作品の全てに登場する「疑惑」という登場人物の感情は、一見すると感情とは関係がなさそうな、「交換」というテーマと結びついているのだという。

 『ヒッチコック』においてロメール&シャブロルがまず目指すのは、ヒッチコック作品が脚本面で一貫して持つ構造を解きほぐすことである。だからこそ、ロメール&シャブロルは、『疑惑の影』いついて論じるときにも、次のように書く。





この作品の中に心理的な犯罪映画の独創的な見本しか見て取らないことは、まず不可能である。脚本の構造自体が、そして熟考された演出の詩法が、そうした見方を禁じるのだ。ここでは、すべてが脚韻の原則に基づいている。(同、p87)





 ヒッチコック作品において、登場人物の感情とプロットの展開(さらには、ここでは論じられていないが、ヒッチコック作品に頻出する特異な視覚的な特徴)とは、あたかも詩作において脚韻が踏まれるかのような、首尾一貫とし整然とした建築的構造を有している。

 ヒッチコック作品を何本かまとめて見てみれば、そこにある突出した視覚的な表現は、誰でも気がつく。しかし、ロメール&シャブロルは、単にヒッチコックの視覚的表現を抽出して、それだけを独立したものとして評価するのではない。むしろ、単に周囲から浮き出て突出しただけにみえる視覚的に異常な細部が、実は、作品全体の論理の中では、登場人物の感情と不可分に結びついていることを強調するのだ。

 だからこそ、ロメール&シャブロルは、『見知らぬ乗客』について、次のように書く。





 ヒッチコックの技――この映画は、それを特によく際立たせている――は、純化された、ほとんど幾何学的なあらゆる形象が我々一人一人に与える魅惑によって、我々に登場人物の経験するめまいを共有させ、そしてめまいを越えて、精神的な観念の深さを発見させることにある。象徴から観念へと向かう流れ[電流]は、常に感情という凝縮器を通過する。これは決して理論的な、型にはまった関係ではない。それゆえ感情とは手段であり、猟奇人形劇のドラマと違って、目的ではない。感情は、形式を越えたところに、しかし観念の手前にある。したがって、感情は、口の中に苦い味を残すと同時に、世界の統一性それ自体であるような<統一性>の感覚を我々に残す。カオスのただ中で常に判別可能な<統一性>であり、<悪>の暗い諸相に最も美しい光線のいくつかを反射させているような原初の光である。<自然>の強烈な感覚がこの映画全篇を貫いており、それは、祝日の夕方やよく晴れた午後といった日常的な自然であると同時にまた、大文字の自然、より正確に言えばコスモスでもあって、めまぐるしく旋回する様々な世界の深奥で、めまぐるしく旋回する一つの世界なのである。各々の振る舞い、各々の思考、各々の物質的もしくは精神的な存在には、ある秘密が託されており、その秘密からすべてが照らし出される。そしてこの光は、慰めと共に恐怖をも分かち与える。世界の土台が立脚するその同じ原理が同時に、世界の破壊を司ることのできる原理でもある。(同、p135、ルビと傍点は省略)





 ……これは、かなり入り組んだ複雑な議論である。まずここで前提とされているのは、ヒッチコック作品の個々の登場人物やそれぞれの作品の枠組みをもすら越えて、全体としての統一性が存在するということだ。それぞれの作品なりさらにその内部の登場人物なりは、それぞれの枠組みの範疇で自律的に行動しているのではなく、あくまでも全体の統一性の一部を担っているのにすぎない。だから、各個人の個人的な感情すら、単に各個人の内部で私有されているのではなく、より広い、世界の統一性の内部でなんらかの機能を果たすものである(おそらく、このような発想自体が、ロメール&シャブロルが重視するカトリック的思考がそのまま反映したものであるのだろう)。

 結果として、ヒッチコックの作品世界において、個人の内面の感情と、一見するとそれとは無関係に思える作品そのものの視覚的なスタイルは、有機的に結びついていることになる。画面に写る「純化された、ほとんど幾何学的なあらゆる形象」は、それ自体が自足して存在するのではなく全体の統一性に奉仕しているという意味では、各個人の感情とも等価なのである。

 そして、ロメール&シャブロルが、たとえば、ヒッチコック作品における「交換」の機能を重視するのは、以上のような議論を前提とした上でのことなのだ。……だからこそ、『間違えられた男』を論じる過程で、次のように述べられることにもなる。





ヒッチコックの固有性は、事態の裏と表とを同時に我々に見せることである。彼の作品は二つの極を往還し、それらの極は、両極端が相通ずるように一致し得る。この往還に、我々は「交換」という名を与えた。ここにおいて、この往還が、全人類の交換可能な罪責として、最も高貴な表現を見出していることを認めよう。(同、p183)





 個人がバラバラに存在しバラバラにそれぞれの行為なり感情なりを有しているのではなく、全体が統一性の内にあるからこそ、異なる個人がそれぞれに持つ感情なり、全く異なる場所で行われた別々の行為なりが、「交換」されることが可能になる……。

 そして、ロメール&シャブロルは、以上のような特徴を持つヒッチコック作品の構造の最も典型的な「母型」は、『裏窓』に結実しているのだと言う。足を骨折して歩けない『裏窓』の主人公は、望遠レンズで隣人たちの姿を覗きつつ、そこで起きていることに推論を加える。





 推論[演繹]の筋道は、いくつかの極端な帰結にまで進む。知りたい、あるいはより正確には、見たいという情熱は、ついには報道写真家の他のあらゆる感情を抑えつけることになるだろう。この「覗き」の悦楽の絶頂は、恐怖の頂点と合致する。彼は罰を受ける、というのは、自分の婚約者が、数メートルばかりのところで、中庭という深淵によって隔てられて、容疑者の部屋で不意をついて襲われるのだから。(同、p150~151)





 ……そして、『裏窓』が「母型」であるからこそ、それを基準としていくつかの要素に変形を加えれば、その他の作品がどのように構成されているのかも分析できることになる。





この観点、建築の観点から見ると、『知りすぎていた男』は、ちょうど『裏窓』の系[派生的命題]のように思われる。一方から他方へと移行できるようにするには、公式[定式]の項の一つを修正するだけで十分である。<空間>を<時間>に代えるのだ。

 『裏窓』において、登場人物を彼が欲望し恐怖する対象から隔てるのは、ある広がり[延長]である。この映画ではそれは、同じくはっきりと画定された、ある間の持続である。深淵はもはや空っぽの庭ではなく、ある長さの時間、同じほど大きな不安を分配する時間であり、そしてその不安をヒロインは、どんな犠牲を払っても飛び越えたいと願うだろう。(中略)『裏窓』の世界は、凝視の世界、絶対的な受動性の世界であり、いかなる出口もない。『知りすぎていた男』の世界においては、全体を支配する時間が、一つの可能な行動という次元を導き入れる。そしてこの救済は、<運命>(だがむしろ<摂理>ではないか)と<意志>が組み合わさった働きと引き換えにしか得られないのである。(同、p172~173、傍点は省略)






 ……などというように、ロメール&シャブロルが提示してみせる、ヒッチコック作品に通底する構造は、確かに説得力があるように思えるのだ。





 以上のように『ヒッチコック』の議論を整理していると、現在からすれば古びてしまっているという私の評価は、過小評価であるように思えるかもしれない。

 しかし、である。実は、ここまで私がその論旨を記述してきたような議論は、『ヒッチコック』の本文ではもっとはるかに錯綜して述べられており、各所に散らばった議論を整理して、かなり苦労して論点をまとめ直して、ようやく得られた見通しなのだ。

 ではなぜそんなことをしなければならなかったのかと言えば、『ヒッチコック』という著作は、あくまでもヒッチコックの経歴に即した形で、編年体で作品が時系列に沿って検討されていくからだ。

 ロメール&シャブロルが作品分析で試みているのは、ヒッチコック作品の全体に通底する共通点を探り、その構造を解明することだ――ならば、そのために最適な方法が、編年体の記述であることはありえない。実際、製作順に個々の作品が言及されるがゆえに、論旨が行ったり来たりし、一貫した議論を追うのが非常に手間がかかる記述になってしまっているのである。

 また、編年体であることが、ロメール&シャブロルによる個々の作品評価の説得力をも減じてしまっているように思える。なるほど、カトリック的世界観の分析が終始一貫して追求される著作なのであれば、そこで、『私は告白する』や『間違えられた男』が特権的な作品として評価されることには納得がいく。しかし、ヒッチコックのキャリアを年代に沿って追っていく過程で、この二作品が、同時期の『見知らぬ乗客』『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『知りすぎていた男』などといった傑作群よりも重視されてしまうことには、全く説得力がない(……正直なところ、この著作を読んでいて、批評家としてのロメールのキレのなさを痛感してしまったので、そもそも実作者になる前のロメールが批評家として「カイエ・デュ・シネマ」で活動していたころ、極東の島国でそれを読んでいた過激派映画ファンの学生が「こいつ殺す」などと言っていたのもやむなし、などと思ってしまったのだ……あ、これはもちろん、若き日の蓮實重彦の話です)。

 もちろん、なんらかの対象の抽象的な構造を解明するためには、歴史性・時間性をいったん括弧にくくらなければならないなどということは、当たり前のことである……ロメール&シャブロルがそれをできなかったのは、そもそもヒッチコック作品の研究書自体が存在しないという状況があったからだろう。まずは、体裁が整い単著として完成した評論が出版されるという形を作るため、オーソドックスな編年体に則った単著が上梓された……。

 そこまで考えて、ふと気づいたことがある。……結局のところ、著作家としてどのように著作の体裁を整えるのかということは、映画監督としてどのように自作を完成させるのかとうことと、全く同じことなのではないか、と。

