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電子書籍の進行状況とプロレスに関するnoteについて

 何点かの告知事項があったため、久しぶりに更新しました。以前からこのブログで取り上げていたカサヴェテス論についてなのですが、とりあえず、自分として完全に納得のいく形でおおよそ仕上がりました。結果として、このブログにアップした元のヴァージョンの二倍半以上の分量になったので、もはや全くの別物だなあと。正直なところ、質・量ともに不完全なこのブログのものはもう引っ込めたくすらあるんですが、公開した経緯があるだけにそのままにしておきます。また、このカサヴェテス論と、このブログの他の記事を改稿したものと、新たに書き起こす記事を付け加えて一つの電子書籍の形態にするため、全体の完成にはまだしばらく時間がかかります。主に、映画とプロレスという二つのジャンルを通して、アメリカ文化の根幹の探求と、その日本への受容を探るという内容になります。
 それにしても、「映画とプロレス」という枠組みに何の関係があるのかと言えばーー私としては、正確に言うと「西部劇とプロレス」の本質的な関係ということになるんだけれどもーーほとんど理解されないという以前にほぼ興味を持たれないであろうという状況において、今年になってとんでもないことを成し遂げてしまった人物がいます。……そう、もちろん、ロック様です。
 少し前の私は、ロック様が主演を努めた『ジュマンジ』を見た際、「この程度の水準のアメリカ映画が年に何本も定期的に安定して見られるといいんだけどなあ……まあ無理だけど」などと思っていました。ところが、あにはからんや、その後のロック様主演映画として立て続けに公開された『ランペイジ』『スカイスクレイパー』と見ていって、映画史的に考えて不可能であるはずの事態が進行していることに大変な驚きを覚えたのでした。しかも、この驚くべき事態は、まさにロック様が自ら映画の製作者の側の方にも乗り出したことによって始まっているのです。
 同じ年度の内に連続公開される映画が全て異なるジャンル映画で、細かい演出面はともかくジャンル内の枠組みの内で構成された脚本としてはいずれも完璧なものであり、なおかつ撮影期間はいずれも数ヶ月! さらには、『ランペイジ』と『スカイスクレイパー』に関しては、上映時間が105分程度ーー今のハリウッド映画のあの長いエンドロールを除けば、実質100分未満! ……って、こんなこと、撮影所システムが機能してなければ絶対に不可能なことのはずですやん!
 例えばトム・クルーズなんかも、製作者としても相当に偉いわけだが、それでもなお「ミッション・インポッシブル」というシリーズものの枠組みの中で商業的成功の見込みが立った上でその中で色々と変化をつけ、なおかつそれを各作品についてたっぷり製作期間を取って何年も間を空けることによって初めて成立している。なぜロック様がこんなことをできたのか、全く意味がわからないと言うほかない。
 具体的に映画の内容を見てみても、特に『スカイスクレイパー』の場合、題材としては臆面もなく堂々と『ダイ・ハード』や『タワーリング・インフェルノ』からパクってみせつつも脚本は完璧に機能的に構築するというまさにハワード・ホークス的な図々しさを実践しつつ、実質的に語っている話の内容はと言えば「困ったときはダクトテープがあればだいたいなんとかなる!」「スマホは再起動すればだいたいなんとかなる!」ということしかないのである(あとは強いていうならば、「二択を強制されたらどうするかって? もちろん両方取るわ!」)。そこからさらに、『上海から来た女』のオマージュまでぶち込んでくるのだから、驚くほかない(もっともこれに関しては、『上海から来た女』にオマージュした『燃えよドラゴン』の方への参照の可能性もあるが)。
 どれだけ精密な現代のテクノロジーに取り巻かれた社会の中にあろうとも、ひとたび危機的な状況に陥るやいなや自分自身の体(とあとダクトテープ)だけを頼りに、いっさいの躊躇もなく目的を達成するアクションの主体としての人間ーーすなわち、自らの自由意志をあくまでも行動で示すという意味でのアメリカン・ヒーロー。……そう、ここで実現しているのは、完全無欠のアメリカ映画なのである。ロック様の妙技を味わいまくってしまったと言うほかはない。
 繰り返すが、映画史的に考えて、現代においてこんなことができるわけがない。にもかかわらずなぜこんなことができてしまったのかと言えば、それは、ロック様がプロレスの核心をつかんだ人物であるからだろう。アメリカにおけるプロレスの本質を掴むことが、アメリカの根源そのものに触れることであるからこそ、失われたはずのアメリカ映画の本質を体現することすらできてしまったわけだ。……そして、改めて考えてみれば、もともとプロレスにおいても、ロック様は本来ならありえないはずのことを既に成し遂げていた存在であったのだ。
 アメリカン・プロレスの歴史におけるロック様の立ち位置は、西部劇に例えて言うならば、クリント・イーストウッドのそれに近い。つまり、ハリウッドから本来の西部劇が滅び去ってからのちに、TVドラマの『ローハイド』とマカロニ・ウェスタンにおいて西部劇のスターになったのがイーストウッドであったのと同じように、本来のアメリカン・プロレスが滅びてからのちに、変質した後の状況でスターとなったのがロック様なのであった。
 80年代におけるプロレス業界の産業構造の変化の結果、アメリカン・プロレスの従来のプロモーターのほとんどは滅び去り、90年代に至るとプロレス業界はTV中継を前提とした視聴率戦争の世界へと移行した。……しかし、異変が起きたのはこの時点においてである。テッド・ターナーが資本を投下したWCWに対して、(80年代に既に業態を変え全米侵攻を開始していたとはいえ)もともとは東海岸で代々の家族でプロモーター業を営んできたのに過ぎないマクマホン一族が率いるWWF(現・WWE)が、あろうことか完全勝利したあげくWCWを吸収・合併までしてしまったのである。アメリカの歴史的・文化的・経済的背景をふまえればふまえるほど、とうてい起こり得るはずのないように思えるこの出来事の実質的な立役者となったのが、他ならぬロック様なのであった(あとストンコ)。
 かくして、ハリウッドで撮影所システムが滅びアメリカ映画の核心は失われたのとは異なり、プロレスの本質は、形を変えながらもかろうじて生き延びた。そのロック様が、映画業界に転身し、アクションスターとしての道を順調に進んでいると思いきや……今や、かつてプロレス界で成し遂げたのにも匹敵しかねないことをやりつつあるのである。ロック様は、撮影所システム崩壊後のハリウッドに身を置いた映画人たちが決して掴むことのできなかったものを、プロレスを通して既に身につけてしまっているのであるーーでは、その、アメリカ文化の本質とは、いったいなんなのか?
 ……と、いうことを、現在、電子書籍の形でまとめているわけなのであります。


