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推理小説の存在意義について――高山宏『殺す・集める・読む』

 高山宏の『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』が復刊されていたので、読んでみた。この書物は、高山宏の推理小説に関する評論を集めたものだが、その中でも「殺す・集める・読む」と「終末の鳥獣戯画」の二つは、高山の主著の一つである『アリス狩り』にも収録されていたのだった。

 『アリス狩り』という書物は、ヨーロッパの近代的な価値観の形成とその内部からの攪乱を文学作品に即して読み解いていくもので、その際の主な対象となるのは、ローレンス・スターンやハーマン・メルヴィルやルイス・キャロルなどであったのだが、推理小説という大きなジャンル全体の推移が、ヨーロッパの文化全体の歴史の中でどのようなものであるのかも論じられていた。そこから、「殺す・集める・読む」と「終末の鳥獣戯画」が、推理小説に関する評論のみと併せて一つの書物になっているのが『殺す・集める・読む』であるわけで、当然のことではあるが、推理小説というジャンルの生成とその背後のヨーロッパ文化との関係に関する高山の立場が、よりクリアにわかるものになっている。……のだけれど、推理小説をより大きな文脈でとらえようとする高山の議論が、ジャンル・フィクションとしての推理小説をあくまでもその内部からのみ論じようとする立場とは大きな齟齬をもたらすような部分があり、個人的にはそこが面白かった。





 さて、表題作でもある「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」は、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズものの成立する背景を見ることで、推理小説というジャンルの成立の条件となる特殊性をおさえようとすることが議論の前提となっている。……そして、その際、高山が強く打ち出すのは、一八八七年に始まるシャーロック・ホームズものを、あくまでも十九世紀ヨーロッパの世紀末文学の一つとしてとらえるということだ。

 そのような時代背景をふまえると、ホームズの無数の事件を整理したワトスンが話者として小説の本文を構成するという、一連の作品の基本前提の持つ意味が明らかにされていくことになる。





 ホームズ作品の、エクリチュールとしての特性はかなり際立っている。ものを書くことが収集行為であることを自らよく知っているのである。物語の終りでホームズが「以上がこの事件の一部始終だよ、ワトスン君。君のコレクションに役立つなら、好きなように使っていいよ」と言い放つパターンが一貫しているのだ。(「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」、『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』所収、p28)





 無数の事件を収集し編集し索引をつけるワトスンの立場は、同時に、事件へと立ち向かうホームズにも見られるものである。





彼にとっては世界よりも、世界の文字化、索引化の方が魅惑的らしい。ホームズの索引とワトスンの日記で世界は二重に文字へと平板化され、ホームズの部屋の中へ、アルファベットのパノラマ的秩序の中へ、コナン・ドイルの意識の中へと「所有」される。世界が文字へと標本化されると言ってもよい。「ワトスン君、明日の晩までには、あいつは、あいつが集めている蝶みたいに、我々の網の中でばたばたもがいているよ。ピンでコルクにとめて、カードをつけて、ベイカー街の標本に仲間入りさせてやるさ」(『バスカヴィル家の犬』)とホームズは言い、彼が実は犯人の昆虫学者と同じ完成の人間であることをはからずも暴露してしまう。(同、p29~30)





 そしてホームズとワトスンの、世界を文字の裡に収集するという感性を、ひとつ上のレヴェルでホームズ作品そのものが見事になぞっていく。推理小説ほど細部が「伏線」として重要なジャンルはないわけだから、それを口実にして、ここでは世紀末文学特有の細部への惑溺趣味は存分にそのはけ口を見出すことができたのである。いや、そこでは細部描写が全てであるが故に、推理小説は世紀末以外にこれを生み出す時代はなかったと言うべきだろう。(同、p30~31、ルビと傍点は省略)





全ての細部が――ちぎれたボタンや穴のあいたズボンが――ひょっとしたらという潜在的意味性を読者に対してたえず主張しうる世界が、即ち推理小説に他ならない。「ヴィクトリア朝の人々は物語絵を介して絵を読むことを教わったように、ラスキンによって建築物を読むことを教えられた」とピーター・コンラッドは言っているが、世界を読むということでしか世界に対峙できなかった文化は、全てに意味を読みとらねばおかぬその偏執そのもののうちに、ついに己れの世界の究極の意味の不在を逆説的に暴露しているのである。(同、p37、傍点は省略)





 ホームズとワトスンに共通する態度、周囲の世界を言語化・索引化して収集し己の支配下に置くこと、解読可能な対象として切れ目なく意味を付与すること――これを、高山は、ヨーロッパ近代における帝国主義、その外部の世界への植民化の運動とパラレルなものであると見なす。

 そのような価値観の体現者としての「名探偵」の姿が確固なものとして形成されるのが十九世紀末であることの必然性を、高山は強調する。例えばそれは、『殺す・集める・読む』の収録された「世紀末ミクロ・テクスト」の文脈でも変わらない。





 名探偵のあるべき性格造形とは何か。枝葉を捨てて一言にして言えば、読みの困難なものを解読可能なものに、過剰な根茎状の混沌を要するにテクストに変えていく能力の体現者と言うに尽きるだろう。万事が「読み」とりにくい世紀末の状況が要請していたそういう記号論的ヒーローが、つまりは名探偵であり、彼が一切を解読して世界をテクスト化していく経緯を描くメターテクストたる推理小説という斬新なジャンルは、従って十九世紀末をもってそのピークに達する理屈になる。(「世紀末ミクロ・テクスト――推理小説と顕微鏡」、同書、p47)





 推理小説というジャンルが「十九世紀末をもってそのピークに達する」という言葉は、オーソドックスな推理小説史観からすればとうてい認められないものであるだろう。……しかし、ここでの高山の議論がどのような立場からなされているのかは、さらに時代が下った時期の推理小説に関する議論から明らかになるので、そこまで見てから改めて検討する。





