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今後の読書計画

 来年以降、しばらくの期間に渡っての読書傾向の大きな流れについて検討していたので、大まかに整理してメモ代わりのエントリを立ててみる。


 最近個人的に考えていたのは、文学におけるモダニズムの問題をより広い文脈で捉え直していくことだ。これは以前にも書いたことだけれど、例えば、モダニズムの中枢にある「崇高」の問題は、英文学の文脈では、モダニズム以前にもゴシック・ロマンスにおいて展開されていた。ゴシック・ロマンスの文脈を引き継ぐ怪奇小説は、近代的な価値観の内部では低俗で一段劣るものとされるほかなかったんだけれども、しかし、そもそもその起源にはバイロン卿やらP・B・シェリーやらのようなイギリス・ロマン主義の中枢にあった人々が関わっていたのだし、なおかつそれをアメリカへ橋渡ししてその後のジャンル・フィクション、二十世紀のパルプ・フィクションへの流れを生み出したのはエドガー・アラン・ポウである。つまり、これらの人々はハイカルチャーの精髄と見なされたものと低俗の極みと見なされたものとにまたがって活動していたんだけれども、その二つの領域の相関関係は特に省みられることもなく分裂したままに捨て置かれているように思えるのだ。
 私自身は、ポウ以降の怪奇小説をあまりきちんと読んでこなかった……アーサー・マッケンやらアルジャーノン・ブラックウッドなんかでさえ、短篇をちょこちょこ読んでいる程度のものだった(とはいえ、さすがに、代表的な短篇を読んでいるだけでも彼らの重要性はわかるのだが)。どうも怪奇小説というジャンルそれ自体にそれほど興味が無かったからなんだけど、意識的にこのあたりをきちんと体系的に読み込んでいこうと思っている。
 で、いざ十九世紀以降の怪奇小説を読み進め始めてみてわかってきたことなのだが……私の考えでは、十九世紀においてモダニズムの先駆けとなっているような存在は、小説で言うとホフマンやポウやエミリ・ブロンテやドストエフスキーといったあたりの人々だ。なのだが、いざ同時代の怪奇小説と同じ問題意識の元で読み比べてみると、書かれている内容のみならず小説の技法面でも、かなり共通する部分があるのだ。
 例えばドストエフスキーの場合、『カラマーゾフの兄弟』においてイワン・カラマーゾフは悪魔と遭遇することになる。しかし、この悪魔は錯乱したイワンが見た幻想にすぎないのか、作中での水準では事実として起きていることなのかは、確定的な記述は存在しない。……というか、むしろ、両者のいずれであるのかが確定できないように注意深く構成されているように私には思えるのだが、専門のロシア文学者なんかでも、「錯乱状態のイワンは悪魔の幻想を見た」という風に単純なリアリズムの水準に平然と一元的に確定して要約してしまうのを目にする。……このようなドストエフスキーにおける「現実」と「幻想」の不確定な記述方法がホフマンの影響下にあること自体は明らかなのであるが、しかし、長い間まともな文学だとは見なされてこなかった怪奇小説の領域には、同様の記述法が同時代的に存在していたわけだ。……では、両者の相関関係はどうなっていたのか。
 そう考えてみると……ヘンリー・ジェイムズなんかにしても、モダニズムにおける「意識の流れ」の先触れとなるような精細極まりない心理描写をなした作家であると一般に見なされている。そして、そんなヘンリー・ジェイムズが怪奇小説をも執筆しているというのは、単に高度な純文学作家が手すさびでなした趣向にすぎない、もしくは、あくまでも生活のために時代の流行に乗って書き飛ばしたものでしかない、などとして片づけることのできないことなのではなかろうか。……むしろ、言語による通常の表現の枠組みを踏み越えた、恐怖をもたらす超常的・超越的な存在をそれでもなお言語で記述するためにはどうしたらよいのか――ということ自体が、まさにモダニズムの中枢にある問題そのものなのではないかと。ならば、ヘンリー・ジェイムズにしても、純文学作家としての側面と通俗作家としての側面をたまたま両方持っていたというような話なのではなくて、怪奇・幻想の記述法を突き詰めることまで含めてモダニズムの先触れたりえているのではないか?


 由良君美なんかは、イギリスのロマン主義、とりわけウィリアム・ブレイクなんかの理解に関して、神秘主義との関わり合いをきちんと検証しなければ正確な理解に到達しえないことを口を酸っぱくして強調していたけれども、それがどういうことなのか、私個人としては最近になってようやくわかってきたというところがある。例えばイギリスのみならずドイツのロマン主義を見ても、ノヴァーリスのいわゆる「魔術的観念論」なるものは、文字通りノヴァーリス自身の西洋魔術の研究が取り込まれているのだけれども、たいていの文学研究者はあまりそのあたりを真に受けているようには思えない。
 しかし、そもそもロマン主義とは、ヨーロッパ近代における理性と啓蒙が支配した合理的な世界観に対する反発として噴き出したものだ。そのような潮流において、ヨーロッパの歴史の中で異端として抑圧された価値観が参照されるというのは、よくよく考えてみればもっともな話である。……そして、もちろん魔術やらオカルトやらのような分野はインチキなものが大半なのだけれども、同時に、正統から外れた価値観であるゆえに抑圧され、そのようなカテゴリーの内部に一緒くたに放り込まれてしまったようなものも存在する。
 ヨーロッパの魔術やオカルトにどんな潮流があるのかを見ていくと、多くの方面に影響を与えているものとして、例えば古代ローマのネオプラトニズムがある。ネオプラトニズムの汎神論的・一元論的な志向は明らかにキリスト教の正統的な価値観とは異なるものだけれども、にもかかわらず完全に滅びきることなく後代の様々な領域に影響を与えてもいる。あるいは、ユダヤ教の理論がマイモニデスによって整備された際、神秘主義の類は正統から排除され、結果としてカバラと呼ばれることになった。そして、カバラ的な思考もまた多くの領域に伝わり、キリスト教の正統から外れた神秘主義の中にすら流れ込んでいたりもする。……そして、さらに時代が下って近代以降の世俗的なオカルトになると、ネオプラトニズムもカバラもキリスト教神秘主義も錬金術もごちゃごちゃになって一つの教義の中に放り込まれていたりもするわけだ。
 近代的な価値観への反発を含むロマン主義がそういう抑圧された潮流と結びつくのは自然なことでもあるし、文学者のような存在が結構なところまで深入りしてしまうのもまた、よくよく考えてみれば当然の話であるように思える。……なのだが、魔術や神秘思想に深入りした文学者が消しようもないほどに偉大な存在である場合にはとりあえずそういう側面は無視され(例えば、ゲーテの魔術への傾倒やフリーメーソンへの参加を特に重要なものとして声高に論じる文学研究者はあまりいない)、一方、むしろそれこそが主眼になっている、オカルト的な志向を前提とした怪奇小説なんかになると、そもそもジャンル自体が低俗なものとして文学的価値を認められないことにもなる。
 例えば、扇情的な怪奇小説の書き手として非難・軽蔑の対象となっていたというアルジャーノン・ブラックウッドなんかは、自身も黄金の夜明け団に入団して実践魔術に携わってもいる。……しかし、それと同時に、二十世紀を代表する詩人の一人でありノーベル文学賞も受賞しているW・B・イェイツもまた黄金の夜明け団の団員であり、それどころか幹部まで務めてるのよね。……つまり、ブラックウッドの怪奇小説とイェイツの詩作には、同じものが異なる形で表れているという部分も確実にあるにもかかわらず、異なるものとして分裂した受け取られ方をされるのが常態になっているわけだ。
 二十世紀で言えばパルプ・マガジンのような媒体は、低俗の極みとされ、実際、しょうもないクズが大量に集まってもいた――しかし、正統から排除されるしかない異端に属するものがそういう場にしか存在できず、結果としてクズの山の中から後代に再発見されるようなことも、たびたび起きているわけだ(……こういうようなことは文学史上しょっちゅう起きてきたわけなので、今さら「ラノベは文学か」とか言い出しちゃうほどに文学史を知らん人々がよりにもよって文学の代表ヅラしてるのを見かけると、頭が痛くなってくるのであった。……まあ、もちろん、そんなのをまともに批判できない方にも、同様に文学史の知識がないということなんだけどね……)。


