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映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(下)

 既に述べたように、映画『ワンダーウーマン』は、ワンダーウーマンという(アメリカでは)非常に有名なキャラクターに関して全く何も知らない観客にとっては、おのずと見え方が変わってくるような作品である。とりわけ、「両腕のブレスレットで銃弾を弾く」というアクションは、そのことを最大の見せ場としてアクション演出が構成されているため、予備知識による印象の差が特に大きく出てしまうような部分となっている。
 このことについて、非常にがっかりしてしまったことがある。『ワンダーウーマン』の日本公開に合わせて、日本の色々な漫画家がワンダーウーマンのイラストを描くというキャンペーンがあったのだが……その中で、「ワンダーウーマンが、ブレスレットと剣で銃弾を弾いている」、というものがあったのだ……。
 ……いや、だから……まあ、これに関して、仕事を振られた漫画家には、別に罪はないだろう。しかし、企画が立てられ、漫画家に仕事を振り、たぶん下書きが仕上げられてから、カラーリングが施されて完成し、一般に向けて公表される……という過程で、「いやこれはおかしいですよ」と一言言える人は、ただの一人もいなかったんだろうか……。


 例えばの話なんだけれども、日本の非常に有名な漫画である『ドラえもん』を、ドラえもんの存在が全くの未知である外国に紹介しようということになったとして、「戦後日本の社会状況においてこの漫画が登場した背景は……」とか、「この作品を生むに至った作者の人となりは……」などということから、まず紹介を始めるという必要はありますかね?
 いやもちろんそういう話が出てきてもいいんだけれども、まずは、「ドラえもんの四次元ポケットやひみつ道具がどういうもので、それを巡ってストーリーの見せ場はどのように作られるか」とか、「作中での主要なキャラクターはこんな関係を持っている」……などといったところから始めて、作品をごくふつうに受容できる下地がまず作られてから後の話ですよね、どう考えても。
 ところが、日本のマスメディア上とかで『ワンダーウーマン』が紹介されるのを見ていると、とりあえず私の見た範囲だと、政治的状況やら時代背景やらの話しかされておらず、ブレスレットに関するアクションについて触れられているのなんて見たことなかったんですよねえ、アメコミに関して識者であることになっている人々の発言で……。
 まあ私自身はワンダーウーマンに関してはそれほど詳しくない方のキャラクターなもんで、真偽を細かく判定することはできないんですが……しかし、これがキャプテン・アメリカなんかだと、キャプテン・アメリカをアメリカの政治や社会と結びつけて語りたがる人々がさも読んだかのような振りをしてついている嘘の数々は、全部ばれてますぞ。
 そういうことから考えると、「ワンダーウーマンの政治性や拝啓知識に関しては饒舌に語るが、ブレスレットのアクションについてすらほぼ触れないというような人は、そもそもコミックなど読んでいない紹介者なのではないか」という疑いを、当然のこととして持ってしまうわけです。


 とはいえ、じゃあコミックそのものの紹介がいいのかというと、そんなこともないのだった。
 映画『ワンダーウーマン』の公開にタイミングを合わせて邦訳が出版されたのが、現行のDCコミックスの「リバース」展開になってからの最初の単行本『ワンダーウーマン:ライズ』であったことには本当にがっかりし、「特に何も考えないで、機械的に出してるだけなんだろうな~」と思えてしまうようなことだった。
 DCコミックスの「リバース」展開で、とりあえず新規読者がそこから入っていけるように、ほぼ全てのタイトルが新規まきなおしとなったことは事実。……しかし、これが「ワンダーウーマン」の場合、「今までワンダーウーマンのオリジンは何度も語られ直されてその都度少しずつ設定に変化が見られたが、そこにはまやかしがあったのではないか」というところから始まったのだった。
 ……で、そこから、ワンダーウーマンが秘密を探る現在時の話と、改めて出生の状況が語られる回想編とが交互に語られるというのが、それ以降の「ワンダーウーマン」の展開だった。……が、この交互に時間軸を行ったりきたりするのをとりあえず単行本にまとめるときにはやめて、現在編をまとめて単行本の一巻『ライズ』、過去編をまとめて二巻の『イヤー・ワン』として出版された。
 しかし、日本の場合、「あまりにも有名であるがその出生は何度も異なる形で語り直されてきたワンダーウーマン」という話の大前提が共有されていない。だから、その状態で読者がいきなり『ライズ』を読んでもぴんとくることはないだろう。……一方、『イヤー・ワン』の方はと言えば、非常にオーソドックスな形でワンダーウーマンのオリジンを語っており、全く何の予備知識もいらず、ダイアナがブレスレットで銃弾を弾くことになる経緯も語られており、なおかつ映画とも登場キャラクターがかぶっている……ということで、どこからどう考えても、映画公開に合わせて出すにはこれしかないというドンピシャのものなのである! ……が、いまだに邦訳が出てはいないわけだ……。
 だいたい、当のDCコミックスがフリーコミックブックデイなんかで配布していたのは『イヤー・ワン』の方の第一話だったりしたくらいなんだから、「日本の状況はこうこうなのでこうしたいです」という企画を立てれば、単行本の順番を変えるくらいの許可は下りると思うんだが……。そして、それ以前の問題として、『ライズ』と『トゥルース』は完全にひとまとまりの作品なので、『ライズ』だけで先に出版しても、あまりにも中途半端なところでぶつ切りになってしまっている感じが否めない。しかし、これをひとまとまりのものとして続けて読めば、グレッグ・ルッカのライティングもさえ渡り、とんでもなくすばらしい逸品に仕上がっているのである。
 これだけすばらしい作品を、可能な限り適切な状態で刊行しようとする意志は、はたらなかったんだろうか?