 高山の立場は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものによって基本的なフォーマットが確立した推理小説というジャンルを、あくまでも世紀末文学の一種としてとらえることにあるということは、既に述べた。

 そのような立場からなされる、非常にユニークな議論がある。通常ならば、(ゴシック・ロマンスの掉尾を飾る最末期の作品と見なされることもあるように)怪奇小説の歴史の文脈で語られるブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を、ホームズものと同等の推理小説としてとらえるのだ。

 もちろん、これは、推理小説の本質を殺人事件と名探偵の推理としてのみとらえている限り、取られることのない立場だ。それは、推理小説の本質を、世界を言語化し、意味を与え、収集・編集してコントロール可能なものとすることこそが本質の世紀末文学としてとらえたとき、初めて取られる立場だ。

 近代ヨーロッパの中心地点の一つであるロンドンを出発して東欧のトランシルヴァニアへと向かう『吸血鬼ドラキュラ』に書き込まれているのは、中心と周縁の対立なのだと高山は言う。

 近代化されていない領域であるトランシルヴァニアの吸血鬼とは、噂・迷信・民話・口碑などといったフォークロアに包まれた存在である。従って、吸血鬼の存在を特定しそれを退治することととは、フォークロアを分類・収集し、近代的な体系を整備することによって可能となる――そのプロセスを書き込んだのが、『吸血鬼ドラキュラ』であるのだと言う。





ロンドンが抑圧した民衆的猥雑の文化が、その活力もろともトランシルヴァニアへと投影された。かくて周縁から中心へと両義的なパワーが逆流してくる。リアリズムの只中にフォークロアが、と言ってもよいだろう。両義的なパワー? そう、「人と獣の境界を曖昧にし、人と神、男と女の境界線を曖昧にしてやまないドラキュラ」(デイヴィッド・ハンター『恐怖小説』。一九八〇)という存在をめぐって、もう一度「閾」のテーマのことを思い出そう。但し、この物語自体は、そういう両義的なパワーを一枚岩的に単線化していくテクストの暴力をこそ浮かび上がらせるのである。世界を「擬人化」した、というか、アモーファスな世界に<かたち>と<意味>を押しつけていった長い長い<近代>という時代の歴史を、人と獣を分かつ閾をとり払うことでラディカルにゆさぶっていった。(「テクストの勝利――吸血鬼ドラキュラの世紀末」、同書、p147、ルビは省略)





 ミナ・ハーカーの立場にたてば、この作品はネガティヴな力を馴致する社会装置としての推理小説ということになり、これはこれでシャーロック・ホームズ的伝統の中で<発明>の名に値する巧緻なできばえである。世界の両義性を、回転する円環でしか形象できないそのあり方を、テクストの誤読/護読を介して、モノリス(一枚岩)に、一本の直線(行)に還元してしまうテクスチュアルな営みだ。民衆文化そのものを抑圧してきた<近代>の営みを、ミナ・ハーカーが演じてみせる。(同、p149、ルビは省略)





 民話のことに引きつけて言えば、中東欧のフォークロワのエンサイクロペディアを豪語しながら、こうしてつまりはそうした民族的なものを殺し去るにいたった反ー民話的ディスクールの生成の現場にブラム・ストーカーは立ち会わせてくれているのだ。少なくとも<近代>はこうして民衆文化を圧殺してきたんだが、わかるか、と。(同、p150、傍点は省略)





 ……以上のような議論を読む限り、推理小説というジャンルの「ピーク」と高山が見なす十九世紀末になされたことは、ヨーロッパ近代の価値観による外部への収奪を極めて効率的にモデル化した装置こそが推理小説である、ということになる。

 高山は、『アリス狩り』での議論では、スターンやメルヴィルやキャロルの小説に近代的価値観からの逸脱・反逆を読み取っていたわけだから、推理小説というジャンルに対する評価は歴史的な限界を持ったネガティヴなものでしかないようにも思える。……とはいえ、推理小説の二十世紀以降の展開とその意味の変質をも高山は論じているので、そちらも確認してみよう。





 ドイル以降の推理小説の展開を見るに当たって、大きく取り上げられるのは、チェスタトンである。そして、高山がチェスタトン作品の特徴として特に注目するのは、その作品群がしばしば好んで取り上げるパラドクスの問題だ。

 推理小説という装置がヨーロッパ近代の価値観を体現しつつ閉じた系を形成するのであれば、その内部にパラドクスがあるはずはない。言葉の両義性や多義性がもたらすパラドクスとは、近代的なシステムの綻びであり、前近代にルネサンスの文学がしばしば取り上げたことでもあった。

 以上のような議論をふまえた上で、「終末の鳥獣戯画」になると、ホームズ的な推理小説が収集・編集行為による意味付けによって覆い隠したはずの「世界の究極の意味の不在」が、推理小説という場において剥き出しになってしまう事態が論じられることになる。

 一九二〇年代以降、ヴァン・ダインやアガサ・クリスティやエラリー・クイーンなどによって続々と発表されることになった「童謡殺人」において、しばしば、犯人が殺人に至る合理的な動機は消滅している。むしろ犯人は、単に意味もなく殺人に手を染めるのであり、童謡の筋立てに実際の殺人の方を一致させるために事件を展開することすらする。そこにあるのは殺人そのものの無意味さであり、また、前近代的な童謡の残虐さが剥き出しになっているのでもある。





わが高木彬光の童謡殺人『一、二、三――死』でも、数え歌の筋に合いさえすれば誰を殺すかは問題にしない超犯罪者が現れてくる。形式が内容を制覇していく、つまり韻の踏みぐあいで登場人物の死活がどうにでもなる童謡の過酷な形式性が、いまや言語の外にはみ出て、非常な運命の力と化して白昼の条理の巷を跋扈するのである。