 ……と、今年の初め頃にはそんなことを考えつつ、それに沿った体系的読書をしていこうとしていたのだけれども、ふと思いついたことがある。――アラン・ムーアの新作『プロヴィデンス』って、まさにこういうことをテーマにした作品になるんじゃないか?
 1920年代頃のヨーロッパにおいて近代的価値観への反発・再検討が一挙に噴き出したものがモダニズムの潮流だとすると、これと同時代的に代表作を書いていたのがラヴクラフトだ。ラヴクラフトの小説は、エドガー・アラン・ポウの大きな影響下にある――そして、イギリスのロマン主義とゴシック・ロマンスの双方の影響を受けたポウは、フランス象徴派を介してモダニズムの源流になったのと同時に、ラヴクラフトが活動したようなアメリカのパルプ・マガジンで栄えた種々の低俗なジャンル・フィクションの祖でもある。……このような、ポウの影響下にある異なる潮流を分裂したものとしてではなく、同じものの異なる側面の発現として包括的に捉えることこそが試みられているのではないか、と。
 で、いざ『プロヴィデンス』の連載が始まって序盤のあたりを読んでいると、まさにそのようなことが展開されているのであった。
 まず私の目を引いたのが、ポウの創作態度が、カバラの中のある種の傾向と重なるものがあると指摘されているところだった。これはつまり、ポウの立ち位置が、ヨーロッパの支配的な価値観において抑圧され排除された側の思考に入る、ということであろう。
 あるいは、ラヴクラフトのクトゥルー神話が実際に存在している作中世界において超常現象に遭遇した人物は、自分は夢を見ていただけだと結論づけるに至る。そして、作家志望のこの男は、自分が見た夢にストーリーの形式を与えて言語化することは不可能だろうが、ストーリーの水準ではなく言語そのものの操作によって作品化するならば、ガートルード・スタインやT・S・エリオットの詩のようなものになるのではないか、と考える。……これはもちろん、ストーリーの形式を与えたらラヴクラフトのクトゥルー神話になるということであろうし、それがモダニズムの詩作と同じ根を持つものとして捉えられているということだ。


 ……でも、『プロヴィデンス』にどういう内容が盛り込まれているのかを検討していると、実はこういうことって全て、今までのアラン・ムーアの活動でも一貫して追求されてきたことだということに気づく。
 例えば、ヨーロッパの歴史を通じて魔術がどのようなものであったのかということを考えるとき――正統から外れた異端であるゆえに抑圧され排除された魔術のような思考は、建前としては抹殺されるべきものであっても実は多くの者にとっては魅惑的でもあるゆえに、二十世紀においてならば、低俗で下品だとされる(しかし良識的な大人も隠れてこっそり読んでいたりする)パルプ・マガジンのような場で繁茂することになる……というのは、『プロメテア』において既に描かれていたことだ。
 もちろん、『スワンプシング』においてコミックにおけるホラーのあり方が追求されていたわけだし、アメコミ的にはオカルト探偵と言えばジョン・コンスタンティンだが、それもよくよく考えてみればオリジンはムーアの『スワンプシング』にある。……そして、オカルト探偵ものの元祖と言えばアルジャーノン・ブラックウッドであるわけだが、既に述べたようにブラックウッド自身も黄金の夜明け団で実践魔術に携わっていた。だから、改めて考えてみると、ブラックウッドを参照してジョン・コンスタンティンを創造したムーアが魔術師になったというのは、実はきちんとムーア自身の作家活動の中で一貫性のあることだったのだ(いきなり頭がおかしくなったのかとばかり思っていて、正直スマンかった)。
 ということは、神秘主義の発現を描いた『フロム・ヘル』がイギリスのロマン主義との兼ね合いにも触れ、ブレイクやイェイツが作中に登場するのも当然のことであったわけだ。代表作と見なされる『ウォッチメン』がむしろ独立性が強く単発で読めるものであるだけにかえってわかりづらくなっていたのかもしれないが、ムーア先生のこれまでの活動って、実は、ほぼ全部がきちんとつながっていたのね……。
 そして、以上のようなアラン・ムーアのこれまでの活動と密接に結びついたものとして今回の『プロヴィデンス』を捉えようとしてみれば、ヨーロッパ精神史(の裏街道)で脈々と受け継がれた魔術やオカルトの総体が、ヨーロッパからアメリカが分岐し現代化していく渦中に置いて一挙に噴き出した場所として、ラヴクラフトのクトゥルー神話を捉え直す……ということであろうか。……ムーア先生……アンタ、スゲーよ!
 ……ラヴクラフトのコズミック・ホラーこそが、真のアメリカン・サブライムであるということになるのだろうか?


 ……などというように、たまたま自分が興味を持って改めて勉強しようとしている分野と重なったこともあって、ようやく、アラン・ムーアの作家活動の全体像が見えてきた。
 もうだいぶ前のことだが、以前私は、ムーアの『フロム・ヘル』を「スピノザ的世界」という言葉で表現した。今になってわかったのは、そのこと自体は間違いではないけれども、より広いパースペクティヴで捉え直す必要があったということだ。
 元々私は、スピノザという哲学者の独自の思考方式がうまく飲み込めず、そもそもなぜそのような考え方をするのかということ自体が腑に落ちなかった。改めて考えてみると、ここには、正規の哲学教育の範疇で把握される哲学史の限界のようなものがあったように思える。……スピノザは、中世のスコラ哲学とは区別される近代哲学の祖と見なされるデカルトの後に連なる者であるとされるし、それも間違いではない――しかし一方で、ユダヤ人たるスピノザはユダヤ教の神秘主義に触れていることもまた事実なのである。このあたりはまあオカルトとすれすれのところであることもあり、正規の哲学史を生真面目に学んでいる限り、ほぼ触れられることはない。
 しかし、スピノザの独特の思考のスタイルに、ネオプラトニズム以降のヨーロッパにおいて抑圧された神秘主義も流れ込んでいるのならば、ヨーロッパの歴史の総体の中から神秘主義のあり方を汲み上げようとする『フロム・ヘル』という作品に、スピノザ的なものと類似した部分が出てくるのは、当然のことであったわけだ。


 ……で、そんなことを考えていて改めて思ったんだけど、今回の『プロヴィデンス』、きちんとムーアが参照している文脈を全部押さえた上で丁寧に正確な翻訳ができる人って、今の日本にはそもそも存在しないんじゃなかろうか?
 ラヴクラフト関連のことを、幻想小説・怪奇小説の歴史を全て踏まえた上で翻訳できる人ならいるんだろうけど、そういう人が、ネオプラトニズムや神秘主義なんかの展開の思想史上の問題をもきちんと理解し、なおかつヨーロッパ各国のロマン主義との関連といった文学史上の問題をも全て同時に踏まえているかというと……正直なところ、まず無理だろうなと。
 それ以前のそもそもの問題として、日本におけるジャンル・フィクションの愛好家って、ほとんどの場合その特定のジャンル内のことにしか興味を全く持たず、越境したり他ジャンルの価値観を持ち込まれたりすると罵詈雑言を浴びせかけて追い出しにかかるというのを、私も色んなところでさんざん見てきたからねえ……。
 以前にも書いたけど、ムーアの『ネオノミコン』にしても、ラヴクラフトに詳しい人にきちんと注釈をつけて邦訳して欲しいとか考えていた……のだけれど、出版の話が流れてかえってよかったのかもと最近では思っている。ラヴクラフトや怪奇小説以外の文脈をもムーアが参照しているのがわかると、「高尚で難解な文学やら哲学やらにおもねっている!」とかいう見当外れの非難が向けられることになるだろうしねえ。
 別に、高度に洗練されたハイカルチャーにしても、低俗で猥雑なパルプ・マガジンやコミック・ブックの世界にしても、相互に影響を与え合っているし明確な境界線などというものもないのだけれど、広い領域をカヴァーするだけの度量がない人々こそが、勝手に境界線を引いて分裂させてしまっているわけだ。……まあ、ハイカルチャーだけを認めて大衆文化をいっさい認めないエリート主義というのも問題だけれど、こと日本の場合、自分には理解できない高度な文学や芸術が存在しているだけで、お高くとまっただけで内容のないインテリ気取りのスノッブのものだ! などと、自分がその内実をまるで知らない対象に対して特に根拠もない罵詈雑言を浴びせかける、「反権威のオレスゲー」症候群に染まっているような輩の声の方が、はるかにでかいしねえ。そもそも日本ではハイカルチャーの圧力などというものはほぼ全くと言っていいほど存在しないのに、自分が中身も知らないハイカルチャーを勝手に権威に見立てた上で反権威ポジションを確保した上で暴れてみせるのは非常に楽チンなわけね。
 逆に言うと、無用な偏見を取り払って領域横断的に文化に接するならば、アメコミをきちんと理解するためには、ゲルショム・ショーレムのカバラ論なんかもきちんと勉強しないとダメ、ということになるわけだ。
 私のこのブログにしても、多岐に渡る話題を取り上げてはいるものの私の中では全部つながっているので、勝手に腑分けしてもらいたくはないものです。特に、今年アップしたエントリの、映画評を除くほぼ全てのものは、今年書いていた長い文章のためのノートであるので、一見するとバラバラでも、実は全部つながってるんですよ。


