Latest Entries

隠喩としての糞便――廣瀬純『シネマの大義』を読む

 廣瀬純の映画論集『シネマの大義』を読んだ。廣瀬の映画に関する単著としては『シネキャピタル』以来のものとなる(『蜂起とともに愛がはじまる』も映画に関する議論が中心の著作ではあるが)『シネマの大義』は、様々な機会に様々な媒体で書かれた小論、講演の記録、座談会などが一冊にまとめられたものになっている。
 その意味では、構成としては非常に雑多なものになっている著作ではあるのだが、冒頭に収録された廣瀬自身のインタヴュー「早すぎる、遅すぎる 映画批評は何をなすべきか」において、この著作全体を貫いて廣瀬自身が取っている立場が明確に宣言されている。それは例えば、次のようなものだ。


従来のマルクス主義的映画批評は、一本の作品あるいはひとりの監督におけるブルジョワ的世界表象を告発するということに存するものでした。これに対して私自身の関心は、むしろ、作品内における映像のブルジョワ的あるいは資本主義的組織化それ自体にあり、そのような組織化は、ケン・ローチやコスタ=ガヴラス、新藤兼人などといった、世界表象の次元では社会主義あるいは共産主義的傾向をもつ監督たちの映画にも見られるものです。
 小津安二郎は同時代のマルクス主義批評家たちから、プチブルの生活ばかりを描く反動的監督だとして批判されていました。しかし、映像の組織化という観点から言えば、小津映画はブルジョワ反動映画ではまったくありません。小津は、ドラマ的あるいはメタファー的剰余価値生産に映像たちを従事させない。(『シネマの大義』、p15、ルビは省略)



 表層批評が、従来のマルクス主義的批評とともに葬ってしまったマルクス主義を、表層批評のそのただなかにおいて復活させなければなりません。私が試みてきた新たなマルクス主義的映画批評は、この意味では、マルクス主義的表層批評と呼び得るものです。多少乱暴な物言いが許されるなら、要するに、佐藤忠男さんに蓮實重彦さんのオカマを掘らせ、奇形の非摘出子をこしらえさせるということです。あるいは、より精確には、蓮實さん本人のうちに潜在しているマルクス主義者に表層批評家としての蓮實さんのオカマを掘らせると言うべきかもしれません(本書163頁「山中貞雄ーー革命の慎み」では部分的にこれを試みています)。私のいうマルクス主義的表層批評は、この意味で、蓮實主義の一形態にほかなりません。(同、p17~18、傍点は省略)


 ……マルクス主義的表層批評! さすがにこの発想は凄いと思えるし、そこで目指される方向性自体には、私としては全面的に同意したい。
 蓮實重彦の映画批評の後続への影響という点では、もちろん、功罪の両面があるだろう。しかし、じゃあ先行者としての蓮實を批判する側がどうなのかというと、てんで箸にも棒にも引っかからないようなものしかないというのが実状であろう。
 特にタチが悪いのは、「蓮實の映画批評は映画の外部の現実社会の政治情勢などを全て排除した!」などという完全な嘘をとにかく大声で喧伝することであろう(もっとも、これについては、なかなか入手しづらかった『ハリウッド映画史講義』が文庫化されるということで、今後は一瞬でバレる嘘ということになるのだろうが)。あるいは、最近ネット上で見かけたひっくり返ったのが、「蓮實の表層批評は画面に映っているものだけを論じるため、映画の製作現場からは疎外されている」という主旨の評言であった。
 ……う~ん……とりあえず、このような評言でわかるのは、言ってる人も真に受けてる人も蓮實の映画批評はほとんど読んでいないということだ。「画面に何が映っているのか」を正確に記述することを試みれば、必然的に、撮影や照明やセットの問題にまで行き当たらざるをえない(光がなければ画面には何も映らない)。そして、日本の映画批評家で、監督や脚本家などといった名前がよく表に出がちな人々以外の製作スタッフのことをあれだけ調べ上げ、話を聞きまくるという人は、どう考えても蓮實しかいないのだが……。『映画狂人のあの人に会いたい』に収録されたジョセフ・ロージーのインタヴューにおいて、ロージーの複雑なキャリアにおける様々な国の様々な映画スタッフとの関わり合いを恐ろしく細かいところまで掘り下げながら話を聞きまくった結果、ロージー本人を驚き呆れさせたことを知らないのだろうか!? ……いや、知らないんだろうけどさ……
 「表層批評」という意味では、テマティスム方面での蓮實の主著である『監督 小津安二郎』においてすら、わざわざキャメラマンの厚田雄春のインタヴューを付録として収録しているくらいなんだけど……いったい、何をもって、「製作現場から疎外されている」ということになるんだろうか?
 さらに言うと、「画面に映っているものしか論じない」という姿勢が「製作現場からの疎外」を意味するものだと信じて疑わない人々は、そもそもの大前提として、スタッフロールは作品の一部ではないということにしてしまっているわけだね。蓮實自身はと言うと、むしろ「撮影スタッフの名前を細かく確認しろ」と言う側の人なんだけど……。結局、このあたりのテキトーな言説を平然と述べたり真に受けたりしてしまう人々は、ろくに映画を見ているわけでもなければ、蓮實の映画批評を細かく読んでいるわけでもない、にもかかわらず、蓮實の映画批評の全体像を総括するようなことは言いたがる、とみなすほかないということになる。
 ……などというように、蓮實の映画批評に問題があるのかどうかという検討に入る以前に、「批判者の方こそが論外である」ということがあまりにも多すぎるため、蓮實自身の問題点にきちんと到達できるような議論がほぼ存在しないのである。そういう意味では、蓮實の議論を批判的に継承しつつその問題系を組み替えることをもくろむ廣瀬の批評は非常に野心的なものである……のだが、全体を通読しそこでなされている議論を検討した結論として、私としては、廣瀬の言う「マルクス主義的表層批評」は、廣瀬自身の議論に内在する欠陥の一つによって、本来目指された形で実現しえなかったという評価を下さざるをえないのだ。
 そして、廣瀬の批評に内在する問題点がいったん明らかになってみると、既に引用した廣瀬自身の言葉の内部にすら、既にして明確な兆候が表れてしまっていることも明らかなのだ。……では、その問題点とは何なのか。


 『シネキャピタル』における廣瀬の根本的な発想は、ふつうの映像を組み合わせることによって「特別な映像」を産みだそうとする商業映画の基本的なあり方が、資本主義の剰余価値生産と正確に重なるということであった。
 そして、そのことに対する検討が改めて「マルクス主義的表層批評」という言葉によって表されたとき、以上のような原理に既にして自覚的でありつつ映画を製作している特権的な存在としてストローブ=ユイレが名指されるのは、極めて当然のことであるだろう。
 そして、そのようなストローブ=ユイレがメタファーについて批判的な言葉を述べる言葉を検討しつつ、廣瀬は次のように述べている。


ここで何よりも興味深いのは、ストローブ=ユイレがメタファーを「近代的な発明品」だとした上で、メタファーの君臨の下での人間の感受性の縮減、無能化にまで至る人間の脱野生化を「産業文明のもたらした帰結」だと看做している点です。要するに、ストローブ=ユイレにとってはメタファーもまた優れて近代資本主義に関わる問題だということです。
 実際、ストローブ=ユイレの語彙において、「メタファー」と「剰余価値」とは厳密に同義語となっています。たとえば、また別の或るインタヴューで、質問者が「とりわけ演劇などにおいては、多種多様なアイディアや情報を膨大に蓄積していくことによって、あたかも新たな価値が生産されているように観客に信じ込ませようとする作品が散見される」というような発言をしたときに、ストローブ=ユイレは「そんなものは剰余価値に過ぎない、そんなものは市場経済芸術だ」としてこれを一蹴しています。彼らにとって、映像や音声のメタフォリックな使用とは、映像や音声に労働を強要してそこから剰余価値を引き出そうとする資本主義的振舞いにほかならないのです。(同、p68、傍点は省略)



 ストローブ=ユイレにとって、メタファー(隠喩)と剰余価値とは、「厳密に同義語」である。……このような廣瀬の評言に、私としては完全に同意する。確かに、ストローブ=ユイレの立場は、そのようなものとしてしかありえない。……一方、廣瀬の問題とは、隠喩と剰余価値とが「厳密に同義語」とまで言いながら、同じ議論が異なる文脈で出てきた際に、平然とこの原則から逸脱してしまうという点にある。
 何が問題なのだろうか。……ある二つの言葉が「厳密に同義語である」ということは、言い換えれば、その二つの言葉の間では、比喩によってどちらかがどちらかを譬える関係は成立しえないということだ。隠喩に関する問題が「まるで剰余価値の問題のようである」ことがなければ、剰余価値に関する問題が「まるで隠喩の問題である」ようなこともありえない、それこそが、「厳密に同義語である」ということだ。
 一見すると、些細な言葉の選択の違いに見えるかもしれない。……しかし、実のところ、ここにこそ、廣瀬の議論の核心がある。隠喩が全く異なる文脈の言葉を結びつけることによって剰余価値を生み出してしまうという事態をよりわかりやすいものとして説明するために、隠喩という言葉自体が隠喩によって他の文脈と結びつけられてしまうという逆説。廣瀬が落ち込んでいるのは、そのような錯綜した事態である。
 隠喩と剰余価値とが「厳密に同義語」であるという原理から全く逸脱しない強度を備えるのがストローブ=ユイレの映画であるのならば、廣瀬の映画批評の問題は、同じ原理を提示しながらも、密かにその「厳密」さを放棄し、隠喩に依存する文脈を呼び込んでしまうことにあるのだと言える。


 廣瀬純の『シネマの大義』は、既に述べたように映画に関する雑多な内容を含む論集であるのだが、その中でも、複数の論考をまたいで一貫し、特権的な扱いを受け、書物全体に共通する文脈をもたらす言葉がある。
 それがどのようなものであるのかを、いくつかの引用を並べて確認してみよう。