 それにしても、ある原因が必然的にある結果を生むはずと考えるいわゆる因果律というものが近代的思考の中心を支えていて、それがまた近代推理文学の抜きさしならぬ骨法となって現れてもいるわけだが(ポワロの好きな「正しい順序と方法で」というやつだ)、人間のもつ不条理な闇が次第に明るみに出てきた一九二〇年代、三〇年代、当然この「因果帝国」もおかしくなってきたはずで、それがすなわち推理小説の展開にも微妙な陰翳を与えることになった。超論理の超犯罪に打ち勝つために、人間の心の奥に澱む「鬱積された潜勢エネルギー」にも広く目配りできる超探偵が必要になったのだ。「誰がいちばん得をするか」式の単純な因果構成に行き詰まりをみせていたミステリーは、童謡に目を向けることでいっきょに深さをかちとった。ちょうど同時代の「純」文学がギリシア・ローマ神話に材をとりはじめたのと同工異曲の事情である。(「終末の鳥獣戯画――童謡殺人と現代」、同書、p223~224、ルビは省略)






 つまり、高山によれば、一九二〇年代から三〇年代にかけての推理小説とは、前世紀末に形成された推理小説の基盤となるフォーマットおよびその依って立つところの近代的価値観が自己言及的に検討され、批判的に解体された時期であったのだ……ということになる。

 もちろん、これは、オーソドックスな推理小説の歴史観とは大幅に異なる――というか、完全に矛盾する。通常であれば、一九二〇年代から三〇年代にかけては、既に言及されたヴァン・ダインやアガサ・クリスティやエラリー・クイーン、さらにはクロフツやフィルポッツやディクスン・カーなどの代表作が続々と発表されたことによって、むしろ「黄金時代」と見なされている時期だからだ。

 推理小説の黄金時代であるはずの時期が、高山の議論においては、推理小説の枠組みが土台から解体される時期ととらえられる。この齟齬はどこからくるのか。





 このような齟齬を、ジャンルの外からの視点で改めてとらえてみるならば――それは、ジャンル・フィクションとは、ジャンルとしての存在意義を失った時点だからこそ、ジャンルそのもののあり方が絶えず流動することもなくなり、結果として、ジャンルの内部にいる人間からすれば固定し自律性を獲得したかのように思うことのできるものである、ということなのではなかろうか。

 よりあからさまに言ってしまえば……既に明確な存在意義を失ったもの、あってもなくてもよいもの、ただし、確固たる提携は確立しているために同工異曲の作品を量産することが容易な状態になっているもの……結果として、その分野の存在意義など考えずにすむものこそ、ジャンル・フィクションなのではなかろうか。

 ジャンル・フィクションの成立・完成と見えるものは、より広い文化全体の文脈の内部でとらえ直してみるなら、むしろその存在意義の喪失である。……そのような仮説を立ててみた上で、改めて高山宏の『殺す・集める・読む』の議論に戻ってみると、非常に興味深く思えることがある。高山は、ヨーロッパの推理小説の展開を論じた上で、その議論を、「日本の推理小説」の方にも進めるのである。





 日本において推理小説というフィクションが完成・定着する上で極めて重要な役割を果たしたのが、江戸川乱歩である。自ら実作者として日本語による推理小説を執筆するのと同時に、欧米の黄金期の本格的な推理小説を精力的に紹介した乱歩のデビュー作である「二銭銅貨」とは、では、どのような小説だったのだろうか。

 一九二三年に発表された「二銭銅貨」は、そのタイトルの通り金銭、それも偽金を取り扱う小説だ。推理小説との親和性の高い暗号のテーマを取り扱いながら、ストーリーの展開とともに、作中で扱われる言語や貨幣が空虚なまがい物にすぎないことが明らかになるという小説が、金本位制の信頼が揺らぐ時期にこそ書かれている。





 そう、一九二〇年代とは、いつからか始まった近代に対する、自分たちは終りであるという括り方を激しく自覚的にやった十年であった。日本でもやっとそうだったということを考える場合、一九二〇年代までなかった推理小説がなぜ一九二三年にという議論は大変有効だ。特にその出発点において既に、解決の落とし所を予め宙吊りにし(犯人は初めから判明)、そもそも解決するとは何で、しかもさかしらな解決の身振りがいかに滑稽なものかをむしろ明らかにした、『二銭銅貨』はまさしくメタ推理小説と言うべく、もっとずっと大がかりな一九二〇年代論全体の中で評価すべきものと思う。(「『二銭銅貨』の経済学――デフレと推理小説」、同書、p250~251)





 ヨーロッパで十九世紀末に基本的なフォーマットが確立した推理小説が自己言及的に解体したのが一九二〇年代であるならば、「日本の推理小説」は、そもそも推理小説が存在意義を失ったのと同時期に、空虚なまがいものとして、あらかじめフェイクとして成立したものである、ということになる。……よくよく考えてみれば、「江戸川乱歩」という筆名からして、エドガー・アラン・ポウのイミテーションであるわけだ。

 日本の推理小説とは、そもそもその存在意義などない時点で成立したまがいものである――しかし、これは、「ヨーロッパの推理小説」と「ヨーロッパの近代」の関係をふまえてみれば、ある意味で当然のことであるとも言えるのではないだろうか。つまり、「日本の推理小説」がその前提としている「日本の近代」が、そもそもまがいもののイミテーションに過ぎないわけだ。

 そのように考えてみると、日本の推理小説という局面で江戸川乱歩が果たした役割とは、近代小説が成立するにあたって夏目漱石が果たしていた役割と、かなり似通ったものであったと言えるのかもしれない。





