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果たしてバットマンは結婚できるのか問題

 先日、「バットマン」誌の最新の24号を読もうとするその直前に、英語でアメコミ関連のサイトを見ていたら、「バットマン、遂に結婚!」などと書かれており、寝耳に水だった私としては「はあ~っ!?」とひっくりかえる、ということがありました。
 ……まあ、その後実際に24号を読んでみたら、そこで展開されているのは、バットマンがキャットウーマンに求婚した、というまでのところであり……なおかつ、これまでの「バットマン」誌の展開をきちんと追ってきた読者からしてみれば、実はそれはめでたいことでもなんでもないことだったんですな。
こういうのも今に始まったことではありませんが……それにしても、バットマンのキャットウーマンへの求婚が'finally'って、なんでこんな単語が出てくるんだ……。24号に至るまでの「バットマン」誌でブルースとセリーナの関係が徐々に親密さを増すような展開が丹念に描かれてきたら'finally'って表現も正しいのだろうけれども、実際にはそんなことは全くない(……それにしても、'finally'という単語を聞いてまっさきに思い出すのがロック様のマイクアピールである私のような者が、こういうダメ出しをするのもどうかとは思うのですが……)。
 もちろん「バットマン」誌でブルースとセリーナの関係が描かれることはあったけれども、それはむしろ、両者のこれまでの微妙な関係がそのまま引き継がれてきているようなものであったわけです。
 そして、それより以前の問題として、そもそも私が驚いたのは、よりによってトム・キングのライティングで「バットマンが結婚する」などという展開は絶対にありえないことだと思えたからです。私としては、バットマンとはいかなる存在なのか、その本質はなんなのかということを長年に渡ってず~っと考え続けてきた結果、様々な時代に様々な形態を取ったバットマンというキャラクターの定義ともいえるものに、一応の結論としてたどり着いた、ということがあります。で、なぜそう言えるのかはものすご~く長くなるからここでは書きませんが、「バットマンが結婚することは決してない」「バットマンは幸福な家庭生活から遁走し続ける」という結論が導かれてくるのです。
 そして、私が結論として到達したバットマンの定義からすると、これまでのところ、一分の隙もなくキャラクター解釈が完全に一致しているという唯一無二のライターが現行の「バットマン」誌を担当するトム・キングであるのです。
 もちろん、そんなトム・キングが本当にバットマンを結婚させようとしているのならば、単に私が根本的に勘違いしていたというだけのことなのですが……少なくとも、「バットマンの求婚」という出来事は、これまでの「バットマン」誌の展開からすると、平穏で幸福な家庭生活にたどり着くことが見越されるような形で出てきたことではありません。では、なぜ、このような出来事が起きたのか。……実はこれは、明確に、『バットマン/フラッシュ:ザ・ボタン』の余波として起きたことなのです。


 「バットマン」誌と「フラッシュ」誌の双方の21号と22号にまたがる形で連載されたクロスオーヴァー『バットマン/フラッシュ:ザ・ボタン』では、『DCユニヴァース:リバース』の続きが語られています。
 バットマンとフラッシュがその真相を求める謎のボタン(……このボタンがどんなボタンなのかは、『DCユニヴァース・リバース』の邦訳がもうすぐ出るということは、書かない方がいいんすかね……)、これを追い、二人は時空を超えた旅に出ます。
 その渦中で二人が遭遇したのは、『フラッシュポイント』の世界で強盗に射殺されたブルースに変わってバットマンとなった、トマス・ウェインであるのでした。実は、ブルースがトマスと遭遇するということ自体が、『DCユニヴァース:リバース』および『ボタン』の真の黒幕がブルースを精神的に弱らせるために仕組んだことであるらしいのですが、もちろん、この遭遇自体は、「バットマン」誌の展開の方にも大きな影響を及ぼすことになります。
 というのも、ブルースとの別れ際に、トマスは次のように言ったからです。


  You're the greatest gift this life has ever given me. And there is more I should have shared in that letter, so listen to me...
  お前は、この人生が私に与えてくれた最も素晴らしい贈り物だ。そして、私にはあの手紙に加えておくべきだったことがある、だから聞いてくれ……



  Don't be Batman.
  バットマンになるな。



  Find happiness. Please. You don't have to do this. Don't do it for me. Don't do it for your mother.
  幸福を見つけろ。頼む。おまえはこんなことをする必要はない。私のためにこんなことをするな。母さんのためにもこんなことをするな。



  Be a father for your son in a way I never could be for you.
  お前の息子のために父親になれ、私がお前にはしてやれなかったような。



  Let the Batman die with me.
  バットマンは、私とともに死なせるのだ。



 トマスの願いは、バットマンという存在を自らとともに葬り、ブルースをそこから解放することにある……。実は、『ボタン』の終盤、一通り事件が終結した後でゴッサムに戻ったブルースは、夜空に灯るバットシグナルを見てもそれに合わせて出動するのをためらう姿が描かれていました。
 また、問題の24号においても、自分の生活を好きでいられるのかをゴッサム・ガールに尋ねられるてこんな風に答えています。


  I'm not Batman because I like being Batman.
  私がバットマンであるのは、バットマンであることが好きだからではない。


  I'm Batman because I'm Batman.
  私がバットマンであるのは、私がバットマンだからだ。



 ……しかし、すぐさま、こんな風に問い返されてしまうのです。


  What about your family? Before Alfred. Your parents.
  あなたの家族はどうなの? アルフレッド以前。ご両親のことよ。



  Would they have wanted you to be this?
  ご両親なら、あなたがこうなることを望んだかしら?



  To be Batman?
  バットマンになることを?



 ……と、いうような展開を経た上で、「ブルースのセリーナへの求婚」という出来事が発生するわけです。……だからね、やっぱり……全然めでたくなんかないじゃーん!