 ……そんなこんなで、泥縄式に色々な文献を読み進めることで、ムーア先生の『プロヴィデンス』にかろうじてついていっている今日この頃なのですが、これを読み進めることで、ようやくアラン・ムーアの作家活動の全体像がおぼろげに見えてきたわけだ。
 それで、改めて思ったんだが……既にムーアって、コミックなのになぜかヒューゴー賞を受賞したり、コミックなのになぜかブラム・ストーカー賞を受賞したり、コミックなのになぜか「TIME誌の選ぶ、二十世紀に英語で書かれた小説ベスト100」などというエラいものに選出されたりしてきたわけだけど……それでもなお、現時点でそう思われているよりも五十倍くらい偉い人なのではなかろうかと思った。
 ロマン主義を継承しつつもそれに対する反発をベースとするのがモダニズムであり、モダニズムを継承しつつもそれに対する反発をベースとするのがポストモダニズムであり、ポストモダニズムにおいてはロマン主義への回帰しての共振・再評価が含まれる――というようなことを考えると、イギリスのロマン主義に対する再評価・文学史の読み直しをしつつ現代の消費社会の状況をも踏まえる、という、二十世紀後半以降における「イギリスのポストモダニズム」というものは、その領域を問わず、アラン・ムーアとニール・ゲイマンの両名に代表されるのではないか……と思えてきたのだ。
 ……ということで、現在の自分が興味を持っている領域と、アラン・ムーアの『プロヴィデンス』で追求されているテーマがうまいこと重なっているので、このエントリで書いてきたような線に沿って体系的に学習を進めていきたいと考えている。来年にはムーアの大作小説『イェルサレム』も出ると言うけど、この作品にしても、おそらくはユダヤ文化の問題について触れつつ、ブレイクの同名の詩も参照しているんでしょうなあ。小説の内容についてムーア自身が語っている言葉を読んでいると、まるまる一章ぶんを使ってルチア・ジョイスに焦点を当ててその「意識の流れ」を書いた部分があるとか、「マジかよ!?」と愕然とするようなものになってるようだし。いやそれ、文学のモダニズムの総体を根本からひっくりかえそうとしてるってことだよね……。そんなん思いつく、あるいは、思いついてもやろうとするような蛮勇を持ってる人は、今の英語圏の文学者にはたぶん一人もいないわ……。文学の世界では現状ノーマークなんだろうけれど、これ、二十世紀後半以降くらいで最大の文学作品ということになっても全くおかしくないっスね……。
 私としても、『プロヴィデンス』と『イェルサレム』の両方を読み終えたら、本格的な長いアラン・ムーア論を書くつもりでいるんですが、公表する当ては全く微塵もないですなあ……。さすがにそれだけの労力を投下したものになると、ブログに無料で公開する気にもなれないですしねえ……。






「奇書探訪」シリーズを中止します

 このブログで続けていた「奇書探訪」シリーズを中止することにしました。
 もともとこのシリーズは、難解だとされて敬遠されがちな書物を容易に読みほぐせるように解説・紹介するためにやっていました。つまり、意識的に読みやすく・わかりやすいようにハードルを下げて文章を書いていたわけです。……なんですが、そうすると、自分がすいすいと読み通せることで「自分の方がわかっている」と勘違いしたのか、謎の上から目線でダメ出ししてくる(その実、その内容はろくな知識もなくめちゃくちゃ)ような輩が増えてきました。……アホか。こっちが、テメーら程度のもんでも読めるようにレヴェルを落としてやってんだよ。
 少し前にボルヘスについて書いたエントリは、奇書探訪シリーズではなかったんですが、自分の中で、読みやすい文章を心がける癖がついていたことが災いしたのか……ボルヘスなんぞよりはるかに偉いノヴァーリスやホフマンについて書いていてもアクセス数は少なかったのに、インテリごっこに興じたいようなわけのわからん連中が押し寄せてくることになりました(……まあ、要するに、ボルヘスがそういう作家だということなんでしょうが……)。
 そうした連中が、自分では知的なことを書いているつもりなのか、てんで見当はずれの勘違い発言を、わざわざリンクをはったりブックマークをしたりコメント欄に書き込んだりして誇示してきたわけです。
 例えば、twitterからは次のようなのがあります。


くぼた(弱) @kbtysk33  ·  3月1日

ボルヘスに問題があるとすればそれはモダニズムの問題というより極めて近代的な小説というジャンルを中世的叙事詩としてあくまで捉えていたということにあるのではないかな。まあそれをモダニズムの問題と言えば言えるだろうが……


くぼた(弱) @kbtysk33  ·  3月1日

まあ難しくてわからんのですが


くぼた(弱) @kbtysk33  ·  3月1日

でもボルヘスの神曲論には問題はないと思うんだけどな。(ケチをつけるとしたら他のところだろう)ここが物足りないって話をしても…って感じだし


 人が、「Aだと思う。なぜなら、こうこうこういう理由があるからだ」と述べることに対する反論は、「Aではないと思う。なぜなら、こうこうこうだからだ」というものだ。「Aではない、Bだ」って、なによ? いきなり人の考えを全否定しておいて、Aではないことの論証もなければ、Bであることの論証もなし。テメー何様だよ? 自分の考えを誇示するために他人をダシにしてんじゃねーよ。
 だいたいさあ、ボルヘスはジョイスを評して、詩ではなく小説を書いたことで才能を浪費したと明言してるけどね(『ボルヘスのイギリス文学講義』p144)。こういう人が小説を詩として捉えていたとか言われても、意味がわからん。一方、『フィネガンズ・ウェイク』に関しては、ジョイスのやろうとしていることは既にキャロルが全部やっているとか書いている。だから、ボルヘスは実は、カントの『判断力批判』で美と崇高の峻別が理論化されたりエドマンド・バークの崇高論がゴシック・ロマンスの展開に影響を与えたりしたことで文学に流れ込んだ、モダニズムの価値観がよくわかっていなかったんじゃないかと言っているわけだよ。こういうことを前提とした考えが違うと言うのなら、「ボルヘスのモダニズム理解は完璧だった」ということを、具体的な文献に即してやれっちゅー話だよ。


 ……それと、なに、「ボルヘスの神曲論には問題はない」? なに言ってんの? 最初っから「問題がある(=欠陥・誤謬を内包する)」なんて書いてねーよ。「ボルヘスの『神曲』論が異様につまらなかった」→「この書物はこうこうこういう構成になっている」→「ところで、ボルヘスの文学観がこのようなものだとすると、ボルヘスの小説の実作は、20世紀の現代文学としてはこのような問題があるのではなかろうか」という流れの議論をしてるんだよ。な~にが「ケチをつけるとしたら他のところだろう」だよ。そもそもテメーがこんな簡単な文章の論旨を追うことすらできてねーんだよ。
 ……「まあ難しくてわからんのですが」、だと? だったらハナっから黙ってろや。


 ……え~、ということですので、難解すぎたり煩雑すぎたりする話に踏み込まずに、ある程度わかりやすく見通しがとりやすい話に終始すると、自分の方がわかっていると勘違いしたわけのわからない輩が押しかけてきて、謎の「おれ理論」を振りかざしだすということがわかりました。さすがに何度もそういうことを繰り返された結果として辟易しましたので、今後、文学や思想・哲学に関して書くときは、難易度を落とさないことにします。そのため、「奇書探訪」シリーズも中止となりますので、ご了承ください。……逆に、ハードルを下げないで書いた『「ボヴァリー夫人」論』に関するエントリなんかに関しては、こちらとしても有益な評が寄せられる、ということもありますしねえ。







早稲田の学生がtwitter上から罵倒してきたので反論したらこうなりました

 先日、どうやら早稲田の学部生らしいのですが、このブログにtwitter上からリンクを張った上で罵詈雑言を浴びせかけるという者がいました。
 まあそういう連中自体は珍しくもないわけですが、そのあまりの内容に完全にぶち切れてしまったため、思わず即座にtwitterのアカウントを作成して反論してしまいました。……で、その結果として、なんと言うかあまりにもアレなことになりましたし、私のアカウント自体は既に削除してありますので、記録としてここにまとめておきます。
 さて、以下のような内容のtweetが、ことの発端でした。


ノムさんfeat.HBK @nomuvo     ·   11月2日
   「批評の必要性について」
http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-46.html
批評の必要性について論じている前半は「ふむふむなるほど」と思いながら読んでいたが、後半は公と私の区別をつけないで好き勝手特定の知識人の悪口(とても批評とは言えない!)を言っているだけじゃないか。



ノムさんfeat.HBK @nomuvo     ·   11月2日
先の記事の中で特にナンセンスなのは二つ。1、ドゥルーズの論争嫌いへの批判としてプラトンやヒュームを持ち出すこと。 2、テロリストと荒らしを同列に扱うこと。この二者に対する「排除」は性質を異にしている。


ノムさんfeat.HBK @nomuvo     ·   11月2日   
イライラしてるのかもしれない。普段ならくだらないと切り捨てられるものにも腹をたててしまう