 つまり私は、ここにこそ、ロメールとシャブロルの両名の、ゴダールとトリュフォーとの間の根本的な断絶があるのではないか、と思ってしまったのだ。……言い換えれば、ゴダールなりトリュフォーなりであれば、自分が信じる価値を自作で表現しようとするのに際して、世間一般への配慮と何らかの形で衝突が起きてしまうようなことがあった場合、果たして、体裁を取り繕うためだけに自作の編集を変えるようなことがあるだろうか、ということだ。

 例えば、トリュフォーがヒッチコックに直接取材した『映画術』は、体裁としては対談集なのだから、ロメール&シャブロルの『ヒッチコック』とは異なる……しかし、より根本的な相違として、異様なまでのハイテンションで徹底して自分の好きなものを語り倒すトリュフォーの態度こそが、あの著作をして、いつまででも古びることなく広く読み継がれ続けるものにしていたのではなかろうか。

 そのように考えてみれば……ロメールにせよシャブロルにせよ、優れた映画を何本も撮っているし、部分部分で見れば突出した細部もいくらでもある。しかし、作品全体を通してみたときに、通常の映画として存在できないような体裁をかなぐり捨てたもの、作家の衝迫のみに突き動かされて

わけのわからない領域にまで至ったもの……そのようなものは遂に実現することがなかった。彼らは最低限の世間向けの配慮、世間向けの忖度を捨てることはなかった……言い変えれば、ロメールにせよシャブロルにせよ、本当にヤバい一線を越えることだけは、決してなかったのだ。










バザンを読むゴダール

 アンドレ・バザンの映画批評はわかりにくい。しばしば、バザンの議論の論旨は不明瞭であり、分析の俎上に乗せる映画を綺麗に裁断するような爽快感はなく、むしろ、バザンが対象とどのように接しているのかすら把握しにくいようなことすら少なくない。
 その一方で、例えば『映画とは何か』の冒頭に収録された、バザンの代表的な評論の一つである「写真映像の存在論」は、人口に膾炙している要約によると、極めて素朴なリアリズムを肯定するものであるとされている。写真および映画が多くの芸術と異なるのは、現実に存在する事物からの転写を含むという、存在論的な側面を持つからなのであり、このような議論から、編集を排除し長回しで撮影されたシークェンス・ショットを重視するというバザンの美学的立場も導かれる、ということになっている。
 ……しかし、バザンが論じているのがそれほど単純なことに過ぎないのであれば、なぜ「写真映像の存在論」は、あれほどまでに論旨が不明瞭でわかりづらい文章でつづられているのか。あの評論は、書きようによってはもっとクリアに書けた――言い換えれば、それは単に、バザンの論理的な文章能力の欠如によるというのだろうか。
 ……実は、最近、アンドレ・バザンに関する邦語文献がいろいろと充実してきたということもあり、たまたままとめて読み込んでいたのだけれども、そこでわかったのは、私はバザンのリアリズムの議論に関して、根本的に誤読していたということなのであった。映画研究者による最近の議論なども含めてチェックしてみると、バザンの議論を単純化した議論の粗雑さを批判する論者もいる――しかしその一方で、それが定説となっているわけでもなく、過度に単純化されたままの従来の解釈もそのまま流通しているようだ。私自身、バザンの文章そのものを読み込んだ結論としてではなく、なんとなく流通している常識に引っ張られて、バザンの議論の複雑さをよくわかっていなかったのだ。


 「写真映像の存在論」において、確かにバザンは、現実に存在した事物の痕跡が転写されるがゆえに写真および映画は肯定されるという、非常に素朴な意味でのリアリズムを展開している。しかし、それと同時に、その単純な論旨には回収できず、一見すると議論の道筋から逸れているようにすら思える部分が、少なくとも二つある。
 まず一つは、バザンが「真のリアリズム」と「疑似リアリズム」とを区別し、前者のことを「世界の具体的な意味、真の意味を表現したいという欲求」と定義していることだ(なお、この点に関しては、三浦哲哉がバザンを論じた「二つのリアリズムと三つの自動性」(「現代思想」2016年1月号所収)において詳細に論じられている)。……つまり、バザンは、「疑似リアリズム」とは区別される「真のリアリズム」とは何かを端的に述べるのに際して、現実の世界の存在論的なありかたなど、微塵も語ってはいないということだ。
 もう一つは、この評論の結語である。現実の世界の痕跡によって成立する映画の存在論的なあり方を論じながら、その最後の最後に至って、バザンは、それまでの論旨には全く登場しなかった、以下のような言葉を付け加える。


 他方、映画はひとつの言語でもある。(「写真映像の存在論」、野崎歓訳、『映画とは何か』岩波文庫版所収、上巻p21)


 この言い回し自体は、マルローを参照したものであるらしいのだがーーとはいえ、まさにこのような文章をわざわざ結末において付け加えてしまうことが、バザンの議論のわかりにくさの本質であるように、私には思えるのだ。
 なるほど、映画を構成する映像とは、現実世界の痕跡が写し取られた、リアリズムの成果である。しかしその一方で、ほとんど全ての映画は複数のショットがつなぎ合わされて関連づけられて構築されている以上、個々のショットが言語として機能する、複数の記号によって織り成される構造体でもある。……そうである以上、映画の存在論的な側面だけを論じる立場を提出したところで、あらゆる映画のあらゆる側面を汲み尽くすことなどできるはずもないわけだ。
 そして、そのようなとき……アンドレ・バザンという批評家は、自分の議論によっては捕捉しきることのできなかったこと、自分の限界ゆえに明らかにすることのできなかった、映画の側には本来宿っているはずの可能性を、まったく無防備なまでにごろりと投げ出してさらけ出してしまう。
 したがって、バザンの議論は完結しない。そこにはっきりと可視化されている議論の混乱は、映画の複雑さに追いつけない自身の未熟さを包み隠さずに投げ出しているものである。……ならば、バザンが単なる存在論的な問題には回収しえない「真のリアリズム」なるものを提示しなければならなかった理由も、そこにあるのだろう。つまり、「写真映像の存在論」の議論は、あくまでも映画の一つの側面を論じたものでしかない以上、「真のリアリズム」は、バザンの議論をごく一部として含み込む、さらに上位の概念として提示されているのだ。


 よくよく考えてみれば、映画ほど数多くの要素から構成されている芸術もない以上、ただ一本の映画についてすら、その内容を完全に言語によって分析することは、事実上不可能である。撮影の問題があり、それに際して照明や音響の問題があり、俳優の演技があり、そのベースに脚本があり、最終的に編集の問題がある。言語によって、それも限られた分量で対象を分析するなら、その映画のごく一部にしか触れ分析することはできない。
 したがって、ある一本の映画を前にして、わかりやすい整理された評価を下す者、対象を心地よいまでに裁断しきってみせる者、即座に飲み込める断言を下す者……これらは、全て、対象となる映画のごく一部にしか触れることができていない上に、そのこと自体を隠蔽する言説であるだろう。
 一本の映画を前にしたときのバザンの批評は、むしろ、己の無能さをこそさらけ出す。そして、言語による批評では汲み尽くすことのできない映画そのものの豊穣さをこそ、逆説的に指し示す……(そんな風にバザンの批評を読むようになってみると、彼が、ほとんど野生児のごとき暴れ者にすぎなかったフランソワ・トリュフォーの保護者になりえたのは、その批評家としての本質と不可分に結びついていたように思えてくるのだ)。
 既に自我が硬直しきっている、もしくは、自我を語ることにしか興味を持たない者による批評は、対象から、自分が語りたい部分しか見出さず、残りを捨象するだろう。一方、バザンの批評は、己の限界ゆえに語りきれない残余をごくあっさりとさらけ出しつつも、対象を語る言説の精度を上げるために、絶え間なく自我を変容させ、自らの議論を不断に修正し続けるーーこれこそが、しなやかにして強靱な知性であると言うべきなのだろう。


 改めて、バザンの批評をそのようなものとしてとらえてみれば……バザンの議論を、編集を排除した長回しのショットを肯定するものとしてとらえるなどというのは、あまりにも粗雑にバザンを矮小化したものに過ぎないと痛感される。
 なるほど、バザンは、長く持続し多くのアクションを存在論的に統合したショットを肯定する。また、一つのアクションを構成するショットを分割するような編集を否定しもする。そして、そのような大ざっぱな構図に基づいた短評を実際に書くこともしている。
 しかし、バザンが「ある特定の状況における特定のショットの分割の否定」をなすことは、映画全般におけるショットの分割と操作・編集一般を否定することでは、全くない。実際、以上のようなことをふまえれば、バザンによる次のような言葉は、むしろ非常に明快なものとなるはずである。


 作品の美学的洗練と、現実を描くだけでよしとするリアリズムの生々しさや即効性といったものを対立させる考え方には注意しなくてはならない。芸術において「リアリズム」とは何よりもまず深く「美学的」であるということを改めて思い出させたところに、イタリア映画の大きな功績があるといえよう。(「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、谷本道昭訳、『映画とは何か』所収、下巻p91~92)


それゆえ私たちは、より多くの現実をスクリーンに現出させようとするあらゆるシステム、あらゆる技法を「リアリズム的」と呼びたい。当然のことながら、「現実」は量として捉えるべきものではない。同じ出来事、同じ対象について、さまざまに異なる表現が可能である。それぞれの表現は事物の性質のいずれかを捨て、いずれかを拾い上げるものであり、私たちは拾い上げられた性質をもとにスクリーンに映された事物を理解する。(同、下巻p95)


 このように、すべての芸術の中でもっともリアリズム的な芸術である映画でさえ、他の芸術と同じ宿命にある。映画は現実全体を捉えることはできず、現実はどこからか必ず映画から逃れていくのだ。技術的な進歩は、それが的確に用いられた場合、現実を捉える網の目を狭めることができるかもしれない。だが、複数の現実のうちいずれかを、多かれ少なかれ選択しなくてはならないことに変わりはない。(同、下巻p99)