 ……などという風に見ていくと、この作品をどのように受容したらよいのかということについて、どこを見渡しても熱意のようなものは見あたらず、結果として、作品をきちんと理解しようとする機運も全く盛り上がらなかったのが『ワンダーウーマン』という映画だったのだと思う。
 このことに関しては、この映画とフェミニズムの関連性をめぐることでも全く同じ状況であったと思う。……なるほど、いざ蓋を開けてみると、この映画はダイレクトにフェミニズム的な指向が含まれるようなものではなかった。
 そのことに関して「やった! フェミニズム臭くない!」などと喜ぶのはもちろん最悪の反応だが、一方で、フェミニズムの観点から「たいしたことない」などとあっさり断じてしまうような評価も、複数の場所で目にした。
 そのようなことについて私が思ったのは、「フェミニスト批評ってのはそんなに甘いものなのかね?」ということである。……だいたい、ハリウッド映画は世界中に向けて売り出される商品なのだから、表向きの大まかな内容はあっさりと咀嚼できるように製作されているのが当たり前である。
 これはフェミニスト批評に限った話ではないが、一見すると単純な内容しか持たない大量消費のための商品としてのフィクションを、実際には存在している詳細な意味内容を分析し時には社会的な文化背景との関連性を浮き彫りにしたりするようなことまでするために、高度な批評理論なんかが存在したりするわけだ。
 単純な商品の表向きの単純な内容をとりあえず咀嚼しただけで、単純な鑑賞以上の分析を試みるわけでもなければ、文化背景をていねいに調べる気もない……にもかかわらず、単純な内容の評価以上の、なんか知的っぽい言説を口にしてみたい。これでは、単に怠惰なだけだと言われてもしかたがないだろう。


 ワンダーウーマンという有名なキャラクターには、フェミニズムと関わり合うという意味合いが不可分に結びついて存在し続けてきた。にもかかわらず、始めてこのキャラクターが単独で実写映画化された『ワンダーウーマン』の作中では、直接的なフェミニズムの主張はほとんど存在しなかった。
 ……ならば、「それはなぜなのか」という問いを立て、それに答えるために背景を調査したり分析を展開したりすることを経た後で初めて、その内容に関する評価を下すことができるだろう。
 はっきりとここで述べておかなければならないのは、二十年ほど前までのアメリカのコミック・ブック業界においては、性差別が自覚的に意識されることすらないまでに内面化されていたということだ(……これはまあ、要するに、今の日本と大して変わらないということでもある)。コミックの内容に対する自己検閲のシステムであるコミックス・コードが有名無実化していった80年代以降の状況で、性と暴力に対する直接的な描写が氾濫したが、そこにあったのは、主要な読者層であるヘテロの若い男性の欲望に無批判に奉仕するものであったわけだ。
 それ以降、現在に至るまでのアメリカのコミック・ブック業界は、そのような無自覚なセクシズムに対する批判を受け入れ続け、業界の性質を絶えず変え続けてきた。スーパーヒーローものに偏重していた内容に関しても、様々な内容が取り上げられる方向に進み、女性の描写が若い男性の性的な視線から消費されるためだけに存在するようなことは、ほぼなくなっていった。
 ここ二十年ということなら、例えばジム・リーは、トップクラスのアーティストとしての地位を保ち続けている。そして、ジム・リーのアートの変遷を確かめてみれば、作風そのものにはそれほど大きな変化は見られないものの、女性の人体の描き方は根本的に変わってきていることは、一目瞭然なのだ。
 もちろん、現実社会の水準でなら、アメリカにも性差別はまだまだ残っているのだろう。コミック・ブック業界でも、読者の側からのバックラッシュは絶えず存在する。しかし、少なくともフィクションの製作現場の水準でなら、作り手たちの間で性差別をなくすことが当たり前のこととして内面化されてきてもいる。
 そういう意味では、現在のコミック・ブック業界を代表する男性が音頭をとって製作し、女性監督の仕事をサポートして完成した『ワンダーウーマン』に直接的なフェミニズムの主張がなかったことは、むしろ、「ようやくここまできたか」と思えるような、喜ばしい事態なのだ。それはつまり、ワンダーウーマンがフェミニズムの意味ばかりを担うことからはとりあえず解放され、個人的な問題を抱えたただの一人の女性として描くこともできるようになったということだからだ。
 ……だから、こういう状況についての「やった、フェミニズム臭くない!」という反応も、「フェミニズムの観点からは全然たいしたことない」という反応も、双方ともに私としては悪い冗談の類としか思えない。これは単に、日本の文化状況がアメリカから二十年以上の差を付けられて、周回遅れになっていることに完全に無自覚な者によってのみ発せられる言葉なのだろう。