 さて、自分の中で懸案であったカサヴェテス論が改めて出来上がった頃になって、ちょうど劇場公開された濱口竜介監督の『寝ても覚めても』を見てきました。そして、作品全体の演出なりなんなりの評価ということとはまた別のこととして、最後の最後に現れたショットが、まったくもっていかなる意味でも救い難い、どうしようもない最低最悪のクソで、怒り狂うということがありました。
 と言っても、ここには一つの、作品外の事情を含む理由があります。仮に私が何の予備知識もなしにこの映画を見ていたとしたら、「最後になってずいぶん陳腐なことをして、作品全体の価値を落としちゃうんだんなあ」と呆れるだけで、特に気にもとめずにすませていたでしょう。しかし、濱口監督という人はカサヴェテスからの影響を公言している人物であるので、そのことを念頭に置いてみると、そこにある意味が明らかになるのです。
 『寝ても覚めても』の最後のショットでは、作品の主役のカップルが、並んで川の流れを眺めつつ語り合うところが描かれます。そして、その会話によって明らかになるのが、この「川の流れ」が、カサヴェテスにとっての「ラヴ・ストリームス」を、隠喩として表しているということです。
 いや……あのさあ、カサヴェテスにとっての「ラヴ・ストリームス」ってさあ、たった一つの、それもすこぶる安直な隠喩をポンと出して表現できるものであるわけがないでしょうよ。カサヴェテスは、「ラヴ・ストリームス」とはいかなる事態であるのかを、ただひたすら役者の身体に寄り添うことによって、なんとかかろうじて表現しようとしてきたわけですよ。そんなことをし続けてきたからこそ、カサヴェテスの映画はああいうスタイルのものになっているわけです。
 だから、カサヴェテスの映画では、映像を隠喩として用いて、画面に映っているものを、それ以外のなにものかを指し示すために奉仕させるようなことは起こりません。しかし、カサヴェテスの影響を受けていると公言する濱口竜介は、隠喩であるゆえにそのありさまを外部から俯瞰し一望できる「川の流れ」=「ラヴ・ストリームス」を主役のカップルに外部から眺めさせ、「きたねえ」「でも、きれい」などとのんきに言わせているわけです。はっきり言って、最悪です。
 そして、それが最後のショットに現れるだけなら、じゃあそれを削ってしまえばいいのかというと、そういうわけでもないんですな。作品の最後で「川の流れ」=「ラヴ・ストリームス」という隠喩が明らかにされることによって、そこから遡及的に、そこに至るまでの作品の至る所でこの隠喩が全体の構成に奉仕していたことが、事後的に明らかになるわけです。例えば、「川の流れ」のすぐ近くに、主役のカップルがこれから新たに家庭を築くための家があるという位置関係が、個人の内面の感情の流れと家庭生活との関係性をも示しています。つまり、この隠喩は単に最後のショットで使われているだけのものではなく、作品全体の文脈に組み込まれ、全体像を指し示す象徴的な機能を担っているわけです。……これ、いつの時代の映画だよ。
 一言で言えば、この作品でのこういうような「文学的」なことがクソなわけです。これは文学が悪いということではなくて、映画を参照するだけでは出てこないから文学の技法から借りてきていることが、稚拙で最悪な、初歩的な使い方しかできていないということです。逆に言うと、カサヴェテスの場合であれば、安直に文学から借りてくるようなことはいっさいしないからこそ、優れて芸術的だと言えるわけです。
 ……そんでまあ、安定の蓮實重彦のぬるま湯ですよ。蓮實の場合、『寝ても覚めても』のような映画の、文学的な観点からの問題点がわからないわけがありません。しかし、濱口監督と直接話をする機会があっても、映画的な観点からの話しかしません。それがどれほど厳しく詰問するような内容のものであったとしても、実は、むしろ蓮實に保護されているわけです。文学的な観点からしたら低水準すぎて、単にぶった斬って終わりにするしかないわけですから。そんな蓮實が、『寝ても覚めても』の最後のショットについて「途方もない美しさ」などと書いているのを読んで、もうこれは本当にさようならなのだなと思いました。
 改めて確認しますが……隠喩が用いられるとき、譬える項と譬えられる項の両者は、既に確定しています。両方の項の意味もしくはイメージが確定しているからこそ、両者を隠喩によって結びつけることが可能になるわけです。つまり、「ラヴ・ストリームス」を「川の流れ」に結びつけた隠喩を用いる者にとっては、そもそも「ラヴ・ストリームス」とはなんであるのかについての問いは、既に出ているということになります。
 逆に言えば、だからこそ、カサヴェテスは隠喩を用いて何かを表現するようなことをしなかったわけです。「ラヴ・ストリームス」とはなんなのかと問い続けているからこそ、何事かを感じ考えつつある俳優とともにあり続けーーそして、実質的な遺作である『ラヴ・ストリームス』の結末において、自らが俳優として、そのことについて叫ばざるをえなかった。
 「ラヴ・ストリームス」という概念というか出来事そのものをただ一つの隠喩で固定したイメージで表現できてしまう者は、当たり前のことですが、「ラヴ・ストリームス」とはなんなのかという問いを生きてはいません。既に答えは出たことになってしまっている。だからこそ、一つの隠喩として操作可能な記号となったそれは、作品を構築するための一つのパーツとなり、他の要素と按配よく組み上げられ配置されることによって、作品の全体像の中でしかるべき位置に納まることになるわけです。
 『寝ても覚めても』という映画を全体として見たときに、映画の美学的問題の中でこうこうこういう達成があり、これほどの価値があり、このようにして高い評価が下される、ということがある。それは別に間違いではないし、そのような評価が当然あってしかるべきです。しかし、それとは全く別の問題として、はっきりと言っておかなければならないこととしてーーこの映画が、これこそは愛だとして提示しているものは、愛ではない。
 もちろん、世の中には、己の欲求に忠実に、周囲にどのように思われようとも衝動的な行動を取ることを辞さない人物もいるだろう。そのような人物がフィクションとして描き出され映画に映されることもあるだろう。そのことが悪いわけではない。そのような人物を作中から排除せよと言っているのでもない。私が言っているのは、非常に素朴なことだ。それは愛じゃない。
 濱口竜介という監督が、日本映画の第三の黄金時代を築くんだって? 結構なことだ。優れた映画作家なのだろう。……しかし、少なくとも、『寝ても覚めても』のような映画を撮り上げる人間は、ジョン・カサヴェテスの名前を口に出すべきではない。隠喩として静的なものとして固定されてしまった表現に、もはや「ストリーム」などというものがあるわけがない。当たり前のことだろう。
 実は、こういうことを言うのに関しては、たまたま最近の私自身が『フェイシズ』と『こわれゆく女』との間でのスタイルの変化を細かく検討していた結果として、非常に些細なことにも思える細かい技術上の問題においてすら、カサヴェテスが自分の追求するもののために捨て去って己を変容させた部分があることを改めて発見してしまった、ということとも無関係ではない。そして、それをふまえると、カサヴェテスの表現するエモーションをふまえつつ古典的な映画のスタイルを追求するという濱口監督の目標は、およそ実現不可能な絵空事としか思えないのだ。カサヴェテスが表現しようとしたもののためには、やはり、古典的な映画のスタイルを捨て去ることはどうしても必要だった。にもかかわらず、美的に完成度の高いスタイルを備えた映画の枠組みの中に無理にカサヴェテス的なものを取り込もうとしたときに、カサヴェテスが静的な隠喩によっては決して表現することのなかったことそのものを、隠喩へと作り替えられたまがいもの、スタイルを保ちつつ作中で操作可能な安全な部品として作中に取り込むことになった。……これは、カサヴェテスに対するオマージュではない。侮辱だ。
 『寝ても覚めても』という映画が公開され、また監督がカサヴェテスからの影響を公言したことについては、既に他の余波も生み出している。私の目に留まったものの中だけでも、『寝ても覚めても』を論じるために、カサヴェテスの作品群をおよそ粗雑に要約した平板なものとして参照し、自分の議論に権威があるかのように見せかけるためとしか思えないほど好き勝手に適当に取り扱うような、恥というものを知らない文章があった。当たり前のことだが、こういうことは単なるインテリごっこに過ぎず、知性などというものは微塵もない。この種の恥知らずな振る舞いを否定し決別することによってカサヴェテスの作品群が成立したはずなのだが、そんなことすらわからない程度の水準の者が、たやすく参照しつつ自らの議論に易々と組み込めるものとしてカサヴェテスを取り扱うことには、反吐が出る。
 ……などということを考えていたのだが、日本でそれなりに映画を見ている層にあっては『寝ても覚めても』はそれなりに好評らしい。それはまあ別にいいのだが、この映画とカサヴェテスの関係について怒っている人物など、どうやら全然いないようなのである。ならば、私が日本語でジョン・カサヴェテスについて云々しようなどと言うことは、やはり、全くの無駄であったのだ。


 このブログの通常記事の更新を停止することになる少し前に、伊丹十三が監督した映画のことについて書いたことがあった。そのこともあり、未見だった作品も含めてまとめて見直していたのだけれど、色々と気付くことがあった。
 今回初めて見た映画として、『スーパーマーケットの女』があった。……なるほど、確かにこの映画にも、映画の美学的な側面、その演出ということに関しては、取り立てて見るべきものはない。しかし一方で、伊丹十三以降に現れた、映画の演出能力に関して伊丹をはるかにしのぐ、才能溢れる男性の映画作家のみなさんが、ある一点については軒並み惨敗していることもまた、明らかなのだ。
 『スーパーマーケットの女』が描くのは、非効率な仕事の仕方によって経営危機に陥っているスーパーマーケットを、一人の中年女性が主婦の視点から改革をもたらし経営を建て直す顛末だ。そういう意味では、やってること自体は『タンポポ』の主要登場人物の性差を反転させただけの焼き直しだとも言えるのだが、まさにその性差の反転こそが、この映画の肝になっている。
 この映画が執拗にねちねちと描き出すのは、自分では仕事ができるつもりでいるが実際には全くそんなことのない、日本の男たちの醜悪なダメさ加減だ。とは言え、これはカリカチュアではない。日本の男たちの具体的なダメっぷりが、あくまでも現実のありようそのままに描かれている。一方で、そのような男たちの中で女がどのように仕事をすればよいのかということについて、いかなるジェンダーバイアスにも陥ることなく、極めてフェアな視点で描き出すことに成功している。
 現在の欧米では、エンターテインメントの製作において性差別が徹底して排除される方法論が確立していることは、当然の前提になっている。そのことに慣れた視点で見てみても、『スーパーマーケットの女』には、非の付け所が全くないのだ。伊丹がこの映画を製作した90年代の時点では、ハリウッドですら無自覚な性差別が平然と垂れ流されていたことを考えると、これは本当に凄いことだ。
 おそらく、この映画における伊丹がこのような立場を築くことができたのは、純粋なマーケティングの産物なのだろう。ふつうの女たち、とりわけ主婦層からどのように見られるのかを自覚的に計算し、不快に思われるはずの要素を削ぎ落とすことによってこのような映画が成立したのだと思う。もちろん、日本の主婦の家庭での生活を事細かに描き出したら、日本国内では自明の理とされ自覚すらされない性差別が作中に紛れ込んでしまうことになるのだが、この映画での伊丹は、「スーパーマーケットの店内にいるときの主婦」しか描かないことで、その問題に踏み込むことを回避している。これは、実に聡明な判断だと言える。
 このような方法によって映画を製作するということは、女たちを見るときにも見られるときにも、性的興味を括弧にくくってニュートラルな人間同士の関係をまずは確立しようとする、というだけのことであるのだが……映画のみならず日本の文化全般において、ただそれだけのことができる男の作り手が現在においてすら壊滅的なまでにほとんどいないというのが、日本の無惨な状況である。
 日本映画においてなら、伊丹以前にも、例えば成瀬巳喜男のように、日本の男たちのダメさ加減を冷徹に描き出すことのできる監督もいた。しかし、成瀬のやったことも伊丹のやったことも単にポツンと孤立しており全く継承されていないことを考えると……さらには、伊丹の映画の価値を全く認めない人々によって罵詈雑言が繰り返されてきたことをも考え合わせると、彼らが何をやっていたのかすら全く理解されていないことは明らかだ。逆に言えば、伊丹十三の映画を無条件で全否定する価値判断を共有していた集団内の言説の推移をジェンダー論やフェミニズムの観点から分析すれば、おそろしく前時代的なホモソーシャルな実態が暴かれてしまうことは間違いない。……いやあ、ここにとんでもない地雷原があるねえ。
 そして、それらのことはまた、この映画にTVタレントが大挙して出演していることにも関係があるのだと思う。……いや、当時の製作背景を事細かく調べたわけではないので、あくまでも推測に過ぎないのだけれども。とりあえず、当時の伊丹の日本の映画業界との関係が既に抜き差しならなくなっていたことを考えると、職業的な映画俳優をわずかしか起用せずに商業映画を製作できてしまうということ自体が、作品の内容とリンクしているように見えるのだ。昔ながらの自分の仕事のやり方、実は効率も悪く非合理極まりない従来のやり方に固執し、女たちに仕事のやり方を変えることを進言されると怒り出して「素人」を怒鳴り散らすというのも、映画業界においてもあったことなのだろう。だったら、映画に関しては素人のTVタレントだけでもこれくらいヒットするものは製作できますよ、と。
 ……でもまあ、冷静に考えてみれば、『スーパーマーケットの女』で伊丹十三がしていることって、結局のところ、「ふつうの女たちとともに仕事をするときも、顧客として想定して商品を供給するときも、単に対等な存在として公平に扱う」ということをしているだけなのであって、既存の家族制度なり資本主義なりの解体をとなえているようなことは全くない。にもかかわらず、二十年前の国内のそういう男が依然としてものすごく先進的に見えてしまうということが、現在の日本という場所なのだろう。