 映画批評が一本の映画の全てを語ることができないのと同じく、映画が現実の総体を捕捉することはできない。……そして、だからこそ、映画が現実と対峙するとき、選択しうる方法は無数にあるゆえに、「複数の現実」があるのだと、バザンは述べている。
 だから、ネオレアリズモに見られるように、「写真映像の存在論」におけるリアリズムの議論がそのまま実現したような映画をバザンは高く評価する一方で、それとは異なるあり方をしたリアリズムが存在することをも、同時に認められる。だからこそ、バザンは、例えば次のように書くことにもなるわけだ。


以前に私は、現代映画のリアリズムのいくつかの側面を検討し、『ファルビーク』と『市民ケーン』にリアリズムの手法の両極を見るに至った。つまり、『ファルビーク』は被写体のリアリティ、そして『市民ケーン』は表象の仕組みのリアリティをわがものにしているのである。『ファルビーク』ではすべてが真実であるのに対して、『市民ケーン』ではすべてがスタジオで再構成されている。(「『揺れる大地』」、『映画とは何か』所収、下巻p130)


 ごく通常の意味での映画のリアリズムが「被写体のリアリティ」と言われる一方で、必ずしも現実の被写体が転写されているわけではない、むしろ編集の論理が重要であるオースン・ウェルズの『市民ケーン』は、「表象の仕組みのリアリティ」と表現されている。
 このことは、非常に重要である。なぜならば、バザンによるリアリズムの問題が単に素朴な現実からの転写に過ぎないという解釈を前提にすると、(バザンが高く評価する)『市民ケーン』が現実からの転写ではないトリック撮影を含むということが、バザンの理論の致命的欠陥であるかのような批判が出てくるからだ。しかし、既に見たように、そのような批判は、単にバザンの議論を矮小化している者の誤読に過ぎない(最近のことでも、『映画とは何か』の新訳の訳者の一人である野崎歓の『アンドレ・バザン 映画を信じた男』を一読してみると、バザンのリアリズムの問題を単純化して捉えた上で、ロッセリーニをはじめとするネオレアリズムの方の議論ばかりが追われていたので、本当にがっくりきた……)。
 では、バザンがウェルズに即して言う「表象の仕組みのリアリティ」とは、ネオレアリズモなども含まれるであろう「被写体のリアリティ」と、いったい何が異なるのか。


 短いジャーナリスティックな時評ではなく、単著としてオースン・ウェルズを論じた論考の中で、バザンは、「表象の仕組みのリアリティ」の実態を詳細に書き記している。
 それを読む限り、バザンの言う「リアリズム」とは、「モノとしての現実の世界が存在し、それを前提として、それを転写した表象としての記号の世界が存在する」というような、単純な図式に基づいてはいない。例えば、次のような記述を見てみよう。


 実生活で何らかのアクションに関わっているとき、私の注意力は、みずからの投企に導かれて、同様にある種の潜在的なデクパージュを行う。それによって、対象は確かに、私にとってそれが持つ面のうちのいくつかを失ってしまい、記号ないし道具となる。とはいえ、アクションはつねになされる最中にあり、対象はいつでも自由に、私をその物体としての現実性に立ち戻らせ(たとえば、ガラス製であれば、手に怪我を負わせるというように)、まさにそのことによって、予定されていたアクションに変更を加えることができる。私自身も、いかなる瞬間にも、そのアクションをもう望まなくなってもいいし、あるいは道具箱のようには見えなくなった現実それ自体によって、アクションから気をそらされることがあってもいいのである。
 ところが、古典的なデクパージュは、私たち自身と対象の間に相互的に存在するこの種の自由をすっかり取り除いてしまう。それは自由なデクパージュに代わって、アクションとの関連におけるショットの論理が私たちの自由を完全に麻痺させるような、強制されたデクパージュをもたらすのだ。私たちの自由は、それがもはや行使されえなくなる以上、もはや感じ取ることができなくなる。
 『ケーン』と『アンバーソン家』における奥行きの深い画面の組織的な使用は、もしウェルズがそこから古典的なデクパージュの改良しか引き出していなければ、なるほど月並みな面白味を持つ程度だろうが、ウェルズはそうではない別の使い方をしているのだ。(『オーソン・ウェルズ』、堀潤之訳、p81~82、ルビと傍点は省略)



 バザンが記述しているのは、極めて入り組んだ事態だ。……そもそも、映画がその対象とするような題材、ある人間によるなんらかのアクションがなされる際、そのアクションが完遂されるためには、当の人間が周囲を記号として認識し、記号として操作する能力を持っていることが前提となる。……しかし、記号として機能する物体には、モノとしての実態があるのだから、記号としての機能を失って単なるモノに戻るようなことも、いつでも起こりうる。
 つまり、映画が映画として存在するために参照する「現実」とは、既にしてモノの世界と記号の世界とが複雑に入り組んだ世界であることを、バザンは明言しているわけだ。
 バザンが否定するのは、素朴な意味でのリアリズムが失われるからではない。そうではなく、モノの世界と記号の世界とが入り組んだ複雑きわまりない実態を持つ場所としての「現実」、そのような現実を、硬直し慣習化された基本的スタイルによってのみ表現し、映画を見る者の自由を奪うこと――言い換えれば、「世界の具体的な意味、真の意味を表現したいという欲求」が見失われるからこそ、否定するわけだ。


 奥行きの深い画面は、こうしたアクションの美学に先立つ技法面での条件だったということが、いまやよく見て取れる。奥行きの深い画面だけが、このように有効な仕方で、現実を私たちの精神に重くのしかからせることができたのだ。『市民ケーン』の劇的なデクパージュは、この技法面でのデクパージュによって仕上げられなければならなかった。ちょうど調査員たちがケーンの人生の意味を見出すには至らないのと同じように、観客自身もまた、デクパージュによってパズルに向き合わされるべきなのだ。(同、p83~84)


 バザンのリアリズムとは、モノの世界が現実にそこに存在することを確認するための存在論ではないむしろそれは、観客がいかにして一本の映画と向き合うべきなのかを検討する、認識論としてある。
 だからこそ、バザンは、ウェルズによる編集という行為を否定しているのではないわけだ。むしろ、編集においてすら、「リアリズム」は存在しうることを、バザン自身が示唆している。


 この手短な検討において、確かに私はごく限られた事例しか取り上げなかったかもしれない。映画全体が以上のような原則に従って組み立てられているわけではないし、たいていの場合、きわめて特徴的な断片のただ中でも、オーソン・ウェルズはカメラによるシーンの古典的な分析に頼ることをためらわない――とはいえ、見たところ伝統的な提示の手法への回帰が、映画の全体的なスタイルをいささかも損なわないのはなぜなのか、そしてウェルズがすばやいモンタージュを用いるとき、彼がその部分にまで、固定ショットにおける「リアリズム的」な技法の要諦を通用させるに至っているのではないか、ということはさらに検討しなければならないだろう。(「『市民ケーン』の技法」、堀潤之訳、『オーソン・ウェルズ』所収、p144)


 アンドレ・バザンのリアリズム論は、単に素朴な現実信仰、長回しの称揚などではない。むしろそれは、実体を持つモノと抽象的な記号とが不可分にからみついてしか存在できない現実世界をいかに捕捉するのかという、複雑に練り上げられた議論であるのだと言える。
 長回しが肯定されるのは、それが、多様にして複雑な現実のある一つの側面をよく捉えるからに過ぎない――そして、バザンの議論を敷衍して考えれば、例えば、言語記号をそのまま画面に映すことすら、場合によっては「リアリズム」として機能しうる。
 バザンのリアリズム論を、そのような巨大な射程を持つものとしてとらえたときーーまさにそのようにして映画によって現実に迫る者、バザンの議論の最も複雑にして困難な部分をも実作によって継承しえている映画作家が、たった一人だけ存在していることが明らかになる。……もちろん、ジャン=リュック・ゴダールがその人である。


 そもそも、アンドレ・バザンが創刊に携わった「カイエ・デュ・シネマ」において批評家として活動していた若き日のゴダールは、ヌーヴェル・バーグの中にあっても、それほどバザンの影響を受けた方ではなかっただろう。
 実際、「カイエ」に発表した「古典的デクパージュの擁護と顕揚」という評論について、後年のゴダールは、編集の重要性を強調することが、バザンへ論戦をしかける行為であったかのように述懐している。……とはいえ、ゴダールの長篇デビュー作『勝手にしやがれ』の時点では、長回しが非常に重視されているし、そのような傾向は、少なくとも『軽蔑』のあたりまでは続いていたであろう。
 そのため、私の以前の印象としては、「なんだかんだ言いながらもバザンの長回し重視の影響下にあったゴダールは、やがてバザンの影響下から完全に脱し、過激な編集の人となった」と、漠然と捉えていたのだった。……しかし、バザンの批評を詳細に読み返してみた今となっては、それは完全に誤りであったことがわかる。ゴダールの変貌とは、むしろ、バザンの議論の深化の過程であるとすら言えるのではなかろうか。
 もちろん、ゴダール自身のキャリアが進む過程で、バザンの映画批評が直接的な影響を及ぼし続けたなどということは、疑わしい。しかし、バザンの議論が、ゴダールが特異な変容を遂げたその後でもなお、その作品を捉え、肯定することもできうるような射程を持っていたことは、確実なのである。……そして、バザンが没してはるかのち、1985年に至って、当のゴダールは、次のように述べていたのであった。


ぼくは彼とはほとんどつきあいがなかった。話しあう機会は滅多になかった。というのも、かなり早くに死んでしまったからだ。いま彼のテクストを読み直してみてわかるんだが、ぼくは彼と話しあうことができたはずだ。(「人生を出発点とする芸術」、奥村昭夫訳、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』所収、p7~8)