ノムさんfeat.HBK @nomuvo     ·   11月2日   
文学を甘く見るな。そんなものは批評でも哲学でも思想でもない。すなわち文学ではない…



 ……まあ、私もそれなりの年月に渡って生きてきたわけですが、さすがに、いまさら学生から、真上から罵倒されるとは思ってもいませんでした。
 もちろん、この短いtweetの時点で、既にこの学生がまともな知識の持ち主ではないことは明らかなわけです。……だって、「悪口」は「批評とは言えない」などとのたまってますが……日本国内だけで見ても、小林秀雄にしても坂口安吾にしても花田清輝にしても吉本隆明にしても柄谷行人にしても蓮實重彦にしても、辛らつな文体による悪口や当てこすりのうまさによって世間的影響力を獲得してきたことは明らかなわけです。もちろんこれは国内に限った話ではなく、古今東西の文学史の無数の局面で繰り返されてきた、単なる事実です。……こういう学生が文学研究に従事しているなどと堂々としているとは……人ごとではありますが、早稲田の文学部は、大丈夫なんでしょうか?
 まあ、今でこそ冷静に書いていますが、これを言われたときは完全にぶち切れていたので、発作的にアカウントを作成して反論し始めたという次第です(……しかし、そう考えたら、以前、私がアカウントを持っていないということで、同様のケースでこのブログを読んでいただいている方に伝言をお願いしたのは、申し訳なかったですね……)。


howardhoax @howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo 今まさにあなたにリンクを貼られた上で罵倒された者です。「文学を甘くみるな」とまで一方的に断定した以上、論理的な説明を求めてよろしいでしょうか。


ノムさんfeat.HBK ‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 「文学を甘く見るな」はあなたにではなく、もっと幅広い私が腹を立てているものに向かってのツイートです。明らかに誤解を招く配置をしてしまったので、その点謝罪します。その他の点においては、詳しい説明を致します。


 いきなり腰砕け(笑)。まあ、私に当てた具体論ではなく一般論だというのなら、「そんなものは批評でも哲学でも思想でもない」と「そんなもの」と指示しちゃってる対象はなんなんだっていう話ですけどねえ。……まあ、それは流しました。


howardhoax ‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo  それはまあ了解しました(納得はしませんが)。特に優先的に説明していただきたいのはヒュームについてです。(プラトンはそもそもドゥルーズ批判のためには言及していません。)ドゥルーズのヒューム論の問題構成だと対話篇の収まる位置がないのは…


howardhoax ‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo そもそもドゥルーズが議論嫌いだからなのではないか、と。ただこれだけの(論理的に著しくおかしいとも思えない)指摘が、「ナンセンス」とまで言われるのはどういうわけなのか、是非ご教示いただきたい。


 ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax まず公と私についてです。記事で批判なされている、ブロックばかりしていて、且つ批評家の呼称を取り下げた人物が誰を指すかはわかりませんが、私の知る限り東浩紀がその具体例として適切ですので、東浩紀を念頭においた上での批判です。


ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 公と私の最大の違いは、「責任」であると考えています。これは、責任の大きさは権力の大きさによって決まるというテーゼを念頭においているからです。確かにテロリストか否かを主観的に判断する国家と荒らしかそうでないかを主観的に判断する知識人は似ています。


 
私自身の、ドゥルーズのヒューム読解に対する意見を「ナンセンス」などと全否定するからそのことを聞いているのに、なぜかすきあらば東浩紀の話に変えようとしてくるので途中から軌道修正したため、そのあたりのやり取りは大幅に省略しますが、上記の引用部分は残しておきます(理由は後述)。
 それ以前の問題として、そもそも私はテロリストの問題と荒らしの問題は「同型」であると言っているのであって、「同じ」だなんて言っていない。だから、「似ている」と認めちゃった時点で、「ナンセンス」だと全否定した論旨は既に崩壊しているんですが……。
 それから、ドゥルーズに批判的に言及するためにプラトンを持ち出すなんてことは元の文章では一切やってないんですが、人がやってもいないことに「ナンセンス」とか言っておいて、それを指摘されると以後だんまりっていうのもね……。
 まあ、この後、こんなやり取りが続きます。


howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo あなたは、ドゥルーズのヒューム論に関する私の評を「ナンセンス」の一言で切り捨てたわけです。ですから、ドゥルーズが実生活でどうだったというような話ではなく、ドゥルーズのヒューム論のどのような部分が対話的なのかご教示いただきたいわけです。


howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo ヒューム研究の文脈では、複数の対話者の中でもヒューム自身の意見は誰のものなのかという議論が延々続けられました。つまり、あなたの言う意味での論争的な著作ではないわけです。そういう著作の検討を回避しているからこそ、ドゥルーズのヒューム論はモノローグ的だと言っています


 
……と、ここで、珍プレー炸裂!


ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax ヒューム論はモノローグ的でしょう。しかし経験論や超越論について語る『経験論と主体性』やガタリとの共著は対話的です。先に述べたように議論の拒否と対話的であることは両立します。ドゥルーズの議論嫌いとヒューム論のモノローグ性をつなげることには違和感を感じます。


howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo ちょっと待って下さい、ドゥルーズのヒューム論がモノローグ的なのに、ヒューム論である『経験論と主体性』が対話的、ですって? あなた、『経験論と主体性』を読んだ上で言っていますか? それと、共著が対話的なのは当たり前ですね。


howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo それから、あなたが全否定したから、こちらとしては論理的な説明を求めているわけですから、今さら違和感を持ったことなど改めて表明されても困ります。あなたの気分ではなく、ロジックを求めています、最初から。


howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo それと、超越論性を議論する哲学においては超越論性と超越性は厳密に区別するので、さきほどから使われている「経験論と超越論」という言葉の意味もよくわからないのですが…


 
ドゥルーズがヒュームについて論じた中でも最もまとまった著作が『経験論と主体性』なのに、そもそもそれがヒューム論だということすらわかっていなかったことが発覚!(笑)
 そして、これ以降も、なぜか『経験論と主体性』について自信満々でご高説をたれる学生さん……


ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 『経験論と主体性』は対話的ですよ。カントのヒューム批判を別の平面に定位し直して(論争を対話的に直して)論を組み立てているのですから。そしてガタリとの共同作業は、彼の哲学が論争を忌避しつつも対話的であることの証左です。つまり議論を避けていても対話は避けてない


 howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo ドゥルーズの「ヒューム論はモノローグ的」と認める人が、同時に、(ヒューム論である)『経験論と主体性』は対話的であるという、そのおかしさを問いただしているのに、それはスルーですか?


 ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax ヒューム読解はモノローグ的でしょう。しかし、同じ著作の本筋で対話的に論が組み立てられている、ということです。


 
く、苦しい……。だいたい、「本筋」ってなんなんだ……


 howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo そもそも『経験論と主体性』においてはヒューム読解しかなされていない(つまり、全てモノローグ)のに、本筋では「対話的」…? もう一度お聞きしますが、『経験論と主体性』を通読されているんですか?


 ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 第五章をお読みください。


 ……ん? どうも、何か臭うぞ……?
 自分が読んでもいない書物を読んだふりをして他人に説教をたれ、するとところどころぼろが出るから具体的説明を求めると、「これを読んでおけ」で誤魔化そうとする……
 福嶋だッ! 福嶋臭がするッ!


 howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo 「私の読解」を全否定した上でなされているのが「あなたの読解」なのです。「これこれこれを自分で読んでおけ」で説明をすませることが許されるとお思いですか?


 ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 先に述べたとおり、ドゥルーズのヒューム読解はカントのヒューム批判を定位し直している。つまり批判(論争)から別の平面への並置(対話)の移行が行われており、ヒュームの対話性を無視すると同時に対話的な論の組立もなされている、ということです。


 howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo ドゥルーズが対話的な読解をしているのから、一方でカントの読解が無条件にモノローグ的と前提されているのもおかしいですね。カントのヒューム読解とドゥルーズのヒューム読解の本質的な差とはなんなのでしょうか?


 
これ以降、こちらがテクストに即したことをいくら聞いても、機械仕掛けのように同じことしか答えなくなります……


ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 何時間も同じことを何度も書くことに疲れたので、ごくごく簡単に批判の内実を説明します(これも何度目か)。ドゥルーズの論争嫌い発言と彼のヒューム論のモノローグ性は関係がない。なぜなら共同作業や著作の論理などが対話的であることがあり、論争きらいであっても…


ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 対話嫌いとは言えない。優劣をきめ相手に納得させることが目的の論争と、互の意見を違う平面に定位し、優劣を決めることを「目的としない」対話は違う。ヒュームの対話性が無視されていても、違う水準で対話は行われている。以上です。


howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo 私が違うことを聞いているのに、あなたが延々同じことを書いてるんですが…。私はさっきから、ドゥルーズのヒューム論がカントのヒューム読解とどのように対話的であるのか、その具体的な説明を求めています。


howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo そもそも、なぜ、『経験論と主体性』を通読しているかはスルーし続けるんですか?


 
こんなやり取りをしていたら、ついに新しい用語が登場します。



ノムさんfeat.HBK ‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 既に答えています。超越論的経験論の話をしているのです。


howardhoax
‏@howardhoax  · 11月2日 
@nomuvo ドゥルーズは確かに超越論的経験論という言葉を用いていますが、ヒュームに対してはその用語を用いることはありませんでしたよね? 私の記憶違いでしょうか? それとも、やっぱりドゥルーズのヒューム論を読んでないんですか?


ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax 超越論的経験論は間違いなくカントとヒュームを別の平面に定位し、対話させることによって生まれていて、私はその話をしていました。そのことへの言及があったのが、経験論と主体性だったと記憶していたのですが、後ほど確認します。私の記憶違いでしたら…


ノムさんfeat.HBK
‏@nomuvo  · 11月2日 
@howardhoax この長々としたすれ違いの責任は私にありますので、どのテクストにあったのかを調べ直し提示します。ですが、私がヒュームとカントの対話だと言っているのは一貫して超越論的経験論のことで、一度わかるように示していますを


 
自分が他人の読解を全否定した書物を通読しているかどうかについて何度も聞かれたら、最終的に出てきた言葉が、「調べ直」すだとは……。
 そもそもねえ、ドゥルーズがヒュームを読み込む過程で「超越論的経験論」という着想を得たこと自体は確かなんですが、一方でヒューム自身の哲学に関しては「いかなる意味での超越論性もない」と明言している(これはまあ、ヒューム研究の文脈からしたらごくごく当たり前のこと)んですが……。
 で、いったいどんな証拠が「提示」されて私の論外のナンセンスぶりが明らかになり、この人の「責任」が果たされるのかと、楽しみにして待っておりました。
 ……が、どうせtwitterのアカウントを作ってしまったこともあるので、待っている間、暇つぶしに、思ったことをつぶやいてみました。


howardhoax
‏@howardhoax 
私がドゥルーズのヒューム論について述べた短い言葉にリンクを貼り、罵倒して全否定するという人物がいました。しかし実際にやり取りすると、ドゥルーズの『経験論と主体性』がヒューム論であることすら知らない。なのに、5章を読んでくださいとか言ってくるから、これはどうも妙だぞと。


howardhoax
‏@howardhoax   
で、手持ちのドゥルーズ関連の文献をひっくり返してみて、國分功一郎が『ドゥルーズの哲学原理』で超越論的経験論について述べているのと照らし合わせた時の衝撃たるやね……まさか、原典読まずにこれだけネタ本にしてるようなことはないよねと。


howardhoax
‏@howardhoax 
まあ、それはいくらなんでも邪推だと思います。対象が私ではないとしても、「文学を甘く見るな」とかのたまう人物が、自分が通読してないテキストの読解について、他人の解釈を鵜呑みにした上で罵倒するなんて、ありえないことですからねえ。


howardhoax
‏@howardhoax 
しかし、原典読まずにネタ本だけ参照してると仮定すると、何度聞いても同じことしか言わないことも腑に落ちちゃうんだよなあ。おっかしいなあ。


howardhoax
‏@howardhoax 
だいたい、「経験論と超越論」などというおかしな用語の使い方をしている時点で、専門家の國分さんの議論の要約としては間違ってるので、これは私の邪推ということで間違いないでしょう。


howardhoax
‏@howardhoax 
そもそも、私は國分さんの『ドゥルーズの哲学原理』は連載時から精読しているので、まさか今更その不正確な粗述を聞かされるようなことはないだろう。私の愚かなナンセンスぶりがどのように暴かれて学習できるのか、楽しみでしょうがないなあ。


howardhoax
‏@howardhoax 
そもそもの大前提として、最低でもヒュームの主著『人間本性論』とカントの『純粋理性批判』を精読していなければ、ドゥルーズの『経験論と主体性』のような専門書を読みこなせるはずもないわけで。


howardhoax
‏@howardhoax 
当然、それら全部を読み込んでいなければ、國分さんの『ドゥルーズの哲学原理』だって読み解けるはずがないわけですね。


 
……こんなことをつぶやきながら待っていたのですが、待てど暮らせど何の応答も無いままに時間が過ぎていきます。
 ついに、しびれを切らした私は、こちらからリプライを送ってみました。


howardhoax
‏@howardhoax 
@nomuvo あなたがご自分で「調べ直し提示」すると言われたのに、いくら待っても「提示」されないので、こちらから最後に質問します。さすがに、今日は長々とやり取りする気はありませんので、手短に何点か。


howardhoax
‏@howardhoax 
@nomuvo あなたの発言を改めて確認しても、『経験論と主体性』及びその研究対象たる『純粋理性批判』『人間本性論』などを通読した上でなされたものに思えません。私に対する全否定は、これらの参照先を通読した上でなされたものなのですか?


howardhoax
‏@howardhoax 
@nomuvo また、あなたの発言を確認してみて、國分功一郎のドゥルーズ論のほぼ受け売りしかないのでは、という疑念をいだきました。これは単なる邪推ですが、この疑念は正しいですか?


howardhoax
‏@howardhoax 
@nomuvo 仮に全ての必要な資料を通読した上でなされた批判であったのだとしたら、これ以上の説明はいりません。その批判にある程度の妥当性もあったのだろうと納得することにします。ただし、本当に読んでいるのか、証拠を確認することはさせていただきます。


howardhoax
‏@howardhoax 
@nomuvo 逆に、もし仮に、自分以外の存在に対して「文学を甘く見るな」などと宣言されたあなたの様な方が、自分が読んでいない書物の他人の解釈を全否定し罵倒したというのであれば……いったい、どのように落とし前をつけるお積もりなのか、是非教えていただきたい。


howardhoax
‏@howardhoax 
@nomuvo 以上、あなたに罵倒・全否定された私には、当然答えていただく権利があると考えております。くれぐれも申しますが、最早私が知りたいのは、あなたの全否定が、専門知識の裏打ちのある、妥当なものだったのかということだけです。基礎的な用語すら間違えた哲学議論はいりません。


 
……で、このあとどうなったのかと言いますと……


 逃げました。


 ……えーっ!? リョータじゃん!(笑)



 
このあと、何度こちらから応答を求めても、完全に無視して、全く何事もなかったのかのように、いっさい何も反応せず……
 いやいやいやいや、そもそもこの人、私に対して、「責任」とはどうたらこうたらとかお説教をたれようとしてましたよね? その上で、このやり取りに関しては自分に「責任」があるのだと認めてましたよね?
 その上で、自分の「責任」は全て放棄して、逃走するのみ!?
 ……つまり結論としては、この人は、他人に対しては「文学を甘くみるな」などと大上段に構えて宣言する一方で、自分自身は、通読すらしていない書物の他人の解釈を全否定する……そういう人物だった、と。
 結局、「ナンセンス」とか言ってたのも、「ボクがネタ本にしている國分さんのドゥルーズ本と言っていることが違う! ナンセンス!」ということだったわけですね。……しかし、そもそもあのエントリは、「國分功一郎のドゥルーズ観はこうこうこういうものだが、それだとこういう部分が見落とされないか?」という疑問からドゥルーズに言及していることが明言されているので、根本的に本末転倒ですな。……ていうか、それ以前に、あのエントリ書いたのは、『ドゥルーズの哲学原理』の連載が始まる前なんですけどね。でも、そこで書かれているドゥルーズ観と違うことを書いたらダメなんですね!
 それからこの学生、「論争と対話は違う! 相手を言い負かすような論争相手を排除する人が対話性を拒絶しているとは言えない!」という主旨のことを延々言ってたんですが……これにしても、「相手を言い負かそうとする邪まな意図だけを持って論争しか頭にない人」をどうやって明確に判断するの? っていう話ですよね。結局、それはどこまでいっても主観的・恣意的判断でしかないから問題だってことを、あのエントリでは最初から書いていたんですけどね。
 つまりこの学生の言っていることって、本末転倒なことばかりなわけで、要するにまともな読解能力がないということですね。なのになんでこんなに自意識過剰なんだろうね。


 しかしあれですな、やっぱり私ぁ、twitterは性に合わんなあと改めて思いました。
 なんとなくその場で思ったことがすぐさま形を持った言葉になってしまい、それがこうして残ってしまいますからねえ。
 で、twitterの外部に容易にリンクを張れて、それに対して好き勝手に物言いできる一方、twitterのアカウントを持っていない人間からは、システムの問題として、反論されてもほぼ目に入らないようにできている。そのため、自分が上の立場にあるかのように勘違いして、強者ぶった振る舞いが出来てしまう、と。……例えばこの人の場合、ひとたび反論されるや否や、こんなにもろくも崩れ去ってしまうのにねえ。
 注意深い人ならいいんでしょうが、軽率な人間に使わせたら、やっぱりtwitterってのはろくなもんじゃねえなあと思いました。
 ということで、今回は思わず衝動的にアカウントを作成してしまいましたが、既に削除してありますので、やっぱり私はtwitterはやりません!