 そんなことを考えて激怒しつつある一方でーー実は、自分が歩んできた人生の意味の全てをかけて、ある些細な動作によって別の時間・別の場所で起きた何事かを指し示すという、肉体そのものによって命がけで繰り出された隠喩を目撃することになり、深く衝撃を受けるということがあった。
 その隠喩を繰り出した人物は、丸藤正道という。
 プロレスラーとなって20周年を迎えた丸藤がそもそもの最初にデビューしたのは、全日本プロレスのリングにおいてだった。そして、その後のキャリアのほとんど全てを全日本プロレスの外で過ごした丸藤は、今年になって、数ヶ月に渡って全日本プロレスに参戦することになった。そして、一応の一区切りがつく最後の試合となったのが、5月24日、宮原健斗の保持する三冠王座に挑戦する試合だった。
 私は、この試合を直接観戦しにいくことはできず、映像で見ていただけなのだがーーリングの上で丸藤がとあることをして見せたとき、それがいかなる意味のことなのかを即座に了解し……そして、深く動揺した。それからあとは、ほとんど嗚咽しながら映像の中の試合の行方を見守るしかなかった。
 この試合での丸藤は、一つの試合に二つの意味を持たせ、その二重化された試合を同時に闘っていた。「今、ここ」に存在する己の肉体で闘いながら、全く同時に、他の時に他の場所で起きた、ある一つの出来事をも指し示していたのだ。
 丸藤は、己の肉体を一つの記号として用いることで異なる時に異なる場所で起きた二つの出来事を結びつけて見せた。結果として、そこで表現された意味を見る限り、言葉が用いられておらずとも、これは広い意味では隠喩だと言うことができる。その意味では、丸藤もまた、その二つを結びつけてみることに関して、既に自分の中では答えが出ていることを表現してみせたのに過ぎないとも言える。
 しかし、改めて考えてみれば……丸藤がプロとしてデビューしたそもそもの始まりから知っている私にしてみると、丸藤が二十周年を迎えたということは、それはそのまま私自身の二十年だということでもある。そして、丸藤が少なくともリングの上で見てきたことがなんであるのか、おおよその全体像をわかっているからこそ、丸藤が己の肉体から繰り出した一つの隠喩が、二十年間を通して考え続けてきた末にたどり着いた一つの答えであることが、はっきりとわかった。そして丸藤は、己がたどり着いた答えを表現しきるという形で責任を取るために、その出来事を命がけで闘い抜いたのだ。
 宮原健斗対丸藤正道の試合は、何年かに一度見られるかどうかといった水準の名勝負だった。……いや、私自身の主観に照らし合わせて正確に述べるならば、プロレスの試合を通してこれほどまでに心が揺さぶられる経験をしたのは、まさに五年ぶりのことだ。
 しかし……いざこの試合が終わってから、この試合に関して語られた言葉の多くを渉猟してみたとき、そこに二重化された意味があったことが本当に全く伝わっていなかったことがわかり、私は愕然とした。だが、本当に驚くべきなのは、そのことではなかった。むしろ私自身の方こそが勝手に幻想に浸っていたのかとまで思えた頃にわかったのが……ただ一人、本当にただ一人だけの人物が、丸藤正道が表現したのはなんであったのかを自分が理解したことを示す証拠を残していたのだ。
 「……よりによって、お前はわかったのかよ!?」という衝撃に、私は改めて悶絶することになった。
 丸藤が表現して見せた二つの時・二つの場所の二つの出来事を、両方ともに目撃した人々は、決して少なくはないはずだ。にもかかわらず、多くの人々にとってはそのことを連想することはなかった……逆に言えば、私にとって、それは、忘れることのできないまま痛みを伴って自分の中に刺さったままでいる出来事であったのだ。
 それからしばらくして、先頃、丸藤が20周年記念の自伝を出版していた。この自伝を最後まで読み通すことで、わずかに残っていた疑いは消え去り、丸藤が表現していたのはやはりあのことだったのという考えは確信に変わった。
 自伝の中でも件の宮原戦は語られているが、表面上の意味以上のことに丸藤はいっさい触れていない。しかし、この書物を最後まで読み通し、エピローグで最後の最後に丸藤が述べたことを確認すれば、なぜ丸藤がそうしたのかがわかった。丸藤が表現したのは、あまりにもさりげないやり方だった……しかし、それに過度な説明など加えない丸藤は、伝わらなくともいいなどと思っていたのではなかった。むしろ、これだけでも絶対に伝わると確信していたのだ。実際、少なくとも私には伝わったし、あいつにも伝わったわけだ。
 宮原健斗対丸藤正道の三冠戦は、ごくまれにしか起こりえない規模の名勝負だった。しかし、それは、そこにある二重化された意味の両方を受け取るからそのように思えるのであって、表向きの意味を受け取るだけでは、単に白熱した好勝負が展開されていたのに過ぎない。
 とは言え、現在の日本のプロレス界が置かれている状況を考えていると、仮にこの試合の持っていた意味が周知されたところで、今年の年間ベストバウトとして認定されるようなことはまずありえないだろう。だがそうは言っても、誰もがこの試合の一つの意味しか受け取っていない中で選考がされてしまうのであれば、それはあまりにもアンフェアだと思えてならなかった。……そして、なにより、全日本プロレスとプロレスリング・ノアという二つの団体のどちらか一つにでも、過去に一度は愛着を覚えたことのある人間なら誰でも、この日起きたことは何だっのかを知らなければならない。
 だから、この試合に関する全てを明らかにすることにした。しかし、このブログの通常記事を更新するつもりはもうないので、noteを使ってみることにした。日本語で文学・芸術・思想・哲学などを論じたり、アメコミのような外国文化を紹介したりするようなことは完全に無駄だという確信は、私の中ではもはや動かし用がない。しかし、ことプロレスに関しては、日本は独自の文化を備えて発展した先進国であることは間違いないわけだ。そういう意味では、こちらのnoteの方は、プロレス関連限定で今後も更新するかもしれない。
 ということで、noteを用いて文章を書いてみて、結果として全体で27000字ほどの文章になったのだが、その全体は有料設定にして、前半の12000字ほどの部分を無料公開することにした。とは言え、有料にしたのは、自分の考えの全てを出すところに最低限度の障壁を設けたという意味なので、下限の100円である。そして、この試合で何が起きたのかということ自体は、無料部分だけでもわかるような形で公開している。
 それにしても、この観戦記を自ら読み直して思ったのは、この文章は、カサヴェテス論を自分で納得のいく形でおおよそ完成させた後だからこそ書けたものだということだった。何かのことについてまとまった文章を書くなら、もはや、自分に課すべき最低限度のハードルはこのくらいでなければならんとも思った。そして、このブログでやってきたことの全体像を電子書籍としてまとめている今の視点からすると、この文章こそが、先にできてしまったとは言え、その全体のエピローグになっているのであった。


   note.mu/kenkashima/n/nd2fbd9b41911





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今後のことについて

 通常記事の更新を停止してからしばらく経ち、自分の中で色々と考えがまとまったこともあるので、このブログに関する今後のことを記しておこうと思います(なお、これは、通常記事の更新を再開するという意味では全くありません)。
 まず、以前から考えていた、削除した昔の記事の電子化について。これに関しては、記事をそのまま採録する形で電子書籍化することは現状では考えていません。ただ、自分として比較的納得のいく記事を精選し、改稿を加えた上で、注意深く配列して全体として一つの作品となるように構成することによって、私がこのブログでやってきたことはなんだったのかがわかるようなものを作ることにしました。
 とりわけ、自分の中でひっかかっているのが、通常記事の最後となったカサヴェテス論でカットすることになった、カサヴェテスと「アメリカ」や「アメリカ映画」との関係性の映画史的な検討にあたる部分です。このことに関してなぜ私の中では大きな問題なのかというと、ジル・ドゥルーズの『シネマ』の中でのカサヴェテスの扱いにあまり納得がいっていないということがあります。
 ドゥルーズの『シネマ』は、映画のイメージの分類の試みであって映画史ではないと銘打たれてはいますが、最も大きな分類である「運動イメージ」と「時間イメージ」を区別するにあたっては、映画史の観点を参照しています。そして、ドゥルーズによる映画史の参照の仕方は慎重なものであり、ゆえに常識的な範疇に収まる穏当なものであるのですが……結果として、カサヴェテスの位置づけが悪い意味で保守的なものになっているように思えるのです。
 運動イメージから時間イメージへの変遷、またそれにまつわる「アメリカ」と「アメリカ映画」との相関関係が検討される結果、カサヴェテスは、運動イメージから時間イメージへの転換期にある映画作家としてもっぱらとらえられることになります。
 繰り返しますが、ドゥルーズによる映画史への参照は、常識的であるゆえに、良くも悪くも適切なものです。したがって、そのようなカサヴェテス評価を覆そうとするなら、常識的な映画史の前提を転覆することを試みなければならないことになるわけです。


 私はこのブログの通常記事の最後のものとして前述のカサヴェテス論をアップしましたが、その反応の中に、全く論理的でも理性的でもない、感情的な水準での反発から悪罵の言葉を投げかけてくるようなものが複数ありました。その中の幾人かとやり取りをしてわかったこととして、それらの人々はそもそもカサヴェテスのことをよく知っているわけでもなければ、それ以前に文章を通読しているわけでもなさそうだ、と。
 逆に、少なくとも私の認識している範囲では、カサヴェテスのことをよく知っている人から「こんな風に扱われては困る」という反応はありませんでした。また、ブログに設置されている拍手ボタンというのはこれまであまり気にしてはいなかったのですが、そのカサヴェテス論が、これまでで最も拍手をいただいた記事になっていました。あの文章が蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』の批判でもあるという点については言及されたケースがなかったようなのは残念ではあるのですが、いずれにせよ、とにかく賛否が割れた文章であること自体は確かです。そして、このような反応があること自体、今になって冷静に考えてみれば、私のやろうとしたことが成功しているならば、当然出てくるだろうと予期できたはずのことだったのです。
 ジョン・カサヴェテスの映画は、万人から認められ受け入れられた映画ではありません。例えば、最初の監督作品『アメリカの影』のオリジナル版の上映時には、最初の十五分で続々と観客が退出し、映画が終わるころには直接の関係者と身内くらいしか残っていなかったようなことすらあったと言います。あるいは、監督としての名声を築いた後の作品であるはずの『オープニング・ナイト』でさえ、実質的に商品として成立しないほど商業的にも批評的にも大惨敗となり、実質的に封印されたような状態となり、カサヴェテスの死にようやく回顧上映が実現し再評価されたなどということもありました。
 私がカサヴェテス論の冒頭あたりで文章全体の目的として述べたのは、カサヴェテスの映画から自分が受け取った感情をいかにして言語化するかということです。結果としてそこから出てきたものが、万人から受け入れられ、誰からも不満も反発もなくただただ穏やかに賞賛され、カサヴェテス作品の素晴らしさがなんとなく漠然と伝わったようなものであるーー仮にそんなことが起きていたならば、むしろそのときにこそ、カサヴェテス作品に対する決して許されることのない嘘が含まれていたはずです。もちろん、明らかに商業的であるゆえに単純におもしろいという意味で成功している『グロリア』のような作品の長所をわかりやすく述べ立てるならば、そのようなものなどいくらでもできたことでしょう。しかし、そんな万人受けする紹介文の中でのカサヴェテス像なるものは、カサヴェテスの本来の姿を歪めたものでしかないことは明らかです。
 この際はっきり言っておきますが、私は、仮にカサヴェテスと同時代に遭遇していたならば拒絶し悪罵の言葉を投げかけていたであろうような人々に向けては、そもそもあの文章を書いてはいません(……というのと同趣旨のことは、あの文章の中でもきちんと書いてはいるのですが)。すでにカサヴェテスと出会った人と、カサヴェテスと出会うことができるが出会い損ねている人とのためにのみ書いています。
 もちろん、カサヴェテスの作品上映に際してと類似する感情的反発や悪罵や無視や黙殺があったからこそ私も成功した、などと言うことはできません。しかし、仮に成功していたとするならば当然付随してくるはずのことが起きている以上、成功だと言える最低限度の必要条件は満たしているとは、少なくとも言えるわけです。
 さらに言うと、そんなことすらわからない人々には、ある文章がカサヴェテス論としてどうなのかを判定する能力などないということもまた、あまりにも明白なことではあります。
 だいたい、カサヴェテスの映画を批評するならばどのようにするべきなのかということについては、私の言っていることは、取り立てて独創的だというわけですらありません。例えば、カサヴェテスの映画がほとんどまともに評価されていなかった時点からカサヴェテス研究に先鞭をつけたレイモンド・カーニーは、その『カサヴェテスの映したアメリカ』においいて、序文の時点でわざわざ次のように宣言しています。