『バットマンvsスーパーマン』を見て、ジャンル内での傑作と凡作のあり方について考えた

 映画『バットマンvsスーパーマン』を、2D・字幕の上映で見てきた。
 ……う~ん……う~~ん……う~~~~ん……とりあえず、見終えた直後の感想を一言で言うならば、「ジェフ・ジョンズの権力が足りなかった……」ってことですかね……。
 映画が始まってすぐの冒頭部分で語られるのは、この映画に登場するヴァージョンのバットマンのオリジンです。クライムアレイで強盗に射殺されるウェイン夫妻が描かれる中で、そこに不可欠の要素として存在しているのが「怪傑ゾロ」と「飛び散る真珠」であったという時点で、劇場の中で涙腺がゆるみ始め、「……お、おれはこの映画を絶対に否定しないぞ!」という断固たる決意が芽生えたのではありましたが……正直なところ、個人的に盛り上がったピークは、その最初の部分だけだったのでありました……。
 それから、映画を見た後に監督のザック・スナイダーの発言を見てみたら、冒頭近くでロイス・レーンがアフリカに取材に赴いた際、同行していたカメラマンがあっさりテロリストに射殺されるという描写があるんですが……「あれは実はジミー・オルセンなんだ」とか言っていやがったので、即座に、バットマンのオリジンが帳消しになってプラマイゼロになってしまいました。
 映画の全体としての印象は、サム・ライミの『スパイダーマン3』に近いものがありました。……と言うのも、「全体として内容を詰め込みすぎであるため、元ネタ知らんで見る人にはわけわからんじゃないの?」っつーことですね。
 とはいえ、なぜ「内容詰め込みすぎ」になったのかという原因に関しては、両作で異なるのではないかとも思います。『スパイダーマン3』に関して言うと、私の予想というか妄想としては、サム・ライミの巨大な勘違いによるものなのではないかと。スパイダーマンの映画化の大成功に気をよくしたサム・ライミ、「なんだ、やっぱみんなスパイディ大好きなんじゃん! ということは、宇宙からぶよぶよした黒い物体が飛来した時点でエイリアン・コステュームのオリジンまで誰でもわかるし、そこから新聞記者エディ・ブロックが出てきた時点でヴェノム登場までは誰でも展開を読めちゃうんだから、そんなに細かく描写する必要ないよな~。だったらアレもコレも入れられるぞ!」とか思ったんじゃないでしょうか。実際あの映画、詰め込みすぎだと言われるのはその通りだと思うのですが、元ネタ知ってると別に混乱することもなくふつうに見られるんですよね……。
 そして、『バットマンvsスーパーマン』にもそういう場面はありまして、例えば「少し未来の時点のバリー・アレンが時空を越えてバットマンの元を訪れてこれから起きる出来事に警告を与える」という『クライシス』オマージュがありましたが、あれなんか、この映画の観客の99パーセント以上はわけわからずポカーンとするだけなんじゃないでしょうか。そもそもこの映画の中ではブルースとバリーはまだ出会ってもいないわけで、その時点で「近未来のバリー」をいきなり出すのはどうなのか……。とはいえ、この映画のその後の展開を照らし合わせてみると、ジャスティスリーグ結成の根本的な起源となるのは時空を越えたバリー・アレンであるということになり、「……そ、それは、DCコミックス的には非常に正しいぞ! うふふ」などと思わず頬が緩んでしまうのでもありました。
 ただし、『バットマンvsスーパーマン』の脚本の内容詰め込めすぎによる混乱は、単に情報量が多いということだけによるのでもないように思えます。というのも、そこで語られる内容のテーマ面を整理してみると、明らかに相互に矛盾するような場面がいくつも出てきているのです。と、いうことは、製作総指揮や脚本に数多くの名前がクレジットされているこの映画、全く異なる全体の方針が統一されずにごちゃごちゃのまま無理矢理盛り込まれてしまったのではないでしょうか。……そう、私の脳裏には、既にありありとイメージが浮かんでいます……会議室で机を両手でバンバン叩きつつ、異様なテンションのジェフ・ジョンズが「ちがうんスよ! ちがうんスよ! バットマンのオリジンには、絶対に何が何でも「怪傑ゾロ」と「飛び散る真珠」がないとダメなんスよ! というかそれ以前の話として、前の映画版だと「怪傑ゾロ」がカットされてウェイン一家がオペラに行ってたことになってましたけど、あれいったいなんだったんスか! なんスかオペラって! もともとコミックの方でなんで「怪傑ゾロ」が出てきたかって言ったら、バットマンの発想源の一つに対するオマージュだったわけじゃないスか! アクション映画へのオマージュを持ったコミックを映画化するにあたって、なんでわざわざそのオマージュをカットしなきゃいけないんスか! わけわかんないじゃないスか! んなことしてる時点で、既に敵を作ってるってことがなんでわかんないんスか! そう、だからこそ! それを変えるだけで! ちゃんとバットマンのオリジンを「怪傑ゾロ」に戻して冒頭に置く、ただそれだけのことで、おれら……じゃなくてDCコミックスのファンのみんなはとりあえずおおっぴらに文句は言わなくなるんスよ! 簡単なことじゃないスか!」などと口角泡をとばしつつしゃべり倒すという一幕が演じられていたはずなのです。
 そう、間違いない! バットマンのオリジンを「怪傑ゾロ」と「飛び散る真珠」に戻した上でわざわざ映画の冒頭にねじ込んだのは、ジェフの仕業です! それから、『マン・オヴ・スティール』でのスーパーマンが二次被害のことなどまるで気にせず都市を大破壊していたその陰でブルースが奔走していたことをその直後に置いたのも、たぶんジェフです! ……しかし、悲しいかな、ジェフの権力では、その程度のことをねじ込むのが限界だったのです……(涙)。
 実際のところ、『バットマンvsスーパーマン』という映画は、「漠然とした全体の正義のために細部での個人の犠牲に目がいかない」というスーパーマンの姿勢を危険視したバットマンが対立する……という前提の元始まったはず、なのに、そのテーマが深められたりストーリーの中心で展開されるようなことがありません……。というかそれ以前の問題として、映画公開の少し前に何かの記事で監督のザック・スナイダーのインタヴューを読んでたら「スーパーマンのような強力な存在を前にすると、バットマンも、銀行強盗のような小さな事件はどうでもよくなってしまうんだ」とか言ってて、「やっぱこの人、なんもわかってねえ……」と痛感させられることがあったのでした。そもそもの話として、自分が監督する映画に出てくる主要なキャラクターの行動として既に予告されているような部分に関して、根本的な部分からよくわかってないではないかと。……というかさ、今更ですが、ザック・スナイダー、こんなこと言ってるってことは、『ウォッチメン』を監督しておきながら、ロールシャッハの姿勢とかもまるっきりわかってなかったってことよね……。
 まあ、おそらくはそんな感じでてんで異なる見通しが一つの映画製作の中に相乗りした結果、「スーパーマンのヒーローとしての姿勢に対する疑問が投げかけられる」→「その後の話の本筋には特に影響なし」とか、「スーパーマンの立場に対する説明を求める公聴会が実現」→「爆破事件でとりあえずウヤムヤ」などという風に、あるテーマの元で描かれた場面がその後の展開で打ち消され無意味になるようなことが繰り返されてしまったのではないかと。
 おそらくこの映画の製作にあたって、情報量が詰め込みすぎであるということは製作側もわかっていたんではないかと思うのですよ。というのも、冒頭あたりのスーパーマン関連の描写などを見ていると、ハリウッドの古典的な脚本術の省略テクニックが使われているのです。前作『マン・オヴ・スティール』においてはクラーク・ケントとロイス・レーンの関係はそれほど掘り下げられることはありませんでしたが、今作になると、ロイスが自宅で入浴している最中にクラークが自然に入ってくるような描写を盛り込んでいくことで、前作からある程度時間が経過した時点でクラークとロイスの関係がどのように変化したのかということを、ロイスがスーパーマンの正体を知っているということまで含めて、直接的な説明がなくとも自然な展開の中で観客がわかるように構成されているのですな。
 で、そのあたりの描写を見ていて「なかなかよく考えてあるな~」などと思っていたんですが、途中からはもう、脚本面での工夫ではどうにもならんほどに情報量が溢れすぎて説明不足・消化不良のままにストーリーがどんどん展開していってしまうのでありました……。
 「各場面ごとのつながりは消化不良なまま、とりあえず編集でつないじゃったんだろうな~」と思えるようなことは、結構いろいろありまして……。個人的に一番納得いかなかったのは、ゴッサム大学でアメフトする場面があり実際の撮影も済ませたという情報まで明らかになっていたのにもかかわらず、結局画面の片隅に一瞬チラッと写っていただけ……ということでした。それって間違いなくブースター・ゴールドを今後登場させるための伏線だったはずなんですが、できあがった映画を見ているとクラークが頑としてアメフトの取材に赴かず、思わず画面の中のペリー・ホワイトが激怒するごとに同調し、「まさにチーフの言うとおり! クラーク、アメフトの取材しろやあ~!」と腹を立ててしまったのであります(……それにしても、これは、ジェフが会議室で机バンバンしながら「今後のDCヒーローの展開を考える上で、ブースター・ゴールドは絶対の絶対に必要なんスよ~!」とか熱弁しても、「誰だよバスター・ゴールドって」ですまされてしまったんでしょうか……「だいたいグリーンランタンの映画化なら既に失敗したじゃないか」「だからグリーンランタンじゃねえッ!」みたいな)。
 その他にも、スーパーマンがロケットを救出する場面とか、明らかに結構な手間も費用もかけて撮影してあるっぽいのに、回想でほんの一瞬だけ写るだけとか……。あるいは、スーパーマンの起こした二次災害で半身不随になったブルースの元部下の人とか、スーパーマンと直接やり取りするために人前に出てきたのに、結局一言も会話することなし、とか……。結局のところ、いろんな人がいろんな構想の下に考えたそれぞれが独立して関連性の薄いようなシーンが無数にあり、それを全部つなげていくととてもではないが一本の映画にはまとめきれないので、それぞれのシーンをそれぞれ中途半端なところにまでカット、そのため、どのシーンもそれぞれ消化不良に……みたいなことになっちゃったんではないでしょうか。……これが、船頭多くして船山に登るというやつなのか……。
 そういえば、公開直前くらいに漏れ出てきた情報として、撮影現場で「こんな脚本が使えるかぁ!」とかキレ出したベン・アフレックがバットマンの衣装を着たまま脚本を書き直しだした……などという出来事があったことが伝えられていました。……まあ、それ自体は、むしろバットマンぽい感じがするエピソードではあると思えるんですが……。
 バットマンぽいと言えば……まあそんな感じの映画だったということもあり、全体を通してその首尾一貫した整合を追求してみれば、バットマンの行動が支離滅裂であることは一目瞭然ではあるわけですが……しかし、しかしですよ? 自分が追求しているヒーローのあるべき姿の理念をゴリゴリに唱え、理知的なアルフレッドにどれほど諭されようとも執拗にスーパーマンを非難し、それでいていざ自分個人の身内にまつわる主観的な感傷を刺激されるような事件があったらあっさり手の平を返して百八十度異なる態度を突然取り始めながらも何ら悪びれることなく堂々と居直ってみせ(「え、お前の母ちゃんもマーサなの? マジで?」)、挙げ句の果てにはマーサ・ケントを救出すると「いや~お母さん、実は僕、お宅の息子さんの友達なんスよ~」などといけしゃあしゃあと言い出し始める、死ぬほど頭がいいくせに感情の赴くままに行き当たりばったりに行動するからかえって無駄に大勢の周囲を巻き込みまくって迷惑すぎるその姿を見るにつけ、むしろ、「いや~……これは、バットマン全開だなあ!」などと思ってしまったのであります。