 

twitter上でデマをばらまいてる奴、いい加減にしろ

 ちょっと、いい加減、さすがにキレている。

 twitter上でこのブログにリンクを貼った上で、こんなことを垂れ流している奴がいる(TokioSakuranoというIDの奴)。


90年代アメコミ邦訳ブームの悪い影響うけてフランク・ミラーやアラン・ムーアを変に神格化しちゃってる人か。こんなんが受けてんだなぁ RT @dokai3 前々からこのブログの知識の体系化を真似るのは無理だと思っていた<必要なのは情熱だけ。> htn.to/TRf9cd


@dokai3 この人のアメコミ知識、邦訳本と日本語情報サイト斜め読みした程度の知ったかだから読んでてこっちが恥ずかしくなるレベル。


@dokai3 そういう、知ったか知識でドヤ顔で語って知らない人が真に受けるって状況が一番嫌い。宇野常寛が嫌いなのも同じ理由。

 

 このブログを読んでくれている方はご存知の通り、こいつ、以前にも私に関するデマを垂れ流している。

 で、間違いを指摘する連絡を直接本人に入れようとしたんだけど、こいつ、twitter上にメールアドレスの類を一切公開していないため、twitterを使っていないと、こちらから直接反論したりするすべがない。

 そういう状況のまま、自分は外部のサイトにリンクを貼って、裏づけも取っていないデマを垂れ流しているんだから、何様だよと。

 こちらとしては、こいつの垂れ流していることがデマで迷惑だときちんとこのブログ上で論理的に反論したのに、やっぱり読んでなかったのか。自分は一方的に相手の悪口を自分の思い込みだけで言っておいて、何様だよと。


 こいつに対する反論と、それに関連するのは、以下の二つのエントリ。


 http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-56.html


 http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-58.html


 ここを読んでいる方でtwitterを使用されている方、お手数ですが、このTokioSakuranoという、一方的にデマをばらまいている奴に対して、ここに反論があることだけお伝えしていただけないでしょうか(さすがに、そのことだけのためにtwitterに登録する気にはなれないので)。


 TokioSakuranoに告ぐ。該当エントリを読み、自分がデマを垂れ流していることに気づいたら、速やかに謝罪せよ。


 付記(9月25日)


 twitter上で、kisuzuhiroさんとtiroryuさんにご協力いただくことができました。ありがとうございました!


 しかし、あらためて思うんだが、こいつってたぶん、映画『ダークナイト』に関するエントリしか読んでないんだよね。あれは映画評がメインのエントリなんだから、原作を参照して言及する際にも、そんなに細々としたことまで触れるはずがない。で、邦訳も出てるような有名作しか言及が無いからって私が邦訳しか読んでないと思うとかって、どんだけ頭悪いんだよ。

 それにしてもこいつの書きぶりからすると、コミックの英語を読んでることが特別みたいに思ってる感じが漂ってくるよなあ。自分がちょこちょこ原書を読んでたら、他人を「邦訳しか読んでない!」とか決めつけだすというあたりがね。

 別に、コミックの英語なんて、高校生の英語力で読める(と言うか、私自身が高校生の時から読んでた)。はっきりいって、コミック読むのに必要な英語力なんて、専門的な学術書を読み込んだり、ニューヨークタイムズやタイムを読むのに必要な英語力に比べたら、全くもってハードルが低いものだ。

 今までこのブログで自分の英語力をひけらかすようなことは、こいつに反論するエントリを除いては全く書いてこなかったけど、はっきり書いといたほうがいいのかね。TOEICで975点の人間つかまえて、「邦訳本と日本語サイトしか読んでない!」とか決め付けるのって、どーいうことよ。

 これももう一度書いておくけど、こいつのtwitterを調べたら、DCコミックスで5年位前に起きたことを知ってたら絶対に書かないようなことを書いてるのを、既に見つけてるからね。


@dokai3 そういう、知ったか知識でドヤ顔で語って知らない人が真に受けるって状況が一番嫌い。宇野常寛が嫌いなのも同じ理由。


 これって、おれのことなわけ? 自分のことなんじゃねーの? 知ったかでにわかなのは。


 現時点の段階では、こいつ、この件に関してはだんまりを決め込んでるみたいだけどさ。まさか、特定個人に対する完全なデマをまきちらしておいて、謝罪や自分のtwitter上での訂正もなしで、ごまかしてすませるつもりじゃねえよな。マジでふざけんな。



なぜ私はtwitterをやらないのか(+バットマン四方山話)

 え~、前のエントリでも書いたことですが、『ダークナイト』が地上波放映されて以来というもの、だいぶ昔に書いたエントリへのアクセスが急増しています。で、そこでの反応の中にはしょうもないものがかなりあって、正直めんどくせえなと思っているのですが。

 そんな中に、私に関する無根拠な思いこみからデマを流しているようなものもあって、これはきちんと訂正しておいた方がいいなと思って新たにエントリを立てました。で、デマを流す当事者がなんでそんなことを考える風に至ったのかということを考えてみるにつけ、そういう人物は「自分の思いつき=仮説」と「裏付けのある知識=確実な情報」の区別がついていないよなあ、と。

 そういう人物がtwitterを始めたりすると、ただの主観的な思いこみを垂れ流し続け、結果として他人に関するデマを平気で拡散させるんだなあということを実感しました。そこで、そういう人物をサンプルとして取り上げつつ、私に関して言われているデマの間違いも同時に説明しようという次第。


 twitter上で特にデタラメな発言をしているのはTokioSakuranoとかいう人物なのですが、このブログ内の、映画『ダークナイト』に関するエントリにリンクを貼りつつ、こんなことを書いています。


またアメコミを誤解してる人のレビューかRT @izumino このジョーカーがあんな腑抜けのバットマンを宿敵として評価するわけがないようにも思える。ここはちょっと分かる気がする/自らの作品をダークナイトなどと称する愚かな思い上がりについて


レギュラーシリーズのバットマンもろくに読んでない人がダークナイト・リターンズを過大評価してるのを見るのはもうウンザリだよー。


 ? 何言ってんだこいつ。

 まず大前提として、私はあのエントリでフランク・ミラーによる『ダークナイト・リターンズ』と『イヤー・ワン』の二作に言及しました。そして、『ダークナイト・リターンズ』は確かに外伝的な位置づけで、バットマンのレギュラー・シリーズでの正史に組み込まれたことはありません。しかし、そもそも『イヤー・ワン』は、発表の場からしてバットマンのレギュラー・シリーズなんですが。

 つまりこの時点で、私がバットマンのレギュラー・シリーズを読んでいない、という指摘は既に崩壊しているわけです。

 さらに言うと、『イヤー・ワン』は正史に組み込まれているため、つい最近のバットマン作品でも回想シーンで言及されています。例えばグラント・モリスンの『リターン・オヴ・ブルース・ウェイン』では、過去に起きたこととして、もろに『イヤー・ワン』の引用があるんですが。

 それから、昨年9月にDCコミックスは作品設定を一挙に刷新しましたが、それ以降に書かれたスコット・スナイダーの『バットマン』誌にも『イヤー・ワン』の引用があります。なのでリランチ後も依然として『イヤー・ワン』は正史に組み込まれているようですね(もっとも、リランチ後のバットマンの設定がきっちり確定されるのは、もうすぐ発売されるジェフ・ジョンズの『バットマン:アース1』でのことになるはずなので、それまで確かなことは言えないのですが)。

 さて、私がバットマンのレギュラー・シリーズを読んでいるということを確認した上で、このTokioSakuranoとかいう人物の発言のおかしさをさらに検証しましょう。

 この人物は、私のブログ内のあるエントリを一つ読んだ上で、そこでは言及されていない「バットマンのレギュラー・シリーズ」に関して、私が読んでいない、と断定しています(まあこの際、『イヤー・ワン』は例外としておきましょう)。

 もちろん、私のブログ内のある一つのエントリを読んで、それに対する批判や不満を述べるのは各自の自由です。しかし、そのエントリでは述べられてもいないことに関して、私に知識があるかどうかなどということを、たかがエントリ一つ読んだ程度で判定することなどできないでしょう。

 もともと私はあのエントリを書いた際、アメコミに関する知識があまりない人に読まれることの方が圧倒的に多いだろうと考えていたので、邦訳も出ているような超有名バットマン作品にしか言及しませんでした。ところがこの人物は、あのエントリを読んだ結果、未邦訳の作品に関する言及がないことから、私がレギュラー・シリーズを読んでいないと考えた。

 さて、ここに問題があります。私がレギュラー・シリーズを読んでいないと考える。これはこの段階では、あくまで仮説です。あのエントリ内には何も言及がないのだから、その仮説は検証できない。

 ところがこの段階で、この人物は「レギュラー・シリーズをろくに読んでいない」などと断定してしまった。

 しかし、このブログには他にもアメコミに関するエントリがいくつもあるので、私が未邦訳のレギュラー・シリーズを読んでいるかどうか、ということに関する裏付けの検証は簡単にできるわけです。

 ではなぜこの人物は簡単にできる仮説の検証すらしなかったのかと言えば、おそらくは、そんなことをする必要性すら感じていなかったからでしょう。結果として、なんら裏付けがなされていない自分の思いこみを、twitter上で不特定多数に向けて垂れ流した。一個人に対するデマを拡散した。

 しかし、自分の仮説が適切かどうかを検証する必要最低限の手間をかけていれば、自分の間違いにすぐに気づいたはずなのです。だって、このブログの他のエントリを読めば、私が普段からアメコミのレギュラー・シリーズを読んでいるのはすぐにわかることなのですから。

 あとはまあ、映画『ダークナイト』でのダークナイト―ホワイトナイトという対立軸に否定的な私を批判するなら、単に「読んでない」と言い張るだけじゃなくて、以前コミックに登場したホワイトランタン・バットマンを持ち出すくらいのことをしたら、まだしも芸があるとも思えるんですが。


 さて、その後のことです。私は、件のエントリに関して、小田切博さんとやり取りするエントリをアップしました。

 すると、例のTokioSakuranoとかいう人物は、新しいエントリにリンクを貼った上で、今度はこんなことを書き始めました。


この人が典型的だけど、90年代アメコミブームの時に邦訳されたコミックスと情報「だけ」で身につけた、歪んだアメコミ観のまま止まってる人って結構多そうだよなぁ。そのくせ自分はマニアだと勘違いしてんの。


 なんなんだよこいつ! 後出しで立場変えてるよ!