 映画『ワンダーウーマン』の作中では、第一次大戦中の欧米での女性に対する不当な扱いが描かれる場面もあるが、厳しい告発が向けられるわけではない。私の考えでは、これはあくまでも「昔はこんなにおかしいこともまかり通ることもあったんだね」という回想としてのみ存在しているのだと思う。
 もしお望みであれば、ワンダーウーマンというキャラクターの担ったフェミニズム的な意味を、社会的な文脈のメタ的な視線まで織り込んで制作されたコミックも存在する。……正確には、ワンダーウーマンそのものではなくワンダーウーマンのパロディキャラを主人公とした『アストロシティ:ヴィクトリー』である。
 このコミックでは、フェミニズムを強く主張し、女性に希望を与えるために闘う女性ヒーローが、社会のあらゆる方向から徹底して罵詈雑言を浴びせられ続け、女性だけが共同生活を営むキャンプが「狂信的なカルト集団の巣窟」などとバッシングを受け、それでも戦い続ける様が描かれている。つまり、ワンダーウーマンというキャラクターの作中で描かれた内容のみならず、社会的に担ったメタ的な文脈をもふまえてストーリーが構築されているわけだ。
 このようなコミックの脚本を、カート・ビュシークという一人の男性が書くことができたということが、既に記念碑的なことであると言えると思うのだが……そうだとしても、これが可能になったのは、コミック・ブック業界のセクシズムをめぐる血みどろの闘争が既に過去のものとなり、過ぎ去ったこととして回想する余裕もできたからこそ成立しえた作品だと思う。
 ……まあ、日本の文化状況にふさわしいのは、映画の『ワンダーウーマン』じゃなくて、こっちのコミックの方だとは思うが……。