 ……しかしですねえ、いざ、「このくらいデタラメやりまくって傍迷惑な人の方が、かえってバットマンらしいな~」と思ってみると……この『バットマンvsスーパーマン』は、一本の映画としては、内容がとっちらかってしっちゃかめっちゃかなダメな作品だとは思いますが、「でも、アメコミの世界で社運をかけた規模の超大作なんて、たいていの場合、こんな感じのばっかだよな……」と思えてきました。最近だと、DCコミックスの『コンヴァージャンス』にしてもマーヴル・コミックスの『シークレット・ウォーズ』にしても、話の大筋について行くために読者は膨大な量のコミックの購読を要求され、そのために大量の費用と時間をはたいてなんとかついていっても、読み終えてからいざ冷静に振り返ってみると「……これ、そこまで苦労してつきあうようなものだったのだろうか……?」と自分の生き方に疑念が生じるようなイヴェントだったではありませんか(『エイジ・オヴ・アポカリプス』とか『ノーマンズ・ランド』のような「内容的にも成功した巨大クロスオーヴァー」なんて、例外中の例外ですからね……)。
 要するに、「アメコミだからいい」ということも、逆に「アメコミだから悪い」ということもないのです。ヒーローコミックだけに限定してみても、多くの人間が関わって多くの作品が送り出されているわけですから、当然のことながらピンからキリまであるわけです。いいものもあれば悪いものもあり、多数の人間の利害が絡んだ超大作では意思統一が計れずに混乱が生じるようなこともあり、逆に、小規模な作品が少人数のスタッフに自由裁量が与えられたゆえに予想外の成功を収めるようなこともあるのです。
 そういう意味では、『バットマンvsスーパーマン』という映画のダメな部分は、ヒーローもののアメコミを題材としている限りうまくいかなかったケースだと当然陥るような罠にはまっているという意味で「割とありがちな失敗作」なのであり、それ以上でもそれ以下でもないように思えてきました。今回の映画化では、元ネタとなる原作を読んでたら怒り出すようなテキトーな引用もなかったと思います……それはまあ、ジェフが水面かで奔走して防いでくれたんだと思いますが、それでも防げなかったのがジミー・オルセンの件だったということなのでしょう(……というか、作中ではジミー・オルセンという役名自体は作中に出てきていなかったので、ザック・スナイダーが映画の公開後に独断で「実はあれはこうだった」という裏設定として言い出した可能性もあるとは思いますが)。
 アメコミもまた一つのジャンルとしてある程度の広がりをもっている以上、傑作から凡作まで質にムラがあるのは当然のことであるわけです。ジャンルの定型にしたがってはいるもののうまいこと処理できずに凡作が生まれてしまうような機会もある、そんな間口の広さがあるからこそ、傑作が生まれてきうる土壌も存在しうるわけで。特定の様式を持った特定のジャンルから傑作だけがボコボコ生まれるはずもなく、凡作や駄作の存在も認めなければ傑作が出てくる余地はありません(むろん、だからといってなんでもかんでも認めるべしというわけではなく、読んだら怒り出すようなタイプの凡作・駄作も当然あるわけですが)。
 で、もちろん、なんらかのフィルターで選別されたあとの傑作・秀作にしかふれるつもりはない、そういうものにしか金を落とす気はない……というのもわかるんですが、そういう人が、同時に、自分が傑作・秀作にしか触れてこなかったジャンルの「ジャンルとしての全体像」について大上段で語り出すのは違うんじゃないですかねえ。アメコミの場合、商業的もしくは批評的成功を収めた作品しか邦訳というフィルターは通らないですし……ごく一握りの上澄みにしか接するつもりもなくジャンルの全体像の大部分を占めるゴミの山と根気よくつきあう気もないような手合いほど、的外れな「ジャンルの全体論」を語りたがるように見えるのはなんでなんでしょうかね。


 とはいえ、私自身、「ジャンルの全体像を把握しようとするならば、凡作・駄作にも接しなければならない」という己への戒めを、割と最近まで忘れていたような気がするのです……そしてそれは、まさに今回の『バットマンvsスーパーマン』の製作総指揮の一角に名を連ねているジェフ・ジョンズによって引き起こされていたことだったのです。
 テキトーに扱われてストーリーラインがぶち壊されたようなキャラクターを引き継いでは奇跡の復活を遂げさせ、「グリーンランタンがDCコミックスで一番人気のヒーローに」とか「アクアマンが売り上げでスパイダーマンを抜く」などという意味不明のミラクルを次々に実現させ、ジェフはアメコミ界のトップライターとして君臨するに至りました。そういうわけで、ここ十年くらいのDCコミックスの巨大イヴェントの多くはジェフがライティングを担当する事になった結果、その手の巨大イヴェントで箸にも棒にも引っかからないようなしょーもない代物にあたる率が激減していたわけです。
 だからこそ、そんなジェフが『バットマンvsスーパーマン』の製作に食い込んだことで、「ジェフならここから奇跡の大逆転を見せるのではないか」などと期待してしまっていたわけですが……いざ蓋を開けてみるとジェフがコントロールできているような部分がわずかであることは明らかであるのとともに、「でもアメコミ業界で鳴り物入りの超大作がこんな感じであることって、そういやふつうのことだよなあ~」と我に返るに至ったのでした……。
 しかし……しかし、であります。まだ、希望の光は消えてはいないのです……『バットマンvsスーパーマン』をめぐる一連の動きの中で、ジェフのことを高く評価し始めた人物が存在するのです。
 そう、我らがベン・アフレックは、リサーチのために結構細かくDCのコミックを読み込んでたらしいのですが……そのことについて、ジェフと色々と話し合っていたらしいのです。そんで、「そういやあのコミックは面白かったな」「あ~、それ書いたの俺だわ」「また別のあれも面白かったよ」「それも書いたの俺だわ」「俺の気に入るコミックはみんな君が書いてんのか~い!」などとじゃれあうようになったみたいです。
 そうか、と、いうことは……ベン・アフレックも、『フラッシュポイント』の結末で涙したり、『グリーンランタン:リバース』を読んで「ハル、ふっかぁ~~~つ!!!」などと絶叫したり、トレヴァーさんの財布をすったらワンダーウーマンの写真が出てきちゃって自分とバッツの関係を思い出してしんみりしちゃったキャットウーマンを見て切なくなったり、「そりゃメラが怖いのはわかるけど、アーサー、目ェ泳いでるゥ!」とか言ってみたり、「聖ウォーカーの決め台詞'All will be well.'を拝借していいのは、世界広しといえどもバリーだけ!」などと断言してみたり、「ブースター・ゴールドの世紀の大発見たる「シネストロには褒め殺しが効く」という衝撃の事実をいつの間にか認識した上で易々と使いこなしてまでいるとは、やっぱルーサーさすがだな!」とか言ってたりするわけか~。……ベン・アフレック、最高だな!
 挙げ句の果てには、きたるべき企画に向けての共同作業についてジェフのことを聞かれたベン・アフレック、'I love him. He's the best.'などと公に愛を表明しだしたりまでしちゃってますからねえ。
 ……と、いうわけで、今回の『バットマンvsスーパーマン』に関しては、もうこうなっちゃったものはしょうがないとは思いますが(ただしジミー・オルセンの件は除く)、ベン&ジェフの真価が発揮された暁には、まだまだ優れたヒーロー映画が出てくる期待は残しておいてもいいように思えるのでありました。





映画『バットマンvsスーパーマン』の公開に際して予期しておくべきこと

 映画『バットマンvsスーパーマン』の公開もいよいよ近づいてきた今日この頃ですが、アメリカで公開された三番目の予告編を見て、「ふむ……!?」と、それまで死んだ魚のようだった私の目に活力が取り戻されるということがありました。
 まあ、私のようなDCコミックスのファンにしてみると、ノーラン=ゴイヤー体制によってワーナーのDCヒーロー映画が製作されてきた期間は終わりのない悪夢であり、もはやワーナーのヒーロー映画に対して何一つ期待するようなことなどありませんでした。
 ところが……という話をしたいんですが、ちょっとその前に、何年も前に書いたエントリにわざわざリンクを張って、どういう状況のものだったのかとかその後のやり取りとか全部無視して、ただでさえバカ丸出しな上にそれ何周目だよというような失笑ものの「ツッコミ」を罵詈雑言混じりでやるというような輩がまたぞろ現れたので、ノーラン版バットマンとかのことにいついてはこのブログでは書かないと言ってたんですが、少し前提となる補足をば。