 高山宏の『殺す・集める・読む』を読みながらそんなことを考えていたのだが、私自身の中で、ジャンル・フィクションの作家を信用するときとそうでないときの境界線は、このあたりにあるのかもしれないと思った。……つまり、自分が帰属するジャンル・フィクションには確固たる足場も存在意義もなく、常にフェイクとしてしか存在できないという自覚を抱きつつ、それでもなお存在意義をなんとか成立させようとする小説家。現代日本の推理小説ということで言えば、少なくとも法月綸太郎や殊能将之なんかはそれに該当する小説家であるゆえに、私には読むに値するものだと思えるのだ、と。

 そんなことを考えていると、批評家としての法月綸太郎がしばしば参照している坂口安吾の推理小説に関する議論を、「日本文化私観」なんかの近代日本に関する議論と結びつけ、そこからさらに法月綸太郎の方に送り返すとかすると、かなり面白い議論ができるのではないかと思った。あるいは、ジャンル・フィクションに関する二つの立場を、花田清輝の「楕円」の話につなげてみるとか。殊能将之の『鏡の中は日曜日』にしても、ヨーロッパの文化を取り入れる近代日本の虚妄まで取り込んで書かれつつ技術的にも以上に高度な達成がなされている小説なので、ジャンルに関係なく、近代以降の日本の小説家でこれと同等以上の長篇小説を書ける人間はほんの数人しかいないと思いますよ。
















『フラッシュ:ローグズ・リローディド』に作り手の成長を見る

 2016年の新展開「リバース」によって、歴史的に積み上げられてきた従来の価値観を大幅に復活させたのが最近のDCコミックスの動向なのであり、結果として、我らがグリーンアローのヒゲもまた、見事復活を果たしたのでした。私もなんだかんだで15誌ほどの購読を継続していますが、総じてどれもライティングの質が高く、飽きずに読み続けることができています。
 そんな中でも、「フラッシュ」誌におけるジョシュア・ウィリアムスンのライティングには、刮目すべきところがあります。DCコミックスの長年に渡る遺産と現在のストーリーとを結合するという基本路線が、最もうまくいっているタイトルの一つであるように思われるからです。
 もともと、2011年以降の「New 52」において、最も悪影響を被ってしまったのが「フラッシュ」誌だったと私は考えています。フラッシュに関連するキャラクターは全員がファミリーとしてつながっているので、人間関係をいったん全部リセットして完全な新展開を図る意味がほぼないのですな。……結果として、従来からの読者としての視点で言わせてもらいますと、2011年から2016年までの「フラッシュ」誌は、全部読んでますが、ただの一回も面白くありませんでした……。
 とはいえ、まさにそのような、五年間をなんとか堪え忍んで、つまんないつまんないつまんない……ウォリーは? ウォリーは? ウォリーは? あとジェイは? などと言い続けてきたフラッシュファンこそが『DCユニヴァース:リバース』を最も楽しめたというのも事実なのであり、ジェフありがとう! と言うしかないのであります。
 ジェフ・ジョンズと言えば、その『DCユニヴァース:リバース』を最後にいったんコミック製作の現場から撤退してしまいましたが、その直前くらいの仕事に接していると、キャプテン・コールドの描写がもはや神業の域に達しているとしか思えなかったのです。
 たとえば、ジャスティスリーグの面々が乱心して人類の脅威となり、それを止めるのがルーサーとコールドさん……などという事件が起きた際、いざ事件が終結してみると、コールドさんがフラッシュをカチカチの氷漬けに。……そしてそこには、「へ、こんなこたーいつだってできるぜ」などとうそぶきつつも、ちゃっかりスマートフォンで記念撮影しているコールドさんの姿がありました。
 ジェフ・ジョンズのライティングによる「ジャスティスリーグ」で以上のような事件があった際、翌月の「フラッシュ」をわくわくしながら手に取ったものの、そこにあってしかるべき描写がないことに、私は心底がっかりしました。……だってですよ、「ジャスティスリーグ」でコールドさんとフラッシュのそんな場面があった以上、「フラッシュ」では、


  アジトでだらだらだべってるローグズのみなさん
   → そこにコールドさんから届いた、フラッシュ氷漬けの写メ
   → 「ヒャッハー!」


 ……という描写は、絶対にいるだろ!
 そういえばコールドさん関連で思い出しましたが、あの人、一時期、ジャスティスリーグのメンバーになってたんですよね……。しかし、「ジャスティスリーグ」で回想エピソードが絡んだりして時系列が曖昧なままの状態で、「リバース」で展開はそれまでの展開はいったんキャンセル。結果として、そもそもキャプテン・コールドが正確にはいつ加入していつ脱退したのか、うやむやになってる気がするんですが……。たしか、リーグ加入してた時期に、ミラーマスターと密談して「安心しろ、今の立場を利用して一世一代の大仕事を企んでるぜ」的なことを言ってたような……。う~ん、これはやっぱりアレですかねえ。バットマンに一瞬でバレて、シバかれたんですかねえ……。


 まあいずれにせよ、New 52時代の「フラッシュ」誌に欠けていたのが、歴史的蓄積に対する畏怖であったことだけは間違いないのです。だってですよ、「直近二十年ぶんのライターはマーク・ウェイドとジェフ・ジョンズのどちらかが担当がほとんど、それ以外の長期担当者は皆無」「伝説のキャラクターであるバリー・アレンが二十年以上ぶりに復活して間もない」「遂にスタートしたドラマ版「フラッシュ」は、フラッシュへの愛とオマージュが毎回炸裂しまくった上に、異常にハイクオリティ」「ドラマ版プロデューサーであり死ぬほど忙しいはずのジェフ・ジョンズは、(とりあえず第1シーズンの時点では)キャプテン・コールド登場回になると必ず自ら脚本を書き始めるという、いつもの感じを発揮」……などという状況が周囲を取り巻いているのに、歴史的蓄積に無頓着なままに単にフツーのオリジナルのストーリーを各ライターが展開していくのは、正直なところ理解に苦しむことでしかありませんでした。
 そして、結局、そんな「フラッシュ」誌の状況に終止符を打ったのは、「リバース」にともなう新シリーズ開始の時点での、ジョシュア・ウィリアムスンのライター就任であるのでした。