 念のために書いておくと、映画『ワンダーウーマン』がフェミニズムの観点から見て反動的な後退だという批判があっても全くかまわないのである、その批判が正当な手続きを踏んでいるのであれば。
 例えば、ワンダーウーマンの両腕のブレスレットについて、アクション面での意味ばかり私は書いてきたけれど、一方で、「文字通りの意味で男が女を縛り付けていた時代の名残り」という意味付けも与えられてきた。また、ワンダーウーマンの故郷のパラダイス島にしても、基本的には、「男の暴力から逃れてきた女たちにとっての楽園」という含意があった。……だから、同じ内容に関するコミックと映画での描かれ方の落差を比較して、「映画の方が後退している」という批判だって当然成立しうるわけだよね、私が読んだ中では存在しなかったけれども。
 一方、あくまでも独立した映画としてのみ『ワンダーウーマン』を評価するため、作中に描かれていることだけを内在的に取り上げるという立場も当然成立する。……しかし、その場合には当然のこととして、この映画の外部でワンダーウーマンというキャラクターが幅広く持ってきた文化的・社会的な意味には、いっさい言及してはならないということになる。
 これまたフェミニスト批評に限ったことではないわけだけれども……映画をあくまでも独立した映画としてのみ見て、作品外部の文化背景やなんやかやに関してはいっさい調べる気も分析する気もないけれども、影響力の大きな有名なキャラクターなので、独立した映画をとりあえずは見たという知識のみに基づいてその外部の大きな分化や社会の文脈について語りまくるということを、スーパーマンやキャプテン・アメリカなんかを取り上げて平然とやっている人々って、掃いて捨てるほどいるよね。
 ……そういう意味では、これはやっぱり、フェミニズムうんぬんの話ではない、はるかにそれ以前の問題だ。批評や研究のめんどうな作業をする気はさらさらない人々が、なんとなく知的っぽい感じに自己満足できる、文化的・社会的に大きな文脈を切ったつもりになれるような批評もどきをやりたがるのは全くくだらん、ということでしかない。
 やっぱり、問題なのは、単純に物事を断言できないような状況の複雑さ、めんどうな作業を進めなければ理解などできないようなあいまいさにとどまることのできる人間がほとんどいない、ということなのだろう。映画『ワンダーウーマン』の主演のガル・ガドットとイスラエルの関係についても、怒り出す人が出てくるのはまあ当たり前のことではあるわけだ。……もちろん多くの日本人にとってはパレスチナ問題など身近ではなく、それほどの知識があるわけでもなく、当事者の感覚など持ち合わせてはいないのだが、しかし、自分にとっては縁遠い問題についての他人の怒りを「それとこれとは話が別」というように、さも理性的であるかのような分別をふりまわすのはおかしい。これは、客観的なのではなくて、他人事であるのにすぎない。
 このことを日本に置き換えたら、どんな話なのだろうか。……例えば、黒澤明の『七人の侍』を現代でリメイクするとして、強者に虐げられる村人たちを救うために立ち上がった七人の侍を演じるのが……石原慎太郎! 百田尚樹! 高須克弥! 長谷川豊! ……などというメンツだったとして、果たして我々は冷静でいられるのか。
 まあ、この場合は純粋に映画としても酷いことになりそうだけれど、「それはそれ、これはこれ」「作品としての評価と俳優への個人的評価とは別の話」という言葉を発するのには、本当はそれなりに覚悟がいることはわかると思う。……そして、パレスチナ問題に関する当事者感覚というものは、たぶんこんな例よりもさらに生々しいものであるはずなわけだ。映画というジャンルで、身体性をまるまる備えて作品に写り込む俳優の個人的な属性と役柄とを完全に区別してとらえるのは難しい。……そして、そのような難しさや曖昧さをあっさりと無視して簡単な結論に飛びつくのは、「理性」や「客観性」や「分別」などではなく、粗雑にして無神経な愚かさでしかない。


 ……まあ、こういうような状況を見るにつけ、ワンダーウーマンというキャラクターは日本になど相応しくない……と思うのだったが、しかし、ダイアナはといえば、スティーヴとともに、問題はdeserveではなくbelieveなのだと言っていたのであった。










映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(中)

 映画『ワンダーウーマン』は、何の予備知識もなくとも独立した作品として見ることができるものになっている一方で、作品に備わる数多くの美点の大半は、もともとワンダーウーマンというキャラクターを知る観客にとってこそ価値のあるものになっている。
 このことは、アクション演出の水準にまで及んでいる。その中でも特筆するべきなのは、ワンダーウーマンの両腕のブレスレットに関するものだ。……ワンダーウーマンというキャラクターを多少なりとも知る者ならば誰一人として知らないことはないほどまでに有名なのが、彼女がブレスレットで銃弾を弾く場面なのである。これは、「胸板で銃弾を弾くスーパーマン」や「バッタランを投げるバットマン」などといったものと同等と言えるほどまでに超・有名なアクションの見せ場なのであり、ファンからすれば「説明不要!」と思えるような要素の一つなのだ。
 ……そう、だからこそ、映画『ワンダーウーマン』は、この件について説明しないのである(とは言え、ノーマンズランドの場面さえもがカットしようとする圧力に絶えずさらされていたのなら、「両腕のブレスレットに意味付けが与えられる場面」も元々はあったのにカットされてしまったのかもしれないとも疑ってしまうのだが……)。ブレスレットで銃弾を弾く場面こそがワンダーウーマンにとってのアクションの最大の見せ場であるからこそ、あの手この手でそのような場面を作中に盛り込み、少しずつ見せ方を変えながら、何度も何度も繰り返して描き続けている。……つまり、ワンダーウーマンを知る観客にとっては死ぬほど盛り上がりまくる名シーンとなっているのだが、逆に、ワンダーウーマンのことを全く何も知らない観客にとっては、何も感じずに見過ごすだけの場面となってしまっているだろう。