 カサヴェテスの作品を取り囲む、ほとんど普遍的と言ってもよい批評的沈黙と混乱が示している通り、カサヴェテスは、批評に対して特殊な問題を提起しているのであり、それ自体当然のことながらこの研究の中心の課題の一つである。カサヴェテスの映画群は、われわれの時代の映画批評やジャーナリスティックな作品評のほとんどに保証されている方法やカテゴリーの適用を故意に拒んだり、混乱させるように作られている。この序文の冒頭に引いた彼の発言が示している通り、そして、ある種の映画群についての私の議論の多くが示唆しているように、映画とは、カサヴェテスの言葉によれば、映画と人生の両方における体験についての「全く新しい(方法の)思考を打ち立てる」試みなのである。つまり、映画とは、ある種の思考と認識の限界と可能性の探求なのであり、認識の体系的把握はほとんどの批評が価値あるものと考えているが、そのある種の破壊ほどアメリカ的なものはない。彼の映画群は、体験をアレンジし秩序付ける動かぬ定型的な方法を批評し、それに抵抗するように作られている。彼のフィルムを見る者たちも、彼の登場人物たちのように、認識の新しいやり方、つまり、通常の心理的社会的あるいは批評的な粗雑な解釈と図式性を越えて動いている認識方法を学ばなければならない。彼の映画を理解しようとする観客は、その観客自身に既存の知の構造やコードから自由になるように努めなければならないが、それは、ほとんどの批評家が探求し、芸術活動の中で記述する意味の制度の中に限定されるものではない。(『カサヴェテスの映したアメリカ』、序文Ⅴ~Ⅵ、梅本洋一・訳)


つまり、彼の映画群は、生活が、現実の時間と空間と社会の束縛の中ではっきりと体験されるように、問題に囲まれ失敗ばかりの人生の人間的表現なのである。彼の映画について書こうとするどんな批評も、彼の映画がそうであるように、人間的で実践的であることを心がけねばならない。(同、序文Ⅵ)


彼の映画における人間や演技や表現は、より技術的で形式主義的などんな方法で記述された批評より、ずっと複雑で微妙なものである。純粋に映画学的用語――記号的構造的連鎖、視覚的隠喩、寓話的意味作用など――で彼の映画を記述するものは、カサヴェテスの映画が探求する体験と知覚の方法を単純化し機械化し非人間化なものにすることにしかならないかもしれない。(同、序文Ⅶ)


 ……もちろん、レイモンド・カーニーはカサヴェテス研究の権威なのだからその言うことを聞けなどというつもりは、私には全くありません。しかし、カサヴェテスのことなどろくに知らないが、カサヴェテスの批評もまた誰にでも取っつきやすく消費しやすい商品にならなければ論外であるなどとする主張と、単純に議論の内容を比較することは可能でしょう。
 もちろん、私はカーニーという人物を非常に尊敬しています。カサヴェテス論を改稿し増補する部分には、ドゥルーズとカーニーのカサヴェテス間のズレを比較する部分も盛り込むつもりです。


 感情的な反発と言えば、このブログの更新を停止することについて書いた記事に対しても、複数の感情的な反発がありました。たぶんこれに関しては、現在の日本の文芸業界の状況について苦言を呈した部分が気に入らないという人々がいたんでしょうが……しかし、あそこに関しては、実は、とりたてて私が自分のオリジナルの考えを展開しているというわけではありません。
 あのあたりで私が言っていることの大半は、中村光夫が『風俗小説論』なんかで日本の近代文学に関して厳しく批判している内容を、わずかに現在の状況に照らし合わせてアレンジしているのに過ぎず、私自身のオリジナルな議論のようなものはほとんどありません。……ということは、感情的な反発を覚えた人々はわかっているんでしょうかね。
 もちろん、中村光夫の議論は近代文学を対象としている以上、現代の視点からすると古びた部分も所々にあります。しかし、そのような古びた議論の射程からさえ、現状の日本の文芸業界は踏み越えていることなどできていないという部分に、状況の悲惨さが露呈してしまっているというわけです。
 ところで、その『風俗小説論』をぱらぱらと見返していたところ、冒頭のあたりに興味深い一節を見つけました。それは、以下のような部分です。


 おそらくひとりの人間の生涯にも、彼が後に実現し得たより、はるかに多くの可能性を孕んで生きる青春の一時期があるように、時代精神の巨大な流れの中にも、やがて歴史の必然によって刈りとられる幾多の不運な芽が並んで萌え育つ青春期が何十年に一度かずつはめぐってくるのです。我国の明治文学で、もっともその名に値する時期は、漱石が「猫」を発表した明治三十八年から、花袋の「蒲団」までの二年あまりであったと思われます。
 青春がおのおのの個人にとって、悔恨と哀惜の対象になるのは、そこで実現の機を見出せなかった幾多の生への可能性によるのであるとすれば、僕等はすでに人間の生涯に近い時間を経過した我国の近代文学史の或るモメントに対して、真剣な悔恨の情を抱くべきではないでしょうか。



 青春は、必然に過渡の時代です。この性格は殊に我国のような時代の流れの慌しい近代には、はっきり現われます。
 過渡期は、古いものと新しいものの並び存するときであり、そのいずれもが完成と円熟から遠く距った時期です。(『風俗小説論』、講談社文芸文庫版、p10~11)



 ……この『風俗小説論』を始めとする著作において展開された中村光夫の文学史観に関する後代からの検討については、ひとまず措きましょう。今私が注目したいのは、ここでの中村が、「青春」という言葉について、肉体的側面に関してではなく、精神的・抽象的な側面からのみ捉えているということです。
 そのことによって私が直感的に発送したのは、全く異なる文脈にある人物のことでした。若い頃から、常に「青春」という言葉と結びつけられてきた人物……プロレスラーとして全国津々浦々を巡業し、どんな状況だろうと全身全霊のファイトを繰り広げ、結果として全身はボロボロになり……引退に際して過去の自分のベストバウトを問われると「全部」と即答し、引退試合のまさに当日にマイクを向けられると「これからも青春は続きます」とあっさりと言ってのけた男、小橋建太です。
 「青春」という言葉を中村光夫が言うような意味で捉えるならば、小橋の言うことは何もおかしくはありません。これから先の自分が実現しうる可能性を何も諦めることなく、実現し得なかった可能性を捨て去ってただ悔恨の対象としてのみ扱うようなことをしない限り、「青春」はいつまででも保持し続けることができるわけです。
 そのように考えてみると、私がこれまで決定的な影響を受けてきたものは、そのことに関しては共通していたことに気づきます。肉体的に老いようが、物理的・身体的な面での可能性は徐々に削り取られていこうが、それでもなお、過去を悔恨の対象とするのではなく未来に向けて前進し続けること、自分の可能性を捨てないがゆえに、成熟とは無縁なままにいつまででも変容し続け、成長し続けること。そのような生が実際にありうるということを、私はフョードル・ドストエフスキーの小説とジョン・カサヴェテスの映画と小橋建太のプロレスを通して学んだのです。
 『シネマ』におけるドゥルーズの映画史観を、中村光夫の言葉に置き換えて理解するならば、私が抱いた違和感が何であったのかも説明がつくように思います。……つまり、運動イメージから時間イメージへと移行していく歴史の流れの必然の中で、カサヴェテスの映画は、きたるべき時間イメージの可能性を胚胎していた、完成と成熟から隔たった青春の映画であった。ゆえに、時間イメージのあり方が確立した末にはもはや過去としてのみ振り返られることになる、運動イメージと時間イメージが共存する過渡期の映画であった、と。
 無数の映画作家を時代順に並べて歴史的に把握しようとするとき、確かにそのような視点が成立するのかもしれません。しかし、あくまでもカサヴェテス個人のみを見たときに重要なのは、カサヴェテス自身は完成も成熟も、自らの可能性を捨て去ることも、既に確定し固定した過去を感傷的な対象としてのみ回顧することも、それら全てを拒絶していたということです。
 純粋に技術的な側面を見るだけでも、ドストエフスキーの小説もカサヴェテスの映画も、その死の直前に至るまで成長を続けていることは、はっきりとしているのです。青春期と中年期と老年期とにわかれた通常の人間の感覚によって、青春の可能性を保持し続ける人間を理解しようとするとき、決定的にこぼれ落ちるものがあるのではないか。