現代の映画監督たちが総じて問う共通の問題があるとすれば、それはクソ(あるいは”クソ的なもの”)をめぐる問題だろう。ここでいう「現代」とは、とりあえず、ゴダール以降、あるいはアルトマン以降といった意味だが、クソをめぐる問いそれ自体が映画の現代を規定していると逆に捉えるならば、そこにはゴダール/アルトマンよりも早い時期から映画を撮り始めた者も当然含まれることになる。たとえば増村保造がその典型だ。
 クソを問う現代監督は、そのやり方によって二つの人種に大別される。第一の人種は、クソ的なものが出現する瞬間を作品の向かうべき終着点に位置づける作家たちから構成される。彼らにとって、クソの出現は、ほとんど恩寵のそれともみなすべき特権的な瞬間であり、スクリーン上でのクソのそうした公現こそが、退屈で凡庸なこの曇った世界のただなかに絶対的な輝きを――たとえ一瞬のこととは言え――取り戻させるものとしてある。或る時期からこの新種の頂点に君臨してきたのがデイヴィッド・リンチにほかならない。
 他方、第二の人種にとって、クソは目指すべき目標、誇らしい戦利品といったものではもはやない。むしろ正反対に、クソはすべての物語の出発点に存するもの、あるいは逆に言えば、すべての物語はクソからはじまらなければならないものだとされる。彼らにとって、世界とは、何よりもまず、隅々までクソに満ちた場として与えられているのであり、クソの横溢としてのこの世界を描き出すことなしには、信じるに足るようないかなえう映画作品もあり得ない。この人種を体現する監督として、たとえば侯孝賢、あるいはホン・サンスの名が挙げられよう。(同、p193~194)



この作品に登場する「レザボア・ドッグズ」と名付けられた集団は、ありがちな誤解とは反対に、生まれついてのクソたちからなる不浄な犬の群れなどではない。確かに、生来のクソに違いないと我々に確信させるに足る面構えの人物もそこに混ざってはいるが、この集団を構成する者たちのうちの大半はクソではなく、むしろ、クソを演じてみせようと試みる者たちなのであり、また、その試みに失敗し、クソに到達することの困難さで画面を満たすことになる者たちなのだ。
『レザボア・ドッグス』において、見るからにクソな面構えのエドウォード・バンカー(幼少の頃からの輝かしい犯罪歴で有名な小説家)によって演じられる登場人物ミスター・ブルーが物語の開始早々、画面から消え去り、その後、二度と画面に姿を見せることがないのは、したがって、ただたんに彼の小説家としての仕事が多忙を極め、それ以上、撮影に参加している暇がなかったからというだけのことではない。なによりもまず、クソでない者たちがクソを演じることでクソになろうと試みる(そしてその不可能性を突き付けられる)というこの作品の主たる流れのなかに、バンカーのような生粋のクソ野郎が身を落ち着ける場など残されているはずもないからなのだ。触っても手の汚れようのないような小さな玉のようなウンチを出すのがやっとといった風情の者たちが、でかいクソをぶりぶりと出すような厚かましき汚らわしさを獲得したいと望み、懸命にそれを演じようとすればするほど、演じること自体がそれとして際立ち、終着点としてのクソが無限遠の彼方に遠ざかっていく――これが『レザボア・ドッグス』の物語だとすれば、でかいクソをすることが誰の目にも疑い得ないクソ野郎のバンカー/ミスター・ブルーについて語るべきことなどあるはずもないだろう。無味無臭・無味乾燥の、ウンチの何すら値しないウンチを出すのがやっとの者たちに混じってナチュラル・ボーン・シットの彼が登場するのは、彼らのために不可能なモデルを提供するため、あるいは、彼らとそのモデルとのあいだの無限大の隔たりを誰の目にも明らかなかたちで示すためなのであり、また、それ以外の理由などひとつもないからこそ、彼はオープニング・タイトルとともに画面から完全に姿を消してしまうのである。(同、p195~196)



 しかし増村は、世界がクソに満ち溢れたところだというこの事実を諦念とともに告発するために『赤い天使』を撮ったわけではない。そうではなく、クソに埋め尽くされたこの絶望的な世界のただなかに「それでもなお」という一語とおもに何らかの希望を見出し得るとすれば、それはいったいいかにして可能なのかという問いに我々を巻き込むために撮ったのだ。(同、p213)


 もちろん世界はクソまみれだ、しかし/だからこそ、我々は希望を失ってはならないし、希望を失わずにいられる――クソ映画は我々にそう告げている。(同、p215)


 今回の作品でゴダールは「糞の平等」のようなものを唱え実践しようとしている。(中略)「排便する存在」としての平等という新たなテーマの出現が、これまでずっと続けてきたことをゴダールに断念させたわけだ。(同、p542)


 ……以上のように読まれるとおり、『シネマの大義』を構成する多くの議論の内部では、糞便を指示する言葉こそが特権的なものとして至るところに登場し、共通する一つの文脈を作り上げている。
 おそらくはフーコーの「汚辱に塗れた人々の生」が参照されているのではないかとも思うのだが、直接の言及はないし、『シネマの大義』はあくまでも独立した議論の文脈を形成しているので、仮に発想元がそれだったのだとしても、とりあえずそのことは措いて構わないだろう。
 最も細心の注意を払って検討されなければならないのは、廣瀬が糞便を指す言葉を用いる際に、それが隠喩として用いられているのか否かということだ。廣瀬の言う「クソ」「ウンチ」「シット」「糞」が、糞便そのものを指し示すのではなく隠喩としての機能を担っているのであれば、廣瀬が宣言する「マルクス主義的表層批評」は、あえなく破綻することになる。
 例えば、仮に、ある時にある文脈である人物が「ワーナーはクソだ」と述べたとしよう。この際、ここで用いられている「クソ」が隠喩である可能性は高いが、だからといって、それが確定的であるわけではない。
 仮にその人物が、現代社会のごく平均的な思考からは著しく逸脱し、「ワーナーと呼ばれる大手映画会社の実体は糞便そのものである」と確信し、そのような文脈で文字通りの言葉を発しているのに過ぎないのかもしれない。……あるいは、その人物は、「クソ」という言葉の定義を拡大し、ワーナーと呼ばれる大手映画会社がその定義からして内包されるような概念として「クソ」という言葉を発しているのかもしれない。
 これらの場合、ここでの「クソ」は隠喩ではない。言い換えれば、文脈から外して一文だけを切り出して検討した場合、隠喩が隠喩であると確定することができないことは往々にしてある。……一方、例えば「ワーナーのやってることってのは、クソみたいなもんだ」という言葉が発せられたとしよう。譬える項と譬えられる項とが明示されている以上、これは、明確に直喩である。この場合、この発話の意味は一義的なものとして固定することになる。
 では、この両者を連結し、「ワーナーはクソだ。ワーナーのやってることってのは、クソみたいなもんなんだ」と述べられたとしよう。この二文が連結し、共通の文脈に置かれた場合には、後者が直喩であることが確定した時点で、前者に含まれる「クソ」という言葉が隠喩であったことが、遡及的に確定することになる。つまり、いったん隠喩が述べられてから、改めて意味を確定するために直喩で語り直された発話だったということが明らかになるわけだ。
 以上のことをふまえた上で、廣瀬による糞便に関する記述をいくつか引用した中でも最初のものの、冒頭部分を改めて確認してみよう。……ここでの廣瀬は、ひとたび「クソ」と呼んだことを、改めて「あるいは”クソ的なもの”」と呼び変えている。
 「クソ」と「クソ的なもの」が並列に並べられることが可能になるのは、ふつうに考えれば、この両者のいずれもが糞便そのものを指し示しているのではなく、それぞれが隠喩と直喩、あくまでも比喩として用いられているからということになる。
 ……しかし、『シネマの大義』という著作には、「クソ」と「クソ的なもの」との並列可能性について、さらに細かい議論をしている部分も含まれる。その部分も、さらに検討してみよう。


 『サウダーヂ』を論じる小論の中で、廣瀬は、「さわれるクソ」と「さわれないクソ」との区別を持ち出している。それは、例えば以下のような記述だ。


『サウダーヂ』(二〇一一)はクソに塗れている。クソとそうでないものとがあるのではなく、すべてはクソであり、「さわれるクソか、さわれないクソか」でしかない。上映時間一六七分のあいだスクリーンを隅々までクソで埋め尽くし続けるというその徹底ぶりが『サウダーヂ』に特異な強度を与えている。フィルムそれ自体が一本のクソなのだ。(同、p221)


 重要なのは、しかしながら、そのように寄せ集められたこれらの「問題」それ自体を「クソ」だと取り違えないようにするということだ。「問題」はそのどれもが確かに「クソのようなもの」ではあるだろう。しかし「クソのようなもの」であることは「クソ」であることとは必ずしも一致しない。(同、p222)

「問題」そのものがクソなのではない。そこで生活しているわけでもなく、そこをきちんと訪れたことすらない者あちが新聞やテレビなどの報道から得た知識に基づいていい加減に想像しているだけに過ぎないはずの「問題」、すなわち、「日本の地方都市の現状」という抽象的な括りで十把一絡げに頭のなかだけででっち上げられたたんなる想像の産物に過ぎないそうした「問題」が、そっくりそのまま寸分違わぬかたちで実際に生きられてしまっているという恐るべき現実、これこそがクソなのだ。その多くが実際に甲府で生活をしているとされる人々によって演じられる『サウダーヂ』の登場人物たちの生きる日常が、甲府のことなど何ひとつ具体的に知らない者たちの頭でっかちな想像を微塵たりとも超えないということ、これこそがクソなのであり、要するにクソとはステレオタイプ、紋切り型、クリシェのことであり、クリシェでしかない生のことなのだ。(同、p223)