 アクション一つを取ってみてもそのように描かれている『ワンダーウーマン』と比較すると、『スパイダーマン:ホームカミング』は、原作となるコミックのことを全く知らなくとも鑑賞できるように製作されている。……正直なところ、コミックをいかに参照したのかという部分を全く考慮に入れず、純粋に映画としてのみ評価するならば、『スパイダーマン:ホームカミング』は、あらゆる面で『ワンダーウーマン』を上回っているとすら思う。
 『ワンダーウーマン』という映画は、全く予備知識がなくとも鑑賞できるように製作されていながら、その真価を楽しめるのは、ワンダーウーマンについてある程度の予備知識を持っている観客である。……一方、『スパイダーマン:ホームカミング』のコミックとの関係は、奇妙に入り組んだものとなっている。この映画は、コミックにおけるピーター・パーカー=スパイダーマンのことを何も知らなくとも鑑賞できるようになっているーーしかし、コミックにかんする予備知識は必要なくとも、これまでのマーヴル映画を観客が見てきていることが話の大前提となっているのだ。その意味で、コミックへの参照が大幅に刈り込まれている一方で、観客に事前に予備知識を備えていることを要求していないわけではないのだ。
 そのようなことは、『スパイダーマン:ホームカミング』の冒頭の時点で既に端的な形で現れている。作品の開幕を告げつつ、何やら聞き慣れない音楽が鳴り響く……と思いきや、しばらく聞き続けてから、その曲が何であるのかに気づいて驚くことになる。冒頭で流れていたのは、アメコミファンにとっては極めてなじみ深いものであるはずの、あのスパイダーマンのテーマであったのだ。つまり、ベースとして昔ながらのスパイダーマンのテーマが使われてはいるものの、あまりにもアレンジをかけ過ぎた結果として、それがスパイダーマンのテーマであるということにすら、すぐには気づけなかったのだ。
 『スパイダーマン:ホームカミング』の原作コミックへの参照の仕方は、全体としてそのようなものである。……例えば、スパイダーマンの神話を構成する不可欠の要素の一つとして、ベン伯父さんをめぐる挿話があることは言うまでもないだろう。ベン伯父さんが死ぬ事件を通じて、ピーターは教訓を得て、スパイダーマンとなる。ベン伯父さんの死とスパイダーマンの誕生とは不可分に結びついている。……しかし、『スパイダーマン:ホームカミング』は、ベン伯父さんの死を描かず、ピーターは既にスパイダーマンとなっている。
 つまり、ここにあるのは、「ベン伯父さんの死」ではなく、単に「父親が不在の家庭」なのである。あくまでも「父親が不在の家庭で暮らす少年」としてピーター・パーカーが描かれるからこそ、父親の役割を代行する存在として、トニー・スタークがその場におさまることになる。……かくして、スパイダーマンの誕生にまつわる本来の文脈はほとんど抹消され、「多くの作品によって構成されるマーヴル映画の内の一本」として、マーヴル映画の内部の文脈にこの映画が位置づけられることになるわけだ。
 『スパイダーマン:ホームカミング』という映画は、実質的に、『アイアンマン』シリーズの続編と見なした方がいいと私は思う。もともと『アイアンマン』シリーズでトニー・スタークの精神面を描く上で主要なテーマの一つとなっていたのが、微妙な距離感を抱えたまま死別した父親との関係性なのであった。そして、シリーズが進んで『アヴェンジャーズ』でマーヴル映画が合流することになると、若き日の父親が心酔していた存在が現代に蘇ったキャプテン・アメリカとの関係性に、父親への葛藤が投影されていたわけだ。
 そのように描かれてきたトニー・スタークが今度は擬似的な父親の役割を果たそうと悪戦苦闘するのが『スパイダーマン:ホームカミング』なのであり、だからこそ、映画はあのような出来事をもって実質的に終わることになる(……と、いうことは……『スパイダーマン:ホームカミング』にああいう形で登場することになった、スティーヴは……ピーターの、おじいちゃんだったのか……)。
 ……というふうに見てみると、『スパイダーマン:ホームカミング』はあくまでもマーヴル映画全体の中での一本という色合いが強いものなのであって、原作コミックが存在することの必然性は限りなく希薄なものになっていると言うことができると思う(……とは言え、クライマックスの戦闘に向かう直前の部分で、「アメイジング・スパイダーマン」33号の超有名な場面にオマージュを捧げたのはよかった)。