 ……と、いうような話をすると、じゃあなぜ通常記事の更新を止めたんだということになるかもしれません。それは確かにそうなのですが、一方で、自分の可能性を捨てずに保持していたところで、日本語の環境では自分の思うことなど何もできないということも確かにあるわけです。
 今回の件で改めて痛感したのは、私と話が全く噛み合わない人々は、自分たちが当たり前だとみなしている価値観の外部が存在するということ自体を全くわかっていないということです。
 私自身は、何らかの対象に接し価値判断を下そうとするのに際して、対象に接する前から言うことが決まっているということはありえません。まず対象を咀嚼し、分析し、そこから出た結論として批判するべき点があると思えば批判する。ゆえに、批判の根拠を問われて答えに窮することなどありませんし、他人から再批判を受けた結果として自分の間違いがあると思えば撤回し訂正します。つまり、単にニュートラルな議論をしたいだけなのであって、このような時に私が求めているのは「納得」だけです。
 一方で、どのような形で言い争いがなされているのであれ、その目的は最終的に勝ち負けや優劣を決めるためだけのものであり、序列争いや権力争いこそが目標であることを全く疑ってもいない人々がいます。この手の人々が面倒なのは、あらゆる他人も同じ欲望の元に行動していることを当然の前提としてしまっているからです。
 もちろん、文学なり芸術なり批評なりがその種の欲望を満たすために存在しているはずはありません。シンプルに数値化された勝ち負けや優劣を他人と競い合いたいのであれば、ソーシャルゲームにでも専念していればいいわけです。文学なり芸術なり批評なりをいったん通すような回りくどいことなど本来する必要はない、さすがにそれは明らかだからこそ、この手の人々は、表向きには、私が言っているようなことも認めざるを得ない。しかしそれは、あくまでも上辺だけの建前としかとらず、隠された本音があるはずだと邪推し始めるわけです。
 今回の件で、私がすばるクリティークという賞の選考委員に対して怒っていたのも、その理由をきちんと明示しています。そこでは、従来の賞とは全く異なり、応募者の誰もが納得のいく形で選考がなされることが大々的に喧伝されていた。しかし、いざ蓋を開けてみれば、そんなことはなかった。だから怒っているというだけの話なので、事前の説明通りにフェアに選考がなされた結果、私の文章の致命的な欠陥が明確に指摘されていたのであれば、別にそれはそれでよかったわけです。
 実際のところ、選考委員たちは事前にどんなことを言っていたのでしょうか。文芸誌「すばる」の2017年2月号に掲載された募集にあたっての座談会から引用しますと、「だから、選考委員の僕らが必死に泥まみれで批評を書く姿を示すことが、ようやく、未知の書き手にとってのかすかな光になるのかもしれない」(p97)「お前たちの書くものは生ぬるい。ふざけるな。そんなふうに獣のように挑みかかってきたら、こっちもなにくそ、と感じるはずです。そういうのを望んでいます」(p102~103)「ネット論壇か文芸誌か、というアングルも、未知の書き手たちには狭すぎるのかもしれない。そういう人たちが「すばるクリティーク」をわざわざデビューの場として選んでくれるには、たんに新しくもう一つ投稿先の賞を準備しました、というだけでは足りない気がする。たとえば「すばる」のウェブに批評の場を作って、それを「すばる」本誌と連動させる、という程度でも全然足りないだろう」(p103)「実は、ゼロアカ道場なり、批評再生塾なりが信用できない理由もそこにあります。僕には、上下の関係を乱さない趣味人同士の閉じたサークルのように見える。要するに「批評オタク」ですね。この賞では選考委員を俺は潰すぞという覚悟があってもいい。もちろん、レベルによってはこっちが潰すことにもなりますが、少なくとも、その過程は公開するわけです」(p112~113)「つまりこの賞を「運動」にするということですね。既に出来上がった上の人間が下の人間を評価するという決まり切った回路を動かすのだと」(p114)……はい、全部嘘ですね。というか、文字通りの意味にこれらの発言を文字通りに解釈しようとすると、ここでの「潰す」とは論外と見なしたら完全に無視して黙殺するということなのかとか、どんどん虚しくなってくるわけです。
 これらの発言とその後実際に起きたことを比較すると、私は単純に納得がいきません。しかし、ある種の人々は、絶対にそうはとりません。私が表向きに何を言っていようが、隠された動機は、自分が落選したこと自体に対する怨恨であるのに違いないという確信があります。彼らがそうとしか思えないのは、最上位にある最終目的が、権力争いであり序列争いであるはずだという前提が存在するからです。その外部が存在することを認めないからこそ、私が何を言おうとも、彼らの世界観の内部に私の考えも組み込んで、彼らにとってはしっくりといく「私の動機」を勝手に作り出し始めるのでしょう。
 今回の件で私が遭遇したことには、そのように考えなければ説明のつかないことが、いくつもありました。根拠なしに他人の文章を全否定しておいて、実際に説明を求められても、具体的なことは完全に何一つ言えない者。あるいは、具体的な批判を始めたのかと思いきや、全体の主旨からするとほぼど~でもいい細部ばかりを罵りつつ、それだけをもって文章全体が否定できるかのように振る舞いつつも、細部の否定の根拠はと言えば、自らが捏造したデマを平然と混ぜてくる者(ちなみに、このようなやり口は、修正主義者がやるのと完全に同様のことです)。
 どのようなデマが流されたのかということを、具体的に記録しておきましょう。例えば、件のカサヴェテス論の冒頭11段落は体言止めを濫用しており情報量がゼロであり全て削除するべきなどと言われるケースがあったのですが……これに関しては他の方から指摘があったのですが、そもそも該当箇所の冒頭11段落では、体言止めなど一回も使われていません。私自身、少なくともこの人物は具体的に文章に即して批判する気はあるのかと思ってまともに応対していたのですが、そもそも真に受けるべき相手ではなかったということです。
 また、文章をもう少し進むと、13番目と15番目の二つの段落では、体言止めが繰り返して使われています。しかしこれに関しては、議論の文脈上、カサヴェテスの伝記情報を紹介しておかなければならなかったところです。そこで文字数をあまり使いたくなかったから、体言止めによって分量を切り詰めたというだけの話です。つまり、書かれている内容は純粋な伝記情報であり、なおかつ文字数も切り詰められている位なので、むしろ一文字あたりの情報量という意味ではあの文章全体の中でも最も多いくらいの部分なんですが……なんで、体言止めを使うと情報量がゼロなんでしょうか。これに関しては捏造という言葉は当てはまらないかもしれませんが、白を見て黒にと言い張るのにも近い、完全なデタラメに基づく難癖でしかないことは確かです。ついでに言うと、商品になってないから論外という主旨の事も延々と言われたんですが、先述の座談会では「批評は、有用性の世界ではないからこそ賭けがあり得る。有用性は有用性で別のところで担保しておけばいいんですよ」と明言されているんですけどね。人を全否定するのにあたって、関連する事情を全然調べてないっていうのもね。
 あるいは、引用部分を除いた本文だけでもおおよそ百段落ほどある文章の最初の方で体言止めを何回か繰り返した段落が二つだけあるというだけで、体言止めが「濫用」されているゆえに全体を全否定してよいと言い張るような人は、そもそも最初の方をちょろっと眺めた程度で、自分が全否定する当の対象を通読などしてはいないのではないかという疑いもまた、強まるばかりです。
 極めて当たり前の話ですが、単にニュートラルに議論をしようとする限り、こんなことが起こるはずはありません。批判するべき内容を見つけたからこそ批判するという手順を踏んでいる限り、批判の内実の説明を求められたらせこい権力欲をふりかざして自分には説明責任などないと言い張ってみたり、嘘の上に嘘を重ねて自己正当化を取り繕う必要など、あるはずもありません。
 繰り返しますが、これらの人々に共通しているのは、自分の価値観の外部にある異なる価値観の存在をそもそも認めていないということでしょう。だからこそ、自分の言葉では説明できない相手の行動原理が、低劣な人格に基づくものだと断定する。そして、議論の中身は全くの無であったり完全なデマであったりしても、さも自分の方が正当であったり優位であったり道徳的に優れているかのような体裁を整えることに専念する。
 自分が詳しくない分野に関する議論なら、その中身は判定できない。あるいは、そもそも自分の能力が足りていなければ、込み入った議論の判定などできない。そして、他人の感情なり人格なりを容易く把握することもできないし、ましてや、議論の内容とは無関係な人格攻撃で他人を貶めることなど許されるはずもない。そして、議論の内容など全くわかっていないどころか、問題となる文章を通読しているかすら覚束なくとも、能力を単純素朴に数値化し、せこい序列争いや権力争いに組み込むことを疑いもしない。
 もちろん、その過程では具体的な内容批判などできないから、人格攻撃に手を染める……その正当性を確保するために、デマまで自ら捏造して、自分の正しさを宣伝するために。素朴な疑問なんですが、これらの人々は、テレパシー能力でも持ってるんですかね? 他人の感情が「透けて見える」などというオカルト的な言い回しもしょっちゅう目にしますし。仮にこの手の人々にテレパシー能力がないのなら、ある特定の状況下における他人の感情について断定する人々のその確信の根拠は、私には一つしか思い当たりません。……すなわち、ある特定の状況下におかれるた人間は必ず下劣で卑しい感情を持っているに違いないということについて、我が身に覚えがあるからでしょう。
 しかし、このような場合、この手の人々にとって、自分の人格は完全に無謬でありつつ、他人への人格攻撃はどこまでも続きます。自ら捏造したデマに基づいて他人を人格的に貶め侮辱し、相手がそれについて怒り始めたら、「批判を受け入れない」「批判に弱い」などと言い始め、さも相手を人格的に貶めてもよい証拠を押さえたかのように騒ぎ立てることが往々にしてあるわけです。
 このような愚劣かつ卑劣な行為を見物しつつ、体裁が整っているように見える側が優位であったり正しかったり勝っているのだと思いこんではやし立てるような人々をも含めて、私としては、そもそもこんな連中は視界に入れること自体が間違っていたのだと、今になって思います。
 仮に、相手の側が敬語を用いて丁重に応対していたら自分には何らかの正当性があるものだと勘違いできるというのならば、率直に述べた方がいいのだろうか? ……自分にはわからない・読み解けない文章が存在するのなら、必ずしも文章の方が悪いとは限らない、往々にして、単にてめーらの頭が悪いんだ。他人の文章から、そこには直接表明されていない動機や感情を卑しいものとして断定するような真似をするのなら、そんなことが平然とできるてめーらの方こそが卑しいんだ。他人に対する批判を公にしながら、自分の発言の説明を求められてもまともに説明することすらできないんなら、ハナっからすっこんでろ。