 ……よく読むと、この人物の言っていることが事後的に少しすり替わっていることにお気づきでしょうか。

 新しいエントリでは、私は、『ゴッサム・セントラル』という未邦訳のバットマン作品に言及しました。もちろんそのことを知れば、私がバットマンのレギュラー・シリーズを読んでいない、という断定のおかしさには誰でも気づくでしょう。

 するとこの人物は、私が「読んでいない」のではなくて、90年代に「邦訳だけ」で得た知識に基づく偏見で歪んでおり、「止まってる」、ということに立場を変えたのです。

 つーか、そもそも自分が他人に対して勘違いからデマを流していたことに気づいたんなら、まず先に訂正しろよ! と思うのは私だけでしょうか。この人物の場合、自分の以前の発言のおかしさには何も触れないまま、後出しで以前とは違う立場から私に対する非難を続けました。なんとも浅ましく卑怯な話だと思います。

 と言うか、勝手に他人に知識がないと思いこんでおいて、その無根拠な前提の上に、自分がマニアだと勘違いしている、などというさらに無根拠な決めつけを積み上げられる精神がどんなものなのか、私にはまるで見当がつきません。

 まあそれはともかく、すり替えられた後出しの発言は適切なのでしょうか。この人物はいかにも訳知り顔に語っていますが、90年代のアメコミ邦訳の事情を知っている人は、この発言のおかしさに気づくと思います。だって、90年代にはDC社のコミックは圧倒的少数しか邦訳されなかったので、邦訳だけ読んでDC派になる人なんてほとんどいなかったはずなのです。

 このことは既に他のエントリで書きましたが、私がDC社のコミックにのめりこんでいったのは、90年代のアメコミ邦訳が退潮してからです。いざ原書オンリーでしか読めなくなってみたら、マーヴルよりDCの方が面白く感じることが多くなっていたからです。

 つーか、めんどくさいから私の状況をここにまとめて書いておきましょう。私が最初にDCの原書に手を出したのは、ハードカヴァーの単行本として『ロング・ハロウィーン』がまとまった直後のことです。これを読んでみたら面白かったので、それまでマーヴルのものしか原書で読んでいなかったのが、どんどんDCも読むようになっていったのです。

 学生時代は金がないのでTPB待ちでさらにピンポイントに絞ったりしていましたが、その後もず~っとアメコミを読み続けています。私は基本DC派なので、マーヴルは昔の作品だけ読んでオンゴーイングのものは全く読まないような時期もあったりしましたが。

 現在では、オンゴーイングのコミックブックで購読するのはだいたい月に15誌くらい(まあこの数は、ほんとにコアな人に比べたらマニアでもなんでもないですね。資金と時間から自分に制限をかけているわけですから)。バットマンフランチャイズは多すぎるので『バットマン』『バットマン・インコーポレイティッド』の2誌しか購読しておらず、後は単行本待ち。

 また、『バックイシュー』『アルターエゴ』のような情報誌も毎号購入しています。もっともこれらの場合は、毎号すぐに読むわけではなくて、資料として取っておいて、調べ物をしているときに興味のある記事が出てきたら読むような感じですが。

 それから、以前小田切博さんが紹介していたような、『Comic Book Nation』とか『Seal of Approval』のようなアカデミックなアメコミ研究書もこれまで読んできました。

 レギュラー・シリーズを読んでない、情報源が邦訳だけということを強調しているのは、要するに私に英語力がないと言いたいのかもしれない(と言うか、そう思いたい?)ので、比較的わかりやすい指標で私の英語力も公開してしまうと、何ヶ月か前に受験したTOEICというテストのスコアは975と出ていました(リスニング満点、リーディング480点)。

 私の現在の英語力だと、コミックブック1冊を読むのにだいたい10~15分くらい。まあ昔の作品だと文字が多いのでもうちょいかかりますが。こんな感じなのでほぼ毎日コミックブックだと2~3冊、もしくは単行本で同じ分量くらい読んでいるという感じでしょうか。新刊の発売日とかだとまとめて10冊ぶんくらい読むこともありますが。

 ……ということで改めてこのTokioSakuranoという人物に聞きたいのですが、私のどのへんがレギュラー・シリーズを読んでなくて、邦訳から得た知識のまま止まってるんでしょうか?


 まあ私自身のことは置いといて、バットマンのことについてもう少し掘り下げてみましょう。

 割と最近いろいろなところで耳にするのが、フランク・ミラーのバットマンを強調する人間はにわかだとか、バットマンの普通の姿がわかっていない、などというものです。

 正直、これは私にはよくわかりません。私の主観的な評価としては、例えばバットマンのライターならフランク・ミラーが、Xメンのライターならクリス・クレアモントが、スパイダーマンのライターならスタン・リーが、それぞれオールタイムでのベストだと思っています。

 で、これは別にアメリカ国内での現在のファンの標準的な意見ともあまり変わらないと思います。現在のファンによるオールタイムベストとか最も印象に残ったシーンとかの投票があった場合、たいていミラー版バットマンは今でも上位に食い込んで、バットマン関連の中だけで見たら不動の一位だったりすることがよくあるわけです。

 確かに、『ブラック&ホワイト』みたいな各作家が好き勝手にできるアンソロジーとか、カートゥーン版まで含めて考えれば、実に多種多様なバットマン像があるでしょう。

 しかし、『ディテクティヴ・コミックス』と『バットマン』というバットマンの最も中心的なレギュラー・シリーズで描かれてきたバットマン像は、あるいはジャスティスリーグや各種クロスオーヴァーにDCの看板キャラとして登場するバットマン像は、フランク・ミラー以降、その影響を受けまくりだと思うんですが。

 例えばミラー版バットマンの前夜、『クライシス・オン・インフィニトゥ・アース』においては、宇宙滅亡の危機に瀕して、「とりあえず僕らにできることは今はないよ」などとロビンに言いつつ呆然としているバットマンの姿がありました。ところが二十年近く後の続編『インフィニトゥ・クライシス』においては、バットマンが他のヒーローに対する疑心暗鬼に取り付かれた結果、各ヒーローの正体やら弱点やらをかき集めたデータベースを独断で構築し、それが流出したことが巨大な危機の一因となりました。

 つまり、DCの看板クロスオーヴァーにおける最もスタンダードなバットマン像ですら、その二十年の間に劇的に変化したということです。

 私の印象としては、現在のスタンダードなバットマン像の形成の大きな要因となっているのは、『ダークナイト・リターンズ』と『ナイトフォール』だと思っています。『ダークナイト・リターンズ』において「核戦争の勃発」とか「スーパーマンとの衝突」といった事態すら事前に完璧に想定して準備してあるバットマン像、それから『ナイトフォール』では完璧な事前準備とバットマン対策をしてきたベインに戦闘力よりむしろ知恵比べで負けたこと、この二つが組み合わさった結果、「あらゆる事態を完璧に想定しつつ、時にダーティな手段も辞さずに断固として結果を求めるバットマン」という姿が確立したのではないでしょうか。

 しかし、巨大イヴェントとかにはあまり関係ない普段の展開においては、ある時期から増殖し始めたバットマンフランチャイズタイトル、要するにバットマンの周囲に集まった疑似ファミリーたちとの人間関係が大きな軸になってはいます。しかしこれも考えようによっては、トゲトゲしくて近づきづらい孤独な人間としてのバットマン像が確立したからこそ、周囲の人間たちとの関係がドラマとして成立する、とも言えるのではないでしょうか。バットマンったら他のヒーローに対してはファーストネームで呼ばずにファミリーネームで押し通すこともかなりあるのに、ゴッサムに戻って周りにファミリーがいるときは、割と気安くファーストネームで呼びかけるよなあ、とか。バットマンが引きこもりがちな性格じゃなかったら、今のようなアルフレッドやティムの魅力はないよなあ、とか。

 ……とまあ、おおよそ以上のようなことを考えつつ、私は90年代以降のバットマンのレギュラー・シリーズにはフランク・ミラーの影響が色濃く残っていると思うのですが……これって、邦訳からしか情報を得ていない者の歪みなんですかねえ?(つーか、上での言及ってほとんど未邦訳のものばっかり参照してるんだが……)

 また、フランク・ミラーとジム・リーが組んで仕事します、というだけの『オールスター・バットマン&ロビン』が大ヒットし、あれだけ伏線を練りに練りまくってDCの総力を結集させた『インフィニティ・クライシス』でようやっと売り上げが同じくらい、ということからも、現在のアメリカ国内のファンにも大きな影響力が残っていることがわかると思うのですが。また、これも以前に別のエントリで書きましたが、私はミラーの作品でも『シン・シティ』後半とか『オールスター・バットマン&ロビン』とか『ホーリー・テラー』とかは全く評価しておらず、昔の名前でヒットしちゃうことをむしろ苦々しい気持ちで見てるんですが。……歪んでますか? 止まったままですか?