 マーヴル映画の一部分としてコントロールされつつ製作された『スパイダーマン:ホームカミング』は、しかし、最近のマーヴル映画に私が抱いていた共通の不満がほとんど解消されている作品でもあるのだった。
 『アイアンマン3』以降のほとんどの映画に共通していた照明の問題もなかったし、脚本の設計も極めて巧みなものだろう。……で、なぜこんな風にマーヴル映画の問題点が改善されたのかと考えると……これに関してはあくまでも純然たる憶測なんですが、ジェフ・ジョンズの映画化への進出を最も脅威に感じていた人物こそがファイギだったんではなかろうか、と。
 だってですよ、明らかに映画化されたもののことしか知らん連中が「DCコミックスと言えば暗いイメージ」などと言うたびに私などは殺意を抱いてきたわけですが……実際には、『アイアンマン』以降のマーヴル映画の全体的な方向性というものは、映画のみならずアメコミ業界全体の動向を照らし合わせるならば、DCコミックスにおいてジェフ・ジョンズが(とりわけ『グリーンランタン:リバース』において)確立した潮流に全面的に乗っかったものであることが明らかなわけです。
 もちろん、ジェフ・ジョンズの作風に明らかに影響を与えているカート・ビュシークやダーウィン・クックの仕事にまで遡ってもいいわけですが、いずれにしてもはっきりしているのは、マーヴル映画の方向性は、アメコミ業界の全体の潮流からすると、出てくるべくして出てきたものだった。また、コミックの局面だけを見ると、そういう方向性に関しては明らかにDCの方が一歩も二歩も先を行っていたことは明らかなわけです。
 それが映画になるとどうですか。今回の『スパイダーマン:ホーミカミング』の冒頭にしてもね……『アヴェンジャーズ』のニューヨークでの大決戦の残骸がその後与えた影響から始まった時点でね……正直、「あ~、たぶんジェフが『バットマンvsスーパーマン』でやりたかったであろうことが取られた~!」と思いましたよ。
 だって、『バットマンvsスーパーマン』の冒頭で、前作でのヒーローの破壊的活動への批判的視点を盛り込むところから始めようとするアイディアって、たぶんジェフのものでしょう。それが、どうみてもいろんなテーマがごちゃごちゃ入り組んでいる迷走感の結果、なんであんなオープニングで始まったのかもわからんようなグダグダの展開に。それに比べれば、『スパイダーマン:ホームカミング』の方は、うまいことそのアイディアを脚本の内に取り込むことに成功しています。
 ……以上のようなことをふまえて、これまた憶測にすぎないわけですが、にもかかわらず私としてはほとんど確信していることがあります。
 映画『ワンダーウーマン』におけるノーマンズランドのシーンは、私の見たところ、脚本面での特徴は(あそこだけは)ジェフ・ジョンズの作風が全開でした。しかし、ワーナー内部では「意味がわからない」「荒唐無稽」と批判されてカットしようとする圧力が大きかったのだと言います。
 これを受けて、私にはどうしても思い出されることがあるのです。……というのも、ベン・アフレック&ジェフ・ジョンズの共同執筆によるバットマン映画の脚本は既にお蔵入りが決定していますが、この脚本に関して、完成後にワーナー内部で「意味不明」「支離滅裂」「映画の脚本として成立していない」などと批判する声が大きかったと報じられてもいました。
 ……ちょっと待て……これ、どう考えても、ノーマンズランドの場面を削ろうとしたのと、ジェフジョンバットマン脚本を叩いてたの、同じ連中だろ~っ!!! ということは、逆に考えれば、お蔵入りになったバットマン脚本って、「ノーマンズランドの場面のノリが最初から最後までずっと続くようなもの」だったってことじゃないの!?
 もうね……ワーナーはクソ! 本当にクソ! どうしようもないクソ! ……うぅ……これじゃあ、いくらなんでも、ジェフ・ジョンズの才能の無駄遣いじゃ……(涙)
 繰り返しますが、あくまでも仮説の域を出ないんですが、私としては、「結局のところ『ワンダーウーマン』の脚本をジェフ・ジョンズがコントロールすることはできなかったので、原作コミックへのリスペクトを残すことを優先して闘い、後は妥協してできた結果があれだった」という推測に落ち着いています。原作コミックへのリスペクトを残しつつ、なおかつ一見さんにも面白いということは、ちゃんとジェフに全権を与えてたらクリアできてましたよ。だって現にドラマ「フラッシュ」では実現してるじゃないすか。
 『ワンダーウーマン2』の脚本にしてもね、既にパティ・ジェンキンスとジェフ・ジョンズが共同で草稿を書き上げたそうですが。そこからさらに、新たに脚本家を呼んで改変を加えるそうですね。……うん、うん、その過程、全部無駄だね! ワーナーよ、もうそれ以上いじるな!