 ノーランとかゴイヤーによるスーパーマンとかバットマンの映画化に対して激怒するファンがアメリカなんかにも大量に存在する理由ってのは非常に単純で、「原作の使い方がめちゃくちゃだから」というのにつきる。
 例えば、原作のよい部分を十分に理解しリスペクトした上で映画の方に大幅に取り込んで成功するようなコミック映画がある(サム・ライミ版スパイダーマンのように)。
 あるいは、原作とはほぼ無関係に、基本設定だけ使って実質的に独立した別物として成功したコミック映画がある(ティム・バートン版バットマンがそうであるように)。
 そして、原作から本来の文脈も無視してめちゃくちゃなテキトーきわまりないコピペをしてきて継ぎ接ぎだらけの映画を作り、原作を踏みにじって肥溜めに突き落として唾を吐きかけるようなコミック映画もある。
 これらいずれの場合でも、「原作と映画の関係」はそれぞれ異なるので、映画化する前の元ネタとの比較が無意味なのかどうかは、それぞれの場合によって異なるというのが、極めて当たり前のことだ。
 ……で、ノーランとかゴイヤーによる元ネタの扱いがおかしいという話を私は最初からずっとしているわけだが、なぜか、別に実際に原作との比較をしたことなどないのに「原作とは関係ない! 映画とコミックは別物! 原作と比較するな!」などと連呼する愚か者が次から次へとひっきりなしに現れてくるわけだ。
 アメリカのコミックのことなどまるでピンとこないのであれば、日本のマンガに置き換えてみると、どういうことなのだろうか。例えば、『ドラゴンボール』をハリウッドで実写映画化したとする(……いやまあ、実際にそれもあったんだけれども、それはいったんおいといて、架空の話として)
 出来上がった映画を見ていると、例えば、クリリンがフリーザに殺される場面なんかは、途中のアクションでの細かい構図まで含めて、コミックで描かれたのをそっくりトレースしたような感じで作られている、と。……そんで、いざ話が進み、死んだクリリンを小馬鹿にしているフリーザと最終決戦に挑むぜ~というような場面で、悟空が、「オ、オラ……フリーザと闘うなんて怖くてできねぇ~」とか言って泣き出しちゃう。
 こんな実写映画を見せられた『ドラゴンボール』の読者が、「なにこれ! ふざけんな!」「こんなことがやりてーんだったら、そもそも原作からの引用なんてすんなよ!」と激怒する。すると、次のような罵声が浴びせかけられることになるわけだ……
 「原作なんて関係ない! 原作との比較なんてするな!」
 「マンガと映画は別物なのに、映画を見たときにマンガの話を持ち出すなんてアホだろ!」
 「自分が気に入る悟空じゃないからってなんで映画が悪いことになるんだよ!」
 「おれはマンガファンだけど、こいつ頭おかしいよ! まあおれは『ドラゴンボール』は読んだことないけど!」
 「こいつ、そもそも『ドラゴンボール』のこと知らなすぎw 『ドラゴンボール』は初期はギャグマンガだったことを知らんのかw」
 「そうだそうだ! 悟空のイメージなんて時期によって全然異なるのに、特定の時期の悟空と違うからって映画を責めるのはお門違いだろ!」
 ……DCコミックスの読者というのは、こういうディストピアを生きているわけだ。


 そもそもの話として、この手の連中は、なぜ自分が口にしている支離滅裂な寝言が他人に対する批判として成立していると思えるのだろうか? ……要するに、話のまともな筋道もわからない、論理的思考もできない、そんな頭の弱い自分ですら、二言三言の単純極まりない罵声を吐くだけで他人に対して有効な打撃を与えて優位に立つことができるなどと言うことを本気で信じてしまうことができてしまうまでに、救いようもなく致命的に頭が弱いということなのだろうか。
 この手の連中が金科玉条のごとく連呼するのって「映画とコミックは違うのだから一緒にするな!」ということだけど、それを主張すれば主張するほどぶっ刺さってしまうのって、他ならぬノーラン自身よね。……うん、映画とコミックはそれぞれ特性が違うメディアである、ということは、コミックとして描かれたシーンをまるまる引っ張ってきて、構図まで含めてそのまんま再現して映画を製作しているような奴のやっていることは、映画監督としておかしいということになるよね。
 例えば、サム・ライミやジョス・ウィードンのように原作コミックに対してリスペクトをもって接している人々は、原作コミックの良い部分を映画で再現するにはどうすればいいのか、という点に労力を割いている。彼らはそのために映画の技術をどのように用いればいいのかに工夫を懲らすから、元ネタのコミックから単純にコピペしてできたような場面は撮影することは、当然ないわけだ。
 それから、なぜかわからんけれどもこれまた何度も何度も何度も何度も言われることとして、「バットマンはギャグ路線の時もあったことを知らないのか!」とかいうことだ。自分が実際に読んだわけでもなく、ただそういうのがあるらしいとうっすら伝聞で得ただけの知識を振りかざすことが、実際に40年代や50年代のアメリカのコミックも読んでる私を叩くことにつながるとなぜ思えちゃうんだろうね。
 それ以前の話として、バットマンがシリアス路線からギャグ路線まで幅広い描かれ方をしてきたキャラクターだとして、なぜそれが「シリアス路線でダメなもの」を受け入れなければならない理由になるんだろうね。シリアス路線で優れたものもあればダメなものもある、ギャグ路線で優れたものもあればダメなものもある、ただそれだけの話なわけだが。だいたい私は、ジム・キャリーがリドラーを演じていたときの映画版なんかは、シリアス路線ではなくギャグ路線であることを理由に批判したようなこともないんだけどね。
 ノーランとゴイヤーの場合、スーパーマンとバットマンのシリアス路線の時期のコミックからばかり引用して映画に入れていたわけだけど、そこで全く参照されていない原作にギャグ路線の時期があったことが、いったい何の関係があるんだろうね? ……それともあれか、私が根本的に勘違いしていただけで、ノーランとゴイヤーによるスーパーマンとバットマンって、全部コメディだったのかね? 悟空に「オラ、フリーザなんかに勝てるわけねぇ~」と言わせるのと同様のことを延々繰り返してきたのって、もしかして、笑うところだったのか?
 なるほど、もしそういうことなのであれば、私が根本的に勘違いしていたことを認めよう。……とはいえ、仮に全部ギャグだったのだとしても、全く面白くもなんともないのではあるが。


 ……と、いうように論理的に話を進めてきて、知識で勝てると思ってたのは勘違いだったし、理屈で間違いを指摘することもとてもできなさそうだということになると、いよいよ人格批判のみに専念することになるわけね。
 で、原作ファンは寛容じゃない! 視野狭窄! とか言いがかりをつけることが始まるわけだけど、これもまあおかしいわな。自分にとっては痛くも痒くもない局面で、他人に対しては無限に寛容であることを当たり前のように要求しつつ、自分が「寛容」でないと認定した他人に対して自分の側はいくらでも罵詈雑言を浴びせかけてもいいという、無惨なまでにあからさまなダブルスタンダード。他人は「寛容」じゃなければいけないけれども、同じ基準は自分自身には絶対に適用しないわけね。
 どんな物事でも多数派・勝ち組に入りたがり、周囲の顔色をうかがいつつ数に任せて少数派を侮辱し続け、反論されたら「寛容じゃない」認定してさらに生卵やら生ゴミやらを投げつける。……こんなことをやりたがる人間ばかりがどんどん増えていくような世の中なら、そりゃあ、罵倒されっぱなしの側の人間の中からテロリストが続々と出てくるようなことになってもなんの不思議もないですわなあ。
 まあそれ以前の話として、俺はガチガチのECWファンなんだからそもそも寛容なわけねーだろバカ野郎! ってことなんだけれども。ノーランやゴイヤーなんぞにスーパーマンやバットマンを好き勝手にいじられたような日にゃあ、ECWワンナイト・スタンドでジョン・シナが入場してきたときの我が同志のみんなと同じ反応をすることにもなるわけだ(試合が始まってからもこれですよ)。