 ここでは、「クリシェでしかない生」こそが「さわれないクソ」であるのだということが、明確に述べられている。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」の両者を含む上位の概念が廣瀬の言う意味での「クソ」であるのならば、ここには比喩の働く余地はないということになる。
 しかし、廣瀬は、「さわれるクソ」と「さわれないクソ」の両者がいかなる関係性をもって同一の概念に内包されることができるのか、いかなる議論も展開してはいない。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」とは、それぞれが単に無関係に存在しながら、同一の言葉によってのみ関連づけられている。……ここにあるのは、隠喩の機能そのものである。
 さらに言うと、この小論の冒頭で、廣瀬は「フィルムそれ自体が一本のクソなのだ」と断定してしまっている。「さわれるクソ」と「さわれないクソ」のどちらかによって全編が満たされているという意味で述べるのであれば、「さわれないクソ」に関する部分をも含めて「一本のクソ」と述べることはできない、それは「さわれない」のだから。言い換えれば、「さわれるクソ」のことしか指示できないはずの「一本」という表現が、「さわれないクソ」をも含んで指示してしまっている。つまり、「さわれるクソ」という「クソ」全体の一部に過ぎないはずの概念が、「クソ」全体を包含するものとして当然のこととして扱われている。
 以上のように検討してみれば、やはり、「さわれるクソ」、通常の意味での糞便そのものが、糞便そのものとは無関係な文脈に連結しより大きな文脈を形成するために、隠喩としての機能を担わされてしまっていることは、『シネマの大義』という著作の内部で起きていることとして間違いのないことなのである。


 なぜ私は、映画を論じる文脈での隠喩の使用のされ方を細かく論じているのだろうか。……それは、比喩形象の類は、「映画において用いられている状況」と「映画を論じる言語において用いられている状況」とのそれぞれで、全く異なるあり方をするからだ。
 極めて当然の事実として、映画の画面に糞便が映り込んでいる際に、その映像が糞便以外のなにものかを指し示すことはない。それは圧倒的に、糞便そのものをどこまでも表象している。もちろん、「糞便が映っている
映像」が前後の文脈と合わせた結果他の何物かをも同時に指示することはありえるが、しかし、糞便そのものの形象が失われることはありえない。
 一方、言葉として発せられた糞便は、あくまでも隠喩としてのみ用いられたにすぎない糞便と、そこだけで見れば全く区別が付かない。したがって、この言語を操作する者は、糞便そのものの表象と隠喩としての糞便とを意図的に混同し、新たな文脈を形成することすら可能である。
 ということは、である。ある映画に関して「映像そのもの」ではなく、「映像をいったん言語に移し替えたもの」を議論の素材とするならば、映像そのものに即していた限りでは到底出てこないような突飛な文脈を構成することが可能となる。
 ……だからこそ、そのような意味での隠喩の機能が存分に駆使されてしまっている『シネマの大義』という著作は、私としては、マルクス主義からも表層批評からも後退してしまっているという判断を下さざるをえないのだ。


 繰り返すが、隠喩であるかどうかが一見すると不確定な表現が実際には隠喩として機能しているという事態は、『シネマの大義』という著作においては、極めて致命的なことであると言えると思う。
 例えば、この論集でなされる議論の理論的な中枢であると見なせる「フーコー/イーストウッド」「プラトン/レヴィナス/ゴダール/小津」あたりの小論では、その根本的な発想として、哲学者による著作をあくまでも映画と見なし、哲学書の展開自体に切り返しショットやクロースアップなどの映画の技法が含まれることになっている。
 つまり、廣瀬は哲学書をあくまでも映画としてとらえているわけだが、例えば「フーコーのカメラ」という記述がなされる際、それが文字通りの意味で廣瀬が信じていることなのか、それともあくまで隠喩としてのみ用いられているのかは、その部分だけでは確定できない。それぞれの論考自体は、この不確定性が貫かれているのである。
 しかし、『シネマの大義』という書物全体で見ると、その終わり近くに収録されたロラン・バルトに関する講演記録で、ドミニク・パイーニから話を引き継ぎつつ、廣瀬は次のように述べてしまう。


映画を直接的には論じていないようなテクストのなかにもストップ・モーションやクロースアップといった映画的手法を読み込んでみせるパイーニさんの映画批評家としてのその曲芸的な身振りを私自身もそっくりそのまま真似て、しかし、パイーニさんが引き出してきたのとは異なる答えを、いわば、パイーニさんの答えに対する切り返し、あるいは、アンチテーゼとして呈示した上で、私の後に発表されるバルト研究者の桑田光平さんにそのジンテーゼ、パイーニさんと私とを同時に捉えるロング・ショットを期待してみたい。今日はそのように思っています。(同、p468~469、ルビと傍点は省略)


 バルトが文字通りの意味で映画を撮影しているわけではないと自らが見なしていることを、廣瀬は自ら認めてしまっている。バルトが用いているのはあくまでも「映画的手法」であり、廣瀬自身が行なっているのは、「いわば」「切り返し」なのであって、「切り返し」そのものではない。
 直接聴衆を目の前にして発せられた言葉であるからだろうか、ここでの廣瀬は、文脈を明らかにし、それが比喩であることを隠さず、意味も固定する直喩を選択している。……ならば、この著作全体が一つの文脈に置かれるならば、フーコーやカントやレヴィナスが文字通りの意味で映画を撮影したと信じているのではなく、あくまでも隠喩としてのみ述べられていたことになってしまう。
 ……以上のことを確認した上で、この著作の冒頭に立ち戻ろう。小津映画とマルクス主義映画批評との関係を述べた廣瀬は、「ドラマ的あるいはメタファー的剰余価値生産」と述べていたのだった。
 当然のことであるが、「メタファー」と「剰余価値生産」とが「厳密に同義語」であると信じている者は、両者の間に「的」という言葉を挟むことはありえない。ここでの「メタファー」はあくまでも「剰余価値生産」を指示することに奉仕する直喩なのであり、「メタファー」と「剰余価値生産」が同等であると信じられてはいないことが、この笹井ながらも決定的な表現によって自ずから明らかになってしまっているのだ。


 廣瀬純の『シネマの大義』を読み込みつつ私が考えたのは、以上のようなことであるのだが……廣瀬自身が掲げる「マルクス主義的表層批評」からこの書物の記述方法が乖離することによって生じた結果は、黒沢清の評価に表れているように私には思えた。
 蓮實重彦の映画批評を批判的に読み替える作業を貫徹するならば、結果としてその評価が最も大きく変動するのが、黒沢清であろう。しかし、廣瀬による黒沢清の評価は、むしろ蓮實による従来の評価とそれほど変わるものではない。
 廣瀬は、マルクス主義的表層批評の観点からして、黒沢清はゴダールと並ぶほどの特権的映画監督であるとする。私には、これは受け入れ難い評価だ。……むしろ、表層批評にマルクス主義の観点も入ることで、黒沢清の見え方は根本的に変わる……と言うか、蓮實重曾孫と黒沢清との影響関係のその間隙で、無視してもよいことになっていたはずのとある固有名が、全く異なる意味を持つものとして再浮上することになるはずなのである。
 ……とはいえ、これは、『シネマの大義』の読解とは直接的な関係がないことではあるので、改めて別の記事に書くことにしよう。









映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(下)

 既に述べたように、映画『ワンダーウーマン』は、ワンダーウーマンという(アメリカでは)非常に有名なキャラクターに関して全く何も知らない観客にとっては、おのずと見え方が変わってくるような作品である。とりわけ、「両腕のブレスレットで銃弾を弾く」というアクションは、そのことを最大の見せ場としてアクション演出が構成されているため、予備知識による印象の差が特に大きく出てしまうような部分となっている。
 このことについて、非常にがっかりしてしまったことがある。『ワンダーウーマン』の日本公開に合わせて、日本の色々な漫画家がワンダーウーマンのイラストを描くというキャンペーンがあったのだが……その中で、「ワンダーウーマンが、ブレスレットと剣で銃弾を弾いている」、というものがあったのだ……。
 ……いや、だから……まあ、これに関して、仕事を振られた漫画家には、別に罪はないだろう。しかし、企画が立てられ、漫画家に仕事を振り、たぶん下書きが仕上げられてから、カラーリングが施されて完成し、一般に向けて公表される……という過程で、「いやこれはおかしいですよ」と一言言える人は、ただの一人もいなかったんだろうか……。


 例えばの話なんだけれども、日本の非常に有名な漫画である『ドラえもん』を、ドラえもんの存在が全くの未知である外国に紹介しようということになったとして、「戦後日本の社会状況においてこの漫画が登場した背景は……」とか、「この作品を生むに至った作者の人となりは……」などということから、まず紹介を始めるという必要はありますかね?
 いやもちろんそういう話が出てきてもいいんだけれども、まずは、「ドラえもんの四次元ポケットやひみつ道具がどういうもので、それを巡ってストーリーの見せ場はどのように作られるか」とか、「作中での主要なキャラクターはこんな関係を持っている」……などといったところから始めて、作品をごくふつうに受容できる下地がまず作られてから後の話ですよね、どう考えても。
 ところが、日本のマスメディア上とかで『ワンダーウーマン』が紹介されるのを見ていると、とりあえず私の見た範囲だと、政治的状況やら時代背景やらの話しかされておらず、ブレスレットに関するアクションについて触れられているのなんて見たことなかったんですよねえ、アメコミに関して識者であることになっている人々の発言で……。
 まあ私自身はワンダーウーマンに関してはそれほど詳しくない方のキャラクターなもんで、真偽を細かく判定することはできないんですが……しかし、これがキャプテン・アメリカなんかだと、キャプテン・アメリカをアメリカの政治や社会と結びつけて語りたがる人々がさも読んだかのような振りをしてついている嘘の数々は、全部ばれてますぞ。
 そういうことから考えると、「ワンダーウーマンの政治性や拝啓知識に関しては饒舌に語るが、ブレスレットのアクションについてすらほぼ触れないというような人は、そもそもコミックなど読んでいない紹介者なのではないか」という疑いを、当然のこととして持ってしまうわけです。