 今回で最後まで書き終わるかと思ってたんですが、微妙に忙しかったこともあり書ききれなかったので、このエントリはまだ次に続きます。日本における紹介のまずさと、それからフェミニズムに関することについても続きで書きます。









映画『ワンダーウーマン』に対する日米での温度差について(上)

 パティ・ジェンキンスの監督による映画『ワンダーウーマン』をとりあえず3回見たのだけれど、最初に見たときの率直な感想は、「これはアメリカ以外では受けんわ……」というものだった。
 おそらく、アメリカ以外では、この映画の根本的な美点であり、なおかつ明らかに最も労力が注がれている部分は、ほぼ理解されないであろう。……ではそれはなにかと言うと、「あのあまりにも有名であり一種の象徴的な存在ですらあるワンダーウーマンを、初めて単独の実写映画にするなら、それはどのようになされるべきか」という部分が、とんでもなく高い水準でクリアされているということだ。
 つまり、「ワンダーウーマンとは説明不要の存在である」という前提を共有している観客にとっては、この映画は大変すばらしいのである。しかしそれは、逆に言えば、その前提を共有していない観客にとっては、おのずと作品の見え方が異なってくるということでもある。……正直なところ、純粋に映画としてのみ見れば、『ワンダーウーマン』はちょっとした佳作程度のところにとどまる、ということになってしまうであろう。
 そういう意味では、映画『ワンダーウーマン』のあり方は、リチャード・ドナー版『スーパーマン』に近いものであると言えると思う。あの映画はそれなりによくできてはいたが、とてつもない大傑作というわけではなかった。しかし、あの映画は同時に、原作者の片割れでありながらもスーパーマンというキャラクターの権利を保持することができず不本意な扱いを長年に渡って受け続けたジェリー・シーゲルが、完成試写会で涙を流すことになるようなものでもあったのだった。
 そして、この『ワンダーウーマン』から本格的にDC映画の舵取りをすることになったというジェフ・ジョンズはリチャード・ドナーの弟子であり、ドナー版『スーパーマン』をこそ理想の映画と見なしているであろうことを考えると、ジェフ的にはやりたいことを十分できたのが映画『ワンダーウーマン』であった、ということになるのだろう。


 映画『ワンダーウーマン』が、原作コミックの世界を実写映画の世界に移し替えるにあたって凝らした巧妙な工夫の数々は、映像そのものの水準においても、明確な形で現れている。
 ワンダーウーマンの故郷、パラダイス島ことセミッシラは、作中の現実においては神話の世界と地続きであり、なおかつ外界から隔離された場所として設定されている。
 そんな世界に闖入してきて平穏を破ることになるのが、アメリカ軍人のスティーヴ・トレヴァー大尉であるわけだが……第一次世界大戦の渦中にありドイツ軍に追われているトレヴァーによって外部の世界が示されることによって、それまでの時点で、パラダイス島はある明確な指針の元に映像化されていたことが明らかになる。
 というのも、第一次大戦が進行中である外部の世界は、まさに戦争映画が描いてきたようなくすんだ色彩の元に描かれているのだが、外部から隔離されたパラダイス島はと言えば、さんさんと陽光が降り注ぎどこまでも青い海が広がる、美しくも牧歌的な世界として描かれている……そして、このことは、トレヴァーの闖入の時点で事後的に明らかになるのだ。
 神話の約束ごとがそのままに展開される荒唐無稽な絵空事の世界としてのパラダイス島と、実写映画のリアリズムの極地の一つであるとも言える外部の場所としての、戦争映画の世界。この両者は、明確に異なる場所として、全く異なる方針で設計された色彩と照明の表現によって、あからさまなまでに対比的に描かれている。
 荒唐無稽な絵空事がまかり通り、社会組織の運営にまつわる軋轢など意識もされず、子供の倫理がそのまま通用する世界とは、けばけばしい原色とともに描かれた、ヒーローコミックの原初的な世界である。そのような場所としてのパラダイス島を出て、無実の人間も次々に死んでゆく第一次世界大戦に介入するために、ダイアナはヨーロッパへと旅立つことになる。
 言うまでもないことだが、ヒーローコミックにおいて古くから存在するキャラクターのそもそもの設定は、幼稚にして荒唐無稽なものだ。だからこそ、その設定を「よりリアルなものに」「大人の鑑賞に堪えるように」改変され、派手な衣装は現実に存在しても不自然でない程度の穏やかなものに改変される。スーパーマンは派手な原色の衣装を身に纏わず、幼きバットマンが運命の日に家族で『怪傑ゾロ』を見に行くこともなく(現行の設定ではこれは元に戻ったが)……そして、よりにもよってあのキャプテン・アメリカが、無実の人間全員を救うことを諦めることにすらなるだろう。
 映画『ワンダーウーマン』が採用するのは、これとは全く異なる方法論である。……そもそもが荒唐無稽な絵空事の世界観をリアリティ重視の実写映画の世界観に接合することが不自然極まりないことであるのなら、両者の世界観を両者ともに妥協させて、いかにも自然に接合できるような中間地点を探る必要などない。そうではなく、全く異なる世界を全く異なる世界としてそれぞれバラバラに描き出し、異なる世界観の衝突そのものを作品の根幹に据えればよい。……そして、このことは、映像そのものの水準においても、作劇の水準においても、並行して突き詰められることになるだろう。
 映画『ワンダーウーマン』の根幹にあるのは、子供の倫理と大人の論理との衝突であるのだと言ってもいい。……そして、その衝突の末にどちらに軍配が上げられるのかということにこそ、この映画が取る本質的な態度がある。
 対峙する両軍が膠着するノーマンズランド、そこに存在する塹壕をめぐっての描写は、映画史上数多くの作品で展開されてきた。……なるほど、塹壕の中での過酷な現実を前にすれば、子供の幼稚な願望をなんでもかんでも充足させることなどできはしない。たやすく戦況を覆すことなど「不可能」であり、「自分にできることだけをやる」ことが精一杯なのであり、悲惨な境遇にある人がどれだけいようとも、「全員を救うことなどできない」。
 しかし……「それでも私は行く」、と、アメリカン・コミックスが描いたありとあらゆるヒーローたちの、誰でもがそのように言うだろう。いや正確に言えば、そのような状況でそのように躊躇なく言うことのできる者だけが、ヒーローになる意味がある。
 荒唐無稽な絵空事の世界と厳しくも残酷な現実の世界、きらびやかな原色の世界と曇天の下のくすんだ世界、子供の倫理と大人の論理……異なる世界を映像の水準でも脚本の水準でも越境し続けてきた存在としてのダイアナは、このときになって初めて、ワンダーウーマンになる。
 今や、二つの世界の狭間で、コミックの幼稚な願望、たとえ不可能だろうとなんだろうと弱き人々のために立ち上がるという原初的な衝動が、何よりも価値あるものとして最優先される。コミックは現実に勝つ……というより、救いのない現実に希望を照らし出す存在として夢想されたものこそがアメリカのヒーローコミックであった、その原点が当たり前のこととして確認されたというだけのことでもある。
 大人たちの現実世界の中では「恥ずかしいもの」として徹底して覆い隠されてきた、ダイアナがその身に纏うパラダイス島のきらびやかな衣装は、ようやくその姿を露わにする。……つまり、この場面においてこそ、作品全体が映像の水準でも脚本の水準でも描いてきた二つの世界の葛藤が完全に解消されたということだ。そして、その解消そのものが、映像と脚本の問題が同期するポイントと一致している。
 しかし、ここには、二つの世界の妥協に満ちたすりあわせなどというものは微塵もない。子供の倫理は、大人の論理に対して全面的にかつ完全な形で、あらゆる点で勝利したのだ。