 『フラッシュ:ローグズ・リローディド』


  ライター:ジョシュア・ウィリアムスン
  アーティスト:カーマイン・ディ・ジャンドメニコ


 ……そんなわけで、「リバース」以降の現行シリーズの「フラッシュ」誌を創刊号から現在に至るまでライティングしているのがジョシュア・ウィリアムスンであるわけですが、14号から17号にかけて展開された『ローグズ・リローディド』は、この人のキャリアの中でも画期的なブレイクスルーを達成したように思える、会心の出来となっているのでした。
 私が現行シリーズを読み始めてすぐに感じたことは、とにかく、コミックのそこかしこにフラッシュというキャラクターへの愛着が散りばめられていることでした。個々のキャラクターがどのような状況に置かれているのかを理解し、何を考えどのように行動するのかを細かく検討した上で、相互の人間関係を丹念に描き出す……つまり、キャラクター描写を最優先するということに、ジョシュア・ウィリアムスンのライティングの大きな特徴があるわけです。
 そういう意味では、人間関係の丁寧な描写が優先される結果、ストーリーの進行はどうしてもゆるやかになり、刺激的でけれん味に満ちた展開がサクサク進むわけではない……というような評価だったのですが、この『ローグズ・リローディド』に至って、「フラッシュ」への愛に満ちたきめ細やかなキャラクター造形を保持した上で、なおかつ怒濤の展開を見せるストーリーテリングを実現するということが、かなり高度な水準で達成されていたのです。


 『ローグズ・リローディド』で描かれる事件の発端となるのは、「リバース」以降にセントラル・シティから姿を消していたローグズの帰還です。……もともと、ローグズの失踪を不審に思っていたフラッシュが、執拗な調査の結果、ローグズの秘密アジトを発見し、そこで、入念に構築された大がかりな犯罪計画を察知することになります。侵入者を排除するため自動的に爆破されたアジトを脱出したフラッシュは、ローグズの追跡を開始します……しかし、その計画を察知させることこそが、キャプテン・コールドの立てた策であるのでした。
 セントラル・シティから離れたコルト・マルティーズの美術館へのローグズの襲撃を事前に察知していたフラッシュは、ローグズを止めることに成功……したかに見えたものの、実はそこにいたのはローグズではなく、ミラーマスターが一人でローグズ全員の幻影を作り上げていたのにすぎないのでした。


  Well, you figured it out a few minutes faster than we expected.
  どうやらお前は、おれたちの予想より何分か早く理解したようだな。



  But every. Second. Counted.
  だが、全ての。秒が。計算済みだ。



 フラッシュに架空の犯罪を察知させ、そちらの追跡へと誘導する入念な囮計画を遂行した結果として、ローグズが獲得したのは、地上最速の男たるフラッシュに対する、一時間の優位。その猶予を得たローグズは、フラッシュの目が離れたセントラル・シティにおいて、それぞれが同時に、それぞれの能力を駆使し、異なる場所を一斉に襲うことを開始したのでした……。


 ……さて、そんなストーリーが語られることになるこの『ローグズ・リローディド』の面白さは、これまでひたすら何度も何度も何度も何度も語られてきたフラッシュとローグズとの闘いがこれまでどんなものであったのかを全てふまえ、また、両者の能力や性格やその結果として選ばれる先方なども全てふまえた上で、ローグズが本気でフラッシュを出し抜くためにはどのようにするのであろうかということを、徹底して構築していると言うことにあります。
 うんざりするほど何度もフラッシュに敗北してきたローグズが、単に正面からフラッシュに挑戦するはずはありません。その結果を踏まえたキャプテン・コールドが選択するのは、莫大な労力を割き、秒単位での計画を考え抜いた上で、やっとのことでようやく獲得できる、たかだか「一時間の時間的優位」を、最大限度までに有効活用することです。
 一方、フラッシュの側がローグズの罠をくぐり抜け計画の阻止に近づいていくことができるのは、ローグズの個々のメンバーの細かい性格すら把握しているからであることが、克明に描かれていきます。……そして、その結果として訪れる、フラッシュとキャプテン・コールドとの間で決着をつけることになるのが、相手の性格を最後の最後で読み違えてしまったことである――そしてまた、ここでは、『DCユニヴァース:リバース』の、とある場面とのつながりもある――ということも含めて、大変周到に構築されているストーリーなのでありました。
 『ローグズ・リローディド』を読んで改めて痛感したことは、ジョシュア・ウィリアムスンのようなライターがこのようなストーリーを語ることができたのは、まずそもそもの大前提として、個々のキャラクターへの愛着をこそ、絶対に譲ることのできない大前提として保持していたからだ、ということです。
 つまり、それぞれのキャラクターがどのような存在であるのかをその根幹に至るまで理解しようと努め、どのような状況でどのように行動するのかを詳細に把握し、立体的なキャラクター造形を獲得する……まずそれができたならば、そのキャラクター解釈を前提とした上で、人物関係を交錯させ複雑に入り組んだプロットを構築することなど、後からいくらでも可能になるのだ、ということです。
 言い換えれば、キャラクターへの愛着と、複雑なプロットの高度な技法とは、特に矛盾するものでもない。しかし、まずキャラクター解釈を基盤として固めてからプロット構築の洗練に向かうことはできても、その逆の方向性はありえないのではないでしょうか。……それこそ、ストーリー展開の複雑化・辻褄合わせだけを優先すると、映画の方の『シヴィル・ウォー』のようなシロモノができ上がることになるのだと思われます。
 まず愛着が先にあれば、ストーリーテリングの技術など後からいくらでも成長させていけるということを、「フラッシュ」誌においてジョシュア・ウィリアムスンは現在進行形で実証してくれているように思えるのです。