 とはいえ、じゃあコミックそのものの紹介がいいのかというと、そんなこともないのだった。
 映画『ワンダーウーマン』の公開にタイミングを合わせて邦訳が出版されたのが、現行のDCコミックスの「リバース」展開になってからの最初の単行本『ワンダーウーマン:ライズ』であったことには本当にがっかりし、「特に何も考えないで、機械的に出してるだけなんだろうな~」と思えてしまうようなことだった。
 DCコミックスの「リバース」展開で、とりあえず新規読者がそこから入っていけるように、ほぼ全てのタイトルが新規まきなおしとなったことは事実。……しかし、これが「ワンダーウーマン」の場合、「今までワンダーウーマンのオリジンは何度も語られ直されてその都度少しずつ設定に変化が見られたが、そこにはまやかしがあったのではないか」というところから始まったのだった。
 ……で、そこから、ワンダーウーマンが秘密を探る現在時の話と、改めて出生の状況が語られる回想編とが交互に語られるというのが、それ以降の「ワンダーウーマン」の展開だった。……が、この交互に時間軸を行ったりきたりするのをとりあえず単行本にまとめるときにはやめて、現在編をまとめて単行本の一巻『ライズ』、過去編をまとめて二巻の『イヤー・ワン』として出版された。
 しかし、日本の場合、「あまりにも有名であるがその出生は何度も異なる形で語り直されてきたワンダーウーマン」という話の大前提が共有されていない。だから、その状態で読者がいきなり『ライズ』を読んでもぴんとくることはないだろう。……一方、『イヤー・ワン』の方はと言えば、非常にオーソドックスな形でワンダーウーマンのオリジンを語っており、全く何の予備知識もいらず、ダイアナがブレスレットで銃弾を弾くことになる経緯も語られており、なおかつ映画とも登場キャラクターがかぶっている……ということで、どこからどう考えても、映画公開に合わせて出すにはこれしかないというドンピシャのものなのである! ……が、いまだに邦訳が出てはいないわけだ……。
 だいたい、当のDCコミックスがフリーコミックブックデイなんかで配布していたのは『イヤー・ワン』の方の第一話だったりしたくらいなんだから、「日本の状況はこうこうなのでこうしたいです」という企画を立てれば、単行本の順番を変えるくらいの許可は下りると思うんだが……。そして、それ以前の問題として、『ライズ』と『トゥルース』は完全にひとまとまりの作品なので、『ライズ』だけで先に出版しても、あまりにも中途半端なところでぶつ切りになってしまっている感じが否めない。しかし、これをひとまとまりのものとして続けて読めば、グレッグ・ルッカのライティングもさえ渡り、とんでもなくすばらしい逸品に仕上がっているのである。
 これだけすばらしい作品を、可能な限り適切な状態で刊行しようとする意志は、はたらなかったんだろうか?


 ……などという風に見ていくと、この作品をどのように受容したらよいのかということについて、どこを見渡しても熱意のようなものは見あたらず、結果として、作品をきちんと理解しようとする機運も全く盛り上がらなかったのが『ワンダーウーマン』という映画だったのだと思う。
 このことに関しては、この映画とフェミニズムの関連性をめぐることでも全く同じ状況であったと思う。……なるほど、いざ蓋を開けてみると、この映画はダイレクトにフェミニズム的な指向が含まれるようなものではなかった。
 そのことに関して「やった! フェミニズム臭くない!」などと喜ぶのはもちろん最悪の反応だが、一方で、フェミニズムの観点から「たいしたことない」などとあっさり断じてしまうような評価も、複数の場所で目にした。
 そのようなことについて私が思ったのは、「フェミニスト批評ってのはそんなに甘いものなのかね?」ということである。……だいたい、ハリウッド映画は世界中に向けて売り出される商品なのだから、表向きの大まかな内容はあっさりと咀嚼できるように製作されているのが当たり前である。
 これはフェミニスト批評に限った話ではないが、一見すると単純な内容しか持たない大量消費のための商品としてのフィクションを、実際には存在している詳細な意味内容を分析し時には社会的な文化背景との関連性を浮き彫りにしたりするようなことまでするために、高度な批評理論なんかが存在したりするわけだ。
 単純な商品の表向きの単純な内容をとりあえず咀嚼しただけで、単純な鑑賞以上の分析を試みるわけでもなければ、文化背景をていねいに調べる気もない……にもかかわらず、単純な内容の評価以上の、なんか知的っぽい言説を口にしてみたい。これでは、単に怠惰なだけだと言われてもしかたがないだろう。


 ワンダーウーマンという有名なキャラクターには、フェミニズムと関わり合うという意味合いが不可分に結びついて存在し続けてきた。にもかかわらず、始めてこのキャラクターが単独で実写映画化された『ワンダーウーマン』の作中では、直接的なフェミニズムの主張はほとんど存在しなかった。
 ……ならば、「それはなぜなのか」という問いを立て、それに答えるために背景を調査したり分析を展開したりすることを経た後で初めて、その内容に関する評価を下すことができるだろう。
 はっきりとここで述べておかなければならないのは、二十年ほど前までのアメリカのコミック・ブック業界においては、性差別が自覚的に意識されることすらないまでに内面化されていたということだ(……これはまあ、要するに、今の日本と大して変わらないということでもある)。コミックの内容に対する自己検閲のシステムであるコミックス・コードが有名無実化していった80年代以降の状況で、性と暴力に対する直接的な描写が氾濫したが、そこにあったのは、主要な読者層であるヘテロの若い男性の欲望に無批判に奉仕するものであったわけだ。
 それ以降、現在に至るまでのアメリカのコミック・ブック業界は、そのような無自覚なセクシズムに対する批判を受け入れ続け、業界の性質を絶えず変え続けてきた。スーパーヒーローものに偏重していた内容に関しても、様々な内容が取り上げられる方向に進み、女性の描写が若い男性の性的な視線から消費されるためだけに存在するようなことは、ほぼなくなっていった。
 ここ二十年ということなら、例えばジム・リーは、トップクラスのアーティストとしての地位を保ち続けている。そして、ジム・リーのアートの変遷を確かめてみれば、作風そのものにはそれほど大きな変化は見られないものの、女性の人体の描き方は根本的に変わってきていることは、一目瞭然なのだ。
 もちろん、現実社会の水準でなら、アメリカにも性差別はまだまだ残っているのだろう。コミック・ブック業界でも、読者の側からのバックラッシュは絶えず存在する。しかし、少なくともフィクションの製作現場の水準でなら、作り手たちの間で性差別をなくすことが当たり前のこととして内面化されてきてもいる。
 そういう意味では、現在のコミック・ブック業界を代表する男性が音頭をとって製作し、女性監督の仕事をサポートして完成した『ワンダーウーマン』に直接的なフェミニズムの主張がなかったことは、むしろ、「ようやくここまできたか」と思えるような、喜ばしい事態なのだ。それはつまり、ワンダーウーマンがフェミニズムの意味ばかりを担うことからはとりあえず解放され、個人的な問題を抱えたただの一人の女性として描くこともできるようになったということだからだ。
 ……だから、こういう状況についての「やった、フェミニズム臭くない!」という反応も、「フェミニズムの観点からは全然たいしたことない」という反応も、双方ともに私としては悪い冗談の類としか思えない。これは単に、日本の文化状況がアメリカから二十年以上の差を付けられて、周回遅れになっていることに完全に無自覚な者によってのみ発せられる言葉なのだろう。


 映画『ワンダーウーマン』の作中では、第一次大戦中の欧米での女性に対する不当な扱いが描かれる場面もあるが、厳しい告発が向けられるわけではない。私の考えでは、これはあくまでも「昔はこんなにおかしいこともまかり通ることもあったんだね」という回想としてのみ存在しているのだと思う。
 もしお望みであれば、ワンダーウーマンというキャラクターの担ったフェミニズム的な意味を、社会的な文脈のメタ的な視線まで織り込んで制作されたコミックも存在する。……正確には、ワンダーウーマンそのものではなくワンダーウーマンのパロディキャラを主人公とした『アストロシティ:ヴィクトリー』である。
 このコミックでは、フェミニズムを強く主張し、女性に希望を与えるために闘う女性ヒーローが、社会のあらゆる方向から徹底して罵詈雑言を浴びせられ続け、女性だけが共同生活を営むキャンプが「狂信的なカルト集団の巣窟」などとバッシングを受け、それでも戦い続ける様が描かれている。つまり、ワンダーウーマンというキャラクターの作中で描かれた内容のみならず、社会的に担ったメタ的な文脈をもふまえてストーリーが構築されているわけだ。
 このようなコミックの脚本を、カート・ビュシークという一人の男性が書くことができたということが、既に記念碑的なことであると言えると思うのだが……そうだとしても、これが可能になったのは、コミック・ブック業界のセクシズムをめぐる血みどろの闘争が既に過去のものとなり、過ぎ去ったこととして回想する余裕もできたからこそ成立しえた作品だと思う。
 ……まあ、日本の文化状況にふさわしいのは、映画の『ワンダーウーマン』じゃなくて、こっちのコミックの方だとは思うが……。