 ……とまあ、そんなこんなで、すっかりやさぐれた気分で過ごしていた昨年末だったわけなもんで、もうすぐ公開される『バットマンvsスーパーマン』にしても、特に意識的に情報を集めるようなこともしていませんでした。
 それでもなんとなく耳に入ってくることとして、作中でゴッサム大学でアメフトをするシーンがあるとか。……すわ、ブースター・ゴールド登場か!? などと一瞬だけものすごく血圧も急上昇したわけですが、ワーナーが俺の喜ぶようなヒーロー映画を製作するわけがない……と、すぐに落ち着きました。
 だって、映画『マン・オヴ・スティール』を見てからだいぶ後で知ったことなんですけど、あの映画でスーパーマンが意味不明な殺人に手を染めるシーンがあるじゃないですか。あの場面、撮影する前の段階で、「こういう状況下でスーパーマンが殺人をすることはありえるか?」と、わざわざDCコミックスに問い合わせたらしいんですな。……で、「それは絶対にありえない!」というDCの側からの返答があった上で、とりあえずそれは無視して当初のプラン通りに撮影するという、自民党の憲法審査会ばりの茶番が展開されていたらしいのですな。
 そもそもそれ以前の話として、『バットマンvsスーパーマン』ってなんやねん! 『スーパマンvsバットマン』やろうが! ってことじゃないですか。
 はっきり言って、私自身は圧倒的にバットマン派であるわけです。……しかし、にもかかわらず、私もこのブログでこの両者を単純に併記する場合には「スーパーマンとバットマン」という書き方しかしたことがありません。この二人は完全に同格ではないので、この順序をごっちゃにしてはいけないんです! 言い換えれば、あの二人はハンセン・ブロディの関係ではなくて、馬場・猪木の関係なんです!
 まあ一つDCファンとしても苦しいこととして、現在DCコミックスから発行されている両者の共演タイトルは「バットマン/スーパーマン」である、ということもあるんですが……。これについても、既に七十年以上もの長きに渡って両者の共演が繰り広げられ続け、「ワールズ・ファイネスト」とか「スーパーマン/バットマン」などといったタイトルで発行され続けた挙げ句、ここ数年に至って初めて「バットマン/スーパーマン」というタイトルになったわけです。それがなんですか、両者が初めて実写映画で共演するのが『バットマンvsスーパーマン』って、そりゃあねえだろう!(……ていうか、コミックの方にもいまだに納得がいっているわけではないので、とりあえず休刊して「スーパーマン/バットマン」でやり直せと依然として思ってるのですが……)
 ……そんなことを思い続けてきたわけですから、当然のこととして、公開が近づいてきてもテンションが上がるわけでもなく、どういう状況でどんなスタッフによって製作されているのかに興味を持つこともなく、公開されても見るかどうかすらわからない……というような感じでした。
 そんな私が、ふと、『バットマンvsスーパーマン』の予告編を見ることになる……。
 ……おや?
 ……ふむ……
 ……これは?
 う~む……前作『マン・オヴ・スティール』において、スーパーマンは、周囲の一般人が巻き込まれるかどうかなどいっさい省みることなくメトロポリス内を破壊しまくっていたわけですが、その大破壊の渦中で、実は地道に人命救助に取り組むブルース・ウェインの姿があった……。
 破壊されつつある都市の粉塵の中で、逃げまどう人々とは完全に逆方向に、破壊の中心へと向かって何の迷いもなく突っ込んでいくブルース……。そう、それが見たかったんだよ! ブルースならそうするはずなんだよ!(こういうことを書くと、またぞろ「原作コミックのことしか認めないのか~」とか言い出すアホが出てくるので先に言っておくと、そもそもの前提として「幼い頃に強盗に両親を殺害され、自分と同じ境遇に陥る人をなくすことを決意した」という絶対的な大前提を持つ人物であれば、細部の人物造形の違いを越えて、こういう状況でどんな行動を取るかは一択で、選択の余地なんてねーだろって話。逆に、基本的な前提からしたらありえないような行動をわざわざ取らせるんだったら、そもそもなんでこのキャラクターを使うことにしたんだってことになるわけだ)
 ……いや、これは、どうしたことだ。今までのワーナーのヒーロー映画がどんなものであったかを考えてみれば、ヒーローの本来のあり方を真摯に反省するようなことを盛り込むはずなどない……しかし、ならばこれはいったい……?
 そんな不可解な疑念にとらわれた私は、『バットマンvsスーパーマン』の関係者のリストをチェックしてみたのです。すると……
 おいおいおいおいおい。
 いやいやいやいやいや。
 待て待て待て。落ち着け、俺!
 この映画の関係者として名前を連ねている中で、そんなことを考え出して、それまでの話の前提を再解釈によって土台から書き換えてしまうようなことをするのって……どこからどう考えても、ジェフ・ジョンズしかいないやろうがーーーーっっっ!!!
 ……っていうか、ジェフ……いつのまに、この映画の「製作総指揮」なんてポジションについてたのーーーっ!?(……いや、私が興味を持ってなかっただけか……)


 ……そんなことがありまして、いざ、最近公開された予告編の第三弾を見てみると、ですよ。「偽りの神」として糾弾されたスーパーマンが、バットマンと対立するようなことになると予告されている……はずなのに、そこには、互いに軽口を叩き合いつつ共闘し、立ちはだかった圧倒的な強敵(ドゥームズデイ)に立ち向かっていくスープスとバッツの姿が……!
 ワーナーのDC映画にコミカルな要素が取り込まれそうな気配など、もうず~っとなかったのに、これはいったいどうしたことだろう?
 そして、予告編の中で最も気になるのは……スーパーマンが、発射に失敗したらしき宇宙ロケットの事故を救っている場面。
 ……そう、これは……「宇宙船を事故から救うスーパーマン」、それは、ジョン・バーンが『マン・オヴ・スティール』においてスーパーマンの生誕を語り直した際、スーパーマンがスーパーマンとして人々に知られることになる最初の事件として描いたものであり、その少し前に現実のアメリカで起きていたチャレンジャー号爆発事件をコミック内に取り込んだものだった。それをわざわざ改めて映画の方にも取り込むということは……そ、そうか! ジェフ、わかったよ!
 映画の『マン・オヴ・スティール』におけるスーパーマンは、スクールバス一杯の子供たちの命を救っても「正体がばれるかもしれないようなことはやめなさい!」とか言われたらあっさりその後の人命救助を断念し、育ての親の命も言われるがままに救わずに見捨て、テンパったらあっさり殺人によって事件を解決し、戦闘によって巻き込まれる一般市民への二次被害にはいっさい注意が向かない……そんなヘタレとして既に描かれてしまっていた。
 そんなヒーローが実際にいたら、巻き込まれた人々によって「偽りの神」として糾弾されてもしょうがない。……というか、そんな方向性を捨てて新たなヒーロー像を確立するためには、いったんそのイメージを粉々にぶち壊すしかない。ぶち壊さなければ、次に進めない。そしてジェフは、今までの映画版にすっかり打ちひしがれてきたようなDCファンに向けて、きっとこう語っているんだ……「みんな、もう大丈夫だ! みんなわかってると思うが、仮にも『マン・オヴ・スティール』と名付けられたストーリーにおいて、スーパーマンが真にスーパーマンになるのは、「宇宙船の爆発事故を救った事件」が起きた時点だ。だから、それまでに起きたことは、全部ノーカンだ!」、と。
 ……そうかあ~……ジェフ、さすがだぜ!


 いや~、それにしても、かつて映画化に際して権利関係がぐっちゃぐっちゃに入り乱れおかしな脚本が上げられたりする中で「スーパーマンは俺が守る!」と宣言した上でクリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』を監督したリチャード・ドナーその人の弟子にして、DCコミックスのお偉いさんであるのにもかかわらずなぜか映画『マン・オヴ・スティール』に対して孤独に喧嘩を売っていた男ことジェフ・ジョンズが改めてスーパーマンの神話を救うことになるのであれば、これほど痛快なこともないですなあ。
 もともとリチャード・ドナーが『スーパーマン』を監督したときも、「こんな脚本は使えん!」とか言ってドナー自身が友人のトム・マンキーウィッツとともに脚本をリライトしたんですが、権利関係の問題で二人とも脚本家としてはクレジットされていません。……というようなこともかつてあったことですので、今回の『バットマンvsスーパーマン』にも脚本家としてのクレジットはないですが、間違いなくジェフ・ジョンズが脚本に手を入れた部分があると私は確信するに至りました。
 ……と、いうことはですよ? いやこれ、マジでブースター・ゴールド登場もワンチャンあるぞと。
 それにしても、ジェフ、結構本気でワーナー内での権力を取りにいってたんですなあ……ジェフがDCコミックスの要職についたようなときには、かつてマーヴルのエディター・イン・チーフに就任こそしたものの、「こんなことしてたらコミックのライティングができねえ!」とか言ってあっさり辞めちゃったロイ・トマスみたいになるんじゃないかと思ってたんですが、ちゃんと権力持てる方にいってくれたのは結果的に良かったですな。……まあ、ぶっちゃけた話、アメリカではもはやシリアス路線のダークヒーローものは飽きられてて、マーケティング的にも将来性は全くないことが明らかになってるんで、コミカル路線も交えつつ王道ヒーローのチューニングができる人材が求められてるところにうまくはまったということなんでしょうけれども。ことそういう点に関してはアメコミ業界で現役最強の男をDCコミックスはもともと擁していたわけですから、マーヴルにいいようにやられる必要も本来ならなかったわけです。
 あと、非常にいい傾向だと思えるのが、ベン・アフレックとジェフ・ジョンズの間で信頼関係が築かれつつあるらしい、ということ。というのも、『バットマンvsスーパーマン』を受けてベン・アフレックの監督・主演で製作する新たなバットマン映画の脚本をジェフが書き下ろすに当たって、「バットマンとはいかなるなキャラクターなのか」という点についてミーティングした際、両者の意見は完全に一致したらしいのです。
 おそらく、現在のアメリカで原作リスペクトをベースにした実写版バットマンを製作するのならば、それができるような監督はまさにベン・アフレックしかいないでしょう。そこに共同脚本としてジェフが加わるとか……正直なところ、私が何かの間違いで石油王とかになって、何でもかんでもやりたい放題に好き勝手に金を使えたらやるであろうような企画なんですけど!