 そんな感じで、近年のライターとしての成長著しいジョシュア・ウィリアムスンですが、どうも既に、DC内部的にはジェフ・ジョンズの後継者と目されてるっぽいですね。先日はクロスオーヴァー『ジャスティスリーグvsスーサイド・スクワド』のライティングを担当していましたが、まあこれに関しては、多くのキャラクターを裁かなければいけない大規模のクロスオーヴァーとしては、まあ可もなく不可もなしといったところかなと(とはいえ、自分以外は全員ヴィランの寄せ集めチームで狂的に立ち向かわなければいけない状況で、「このチームはジャスティスリーグだ!」と言い張ってみるバットマンは相変わらず最高だと思いました)。
 ジェフ・ジョンズをして、「彼は、いつの日か偉大なライターになる男だ……」と言わしめたジョシュア・ウィリアムスンの今後の動向を、しっかりと見ていきたいと思っております。










エリック・ロメール&クロード・シャブロル『ヒッチコック』と編集の倫理

 エリック・ロメールとクロード・シャブロルの共著になるヒッチコック研究書『ヒッチコック』を、邦訳で読んだ。

 もともと、アンドレ・バザンの影響下に「カイエ・デュ・シネマ」誌で活動していた若い映画批評家たちが実作者へと転じていくことで主要な流れが形成されたのがヌーヴェル・ヴァーグなのであったーーそして、ヌーヴェル・ヴァーグが取った批評的立場で重要であったのは、単に商業的娯楽作家とみなされていたアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスの作家的価値を称揚することにあったのだった。

 この邦訳版『ヒッチコック』の解説にもその経緯は詳細に記述されているのだが、当時のフランスにおいて、特にヒッチコックの作品の価値に関する論争は相当に激しいものだったらしい。「カイエ」の執筆者がヒッチコック擁護で揃って立場が統一されているというわけでもなく、論争の果てに、ロメールとシャブロルによる単著として刊行されたのが、この『ヒッチコック』なのであった。

 ……というわけで、もともと映画史的にも非常に有名な著作であった『ヒッチコック』であったのだが、この邦訳が出たのは割と最近であり……いざ読んでみると、なんというか、現在の視点で見ると、かなり古びてしまっている印象を受けた。





 まず、そもそも前提としておさえておかなければならないのは、ロメール&シャブロルによる『ヒッチコック』が、ヒッチコックに関するモノグラフィとしては世界で最初のものであるということだろう。言い換えれば、この著作が刊行された時点では、ヒッチコックがまともな研究の対象とみなされてすらいなかった、ということだ。

 いかなるハッタリもなく、当然のこととして、ヒッチコックをただ堂々と論じてみせるということは、当時の状況としてはそれ自体が大きな意味を持ち得たのかもしれないが……現在の視点で見ると、単にフツーの研究書であるように見えてしまうのである。

 『ヒッチコック』という著作は、激しい論争の果てに成立した書物であるにもかかわらず、その起源にあったはずのポレミカルな部分の痕跡はそのほとんどが消去されている。その数少ない例外が、アンドレ・バザンの立場に言及した部分だ。ロメール&シャブロルは、ヒッチコックを否定する当時の批評家たちを非難しつつ、次のように書く。





 時間が経てば彼らは笑い者になるのだから、こうした批評家は皆無視しよう。唯一重大な反論がアンドレ・バザンによって表明された。彼にとって、ヒッチコックの映画が革命的なのは見掛けだけでしかなかったのだ。(『ヒッチコック』、木村建哉・小河原あや訳、p114)





 ……確かに、ヒッチコックを認めなかった人々のその後についてはロメール&シャブロルが完全に正しいのだから、ある意味では、現在の状況こそが、ロメール&シャブロルの願望が成就した状況であると言えるのかもしれない。つまり、彼らの『ヒッチコック』が、単にふつうの評論として読めてしまうということが。

 とはいえ、この著作の内部には、そう簡単には消化できないような部分も含まれているので、もう少し細かく見てみたい。





 ロメール&シャブロルの『ヒッチコック』は、刊行当時に製作されていた『間違えられた男』までのヒッチコック作品を編年体で論じている。現在の視点から見ると、『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』といった重要な作品群を取り上げることができなかったわけだが、そうは言っても、イギリス時代およびその時点でのアメリカ時代の作品を網羅するだけで、膨大な量に上ることになる。

 ヒッチコックが監督としてのキャリアをいかに送ったのかの評伝を含みつつ、個々の作品製作にあたってプロデューサーとの関係などの中でヒッチコックがどれほどの自己裁量を獲得できたのかなどにも言及しつつ、個々の作品の具体的な検討がなされる。

 そして、その際、ヒッチコック作品のそれぞれの善し悪しを単にバラバラに論じるのではなく、全ての作品に一貫して存在する構造が探られることになる――『ヒッチコック』という著作の特異な部分が現れるのは、このあたりである。ロメール&シャブロルは、ヒッチコック自身がカトリックであったことを非常に重視し、ヒッチコック作品に一貫するカトリック的な世界観を検討するのである。

 たとえば、『断崖』における主人公の疑惑の感情を検討する際、ロメール&シャブロルは次のように書く。





実際、疑惑は、『レベッカ』の作家が好むテーマの一つであり、ヒッチコック映画の中には、疑惑がしかるべき位置を占めていない作品は一本もないほどなのである。疑惑とは、言わば「交換」の概念の心理的な保証金であり、この概念の道徳的な側面は後ほどさらに推し進めて検討することになろう。(同、p82、傍点は省略)