 今後の自分にできることの可能性を何も諦めてはいない一方で、同時に、この種の連中と関わり合うことは永久になくしたいという考えもまた、強固にあります。
 では、どうすればよいのか。改めて考えてみれば、それは簡単にして当たり前のことでした。……つまり、亡命すればよかったというだけのことだったのです。
 もちろん、物理的な移動をともない完全に亡命するのには、大変な手間と労力がかかります。しかし、現代において、例えばインターネット上などにおいて文化的な面だけで活動する言語環境を移動するというのは、大して手間も労力もかからないことであるのでした。……いざそのことに思い当たってみると、私自身がポール・ド・マンへの敬意を公言しておきながら、積極的に外国語で文章を書くことを本気で考えていなかったのは、非常に甘い考えであったのでした。
 もちろん、文化的なことについて読んだり考えたり書いたりするのをほぼ英語に移したところで、不愉快なことがなにもかもなくなるわけでは全くないし、そのことに関しては幻想など持っていません。しかし、はっきり言えることとして、少なくとも英語圏では、まともな議論がまともな議論として流通する部分も存在する、ということです。
 今回の件で私が改めて呆れたのは、自分がプロの批評家であるとか元文学研究者でございなどという大層な肩書きを名乗る人々が、自分の発言を後から改変したり、他人の発言を引用・言及する際の最低限のルールすら踏みにじることによって引用元の発言を改竄しデマを捏造したり――などということが、平然とまかり通っていることでした。それでいて、これらの人々は、自分がいっぱしの人物であることに疑問を抱いていないように見受けられるのです。
 本来なら当たり前の話だと思うのですが、先進国においてなら、まともな議論がなされている渦中で、なおかつなんらかの分野の専門家であると自称する者から、他人を批判する根拠の捏造やら修正主義的言説を弄ぶようなことが出てくれば、その時点で「そういうもの」として扱われ、以後相手にされることはありません。
 しかし、それが、日本語の環境では「まともなもの」「特におかしいところのないもの」として平然と流通してしまう。あまりにも悲惨な文化的環境です。「批評家」とか「文学研究者」などと自ら名乗ってしまって、その肩書きの元に発言する以上、むしろ自分の発言に一定の責任を持つ覚悟を示すことになるのだと、私は考えていました。なぜならば、そのような肩書きを名乗ることは、自分が何らかの言説について精確に取り扱いニュートラルな立場から公平に取り扱うことができるようにするための専門的訓練を受けてきていることを意味するからです。自分がそのような専門的な立場から発言していることをまず誇示してしまった以上、それ以後の発言には、専門家としての責任を負う、というのが私の感覚です。
 しかし、日本語の環境では、専門家としての肩書きを名乗ることは、自らを権威付け人を威圧し、責任逃れを押し通そうとしたり論理的な説明をすっ飛ばすための口実に利用するためにあるようです。自分は専門家であるということを理由として、無条件に他人より優位にあるかのように威圧した上で、そこから先はデマだろうと捏造だろうといくらでも手を染める。
 自分は専門家の立場から発言していると自己申告する人々の多くは、どうやら、自分の発言が無条件で他人より優位で信憑性があるように扱われなければならないことにつながると信じているように見受けられます。専門家だから信じろ、批判されても受け入れろ、ということなのでしょうか。具体的な中身が何も伴わない批判だったりデマに基づく批判だったりした場合にその内実を問い返されると、メリットがないから答えないだの、そちらの側から勝手に聞いてきただのと言ってさも自分が被害者であるかのように振る舞い始める……これはつまり、自分が保持しており尊重されなければならない既得権益が侵害されたと感じているということなのでしょうか。この手の人たちにあるのは既得権益ではなく、説明責任なんですが。……正直なところ、私としては、日本語の「批評家」とか「文学研究者」などという言葉からは、完全に縁を切りたいと思うに至った次第です。
 さらに言うと、これらの人々が平然とそのようなことができるのは、おそらくは、「批評家」とか「文学研究者」という肩書きの元に同様のことがなされてきたことを、幾度も目にしてきたからであるように思えます。誰もがきちんと責任をとった上で専門家として発言しているのに、いきなり自分だけがデマ・捏造に手を染めたのならば、さすがに平然としていることはできないように思えるからです。
 だからこそ、このような者たちを賞賛するような人々まで現れる始末なのでしょう。そこで実際に議論されている内容などわけがわかっていなくとも、個々の人格を漠然とキャラクターのように把握して、自分の価値観の中で強弱を判定したり序列付けをしたりすることに何も疑いを持たない。
 日本語という環境で来る日も来る日も行なわれていることに対して、「議論などではなく、まるでチキンレースのようだ」と感じたことがあります。……しかし、冷静に考えてみれば、チキンレースとは大きな違いがあります。少なくとも、チキンレースにおいては、参加者は自分の命を実際にリスクにさらすことによって、他の参加者との間で優劣を競っているわけです。しかし、ネット上での罵り合いには、引き受けるべきリスクなどというものはありません。ひとたび「自分こそが正しい」「自分こそが優位である」「相手が間違っている」「相手の人格が劣っている」という態度を取ったならば、自分の正当性を絶対に疑わず、強気な態度をとり続け、間違いを指摘されたら無視し、相手の言説を百八十度改変して引用し、相手の言説を完全に無から捏造し、辻褄が合わなくなった自分の発言は事後的に何度も何度も後出しで変え続けるーーそれでもなお、強気な態度を崩さずにいれば、いかにも強気で正しそうな態度を崩さない者を、「勝者である」「優位である」「人格的に優れている」とジャッジしてくれるギャラリーはいくらでもわいて出てくるわけです。
 やはりこれは、チキンレースではありません。嘘の上に新たな嘘を後から後からどれだけ重ね続けようとも別にかまわないわけですから、実体性などどこにもない、妄想の世界の中のみでの争い合いでしかありません。ここで起きていることは、どんなことが起きようとも、デマや捏造に手を染めようとも、自分の方が正しく間違いがないことを平然と強気に主張し続ける者こそが勝者である(と思いこめる)、言ってみれば妄想チキンレースです。そこで参加者を選別しているのは、自らの肉体的な死に向かい合う勇気ではなく、恥知らずであることの度合いの強さだけです。
 もちろん、ある種の人々にとって本当にやりたいことがそれであるのならば、有志を募ってそれこそ一生でもやっていればいいでしょう。しかし、ここに、実際のチキンレースとは決定的に異なることがもう一つあるのです。……現実のチキンレースにおいては、参加者と非参加者を取り違えるようなことは決して起こりません。一方、妄想チキンレースの価値観が当たり前のものだと信じて疑わない人々は、あらゆる他人もまたそこに参加しているものだと信じ込んでいるのです。そして、自分が参加者だと見なす相手に対して、言っていることの具体的内容のわけなどわかっていなくとも強弱や優劣や人格などの判定を喜々として始めるのです。
 デマ師に憧れる、ペテン師の言っていることがもっともだと思う、詐欺師の強気な断言が優位なものだと思い人格的にも高潔だと思う――そんな自分の頭の悪さと下劣さを棚に上げて、他人の能力やら人格やらを判定などするな。そんなことが知的な言説に関わる何事かだと思いこむのもやめろ。妄想の世界でのみチキンレースをやりたいんなら一生やってろ、ただし他人を巻き込むな。そして、くれぐれも、自分が文学やら芸術やら批評やらに携わっているなどとほざくんじゃねーよ。


 ……もちろん、こんなことを言っても無駄でしょう。そもそも恥というものを知らない人間に「恥を知れ」などと言うのは、完全に無意味なことです。
 結局のところ、日本語では有意義な議論などというものはできないのでしょう。いやもちろん、多大な労力をかけてそれが可能なわずかな場を探し求めることはできるかもしれませんが……しかし、先進国においてなら「単にふつうのこと」にすぎないことを求めるのに、わざわざそんな労力をかけることが馬鹿馬鹿しい。私自身は、別に日本語がこの世に存在しなくとも生き延びることはできるわけですし。
 とはいえ、英語力ということに関して言うと、現在の私は、インプット面では特に問題を感じることはありませんが、アウトプットに関しては、自分の考えを細かく十全に表現しきるとなるとまだまだ心許ない部分もあるので、いずれにせよ、そこの学習にしばらく専念しなければなりません。……しかしまあ、私がこのブログに書いてきた文章のほとんどはただの走り書きに過ぎない以上、英語での文章能力も、たかだかその程度のことはできなければ、将来的に使い物にならないことも自明です。
 まあ、それくらいは、特に問題なくできるでしょう。……だって、おれだもん。それに、英語でのアウトプットが問題なくできるようになれば、アメコミのライティングをするチャンスだって出てきますし。ジェフ・ジョンズやトム・キングの仕事なんかは、語学力や語彙力という点に関してはそれほどハードルが高くはないということもわかっていますし、やっぱそういうことができる道もある方がいいや。


 今後のことについてとそれにまつわることに関して書き連ねていった結果、このエントリが本当に最終回のようなものになり、きちんとした一区切りがついた気もするので自分としてはよかったです。
 ……ということで、The Red Diptychは、いずれ再起動することになりますが、おそらくブログ名は変わりますし、使用する言語は英語になります。
 告知事項などは今後ここでも更新することはちらほらあるかとは思いますが、内容的にはこれが最後です。となると、自分の中で、最後に書き記しておきたいことがあります。
 それは、ここ数年間の間に自分が実際に遭遇することになった、それぞれが微妙に関わりがあると言えるかもしれない、二つの出来事です。
 まず一つは、何年か前に、後楽園ホールにみちのくプロレスを見に行ったときのことです。観戦中、試合と試合の間の手持ちぶさたなわずかな時間のこと、なんとなく通路の方に目を向けたところ、ある人影が見えました。通路から一人で静かに試合を見ている、車椅子に乗ったその人は、ハヤブサなのでした。
 大仁田厚の弟子であり、将来を嘱望され続けた覆面レスラー・ハヤブサは、試合中の事故で頸椎損傷の重傷を負い、再起不能とされました。しかし、本人は全身が動かなかった状態から懸命にリハビリを続け、その時その時の自分にできる様々な活動もしつつ、いつかリングに再び上がるのだと言い続け、「引退」という言葉は拒絶してきました。
 そのハヤブサが、一人の状態で、目の前にいる。いや、マスクもかぶらずに素顔のままでいる以上、そこにいるのは「ハヤブサ」ではなく、単に本名の江崎英治さんであるとしか言えないのかもしれない。……しかし、いずれにせよ、若き日のその人から自分がどれほどのものを受け取ったのかを、伝えることのできる機会があるのなら伝えておきたいと思った……それと同時に思ったのは、自分はこの人にかけることのできる言葉などあるのだろうか、ということだった。
 この人に、「がんばってください」などと軽々しく言うことができるだろうか。あるいは、いつの日かこの人がリングに復帰することなど信じていない前提での言葉をかけることなどできるだろうか。……改めて自分のなかで反芻してみても、自分はハヤブサにかけることのできる言葉など持っていない、というのが嘘偽りのない本当のことだった。
 そんなことを考えている最中、まさにハヤブサがいたその通路を通って騒々しくバラモン兄弟が入場してきており、その人は苦笑いしながら車椅子を自ら動かし、私がいたところからは見えない、目立たない物陰に静かに移動していた。
 ハヤブサの訃報が伝えられたのは、それからしばらくしてからのことだった。結果として、私がハヤブサを直接見かけたのは、その日が最後のこととなった。
 そのことと微妙に関わりがあるかもしれないもう一つのことが起きたのは、同じく後楽園ホールにおいてのことであった。小橋建太が引退試合を終えてからしばらく経った頃、小橋自身がこれはと思った選手を集めて自らプロデュースする自主興業を行うことになっていた。その開催に向けて、小橋が自ら色々な団体の会場に営業しに出かけ、その場でチケットを購入した人と記念撮影するというファンサービスをも兼ねているのであった。
 何かのタイミングで、たまたま人気がない時間帯に後楽園ホールの入り口ロビーにいた私は、一人で座っていた小橋が手持ちぶさたにしているのを見かけた(ちなみに、後楽園ホールの男子トイレの入り口の脇に数メートル離れたあたりが、かつてジャイアント馬場さんがグッズ売場内でいつも座っていたところであり、その時の小橋はちょうどその向かい側のあたりにいた)。
 小橋がこういうときにファンに話しかけられて邪険に扱うことのないことを知っていたからこそ、そのときの私は、自主興業のチケットは発売して即座に押さえたために今日は購入できないんですがと断った上で、自分が子供の頃からいかに小橋さんの試合を見続け、影響を受けてきたのかを必死に伝えた。すると小橋は、「ありがとう!」と言いつつ自ら手を差し出してきて、堅く握手してくれたのである。
 もちろん、それはそれでよかったのだが、本当に驚いたのは、それからしばらく経った後のことだった。自主興業が盛況の内に終了し、同じ主旨で第二回が開催されることになったとき、小橋は同じように各所を営業して回っていた……のだが、そのとき、但し書きが一つ付け加えられていたのだ。既に別のところでチケットを手に入れている人とも記念撮影します、と。
 ……惚れ直したよ。……これは、何もプロレスうんぬんに限った話ではなく、身内でも何でもない、二度と会わないかもしれない他人にためにそ
こまでする人を見たことがない。どれほど些細なことに見えようとも、他人の気持ちを本当に汲み取ろうとしている人でなければ、絶対にするはずのないことだ。
 しかし、驚くべきことに、小橋にとっては、これは特別なことでも何でもないのだ。様々な伝聞を合わせて類推する限り、小橋は、何十年間にも渡って全国を巡業で経巡る過程で、記録になど残るはずもない、わずかな数の当事者たちの中にのみ残る小さな出来事の中でも、いつもいつもそのようにして周囲に接してきたはずである。……そりゃあ、そんな姿を目撃し続けたならば、秋山さんも多聞ちゃんも小橋に心酔するはずですよ。
 結局、一般的な知名度が高いとは決して言えない小橋が引退して何年も経った今でもなお芸能関係の仕事などがなぜ切れ目なく続いているのかと言えば、小橋に接してきて支持する人々の熱意が段違いであるからなのだろう。われら小橋信者の結束は固い。たまたま外部から人を招く仕事でもあろうものなら、会議室で机をバンバン叩きつつ「今回の企画には! 今回の企画には! 小橋さんの! 小橋さんの! 小橋さんの力が! 絶対の絶対に必要不可欠なんですよおぉぉぉぉぉぉ!!!」などと吠えまくり、ありとあらゆる手段を尽くして周囲を説得しまくっているのに違いないのだ。……というか、仮にそういう仕事をしているとしたなら、私自身も絶対やってるもんなあ。だからこそ、特にわれわれにとっても最も記念すべき人もなれば、力の限り叫びたい! 小橋さんのためなら! 小橋さんに会えるなら! 小橋さんと一緒に仕事ができるなら! 公私混同なんてお手の物である!