 改めて確認しますが、今回、ブルースがセリーナが求婚するに至った次第は以上のようなことであるため、かつてクラークがロイスに求婚するに至ったときのこととはまるで意味が異なります。ブルースがセリーナとの関係を徐々に親密なものにして幸福へと向かう道のりを歩んでいるのでは全くなく、かつてないほどにメンタル面が弱っている状況で、バットマンであることの宿命から逃れるために出てきたのが、セリーナに結婚を求める言葉だったのです。
 そして、今回の件でさらに巧妙なのは、ブルースとセリーナの間には決定的に乗り越えがたい断層があることが、既に示されていることです。実はそれは、『ボタン』の以前から伏線としてしこまれていたことなんですが……ここでそれをもってくるのか~! といいますかね。
 現行のブルースとセリーナは、自分たちが最初に出会った出来事について、異なる記憶を持っています。ブルースの記憶がオリジナルの両者の遭遇であるのに対して、セリーナの方は、ポストクライシスのバットマンのオリジンたる『イヤーワン』の記憶なんですな。
 そのため、ブルースが最初の事件にまつわる宝石を婚約指輪として出してきても、セリーナ的には「何ソレ?」という、割とヒドいすれ違いが起きてしまっているのです。そして、この求婚にまつわる出来事が『ボタン』と強く結びついて語られてもいる以上、ブルースとセリーナの間に存在する深い断層は「リバース」全体の核心部分と結びついていることは、ほぼ確定でしう。
 ……っちゅーわけなので、「バットマン」誌をちゃんと継続して読んでいる読者には、これはめでたいことでもなんでもないし、そもそもこの求婚が受け入れられるかどうかすらわからないということは明白なんですが……
 いずれにせよはっきりしているのは、少なくともバットマンが今までと同じ存在である限りは、結婚などできるはずもないということです。特にトム・キングのライティングによる最初のアークでは、無実の人間を救うためならば、日々果てしなく続く闘いの渦中でいつでもバットマンは自らの命を捨てる覚悟ができているということだったのですから、特権的な一人の配偶者を持つことなどできるはずもありません。
 言い換えれば、「果たしてバットマンは結婚することができるのか」ということは、単純なように見えながら、バットマンというキャラクターの根幹に関わる問題であるわけです。そういう意味では、少なくとも、「ブルースとセリーナの間にあるdcユニヴァースそのものの亀裂が解消される」「バットマンが、明確にこれまでとは異なる存在になる」という二点がクリアされないとこの結婚はありえないはずなので、成就するのだとしても『ドゥームズデイ・クロック』のあとになるんではないでしょうか。


 ……最近の「バットマン」誌の展開を読みながら、以上のようなことを考えていたのですが……それを踏まえて改めて『ボタン』を読み返してみると、非常に周到に仕込まれた伏線が至るところにあるのがわかってきたのです。
 特に、最初に読んだ段階では何が起きているのか全くわかっていなかったことに気づいてしまったのが、『ボタン』のエピローグです。これを読むと、バットマンのみならずスーパーマンにも、同じようにそのキャラクターの本質を根幹から揺るがすようなことがふりかかるっぽいことが予告されていることがわかるんですが、それだけではなく……実は、最後に引用されている言葉を読むと、これら全ては「スーパーマンとバットマンを滅ぼすための用意周到な陰謀」ではないんじゃないかと。つまり、スーパーマンとバットマンを根本的な部分から破滅させることが、むしろ、両者にその本質を再生させるための試練として用意されているのではないか。『DCユニヴァース:リバース』を読んで以来、私を含め多くの読者は、ジェフ・ジョンズがあの人に喧嘩を売ったものとばかり思ってきたけれども、実は違ったのではなかろうか。むしろ、あの人の存在とその影響こそが、王道ヒーローが王道ヒーローとして存在しうるための試練であるということなんじゃないかと。確かにその影響は「毒」と言えるのかもしれないが、しかし、その「毒」によって「目を見開かされる」こともあるという……(だいたい、よくよく考えてみたら、スーパーマンを支持する者は、あの人を単純に否定することは絶対にできないわけで……)。
 「リバース」全体の真の黒幕であるだろうあのキャラクターが、単に世界の破滅をもくろむ巨悪であるかのように描かれてしまうことに違和感を感じてはいたのですが、しかし、それはこちらの読解が甘かっただけなのではないか、と。あのキャラクターは単なる悪などではなく、スーパーマンとバットマンの破滅を望んでいるのでもなく……スーパーマンとバットマンという、アメコミヒーローの原型とすら言える二人が、その本質を根幹から揺るがされたときにそれでもなお立ち直りうるのか、その真の強さはどの程度のものであるのかを明らかにすることができるような状況を生み出してはいるが、その目的は、ただ単に、両者の本質を観察することにのみあるのではないか……(まあ、黒幕と言っても一人ではなさそうなので、「観察のみが目的の黒幕」と「世界に干渉して変革することが目的の黒幕」の両方がいるんでしょうけれども)。
 つまり、あの人のあの作品は、実は、「リバース」によって否定されているのではない。むしろここにあるのは、むしろ、あの作品とその影響までをも含み込んだものがDCコミックスの歴史なのであるという、DCユニヴァースの全体像に関する真の全肯定なのではなかろうか。
 改めて振り返ってみれば、DCコミックスがたどってきた姿の中でも対局にある二つの側面、その光と闇の両方を内包しつつグリーンランタンの再生に成功したのがジェフ・ジョンズの出世作『グリーンランタン:リバース』であったのだから、それと同じことをDCユニヴァース全体において展開するのであれば、そのように考えた方が筋が通るわけです。
 そう考えると……ジェフ・ジョンズ自身が、『ボタン』からさらに続く『ドゥームズデイ・クロック』において「ドゥームズデイ」という言葉が用いられていることについて、ドゥームズデイという名のあのキャラクター自体が登場するわけではないが、意味の含みはあると述べていたのは、「この作品で展開されるのは、スーパーマンの死(とおそらくはその再生)である」ということなのではないかと。
 そういう意味では、「バットマンの本質をいったん解体して改めて根本から問い直す」という仕事を任せることのできる存在としてトム・キングは選ばれたということなんでしょうが……逆に言うと、ジェフ的には、「スーパーマンに関してはおれ自身がやるぜ~!」ということなんじゃないでしょうか……。
 う~む……いや、ほんと、これはちょっと凄いことになりそうであります。一度はその根幹から完全に抹殺したキャラクターであるグリーンランタンを完全復活させるという荒業を成し遂げたのが『グリーンランタン:リバース』であったわけですから、それをDCユニヴァース全体の規模にまで拡大してやるというのは偉いことなんですが……そこまでやってこそ、「リバース」と言えるということなんでしょうか。