 念のために書いておくと、映画『ワンダーウーマン』がフェミニズムの観点から見て反動的な後退だという批判があっても全くかまわないのである、その批判が正当な手続きを踏んでいるのであれば。
 例えば、ワンダーウーマンの両腕のブレスレットについて、アクション面での意味ばかり私は書いてきたけれど、一方で、「文字通りの意味で男が女を縛り付けていた時代の名残り」という意味付けも与えられてきた。また、ワンダーウーマンの故郷のパラダイス島にしても、基本的には、「男の暴力から逃れてきた女たちにとっての楽園」という含意があった。……だから、同じ内容に関するコミックと映画での描かれ方の落差を比較して、「映画の方が後退している」という批判だって当然成立しうるわけだよね、私が読んだ中では存在しなかったけれども。
 一方、あくまでも独立した映画としてのみ『ワンダーウーマン』を評価するため、作中に描かれていることだけを内在的に取り上げるという立場も当然成立する。……しかし、その場合には当然のこととして、この映画の外部でワンダーウーマンというキャラクターが幅広く持ってきた文化的・社会的な意味には、いっさい言及してはならないということになる。
 これまたフェミニスト批評に限ったことではないわけだけれども……映画をあくまでも独立した映画としてのみ見て、作品外部の文化背景やなんやかやに関してはいっさい調べる気も分析する気もないけれども、影響力の大きな有名なキャラクターなので、独立した映画をとりあえずは見たという知識のみに基づいてその外部の大きな分化や社会の文脈について語りまくるということを、スーパーマンやキャプテン・アメリカなんかを取り上げて平然とやっている人々って、掃いて捨てるほどいるよね。
 ……そういう意味では、これはやっぱり、フェミニズムうんぬんの話ではない、はるかにそれ以前の問題だ。批評や研究のめんどうな作業をする気はさらさらない人々が、なんとなく知的っぽい感じに自己満足できる、文化的・社会的に大きな文脈を切ったつもりになれるような批評もどきをやりたがるのは全くくだらん、ということでしかない。
 やっぱり、問題なのは、単純に物事を断言できないような状況の複雑さ、めんどうな作業を進めなければ理解などできないようなあいまいさにとどまることのできる人間がほとんどいない、ということなのだろう。映画『ワンダーウーマン』の主演のガル・ガドットとイスラエルの関係についても、怒り出す人が出てくるのはまあ当たり前のことではあるわけだ。……もちろん多くの日本人にとってはパレスチナ問題など身近ではなく、それほどの知識があるわけでもなく、当事者の感覚など持ち合わせてはいないのだが、しかし、自分にとっては縁遠い問題についての他人の怒りを「それとこれとは話が別」というように、さも理性的であるかのような分別をふりまわすのはおかしい。これは、客観的なのではなくて、他人事であるのにすぎない。
 このことを日本に置き換えたら、どんな話なのだろうか。……例えば、黒澤明の『七人の侍』を現代でリメイクするとして、強者に虐げられる村人たちを救うために立ち上がった七人の侍を演じるのが……石原慎太郎! 百田尚樹! 高須克弥! 長谷川豊! ……などというメンツだったとして、果たして我々は冷静でいられるのか。
 まあ、この場合は純粋に映画としても酷いことになりそうだけれど、「それはそれ、これはこれ」「作品としての評価と俳優への個人的評価とは別の話」という言葉を発するのには、本当はそれなりに覚悟がいることはわかると思う。……そして、パレスチナ問題に関する当事者感覚というものは、たぶんこんな例よりもさらに生々しいものであるはずなわけだ。映画というジャンルで、身体性をまるまる備えて作品に写り込む俳優の個人的な属性と役柄とを完全に区別してとらえるのは難しい。……そして、そのような難しさや曖昧さをあっさりと無視して簡単な結論に飛びつくのは、「理性」や「客観性」や「分別」などではなく、粗雑にして無神経な愚かさでしかない。


 ……まあ、こういうような状況を見るにつけ、ワンダーウーマンというキャラクターは日本になど相応しくない……と思うのだったが、しかし、ダイアナはといえば、スティーヴとともに、問題はdeserveではなくbelieveなのだと言っていたのであった。










映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(中)

 映画『ワンダーウーマン』は、何の予備知識もなくとも独立した作品として見ることができるものになっている一方で、作品に備わる数多くの美点の大半は、もともとワンダーウーマンというキャラクターを知る観客にとってこそ価値のあるものになっている。
 このことは、アクション演出の水準にまで及んでいる。その中でも特筆するべきなのは、ワンダーウーマンの両腕のブレスレットに関するものだ。……ワンダーウーマンというキャラクターを多少なりとも知る者ならば誰一人として知らないことはないほどまでに有名なのが、彼女がブレスレットで銃弾を弾く場面なのである。これは、「胸板で銃弾を弾くスーパーマン」や「バッタランを投げるバットマン」などといったものと同等と言えるほどまでに超・有名なアクションの見せ場なのであり、ファンからすれば「説明不要!」と思えるような要素の一つなのだ。
 ……そう、だからこそ、映画『ワンダーウーマン』は、この件について説明しないのである(とは言え、ノーマンズランドの場面さえもがカットしようとする圧力に絶えずさらされていたのなら、「両腕のブレスレットに意味付けが与えられる場面」も元々はあったのにカットされてしまったのかもしれないとも疑ってしまうのだが……)。ブレスレットで銃弾を弾く場面こそがワンダーウーマンにとってのアクションの最大の見せ場であるからこそ、あの手この手でそのような場面を作中に盛り込み、少しずつ見せ方を変えながら、何度も何度も繰り返して描き続けている。……つまり、ワンダーウーマンを知る観客にとっては死ぬほど盛り上がりまくる名シーンとなっているのだが、逆に、ワンダーウーマンのことを全く何も知らない観客にとっては、何も感じずに見過ごすだけの場面となってしまっているだろう。


 アクション一つを取ってみてもそのように描かれている『ワンダーウーマン』と比較すると、『スパイダーマン:ホームカミング』は、原作となるコミックのことを全く知らなくとも鑑賞できるように製作されている。……正直なところ、コミックをいかに参照したのかという部分を全く考慮に入れず、純粋に映画としてのみ評価するならば、『スパイダーマン:ホームカミング』は、あらゆる面で『ワンダーウーマン』を上回っているとすら思う。
 『ワンダーウーマン』という映画は、全く予備知識がなくとも鑑賞できるように製作されていながら、その真価を楽しめるのは、ワンダーウーマンについてある程度の予備知識を持っている観客である。……一方、『スパイダーマン:ホームカミング』のコミックとの関係は、奇妙に入り組んだものとなっている。この映画は、コミックにおけるピーター・パーカー=スパイダーマンのことを何も知らなくとも鑑賞できるようになっているーーしかし、コミックにかんする予備知識は必要なくとも、これまでのマーヴル映画を観客が見てきていることが話の大前提となっているのだ。その意味で、コミックへの参照が大幅に刈り込まれている一方で、観客に事前に予備知識を備えていることを要求していないわけではないのだ。
 そのようなことは、『スパイダーマン:ホームカミング』の冒頭の時点で既に端的な形で現れている。作品の開幕を告げつつ、何やら聞き慣れない音楽が鳴り響く……と思いきや、しばらく聞き続けてから、その曲が何であるのかに気づいて驚くことになる。冒頭で流れていたのは、アメコミファンにとっては極めてなじみ深いものであるはずの、あのスパイダーマンのテーマであったのだ。つまり、ベースとして昔ながらのスパイダーマンのテーマが使われてはいるものの、あまりにもアレンジをかけ過ぎた結果として、それがスパイダーマンのテーマであるということにすら、すぐには気づけなかったのだ。
 『スパイダーマン:ホームカミング』の原作コミックへの参照の仕方は、全体としてそのようなものである。……例えば、スパイダーマンの神話を構成する不可欠の要素の一つとして、ベン伯父さんをめぐる挿話があることは言うまでもないだろう。ベン伯父さんが死ぬ事件を通じて、ピーターは教訓を得て、スパイダーマンとなる。ベン伯父さんの死とスパイダーマンの誕生とは不可分に結びついている。……しかし、『スパイダーマン:ホームカミング』は、ベン伯父さんの死を描かず、ピーターは既にスパイダーマンとなっている。
 つまり、ここにあるのは、「ベン伯父さんの死」ではなく、単に「父親が不在の家庭」なのである。あくまでも「父親が不在の家庭で暮らす少年」としてピーター・パーカーが描かれるからこそ、父親の役割を代行する存在として、トニー・スタークがその場におさまることになる。……かくして、スパイダーマンの誕生にまつわる本来の文脈はほとんど抹消され、「多くの作品によって構成されるマーヴル映画の内の一本」として、マーヴル映画の内部の文脈にこの映画が位置づけられることになるわけだ。
 『スパイダーマン:ホームカミング』という映画は、実質的に、『アイアンマン』シリーズの続編と見なした方がいいと私は思う。もともと『アイアンマン』シリーズでトニー・スタークの精神面を描く上で主要なテーマの一つとなっていたのが、微妙な距離感を抱えたまま死別した父親との関係性なのであった。そして、シリーズが進んで『アヴェンジャーズ』でマーヴル映画が合流することになると、若き日の父親が心酔していた存在が現代に蘇ったキャプテン・アメリカとの関係性に、父親への葛藤が投影されていたわけだ。
 そのように描かれてきたトニー・スタークが今度は擬似的な父親の役割を果たそうと悪戦苦闘するのが『スパイダーマン:ホームカミング』なのであり、だからこそ、映画はあのような出来事をもって実質的に終わることになる(……と、いうことは……『スパイダーマン:ホームカミング』にああいう形で登場することになった、スティーヴは……ピーターの、おじいちゃんだったのか……)。
 ……というふうに見てみると、『スパイダーマン:ホームカミング』はあくまでもマーヴル映画全体の中での一本という色合いが強いものなのであって、原作コミックが存在することの必然性は限りなく希薄なものになっていると言うことができると思う(……とは言え、クライマックスの戦闘に向かう直前の部分で、「アメイジング・スパイダーマン」33号の超有名な場面にオマージュを捧げたのはよかった)。