 ……以上のようなことを考え合わせるにつけ、今回の『バットマンvsスーパーマン』という映画は、「ノーラン=ゴイヤー体制」と「ベンアフ=ジェフジョン体制」という、根本的な部分から異なるヒーロー観を持つ異なる体制が相互に乗り合わせたものになっているのではないか、と。……まあ、従来の体制から新たな体制へと切り替わるような転換点が作品内にも取り込まれるのであれば、新たな体制の方がポジティヴに描かれることになるだろうとは予想できますが。
 結局、全ては、「ジェフ・ジョンズはいったいどこまで手を入れているのか」ということにかかっているということに尽きるでしょう。私が喜ぶようなシーンが多ければ多いほど、ジェフの権力が大きいということになるわけです。
 例えばその指標の一つとなるのが、「ゴッサム大のアメフトチームが登場するのならば、そのクォーターバックはどんな人物なのか?」ということですね。花形クォーターバックのファーストネームが「マイケル」である(もしくは、そのニックネームが「ブースター」である)ならば、「いやそれ、ジェフの仕業やろ」と。
 あるいは、経験を積んだ熟練ヒーローとしてのバットマンが、経験の浅さゆえに無駄な動きをしたり無様な醜態をさらしたりしたスーパーマンに対して「このアマチュアがぁ!」と罵る場面があれば、「いやそれ、ジェフの仕業やろ」と。
 ……などというようなチェックポイントは無数にあると思うのですが、そもそもの問題として、ジェフが全体の構成にもタッチしているのであれば、予告編などで既に明らかになっている要素の作中での順番は特定されてくるように思えます。すなわち、


 「偽りの神」として糾弾されるスーパーマン
 → スーパーマンの未熟な点をあげつらう先輩ヒーローのバットマン、「君、ヒーローたるものそんなことしてたらアカンやろ。人助けって、そんな甘いもんとちゃうんやで?」などと説教して対立する
 → スーパーマン、反省
 → 再生したスーパーマン、宇宙船の爆発事故を救う(←スーパーマンの真のオリジン)
 → スーパーマンとバットマン、軽口を叩きながら共闘できるような対等の仲に
 → 圧倒的に強力なドゥームズデイの脅威が迫る
 → 続々と結集する、その他のヒーローたち
 → ジャスティスリーグ爆誕!

 ……という順番に、ジェフが手がけていれば間違いなくなっているはず!
 まあ、いずれにせよ……スーパーマンとバットマンのキャラクター造形がめちゃくちゃなことにされ、それまでそれぞれのキャラクターがたどってきた長い歴史とかどうでもよくてその場のノリで楽しめて消費できればいいだけのファッションアメコミファンがはしゃぎ回り、さんざん踏みにじられコケにされたその後でもなお、スーパーマンとバットマンというキャラクターが本来持っているポテンシャルが消えることはないということです。
 よくよく考えてみれば、ジェフ・ジョンズという人は、様々な状況や思惑の絡み合いの結果としてぶち壊されてしまったキャラクターを奇跡的に復活させ再生するようなことばかり繰り返して、現在の地位を確立してきたわけです。……正直、映画の『マン・オヴ・スティール』が既に語られてしまったその後でなお、そこから話が続いている後日談という前提を守った上で、誰もが素直に尊敬できるヒーローとしてスーパーマンを再生できるような道筋もありうるなどということは、考えてもみませんでした。
 もうこうなったら、『バットマンvsスーパーマン』を見た後どう反応するかは……これに関してだけは、先に決めておきます。面白かったら「全部ジェフのおかげ!」、つまんなかったら「ジェフに全部任せなかったせい!」、っつーことです!


 とはいえ、現時点で、いくつか不安要素もあるのも事実。……まずは、今回の『バットマンvsスーパーマン』よりもむしろその後のバットマン映画に関することで、「果たして、ジェフ・ジョンズはバットマンのストーリーでも優れた仕事ができるのか?」ということですね。
 私の考えでは、スーパーマンとバットマンの両方のストーリーを語るに関して、どちらにおいても優れた仕事をできる人というのはそもそもいません。スーパーマン派にはバットマンの魅力は描けず、バットマン派にはスーパーマンの魅力が描けないものなのです。例えばアラン・ムーアなんかでも、一見するとスーパーマンとバットマンの両方で歴史に残る仕事をしているように見えますが、実は『キリング・ジョーク』の場合は実質的にジョーカーの話で、バットマン自身の描写はほとんどないからこそうまくいっていたのだと思うのです。
 とはいえ、例外もないわけではなく――本当に限られた例外の一つだと思えるのが、カート・ビュシークによる『アストロシティ:コンフェッション』です(まあこれは実はバットマンではなく別キャラによるバットマンパロディなんですが、実質的にはバットマンの話であるということで)。どう考えてもスーパーマン派であるカート・ビュシークがあれほどまでのクオリティのバットマンのストーリーを語ることができたというのは奇跡的なことだと思うんですが……明らかにスーパーマン派でありつつ、明らかにビュシークの仕事の影響も受けているであろうジェフ・ジョンズが、ああいうクオリティのものができるのかどうか、ということですね。ただこれに関しては、ジェフ単独の脚本ではなくベン・アフレックも共同脚本に参加するとのことなので、犯罪ものやノワールものには強いであろうアフレックが、むしろジェフの弱点を補強してくれることにもなるのかもしれないなあ、と。あまり認知されていないかもしれないですが、ベン・アフレックの脚本に関する能力は実はめちゃくちゃ高いので、あまり心配もいらんのかなあ、と。
 それから、これは日本ローカルの話として、アメリカン・コミックスに関して別に識者でもない人々が識者ヅラして誤解や偏見をまきちらすのはいい加減やめて欲しい、ということもあります。……既に、ちらほら見かけるんですが……今回の『バットマンvsスーパーマン』、どうも、「スーパーマンを信仰する新興宗教」のようなものが登場するらしいんですな。で、それを紹介する「アメコミ情報通」が、そういう要素に「(?)」とか「(笑)」なんかをつけて、さも不思議なことであったり奇妙なことであったりするかのような記事を商業誌上に書いているのを、複数目にしました。
 
 いや、あのね……スーパーマンを信仰するカルト集団って、それ何年か前にコミックの中でふつうにあったネタだからね(正確には、あれはスーパーマンではなくスーパーボーイが信仰の対象でしたが)。こういうことも何度も言ってますが、それでも改めて繰り返しますけど、


  「スーパーマン(スーパーボーイ)を信仰の対象とするカルト集団」が原作コミックの既出ネタであることを知らない
  → アメリカン・コミックスの「識者」ではない


  自分が知らなかったネタの詳細を調べる手間を省いて、さもそれが奇妙なことであったり嘲笑えるものであったりするかのような誤解・偏見を拡散する記事を平気で書けちゃう
  → そもそもの前提として、プロの物書きとして失格


 ……と、いうことですね。こんなんで金とってプロとして仕事しちゃうのはおかしいんで、廃業しましょうよ、廃業。


 しかし……ここに、私個人にとってはそんなことよりさらなる圧倒的な不安要素があるのです。と、いうのもですね……コミック以外の仕事忙しすぎるであろう現在のジェフは、月に一本の「ジャスティスリーグ」しかライティングをしていません。で、その「ジャスティスリーグ」で現在進行中の『ダークサイド・ウォー』が超絶的にすばらしく、毎月万歳三唱しながら読んでいるのですが……ジェフがこれまでのライターとしてのキャリアで手がけてきたあらゆる要素が集大成されるような作品になっており、これ最高傑作なんじゃないかなどと思っていたところ、ふと、「もしやジェフ、この作品で自分のキャリアをいったん総括して、ライターとしての仕事に一区切り就けて現場から退くつもりなんじゃ……?」などと思えてきたのです。
 ……そ、それだけは困る! だいたい、「ジャスティスリーグ」にしても、バットマン&レックス・ルーサー&キャプテン・コールド&ブルービートル&ブースター・ゴールドによる愉快な路線をジェフにやってもらうのをこっちはずっと待ってるんです! もし万が一、ジェフ・ジョンズがヒーローコミックのライティングを辞め、ジョー・ドーリングも全日本プロレスに来日しない……などということになったら、日々の生活を生きる気力が微塵もわきません……。
 こちらにとっては死活問題となるため、いろいろ考えたのですが……今後、ジェフにはこういう道筋をたどってもらうのはどうでしょうか。


 ワーナーのヒーロー映画で好き放題やりまくる
  → 師匠のリチャード・ドナー同様、ワーナーと揉めた挙げ句追放される
  → ついでにDCコミックスの役職も解任
  → 一介のフリーランスに戻り、月に5~6本はライティングをするように


 ……こ、これだ! それに、たぶんジェフの場合、DCコミックスを辞めた瞬間にワーナーのことをボロクソ言いまくるであろうと私は踏んでるので、早いとこそれを耳にしたいというのもあるのですが。


 ……というわけで、いろいろと書いてしまいましたが、最も重要なのは、おそらくは今回の『バットマンvsスーパーマン』において、前作の『マン・オヴ・スティール』にかなり大がかりなレトコンがかまされるのではないか……ということですね。
 というか、以上のように整理してみると、私は非常に大きな勘違いをしていたのかもしれません。……いや、私だけではなく、二年前に映画の『マン・オヴ・スティール』を見た観客の全員が、あまりにも巨大な勘違いをしていたのかもしれないのです。
 そう、我々観客は、劇場でそれなりの長時間を過ごし、エンドクレジットを目にし、それから劇場から出てくるという経験を、確かにしました――しかし、しかしです。『マン・オヴ・スティール』と名付けられたストーリーにおいて、「スーパマンが真にスーパーマンになる時点」は「宇宙船の爆発事故を救う事件」の時点においてのはずなのにもかかわらず、そのような場面はありませんでした。しかし、その続きの『バットマンvsスーパーマン』にはそのような場面がある……。さらには、『マン・オヴ・スティール』には、ジミー・オルセンもレックス・ルーサーも登場しません。さらにさらに、スーパーマンが自らスーパーマンと名乗るわけでもなければ、世間一般の人々からスーパーマンとして認知されることすらないのです。
 ……な、なんということでしょう……。そう、我々観客は、一本の独立した映画を既に見終えたものだとばかり信じていました。しかし、そうではなかったのです。ワーナーでどういう事情があってそのようなことになったのかは私にはさっぱりわかりませんが……あの映画ではそもそもまだ本編が始まってすらおらず、ある程度の長さを持ったプロローグの部分だけが、なぜかそこだけ抜き出して先行公開されてしまっていたのです(……そういえば昔、アニメの『エヴァンゲリオン』の劇場版でなんかそんなことが起きてませんでしたっけ?)。
 以上のような衝撃の事実が明らかになりましたので、今年の一発目のエントリでは、謹んで、次のような説を提唱させていただきたいと思います――すなわち、「映画『マン・オヴ・スティール』、そもそもまだ本編が始まってすらいなかった説」、を。










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