『大江健三郎全小説』の刊行は日本の文学史に残る事件だが、それは必ずしも喜ばしいことではない

 『大江健三郎全小説』が全十五巻で刊行されるということを、私は大きな驚きとともに受け止めた。この作品集においてなによりも重要なのは、初出の「文學界」に掲載されて以来一度も単行本化されてこなかった「セヴンティーン第二部 政治少年死す」が、遂に書籍の形で初めて出版されるということ、のみならず、それらが収録される第3巻がわざわざ初回配本になることが予告されたことだ。……さらには、第4巻の収録作……『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』と『みずから我が涙をぬぐいたまう日』に加えて、『水死』! ……うおー、そうきたか~。この第4巻、これは完全に、およそ日本語で書かれたあらゆる文学作品の最高到達点が結実してしまっている凄まじいものだ。

 収録内容についてだけでも感想はいろいろあるのだが、いずれにせよここにあるのは、著名な小説家が過去の自作を異なるフォーマットで改めて出版するというただそれだけの純粋に文化的な活動が、同時代的な政治状況への強烈な意思表示にもなりえているという事態だ。

 現在の日本で進行しつつある状況は、極めて無惨なものだ。何年か前に、大江自身が中野重治の言葉を引いて「わたしらは侮辱のなかに生きています」と述べたことがあるが、それ以降、さらに状況は日に日に悪化しつつある。端的に言って、もはや日本に住む我々は、近代的な法治国家の体制を最低限維持することすらできていない。権力者の都合で刑事犯罪の被害者であることがなかったことにされるということは、単に一個人の問題ではない。潜在的にはそれが任意の誰にでも起こりうるということは、日本国民は成文法による保護を既に受けていないということだ。我々の人権は、既に不等に剥奪されている。クーデターは、既に成し遂げられているのだ。

 そんなことを考えつつ暗澹たる気持ちで日々を過ごしている中であったからこそ、おそらくは長年の苦渋の果てにこの時点で決断を下した大江健三郎という小説家の存在は、少なくとも私にとっては、一縷の希望となった。自らの作家生命の全てを投げ出すリスクを負ってもなお、現在のこのタイミングでなしておかなければならないことがある。……そう、既に我々の人権は剥奪されているのなら、既にあって当たり前の何かを守るための闘争などというものは既に存在しない。単純に、もはや何ものをも持たざる者として、自分の生存を勝ち取るために最初から最後まで捨て身で闘えばいいだけのことだ。

 大江健三郎が、若き日に書いた「政治少年死す」という作品の磁場に再び立ち戻るということには、人にそう思わせるだけの威力があるのだ。





 大江健三郎の「政治少年死す」という作品は、単に小説としてのよしあし、その美学的判断の問題だけを取り出して論じることができるようなものではない。だからこそ、改めてこの小説を再版することがそれだけで政治的意味を持ってしまうのであるが、にもかかわらず、大江を論じるにあたって政治的問題を勝手に留保して小説としてのよしあしだけに言及する(ことが可能だと思いこんでいる)者は後を絶たない。

 軽くネットを検索してみたところ、今回の『大江健三郎全小説』の刊行にあたっても、既に同様の反応はちらほら発生しているようだ。たいてい、この手の者は(自分の見識眼の優越性を示すためであろうか)書誌的な体裁の部分になにかしら難癖を付けるところから入るのであろうが、まず間違いなく、的外れなことしか言わない。……まあ、そもそも政治的問題を切り離せない作品を取り上げておいて政治的問題を切り捨てて語ってしまうようなことを平気でする者は初手からして間違えているのだから、何かしらの有益な言説を期待する方がそもそも無駄なのであろう。

 「政治少年死す」という小説は、単純にそれを読もうとアクセスするだけの段階ですら、既に政治的問題をはらんだ状況に多かれ少なかれ巻き込まれずにはいないような作品としてあり続けてきた。そのことを具体的に示すために、私の個人的な体験をここに記録しておこうと思う。

 それは、私が「政治少年死す」の初出の「文學界」一九六一年二月号の現物を閲覧しようと、広尾にある都立中央図書館に赴いたときのことであった。当然のことながら開架されてはいない古い雑誌の閲覧を申し込んだところ、私に対応した図書館員が、くどくどとこの雑誌の取り扱いに関する注意事項を並べ続けることになった。それは主に、古い雑誌であるゆえに破損しかねないからコピーを取ることは厳禁、ということであったのだが、そこからの流れとして、なぜか私が座る座席も明確に指定され、一挙主一動作を図書館員に監視されながらでなければ閲覧できないということになった。

 その時点でもなんとも言えない胡散臭さを感じてはいたのだが、そのまま「文學界」を読み進めてしばらく後に、何が起きているのかにようやく気づき、自分のうかつさを思い知らされる出来事があった。私を継続して監視していた図書館員が交代する時間になったらしく、他の人物がやってきたのだが……その引継の際、「あそこにいるあの人、例のアレを読んでるから」と小声で囁くのが聞こえてきたのである。