 ……そんな、何の因果か同じ場所で似たような時期に遭遇することになった二つの体験は、いずれもともに、私の中で消し去ることのできない影響を及ぼしている。もちろん、あの苦悩も、あの感激も、その場限りの一回だけの個人的な体験に過ぎないのであって、いかなる意味でも普遍的な回路に開かれてなどいない。それは、あくまでも個人的な体験に過ぎないからこそ、私個人の内部に生々しい印象を与え続けている。
 しかし、その一回限りにして個人的であるがゆえの生々しさを、そのままに普遍的に開かれた作品に定着させることこそが芸術なのだと、私は言い続けてきた。ただひたすらにそのことだけを書いたジョン・カサヴェテス論をふまえてあの体験を改めて振り返るならば、何を言っても間違ったことしか言えない状況ですら、それでもなお何かを言うことこそが芸術なのだ、ということになる。
 もちろん、あの個人的な体験の感触を回避しさえすれば、なんらかの表現にそれを落とし込むことは容易い。例えば、あくまでも過去のこととして距離を置いて回想し、感傷性や諦念へと感情を置き換えつつ、その生々しさを削り取り、誰もが受け入れやすい形へと作り替える。それこそが芸術なのだと、あの苦悩やあの感激をそのままに作品化するようなことなどしてはならない、不可能な試みゆえに無惨な失敗を積み上げる無様な行為などしてはならないのだと言われるならば、私は言うだろう、イワン・カラマーゾフとともに、「そんなことを俺は認めるわけにいかないんだよ」、と。


 P.S. もし仮に、自分が生涯であと一試合しかプロレスを見ることができないとしたらーーあるいは、生涯を通してプロレスと完全に無関係で過ごす人にただ一つだけ見る試合を勧めるとしたら、そんな場合に躊躇なく選ぶのが、私としては、95年6月の三沢・小橋対川田・田上であるということになります。
 永久に変わることのない、わが生涯ベストバウトたるこの試合について思い出すにつけ、様々な感慨にとらわれます。そもそも当時の全日本プロレスは結構な危機的状況にあり、トップ層の外国人レスラーは次々と離脱し、スタン・ハンセンもさすがに衰えを隠せなくなりつつあり、若手の台頭はいまだ起こらず……結果、興業の売りとなるのはほぼこの四人だけ、という状況。そんな中、その四人がタッグで対決すること以外には派手な試合もない興業で、「このカードで本当に日本武道館が埋まるのか?」と内心びくびくしながら足を運んだことが思い出されます。
 そして、そんな状況のただ中にありながら、三沢も小橋も故障を抱えていました。本来なら、この四人は60分フルタイムドローになることすらふつうのことだったのだから、万全の状態なら完全に互角。にもかかわらず、三沢と小橋が故障を抱えたまま臨んだ試合の方が、万全の状態の試合すら内容的に上回ってしまうということに、プロレスの本質があるように思えます。普段なら辛口のダメ出ししかしない放送席の馬場さんも絶句するわけですよ。
 そう言えば、田上引退試合を見に行ったときに、田上の若い頃の勇姿を映像で回顧するところがこの試合から取られていて、「お、わかってるねぇ~」と思ってはいたものの、強すぎる田上の姿を見てどよめく会場内を見て、「今のノアファンはこの試合を見てないの!?」ということにショックを受けたこともありました……
 ついでに言いますと、「小橋=テリーマン」説を唱えた今となっては、この試合の小橋が故障を抱えていたのが左足であったことが、必然にすら思えてくるのでした。


   https://youtu.be/gHsuvDfC8aw
   




最後に

 前回のエントリの末尾にも付記を入れましたが、その後のやり取りも含めたまとめを作成していただきました。想像以上に酷いことになっています。


  https://togetter.com/li/1198019

 
 さすがに前回のエントリのままで終わりになるのはいくらなんでもと思い更新しましたが、同じような突発的な状況が起きたときに対応する以外に通常の記事を更新することは、「再開未定」ではなく「二度とやらない」ことに決めました。
 今回の件でも不愉快なことは複数あったのですが、その中でもとりわけ気になったのが、私が個人的な愚痴を書いている部分もあるということ自体が、悪いこととして否定し罵倒までしてくる人々が複数いたことです。
 完全に個人が運営している個人ブログに個人的な疑問・感想の類を書いて何が悪いのかさっぱりわからないのですが、これを頭から否定する人々は、自分ではそういうことはいっさいしないのでしょうか。中には、今まで有益な情報を含む記事を書いていたことを肯定しつつ、それとは違うものとして、私の個人的感想が書かれていることを否定するようなケースさえありました。
 自分に利益をもたらしてくれるという理由で他人を称賛するというあつかましさも、他人が個人的感想を書いている領域に図々しくも踏み込んできて罵倒しつつ、個人的行動をすること自体を否定する尊大さも、私の理解を越えています。
 なされている議論の内容に対して批判があるというのはわかりますが、個人のパーソナルスペースでの振る舞い方の水準の話にまでずけずけと踏み込んでくるような身勝手なことがなぜできるのか、私には全くわかりません。
 そのようなこともあり、このような人々が無償の記事から何らかの利益を引き出すことができ、堂々と収奪・搾取する隙を与えるような行為は、金輪際やらないと決めた次第です。


 最後になりますが、今年に入ってから書いた『キン肉マン』に関する二つの記事は、文章そのものは走り書きにすぎないため全力で書いたものとは言えませんが、私の思考の全体像を素描したものにはなりえています。
 そして、実はあの文章は、私の中では、カサヴェテス論と同じ文脈の元にあります。近代社会の中での位置づけとしてとして、前者における「プロレス」と後者における「芸術」とは、同じ役割を果たすものとして捉えられています。
 つまり、『キン肉マン』に関する議論は、言ってみればアタル版マッスル・スパークのようなもので、まだ半分しか完成していない。これをカサヴェテス論と統合することで真のマッスル・スパークが完成するわけですが……その統合のための鍵は、ジル・ドゥルーズの『シネマ』における、「アメリカ」の概念の批判的な検討にあります。その上で、ドゥルーズにおける映画をコミックに置き換えるわけです。
 既にこのブログに何度か書いてきましたが、diptychとは、二枚一組の絵です。つまり、覚え書きをストックしているのにすぎないブログ記事とは別に、全てを統合した「もう一枚」があるわけです。そして、その統合した全体像は(まだ手直しは必要なものの)既にほぼ完成して存在しているわけですが、これはもはやどこにも出しようがないですな。





twitter上からこのブログに直接リンクをはりつつ根拠なしに全否定してきた藤田直哉氏への公開質問状

 当分このブログの更新はしないつもりでしたが、突発的な事態が起きたために更新します。
 また、更新を停止した時点で何も書く気が起きなかったためにコメント欄にも返信をしませんでしたが、励ましの言葉をくださった方々はありがとうございました。
 さて、突発的な事態というのは、「SF・文芸評論家」であるという藤田直哉氏が、私のブログにわさわざ直接リンクをはりつつ以下のようなtweetをしたことです。





 面識のない赤の他人にタメ口で威圧的に全否定のダメ出しをしてくるのが腹立たしいですが、それ以上に、何も根拠を提示していないことが問題だと思いました。
 このことを問いただすためにtwitterのアカウントを作成したのですが、そこから藤田氏に私が送ったリプライは、まあ私自身のものなのでテキストのみで以下にまとめて引用します。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
藤田先生が直接リンクをはられているブログの文章の書き手です。公開してある文章への批判は自由ですが、完全に全否定しておきながら、具体的な根拠を一切提示していないことが非常に不愉快です。謝罪や訂正は求めませんが、以下、根拠の提示と具体的な説明を求めていきます。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
まず前提として、プロの批評家を自認しておきながら、他人の全否定に具体的な説明を消去して広く公開することに既に手を染められたことには、こちらの個人的心情の水準では、許すことはありません。ただ、完全な全否定の根拠の提示なら、手間も労力も大してかからないはずです。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
(1)カサヴェテス関連の英語文献の扱いについて。カサヴェテスに関して、私の認識では日本語文献は非常に少なく、独立した論を立てるのに心もとないものです。そのため、日本語情報の欠落と思える部分を未邦訳の英語文献で補ったのですが、そこには、情報のみでも