 ……などというようなことを考えてはいたのだが、それだけではなく、映画『ワンダーウーマン』に関して、私としては非常にひっかかっておりとりおえず述べておきたいことが、とりあえず、まだ二つある。
 まず一つは、ジェフ・ジョンズがDCコミックスの映画化の全権を任されたと報じられているのを既に色々なところで見てきたのだが、実際の映画化を見てみると、どう見てもそんな風な感じにはなっていなかったということだ。『ワンダーウーマン』の場合、この映画の最大の見所であるノーマンズランドの場面に関しては、あのあたりの脚本を書いたのは100%間違いなくジェフなのだが、他にはそういう場面はなかったし、最終的には脚本のクレジットから外れてすらいる。……そして、パティ・ジェンキンスのインタヴューによると、あのノーマンズランドの場面すら、作品から削ろうとする圧力がワーナー内部に存在し、残すために全力で守ろうとしなければならなかったらしいのである。……つまり、いったんジェフ・ジョンズに映画化の舵取りを任せることにしておきながら、実際には全権委任などしておらず、足を引っ張る行為がそこかしこで行なわれていることだ。このようなことは、もはや映画がどうこうという問題ですらなく、ダメな組織においてありがちなことでしかないだろう。
 そして、このことに関しては、マーヴルの方の『スパイダーマン:ホームカミング』との比較が興味深いと思う。私は以前、ジャンルとしてのヒーローコミックが成立する前提とはなにかについて述べたのだが、それについては、『ワンダーウーマン』と『スパイダーマン:ホームカミング』の両方がクリアしている。その上で、コミックと映画の関係に関しては、この両作は対照的なものとなっていると思えるのだ。
 そして、もう一つは、作品そのものというよりも、作品を巡る周囲の状況に関することだが……日本でのこの映画の紹介のされ方は、いくらなんでも酷すぎる、ということだ。……などというように、もう少し書きたいことがあるので、それらのことは次のエントリに続きます。 









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