 よくよく考えてみれば、雑誌の保存状態を理由としてコピーを禁止する措置が取られているというだけのことなら、閲覧のために座る座席まで指定されるということが、およそおかしな話であったわけだ。……国内で商業出版された雑誌を調べるというだけの個人の活動を公共の図書館が妨害し、特定の作品の流通を阻止するーーそれも、対象が、よりによって自国が輩出したノーベル賞作家の作品であってさえもーーなどということは、もちろん、あってはならないことだ。そして、あってはならないことだからこそ、建前の上では、図書館が言論弾圧や自主規制をなしたのではなく、あくまでも雑誌の保存状態を維持するためのしかるべき措置がなされているだけのことなのである、その建前を建前として貫き通すことすらできていないわけであるが。

 この出来事自体は既にだいぶ以前のことであるが(「これが、都の公務員がやることなのか……さすがは石原の手下どもだぜ!」と思ったことは覚えているので、石原都政の時代であったことは確かだ)、その後の日本がたどった道筋は、このような、「自主検閲であることそのものがなかったことにされた上でなされる自主検閲」がより一層強化されていくことであったと言えるだろう。

 そして、現在起きつつあることは、そこで最低限度維持されていた建前すら、破壊し取り除こうとすることであるわけだ。





 改めて繰り返すが、以上のような状況において大江健三郎が「政治少年死す」を初めて書籍化する、それをわざわざこのタイミングで発表するということは、それ自体が大きな政治的意味を担う行為である(……改めて、発表された表紙を見てみると、「セヴンティーン」が「セブンティーン」と表記されていることに不安を隠せないのも事実なのだが、校正の段階すらすっとばして、わざわざ現在の状況に合わせて発表を急いだのかもしれないと、とりあえずは好意的に考えておくことにする)。

 「政治少年死す」という作品において、その小説としての純粋に美学的・技術的な価値と社会的な文脈の内部での政治的意味とは分離できないという旨のことを、既に私は何度も記した。ではこの作品は、そもそもいかなるものなのか。

 中篇小説「セヴンティーン第二部 政治少年死す」は、もちろん、「セヴンティーン」の続編である。そして、大江のキャリアを振り返ってみるならば、学生時代にプロの小説家としてデビューして以来の活動が「セヴンティーン」において最も見事な形で結実しており、大江初期の集大成とも言える仕事になっていることは確かなことだ。

 だが、大江が大江たるゆえんは、そのような仕事の続編でありながら、「政治少年死す」において自分のそれまでの歩みの集大成を自ら粉々に破壊し、小説家としての自分が依って立つはずの足場を完全に解体しているということにある。少なくとも日本語で書かれた小説の中で、こんなことがなされたことは唯一無二のことであるはずだ。

 初期の大江健三郎と言えば、当初から確立されていたその特殊な文体の美徳がしばしば取り沙汰される。当時二十代前半の大江自身と重なる部分が多い語り手が一人称の形式を取ることによって作品は成立するーーそして、そこで語られる内容はと言えば、フランスの実存主義に大きな影響を受けつつ戦後世代の内面を描き出し、武田泰淳を始めとする第一次戦後派が取り組んだことを「政治的人間」としつつ、そのようになりきれない自分の世代を「遅れてきた青年」と呼び、その実存を「性的人間」として「政治的人間」へと対置したのであった。

 「セヴンティーン」が題材とするのは、現実に起きた社会党の浅沼稲次郎委員長の暗殺事件の犯人たる右翼の少年の来歴である。一人称の視点からなるこの小説は、右翼となる以前に、現実世界で何のヴィジョンもなくみじめな生活をおくるこの少年が、右翼へと目覚めることによって脆弱な自我を鎧で固めることになる、そのプロセスを暴き出していく。

 ここでは、ある一個人の内面の変化を丹念に追うことで、「政治的人間」と「性的人間」という異なるあり方の間での揺れ動きを統合することに成功している。だからこそ、私はこの作品をして初期の大江の集大成とみなすわけだが……これに続く「政治少年死す」において大江自身がこれを自ら打ち砕いたとするのならば、なぜ大江はそんなことをしなければならなかったのか。

 「セヴンティーン」という小説は、単に自分の弱く臆病な自我を塗り固めるためだけに右翼に目覚めるような人間の醜悪さを徹底して暴き立てている。しかし、その内面は主人公自身が話者となって一人称の形式で語られるものである以上、話者とは区別される作者の審級にいる大江自身は単に一方的に作品をコントロールしているだけである。……つまり、大江は他人の弱さを暴きそれをあげつらってはいるのだが、他社の内面に裁断を下す自分自身がいかなる資格においてそれをなしうるのか、一方的にメタ的な立場に立っている作者自身のあり方が問われることはない。

 初期の大江健三郎とは、単に才能で書いているだけのよくできた物語作者にすぎない。そこには、小説の形式性に対する自己言及的な検討はない。むしろ初期の大江だけをよしとする言説には私もこれまでさんざん触れてきたが、残念ながら、初期の大江作品は、その主要な元ネタの一つであるピエール・ガスカールなんかと比べてしまうと、全く大したことのないものだと言うほかない(とはいえ、サルトルの小説の模倣として書きながらサルトルを凌いでしまうような部分なんかはやはり凄いのだが)。

 そんな大江が、小説の形式性に自覚的であることを初めて強いられた作品こそが「セヴンティーン」であったのだと、私は考えている。……なるほど、確かに一人称小説としては「セヴンティーン」はよくできている、しかし、何も考えずにただ素朴に一人称の形式を選択している限り、作品が対象とする個人に一方的に裁きを与えることにしかならない。

 ……だからこそ、「政治少年死す」において大江がなしているのは、むしろ自己批判なのである。その媒体が小説であれジャーナリズムであれ、特定個人の内面を暴き立てその立場に非難を加える者は、いったいいかなる資格でそれをなしえると言うのか。己の立場をいっさい不問に付し一方的な攻撃だけがなされるのは、小説にせよジャーナリズムにせよ、最初から型が固定したただの武器として用いられているのにすぎない。