 もう一人、別の人物についても書いておきましょう。y_yoshihideという人物が、最近しばしば私のアメコミ関連のエントリにリンクを貼った上でtweetしているのですが。

 勝手に内容を誤読した上で見当はずれなコメントを書いてるなあ、とか思っていたのですが……まあ、もうめんどくさくなってきたので、そういったコメントの内容面についてはとりあえずほっておきます。

 ただ、中には看過できないtweetもあります。例えば、私が昔書いたエントリが今さらアクセス数が急増したのを受けて、荒れているコメント欄にリンクを貼った上で、こんなことをtweetしています。


アーカム・アサイラムはあなたをお待ちしています! / “自らの作品を『ダークナイト』などと称する愚かな思い上がりについて - The Red Diptych”


 これは完全にアウト。アーカム・アサイラムというのは要するにバットマンの作中に登場する精神病院のことです。ということはつまり、この人物はあるブログをやっている特定個人に対して名指しで「精神病院にようこそ!」「あなたは精神病院入りですよ」という意味のことを書いて、不特定多数に垂れ流しているわけです。

 民主的な法治国家において、これは完全に一線を踏み越えてしまっているということがわからないのでしょうか。結局、自分の考えに裏付けがあるのかないのか、自分がやろうとしていることが合法なのか非合法なのか、という判断を、何かを公表する前に働かせる習慣のない人がtwitterなんかをやると、このようにして害悪をまき散らすというサンプルでしょう、これは。というか、そういう判断が普段は働いている人でさえ、ちょっとでも気を抜いたら迂闊なことをしかねないんだから、便利な反面、やっぱりtwitterは怖いなあと思いました。

 このy_yoshihideという人物のtweetに関して、現段階ではめんどくさいからどうこうする気はないですが、今後のことと次第によっては、法的措置も辞さないですよ、私は。


 私自身は、映画やコミックも日々享受していますが。このような間口の広いジャンルに言及していると、しょうもないことしか言わない人がわんさかやってくるので、なんだかめんどくさくなってきました。

 もういっそのこと、当分の間はブログ上では文学とか哲学とかのことだけしか書かないようにしようかなあ……


後記 このエントリを書いた、その後のことです。この、TokioSakuranoとかいう人物は、私のことをにわか扱いするくらいなのだから、さぞかしアメコミに詳しく、「正当な(=歪んでいない)」知識を持っているのだろうなあと思いました。

 そこで、この人物のtwitterのタイムラインを遡ってチェックしてみたのですが……とんでもないtweetを発見してしまいました。


ついでに。ブースターゴールドというヒーローもコスチュームに企業ロゴ入れてた時期があったそうです(未見なので詳細不明)。ブルービートルと二人組で活躍もしてたんで、タイガー&バニーの元ネタといえるかもしれません。制作者が読んでたかどうかはわからないですけど。


 ……うわ、なに言ってんだコイツ! 本気でこんなこと言ってるのか? 馬脚が露呈したとはまさにこのことだな。

 私自身、別にブースター・ゴールドの特別なファンでもなく、その動向を逐一チェックしているわけでもありません。が、そんな私でさえ、この件については知っています。

 と言うか、DCコミックスのレギュラー・シリーズを継続して読んでいる人間であれば、『52』でのこの件について知らないはずがないんです。

 DCコミックスのレギュラー・シリーズは、巨大クロスオーヴァー『インフィニトゥ・クライシス』において、すべての基本設定が再構築されました。そしてそれを受けて、DCユニヴァース内の全てのレギュラー・シリーズにおいて、『ワン・イヤー・レイター』という共通する展開がスタートしました。

 これは、『インフィニトゥ・クライシス』の事件が集結した後、全てのレギュラー・シリーズの時間軸が一年後に飛ばされて語られる、という展開でした。

 そして、その空白の1年の間に何が起きていたのかを事後的に語るのが、『52』というシリーズだったわけです。つまり、DCコミックスのレギュラー・シリーズの内のどの作品を読んでいようと、多かれ少なかれ関わりが出てくるという意味で、レギュラー・シリーズの中心にあったのが『52』だったわけです。

 で、『インフィニトゥ・クライシス』の後、スーパーマンとバットマンとワンダーウーマンがいったんヒーロー活動を停止することになった。そして、この3人が不在の状況で、一気に名を売りまくり、全身にべたべたスポンサーの広告を貼りまくっていたのがブースター・ゴールドだった、というのが、まさに『52』の最初のエピソードだったわけです。

 ブースター・ゴールドに詳しい人間からすれば、もしかしたら同じような展開はこれ以前にもあったのかもしれません。が、少なくとも『52』でのこの展開は、DCコミックスのレギュラー・シリーズを読んでいさえすれば、誰でも知っていたはずのことなんです。『52』が長すぎるのでスルーしていた人であっても(というか、私自身単行本待ちでしたが)、広告をべたべた貼り付けた状態でご機嫌のブースター・ゴールドを描いたカヴァー・アートは色々なところに出回っていましたから、必ず見ていたはずなんです。

 ところが、この人物はこんなことを言っているわけです。


ついでに。ブースターゴールドというヒーローもコスチュームに企業ロゴ入れてた時期があったそうです(未見なので詳細不明)。ブルービートルと二人組で活躍もしてたんで、タイガー&バニーの元ネタといえるかもしれません。制作者が読んでたかどうかはわからないですけど。


 ……なんだよ、コイツ、超にわかじゃん! たかだか5年くらい前の時点で、DCコミックスのレギュラー・シリーズを読んでた人間なら誰でも知っていたはずのことすら知らないとか……

 DCコミックスにおいては、昨年のリランチによって全ての設定が完全に一新されたとは言え、その直前までの設定は、『インフィニトゥ・クライシス』→『52』→『ワン・イヤー・レイター』の展開によって基礎づけられました。

 このあたりの展開を知らなければ、DCコミックスの現状についてはわからないわけです。にもかかわらず、こんなDCユニヴァースのイロハすら知らないような人間が、他人のアメコミ観が「歪んでいる」だの、「誤解している」だの、さらには「レギュラー・シリーズをろくに読んでいない」だの、「邦訳からの情報「だけ」」などと決めつけていたわけです。

 上に引用したtweetを読んでわかりましたが、「レギュラー・シリーズをろくに読んでいない」のは、この、にわか仕込みの知識で事情通ぶっている、TokioSakuranoとかいう奴の方です。

 そして、DCユニヴァースについてのこんな知識すらないような人間には、そもそも他人のアメコミ観が歪んでいるのか歪んでいないのかを判定することなどできません。だって、基準となる情報をそもそも持ってすらいないんですから。

 一応念を押しておきますが、DCコミックスのレギュラー・シリーズは、はっきり言って設定がどんどん複雑になってしまっており、一見さんには入りづらいものになってしまっていました。だからこそ、昨年基本設定の全てが一新されたわけです。そういう事情があるのだから、リランチ後にDCコミックスを読み始めた人が、そこでの設定だけを元に、面白いかつまらないかを云々するのは、当然アリです。

 が、このTokioSakuranoとかいうにわかのように、自分がちょろちょろ読んで得た知識をもとに、他人を罵倒し、自分の知識がないゆえに勘違いしてしまったゆえに思いついた、一個人に関するデマを垂れ流すなどというのは、到底許されることではないでしょう。

 それにしても、こんなことすら知らないような奴が、私をにわか扱いしていたとは……(絶句)


さらに追記 本文で書いたことで一つだけ訂正。ジェフ・ジョンズの『バットマン:アース1』って、コンティニュイティ外なんですね……これは完全に自分が勘違いしていました。

 するとやっぱり、リランチ後もオリジンは『イヤー・ワン』なのかな。漫然とコミック自体を読んでいるだけで、設定を調べることはしていませんでした。これはきちんと調べておかないと。

 『スーパーマン:アース1』を完全にスルーしていた上にレヴューの類もいっさい読んでいなかったので、勘違いしていました。これには反省。



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