 ヒッチコック作品の全てに登場する「疑惑」という登場人物の感情は、一見すると感情とは関係がなさそうな、「交換」というテーマと結びついているのだという。

 『ヒッチコック』においてロメール&シャブロルがまず目指すのは、ヒッチコック作品が脚本面で一貫して持つ構造を解きほぐすことである。だからこそ、ロメール&シャブロルは、『疑惑の影』いついて論じるときにも、次のように書く。





この作品の中に心理的な犯罪映画の独創的な見本しか見て取らないことは、まず不可能である。脚本の構造自体が、そして熟考された演出の詩法が、そうした見方を禁じるのだ。ここでは、すべてが脚韻の原則に基づいている。(同、p87)





 ヒッチコック作品において、登場人物の感情とプロットの展開(さらには、ここでは論じられていないが、ヒッチコック作品に頻出する特異な視覚的な特徴)とは、あたかも詩作において脚韻が踏まれるかのような、首尾一貫とし整然とした建築的構造を有している。

 ヒッチコック作品を何本かまとめて見てみれば、そこにある突出した視覚的な表現は、誰でも気がつく。しかし、ロメール&シャブロルは、単にヒッチコックの視覚的表現を抽出して、それだけを独立したものとして評価するのではない。むしろ、単に周囲から浮き出て突出しただけにみえる視覚的に異常な細部が、実は、作品全体の論理の中では、登場人物の感情と不可分に結びついていることを強調するのだ。

 だからこそ、ロメール&シャブロルは、『見知らぬ乗客』について、次のように書く。





 ヒッチコックの技――この映画は、それを特によく際立たせている――は、純化された、ほとんど幾何学的なあらゆる形象が我々一人一人に与える魅惑によって、我々に登場人物の経験するめまいを共有させ、そしてめまいを越えて、精神的な観念の深さを発見させることにある。象徴から観念へと向かう流れ[電流]は、常に感情という凝縮器を通過する。これは決して理論的な、型にはまった関係ではない。それゆえ感情とは手段であり、猟奇人形劇のドラマと違って、目的ではない。感情は、形式を越えたところに、しかし観念の手前にある。したがって、感情は、口の中に苦い味を残すと同時に、世界の統一性それ自体であるような<統一性>の感覚を我々に残す。カオスのただ中で常に判別可能な<統一性>であり、<悪>の暗い諸相に最も美しい光線のいくつかを反射させているような原初の光である。<自然>の強烈な感覚がこの映画全篇を貫いており、それは、祝日の夕方やよく晴れた午後といった日常的な自然であると同時にまた、大文字の自然、より正確に言えばコスモスでもあって、めまぐるしく旋回する様々な世界の深奥で、めまぐるしく旋回する一つの世界なのである。各々の振る舞い、各々の思考、各々の物質的もしくは精神的な存在には、ある秘密が託されており、その秘密からすべてが照らし出される。そしてこの光は、慰めと共に恐怖をも分かち与える。世界の土台が立脚するその同じ原理が同時に、世界の破壊を司ることのできる原理でもある。(同、p135、ルビと傍点は省略)





 ……これは、かなり入り組んだ複雑な議論である。まずここで前提とされているのは、ヒッチコック作品の個々の登場人物やそれぞれの作品の枠組みをもすら越えて、全体としての統一性が存在するということだ。それぞれの作品なりさらにその内部の登場人物なりは、それぞれの枠組みの範疇で自律的に行動しているのではなく、あくまでも全体の統一性の一部を担っているのにすぎない。だから、各個人の個人的な感情すら、単に各個人の内部で私有されているのではなく、より広い、世界の統一性の内部でなんらかの機能を果たすものである(おそらく、このような発想自体が、ロメール&シャブロルが重視するカトリック的思考がそのまま反映したものであるのだろう)。

 結果として、ヒッチコックの作品世界において、個人の内面の感情と、一見するとそれとは無関係に思える作品そのものの視覚的なスタイルは、有機的に結びついていることになる。画面に写る「純化された、ほとんど幾何学的なあらゆる形象」は、それ自体が自足して存在するのではなく全体の統一性に奉仕しているという意味では、各個人の感情とも等価なのである。

 そして、ロメール&シャブロルが、たとえば、ヒッチコック作品における「交換」の機能を重視するのは、以上のような議論を前提とした上でのことなのだ。……だからこそ、『間違えられた男』を論じる過程で、次のように述べられることにもなる。





ヒッチコックの固有性は、事態の裏と表とを同時に我々に見せることである。彼の作品は二つの極を往還し、それらの極は、両極端が相通ずるように一致し得る。この往還に、我々は「交換」という名を与えた。ここにおいて、この往還が、全人類の交換可能な罪責として、最も高貴な表現を見出していることを認めよう。(同、p183)





 個人がバラバラに存在しバラバラにそれぞれの行為なり感情なりを有しているのではなく、全体が統一性の内にあるからこそ、異なる個人がそれぞれに持つ感情なり、全く異なる場所で行われた別々の行為なりが、「交換」されることが可能になる……。

 そして、ロメール&シャブロルは、以上のような特徴を持つヒッチコック作品の構造の最も典型的な「母型」は、『裏窓』に結実しているのだと言う。足を骨折して歩けない『裏窓』の主人公は、望遠レンズで隣人たちの姿を覗きつつ、そこで起きていることに推論を加える。





 推論[演繹]の筋道は、いくつかの極端な帰結にまで進む。知りたい、あるいはより正確には、見たいという情熱は、ついには報道写真家の他のあらゆる感情を抑えつけることになるだろう。この「覗き」の悦楽の絶頂は、恐怖の頂点と合致する。彼は罰を受ける、というのは、自分の婚約者が、数メートルばかりのところで、中庭という深淵によって隔てられて、容疑者の部屋で不意をついて襲われるのだから。(同、p150~151)