 右翼の内面の弱さを暴くのであれば、それと同時に、それを暴く側の内面の弱さをも暴かれなければならない。書く側と書かれる側とは同一平面上に置かれるのでなければならず、あくまでその立場を前提として、それでもなお否定されるべきものがあるのならば、そこから改めて否定がなされなければならない。

 しかし残念ながら、この時点での大江は、そのようなことをなしうるだけの小説の技術を持ち合わせていない。結果として、「政治少年死す」の作品としての構成は、無惨に破綻する。

 純粋に技術的・美学的にのみ見た場合、「政治少年死す」は、端的に言って、小説として成立していない。しかし、作者自身が過去の集大成たる自作を破壊したその残骸の中に現れたのは――右翼であれ左翼であれ、政治的立場の依って立つところの言葉を突き詰めるのならば、詩の言葉との必然的な結びつきが現れてくるということなのであった(大江が小説の言葉と詩の言葉との相関関係そのものを小説化することに技術的に成功するには、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』まで待たなければならないだろう)。

 単に個人の内面の閉じた世界を問題にするのではなく、現実世界の流動するありさまをも見据えて自分がなすべきことをしようとするのであれば、小説家は、自らの用いる言葉のあり方を自己言及的に不断に検討しなければならない。大江がそのような第一歩を記した初めての作品であるゆえに失敗作となったのが「政治少年死す」であったのだ。

 だから、私は、大江健三郎という小説家の実質的な出発点は「政治少年死す」であるのだと見なしているし、大江の作家活動の総体を肯定するためには、そのような立場しかありえないと考えている。





 大江のその後のキャリアをたどってみると、「セヴンティーン」と「政治少年死す」の間でなされたことは、『万延元年のフットボール』とそれに続く『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』においても繰り返されている。……大江がどのようなことを成し遂げて世界的な水準で仕事をする小説家となったのかを知るのは『芽むしり仔撃ち』「セヴンティーン」『万延元年のフットボール』を読めばおおよそのことはわかると思うが、しかし、むしろ「政治少年死す」と『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で自分の依って立つ足場を自ら破壊するその姿にこそ、大江の核心があると私は考える。

 そういう意味では、『大江健三郎全小説』の発行によって、ようやく、大江のキャリアの真の姿が公式に確認できることになる……などと思っていたところだったのだが、刊行案内を改めて読んでみると、この全集には「わかりやすい解説を付して」出版することになるのだとか……。

 「わかりやすい解説」などという言い回しにも、妙に引っかかるものがあるが……それ以前の問題として、これを見た瞬間に反射的に思い浮かんだ本音を書いてしまうと、「おれに書かせろやぁー!」というものであった。

 はっきり言って、現在の日本で、大江健三郎の小説を精密に読解しつつ全集に公式に書く資格もしくは能力を備えた書き手などというものは、ほぼ皆無であろう。仮に全十五巻の全てに解説を付けてなおかつそれぞれ別人が担当するのだとすると、まともなメンバーが揃うことなど絶対にあり得ない。間違いなく、悲惨なラインアップになることが目に見えているのである。

 このことに関しては、大江自身にもなにがしかの責任はある。まともな読解力がない、もしくは、基礎的な最低限の文学に関する素養がない、もしくは、その両方、などという人々が「小説のプロ」であるということになんとなくなっていっても、とりわけ下の世代に厳しくあたってプロの水準を保つようなことを大江はしてこなかったのだから。

 こういう状況で私が思い出すのは、大江がノーベル賞を受賞した際にナディン・ゴーディマが記念に寄せたエッセイである。群像の増刊号に邦訳が載ったその文章を、ゴーディマは次のように書き始めている。





 一九九四年のノーベル文学賞受賞者が大江健三郎氏であると知ったとき私は歓喜した。氏の受賞はここ数年来私が願い続けてきたことであった。彼はノーベル賞を受けるに値する基準を満たして余りある作家である。彼の洞察力と想像力は変貌しつつ輝き、ごく身近な人間的な言葉で、われわれの在り方をわれわれに向けて明らかにし、現代の精神状況を描き出している。これこそ人類の前進への貢献である。(「偉大な芸術への変容」、「群像特別編集 大江健三郎」所収、大西直樹訳、p81~82)





 ……まあ、お祝いの文章だから、これくらいのお世辞は言うだろうな……などと思いつつエッセイを読み進めると、ゴーディマの賞賛は続く。

 ところが、その結末に至って、ゴーディマは次のようなことを言い出すのである。





 最後に大江氏の人柄について述べよう。数年前、東京で大江健三郎氏と会ったときのことだ。私はノーベル・フォーラムに招待され東京にいた。そのとき大江氏は日本の若い作家たちの作品、とくに私の知らなかった女性作家たちの作品を私に紹介しようと一生懸命だった。その気前よい優しい心遣いには心暖まる思いがした。彼はその目的意識が自分の文学の枠を超えている作家であり、他の作家の意図を理解する点でも私は多いに感心させられた。しかし、今や他の作家たちが彼自身より面白い仕事をしているという彼の見解に私は賛成できない。帰国するときにこれらの作家の翻訳をできうる限り持ち帰り、またイギリスやアメリカでも他にいくつか手にいれた。確かにこれらには私の興味を引いたものもあったが、大江健三郎氏の示すオリジナルな視野の強烈さと、書き手としての絶妙な技量に迫るものはまったくなかった。(同、p83)