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
有益だろうという思いがありました。「〇〇に関しては門外漢だが、全体としてはこうこう」という評価は当然ありえますが、藤田先生は文章全体を全否定されています。英語圏のカサヴェテス評価と文献を踏まえた上で、私の資料の扱いの致命的欠陥をぜひご教示ください。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
(2)カント『判断力批判』の扱いについて。専門家からは否定される変則的な解釈を提示していることは自覚しています。ただ、私が最も尊敬する批評家の一人であるポール・ド・マン何かの場合、パスカルやカントやヘーゲルの哲学的著作に対してそのような批評をなしていること


howardhoax @howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
もまた常識でしょう。むろん私などがド・マンになど及ぶべくもありませんが、学術的観点でも批評的観点でも構いませんので、『判断力批判』の扱いの全否定されるべき欠陥についてご教示下さい。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
(3)その他。そもそものカサヴェテス評価や映画史的観点からの位置づけ、基本的文章能力なども、全て、「論外」の「ゴミ」という評価が「正当」とのことですので、それぞれ一つずつでも、具体的欠陥をご提示ください。


howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
以上、こちらからは長くなってしまいましたが、藤田先生はいかなる保留も譲歩も抜きに全否定を公にされたことの内実を問われているだけですので、手間も労力もかからずに即答できるはずです。即答していただけるようお願いします。

howardhoax@howardhoax1 6h
返信先: @naoya_fujitaさん
仮に、返答に時間がかかったりしようものなら、「自分の罵倒の根拠を説明できないのでは?」「後出して大慌てで考えているのでは?」「そもそも該当文章を読んでなかったのでは?」などの無用の誤解を呼びかねないと存じます。ぜひとも、即答をお願いします。


 ……と、いうことがあったのですが、本日は昼間からtwitter上での活動が確認されている藤田直哉氏は、今のところ私の問い合わせに返答しようとする素振りすらみせていません。


 ところで、藤田直哉氏のネット上で公開されている文章をいくつか確認してみたところ、藤田氏の批評観に関して興味深いものも見つかりました。
 例えば、以下の書評の一部を引用してみます。


http://dokushojin.com/article.html?i=1638


これはぼくのほとんど体質的な「趣味」(主観)なのだけれど、客観性や論理性を装った文章が、その実、ある欲望を隠し持っていたり、論理的ではない価値判断を導入していると、気になる。その判断の根拠を追い詰める作業がないと、納得がいかない。


 お、おお……なんという真摯にして誠実な批評観でありましょうか。
 ということはですよ、全身批評家たる藤田直哉先生は、当然、私の文章に対して「全否定」という価値判断を下した際にも、ほとんど体質的なところから、「判断の根拠を追い詰める」作業を実施済みであろうということになるわけです。
 ならば、それこそ今すぐにでも、私のこのブログの致命的欠陥などズバズバ指摘しまくって粉砕することなど、瞬時にたやすくできるはずですね。時間があけばあくほと、藤田先生の発言の信憑性が落ちてしまいそうで不安です。
 皆様、藤田直哉先生の次なるご活躍にご期待下さい!


 付記 その後のやり取りも含めたまとめを作成していただきました。

  https://togetter.com/li/1198019







ブログの更新を停止します

 ブログの更新を無期限に停止することにしました。今後のことは何も決めておらず、いずれ再開するかもしれませんし全くしないかもしれません。
 また、過去の記事の既に削除した部分についても、そのうち電子書籍にでもするかもしれないと書いていましたが、これに関しても、とりあえずやめます。
 このブログをやめることにしたのには、一つの明確な理由がありました。……というのも、昨年の記事の中でそれとなく書いたことがあるのが、何らかの評論を書いて何かの賞にでも応募する、ということでした。その後、渾身の力を振り絞り、完全にフルパワーでの文章を書き上げました。
 このブログにこれまでアップしてきた文章のほとんどは、単に自分のための備忘録・勉強ノートを公開しているというだけのものであって、たいして推敲もしておらず、全力で書いたものなどはほぼありません。だからこそ、それが消えようがどうなろうが、私自身にとっては割とどうでもよいことのように思えています。……しかし、全力で書いた文章は違います。投下した労力にしても、結果としての完成度にしても、ほぼ一息でできた走り書きの備忘録とは次元が違います。……私としては、自分が全力で書いた文章というものは、それが存在しているのであれば、仮に明日突発的に事故か何かで死ぬようなことがあったとしても、とりあえず納得して死ねる……とまで思えるものです。
 そして、そのような意味での全力の文章が完成した一方で、それが、そもそもその価値を論じるにも値しない、是非を検討する以前の段階で論外として排除できるものだとされてしまう時点で、もはや、世の中に向けて自分が言うべきことなど特にない、ということになるわけです。
 したがって、私にとっては全身全霊を込めた無二のものでありつつも、同時に、ゴミ同然の論外のものともみなされたまさにその文章、ジョン・カサヴェテス論をこのエントリの直前に公開した今となっては、このブログを継続する理由も、もはやありません。


 私がその文章を応募したのは、昨年に新たに創設された「すばるクリティーク」なる賞です。……ただし、その賞に応募したのは、単に新たに創設された第一回募集だからまあ目立つだろうし……という程度のことで、積極的な理由はとりたててありませんでした。選考委員が予選の段階から全ての原稿に目を通すと言うことが一つの売りになってはいましたが、そのことによって審査の公平性・適正さが担保されるだろうなどとは全く思っていませんでした。
 利用できる場があるのならば利用しようという気持ちしかなかったのですが、そもそも応募する前の段階で苛立ったのが、原稿の分量に関する規定の恣意性であるのでした。原稿用紙換算で60枚以内、という非常に中途半端な分量で、いったいどのようなことを目指して規定された分量なのかが全くわからなかったのです。「雑誌掲載のための都合から上限はそこがいっぱい」というのならまだわかるのですが、同時に「40枚以上」という規定まで設けられているのは、わけがわからないと言うよりほかにありません。ただでさえ、60枚以内という規定がいかにも中途半端で意味不明であるのに、それにかなり近い、あまり調整も利かないような中途半端な範囲に分量を細かく収めなければならない。……しかし、じゃあなぜその分量にしなければいけないのか、その分量によってどのような評論が求められどのような議論が可能になるのか、ということには、賞の創設に関して長々とした議論を公開しているにもかかわらず、全く触れられていません。「分量」というのも間違いなく表現の形式の一つであるのですが、自分たちが恣意的に決定した分量の持つ意味は、原稿の募集の段階で、なんら明らかにされていないのです。単に多様な議論を求めるのであれば、シンプルに「60枚以内」でなにがいけないのか。
 ……まあ、これは何も今に始まったことではなくて、文章表現の形式性と分量の関連に関する無関心というのは、日本の文芸業界には久しく蔓延していることです。例えば小説で言うなら、長篇なら最低400枚はなければ成立しませんし、逆に短篇なら30枚以内に収めなければなりません。……一方、中篇という形式もあるし、フランス文学にならレシという分類もあるのではありますが、世界の文学史を振り返ってみて、中篇で重要作を連発した例があったのかどうかを考えてみるべきなのです。例えば「バートルビー」が重要な中篇であること自体はいいとして、ではメルヴィルがあのような中篇を職業作家として量産することなどできたのか? という話です。
 なぜ長篇が最低でも400枚以上なければ成立しないのかというと、作品の成立に「何らかのテキストを読み解いた上で構築し直す」、もしくは、「作品が成立する前提となる社会的・文化的・政治的背景を分析的に検討する」という契機が必要となるからです(後者も、広い意味で「テキストの解読」と考えて前者に包含してもかまわないとは思いますが)。……だからこそ、そのようにして長編を書くこともできなければ、短篇を凝縮してまとめることもできない人が自分を小説家だと思いこめる制度として、日本ではよくある「無駄に引き延ばされた中篇」というものがあるわけです。もちろん、ある特定の風俗なり習俗なりの新奇な知識を持つ作者だけが書ける風俗描写から作品を始めても何ら問題はないわけですが、そこから出発して「その背景にまで掘り下げる資料の読み込み」という契機が作品に加わることによって始めて、長編小説が成立します。100枚~200枚の中篇というのは、新奇な風俗描写による水増しだけで引き延ばせる、構成能力を持たない者でも書き終えうる限界ということに過ぎないわけです。
 一方で、ジャンル・フィクションにおいては既存のフォーマットが完成されているので長いものも成立しますが、これは、外国で完成したフォーマットをそのまま流用している場合がほとんどです。あるいは、単に長く引き延ばしたお話を素朴にリアリズムで記述していったというだけのことでも、文芸のジャンル論の問題で言うと、バフチンなんかが言った「小説の言葉」にはなりようがないということでもあります。……つまり、近代以降の日本には「長篇小説」を書ける作家などほとんどいなかったのですが、小説を書けない者が小説を書けているのだと思いこめる制度が周到に張りめぐされてきたわけです。結果として、小説以外においても、文章表現の分量と形式性との関連に関してどうしようもない無神経が当たり前のように存在しているのだと思います。
 私が、「評論で60枚という枚数はあまりにも中途半端で無意味な枠組みである」と思うのには以上のような理由があるのですが……その規定に無理矢理収める形で体裁を整えたため、このブログに公開することになったジョン・カサヴェテス論は、全力を出したとは言え、私としてはかなり不本意なヴァージョンになってしまいました。例えば、映画における時間の問題に関して、ジル・ドゥルーズの『シネマ』の議論と部分的に重なるところもあるのですが、根本的な問題意識、議論の立て方自体は異なるので、「なぜドゥルーズの『シネマ』を参照しないのか」という議論の前提もきちんと比較して書いておきたかったのですが、とうてい分量的に収まりそうもなかったので、そのあたりのことは全部カットしました。
 しかし、そういう部分をばっさりときってもなお60枚に収まりませんでした。引用はかなり多いのですが、これは削れるところが全くないため、議論の展開をところどころカットすることになり、結果として、多くの部分で論旨が飛躍する不完全なものになってしまっています。……それでもなお60枚を超過するため、最終的に脚注を無理矢理本文の中に組み込んで行数を減らし、ぎりぎり「60枚」に収めるという、全くもって不毛な作業をする羽目になったのでした。これは本当に全く余裕がないため、一行増やすことすらできない量になっています。
 そういう意味では、このヴァージョン自体はいずれ書き直すための途中の草稿に過ぎないのでもありますが、公開するのであれば、改変する前の元のままでなければ意味がなくもあります。そのため、引用部分に関して「傍点が表記できないので削ったこと」と「ルビの表記を直後での丸括弧で代用したこと」と「一字ぶん下げての引用の区切りがわかりにくいため、このブログでの体裁に合わせて、斜体への変更に変える」という点だけを除けば、元のヴァージョンから全く変更のないものになっています。……自分としては不本意なヴァージョンではありますが、それでもやはり、意味不明な枠組みの規定の内であれ、自分としては全力を出したものではあるわけです。
 改めて自分の文章を確認してみて思ったのは、これが論外の検討にも値しないゴミだと思う人々が、自分は文学なり芸術なり批評なりの側なりにいると思いこめるのは、到底正気の沙汰とは思えない、ということです。
 もちろん、そのような人々に対する憤激と憎悪と軽蔑と殺意とは全く絶えることなく私の中で渦巻き続けているわけですが、それはまあ、こんなところに書いてもしょうがありません。
 これで、書いておくべきことは全て書き終えました。


 さて行くのだ。
 ……まあ、私ゃあ、謝罪なんてことはしませんがね。






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Author:Howard Hoax
 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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