 ……そして、『裏窓』が「母型」であるからこそ、それを基準としていくつかの要素に変形を加えれば、その他の作品がどのように構成されているのかも分析できることになる。





この観点、建築の観点から見ると、『知りすぎていた男』は、ちょうど『裏窓』の系[派生的命題]のように思われる。一方から他方へと移行できるようにするには、公式[定式]の項の一つを修正するだけで十分である。<空間>を<時間>に代えるのだ。

 『裏窓』において、登場人物を彼が欲望し恐怖する対象から隔てるのは、ある広がり[延長]である。この映画ではそれは、同じくはっきりと画定された、ある間の持続である。深淵はもはや空っぽの庭ではなく、ある長さの時間、同じほど大きな不安を分配する時間であり、そしてその不安をヒロインは、どんな犠牲を払っても飛び越えたいと願うだろう。(中略)『裏窓』の世界は、凝視の世界、絶対的な受動性の世界であり、いかなる出口もない。『知りすぎていた男』の世界においては、全体を支配する時間が、一つの可能な行動という次元を導き入れる。そしてこの救済は、<運命>(だがむしろ<摂理>ではないか)と<意志>が組み合わさった働きと引き換えにしか得られないのである。(同、p172~173、傍点は省略)






 ……などというように、ロメール&シャブロルが提示してみせる、ヒッチコック作品に通底する構造は、確かに説得力があるように思えるのだ。





 以上のように『ヒッチコック』の議論を整理していると、現在からすれば古びてしまっているという私の評価は、過小評価であるように思えるかもしれない。

 しかし、である。実は、ここまで私がその論旨を記述してきたような議論は、『ヒッチコック』の本文ではもっとはるかに錯綜して述べられており、各所に散らばった議論を整理して、かなり苦労して論点をまとめ直して、ようやく得られた見通しなのだ。

 ではなぜそんなことをしなければならなかったのかと言えば、『ヒッチコック』という著作は、あくまでもヒッチコックの経歴に即した形で、編年体で作品が時系列に沿って検討されていくからだ。

 ロメール&シャブロルが作品分析で試みているのは、ヒッチコック作品の全体に通底する共通点を探り、その構造を解明することだ――ならば、そのために最適な方法が、編年体の記述であることはありえない。実際、製作順に個々の作品が言及されるがゆえに、論旨が行ったり来たりし、一貫した議論を追うのが非常に手間がかかる記述になってしまっているのである。

 また、編年体であることが、ロメール&シャブロルによる個々の作品評価の説得力をも減じてしまっているように思える。なるほど、カトリック的世界観の分析が終始一貫して追求される著作なのであれば、そこで、『私は告白する』や『間違えられた男』が特権的な作品として評価されることには納得がいく。しかし、ヒッチコックのキャリアを年代に沿って追っていく過程で、この二作品が、同時期の『見知らぬ乗客』『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『知りすぎていた男』などといった傑作群よりも重視されてしまうことには、全く説得力がない(……正直なところ、この著作を読んでいて、批評家としてのロメールのキレのなさを痛感してしまったので、そもそも実作者になる前のロメールが批評家として「カイエ・デュ・シネマ」で活動していたころ、極東の島国でそれを読んでいた過激派映画ファンの学生が「こいつ殺す」などと言っていたのもやむなし、などと思ってしまったのだ……あ、これはもちろん、若き日の蓮實重彦の話です)。

 もちろん、なんらかの対象の抽象的な構造を解明するためには、歴史性・時間性をいったん括弧にくくらなければならないなどということは、当たり前のことである……ロメール&シャブロルがそれをできなかったのは、そもそもヒッチコック作品の研究書自体が存在しないという状況があったからだろう。まずは、体裁が整い単著として完成した評論が出版されるという形を作るため、オーソドックスな編年体に則った単著が上梓された……。

 そこまで考えて、ふと気づいたことがある。……結局のところ、著作家としてどのように著作の体裁を整えるのかということは、映画監督としてどのように自作を完成させるのかとうことと、全く同じことなのではないか、と。

 つまり私は、ここにこそ、ロメールとシャブロルの両名の、ゴダールとトリュフォーとの間の根本的な断絶があるのではないか、と思ってしまったのだ。……言い換えれば、ゴダールなりトリュフォーなりであれば、自分が信じる価値を自作で表現しようとするのに際して、世間一般への配慮と何らかの形で衝突が起きてしまうようなことがあった場合、果たして、体裁を取り繕うためだけに自作の編集を変えるようなことがあるだろうか、ということだ。

 例えば、トリュフォーがヒッチコックに直接取材した『映画術』は、体裁としては対談集なのだから、ロメール&シャブロルの『ヒッチコック』とは異なる……しかし、より根本的な相違として、異様なまでのハイテンションで徹底して自分の好きなものを語り倒すトリュフォーの態度こそが、あの著作をして、いつまででも古びることなく広く読み継がれ続けるものにしていたのではなかろうか。

 そのように考えてみれば……ロメールにせよシャブロルにせよ、優れた映画を何本も撮っているし、部分部分で見れば突出した細部もいくらでもある。しかし、作品全体を通してみたときに、通常の映画として存在できないような体裁をかなぐり捨てたもの、作家の衝迫のみに突き動かされて

わけのわからない領域にまで至ったもの……そのようなものは遂に実現することがなかった。彼らは最低限の世間向けの配慮、世間向けの忖度を捨てることはなかった……言い変えれば、ロメールにせよシャブロルにせよ、本当にヤバい一線を越えることだけは、決してなかったのだ。










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