 マーヴル映画の一部分としてコントロールされつつ製作された『スパイダーマン:ホームカミング』は、しかし、最近のマーヴル映画に私が抱いていた共通の不満がほとんど解消されている作品でもあるのだった。
 『アイアンマン3』以降のほとんどの映画に共通していた照明の問題もなかったし、脚本の設計も極めて巧みなものだろう。……で、なぜこんな風にマーヴル映画の問題点が改善されたのかと考えると……これに関してはあくまでも純然たる憶測なんですが、ジェフ・ジョンズの映画化への進出を最も脅威に感じていた人物こそがファイギだったんではなかろうか、と。
 だってですよ、明らかに映画化されたもののことしか知らん連中が「DCコミックスと言えば暗いイメージ」などと言うたびに私などは殺意を抱いてきたわけですが……実際には、『アイアンマン』以降のマーヴル映画の全体的な方向性というものは、映画のみならずアメコミ業界全体の動向を照らし合わせるならば、DCコミックスにおいてジェフ・ジョンズが(とりわけ『グリーンランタン:リバース』において)確立した潮流に全面的に乗っかったものであることが明らかなわけです。
 もちろん、ジェフ・ジョンズの作風に明らかに影響を与えているカート・ビュシークやダーウィン・クックの仕事にまで遡ってもいいわけですが、いずれにしてもはっきりしているのは、マーヴル映画の方向性は、アメコミ業界の全体の潮流からすると、出てくるべくして出てきたものだった。また、コミックの局面だけを見ると、そういう方向性に関しては明らかにDCの方が一歩も二歩も先を行っていたことは明らかなわけです。
 それが映画になるとどうですか。今回の『スパイダーマン:ホーミカミング』の冒頭にしてもね……『アヴェンジャーズ』のニューヨークでの大決戦の残骸がその後与えた影響から始まった時点でね……正直、「あ~、たぶんジェフが『バットマンvsスーパーマン』でやりたかったであろうことが取られた~!」と思いましたよ。
 だって、『バットマンvsスーパーマン』の冒頭で、前作でのヒーローの破壊的活動への批判的視点を盛り込むところから始めようとするアイディアって、たぶんジェフのものでしょう。それが、どうみてもいろんなテーマがごちゃごちゃ入り組んでいる迷走感の結果、なんであんなオープニングで始まったのかもわからんようなグダグダの展開に。それに比べれば、『スパイダーマン:ホームカミング』の方は、うまいことそのアイディアを脚本の内に取り込むことに成功しています。
 ……以上のようなことをふまえて、これまた憶測にすぎないわけですが、にもかかわらず私としてはほとんど確信していることがあります。
 映画『ワンダーウーマン』におけるノーマンズランドのシーンは、私の見たところ、脚本面での特徴は(あそこだけは)ジェフ・ジョンズの作風が全開でした。しかし、ワーナー内部では「意味がわからない」「荒唐無稽」と批判されてカットしようとする圧力が大きかったのだと言います。
 これを受けて、私にはどうしても思い出されることがあるのです。……というのも、ベン・アフレック&ジェフ・ジョンズの共同執筆によるバットマン映画の脚本は既にお蔵入りが決定していますが、この脚本に関して、完成後にワーナー内部で「意味不明」「支離滅裂」「映画の脚本として成立していない」などと批判する声が大きかったと報じられてもいました。
 ……ちょっと待て……これ、どう考えても、ノーマンズランドの場面を削ろうとしたのと、ジェフジョンバットマン脚本を叩いてたの、同じ連中だろ~っ!!! ということは、逆に考えれば、お蔵入りになったバットマン脚本って、「ノーマンズランドの場面のノリが最初から最後までずっと続くようなもの」だったってことじゃないの!?
 もうね……ワーナーはクソ! 本当にクソ! どうしようもないクソ! ……うぅ……これじゃあ、いくらなんでも、ジェフ・ジョンズの才能の無駄遣いじゃ……(涙)
 繰り返しますが、あくまでも仮説の域を出ないんですが、私としては、「結局のところ『ワンダーウーマン』の脚本をジェフ・ジョンズがコントロールすることはできなかったので、原作コミックへのリスペクトを残すことを優先して闘い、後は妥協してできた結果があれだった」という推測に落ち着いています。原作コミックへのリスペクトを残しつつ、なおかつ一見さんにも面白いということは、ちゃんとジェフに全権を与えてたらクリアできてましたよ。だって現にドラマ「フラッシュ」では実現してるじゃないすか。
 『ワンダーウーマン2』の脚本にしてもね、既にパティ・ジェンキンスとジェフ・ジョンズが共同で草稿を書き上げたそうですが。そこからさらに、新たに脚本家を呼んで改変を加えるそうですね。……うん、うん、その過程、全部無駄だね! ワーナーよ、もうそれ以上いじるな!


 今回で最後まで書き終わるかと思ってたんですが、微妙に忙しかったこともあり書ききれなかったので、このエントリはまだ次に続きます。日本における紹介のまずさと、それからフェミニズムに関することについても続きで書きます。









映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(上)

 パティ・ジェンキンスの監督による映画『ワンダーウーマン』をとりあえず3回見たのだけれど、最初に見たときの率直な感想は、「これはアメリカ以外では受けんわ……」というものだった。
 おそらく、アメリカ以外では、この映画の根本的な美点であり、なおかつ明らかに最も労力が注がれている部分は、ほぼ理解されないであろう。……ではそれはなにかと言うと、「あのあまりにも有名であり一種の象徴的な存在ですらあるワンダーウーマンを、初めて単独の実写映画にするなら、それはどのようになされるべきか」という部分が、とんでもなく高い水準でクリアされているということだ。
 つまり、「ワンダーウーマンとは説明不要の存在である」という前提を共有している観客にとっては、この映画は大変すばらしいのである。しかしそれは、逆に言えば、その前提を共有していない観客にとっては、おのずと作品の見え方が異なってくるということでもある。……正直なところ、純粋に映画としてのみ見れば、『ワンダーウーマン』はちょっとした佳作程度のところにとどまる、ということになってしまうであろう。
 そういう意味では、映画『ワンダーウーマン』のあり方は、リチャード・ドナー版『スーパーマン』に近いものであると言えると思う。あの映画はそれなりによくできてはいたが、とてつもない大傑作というわけではなかった。しかし、あの映画は同時に、原作者の片割れでありながらもスーパーマンというキャラクターの権利を保持することができず不本意な扱いを長年に渡って受け続けたジェリー・シーゲルが、完成試写会で涙を流すことになるようなものでもあったのだった。
 そして、この『ワンダーウーマン』から本格的にDC映画の舵取りをすることになったというジェフ・ジョンズはリチャード・ドナーの弟子であり、ドナー版『スーパーマン』をこそ理想の映画と見なしているであろうことを考えると、ジェフ的にはやりたいことを十分できたのが映画『ワンダーウーマン』であった、ということになるのだろう。


 映画『ワンダーウーマン』が、原作コミックの世界を実写映画の世界に移し替えるにあたって凝らした巧妙な工夫の数々は、映像そのものの水準においても、明確な形で現れている。
 ワンダーウーマンの故郷、パラダイス島ことセミッシラは、作中の現実においては神話の世界と地続きであり、なおかつ外界から隔離された場所として設定されている。
 そんな世界に闖入してきて平穏を破ることになるのが、アメリカ軍人のスティーヴ・トレヴァー大尉であるわけだが……第一次世界大戦の渦中にありドイツ軍に追われているトレヴァーによって外部の世界が示されることによって、それまでの時点で、パラダイス島はある明確な指針の元に映像化されていたことが明らかになる。
 というのも、第一次大戦が進行中である外部の世界は、まさに戦争映画が描いてきたようなくすんだ色彩の元に描かれているのだが、外部から隔離されたパラダイス島はと言えば、さんさんと陽光が降り注ぎどこまでも青い海が広がる、美しくも牧歌的な世界として描かれている……そして、このことは、トレヴァーの闖入の時点で事後的に明らかになるのだ。
 神話の約束ごとがそのままに展開される荒唐無稽な絵空事の世界としてのパラダイス島と、実写映画のリアリズムの極地の一つであるとも言える外部の場所としての、戦争映画の世界。この両者は、明確に異なる場所として、全く異なる方針で設計された色彩と照明の表現によって、あからさまなまでに対比的に描かれている。
 荒唐無稽な絵空事がまかり通り、社会組織の運営にまつわる軋轢など意識もされず、子供の倫理がそのまま通用する世界とは、けばけばしい原色とともに描かれた、ヒーローコミックの原初的な世界である。そのような場所としてのパラダイス島を出て、無実の人間も次々に死んでゆく第一次世界大戦に介入するために、ダイアナはヨーロッパへと旅立つことになる。
 言うまでもないことだが、ヒーローコミックにおいて古くから存在するキャラクターのそもそもの設定は、幼稚にして荒唐無稽なものだ。だからこそ、その設定を「よりリアルなものに」「大人の鑑賞に堪えるように」改変され、派手な衣装は現実に存在しても不自然でない程度の穏やかなものに改変される。スーパーマンは派手な原色の衣装を身に纏わず、幼きバットマンが運命の日に家族で『怪傑ゾロ』を見に行くこともなく(現行の設定ではこれは元に戻ったが)……そして、よりにもよってあのキャプテン・アメリカが、無実の人間全員を救うことを諦めることにすらなるだろう。
 映画『ワンダーウーマン』が採用するのは、これとは全く異なる方法論である。……そもそもが荒唐無稽な絵空事の世界観をリアリティ重視の実写映画の世界観に接合することが不自然極まりないことであるのなら、両者の世界観を両者ともに妥協させて、いかにも自然に接合できるような中間地点を探る必要などない。そうではなく、全く異なる世界を全く異なる世界としてそれぞれバラバラに描き出し、異なる世界観の衝突そのものを作品の根幹に据えればよい。……そして、このことは、映像そのものの水準においても、作劇の水準においても、並行して突き詰められることになるだろう。
 映画『ワンダーウーマン』の根幹にあるのは、子供の倫理と大人の論理との衝突であるのだと言ってもいい。……そして、その衝突の末にどちらに軍配が上げられるのかということにこそ、この映画が取る本質的な態度がある。
 対峙する両軍が膠着するノーマンズランド、そこに存在する塹壕をめぐっての描写は、映画史上数多くの作品で展開されてきた。……なるほど、塹壕の中での過酷な現実を前にすれば、子供の幼稚な願望をなんでもかんでも充足させることなどできはしない。たやすく戦況を覆すことなど「不可能」であり、「自分にできることだけをやる」ことが精一杯なのであり、悲惨な境遇にある人がどれだけいようとも、「全員を救うことなどできない」。
 しかし……「それでも私は行く」、と、アメリカン・コミックスが描いたありとあらゆるヒーローたちの、誰でもがそのように言うだろう。いや正確に言えば、そのような状況でそのように躊躇なく言うことのできる者だけが、ヒーローになる意味がある。
 荒唐無稽な絵空事の世界と厳しくも残酷な現実の世界、きらびやかな原色の世界と曇天の下のくすんだ世界、子供の倫理と大人の論理……異なる世界を映像の水準でも脚本の水準でも越境し続けてきた存在としてのダイアナは、このときになって初めて、ワンダーウーマンになる。
 今や、二つの世界の狭間で、コミックの幼稚な願望、たとえ不可能だろうとなんだろうと弱き人々のために立ち上がるという原初的な衝動が、何よりも価値あるものとして最優先される。コミックは現実に勝つ……というより、救いのない現実に希望を照らし出す存在として夢想されたものこそがアメリカのヒーローコミックであった、その原点が当たり前のこととして確認されたというだけのことでもある。
 大人たちの現実世界の中では「恥ずかしいもの」として徹底して覆い隠されてきた、ダイアナがその身に纏うパラダイス島のきらびやかな衣装は、ようやくその姿を露わにする。……つまり、この場面においてこそ、作品全体が映像の水準でも脚本の水準でも描いてきた二つの世界の葛藤が完全に解消されたということだ。そして、その解消そのものが、映像と脚本の問題が同期するポイントと一致している。
 しかし、ここには、二つの世界の妥協に満ちたすりあわせなどというものは微塵もない。子供の倫理は、大人の論理に対して全面的にかつ完全な形で、あらゆる点で勝利したのだ。