 ……ゴーディマ、単に本音を述べただけだったのか……。

 それにしても、気の毒なのはゴーディマである。大江の国内作家への甘い評価を真に受けて、時間を無駄に浪費してしまったのだから。

 こういう甘さは、大江はその後も継続的に続けている。例えば、尾崎真理子という読売新聞の記者がなぜかインタヴュアーをして刊行された『大江健三郎 作家自身を語る』という書物は、まさに最悪であった。……なにが最悪かって、なんとこの書物で、大江が南米に赴いた際に完全な偶然からフアン・ルルフォに遭遇してやり取りすることがあったという驚くべき挿話が語られているのだが、それはあくまで大江が一方的に語り出しただけのことで、聞き手の側は全く何の反応もしていないのである。

 いやいやいやいやいやいやいやいや、それ、もの凄い大事件だから……。おそらくこの聞き手はルルフォの名前すら知らなかったのだろうが、そもそもの話として、ルルフォすら知らんような者が一人前面して重要作家のインタヴューなんかするなって。そして、仮に知らなかったんだとしても、書籍化するんなら自分の無知に基づく甘い部分を調べ直し、大江に聞き直し、万全を期してからにしろやと。

 さらに驚くべきことは、私の知る限りの話ではあるが、この後、大江に直接話を聞ける立場の者がこのルルフォとの一件の詳細を確認しに行ったということも聞かないのである。後代のまとまな批評家なり研究者なりが大江の評伝を書く際にはとんだ災難としか言いようがない悲惨な事態なのだが、文学史の貴重な財産ともなりうる知見が失われかねないという認識すら、どうやら誰も感じてすらいないようなのである。

 それに、商業誌上で「小説のプロ」として大江自身に話を聞く者も、あるいは作品の批評を書く者も、小説の技術的な分析・検討をするということがほとんどないというのも困ったことである。例えば、ある一時期以降の大江が小説内の会話を鍵括弧でくくることがなくなったのは、まず間違いなく、バフチン的な意味での自由間接話法をいかにして日本語で成立させるかということがあるはずなのだが、私の知る限り、たぶん誰も言及していない。そういう小説の技術論について最も詳細に語っているのが大江自身で、全く何もわけわかっていない人々がなぜか大江の小説に裁きを下し、結果として完全なデタラメを流通させているわけだ。大江の直面する政治的問題は回避しておいて、純粋に審美的な話に限っておきながら、なおかつ純粋な技術の問題を掘り下げることの方もできないという、どうしようもない人々が、「小説のプロ」として大江作品を論じるなどということが平気でまかりとおっているのだ。大江健三郎という人は、本来、三島賞受賞会見の時の蓮實重彦とかより以上にブチキレていないとおかしいはずなのである。

 ……と、いうようなことを踏まえた上での、「おれに書かせろやぁー!」なわけですよ。





 そういう意味では、最低限度の基準にすら達しておらず「小説のプロ」の水準を押し下げる人々に全く厳しく当たることのない大江に比べれば、やっぱ蓮實重彦の方が教育者としては偉いな~と。だから私としても、解説の仕事をあえて蓮實にふるぐらいの飛び道具を出してくるんなら、納得もしますけれども。

 ただ、まあ、おそらくそういうことにもならないだろうと思うんで、これに関してはちょっと本気で取り組んでみようかな~などと思い始めました。なんか評論の賞とか取った上で、「おれに書かせろやぁー!」と吠えまくったら、刊行までまだだいぶ間がある以上、なんとかなりませんかね?

 というか、解説のメンツが発表されたとして、それが私の予想通りの悲惨なものだったら、それらの書き手がこれまで大江に書いてきた文章を念入りに検討し、どこがどうダメなのかを徹底的に糾弾し、大江の全集に公的な解説を書く資格などないことを自覚させ、個別に心を折っていき、自ら辞退に追い込めばいいんじゃないですかね? ……それか、刊行が始まっても、全巻の刊行が終わるまでにはだいぶ期間があるのだから、解説そのものを同時進行でボコボコにしていってもいいのかな?

 以前、私はこのブログでも文芸評論家(ということに一応はなっている人)をつかまえてボコボコにしたら、私の方が全力を出しているわけでもないのに全く相手にもならず向こうが逃亡しちゃったという件があったのだけれども、今回は、あの程度のことではすましませんぞ。

 そうやって、書く人が全くいなくなった状態でなら、「おれに書かせろやぁー!」も通りませんかねえ?

 ……まあ、いずれにせよ、小説の問題に関してそこまで仮借のない立場を取るということこそが、「政治少年死す」を本当に読み自分の中で消化したときに起きることでもあると思う。少なくとも、今回の『大江健三郎全小説』の刊行の発表でわかったのは……『芽むしり仔撃ち』の話者、あのあまりにも無謀にして無防備な少年の心は、やはりいまだに大江の内に残っていたのだということなのであった。
