 ……などというようなことを考えてはいたのだが、それだけではなく、映画『ワンダーウーマン』に関して、私としては非常にひっかかっておりとりおえず述べておきたいことが、とりあえず、まだ二つある。
 まず一つは、ジェフ・ジョンズがDCコミックスの映画化の全権を任されたと報じられているのを既に色々なところで見てきたのだが、実際の映画化を見てみると、どう見てもそんな風な感じにはなっていなかったということだ。『ワンダーウーマン』の場合、この映画の最大の見所であるノーマンズランドの場面に関しては、あのあたりの脚本を書いたのは100%間違いなくジェフなのだが、他にはそういう場面はなかったし、最終的には脚本のクレジットから外れてすらいる。……そして、パティ・ジェンキンスのインタヴューによると、あのノーマンズランドの場面すら、作品から削ろうとする圧力がワーナー内部に存在し、残すために全力で守ろうとしなければならなかったらしいのである。……つまり、いったんジェフ・ジョンズに映画化の舵取りを任せることにしておきながら、実際には全権委任などしておらず、足を引っ張る行為がそこかしこで行なわれていることだ。このようなことは、もはや映画がどうこうという問題ですらなく、ダメな組織においてありがちなことでしかないだろう。
 そして、このことに関しては、マーヴルの方の『スパイダーマン:ホームカミング』との比較が興味深いと思う。私は以前、ジャンルとしてのヒーローコミックが成立する前提とはなにかについて述べたのだが、それについては、『ワンダーウーマン』と『スパイダーマン:ホームカミング』の両方がクリアしている。その上で、コミックと映画の関係に関しては、この両作は対照的なものとなっていると思えるのだ。
 そして、もう一つは、作品そのものというよりも、作品を巡る周囲の状況に関することだが……日本でのこの映画の紹介のされ方は、いくらなんでも酷すぎる、ということだ。……などというように、もう少し書きたいことがあるので、それらのことは次のエントリに続きます。 









エリック・ロメール&クロード・シャブロル『ヒッチコック』と編集の倫理

 エリック・ロメールとクロード・シャブロルの共著になるヒッチコック研究書『ヒッチコック』を、邦訳で読んだ。

 もともと、アンドレ・バザンの影響下に「カイエ・デュ・シネマ」誌で活動していた若い映画批評家たちが実作者へと転じていくことで主要な流れが形成されたのがヌーヴェル・ヴァーグなのであったーーそして、ヌーヴェル・ヴァーグが取った批評的立場で重要であったのは、単に商業的娯楽作家とみなされていたアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスの作家的価値を称揚することにあったのだった。

 この邦訳版『ヒッチコック』の解説にもその経緯は詳細に記述されているのだが、当時のフランスにおいて、特にヒッチコックの作品の価値に関する論争は相当に激しいものだったらしい。「カイエ」の執筆者がヒッチコック擁護で揃って立場が統一されているというわけでもなく、論争の果てに、ロメールとシャブロルによる単著として刊行されたのが、この『ヒッチコック』なのであった。

 ……というわけで、もともと映画史的にも非常に有名な著作であった『ヒッチコック』であったのだが、この邦訳が出たのは割と最近であり……いざ読んでみると、なんというか、現在の視点で見ると、かなり古びてしまっている印象を受けた。





 まず、そもそも前提としておさえておかなければならないのは、ロメール&シャブロルによる『ヒッチコック』が、ヒッチコックに関するモノグラフィとしては世界で最初のものであるということだろう。言い換えれば、この著作が刊行された時点では、ヒッチコックがまともな研究の対象とみなされてすらいなかった、ということだ。

 いかなるハッタリもなく、当然のこととして、ヒッチコックをただ堂々と論じてみせるということは、当時の状況としてはそれ自体が大きな意味を持ち得たのかもしれないが……現在の視点で見ると、単にフツーの研究書であるように見えてしまうのである。

 『ヒッチコック』という著作は、激しい論争の果てに成立した書物であるにもかかわらず、その起源にあったはずのポレミカルな部分の痕跡はそのほとんどが消去されている。その数少ない例外が、アンドレ・バザンの立場に言及した部分だ。ロメール&シャブロルは、ヒッチコックを否定する当時の批評家たちを非難しつつ、次のように書く。





 時間が経てば彼らは笑い者になるのだから、こうした批評家は皆無視しよう。唯一重大な反論がアンドレ・バザンによって表明された。彼にとって、ヒッチコックの映画が革命的なのは見掛けだけでしかなかったのだ。(『ヒッチコック』、木村建哉・小河原あや訳、p114)





 ……確かに、ヒッチコックを認めなかった人々のその後についてはロメール&シャブロルが完全に正しいのだから、ある意味では、現在の状況こそが、ロメール&シャブロルの願望が成就した状況であると言えるのかもしれない。つまり、彼らの『ヒッチコック』が、単にふつうの評論として読めてしまうということが。

 とはいえ、この著作の内部には、そう簡単には消化できないような部分も含まれているので、もう少し細かく見てみたい。





 ロメール&シャブロルの『ヒッチコック』は、刊行当時に製作されていた『間違えられた男』までのヒッチコック作品を編年体で論じている。現在の視点から見ると、『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』といった重要な作品群を取り上げることができなかったわけだが、そうは言っても、イギリス時代およびその時点でのアメリカ時代の作品を網羅するだけで、膨大な量に上ることになる。

 ヒッチコックが監督としてのキャリアをいかに送ったのかの評伝を含みつつ、個々の作品製作にあたってプロデューサーとの関係などの中でヒッチコックがどれほどの自己裁量を獲得できたのかなどにも言及しつつ、個々の作品の具体的な検討がなされる。

 そして、その際、ヒッチコック作品のそれぞれの善し悪しを単にバラバラに論じるのではなく、全ての作品に一貫して存在する構造が探られることになる――『ヒッチコック』という著作の特異な部分が現れるのは、このあたりである。ロメール&シャブロルは、ヒッチコック自身がカトリックであったことを非常に重視し、ヒッチコック作品に一貫するカトリック的な世界観を検討するのである。

 たとえば、『断崖』における主人公の疑惑の感情を検討する際、ロメール&シャブロルは次のように書く。





実際、疑惑は、『レベッカ』の作家が好むテーマの一つであり、ヒッチコック映画の中には、疑惑がしかるべき位置を占めていない作品は一本もないほどなのである。疑惑とは、言わば「交換」の概念の心理的な保証金であり、この概念の道徳的な側面は後ほどさらに推し進めて検討することになろう。(同、p82、傍点は省略)





 ヒッチコック作品の全てに登場する「疑惑」という登場人物の感情は、一見すると感情とは関係がなさそうな、「交換」というテーマと結びついているのだという。

 『ヒッチコック』においてロメール&シャブロルがまず目指すのは、ヒッチコック作品が脚本面で一貫して持つ構造を解きほぐすことである。だからこそ、ロメール&シャブロルは、『疑惑の影』いついて論じるときにも、次のように書く。





この作品の中に心理的な犯罪映画の独創的な見本しか見て取らないことは、まず不可能である。脚本の構造自体が、そして熟考された演出の詩法が、そうした見方を禁じるのだ。ここでは、すべてが脚韻の原則に基づいている。(同、p87)





 ヒッチコック作品において、登場人物の感情とプロットの展開(さらには、ここでは論じられていないが、ヒッチコック作品に頻出する特異な視覚的な特徴)とは、あたかも詩作において脚韻が踏まれるかのような、首尾一貫とし整然とした建築的構造を有している。

 ヒッチコック作品を何本かまとめて見てみれば、そこにある突出した視覚的な表現は、誰でも気がつく。しかし、ロメール&シャブロルは、単にヒッチコックの視覚的表現を抽出して、それだけを独立したものとして評価するのではない。むしろ、単に周囲から浮き出て突出しただけにみえる視覚的に異常な細部が、実は、作品全体の論理の中では、登場人物の感情と不可分に結びついていることを強調するのだ。