西部劇は解体しうるのか――ロバート・クーヴァー『ゴーストタウン』

 ロバート・クーヴァーの『ゴーストタウン』を邦訳で読んだのだが、なんとも微妙な気持ちになってしまった。……率直に言って、この小説は、クーヴァーの小説としては相当にダメなものである。ただ、私ががっかりしてしまったのは単にそれだけが理由ではなく、この小説に関して適切な紹介がなされているように思えなかったということもある。
 おそらくは、この小説に関して解説やら書評やらの類を書いている人々が、ここで題材となっている西部劇に関して全くの無知であるらしいことも、その大きな要因の一つとなっているのであろう。『ゴーストタウン』という小説の、西部劇というジャンルの参照の仕方は決定的にダメである。……一方、この小説よりしばらく後にクーヴァーが書いた『ノワール』は、フィルム・ノワールというジャンルの参照の仕方という点で、『ゴーストタウン』の時点より大幅に優れたものになりえている。
 ところが、日本語の翻訳紹介ということだと、後年の『ノワール』の方が先に出てしまった。つまり、ロバート・クーヴァーという小説家にしかるべき敬意を表し、そのキャリアを丹念に追うようなタイプの読者にしてみれば、予備知識なしで読めば当然のこととして失望してしまうようなものなのである。……ところが、『ゴーストタウン』は『ノワール』での達成に比べれば相当に見劣りするものでしかないというような評価・検討の類は、特に見られないのである。
 とはいえ、私がロバート・クーヴァーという作家にとって「ダメなもの」として見なしてしまうような水準そのものは、通常の小説との比較で考えると相当に高い(例えば、クーヴァーの代表作である『ユニヴァーサル野球協会』は、同じく野球を題材として取り上げたアメリカのポストモダン文学であるフィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』などと比べてみても、明確に上回る作品であると評価している)。また、そもそもアメリカのポストモダン文学と言えばトマス・ピンチョン以外の作家は重要作・代表作ですら邦訳・紹介されていないものがごろごろあることを思えば、クーヴァーの邦訳された小説が一冊増えるだけでも、貴重なことであるとは言える。
 ただ、『ゴーストタウン』と西部劇との関係を評する解説・書評の類が(私が目にした限りでは)ことごとく的外れで、なおかつ西部劇への無知が隠されていないようなものばかりであることを思うと、とりあえず作品を広めるために戦略的に弱点を隠蔽しているのではなく、単に問題の所在にすら気づいていないのではないかと思えてしまうのだ。
 例えば、『ゴーストタウン』という小説が、オーソドックスな西部劇が綺麗事の物語の背後に隠しがちな性と暴力を過激に描いたことを持って「西部劇のパロディ・解体」と見なしている人々がいるようなのだけれども、ペキンパーの西部劇を見たことがないのだろうか……(というか、へたをするとペキンパーの名前すら知らないのかもしれない)。
 あるいは、ジョン・フォードのような古典的・正統的な西部劇の巨匠でさえ、そのキャリアの後半になると、『リバティ・バランスを射った男』のような、西部劇というジャンルそのものへのメタ的視線、その定型が隠蔽しがちなものの背後の事情までをも内包した自己言及的な西部劇を監督しているのだけれども、「西部劇のパロディ・解体」などという者は、このあたりの事情まできちんとふまえてものを言っているのだろうか。
 そして、それ以前のそもそもの話として、「西部劇」とは、すなわち映画を表すジャンルというわけではない。西部劇は、小説としてもコミックとしても、あるいはTVドラマとしても、無数の作品が生産されてきている。また、開拓時代のアメリカ西部(と言うか、厳密に言うと、西武に限らずとも開拓途上の状態の無法地帯)を舞台にしたジャンルが「西部劇」であるため、このジャンルに属するフィクションが、明確な物語の定型を共通して持つわけでは、実はない。保安官やらインディアンやらカウボーイやら流れ者のギャンブラーやらは確かに西部劇に頻出する記号であるが、必要不可欠な構成要素というわけでもない。保安官の登場しない西部劇など、いくらでも存在する。
 多くの媒体にまたがって長年に渡って量産されてきたジャンルが西部劇である以上、そこに頻出するありがちな物語がジャンル内で自己言及的に相対化され、パロディ化され、解体され、ありがちな定型が隠蔽し抑圧した裏側が暴露されるようなことも、ジャンルの内部で既にさんざん繰り返されてきたことだ(余談になるが、アメリカの娯楽の分野では、小説なのか映画なのかという媒体の問題よりも、西部劇なのか犯罪者なのか恋愛ものなのかという内容での分類の方が、ジャンルの区分の境界として大きい意義を持っているように、最近思えてきた。これは、日本とは根本的に感覚が違うところなのではないかと。文化的に高い価値を認められると、コミックがあっさりとgraphic novelなどと呼ばれてしまうことにも、そのあたりの事情があるように思われる。……しかし、これはしょっちゅう思うことなんだけれども、日本でアメリカ文学の研究してる人の大半って、アメリカの文化的背景、大衆娯楽の状況とかにはほんとに興味ないよね……西部小説なんかにしても、かなり早い段階でアメリカ文学の本流からは外れたものの、二十世紀にも娯楽ものとしては大量生産されてきたんだけれども……)。
 つまり、もし本当に、そのような巨大なジャンルとしての西部劇の総体を「神話」とみなしそれを解体するのであれば、それこそ『ユニヴァーサル野球境界』以上の巨大な小説でなければ到底なしうることなどできるはずもないのである。
 ……では、『ゴーストタウン』という、長篇としては小ぶりの小説が西部劇を参照しつつなしていることとは、いったいなんなのか。


 『ゴーストタウン』という小説が始まるのは、開拓時代のアメリカの西部とおぼしき場所で、無人の荒野を独りで行く男が、町を訪れるところである。……ただ、それが正確にいつの時点のことであるのかも、作中でどの程度の時間が経過しているのかも、はっきりとしたことはわからない。むしろ、作中での時間の扱いが通常のものではないことをはっきりさせるためにこそ、冒頭近くに次のような記述がある。


そして谷から出てみると、彼は何もない大平原の真っ只中にいた。そこは何も起きたことがないように見えるが、同時にすべてがすでに終わってしまった――始まる前に終わってしまったようにも見える場所だった。そこにありながら、そこにない空間。恐ろしいと同時にありふれた、とてつもなく大きな虚空。この馬が歩く地面は、これだけの広がりがあるのに紙のように薄く、何もないところに広がっているかのようだ。彼はここで世界の終わりを迎えるつもりはないが、世界の終わりが来るような気がしなくもない。(『ゴーストタウン』、上岡伸雄・馬籠清子・訳、p5~6)


 「彼」と呼ばれる男がとある町を訪れるところから物語は始まるのだが、しかし、その町を男が訪れるのが初めてのことであるのかどうかすら、はっきりとはわからない。


 その死者が彼に取り憑いているように思える。乾いた風に目がついていて、彼の背後から囁きかけている。空中に目があるというこの感覚がときどきとても強くなり、彼は鞍の上で体をひねって視線を後ろに向けずにいられなくなる。そしてある日、そのように後ろを向いたとき、反対側の地平線に町があることに気づく。彼が向かっていた町の鏡像のように見える町。まるで彼は一つの町を旅立ち、また同じ町に向かっているかのようだ。(同、p7~8)