 だからこそ、ロメール&シャブロルは、『見知らぬ乗客』について、次のように書く。





 ヒッチコックの技――この映画は、それを特によく際立たせている――は、純化された、ほとんど幾何学的なあらゆる形象が我々一人一人に与える魅惑によって、我々に登場人物の経験するめまいを共有させ、そしてめまいを越えて、精神的な観念の深さを発見させることにある。象徴から観念へと向かう流れ[電流]は、常に感情という凝縮器を通過する。これは決して理論的な、型にはまった関係ではない。それゆえ感情とは手段であり、猟奇人形劇のドラマと違って、目的ではない。感情は、形式を越えたところに、しかし観念の手前にある。したがって、感情は、口の中に苦い味を残すと同時に、世界の統一性それ自体であるような<統一性>の感覚を我々に残す。カオスのただ中で常に判別可能な<統一性>であり、<悪>の暗い諸相に最も美しい光線のいくつかを反射させているような原初の光である。<自然>の強烈な感覚がこの映画全篇を貫いており、それは、祝日の夕方やよく晴れた午後といった日常的な自然であると同時にまた、大文字の自然、より正確に言えばコスモスでもあって、めまぐるしく旋回する様々な世界の深奥で、めまぐるしく旋回する一つの世界なのである。各々の振る舞い、各々の思考、各々の物質的もしくは精神的な存在には、ある秘密が託されており、その秘密からすべてが照らし出される。そしてこの光は、慰めと共に恐怖をも分かち与える。世界の土台が立脚するその同じ原理が同時に、世界の破壊を司ることのできる原理でもある。(同、p135、ルビと傍点は省略)





 ……これは、かなり入り組んだ複雑な議論である。まずここで前提とされているのは、ヒッチコック作品の個々の登場人物やそれぞれの作品の枠組みをもすら越えて、全体としての統一性が存在するということだ。それぞれの作品なりさらにその内部の登場人物なりは、それぞれの枠組みの範疇で自律的に行動しているのではなく、あくまでも全体の統一性の一部を担っているのにすぎない。だから、各個人の個人的な感情すら、単に各個人の内部で私有されているのではなく、より広い、世界の統一性の内部でなんらかの機能を果たすものである(おそらく、このような発想自体が、ロメール&シャブロルが重視するカトリック的思考がそのまま反映したものであるのだろう)。

 結果として、ヒッチコックの作品世界において、個人の内面の感情と、一見するとそれとは無関係に思える作品そのものの視覚的なスタイルは、有機的に結びついていることになる。画面に写る「純化された、ほとんど幾何学的なあらゆる形象」は、それ自体が自足して存在するのではなく全体の統一性に奉仕しているという意味では、各個人の感情とも等価なのである。

 そして、ロメール&シャブロルが、たとえば、ヒッチコック作品における「交換」の機能を重視するのは、以上のような議論を前提とした上でのことなのだ。……だからこそ、『間違えられた男』を論じる過程で、次のように述べられることにもなる。





ヒッチコックの固有性は、事態の裏と表とを同時に我々に見せることである。彼の作品は二つの極を往還し、それらの極は、両極端が相通ずるように一致し得る。この往還に、我々は「交換」という名を与えた。ここにおいて、この往還が、全人類の交換可能な罪責として、最も高貴な表現を見出していることを認めよう。(同、p183)





 個人がバラバラに存在しバラバラにそれぞれの行為なり感情なりを有しているのではなく、全体が統一性の内にあるからこそ、異なる個人がそれぞれに持つ感情なり、全く異なる場所で行われた別々の行為なりが、「交換」されることが可能になる……。

 そして、ロメール&シャブロルは、以上のような特徴を持つヒッチコック作品の構造の最も典型的な「母型」は、『裏窓』に結実しているのだと言う。足を骨折して歩けない『裏窓』の主人公は、望遠レンズで隣人たちの姿を覗きつつ、そこで起きていることに推論を加える。





 推論[演繹]の筋道は、いくつかの極端な帰結にまで進む。知りたい、あるいはより正確には、見たいという情熱は、ついには報道写真家の他のあらゆる感情を抑えつけることになるだろう。この「覗き」の悦楽の絶頂は、恐怖の頂点と合致する。彼は罰を受ける、というのは、自分の婚約者が、数メートルばかりのところで、中庭という深淵によって隔てられて、容疑者の部屋で不意をついて襲われるのだから。(同、p150~151)





 ……そして、『裏窓』が「母型」であるからこそ、それを基準としていくつかの要素に変形を加えれば、その他の作品がどのように構成されているのかも分析できることになる。





この観点、建築の観点から見ると、『知りすぎていた男』は、ちょうど『裏窓』の系[派生的命題]のように思われる。一方から他方へと移行できるようにするには、公式[定式]の項の一つを修正するだけで十分である。<空間>を<時間>に代えるのだ。

 『裏窓』において、登場人物を彼が欲望し恐怖する対象から隔てるのは、ある広がり[延長]である。この映画ではそれは、同じくはっきりと画定された、ある間の持続である。深淵はもはや空っぽの庭ではなく、ある長さの時間、同じほど大きな不安を分配する時間であり、そしてその不安をヒロインは、どんな犠牲を払っても飛び越えたいと願うだろう。(中略)『裏窓』の世界は、凝視の世界、絶対的な受動性の世界であり、いかなる出口もない。『知りすぎていた男』の世界においては、全体を支配する時間が、一つの可能な行動という次元を導き入れる。そしてこの救済は、<運命>(だがむしろ<摂理>ではないか)と<意志>が組み合わさった働きと引き換えにしか得られないのである。(同、p172~173、傍点は省略)






 ……などというように、ロメール&シャブロルが提示してみせる、ヒッチコック作品に通底する構造は、確かに説得力があるように思えるのだ。





 以上のように『ヒッチコック』の議論を整理していると、現在からすれば古びてしまっているという私の評価は、過小評価であるように思えるかもしれない。

 しかし、である。実は、ここまで私がその論旨を記述してきたような議論は、『ヒッチコック』の本文ではもっとはるかに錯綜して述べられており、各所に散らばった議論を整理して、かなり苦労して論点をまとめ直して、ようやく得られた見通しなのだ。

 ではなぜそんなことをしなければならなかったのかと言えば、『ヒッチコック』という著作は、あくまでもヒッチコックの経歴に即した形で、編年体で作品が時系列に沿って検討されていくからだ。

 ロメール&シャブロルが作品分析で試みているのは、ヒッチコック作品の全体に通底する共通点を探り、その構造を解明することだ――ならば、そのために最適な方法が、編年体の記述であることはありえない。実際、製作順に個々の作品が言及されるがゆえに、論旨が行ったり来たりし、一貫した議論を追うのが非常に手間がかかる記述になってしまっているのである。

 また、編年体であることが、ロメール&シャブロルによる個々の作品評価の説得力をも減じてしまっているように思える。なるほど、カトリック的世界観の分析が終始一貫して追求される著作なのであれば、そこで、『私は告白する』や『間違えられた男』が特権的な作品として評価されることには納得がいく。しかし、ヒッチコックのキャリアを年代に沿って追っていく過程で、この二作品が、同時期の『見知らぬ乗客』『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『知りすぎていた男』などといった傑作群よりも重視されてしまうことには、全く説得力がない(……正直なところ、この著作を読んでいて、批評家としてのロメールのキレのなさを痛感してしまったので、そもそも実作者になる前のロメールが批評家として「カイエ・デュ・シネマ」で活動していたころ、極東の島国でそれを読んでいた過激派映画ファンの学生が「こいつ殺す」などと言っていたのもやむなし、などと思ってしまったのだ……あ、これはもちろん、若き日の蓮實重彦の話です)。

 もちろん、なんらかの対象の抽象的な構造を解明するためには、歴史性・時間性をいったん括弧にくくらなければならないなどということは、当たり前のことである……ロメール&シャブロルがそれをできなかったのは、そもそもヒッチコック作品の研究書自体が存在しないという状況があったからだろう。まずは、体裁が整い単著として完成した評論が出版されるという形を作るため、オーソドックスな編年体に則った単著が上梓された……。

 そこまで考えて、ふと気づいたことがある。……結局のところ、著作家としてどのように著作の体裁を整えるのかということは、映画監督としてどのように自作を完成させるのかとうことと、全く同じことなのではないか、と。

 つまり私は、ここにこそ、ロメールとシャブロルの両名の、ゴダールとトリュフォーとの間の根本的な断絶があるのではないか、と思ってしまったのだ。……言い換えれば、ゴダールなりトリュフォーなりであれば、自分が信じる価値を自作で表現しようとするのに際して、世間一般への配慮と何らかの形で衝突が起きてしまうようなことがあった場合、果たして、体裁を取り繕うためだけに自作の編集を変えるようなことがあるだろうか、ということだ。

 例えば、トリュフォーがヒッチコックに直接取材した『映画術』は、体裁としては対談集なのだから、ロメール&シャブロルの『ヒッチコック』とは異なる……しかし、より根本的な相違として、異様なまでのハイテンションで徹底して自分の好きなものを語り倒すトリュフォーの態度こそが、あの著作をして、いつまででも古びることなく広く読み継がれ続けるものにしていたのではなかろうか。

 そのように考えてみれば……ロメールにせよシャブロルにせよ、優れた映画を何本も撮っているし、部分部分で見れば突出した細部もいくらでもある。しかし、作品全体を通してみたときに、通常の映画として存在できないような体裁をかなぐり捨てたもの、作家の衝迫のみに突き動かされて

わけのわからない領域にまで至ったもの……そのようなものは遂に実現することがなかった。彼らは最低限の世間向けの配慮、世間向けの忖度を捨てることはなかった……言い変えれば、ロメールにせよシャブロルにせよ、本当にヤバい一線を越えることだけは、決してなかったのだ。










«  | ホーム |  »

このブログについて

 ・毎月第1・第3土曜日に更新しています。それ以外にも不定期に更新していますので、月に2~3回程度の頻度で新しい記事を載せています。


 ・コメント欄は承認制です。管理者の直接の知人でもないのにタメ口で書き込まれたようなコメントは承認しませんのであしからず。


 ・なにか連絡事項のある方は、howardhoax(アットマーク)yahoo.co.jpまでどうぞ。

 

プロフィール

Howard Hoax

Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

全記事表示リンク

広告

 

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

広告

 

検索フォーム

 

 

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

 

QR