 そして、その町がどのような場所であるのかと言えば、いかにも本物らしくない、作り物めいた場所であることが隠されもせず、はっきりと明言されることになる。


通り過ぎていくのは質素な町。人気がなくて静まり返り、砂漠そのものからできた町のようだ。今にも倒れそうな、ハリボテの正面外観だけの木造家屋が数軒並び、荒涼とした砂漠に街路のような雰囲気を作り出している。(同、p8)


 ……つまり、ここまでを整理してみると、直線的な時間の流れが存在せず、全てが終わったと同時に何も始まっていないとも言える無時間的・非歴史的な空間の内部で、一人の男が作り物めいたいかにも偽物のような町に向かっているのだが、その訪問は初めてではなく、何度も何度も繰り返されたものであり、空間的にも時間的にも物語は循環していることが示唆されている。
 それのみならず、「彼」と呼ばれる人物については、次のような記述もある。


あるとき彼は誰かを埋めなければならなかった。記憶によれば兄弟みたいな男。ただ、彼が掘った穴に横たわる死者は本当のところ死んでおらず、やみくもに動き続け、土を蹴ってどけようとしていた。実は、体をねじったりもがいたりしていたのは彼自身で、彼がやみくもに蹴っていたのだった。埋葬のための穴に横になり、土が顔にかかっていた。しかし、再びそれは彼でなくなり、そこにいる男は突如として穴から這い出るそうとして、空気に掴みかかるかのように腕を振っていた。(同、p5)


 つまり、「彼」という言葉が誰を指しているのかも、実は明確ではない。埋葬するものと埋葬されるものとの間で主観が交代しているのかもしれず、死者と生者との間の境界も明確ではない。
 そのことを踏まえると、タイトルが『ゴーストタウン』とされていることも、これと関係があるように思えてくる。実は作中では、「ゴーストタウン」と呼べる場所がはっきりとした形で登場するわけではない。つまり、一見すると生者たちが住んでいる普通の町と思える場所が、実はその実態は死者たちのゴーストタウンであることが示唆されているわけだ。
 始まりも終わりもない循環する時間の内部で、「彼」と呼ばれる人物の人格の境界も明確ではないからこそ、西部劇を構成するありがちなパーツだけが、物語に奉仕する本来の機能を失い、純然たる記号としてのみ働いて、単線的な時間が流れない迷宮的な作品世界を構築する――ということが、この小説では起きている。


 では、それの何がダメなのか。以前私は、クーヴァーの『ノワール』を評して「この『ノワール』という作品は、「テクストそのものが既存の記号の集積のみで構成されている」というようなポストモダン文学にありがちなスタイルを踏襲した上で、そこからさらにひとひねりを加えて言語そのものの原理的な検討・分析にまで到達している」と書いたのだが、それを踏まえて言えば、『ゴーストタウン』は単にありがちなポストモダン文学なのであって、そこにクーヴァーなりのひとひねりが加えられているようなこともないのである。
 まず、作品を構成するパーツが西部劇の記号であることを除いてしまえば、作品のなりたちそのものはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』に酷似しているのだが、『ペドロ・パラモ』より後続でありながら、あの小説よりはるかに単純な構造しか『ゴーストタウン』は備えてはいない。
 では、『ゴーストタウン』の独自性たる、西部劇的な記号を本来の文脈から引き剥がして無時間的な作品世界に投入するということは、どうなのだろうか。……私は、そのような試みはフィルム・ノワールを題材としてはうまく機能しても、西部劇ではうまくいかないと思う。
 そもそもの前提として、「フィルム・ノワール」とは、漠然とした雰囲気なり画面のスタイルなりに共通する傾向を持つ一群の作品をまとめて呼ぶ呼称に過ぎず、明確なジャンルとしての境界を持たない。だから、その雰囲気・スタイルだけを抽出し、無時間的な作品世界を構成するということは、もともと備えている傾向と合致している。
 一方、西部劇とは、要するにアメリカの時代劇である。西部劇は巨大な広がりを持つジャンルであるが、時代劇である以上、歴史性を抜き取ることなどできない。例えば銃器を精密に描写するなら、それだけで、時代・場所がある程度特定されてくることもありうるし、南軍もしくは北軍の兵士(もしくはそうであった過去)が登場するなら、政治性を抜き取ることもできない。
 だから、『ゴーストタウン』という小説がなしているのは、西部劇の定型に対するパロディ・解体ではない。むしろ、ここで起きている事態は全くの逆である。西部劇のありがちな要素を切り出してきて断片的に組み合わせ、クーヴァー独自の無時間的な作品世界の構成要素とする、そのことにあたって、個々のパーツが本来備えていたはずの歴史性・政治性はばっさりと捨象されている。つまり、西部劇の隠された真実、その本来の実態なるものは、『ゴーストタウン』の閉じて独立した作品世界によって、むしろ隠蔽されているのである(……そう考えてみると、これって、イタロ・カルヴィーノの完全にダメな部分と同じですな……)。
 ただし、『ゴーストタウン』と類似するテーマを扱った『ノワール』になると、そのような問題はかなり解決し、技術的にも大幅の進歩が見られる。……のだが、作品が成立する根本的な前提は共有するのだから、本質的な部分ではない小手先の技術が洗練されただけであるとも言える。
 ロバート・クーヴァーの、以上のような問題は、最近邦訳が復刊されたマイケル・オンダーチェの『ビリー・ザ・キッド全仕事』においても、(単に西部を扱っているという内容面での類似のみならず)共通している部分があると私は考えている。……そこで、もう少しこのあたりのことを検討するため、クーヴァーが『ゴーストタウン』以前に書き、これも最近邦訳が出た『ようこそ、映画館へ』についても、改めて考えてみたい。













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